派遣社員、うっかり極道の跡目に選ばれる ~歴代親分の異能を継いだ俺、最強のヤクザになるらしい~ 作:パラレル・ゲーマー
木曜日の午前九時。
株式会社汐見総合管理の自分のデスクで、俺――三上悠介は、パソコンの画面に表示された修繕管理の共有フォルダを確認しながら、満足そうに頷いていた。
画面には、昨日俺が現地確認に行った賃貸マンション『リバーサイド東陽』三〇二号室の進捗状況が記録されている。事務の森田さんが昨日のうちに提携先の建具業者へ写真を送ってくれたらしく、ステータスはすでに『訪問日程の回答待ち』になっていた。
(……よしよし、ちゃんと仕事が進んでるな)
昨日は現場で小野寺君がうっかり俺を「親分」と呼んでしまったせいで、入居者の長谷川さんから本物の極道のボスだと勘違いされるという冷や汗もののハプニングがあった。だが、帰社した後に若頭の黒瀬さんが小野寺君を厳しく叱ってくれたし、本来の目的である設備の確認と手配自体は滞りなく完了している。今度こそ、俺の平穏な派遣社員ライフが軌道に乗ったと言っても過言ではないだろう。
「三上さん、おはようございます。昨日の修繕依頼の件、業者さんから連絡が来たらすぐにお知らせしますね」
「あ、おはようございます、森田さん。ありがとうございます、助かります」
「それで、今日のお仕事なんですけど……こちらの先月分の管理費の入金集計をお願いできますか? 物件数が少し多いので、お時間のある時に進めていただければ大丈夫です」
森田さんが笑顔で差し出してくれたのは、分厚いクリアファイルに入った銀行の振込明細の束だった。
俺はそれを受け取り、思わず顔を綻ばせた。
「はい! 任せてください、得意分野ですから!」
(……ああ、これこれ! こういう普通の事務仕事の依頼が一番心が落ち着くんだよ!)
数字の照合やエクセルでの集計作業なら、誰に銃を向けられる心配もなければ、極道の親分と間違われることもない。時給二千五百円、残業ほぼなし、同僚の事務員さんは優しくて親切。社員の人たちが本物のヤクザであるという一点さえ目を瞑れば、ここは間違いなく天国のようなホワイト職場なのだ。
俺がウキウキとした気分でエクセルの新規シートを開き、最初の明細データを打ち込もうとした、まさにその時だった。
「三上さん。おはようございます。少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
背後から、低く落ち着いた、それでいてどこか緊張感を孕んだ声が降ってきた。
振り返ると、そこにはダークスーツを隙なく着こなした若頭の黒瀬が立っていた。
「あ、黒瀬さん、おはようございます。はい、なんでしょう?」
「実は本日、三上さんにぜひお会いしたいという方が、まもなくこちらへいらっしゃいまして」
俺のキーボードの上に置かれていた指が、ピタリと止まった。
(…………え? また?)
ちょっと待ってくれ。どうして今週は、こうも落ち着かないんだ。
せっかく普通の仕事に戻れたと思うたびに、次の騒ぎがやってくる。
昨日だって、管理物件の現地確認をしただけのはずなのに、
入居者さんから極道の親分と勘違いされてしまったばかりだ。
そして今日も俺宛ての来客。……嫌な予感しかしないぞ。
俺は引きつった笑みを浮かべ、恐る恐る黒瀬の顔を見上げた。
「……あの、黒瀬さん。もしかして、今日もまた裏社会のすごく偉い親分さんとか、そういうおっかない方だったりします?」
「いえ。本日お見えになるのは、極道関係の人間ではありませんよ」
「……え? 違うんですか?」
「はい。今回は、政府の機関の方です」
「………………」
政府。
そのあまりにも重々しい単語に、俺の背中をツツーッと冷たい汗が伝い落ちた。
*
「……せ、政府の方って、どういうことですか?」
俺が声を裏返らせながら尋ねると、黒瀬は周囲に配慮して少しだけ声を潜めた。
「『八咫烏』です。先週の能力測定にいらした方とは別の、霧島さんという女性職員が本日お見えになります。今回の件を担当されるそうです」
「……え? 前に来た銀縁眼鏡の男性とは、別の方なんですか?」
俺は先週の月曜日に会った、グレーのスーツに銀縁眼鏡の男性職員の顔を思い出した。
物腰が柔らかくて、俺がヤクザの組に無理やり引き込まれていないか気遣ってくれた、数少ない常識人だった。今回来る霧島さんも同じ八咫烏の人なら、少なくともいきなり日本刀を振り回されたり、違法な密輸の話をされたりすることはない……はずだ。
――そう思ったのも束の間。俺はふと、このタイミングで八咫烏が別の担当者を寄越す理由に思い至り、顔面から一気に血の気が引いた。
「……あ、あの、黒瀬さん。その八咫烏の方が今日来る理由って、もしかして……」
「ええ。先週の水曜日の夜、湾岸の倉庫で発生した銃撃事件の件ですね」
「…………っ!!」
やっぱりだ!
俺はガタガタと震え出しそうな膝を両手で必死に押さえつけ、デスクの上から身を乗り出して黒瀬にすがりついた。
「く、黒瀬さん!! 俺、もしかして逮捕されるんですか!? やっぱり素手で十八人もボコボコにして病院送りにしたのが、過剰防衛だとか傷害罪だとかって話になっちゃったんですか!?」
「落ち着いてください、三上さん。本日お見えになる八咫烏は異能関連の行政機関であって、警察ではありません。今回の訪問はあくまで、あの事件における異能使用の事実確認と、安全上の追加調査が目的だと伺っております」
「……あ、そうなんですか? 手錠をかけられて連行されるわけじゃないんですね?」
「ええ。……もっとも、一般の警察によるあの事件の刑事捜査は別途並行して進んでおりますので、法的な評価に関する最終的な結論はまだ出ておりませんが」
「……ですよねえええ!!」
俺はデスクに突っ伏しそうになった。
そうだった。黒瀬さんたちが裏で八咫烏と調整してくれているとはいえ、現実問題として発砲事件が起き、二十人近い重軽傷者が出ているのだ。警察の捜査がまだ続いていると聞いて、俺の胃袋がキリキリと悲鳴を上げ始めた。
「……ちなみに黒瀬さん、そのお話と追加調査っていうのは、どれくらい時間がかかるんでしょう? 今日、森田さんから先月分の管理費の集計を頼まれてるんですけど」
「本日は午前中に役員室で当時の状況についてお話を伺い、必要であれば午後から先日の倉庫へ移動して、簡単な追加検査を行う予定とのことです」
「えっ、じゃあ今日もまた半日以上仕事が潰れちゃうんですか!? せっかく今日は朝からエクセルに集中できると思ってたのに……!」
俺が思わず本音をこぼすと、黒瀬は少しだけ目を丸くし、それから苦笑いを浮かべた。
「三上さんは……警察の捜査やご自身の異能のこと以上に、本当に日々の業務と勤務時間を大切にされますね。申し訳ありませんが、本日も業務命令としての対応になりますので、時給や勤怠の扱いについては派遣元とも調整し、満額お支払いできるよう手配いたします」
「当たり前じゃないですか! 俺は時給二千五百円で事務処理をするために雇われてる派遣社員なんですからね! 給料が保証されるなら、まあ、協力しますけど……」
俺がブツブツと言いながらパソコンの画面を閉じていると、ちょうど事務所の入り口のセンサー音が鳴り、森田さんが来客を出迎える声が聞こえてきた。
入り口に立っていたのは、黒を基調としたオフィスカジュアル姿の若い女性だった。片腕には資料バインダーを抱えている。落ち着いた表情で背筋を伸ばす姿は、いかにも仕事のできそうな行政職員といった雰囲気だ。
「初めまして。八咫烏の霧島と申します。初回測定の記録は引き継いでおりますので、今回は私が担当いたします。本日はお忙しいところお時間をいただき、ありがとうございます」
「は、初めまして! 三上悠介です。こちらこそ、よろしくお願いします!」
穏やかで礼儀正しい霧島さんの挨拶に、俺は少しだけ胸を撫で下ろした。
ただ、彼女がバインダーとは別に、分厚い書類や機材でも詰まっていそうな黒いビジネスバッグを持っているのが目に入り、俺の警戒心は再び跳ね上がった。
(……あの中身、まさか俺をどこかの隔離施設に送り込むための同意書とかじゃないだろうな……?)
*
午前十時十分。
俺は霧島さんとともに、事務所の奥にある役員室へと通された。
部屋のソファには、すでに組長の源治と若頭の黒瀬が揃って腰を下ろしている。先日の東雲さんの時のような一般の応接スペースではなく、防音性の高いこの部屋が使われたのは、これから話す内容が『銃撃事件』と『俺の異能』という極めて機密性の高い話題だからだろう。
「本日は、先週水曜日に発生した事件に伴う異能面の事実確認と、三上さんの今後の安全対策についてご相談に伺いました」
霧島さんが資料バインダーをテーブルに置き、落ち着いた声で切り出した。
俺はソファの端に浅く腰掛けたまま、恐る恐る手を挙げた。
「……あの、本題に入る前に、ひとつだけ確認させてください」
「はい、なんでしょう」
「今日のお話が終わったあと、俺、このまま政府の施設に連れて行かれたり、どこかに軟禁されたりしませんよね?」
「ふふ、ご安心ください。お話を伺うことも、午後の追加検査も、すべて三上さんご本人に内容をご説明して納得していただいた上で行うものです。無理やりどこかへお連れするために来たわけではありませんよ」
「……よかったあああ……」
俺が心の底から安堵のため息を吐くと、霧島さんは苦笑しながら頷き、それから源治と黒瀬の方へと視線を向けた。
「それでは榊原さん、黒瀬さん。初回検査の記録にもございますが、まずは三上さんご本人の意思を個別に確認したいので、数分ほどお席を外していただけますか」
「おう、構わねえよ。ルールだからな」
「承知しました。では、外で待機しております」
源治と黒瀬は少しも気を悪くした様子を見せず、あっさりと立ち上がって役員室から出ていった。
パタンと重厚なドアが閉まり、室内には俺と霧島さんの二人きりになる。
「初回検査の際にも確認したと記録にありますが、今回の事件を経た上で改めて伺います。三上さん、現在のお勤め先や日常生活について、ご自身のご希望に変わりはありませんか? 事件をきっかけに組織への正式な加入を強要されたり、退職を妨害されたりといった事実はございませんか?」
「え? ああ、はい、そこは全然大丈夫です。事件の後も普通に休ませてもらえましたし、今日もこうして事務仕事をしてるだけですから」
「望まない抗争や違法な活動への参加を強制されてはいませんね?」
「はい。むしろ、黒瀬さんも親父さんも、俺に危ない思いをさせないようにってすごく気を遣ってくれてるくらいで……まあ、ちょっと大事にされすぎてて困惑することはありますけど」
俺が昨日の外回りに強面二人が護衛としてついてきた件を思い出して苦笑すると、霧島さんは手元の書類にペンを走らせながら、ホッとしたように表情を緩めた。
「そうですか。それなら何よりです」
「……あの、霧島さん。八咫烏の方って、どうしてそこまで念入りに俺の意思を確認してくれるんですか?」
「三上さんは、Tier3という非常に強力な能力に覚醒されました。ですが、どれほど強い力を持っていたとしても、一人の市民としての基本的人権や生活の自由が奪われていい理由にはなりません。特定の組織に不当に利用されたり、本人の意思に反して戦わされたりしないよう、能力者ご自身の権利と安全を守ることも、我々『八咫烏』の重要な職務なのです」
霧島さんの真っ直ぐな言葉に、俺は思わずジーンと胸が熱くなった。
(……なんてまともな人なんだ!! 周りがヤクザの大親分だの密輸女王だのといった無法者ばかりだったから、こういう真っ当な法治国家の公務員の言葉を聞くと、涙が出そうなくらい安心するぞ!!)
俺の中で、目の前の霧島さんに対する信頼度が最高潮に達したところで、ドアがノックされ、源治と黒瀬が再び部屋へと戻ってきた。
*
「それでは、ここからはお二方にも同席していただき、本題の確認に入らせていただきます」
霧島さんは資料バインダーから数枚の報告書を取り出し、テーブルの上に広げた。
「先週水曜日の夜、三上さんはこの事務所の若い衆である小野寺さんを救出するため、東京湾沿いの廃倉庫へ向かわれ、そこで敵対組織の武装した構成員十八名と交戦状態になった……という経緯で間違いありませんね?」
「……はい。交戦というか、一方的に襲われたんですけど、事実はその通りです」
「現場の検証および回収された証拠品、ならびに関係者の証言によると、相手側は鉄パイプや金属バット等の凶器に加え、実弾が装填された拳銃数丁、および実戦用の日本刀を所持・使用していたとのことですが」
「そうなんですよ!! 本当にめちゃくちゃ怖かったんですからね!?」
俺は当時の恐怖が蘇ってきて、思わず声を大にして訴えた。
「俺はあくまで平和的な話し合いで小野寺君を返してもらおうと思って、丸腰で敷地に入ったんです! なのに、あいつら挨拶もそこそこに後ろの鉄扉を閉めて俺を閉じ込めて、いきなり拳銃をぶっ放してきたんですよ!? ここ日本ですよね!? 普通、真面目に生きてる会社員が拳銃なんて撃たれないじゃないですか!!」
「ええ、おっしゃる通りです。極めて悪質かつ危険な違法行為であり、三上さんが恐怖を感じられたのは当然のことです」
「ですよね!? よかった、ちゃんと分かってくれる人がいて!!」
俺が我が意を得たりとばかりに頷くと、担当者は真剣な顔つきでペンを動かし、俺の証言を記録していく。
そして、そのまま変わらぬ落ち着いた事務的な口調で、次の質問を投げかけてきた。
「……ちなみに三上さん。その際、複数の人間から至近距離で発砲された実弾を、最初はすべて目視で回避されたというのは事実でしょうか?」
「え? ああ、はい。最初はびっくりしましたけど、なんか弾がすごくゆっくり飛んでくるのが見えたので、首を傾げたり体をずらしたりして避けられました」
「……なるほど。では、その最初は回避していた銃弾を、途中から『素手で掴み取った』という報告があるのですが、これは?」
「ええ。何発も撃ってくるので、これだけ遅いなら手でも取れるんじゃないかなと思って、試しに手を伸ばしたらパシッと掴めたんです」
ピタリ、と。
書類に文字を書き込んでいた担当者のボールペンの先が、紙の上で完全に停止した。
「……素手で、ですか?」
「はい」
「飛来する拳銃の弾丸を?」
「そうですけど」
「…………具体的には、何発ほど受け止められましたか?」
「えーっと、確か最初に右手で一発掴んで、そのあと別の人が乱射してきたのを左手で二発、右手でもう一発取ったので……合計四発ですね。最後は両手とも銃弾で塞がっちゃってました」
役員室の中に、妙な沈黙が落ちた。
担当者はペンを持ったまま固まっており、その横では源治が「何度聞いても傑作だな」と言いたげにニヤニヤと笑い、黒瀬は静かに目を閉じている。
俺は少し不安になって首を傾げた。
(……あれ? 俺、なんか変なこと言ったかな? 聞かれたからありのままを答えただけなんだけど)
すると霧島さんは、一つ小さく咳払いをして、手元の記録にもう一度目を落とした。
「……確認ですが、その際、何か特殊な防弾グローブを着用していたとか、鉄板のようなものを盾にしたわけではないのですね?」
「はい、会社帰りのただのスーツ姿でしたから、普通に素手でしたよ。あ、でも掴んだ時にちょっとだけ手のひらがジンとしました」
「……ジンとしただけで、皮膚の裂傷や骨の損傷は一切なかった、と」
「ええ、おかげさまで無傷でした」
担当者は深々と息を吐き出し、書類の次のページをめくった。その指先が、ほんのわずかに震えているように見える。
「では、次の確認事項に移ります。両手で銃弾を受け止めた直後、別の構成員が日本刀で斬りかかってきたという点についてですが」
「ああ、あれですか! いやあ、あれは本当に危なかったんですよ!」
俺は当時の冷や汗を思い出しながら、身振り手振りを交えて必死に説明した。
「さっき言った通り、ちょうど両方の手のひらに銃弾を握り込んでたタイミングだったんで、手で防ぐわけにもいかなくて、咄嗟に口でパッと受け止めちゃったんですよね。で、そのまま顎に力を入れたら、バキンって刃が噛み砕けちゃったんですけど」
「………………」
「………………」
先ほど以上に長く、そして重苦しい沈黙が部屋を支配した。
担当者は書類から顔を上げ、まるで未知の生物でも観察するかのような、ひどく遠い目で俺の口元をじっと見つめている。
俺はなんだか居たたまれなくなり、慌てて両手を振って弁解した。
「あ、あの! もちろん、いくら体が丈夫になってるからって、刃物を口で受けるなんて不衛生だし危ないことだっていうのは重々分かってるんですよ!? あの時は本当にテンパってて反射的にやっちゃっただけで、もう二度とあんな真似をするつもりはありませんから!」
「……三上さん」
「は、はいっ!」
「通常、真剣による斬撃というものは、素手で防ぐことすら自殺行為に等しい極めて危険な攻撃です」
「……はい、そうですよね」
「それを咄嗟に口で受け止め、あまつさえご自身の歯と顎の力だけで鋼鉄の刀身を粉砕されたというのは……その、危険性についての認識もさることながら、我々としては『人体の構造としてそのような現象が物理的に成立した』という事実そのものを、非常に重く受け止めておりまして」
「…………え? そこですか?」
俺は目をパチパチと瞬かせた。
俺としては「銃を撃たれた上に刀で斬りつけられて本当に怖かった、あんな危険な橋はもう渡りたくない」という被害者としての恐怖を訴えているつもりなのだが、目の前の真面目な霧島さんは、どうやら「銃弾を素手で四発キャッチし、日本刀をビスケットのように噛み砕いた人外じみた物理現象」の方にばかり衝撃を受けているらしい。
会話の日本語は完璧に通じているはずなのに、お互いに重視しているポイントが根本的なところでズレている気がしてならなかった。
*
「とにかく、当時の状況についてはよく分かりました」
担当者はなんとか平静を取り戻した様子で書類をまとめ直すと、少しだけ表情を厳しくした。
俺はそこで、ずっと胸の奥に引っかかっていたもう一つの気がかりについて、恐る恐る口を開いた。
「……あの、霧島さん。その、俺が倉庫で殴ったり蹴ったりして倒しちゃった相手の人たちなんですけど……その後、どうなったんでしょうか?」
「負傷した十八名の構成員については、現場到着後に警察および医療機関へ引き継がれ、適切な処置が取られています。捜査上の機密に関わるため、個別の詳しい診断内容まではこちらからお伝えできませんが、現時点で生命に関わるような重篤な状態に陥った者はいないと報告を受けています」
「……そうですか。誰も死んでなくて、本当によかったです……」
俺は心の底からホッとして、ソファの背もたれに背中を預けた。
いくら相手が俺を殺そうとしてきた凶悪なヤクザだったとはいえ、もし自分の振るった暴力のせいで誰かが死んでいたりしたら、俺は一生その罪悪感を背負って生きていかなければならなかっただろう。
「あの時は、とにかく奥に監禁されてる小野寺君を助け出すのに必死で……。全力で殴ったらまずいと思って、途中からは頭を揺らして気絶させたり、なるべく手加減したつもりではあったんですけど、やっぱり怪我はさせちゃいましたからね」
「……その『相手を殺傷しないよう意識して力を抑えていた』という点についても、三上さんの重要な供述として正確に記録させていただきます」
霧島さんは真面目な顔で頷き、ボールペンを走らせた。
「先ほど黒瀬さんからもお話があったかと思いますが、今回の拉致監禁および銃器使用、そしてそれに伴う傷害事案についての刑事捜査は、現在警察の方で進められています。我々『八咫烏』は、異能者が関わる特殊事案として専門的な見地から警察へ情報提供や助言を行う立場にあります」
「なるほど……。じゃあ、俺がやったことが正当防衛になるかどうかも、警察の判断次第ってことですね」
「はい。現段階で私から無責任に『絶対に問題ありません』と断言することはできません。ただ、異能に覚醒してわずか二日しか経っていない一般市民が、仲間を人質に取られたうえ銃器で襲撃された事情は、我々も関係機関へ正確に伝えております」
「ありがとうございます……!」
本当に頼りになる人だ。
すると担当者は、俺の目を真っ直ぐに見て、確かめるように尋ねてきた。
「三上さん。もし仮に、今後また同じようなトラブルや危険な事件に巻き込まれそうになった場合、あなたご自身はどう行動したいとお考えですか?」
「そんなの、即座に110番して警察に全部お任せしたいに決まってるじゃないですか!!」
俺は一秒の迷いもなく、食い気味に即答した。
「今回はヤクザ同士の事情とか人質の命とかがあって警察を呼べないって言われたから、仕方なく行っただけです! 俺、痛いのも怖いのも大嫌いですし、できればもう一生誰とも戦いたくないんです! 俺はただ、毎日会社に来て、パソコンでエクセルを叩いて、定時になったら家に帰ってビールを飲むっていう、普通の社会人生活を送りたいだけなんですよ!!」
俺が魂の底からの本音を熱弁すると、担当者は目を丸くすることも笑うこともせず、ひどく感銘を受けたような真剣な面持ちで深く頷いた。
「……よく分かりました。そのお考えは、極めて重要かつ望ましいものです」
俺が自分の臆病さをさらけ出しただけなのに、なぜか担当者の手元のメモ帳には、まるでお手本のような模範解答を得たかのように力強い文字が書き込まれていた。
*
「さて、三上さん。ここからは能力そのものに関するお話になります」
担当者は別のデータシートを取り出し、テーブルの中央へと置いた。それは先週の月曜日、俺が初めて検査を受けた際に測定されたグラフと数値の記録だった。
「初回の測定において、三上さんの魂の階位は『Tier3《戦術級》』と判定されました。今回の事件を受けても、このTier3という階位自体が変動したわけではありません」
「あ、そうなんですね。じゃあ、俺が急にTier2にランクアップしたとか、そういうわけじゃないと」
「ええ。Tierは戦闘で勝ったからといって、ゲームのレベルのように上がるものではありません。今回の結果は、階位とは別に能力の実用面を評価する材料になるのです」
担当者の丁寧な説明に、俺は「なるほど」と頷いた。
「ですが、同じTier3の身体能力強化であっても、その出力の特性や、極限状態においてどこまで精密に力を制御できるかという実用面には、非常に大きな個人差があります」
「個人差、ですか」
「はい。前回の簡易検査では基礎的な身体能力と確率干渉の兆候までしか確認できませんでした。今回は実戦時の反応や防御に関する新しい情報が加わりましたので、安全な範囲で制御の状態を調べたいのです」
言葉にして並べられると、なんだか自分が人間の形をした重戦車かなにかのように思えてきて、非常に居心地が悪い。
「覚醒からわずか数日、しかも格闘技や戦闘訓練の経験が一切ない状態で、そこまでの実戦対応能力を発揮した事例は過去にほとんど前例がありません。また、先ほど三上さんがおっしゃった『銃弾がゆっくり見えた』という現象が、単なる身体能力強化に伴う動体視力と神経伝達速度の向上によるものなのか、あるいは別の認識系能力が複合しているのかについても、安全管理上、詳しく把握しておく必要があります」
「……はあ、なるほど」
「つきましては三上さん。本日の午後、前回使用したあの倉庫にて、もう少し詳しい追加の測定検査にご協力いただけないでしょうか? もちろん、実弾を撃ったり、誰かと戦っていただいたりといった危険な検査は一切行いませんので」
俺は少し考えてから、素直に頷いた。
「そういう安全な検査なら、全然構いませんよ。俺としても、自分の体が今どうなってるのか、ちゃんとした専門家の人に調べておいてもらった方が安心ですしね」
「ありがとうございます。ご協力に感謝いたします」
担当者が丁寧に頭を下げ、こうして俺の午後のスケジュールは、エクセルでの管理費集計から『異能の精密検査』へと正式に書き換えられたのだった。
*
午後一時半。
昼食を済ませた俺たちは、黒瀬の運転する車に乗り込み、先週の月曜日にも訪れた汐見総合管理の管理倉庫へとやってきていた。
高い天井に薄暗い照明、積まれた木箱や古い資材。つい十日ほど前、俺が軽い気持ちで巨大な木箱を押してズズズッと動かし、自分の超人化に初めて気づいた因縁の場所だ。
同行しているのは俺と八咫烏の担当者、黒瀬、そして車出しと雑用の手伝いとしてついてきた小野寺。さらには「俺も三上の検査を見物する!」と言って聞かなかった組長の源治までが、なぜか一番張り切った様子でついてきている。
「本日は最大出力の測定ではなく、突発的な動きに対する『反応速度の計測』と、意識的に弱い力を出す『出力制御の精度』を中心に確認させていただきます。ですので三上さん、今日は絶対に全力を出さないでくださいね」
霧島さんが持参した機材ケースから装置を取り出しながら念を押す。
「はい、分かりました。全力は出さないようにします」
「なんだよ霧島さん、せっかく来たのに、三上が鉄骨をひん曲げたり壁をぶち抜いたりするところは見られねえのか?」
「親父さん!? これ医療検査みたいなもんですからね!? 大道芸の見世物じゃないんですよ!!」
「親父、邪魔をしないでください。本日は安全確認が目的です」
黒瀬に冷たく窘められ、源治は「ちぇっ、つまらねえの」と口を尖らせながら資材の上に腰を下ろした。
「ではまず、反応速度と認識能力のテストから始めます。こちらの小型発射装置から、柔らかいウレタン製のボールがランダムな方向と速度で飛び出します。三上さんは少し離れた位置に立ち、飛んできたボールを避けるか、片手で軽く掴んでみてください」
担当者が三脚の上に設置したのは、バッティングセンターのピッチングマシンを小型化したような、カメラとセンサー付きの装置だった。拳銃とは似ても似つかない玩具のような機械に、俺はホッと胸を撫で下ろす。
「分かりました。じゃあ、いきますね」
俺は装置の五メートルほど前に立ち、肩の力を抜いて構えた。
ピッ、という電子音の直後、シュパン! と空気を切る音を立てて、白いウレタンボールが俺の右肩付近へ向かって飛び出してきた。
速い。普通の人間が至近距離で撃たれたら、まず反応できずにぶつかる速度だ。
だが、俺がボールに意識を集中した瞬間、やはりあの倉庫の夜と同じように、ボールの回転の縫い目まではっきりと見えるほど周囲の景色がスッと落ち着いたように感じられた。俺は何の苦労もなく右手を伸ばし、パシッとボールを空中で掴み取った。
「……お見事です。では、少しずつ初速を上げ、発射間隔を短くしていきますね」
シュパン! シュパパパン!
二球、三球と連続で撃ち出されるボールを、俺は右手で掴み、左手で払い、時には首を軽く傾けてやり過ごしていく。
五分ほど様々なパターンで測定を繰り返したところで、タブレットの波形画面を睨んでいた担当者の手が、ピタリと止まった。
「……ふむ。なるほど……」
「えっ、あ、あの、もう終わりですか? もしかして、なんか変な異常でも出ました!?」
俺が心配になって駆け寄ると、担当者は興奮を押し殺したような声で画面を指し示した。
「いえ、異常というより……驚くべき安定性です。ボールが発射されてから三上さんの視線が対象を捉え、手が動き始めるまでの反応が、常人の限界値を遥かに下回っています。しかも、今回試した速度の範囲では、その精度がほとんどブレていません」
「……え? それってつまり、どういうことですか?」
「少なくとも今回の結果は、『視覚情報の処理速度』と『肉体の運動反応』の強化で説明できそうです。飛んでくる銃弾がゆっくり見えた感覚とも符合します。ただし、ほかの認識系能力が重なっている可能性までは否定できません」
担当者の説明に、後ろで見ていた小野寺が「すげえええ! やっぱり親分は本物の超人っすね!!」と大はしゃぎで拍手をする。
俺としては、変なオカルト能力が追加で生えてきたわけではないと分かって、とりあえずホッとした気分だった。
*
「では次に、日常の安全に関わる最も重要なテスト――『微細な力の制御』について確認します」
時刻は午後二時半を回っていた。
担当者が新しく取り出したのは、デジタル表示のついた精密な握力計のような装置と、いくつかの薄いプラスチック製のコップだった。
「三上さんほど基礎的な筋力が跳ね上がっていると、無意識に力を込めただけで周囲の器物を破損したり、他人に怪我を負わせたりするリスクが生じます。まずはこの計測器を、画面の数値を見ながら『ちょうど5キロ』の力だけで握ってみてください」
「5キロですね。……えーっと、これくらいかな」
俺は計測器を軽く握り、デジタル表示が『4.8……5.0kg』になったところで指の力を止めた。
昨日のマンションの現場でも、玄関のドアを壊さないように自分の力を抑えながら開閉テストをしたばかりだ。普段からパソコンのキーボードやマウスを壊さずに仕事をしている俺にとって、弱い力を維持するのはそれほど難しいことではなかった。
「……素晴らしいですね。ではそのまま、1キロ刻みで10キロまでゆっくりと力を強めていってください」
「はい。6、7、8……9、10っと」
ピタリ、ピタリと指定された数値で止まるメーターを見て、担当者は感嘆のため息を漏らした。
「見事なコントロールです。通常、急激に高い身体能力を得た覚醒者は、自分の力の出力加減が掴めず、数ヶ月間はドアノブをひきちぎったり食器を割ったりといった制御不全に悩まされるケースが多いのですが……三上さんはすでに、日常生活レベルの微細な出力調整をほぼ無意識に習得されていますね」
「いやあ、俺、毎日事務所でエクセルの入力をしてますからね。キーボードを叩き割ったら仕事になりませんから、そこは必死で気をつけてますよ」
俺が当然のことのように答えると、担当者は「事務作業の継続が、結果として最高のリハビリと制御訓練になっていたわけですか……」と深く頷いた。
「ちなみに三上さん。先日の倉庫で十八名を制圧された際も、今のように意識して力を抑えておられたのですね?」
「もちろんですよ! あのまま全力で殴ったら相手が死んじゃうかもしれないって思ったんで、途中からはなるべく軽く小突いたり、頭を掴んで揺らしたりして気絶してもらいました。……まあ、俺自身、格闘技なんてやったことがない素人なので、どうやったら相手を安全に無力化できるのかよく分からなくて、結果的に怪我はさせちゃいましたけど」
俺が申し訳なさそうに頭を掻くと、担当者は急に真剣な顔つきになり、手元の資料に何かを強く書き込んだ。
「……三上さん。その『安全に相手を止める技術』については、今後、専門的な練習や講習を取り入れた方がよいかもしれません」
「えっ、練習ですか?」
「はい。ご本人がどれだけ戦いを望んでいなくとも、再び自衛のために力を使わざるを得ない場面が来ないとは限りません。その際、相手を必要以上に傷つけず、ご自身も安全に対処する方法を知っておくことは、三上さんの平穏を守るためにも有益です」
俺は少し考えた。
確かに、あの夜も戦い方が分からなかったせいで、無我夢中で手を振り回すしかなかった。もし「相手を怪我させずに一発で大人しくさせる安全なやり方」みたいなものがあるなら、万が一の保険として知っておいて損はないかもしれない。
「……そうですね。そういう護身術みたいなものなら、ちょっと教わっておきたいかもしれません」
俺の言葉に、担当者は満足そうに頷いた。
霧島さんは俺の圧倒的な身体能力そのものよりも、俺が自分の力を怖がり、他人を傷つけまいと慎重に制御しようとしているその姿勢の方を、何より高く評価してくれているようだった。
*
午後三時頃。
検査の最後の項目として、担当者はポケットから見覚えのある小さな六面体のサイコロを取り出した。
「最後に、前回兆候が見られた『事象の確率に干渉する能力』――いわゆる幸運系の異能について、現在の状態を少しだけ確認させてください」
「ああ、あのサイコロのテストですね」
「はい。前回の追加測定では、二十回の試行のうち十回、三上さんが頭の中で念じた通りの目が出ました。今回の事件でも確率干渉が作用した可能性は否定できませんが、裏付けとなる観測結果はまだありません。回避や防御は、確認されている身体能力だけでも説明できますからね」
「……えっ? あの夜も、俺の幸運が働いてたかもしれないってことですか?」
「ええ。ですが、可能性があることと、実際に働いたと確認できたことは別です。どこまでが身体能力で、どこからが確率干渉の結果なのかは、今後も慎重に調べる必要があります」
担当者はそう前置きした上で、俺にサイコロを手渡した。
言われるがままに、俺は今回も特定の数字を思い浮かべながら二十回ほどサイコロを振ってみた。結果は二十回中、九回的中。やはり普通の確率よりは明らかに偏っているが、百発百中で思い通りになるというわけでもない、なんとも微妙なラインだ。
「……ふむ。やはり明確な偏りは観測されますね。ただ、ご自身の意思で確実に結果を固定できる段階には至っていないようです」
「なんだか中途半端ですねえ。でも、もしこの幸運の能力が本当に使えるようになったら、すごく便利ですよね!」
俺はサイコロをつまみながら、思わず明るい未来を想像してニヤけてしまった。
身体能力強化なんていう物騒な力はどうでもいいが、運が良くなる力は大歓迎だ。これがあれば、朝の通勤電車が人身事故で遅延することもなくなるかもしれないし、休日に出かけようとしたら雨が降るなんていう悲劇も防げるかもしれない。ゆくゆくは次の再就職活動で、書類選考や面接に一発で通るようになる可能性だってある。
「そうですね。確率や因果に干渉する能力は、性質が解明されれば非常に幅広い応用が考えられます。ただし、どのような条件で発動し、どこまでの事象を誘導できるのかについてはまだ未知数ですので、こちらも今後の継続的な確認課題とさせてください」
「はい、分かりました」
こうして、約二時間にわたる午後の追加検査は、何のトラブルもなく無事に終了したのだった。
*
午後三時半。
機材を片付け終えた担当者は、倉庫の中央で俺、源治、黒瀬の三人を前にして、本日の総括を説明してくれた。
「三上さん、本日は長時間の検査にご協力いただき、ありがとうございました。本日の結果について簡単にご説明いたします。まず、先ほども申し上げた通り、現時点で三上さんの『Tier3《戦術級》』という階位評価を変更する根拠はありません」
「はい」
「ただし、前回の初期測定に今回の実戦データおよび制御テストの結果を加味すると、三上さんの能力は実用面において極めて高い水準にあることが確認されました。また、ご自身の安全面においても、看過できない懸念が生じています」
「……俺の安全面、ですか?」
俺が聞き返すと、担当者は神妙な面持ちで頷いた。
「はい。先日の事件により、『榊原一家に、武装した十八名を無傷で制圧する非常に強力な異能者が現れた』という情報が、すでに近隣の裏社会へ急速に広まりつつあります」
「…………っ」
俺は思わず言葉を詰まらせた。
思い当たる節がありすぎる。月曜日の久我組長も、火曜日の東雲詩織さんも、まさにその噂を聞きつけて俺に会いに来たのだ。
「そうした状況を踏まえ、我々『八咫烏』としましても、今後は三上さんに対する安全確認やご相談の体制をより強化し、継続的にフォローしていく方向で考えております。連絡窓口も私に一本化し、いつでも直接ご連絡いただけるようにいたします」
「あ、そうなんですか。何かあった時に直接霧島さんに相談できるなら、俺としてはすごく心強いですけど」
俺が素直に礼を言うと、隣で聞いていた黒瀬が、鋭い眼光を担当者へと向けて静かに問いかけた。
「……つまり、今回の事件を受けて、八咫烏の内部において三上さんの案件は『通常の新規覚醒者以上の重要案件』として特別に取り扱われるようになる、ということでしょうか」
「ええ、そうなりますね。Tier3の有力な覚醒者が、覚醒直後にこれほど大規模な武装抗争に巻き込まれ、かつ単独で制圧した事例ですので。行政側としても、今後の動向を継続して把握しておく必要があると判断いたしました」
二人のやり取りを聞いていた俺の頭の中で、何かが引っかかった。
(……え? 俺の案件? 特別に取り扱われる? 動向を把握しておく必要がある?)
なんだか、さっきまで「頼れる相談窓口」に聞こえていた話が、急に国家レベルの監視対象みたいな物騒な響きに変わってきたぞ。
俺は慌てて一歩前に出て、担当者に詰め寄った。
「あ、あのっ!! ちょっと待ってください!! それってつまり、俺が政府から『いつ暴走するか分からない危険人物』として目を付けられたってことですか!?」
「いえ、決してそのような意味ではありません! 先ほども申し上げた通り、我々は『能力そのものの危険度』と『ご本人の人間性』は明確に切り分けて評価しています。むしろ本日の検査を通じて、三上さんが非常に高い自制心と常識をお持ちであることは十分に確認できました」
「……そ、そうなんですか? じゃあ、なんで特別扱いなんですか?」
「三上さんご自身がどれほど平穏を望んでおられても、それだけの規格外の力を持っているという事実だけで、周囲の組織や悪意ある人間からの関心が集まってしまうからです。三上さんが望まないトラブルに巻き込まれた際、即座に行政として支援や介入ができるよう、我々の側で優先度の高い重要案件として体制を整えておく必要があるのですよ」
担当者は俺を安心させるように、さらに言葉を続けた。
「もちろん、重要案件になったからといって、三上さんに八咫烏の実働部隊で働いてくれと要求したり、国の任務を強制したりすることは一切ありません。登録と就職はまったくの別問題ですから」
「……ほ、本当ですか? 秘密組織のエージェントにされたりしないんですね?」
「ええ。今後、何か調査や安全確認でご協力をお願いする場面があるとしても、今日のように必ず事前にご説明し、三上さんの同意を得た上で行います。そこは約束いたします」
俺はホッと胸を撫で下ろした。
よかった。どうやら自由を奪われたり、無理やり戦わされたりするわけではないらしい。
……ただ、俺が「何も特別なことはしたくない、ただの派遣社員でいたい」と願っているにもかかわらず、政府の公的な記録の中で、俺という人間がなんだかすごく大層な『重要人物』の枠に入れられてしまったことだけは間違いないようだった。
*
午後四時頃。
倉庫での検査を終えて三上たちと別れた八咫烏の霧島は、帰路につく公用車の後部座席で、静かにタブレット端末の画面を見つめていた。
画面に並んでいるのは、本日採取したばかりの三上悠介に関する詳細な測定データだ。
初回検査でのTier3判定。常人を遥かに凌駕する筋力と耐久力。そして確率干渉の兆候。
そこへ今回の事件で得られた実戦データと、午後の追加検査による精密な出力制御の記録が加わった。覚醒後間もない人物のものとは思えない内容だ。
「……体系的な格闘訓練も、異能の戦闘訓練も一切受けていない元営業事務の会社員が、覚醒からわずか二日でこれをやってのけた、か」
霧島は誰に聞かせるでもなく呟き、改めて手元の資料へと目を落とした。
データだけを見れば、どこかの戦闘特化型組織が極秘裏に育成した生体兵器だと報告されてもおかしくないほどの数値だ。
だが、今日直接言葉を交わし、検査を通じて確認した三上悠介という人間の本質は、そうした血生臭い怪物とは対極にあるものだった。
脳裏に蘇るのは、役員室で必死に訴えていた三上の姿だ。
『俺、痛いのも怖いのも大嫌いですし、できればもう一生誰とも戦いたくないんです!』
『……そうですか。誰も死んでなくて、本当によかったです……』
『俺はただ、毎日会社に来て、パソコンでエクセルを叩いて、定時になったら家に帰ってビールを飲むっていう、普通の社会人生活を送りたいだけなんですよ!!』
言葉の裏に嘘や計算は一切なかった。彼は心の底から暴力を嫌い、相手を傷つけてしまったことに良心の呵責を覚え、時給二千五百円の事務仕事を何よりも大切にしている、驚くほど善良で常識的な小市民だった。キーボードを壊さないために無意識のうちに精密な出力制御を身につけていたという事実が、彼の平和主義を何よりも雄弁に物語っている。
しかし、だからこそ危ういのだ、と霧島は考える。
本人が現在身を置いているのは、指定暴力団の傘下にある榊原一家のフロント企業。組長の榊原源治や若頭の黒瀬は彼を大切に扱っているようだが、周囲の組員たちはすでに彼へ絶対的な敬意を向けており、裏社会全体からの注目度も日増しに高まっている。
これほど強大な異能を持つ善良な一般人が、本人の意思とは無関係に裏社会の抗争の渦中へと引きずり込まれ、あるいはその力を悪用しようと企む勢力から標的にされるリスクは計り知れない。
霧島はタブレットのキーボードを叩き、上層部へ提出するための報告書の作成画面を開いた。
特記事項の欄に、一行ずつ慎重に文言を打ち込んでいく。
『対象:三上悠介(指定階位:Tier3《戦術級》を維持)』
『実戦における異常な反応速度および肉体強度を確認。複合能力の可能性も含め、継続的な観察と検証を要する』
『本人は極めて高い自制心を有し、一般就労の継続と平穏な生活を強く希望している。能力の暴走リスクは低いが、自衛のための安全教育および制御支援の継続が望ましい』
『先般の銃撃事案に関する刑事手続きについては、警察および関係機関と連携し、本人の正当な権利保護に向けた調整を継続中』
『【総括】対象を取り巻く環境の特殊性に鑑み、外部勢力からの不当な干渉・利用を防ぐため、通常の新規登録者より優先度の高い継続確認案件として扱い、専任窓口による保護・支援を行うことを提案する』
入力を終え、霧島は小さく息を吐いた。
本人がどれほど「ただの派遣社員」であることを望もうとも、国家の異能管理機関として、彼をその他大勢の一般人と同じ棚にしまっておくことはもうできない。
「……ご本人があれほど普通の生活を望んでおられるのですから、せめてその平穏が脅かされないよう、私たちの方でもきちんと支えないといけませんね」
霧島は窓の外を流れる東京の街並みを見つめながら、静かにファイルを保存した。いつもの新規覚醒者対応より少しだけ、胃の重くなる案件が増えた気がしていた。
*
午後四時半頃。
倉庫から汐見総合管理の事務所へと戻ってきた俺は、自分のデスクの椅子にドサリと腰を下ろし、大きく背伸びをした。
「……ふうう。なんだかんだで、今日も結局夕方まで潰れちゃったなあ」
精神的にはそこそこ疲れたが、とりあえず逮捕されることも、政府の秘密研究所に連れて行かれることもなく、無事に自分の席へと戻ってくることができた。
「三上さん、お帰りなさい。長時間の検査、お疲れさまでした」
向かいの席から、森田さんが温かい緑茶の入ったマグカップを持って声をかけてきてくれた。
「あ、ありがとうございます、森田さん! おかげさまで、なんとか無事に終わりましたよ」
「それはよかったです。朝お渡しした管理費の集計の件ですけど、今日中に終わらせなくても全然大丈夫ですからね。もう夕方ですし、今日は無理のない範囲で進めてください」
「うっ……森田さん、ありがとうございます! じゃあ、定時までできるところまでやっちゃいますね!」
俺は湯気の立つマグカップを受け取りながら、危うく感涙にむせびそうになった。
(……ああ、森田さんだけは、いつだって俺を『普通の事務員』として扱ってくれる! この人がこの職場にいてくれるおかげで、俺は自分がただの会社員だってことを忘れずにいられるんだ……!)
俺が心のオアシスに癒やされながらパソコンの電源を入れた、その直後だった。
「親分っ!! いやあ、今日もマジですげえものを見せてもらったっす!!」
倉庫から一緒に戻ってきた小野寺が、目をキラキラと輝かせながら俺のデスクの横へと駆け寄ってきた。
「……なに、小野寺君。また声が大きいってば」
「だって親分、あの八咫烏の検査、凄かったじゃないっすか! あんな猛スピードで飛んでくる玉を片手でひょいひょい掴んじまうし、ついには政府のお偉いさんから『特別に重要な人物』として認められちまったんすよ!?」
「…………」
俺のパソコンを起動する指が止まった。
「……いや、ちょっと待て小野寺君。全然違うからね? 俺はただ、事件に巻き込まれたから安全確認の検査を受けただけだからね!?」
「え? でも、あの霧島さん、最後に『三上さんの件は今後も私が窓口になります』って、すげえ真剣な顔で言ってたじゃないっすか!」
「それは俺が危ない目に遭わないように相談に乗ってくれるっていう意味であって、俺の凄さが認められたとかじゃないから!!」
俺が必死に訂正していると、奥へ歩いていこうとしていた組長の源治までが足を止め、腹を抱えて豪快に笑い出した。
「はっはっはっは!! いいじゃねえか三上! 久我の親分や東雲の娘だけじゃ飽き足らず、ついにお前さん、日本政府の八咫烏の連中からまで一目置かれる大物になっちまったなあ! さすがはうちが見込んだ男だ!!」
「いや、親父さんまで話を盛らないでください!! 一目置かれたんじゃなくて、危なっかしいから要観察になっただけですよ!!」
俺が頭を抱えて叫ぶと、黒瀬もその隣で、どこか誇らしげに微笑みながら頷いた。
「ですが三上さん、八咫烏の担当者と直通のパイプができ、行政側から優先的な保護と支援を受けられる立場になったというのは、裏社会に身を置く我々から見ても非常に大きな意味を持ちます。三上さんご自身の安全のためにも、決して悪い話ではありませんよ」
「……まあ、何かあった時に警察や政府の人に助けてもらいやすくなるなら、それはありがたいですけど……」
黒瀬の言葉に一応は納得しかけた俺だったが、そこでふと、この一週間のうちに自分の周囲で起きた変化を頭の中で指折り数えてみて、背筋が凍りつくのを感じた。
(……あれ? ちょっと待ってくれよ)
月曜日には、全国規模の指定暴力団の直参幹部である久我組長に顔を覚えられ、高評価を受けた。
火曜日には、裏社会の密輸ネットワークを牛耳る東雲会のお嬢様に個人的な興味を持たれ、「またお会いしたい」と言われた。
水曜日には、管理物件の一般の女性入居者さんから「器のでかい極道の親分」だと完全に誤解された。
そして木曜日の今日。ついに日本政府の秘匿機関『八咫烏』からまで、「特別に継続確認が必要な重要案件」として専任の担当者をつけられてしまったのだ。
(……え? 俺、自分の知らないところで、全方位からどんどん外堀を埋められて身動きが取れなくなってないか!?)
俺は愕然として、目の前のパソコンのモニターと、机の上に積まれた管理費の振込明細の束を見つめた。
今日、俺が本来やるはずだった仕事は、この紙の束の数字をエクセルに打ち込んで合算するだけの、地味で平和な事務作業だったはずなのだ。
それなのに、午前中は銃撃戦の事情聴取を受け、午後は倉庫で超能力の精密測定をされ、気がつけば国家機関から特別扱いされる重要人物に祭り上げられている。
「……いや、おかしいだろ。俺はただの派遣社員だよな? 時給二千五百円で雇われてる、しがない三十四歳の元営業マンだよな!?」
俺の心のダムが、ついに決壊した。
「なんで俺、ただの営業事務として真面目に働きたいだけなのに、ヤクザどころか日本政府からまで特別に目をかけられる重要人物になっちゃってるんですかあああああああっ!?」
俺の魂の絶叫が事務室に響き渡る中、源治は「はっはっは! 景気がいいなあ!」と大爆笑し、小野寺は「さすが俺の親分っす! 規模が国家レベルっすね!!」と大喜びで拍手喝采を送ってくる。黒瀬までもが、困ったように目元を緩めて苦笑していた。
そんなカオス極まりない空間の中で、ただ一人、向かいのデスクに座る森田さんだけが、書類からひょいと顔を上げて、いつもの穏やかな笑顔で俺に声をかけてくれた。
「あ、三上さん。そんなに慌てなくても、今日の管理費の集計は明日の午前中に回していただいて本当に大丈夫ですからね?」
(……森田さああああああん!!)
俺は極道と国家権力の狭間で揺れ動く自分のちっぽけな正気を保つため、女神のように微笑む四十代の事務員さんに向かって、心の中で深く、深く手を合わせるのだった。
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