派遣社員、うっかり極道の跡目に選ばれる ~歴代親分の異能を継いだ俺、最強のヤクザになるらしい~ 作:パラレル・ゲーマー
金曜日の午前九時。
株式会社汐見総合管理の自分のデスクで、俺――三上悠介は、パソコンの画面に映し出されたエクセルの表と、手元の銀行振込明細の束を交互に睨みつけながら、猛烈な勢いでキーボードを叩いていた。
昨日は政府の秘匿機関『八咫烏』の担当者がやってきて、午前中は銃撃事件の事情聴取、午後は倉庫での能力測定と、ほぼ一日中振り回されてしまった。おかげで本来昨日のうちに片付けるはずだった先月分の管理費の入金集計が、まるっと今日に持ち越されてしまったのだ。
(……それにしても、今週の俺は、まともにエクセルを触ってる時間より、ヤクザの大幹部や政府の役人と話してる時間の方が圧倒的に長くないか?)
俺はテンキーで数字を打ち込みながら、心の中で小さくため息をついた。
結果として逮捕されるわけでもなく、政府の担当者が専属の相談窓口になってくれるというのはありがたい話ではあったが、普通の派遣社員としては、そういう非日常のイベントはもうこれっきりにしてほしい。
無心で作業に没頭すること二時間。
午前十一時少し前、俺は最後の物件の入金照合を終え、完成した集計ファイルを保存して向かいのデスクへと声をかけた。
「森田さん、お待たせしました。昨日頼まれていた先月分の管理費の集計、全部終わりましたよ。入金済みの物件はすべて明細と照合して、未入金になってる数件だけ別シートに一覧でまとめてあります」
「まあ、もう終わったんですか? 結構な件数があったのに、相変わらずお仕事が早いですね。ありがとうございます、三上さん」
森田さんが共有フォルダのファイルを開き、ぱっと顔を綻ばせる。
「いえいえ、昨日のうちに終わらせられなくてすみませんでした」
「いいんですよ、気にしないでください。昨日は政府の方といろいろ大切なお話があったんでしょう?」
「……まあ、大切というか、なんというか……」
俺は頬を掻きながら曖昧に笑った。
国家機関から『特別継続確認案件』などという物騒な名前の重要人物に指定されてしまったなんて、できれば普通の社会人には一生起きてほしくない種類の「大切な話」なのだが、森田さんの穏やかな笑顔を見ていると、そんな毒気もスッと抜けていく。
俺は自分の席に戻り、次のタスクである来月分の契約更新書類のチェックに取り掛かった。
周囲を見渡せば、今日の事務室は驚くほど静かで平和だった。小野寺君は一昨日の黒瀬さんからの説教が効いたのか、今日は大人しく自分のデスクで領収書の整理に悪戦苦闘しているし、黒瀬さんは奥の役員室に籠もったまま。組長の源治さんに至っては、今日は朝からまだ一度も顔を出していない。
(……いいぞ。この調子でいけば、今日はこのまま何事もなく定時で上がれそうだ)
今日は金曜日。今日さえ乗り切れば、待ちに待った週末の連休がやってくる。
帰りに駅前のスーパーに寄って、半額シールの貼られた惣菜と缶ビールを買って帰ろう。明日の土曜日は昼まで泥のように眠って、溜まっている洗濯と部屋の掃除をして、あとはお気に入りの動画を見たりゲームをしたりして、一歩も外に出ずにダラダラと過ごすのだ。
三十四歳、独身、恋人なし。世間一般から見れば少し寂しい休日の過ごし方かもしれないが、今週あまりにも濃密すぎる非日常に揉まれ続けた俺にとっては、その「何もない退屈な土曜日」こそが、何物にも代えがたい極上の贅沢に思えた。
――そう、この時の俺は、自分のそのささやかな週末の予定が、わずか十数分後に根底から覆されることになろうとは、夢にも思っていなかったのだ。
*
午前十一時を少し過ぎた頃だった。
トゥルルルル、と静かな事務室にビジネスフォンの着信音が響き、森田さんがいつもの丁寧な所作で受話器を取った。
「はい、お電話ありがとうございます。株式会社汐見総合管理でございます。……ええ、はい。いつもお世話になっております」
最初は取引先からの普通の業務連絡かと思って聞き流していた俺だったが、森田さんの声が少しだけ柔らかく、どこか華やいだトーンに変わったのに気づいて、ふと顔を上げた。
「ええ、おりますよ。少々お待ちくださいね。……三上さん、お電話ですよ」
「あ、はい。どちら様からでしょう? 先日の建具業者さんですか?」
「火曜日にお見えになった東雲様からですよ」
「………………」
俺の持っていたボールペンが、手から滑り落ちてデスクの上で乾いた音を立てた。
東雲。
その苗字を聞いた瞬間、俺の脳裏に、火曜日の午前中にこの事務所へとやってきた、あの黒髪ロングの超絶美人の姿が鮮明にフラッシュバックした。
「先日もとても丁寧にご挨拶くださった方ですよね。三上さんに個人的にご用事があるそうですけど、今お電話代わっても大丈夫ですか?」
「……あ、は、はい! 大丈夫です、代わります!」
俺は慌てて自分のデスクの内線受話器を取り上げ、震える指で保留ボタンを押した。
そういえば、火曜日に彼女がここへ来た時は、挨拶と雑談をしただけで個人のスマホの番号までは交換していなかった。だからわざわざ、会社の代表番号にかけてきたのだろう。
(……いや、ちょっと待て。個人的に用事ってなんだ!? もしかして、俺の知らないところで何かヤバい密輸のトラブルでも起きて、その手伝いをさせられる気じゃないだろうな!?)
俺はゴクリと唾を呑み込み、受話器を耳に当てた。
「……お、お電話代わりました。三上です」
『ごきげんよう、三上様。東雲詩織です。突然お勤め先にお電話してしまって、ごめんなさいね』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、電話のスピーカー越しでもはっきりと分かるほど澄み切った、鈴を転がすような美しい声だった。
その声を聞いただけで、俺の背筋は条件反射でピンと伸びてしまう。
「こ、こんにちは! いえ、こちらこそ先日はわざわざご挨拶に来ていただいて、ありがとうございました!」
『ふふ、こちらこそ、先日はとても楽しいお時間をありがとうございました。あの、三上様、今はお仕事中でしたでしょうか? もしお忙しければ、また改めておかけ直しいたしますけれど』
「あ、いえ、ちょうど午前中の作業が一段落したところなので、全然大丈夫ですよ」
どこまでも相手を気遣う、完璧で柔和な話しぶり。
こうして声だけを聞いていると、本当にどこかの由緒正しい名家のお嬢様と会話しているような気分になる。この優しい声の主が、裏では密輸や密入国を牛耳っているとは、未だに俺の脳みそが理解を拒んでいた。
すると、電話の向こうの詩織さんが、ほんの少しだけ声を弾ませたように感じた。
『よかったですわ。……実は三上様、先日お別れする際に、またぜひゆっくりお話ししたいと申し上げたのを覚えていらっしゃいますか?』
「え? あ、はい。もちろん覚えていますけど……」
『それで、もしよろしければなのですけれど……明日のお昼、わたくしとお食事でもご一緒できませんか?』
「………………」
俺は受話器を握りしめたまま、完全にフリーズした。
(……え? 今、なんて言った? 食事? 明日のお昼に? 俺と、あの東雲詩織さんが?)
俺があまりにも長く沈黙してしまったせいか、詩織さんは少しだけ遠慮がちな声で言葉を継いだ。
『あ……突然のお誘いでしたから、ご迷惑でしたでしょうか。もちろん、明日はすでにご予定がおありでしたら、また別の日でも構いませんのよ?』
「い、いえっ!! 迷惑なんてとんでもないです!! 明日は、その、特に何の予定もありませんので!!」
反射的に大声で即答してしまってから、俺は内心で激しく頭を抱えた。
(……あああああっ!! 三十四歳の独身男が、土曜日に何の予定もない暇人だってことを全力で暴露しちゃったよ!!)
我ながら情けないにも程があるが、詩織さんはそんな俺の返事を聞いて、電話越しにパッと花が咲くような明るい声を上げた。
『まあ、本当ですか! よかった……。それでは、明日のお昼をご一緒していただけるのですね?』
「……え、ええと……」
俺は一瞬だけ、冷静になろうと頭をフル回転させた。
相手は日本の密輸と密入国を牛耳る大悪党のお嬢様だ。そんな危険人物と休日に二人きりで会って、本当に大丈夫なのだろうか。
だが、よく考えてみれば、ただ一緒に昼飯を食べるだけで俺が犯罪に加担することになるわけじゃない。もし食事の席で「ちょっと違法な荷物を運ぶのを手伝ってくれませんか」なんて言われたら、その時は社会人としてきっぱりとお断りすればいいのだ。
それに……何より俺自身が、あの常識外れで、それでいて驚くほど真っ直ぐに俺の話を聞いてくれた美しい女性と、もう一度話してみたいと思ってしまっているのも否定できない事実だった。
「……はい。俺なんかでよければ、ぜひご一緒させてください」
『まあ! ありがとうございます、三上様! とっても嬉しいですわ!』
受話器の向こうから伝わってくる、嘘偽りのない純粋な喜びの響き。
俺は耳のあたりがじんわりと熱くなるのを感じながら、「俺、なんだかまたすごいことに足を踏み入れてないか……?」と、自分の鼓動の速さに戸惑っていた。
*
『ところで三上様。三上様は普段のお休みの日などには、どのようなお店でお食事をなさることが多いのですか?』
「え、俺ですか? いやあ、俺は普段、定食屋とかラーメン屋とか、そういう庶民的なお店ばかりですよ」
『そうですのね。でしたら明日は、三上様が普段お好きで通っていらっしゃるお店に、わたくしもご一緒させていただけませんか?』
詩織さんからの思わぬ提案に、俺は目を丸くした。
(……いや、ちょっと待ってくれ。東雲会のお嬢様で、しかも世界を股にかける実業家なんだよな、この人。普段はそれこそ、ドレスコードのある高級ホテルのフレンチとか、回らないお寿司屋さんとかで食事してるんじゃないのか?)
俺が返答に詰まっていると、詩織さんは優しく微笑むような声で続けた。
『わたくし、高級なお店に行きたいわけではないのです。三上様が普段どのような場所で過ごし、どのようなものをお好みなのか、三上様のお好きなものを一緒にいただいてみたいのですわ』
「……あ、あの、じゃあ……俺が休日にたまに行く、駅近くの小さな洋食屋さんがあるんですけど、本当にそういう普通のお店でも大丈夫ですか?」
『ええ、もちろんです! 洋食屋さん、とても素敵ですわね。ぜひそちらへご案内ください』
そこには、庶民の暮らしを上から見下ろすような傲慢さは微塵も感じられなかった。ただ純粋に、俺という人間の日常を知りたいという好意だけが真っ直ぐに伝わってきて、俺の胸の奥がまた少しむず痒くなる。
俺たちは、俺のアパートから電車で数駅のところにある繁華街の改札前で、明日の午後零時半に待ち合わせをする約束を取り付けた。
『それでは三上様、明日の十二時半にお待ちしておりますね。お会いできるのを、心から楽しみにしております』
「はい、こちらこそ。じゃあ、また明日」
ツー、ツー、という切断音が鳴り、俺はゆっくりと受話器を置いた。
そのまま数秒間、デスクの一点を見つめて固まる。
(……え? 俺、今、何を約束した? 明日の土曜日の昼に、あの二十七歳の超絶美人と、駅で待ち合わせをして二人きりで洋食屋でランチ……?)
それって、世間一般の定義に照らし合わせれば、どう考えても。
(……デート、だよな!? これ、完全にデートってやつだよな!?)
三十四歳の冴えない派遣社員の身に突如として降りかかった、奇跡のようなイベント。顔が勝手にニヤけそうになるのを必死で堪えた次の瞬間、俺の理性が全力でブレーキを踏み込んだ。
(……いやいやいや、浮かれるな俺!! 相手はあの密輸女王なんだぞ!?)
俺の頭の中で、「絶世の美女との初デートに浮かれる小市民の心」と、「国家規模の大悪党と関わることに怯える常識人の心」が、正面から大衝突を起こしていた。
*
俺がデスクで一人、複雑な感情の渦に揉まれていると、向かいの席の森田さんがニコニコと微笑みながら声をかけてきた。
「三上さん、なんだかすごく嬉しそうなお顔をされていますよ?」
「えっ!? そ、そうですか!? いや、別にそんなことは……!」
「ふふ、隠さなくてもいいじゃないですか。先日いらした東雲様でしょう? とても素敵な方でしたものね。週末に楽しいご予定ができたのなら、本当によかったですね」
森田さんはそれ以上野暮な詮索はせず、純粋に同僚のプライベートを祝うように優しく笑ってくれた。
(……ああ、森田さん!! あなたのその一般社会の温かい反応だけが俺の癒やしです!! ……まあ、今の電話の相手が裏社会の密輸女王だって知ったら、森田さんでもさすがにそんな微笑ましい顔はできないと思いますけどね!?)
俺が心の中で涙ながらにツッコミを入れていると、少し離れた席で耳をダンボにしていたらしい小野寺が、ガタッと椅子を鳴らして俺のデスクへと突進してきた。
「親分っ!! 今のお電話、東雲のお嬢からだったんすか!?」
「うわっ!? 小野寺君、だから声がでかいってば!!」
「へへっ、ちょっと聞こえちまったっすよ! 明日のお昼に待ち合わせって……それ、もしかしてデートっすか!? デートなんすよね!?」
「ちょ、ちょっと、まだそういう話じゃないから! ただ昼飯を一緒に食べるだけだって!」
「いやいや、休日にあの東雲のお嬢と男と女で二人きりでメシ食いに行くなんて、そんなのどう見たってデートじゃないっすか!! いやあ、さすが俺の親分っす! 腕っぷしだけじゃなくて、あんなすげえ美人のお嬢まで惚れさせちまうなんて、マジで一生ついていきます!!」
目をキラキラさせて大騒ぎする小野寺を見て、俺は額に手を当てた。こいつ、東雲さんに物騒な噂があることくらいは知っているはずなのに、俺があんな超絶美人とデートするという事実だけで、すっかり舞い上がっているらしい。
すると、事務室の騒ぎを聞きつけたのか、奥の役員室から黒瀬が静かに姿を現し、俺のデスクの横で足を止めた。
「三上さん。今、東雲さんからご連絡があったそうですね」
「……黒瀬さん、情報伝わるの早すぎませんか!? 防音室にいたんじゃないんですか!?」
「小野寺の声がここまで響いておりましたので。明日、東雲さんとお食事をご一緒されるとか」
「……ええ、まあ、そういうことになりまして」
「それはようございましたね。どうぞ楽しんでいらしてください」
黒瀬までもが、穏やかに目元を緩めて祝福するような言葉を口にする。
俺は思わず椅子から立ち上がり、周囲に聞こえないよう声を潜めて黒瀬に詰め寄った。
「く、黒瀬さんまで何を言ってるんですか!? あの、火曜日に黒瀬さんご自身の口から教えてくれましたよね!? 東雲さんは日本の密輸と密入国を牛耳ってる、とんでもない違法ビジネスの人だって!!」
「ええ、もちろん承知しておりますよ。ですが、今回のお食事のお誘いに関しては、裏社会の仕事や取引とは無関係に、純粋に三上さん個人と親しくなりたいというお気持ちから出たものでしょう」
「……本当にそう思いますか? 急に危険な荷物の運び屋を頼まれたりしません?」
「少なくとも、現時点で東雲さんが三上さんを事業に引き込もうとしているような動きはございません。それに……」
黒瀬はそこで少しだけ表情を引き締め、落ち着いた低い声で付け加えた。
「万が一、お食事の席で彼女のお仕事に関する話題が出たとしても、三上さんはご自身の普段通りのお考えを大切になさればいいのですよ。彼女は確かにご自分の信念を決して曲げない方ですが、他人の意思を無理やり踏みにじるような真似はなさいません。もし三上さんがご不快に思われるようなことがあれば、遠慮なく断っていただいて構わないのです」
黒瀬のその的確なアドバイスに、俺はハッとして頷いた。
そうだ。久我組長との面会の時もそうだったが、俺はただの堅気の派遣社員なのだ。相手のペースに飲まれず、ダメなものはダメだと自分の常識で判断すればいいだけのことだ。
すると、横で話を聞いていた小野寺が、急に使命感に燃えたような顔で手を挙げた。
「親分!! そういうことなら、明日のデートには俺も護衛として同行するっす!! 隣のテーブルで変装して見張ってるっすから!!」
「いや、来なくていいから!! ただの食事に舎弟を連れてくる奴がどこにいるんだよ!!」
「でも、東雲のお嬢って、裏では結構おっかない噂もある人っすよ!? 万が一のことがあったら……」
「あのね小野寺君、俺は一応Tier3の異能者なんだよ!? しかも黒瀬さんの話じゃ、東雲さんはそれより上のTier2かもしれないって言われてるんだから、仮に戦闘になったとして、一般人の君が隣にいたところでどうしようもないでしょ!?」
「……あっ。言われてみれば、確かにそうっすね!!」
「そこで素直に納得するんだ!?」
自分の無力さに一瞬で納得して「じゃあ明日は家で応援してるっす!」と笑顔で引き下がる小野寺にツッコミを入れながら、俺は明日のランチに向けた覚悟をようやく決めたのだった。
*
その日の夜、午後八時頃。
定時で仕事を終えてアパートへと帰宅した俺は、シャワーを浴びて簡単な夕食を済ませたあと、狭い1Kの部屋のクローゼットの前に立ち尽くしていた。
「……さて。明日、何を着ていけばいいんだ?」
ハンガーに掛かった数少ない自分の服を眺めながら、俺は深々と腕を組んだ。
相手はあの東雲詩織さんだ。火曜日に会社に来た時は、一目で高級だと分かる上品なワンピースとカシミヤのコートを完璧に着こなしていた。明日は休日のお出かけだから私服で来るはずだが、間違いなく雑誌のモデルのような非の打ち所がない姿で現れるだろう。
対する俺は、三十四歳の独身男性。普段の休日に着ている服といえば、首元の少しヨレたスウェットか、数年前にユニクロで買ったパーカーくらいしかない。
(……やっぱり、無難にスーツで行くか? いや、待てよ。土曜日の昼間に、自分が紹介した庶民的な洋食屋にスーツで現れたら、完全に仕事帰りのサラリーマンだよな……)
俺はクローゼットから服を引っ張り出してはベッドの上に広げ、鏡の前で自分の体に当ててみては首を傾げるという作業を繰り返した。
ふと、先週末の土曜日の自分を思い出す。あの時は、月曜日の夜に控えた久我組長との面会に向けて、「失礼があって東京湾に沈められたらどうしよう」という純粋な恐怖から、必死で革靴を磨いて地味なネクタイを選んでいた。
だが、今の俺がこうして頭を悩ませている理由は、それとはまったく違う。
ただ単純に、あんなに綺麗な女性の隣を歩くのに、みっともない格好をして「なんだ、私服はダサいんだな」と幻滅されたくないという、男としてのちっぽけな見栄とプライドが働いているのだ。その事実に自分で気づいてしまい、俺は誰もいない部屋で一人、耳まで顔を赤くした。
結局、三十分ほど悩んだ末に俺が選んだのは、清潔感のある白のオックスフォードシャツに、落ち着いたネイビーのジャケットと細身のチノパンという、一番シンプルで小綺麗な組み合わせだった。ブランド物でもなんでもない普通の服だが、アイロンをかけて皺を伸ばせば、それなりにちゃんとした大人の休日着に見える。
「……うん。まあ、こんなもんだろ。今から急に気取って高級ブランドの服なんて着ても、俺には似合わないしな」
久我組長からタワーマンション付きの幹部待遇を提示されても、時給二千五百円の今の職場を選んだ自分だ。背伸びをせず、ありのままの自分で会えばいい。
電気を消して布団に潜り込むと、瞼の裏に、火曜日に見た詩織さんの柔らかな笑顔が浮かび上がってきた。
俺が拳銃を撃たれて怖かったと話した時、胸に手を当てて本気で痛ましそうに心配してくれた優しい瞳。
小野寺君の顔の痣に気づいて、下っ端の彼にも丁寧に声をかけていた上品な姿。
やっぱり、人柄としては驚くほど魅力的で、素敵な女性なのだ。
しかし同時に、火曜日に親父さんや黒瀬さんから聞いた話も蘇ってくる。
彼女が普段見せている柔らかな笑顔と、あの裏稼業の実態。
どちらも事実なのだと思うと、気持ちは簡単には整理できなかった。
(……本当に、明日俺はあの人とどんな顔をして話せばいいんだろうな)
そこにある明確な一線だけは、どれだけ相手が美人だろうと絶対に譲るわけにはいかない。
そんな真面目な決意と、それでも明日彼女に会えることをどこか楽しみにしている自分自身の矛盾した気持ちを抱えながら、俺はゆっくりと眠りについた。
*
翌土曜日、午後零時十五分。
雲ひとつない秋晴れの空の下、俺は約束した繁華街の駅の改札前に、待ち合わせ時刻の十五分前に到着していた。
元営業マンとして、人と会う時の時間厳守は徹底している。アイロンをかけたシャツとジャケットの裾を軽く整え、スマホで洋食屋の場所と営業時間をもう一度確認する。準備は万端だ。
それなのに、俺の心臓はさっきから肋骨を叩くようにバクバクと早鐘を打っていた。
(……落ち着け、俺! 先週は実弾が飛び交う倉庫に単身乗り込んだし、今週はヤクザの大幹部とも政府の役人とも渡り合ったじゃないか! なんでたかが休日のランチくらいで、こんなに手のひらに汗をかいてるんだよ!)
自分に言い聞かせてみるものの、これまで経験してきた命の危機や仕事の緊張と、今日のこの「綺麗な女性との待ち合わせ」の緊張は、使う神経の種類がまったく別物なのだ。
腕時計の針が零時二十五分を指した、その時だった。
「……三上様?」
背後から、風に乗ってふわりと優しい花の香りとともに、聞き覚えのある美しい声がかけられた。
俺がハッとして振り返ると、そこには、休日の雑踏の中でそこだけスポットライトが当たっているかのように鮮やかに目を引く、東雲詩織さんの姿があった。
今日の彼女は、火曜日のようなかっちりとしたコート姿ではなく、柔らかなラベンダー色のニットに、歩くたびにふわりと揺れる白いロングスカートを合わせた、少しカジュアルで女性らしい私服姿だった。艶やかな黒髪はハーフアップに上品にまとめられ、耳元には小さなパールのイヤリングが控えめに揺れている。
「…………っ」
俺は思わず息を呑み、その場で二秒ほど固まってしまった。
事務所で見た時も信じられないくらいの美人だと思ったが、こうして明るい太陽の下で、柔らかな私服を着て微笑んでいる彼女は、さらに破壊力が倍増していた。周囲を歩いている通行人の男女が、すれ違いざまに思わず二度見していくのも無理はない。
「ごきげんよう、三上様。もしかして、ずいぶんお待たせしてしまいましたか?」
「あっ、い、いえ! 全然! 俺も今ちょうど着いたところですよ!」
本当は十五分前から直立不動で待っていたのだが、ガッツリ張り切って早く来ていたと思われるのが恥ずかしくて、俺はついそんな小さな見栄を張ってしまった。
詩織さんは俺のシャツとジャケット姿を上から下まで優しく見つめると、嬉しそうに目を細めて微笑んだ。
「ふふ、よかったですわ。今日の三上様も、普段のおスーツ姿とはまた雰囲気が変わって、とても素敵ですね」
「あ、ありがとうございます……。東雲さんこそ、その、すごくお綺麗で……最初、モデルさんかと思って緊張しちゃいました」
「まあ、お上手ですこと。でも、そう言っていただけて嬉しいですわ」
詩織さんが頬をわずかに染めて可憐に笑う。
俺は照れ隠しに周囲をちらりと見渡し、ふと気づいた疑問を口にした。
「あの、東雲さん。今日ももしかして、お一人ですか? 護衛の方とか送迎のお車は……」
「ええ、今日は一人で参りましたわ。三上様と、こうしてゆっくり二人でお話ししたかったものですから」
「そ、そうですか……。いや、火曜日に帰られる時、ビルの横で目の前から突然パッと消えちゃったじゃないですか。だから今日も、どこかの路地裏に瞬間移動で現れたのかなって少し気になりまして」
俺が声を潜めて尋ねると、詩織さんは口元にそっと白い指先を添えて、いたずらっぽく笑った。
「ふふ、ご安心ください。こんな人通りの多い駅前でいきなり現れたりしたら、皆様が驚いてしまいますもの。今日はちゃんと、少し離れた静かな場所から、ここまで歩いて参りましたわ」
「……あ、やっぱり『少し離れた場所』までは瞬間移動で来たんですね」
俺は思わず苦笑した。やはり彼女にとって、あの規格外の空間移動能力は、俺たちが電車やバスに乗るのと同じくらい日常的な移動手段らしい。
ただ、人目につかない場所で本人が便利に使っている分には、誰に迷惑をかけているわけでもない。問題はそこではないのだ、と俺は心の中で小さく頷き、「じゃあ、お店の方へ行きましょうか」と歩き出した。
*
駅から歩いて五分ほどの路地裏にある『洋食キッチン・ハヤシ』は、赤いテント屋根が目印の、昔ながらの小さな洋食屋だ。
カランコロンとドアベルを鳴らして店内に入ると、デミグラスソースとバターの香ばしい匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。全二十席ほどのこぢんまりとした店内は、木のテーブルにチェック柄のテーブルクロスが敷かれ、土曜日の昼時ということもあって、近所の家族連れやカップルで半分ほど席が埋まっている。
窓際の二人掛けのテーブル席に案内され、向かい合って腰を下ろした俺は、少しだけ不安になって詩織さんの顔を窺った。
「……あの、東雲さん。本当に、こんな庶民的なお店でよかったですか? 少し手狭ですし、東雲さんが普段行かれるようなお店とは勝手が違うんじゃ……」
「いいえ、とんでもございません! とても温かみがあって、素敵なお店ですわ」
詩織さんはメニュー表を手に取りながら、輝くような笑顔で店内を見渡した。
そこには、庶民の店を珍しがるようなわざとらしさも、居心地の悪そうな様子も一切ない。テーブルの上のカトラリーの位置や水差しにも自然に目を配っており、彼女が単なる箱入り娘ではなく、様々な場所や人と関わる実業家として、こういう街のレストランでの振る舞いも当たり前に身につけていることがよく分かった。
「三上様が普段から好んで通っていらっしゃる場所に来られただけで、わたくしはとても嬉しいのです。……ええと、どれも美味しそうで迷ってしまいますね。三上様のおすすめはどれですか?」
「俺はいつも、ここの特製デミグラスハンバーグのセットを頼みますね。お肉がジューシーで、ソースが本当に美味しいんですよ」
「まあ、ハンバーグ。素敵ですね。……では、わたくしは、こちらの昔ながらのオムライスをいただこうかしら」
店員さんを呼び、ハンバーグセットとオムライス、それに食後のホットコーヒーを二つ注文する。
メニューを返した詩織さんは、テーブルの上で両手を軽く組み合わせ、楽しそうに言った。
「三上様がハンバーグをお好きだと分かりましたから、次にこちらへ伺った時には、わたくしもハンバーグを頼んでみますわね」
「ああ、ぜひ! 本当に美味しいですから、次はぜひ食べてみてください……って、え?」
俺は笑顔で相槌を打ってから、ハッとして瞬きをした。
(……今、この人、すごく自然な流れで『次にこちらへ伺った時』って言わなかったか!?)
まだ一回目のランチの注文を終えたばかりだというのに、彼女の中ではすでに「二回目も一緒に来る」ことが既定路線になっているらしい。俺がドキマギしていると、詩織さんは何食わぬ顔でニコニコと微笑んでいる。
料理が運ばれてくるまでの間、詩織さんは俺の普段の生活について、本当に興味深そうにいろいろな質問をしてきた。
「三上様は、普段のお休みの日はどのようにお過ごしになるのですか? やはり、どこかへお出かけになったり?」
「いやあ、俺は全然ですよ。平日に仕事をしてると、土日はもう一歩も外に出たくなくなっちゃって。昼まで寝て、洗濯して、あとは部屋でゴロゴロしながら動画を見たりゲームをしたり……本当にだらしない休日ですよ」
「ふふ、だらしないなんてことはありませんわ。ご自分の落ち着くお部屋で、誰にも邪魔されずにのんびり過ごすお時間は、何よりの贅沢ですもの」
「そう言ってもらえると救われますけど……。東雲さんこそ、お休みの日とかはあるんですか? ご自分で事業をされてると、毎日お忙しいんじゃないですか?」
「ええ。海外とのやり取りもございますから、お休みの日でも急なご連絡が入って予定が変わってしまうことはよくありますね。ですから……」
詩織さんはそこで言葉を区切り、真っ直ぐに俺の瞳を見つめて、柔らかく微笑んだ。
「今日のように、お仕事を忘れて誰かとゆっくりお食事をしながらお話しできるお時間は、わたくしにとって、とっても貴重で特別なものなのです」
「…………っ」
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
直接「あなたが好きだ」と言われたわけではない。だが、その涼やかな瞳に宿る熱と、特別だと言ってくれる声の優しさに、三十四歳の独身男の免疫はまったく追いつかない。
やがて、熱々の鉄板に乗ったハンバーグと、鮮やかな黄色い卵に包まれたオムライスが運ばれてきた。
詩織さんは美しい所作でスプーンを持ち、オムライスを小さくすくって口へと運ぶと、パッと幸せそうに顔を輝かせた。
「……まあ、とっても美味しいですわ! 卵がふわふわで、中のチキンライスも懐かしいお味がします」
「お口に合ったならよかったです! ここのマスター、もう三十年以上ずっと一人で厨房に立ってるベテランなんですよ」
そこからは、お互いの好きな食べ物の話や、自炊はするのかといった、本当にどこにでもある普通の男女のランチの会話が弾んだ。
レトルトカレーばかり食べているという俺の情けない話にも、詩織さんは「最近のレトルト食品は本当に種類が豊富で凄いですわよね」と楽しそうに話を合わせてくれる。
気づけば、俺の中から「相手はヤクザのお嬢様でTier2疑惑の異能者だ」という緊張感はすっかり消え失せ、ただ純粋に、目の前の魅力的な女性との会話を心から楽しんでいた。
火曜日の昼前にマントルまで急降下したはずの好感度が、彼女の美味しいオムライスを食べる笑顔ひとつで、再びグングンと急上昇していくのを止められなかった。
――だからこそ。
食後の皿が下げられ、湯気の立つホットコーヒーが二人の前に置かれたタイミングで、俺は避けては通れない「あの話」と向き合わなければならないと腹を括った。
*
俺がコーヒーカップの取っ手に指をかけ、どうやって切り出そうかと言葉を探していた、まさにその時だった。
向かいに座る詩織さんが、自分のカップをソーサーにコトリと静かに置き、周囲の客席をさりげなく確かめてから少しだけ声を落とし、澄んだ瞳で俺を見つめて口を開いた。
「……三上様。ひとつ、わたくしからお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「え? あ、はい。なんでしょう」
「火曜日にわたくしが事務所から帰ったあと……榊原のおじ様や黒瀬様から、わたくしの普段のお仕事について、何かお聞きになったのではありませんか?」
「………………」
ピタリと、俺の呼吸が止まった。
(……来た。向こうの方から、真正面から切り出してきたぞ)
詩織さんの表情には、焦りも警戒もなく、ただ静かな好奇心と穏やかな微笑みだけが浮かんでいる。俺があのあと源治さんたちから「あいつは密輸と密入国を牛耳る大悪党だ」と吹き込まれるであろうことは、最初からすべてお見通しだったらしい。
ここで「いえ、何も聞いてませんよ」と笑って誤魔化せば、この楽しくて甘いランチの空気を壊さずに済むだろう。
だが、あんなにも真っ直ぐに俺と向き合ってくれる彼女に対して、上辺だけの嘘で取り繕うのは、どうしても嫌だった。
俺は背筋を伸ばし、彼女の目をしっかりと見返して頷いた。
「……はい。隠しても仕方ないので正直に言いますけど、親父さんたちから全部聞きました。東雲さんが空間移動の能力を使って、密入国や密輸の仕事に関わっているっていう話も」
「ええ、そうでしたのね。……それで、三上様は、そのお話を聞いてどう思われましたか?」
「どうって……」
俺は一瞬言葉を詰まらせ、少しだけ眉をひそめて慎重に言葉を選んだ。
「……その、せっかくお食事に誘っていただいたのに、こんなことを正直に言っていいのか分かりませんけど」
「もちろんですわ。わたくしは、三上様のお考えが知りたいのです」
「……俺は、やっぱりそういう仕事は良くないと思います」
俺ははっきりと言った。
「火曜日に東雲さんがおっしゃっていた、『人も物も自由に移動できるべきだ』っていう気持ち自体は、さっきお話ししていて嘘じゃないんだろうなって分かりました。困っている人を助けたい、必要な場所へ必要なものを届けたいっていう善意があるのも、理解できる部分はあります」
「……はい」
「でも、だからといって、国の法律や入国審査のルールを勝手に無視していい理由にはならないと思うんです。特に……黒瀬さんから聞いて一番引っかかったんですけど、東雲さんは依頼を引き受けたら、国際指名手配されてるような凶悪な犯罪者でも、海外へ逃がしてあげるんですよね?」
俺の問いかけに、詩織さんは少しも悪びれることなく、まるで天気の話でも肯定するかのように涼しい顔で頷いた。
「ええ。正式なご依頼としてわたくしがお引き受けしたお客様であれば、過去にどのような罪を犯された方であっても、望まれる場所へとお運びいたします」
「……それ、絶対に駄目ですよ、東雲さん」
俺の声に、自然と強い力がこもった。
「もし東雲さんが空間移動で別の国へ逃がしたその凶悪犯が、逃げた先の街でまた罪のない誰かを襲ったり、殺したりしたらどうするんですか? 法律で禁じられてる危険な薬や武器を運んだせいで、誰かの人生が壊れたらどうするんですか?」
「……三上様のおっしゃることは、とてもよく分かりますわ。そのような危険性があることも、わたくし自身、重々承知しております」
詩織さんが静かに頷くのを見て、俺は「おっ、ちゃんと分かってくれるのか?」と一瞬だけ期待した。
しかし、続く彼女の言葉は、俺のそんな淡い期待を軽々と飛び越えていった。
「ですが三上様。わたくしは、人がご自身の意思で望む場所へと移動する権利を、国家や法律という枠組みが一方的に奪い取ってよいとは、どうしても思えませんの」
「…………っ」
「その方がこれまでどのような人生を歩み、どのような罪を背負ってこられたとしても、それはそれとして、今この瞬間に『どこかへ行きたい』と願う移動の自由そのものまで否定されるべきではない……。わたくしは、人の善悪という問題と、移動の自由という問題を、まったく別のものとして考えているのです」
どこまでも澄み切った、一点の曇りもない瞳だった。
単なる金儲けだけで、こんな仕事を続けているわけではないのだろう。少なくとも、彼女が語る「移動の自由」という信念そのものは、本気なのだ。
俺は頭を抱えそうになるのを堪え、周囲に聞こえないよう声を抑えながら、テーブルに手をついてさらに食い下がった。
「い、いや、でも東雲さん! その犯罪者が行きたい場所へ行く自由があるっていうなら、その人が逃げてきた先の街で普通に暮らしている人たちの『安全に生きる自由』はどうなるんですか!?」
「……安全に生きる自由、ですか」
「そうですよ! 困っている旅人を助けるのと、人を傷つけた犯罪者が正当な罰から逃げるのを手助けするのは、絶対に同じ話じゃないでしょう!? 移動する自由が大事だっていうなら、その自由を使った結果として誰かが傷つくことに対しても、運んだ東雲さんにだって責任が発生するはずじゃないですか!」
前職の営業マン時代でも、ここまで熱くなって取引先に噛み付いたことはないというくらい、俺は必死になって言葉をぶつけていた。
相手は裏社会の大物で、俺より格上のTier2かもしれない異能者だ。こんなふうに真正面から彼女の生き方を否定したら、気分を害して席を立たれても、あるいは怒りを買ってもおかしくない。
それでも、俺は自分のなけなしの常識と倫理観を曲げて、「美人だからまあいいか」と笑って流すことだけは、どうしてもできなかったのだ。
俺の熱い反論を受けた詩織さんは、カップに視線を落としたまま、しばらくの間、静かに考え込むように沈黙した。
店内のBGMと、遠くの席の話し声だけが耳に届く。
やがて、詩織さんはゆっくりと顔を上げ、俺を見つめて穏やかに口を開いた。
「……なるほど。自由を認めるのであれば、その移動がもたらす結果の責任についても同時に背負わなければならない、と。……三上様のお考えは、本当によく理解できました。とても真っ当で、大切なお話だと思います」
「……! そうですか、分かってもらえましたか……」
「ええ。とても深く納得いたしましたわ」
俺がホッと胸を撫で下ろした、その直後。
詩織さんは、先ほどまでと寸分違わぬ、天使のように無垢で柔らかな微笑みを浮かべて言葉を続けた。
「ですが、だからといって、わたくしの考えや生き方が今日からすぐに変わるわけではございませんの」
「………………はい?」
「わたくしはこれからも、自分の信じる『移動の自由』に従って、わたくしのお仕事を続けていくつもりですわ」
「いや、そこは一ミリも変わらないんですか!?」
俺が椅子からずっこけそうになりながらツッコミを入れると、詩織さんは「ふふっ」と楽しそうに肩を揺らして笑い、申し訳なさそうに小さく頭を下げた。
「ごめんなさいね、三上様。せっかく真剣にお話ししてくださったのに、頑固な女で」
「いや、謝るところは絶対にそこじゃないですよ!?」
俺は天を仰いだ。
黒瀬さんが言っていた通りだ。この人は、こちらの意見を馬鹿にしたり聞き流したりはしない。真正面から真面目に受け止め、論理的に理解した上で、「それはそれとして、私は私の信念を貫きますね」と笑顔で言い切る、正真正銘の筋金入りの確信犯だったのだ。
*
全力で説教をしたはずが空振りに終わり、俺がどっと疲れてコーヒーを一口啜っていると、向かいの詩織さんが、なぜか先ほど以上に嬉しそうな、うっとりとした瞳で俺を見つめていることに気づいた。
「……あの、東雲さん」
「はい、なんでしょう?」
「俺、今、東雲さんが誇りを持ってやってるお仕事を、真正面からボロクソに否定しましたよね? 犯罪は駄目だって言いましたよね?」
「ええ。とてもはっきりと仰いましたわね」
「……気分を害されたり、怒ったりしてないんですか?」
俺が不思議に思って尋ねると、詩織さんはきょとんと目を丸くし、それから心底不思議そうに首を傾げた。
「まあ、どうしてわたくしが怒る必要があるのでしょう? 三上様は、わたくしの問いかけに対して、ご自身の誠実なお考えを正直に言葉にしてくださっただけではありませんか」
「……まあ、そうですけど」
「わたくし、三上様のそういうところが、本当に好きですわ」
「………………え?」
不意打ちのように落とされた『好き』という単語に、俺の思考回路がショートした。
「わたくしの立場や、東雲会という名前、あるいは空間移動という能力を知った方は、皆様どうしても遠慮をなさるのです。面と向かってわたくしの仕事を否定すれば不利益を被るのではないかと恐れて、お世辞を仰るか、見て見ぬふりをなさる方がほとんどですわ」
詩織さんはコーヒーカップを両手で包み込みながら、どこか寂しそうに、けれど今はとても満たされているような優しい声で続けた。
「あるいは逆に、わたくしの話を一切聞こうともせず、ただ頭ごなしに『悪党だ』『異常者だ』と決めつけて遠ざかる方もいらっしゃいます。……でも、三上様は違いました。わたくしが何を考え、何を願ってこの仕事をしているのかを一度きちんと聞いてくださった上で、それでも『間違っている』と、わたくしのためを思って真っ直ぐに叱ってくださった」
「……いや、俺はただ、自分の普通の感覚で危ないと思ったことを言っただけで、そんな立派なもんじゃ……」
「いいえ。ご自身の強いお力を少しもひけらかさず、普段のお仕事を大切にし、誰に対しても誠実で、間違っていることには相手が誰であろうとちゃんと言葉を尽くして向き合ってくださる……。わたくしには、そんな三上様が、他の誰よりも魅力的に映るのです」
「…………っ!!」
俺は顔面から火が出るかと思うほど一気に熱くなり、慌てて視線をテーブルの隅へと逸らした。
なんてこった。嫌われる覚悟で「犯罪は駄目だ」と説教をしたはずなのに、なぜか相手からの好感度がさらに跳ね上がって、こんな超絶美人から真正面から「魅力的だ」と告白めいたことまで言われてしまっている。
すると詩織さんは、真っ赤になっている俺を見て微笑ましそうに目を細め、ふと火曜日の会話を思い出したように言った。
「そういえば三上様は、久我のおじ様からの好条件のお誘いもお断りになって、今の汐見総合管理でのお仕事と暮らしを選び続けていると伺いました」
「あ、ああ……はい。まあ、あそこは時給もいいですし、森田さんや小野寺君たちもいて居心地がいいですからね」
「それだけの強いお力があれば、もっと華やかな場所へ行くことも、もっと自由な暮らしを手に入れることも簡単にできるはずなのに、不思議ですわね」
「そうですかね? 俺からすれば、どこへでも行ける力があるからって、必ずしも今いる場所を捨ててどこかへ行かなきゃいけないわけじゃないと思うんですよ。自分が『ここが好きだ、ここにいたい』って思える場所があるなら、自分の意思でそこに留まり続けるのだって、立派な自由じゃないですか」
俺が何気なくそう答えると、詩織さんはハッとしたように目を見開き、しばらくの間、俺の言葉を反芻するように黙り込んだ。
そして、やがてその唇に、今日一番の深く美しい笑みを浮かべた。
「……『自分の意思で、好きな場所に留まり続ける自由』、ですか。……ふふ、なるほど。確かに、その通りですわね。わたくし、移動することばかりに目を向けていて、そのような自由の形があることを忘れていたかもしれません」
同じ『自由』という言葉でも、国境を越えてどこへでも飛び回ろうとする彼女と、自分の半径数メートルの平穏な日常を守ろうとする俺とでは、見ている方向がまるで違う。
それでも、他人に強制されるのではなく「自分の意思で選ぶ」という根っこの部分で、ほんの少しだけ、お互いの言葉が触れ合ったような気がした。
*
午後一時半頃。
コーヒーを飲み終え、そろそろ店を出ようかと俺が伝票に手を伸ばした時、詩織さんが素早く自分のバッグから上品な革の財布を取り出した。
「三上様、本日はわたくしの方から無理にお誘いしたのですから、ここはわたくしにお任せくださいな」
「あ、いやいや! そういうわけにはいきませんって! 俺の方が年上ですし、お店を選んだのも俺ですから、ここは俺が払いますよ!」
「まあ、そんな、お気になさらないでくださいまし」
レジの前で伝票を巡って押し問答になりかけた俺は、彼女の財布の中に並んでいるブラックカードやら何やらの眩しい輝きを視界の端に捉え、現実的な折衷案を提示した。
「……あの、東雲さん。じゃあ、今日はきっちり『割り勘』ってことにしませんか? ご自分の食べた分は自分で払うってことで」
「割り勘、ですか?」
「はい。俺、いくら東雲さんがお金持ちでも、女性に自分の昼飯代まで奢ってもらうのは、その、男としてちょっと格好がつかないというか、対等にお話しできなくなっちゃう気がするので……」
俺が恥ずかしさを忍んで正直にそう言うと、詩織さんは少しだけ驚いたように瞬きをし、それからすぐに「承知いたしました。三上様がそうおっしゃるのでしたら」と嬉しそうに頷いて、自分のオムライスとコーヒーの代金だけをきっちりと財布から出してくれた。
(……ふう、よかった。こういうところで変にプライドを振りかざさず、こちらの気持ちを汲んでくれるところは本当に素敵なんだよな)
ところが、店を出て明るい路地へと出た直後、詩織さんは俺の隣に並びながら、さらりと爆弾を落としてきた。
「では三上様、本日は割り勘にしていただきましたから、次回お食事に行く時は、わたくしにご馳走させてくださいね?」
「え? あ、はい、じゃあその時はお願いしようかな……って、いや、待ってください! 今、さらっと次回の約束を取り付けませんでした!?」
「ふふ、だって今日のお食事、本当に楽しかったものですから」
悪戯っぽく笑う彼女の横顔を見ながら、俺たちは駅の方へとゆっくりと並んで歩き出した。
休日の昼下がりの穏やかな風が、街路樹の葉を揺らして吹き抜けていく。
俺は隣を歩く彼女の姿を横目で見ながら、なんとも言えない不思議な気分に包まれていた。
さっきの店内での議論で、俺と彼女の価値観が根本的なところで相容れないことははっきりと分かった。彼女はこれからも違法な密輸や密入国の仕事をやめる気はないし、俺もそれを「いいことだ」と認めることは絶対にできない。
それなのに、こうして並んで歩いている空気は驚くほど心地よくて、気まずさなど微塵もなかった。
駅のロータリーが見えてきたところで、詩織さんがふと足を止め、俺を見上げた。
「三上様。この後は、そのまま電車でご自宅へお帰りになるのですか?」
「ええ、そのつもりですけど」
「でしたら、もしよろしければ……わたくしの力で、ご自宅の近くまでお送りいたしましょうか?」
「……え?」
俺は一瞬意味が分からず、それから「ああ、空間移動でか!」と合点がいった。
確かに、彼女に手を取ってもらえば、面倒な乗り換えも電車の待ち時間もなく、一瞬で自分のアパートの目の前まで帰ることができるだろう。火曜日にあれほど羨ましがっていた「通勤・移動時間ゼロ」の夢の体験だ。
だが、俺は少しだけ迷ってから、穏やかに首を横に振った。
「……いえ、お気持ちはすごくありがたいんですけど、今日はこのまま普通に電車に乗って帰りますよ」
「そうですか? かしこまりました」
俺が断ると、詩織さんは少しも不満そうな顔を見せず、あっさりと頷いた。
「あれ、せっかく提案してくれたのに、断っちゃってよかったですか?」
「もちろんですわ。先ほど三上様ご自身が仰ったではありませんか。どう移動するかも、どこに留まるかも、ご本人の意思が一番大切なのだと。わたくし、誰かを無理やり移動させたいわけではございませんもの」
そう言って微笑む彼女を見て、俺は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
本当に、困った人だ。
彼女のやっている仕事が紛れもない犯罪であるという事実は、これからも変わらない。だが、少なくとも俺という個人に対して、彼女は最初から最後まで驚くほど誠実で、優しくて、俺の小さな意思やプライドを何よりも尊重してくれている。
もし彼女が、こちらの都合もお構いなしに能力を振り回すような傲慢な悪女だったなら、どんなに簡単に嫌いになれただろう。こんなふうに素敵な一面ばかりを目の前で見せつけられてしまったら、俺の単純な心は、どうしても彼女という人間に惹きつけられてしまうではないか。
*
午後二時。
多くの人々が行き交う駅の改札の前で、俺たちは向かい合って立ち止まった。
「三上様。本日は急なお誘いだったにもかかわらず、お時間を作ってくださって本当にありがとうございました。オムライスも、三上様とのお話も、とっても楽しかったです」
「いえいえ、こちらこそ! あんなに生意気なことばかり言っちゃいましたけど、東雲さんとお話しできて、俺も……その、すごく楽しかったです」
俺がお世辞抜きで素直にそう伝えると、詩織さんの白い頬がふわりと桜色に染まり、その涼やかな瞳が嬉しそうに細められた。
「……三上様。わたくし、また近いうちに、こうして三上様をお誘いしてもよろしいでしょうか?」
真っ直ぐな視線でそう尋ねられ、俺は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
頭の中の理性では「相手は裏社会の密輸女王だぞ、これ以上深入りするのは危険だ」と警報が鳴っている。
しかし、ここまで一緒に過ごしてきて、彼女のあの美しい笑顔を前にして「もう会いません」などという冷たい言葉が、俺の口から出てこようはずもなかった。
「……まあ、その、俺でよければ。また休みの予定が合う時にでも、ぜひ」
「まあ! ありがとうございます、三上様! 約束ですわよ?」
少女のように無邪気に喜ぶその姿に、俺もつられて小さく笑ってしまった。
すると詩織さんは、別れ際の一歩を踏み出す前に、ふと悪戯っぽく小首を傾げ、俺の顔を覗き込むようにして言った。
「……それにしても、三上様」
「はい?」
「本日のお食事を、三上様も『デート』だと思ってくださっていたら、わたくしはとても嬉しいのですけれど」
「………………」
ピシッ、と俺の全身が改札の前で完全に硬直した。
「……え? で、デート、ですか?」
「ふふ。だって、わたくしは最初から、三上様との初デートのつもりでお誘いいたしましたのよ?」
「……ええええええっ!?」
俺の顔面が、耳の先端から首筋に至るまで、茹で上がったタコのように一気に真っ赤に沸騰した。
(ま、待って待って待って!! 本当にデートだったのかよ!? いや、電話を切ったあとに俺も一人で『これってデートかな』ってちょっと浮かれたりはしたけど、まさかあの東雲詩織さんの方が、最初からガチで男女のデートのつもりで俺を誘ってたなんて!!)
パニックになって目を白黒させている俺を見て、詩織さんはとても楽しそうにクスクスと笑っている。
俺は慌てて周囲の目も気にせず、必死になって確認した。
「あ、あの、東雲さん!? なんかすごく誤解されてる気がしますけど、俺、時給二千五百円で働いてるただの派遣社員ですよ!?」
「ええ、存じておりますわ」
「年齢だって三十四歳のおっさんですし、貯金だって大してないですし、特別な地位があるわけでもないんですよ!?」
「はい、それも伺っております」
「……しかも俺、さっき東雲さんのお仕事に対して、犯罪は絶対に駄目だって真っ向から反対しましたよね!?」
「ふふ。ええ、そちらも大変よく分かりましたわ」
「………………」
俺は完全に言葉を失った。
駄目だ。この人には、俺の持つネガティブな要素も、価値観の決定的な対立も、何ひとつブレーキにならないらしい。すべてを把握した上で、なお俺に向かって好意をぶつけてきているのだ。
「お立場や年齢がどうであれ、わたくしが三上様という方をとても素敵だと思い、もっと深く知りたいと願っているのは、何ひとつ嘘のない本当のことですわ」
詩織さんはそう言ってから、思い出したようにスマートフォンを取り出した。今後は職場を通さず直接誘いたいので、よろしければ連絡先を交換してほしいという。俺は一瞬、密輸女王に自分の番号を渡すのかと身構えたが、結局、また会いたい気持ちの方が勝ってスマートフォンを取り出した。お互いの連絡先を登録し終えると、詩織さんは嬉しそうに微笑み、周囲の人が振り返るほど優雅で美しい一礼をした。
「それでは三上様、またお電話させていただきますね。どうぞ良い週末をお過ごしくださいませ。ごきげんよう」
「あ、は、はい……! 今日はありがとうございました、気をつけて!」
俺がロボットのようにぎこちなく頭を下げると、詩織さんはもう一度だけ柔らかな微笑みを残し、駅の雑踏の中へと静かに歩いて去っていった。
俺は改札の真ん中で、遠ざかっていく彼女のラベンダー色の背中を、魂が抜けたように呆然と見送り続けた。
(……え? 俺、今、人生でかつてないほど華やかで幸せなモテ期のど真ん中にいるのでは……?)
思わず浮かれそうになったが、胸の奥には簡単に整理できない気持ちも残っていた。
(……でも、また会いたいとは思ってるんだよな)
俺は自分の矛盾に苦笑しながら、改札へと向かったのだった。
*
土曜日の午後。
電車に揺られて自分のアパートへと帰り着いた俺は、玄関で革靴を脱ぎ捨てるようにして部屋へ上がり、そのままソファへと倒れ込んだ。
「……はあああああああああ……」
肺の中の空気をすべて吐き出すような、長く深い溜息が天井へと昇っていく。
目を閉じれば、今日の昼下がりの出来事が、まるで映画のワンシーンのように鮮やかに蘇ってきた。
香ばしいデミグラスソースの匂い。オムライスを美味しそうに頬張る彼女の無邪気な笑顔。俺のつまらない休日の話に目を輝かせて聞き入ってくれた優しい態度。
そして、別れ際に告げられた、『わたくしは最初から、そのつもりでしたのよ』という甘い言葉。
俺はソファの上で仰向けになり、両手で自分の熱い顔を覆った。
(……本当にデートだったんだな。三十四年間、女性とまともな縁がなかったこんな俺のことを、あんなお姫様みたいに綺麗な人が、本気で気に入ってくれてるなんて……)
男として、嬉しくないはずがない。むしろ、胸の奥がこそばゆくて、今すぐベッドの上で転がり回りたいくらいだ。
だが、すぐに俺の冷静な脳みそが、冷水を浴びせるように現実を突きつけてくる。
(……でも、どんなに優しい人だろうと、あの密輸と密入国の仕事をやめる気はないんだよなあ……)
俺は両手で頭を抱え、ソファの上でゴロゴロと悶絶した。
どう考えても駄目だろう。真面目な小市民として生きてきた俺が、絶対に付き合ってはいけないタイプの危険人物ナンバーワンだ。
それなのに、困ったことに、俺の心はすでに「また彼女に会いたい」「またあの笑顔で俺の話を聞いてほしい」と強く願ってしまっているのだ。悪党だと頭では分かっているのに、彼女自身の持つあの底なしの優しさと魅力から、どうしても目を逸らすことができない。
そこでふと、俺は今日自分が何をするつもりであの洋食屋へ向かったのかを思い出し、ピタリと動きを止めた。
(……あれ? ちょっと待てよ。俺、今日はあの人に『密輸や密入国なんていう犯罪は絶対に駄目です』って、社会人としてガツンと釘を刺しに行ったんじゃなかったっけ?)
確かに言ったはずだ。凶悪犯を逃がすなとも言ったし、自由には責任が伴うとも熱弁した。
それなのに、結果はどうだ。
彼女は一切改心しなかったばかりか、なぜか俺の説教を聞いてさらに俺のことを好きになり、次回は自分がご馳走するという口実で二度目のデートの約束までしっかりと取り付けられて帰ってきてしまったではないか。
俺は薄暗いアパートの天井を仰ぎ見ながら、自分の置かれたあまりにも不条理で甘酸っぱい絶望に向かって、魂の底からの叫びを張り上げた。
「……俺、密輸と密入国は駄目だって真面目に説教してきたはずなのに、なんでよりによって次のデートの約束までバッチリ取り付けられて帰ってきてるんですかあああああああっ!?」
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