派遣社員、うっかり極道の跡目に選ばれる ~歴代親分の異能を継いだ俺、最強のヤクザになるらしい~ 作:パラレル・ゲーマー
週末の休みは、本当にあっという間に終わってしまう。
日曜日の夜に感じるあの特有の憂鬱さも、月曜日の朝を迎えてネクタイを締め直せば、自然と仕事モードに切り替わる。社会人の悲しい性というやつだ。
株式会社汐見総合管理に勤め始めて、今日で三週目の月曜日。
事務所の前には相変わらず黒塗りの高級セダンが停まり、頬に古い傷のある強面の男が立っていた。
「おはようございます」
「おお、三上さん! おはようございます! 今週もよろしくお願いします!」
男は野太い声で挨拶を返し、わざわざガラス扉を開けてくれた。
二週間前なら目を合わせるのも怖かった相手だが、今では普通に挨拶できる。見た目は恐ろしいものの、俺にはとことん親切なのだ。
オフィスに入ってほどなく、背後から事務所の責任者である黒瀬修一がやって来た。
「「「お疲れ様です!!!」」」
フロアにいた男たちが一斉に立ち上がり、直立不動で頭を下げる。さすがにこの大合唱にはまだ肩が少し跳ねるが、俺まで同じことを求められたことはない。外部から来ている派遣社員だからだろう。
「おお、ご苦労。今週も頼むぞ」
黒瀬は部下たちに短く声をかけてから、こちらへ歩み寄ってきた。
「三上さん、おはようございます。週末はゆっくり休めましたか?」
「あ、はい。おはようございます、黒瀬さん。おかげさまで」
「それはよかった。今日も一日、よろしくお願いしますね」
本当に、俺に対してはどこまでも紳士的で丁寧だ。
つい先日、この事務所の奥で失敗した若い衆を殴り飛ばしていた男とは到底思えない。若頭という裏の顔を知っていても、自分への対応が良いものだから、どうにも気持ちが複雑になる。
(ヤクザの事務所だってことさえ頭から締め出せば、本当にホワイトで居心地のいい職場なんだよなあ……)
俺は自分の中の危機管理能力に目隠しをしながら、自席へと向かった。
パソコンを立ち上げて今日の仕事を確認していると、事務の森田志保が声をかけてきた。
「三上さん、おはようございます。先週お話ししていた、奥の応接室の大掃除の件なんですけど、今日の午前中にやっちゃってもいいですか?」
「あ、森田さん。おはようございます。ええ、もちろん大丈夫ですよ。俺の方はいつでも動けますから」
ずっとエクセルのセルと睨めっこしているよりは、たまには身体を動かして気分転換するのも悪くない。
「ありがとうございます。小野寺君も一緒にやってくれることになっているので、重い家具の移動なんかは彼に任せちゃいましょう」
「おざっす! 三上さん、今日もよろしくお願いします!」
噂をすればなんとやら、デスクの島をぐるりと回り込んで、小野寺亮太が顔を出した。
年齢は二十五歳。言葉遣いは荒いが、俺の話を素直に聞いてくれる気のいい若者だ。このところ、エクセルの使い方を教えたのをきっかけに、やたらと慕ってくれている。
「よろしくね、小野寺君。力仕事は頼りにしているよ」
「任せてください! 俺、頭はアレですけど、体力と筋力だけは自信あるんで!」
ドンッと胸を叩く小野寺。すっかり仲の良い先輩と後輩のような関係が出来上がりつつある。
俺たちはバケツや雑巾、モップ、はたきなどの掃除道具を抱え、事務所の奥へと向かった。
*
森田さんの案内に従い、普段は立ち入らない事務所の奥の廊下を進む。
一番突き当たりにある、重厚な木製の引き戸の前で森田さんが立ち止まり、ゆっくりと戸を開け放った。
「うわ……」
俺は思わず感嘆の声を漏らした。
そこには、表の雑居ビルのような外観からは想像もつかない、本格的で広大な和室が広がっていたのだ。
広さは二十畳ほどだろうか。青々とした真新しい匂いではないが、手入れの行き届いた古い井草の香りがする。壁には力強い筆致の書画が掛けられ、中央には黒光りする無垢材の巨大な座卓が鎮座している。
床の間には見事な掛け軸と、年季の入った木箱が置かれ、さらに部屋の最奥、一段高くなった場所には、ひときわ立派な白木の神棚が設けられていた。
「すごいですね……不動産管理会社の応接室というより、時代劇のセットみたいだ」
「ふふ、驚きました? ここは普段、組長……ええと、社長がいらした時や、特別な顔合わせの時にしか使わない部屋なんですよ。だから普段から埃が溜まらないように気をつけてはいるんですけど、どうしても隅の方とかは汚れちゃって」
森田さんが苦笑しながら説明してくれる。
ヤクザの事務所なんだから、こういう重厚な部屋があっても不思議ではない。むしろ「それっぽさ」の塊みたいな空間だ。
俺は部屋を見渡し、特に気になった神棚の方へと視線を向けた。
神棚の下には、小さな白木の祭壇のような供物台があり、そこにポツンと、一つの盃が安置されていたのだ。
浅く、平たい、昔ながらの朱漆塗りの盃。縁のあたりには擦れた金蒔絵のような装飾が微かに残っているが、全体的にひどく古ぼけて見えた。美術品としての華やかさはなく、ただ圧倒的な『歴史』だけをそこに留めているような、奇妙な存在感があった。
「小野寺君、あの盃もずいぶん古そうだけど、骨董品かなにか?」
俺が小声で尋ねると、小野寺は少し顔を引き締めて頷いた。
「ああ、あれは特別っす。うちの親父……組長が、昔から一番大事にしてる家宝らしいんすよ」
「へえ、家宝。やっぱり高いのかな」
「値段とかは俺ら下っ端には分かんないっすけど。なんでも、うちの一家が江戸時代からずっと受け継いできたもんだとかで。絶対に素手で触るな、汚すなって、黒瀬の兄貴からもきつく言われてるんすよ」
江戸時代!?
俺は内心で目をひん剥いた。そんな時代から続いている組織なのか、ここは。
「そういえば、小野寺君。ここの組って、なんて名前なの?」
「榊原一家っすよ。えっ、三上さん、まだ聞いてなかったんすか?」
「聞いてないよ! 俺は汐見総合管理に派遣されてきただけなんだから!」
「あ、そっか。そうっすよね!」
榊原一家。初めて聞くその名前からして、いかにも古い極道の組織らしい。フロント企業だというのは薄々察していたが、まさか江戸時代から続く一家だとは思わなかった。
「なるほどね……じゃあ、掃除の時もあれには絶対に触れないようにしないとな」
「そうっすね。もし傷でもつけたら、兄貴に東京湾に沈められちまうかもしれないっすから」
小野寺は冗談めかして笑ったが、俺の背筋には冷たい汗が流れた。
あの黒瀬なら、冗談抜きでやりかねない。先日の『指導』の光景がフラッシュバックし、俺は盃からそっと距離を取った。
「三上さん、小野寺君。神棚とその周辺の祭壇には触れなくて大丈夫です。私の方で後で専用の布で拭きますから。お二人は、座卓の移動と、畳の拭き掃除、それから壁際の棚の埃落としをお願いできますか?」
「分かりました。小野寺君、まずはあの真ん中のテーブルを端に寄せようか」
「おざっす!」
森田さんの指示を受け、俺たちは手分けして大掃除を開始した。
*
「よいしょ……っと。やっぱり小野寺君は力あるねえ」
「余裕っすよ! こんなの、毎朝の筋トレに比べたら準備運動にもならないっす!」
「頼もしいね。三十代になると、こういう無垢材の机は腰にくるんだよ」
巨大な座卓を軽々と持ち上げて部屋の隅へと移動させる小野寺を見ながら、俺は苦笑した。
小野寺は額に少し汗をかいているものの、息一つ乱していない。腕の筋肉の隆起がシャツの上からでも分かる。若さというのもあるだろうが、やはり日頃から鍛え方が違うのだろう。
掃除は順調に進んでいた。
俺は固く絞った雑巾で畳の目に沿って水拭きを進め、森田さんは床の間の古い備品を整理している。小野寺は脚立を持ち出し、壁際に並んでいる高い棚の上の埃をハンディモップで落としていた。
「三上さーん、この棚の上、めっちゃ埃溜まってますよー。げっほ、げっほ」
「あんまり派手に叩かないでよ、下に落ちてくるから。優しく絡め取る感じで」
「了解っす!」
和気藹々とした、どこにでもある大掃除の風景。
このまま何事もなく、午前中のうちに綺麗に終わるはずだった。
悲劇は、ほんの小さな不注意から起きた。
小野寺が棚の端までモップをかけ終わり、「よし、次こっちっすね」と脚立を降りた時だ。
彼は脚立を折りたたまずに、そのまま横にずらして移動させようとした。しかし、脚立の足のゴム部分が畳の縁に引っかかり、小野寺はバランスを崩して大きくよろけた。
「おっとっと……!」
バタバタと足を踏み鳴らし、なんとか転倒は免れた小野寺。
しかし、彼が握っていたアルミ製の脚立の先端が、弧を描いて部屋の奥へと振り回される形になってしまった。
ガンッ。
乾いた音が、静かな和室に響いた。
脚立の先端が、あろうことか、あの神棚の下に置かれていた白木の祭壇――供物台の角に、クリーンヒットしたのだ。
「あ」
小野寺の口から、間の抜けた声が漏れた。
俺も、畳を拭いていた手を止めて顔を上げた。
供物台が、ガタッと大きく揺れる。
その上に安置されていた、江戸時代から続くという朱漆塗りの古い家宝の盃。
それが、揺れに耐えきれず、ツルリと台の端へと滑り出していくのが見えた。
時間が、まるでスローモーションのように引き伸ばされて感じられた。
盃が台から離れ、重力に従って畳へと落下していく。
(……あ、やばい。あれ絶対高いやつだ)
(割れる。傷がつく。黒瀬に殺される。東京湾。ドラム缶。コンクリ)
脳内を最悪の連想ゲームが駆け巡った瞬間、俺の身体は考えるよりも先に動いていた。
手に持っていた雑巾を放り捨て、畳を蹴って前へと飛び出す。
手すりのない階段から落ちる子供を助けるような、完全な無意識の反射だった。
ズサーッ! と畳の上を滑り込むようにして、俺は両手を前へと突き出した。
ポスッ。
微かな手応え。
俺の開いた両掌の中に、冷たい漆の感触がすっぽりと収まった。
畳に激突する寸前、その表面からわずか数センチのところで、俺は奇跡的に盃をキャッチすることに成功したのだ。
「…………あっぶねえええ!!」
俺は畳に這いつくばったまま、魂の底から安堵の声を絞り出した。
心臓がバクバクと早鐘を打っている。嫌な汗が全身から吹き出していた。
「み、三上さんっ!!」
小野寺が顔面を蒼白にして駆け寄ってくる。
「す、すんません! 俺がうっかり……! わ、割れてないっすか!? 傷ついてないっすか!?」
「だ、大丈夫……大丈夫だよ。ほら、どこも欠けてない」
俺はゆっくりと身を起こし、両手で包み込むように持っている盃を小野寺に見せた。
朱色の表面に傷はない。ヒビも入っていない。なんとか無事に救出できたようだ。
「よ、よかったぁぁ……! マジで心臓止まるかと思った……三上さん、本当にありがとうございます! 俺、マジで命の恩人っす!」
「いやいや、大袈裟だな。でも本当に危なかったから、気をつけてよ。とりあえず、これ早く元に戻そ――」
そこまで言いかけた、その時だった。
俺の両掌に収まっている盃に、異変が起きた。
最初は、部屋の照明が反射したのかと思った。朱漆の表面に、ツヤっとした光沢が走ったように見えたのだ。
だが、違う。
光は外からの反射ではなく、盃そのものの内側から滲み出していた。
「……ん?」
俺は目を細めた。
淡い金色の光。それが盃の縁の金蒔絵をなぞるように走り、やがて朱色の内側全体へと広がっていく。
まるで、盃の中に小さな太陽でも閉じ込めているかのように。
「……え?」
小野寺も、俺の手元を見て動きを止めた。
直後。
カッ!! と。
目を開けていられないほどの強烈な黄金色の光が、盃から和室全体へと爆発的に放たれた。
*
「うおっ!? な、なんだこれ!?」
俺は目を細め、顔を背けながら叫んだ。
和室全体が、神々しいほどの黄金色の光に包み込まれている。壁の書画も、黒光りする座卓も、すべてが淡い金色に染まっていた。
光源は間違いなく、俺が手に持っている古い盃だ。
パニックに陥りそうになる頭で、俺は必死に状況を理解しようとした。
(なにこれ!? LEDでも仕込まれてるの!? いやいや、電源も電池もないだろ! じゃあなんだ、俺が触ったせいで何か化学反応でも起きたのか!?)
熱くはない。
これだけ強烈な光を放っているのに、盃を包み込んでいる掌には火傷するような熱さも、電流のような痛みも一切感じなかった。
ただ、とても不思議な感覚があった。
掌が触れている部分から、ドクン、ドクンと、静かな脈動のようなものが伝わってくる。そして、何かが――温かくて、とても清涼な何かが、盃から俺の腕を伝って、身体の奥深くへと流れ込んでくるような感覚。
フッ、と。
長年溜まりに溜まっていた慢性的な肩こりや、腰の重さ、寝不足による頭の芯の霞みが、嘘のようにスッと消え去っていくのを感じた。
身体が、羽が生えたように軽い。
(……なんだ? すげえ身体の調子が良くなった気がするけど……いや、それどころじゃない!)
俺は助けを求めて横を見た。
「お、小野寺君!? これ何!? なんかめっちゃ光ってるんだけど!?」
しかし、頼みの綱の小野寺は、完全に機能停止していた。
「…………」
目を見開き、口を半開きにしたまま、彫像のように固まっている。
「小野寺君!?」
「……ひ、光った」
「いや、見れば分かるよ!!」
「親父の……盃が……光った……」
「だから光ってるって!! これどうすんの!? 俺、なんかヤバいスイッチ押しちゃった!?」
いくら揺さぶっても、小野寺は真っ青な顔で譫言のように同じ言葉を繰り返すだけだった。
普段のお調子者な態度は微塵もなく、まるで世界の終わりでも目撃したかのような絶望的な表情だ。
そこへ、奥の床の間で作業をしていた森田さんが、ただならぬ気配に気づいて駆け寄ってきた。
「どうしたの、二人とも……って」
森田さんは、俺の手の中で爛々と輝き続ける盃を見て、ピタリと動きを止めた。
「…………え?」
絶句。
あの、ヤクザが部下をボコボコに殴り飛ばしていても「お茶入りましたよ」と涼しい顔をしていた、鋼のメンタルを持つ森田志保が。
持っていたはたきを畳に取り落とし、両手で口元を覆って、本気で驚愕の色を顔に浮かべている。
(……ちょっと待って)
俺の心の中に、急速に巨大な不安が膨れ上がっていった。
(森田さんまでその反応なの!? これ、本気でヤバいやつなんじゃないの!?)
ヤクザの事務所で。
江戸時代から続く組長の大事な家宝を。
俺が触ったら、謎の異常発光を起こした。
弁償とかそういうレベルの話じゃない気がする。オカルトだ。呪いだ。俺はもしかして、触ってはいけない呪いのアイテムを起動させてしまったのではないか。
数十秒が経過しただろうか。
永遠にも思えた発光現象は、やがてスゥーッと波が引くように収まっていった。
黄金色の光が薄れ、和室は元の静けさと薄暗さを取り戻す。
俺の手の中には、ただの古ぼけた朱漆塗りの盃が残された。しかし、身体の奥に残るあの温かな感覚と、異常なほどの身体の軽さだけは確かに存在していた。
「……お、終わった?」
俺は息を呑みながら呟いた。
その声で、ようやく森田さんが我に返った。
彼女は鋭い声で指示を飛ばした。
「小野寺君!! 今すぐ黒瀬さんを呼んできて!! 走って!!」
「は、はいっっ!!!」
小野寺は弾かれたように立ち上がると、和室の引き戸を蹴破るような勢いで飛び出し、廊下を爆走していった。
取り残された俺は、盃を持ったままどうしていいか分からず、オロオロと森田さんを見た。
「あの、森田さん……これ、どうしたらいいですか? 床に置いた方がいいですか?」
「三上さん、お願いです。ひとまず、そのまま一切動かさないでください」
「は、はい!」
森田さんの声には、これまで聞いたこともないような切迫感が混じっていた。
「お怪我はありませんか? どこか痛むところは?」
「あ、いえ、怪我は全くしてないです。熱くもなかったですし……あの、これ、弁償とかした方がいいんでしょうか。給料から天引きで構わないんですけど……」
「そういう話ではないと思います」
「そういう話じゃない!? じゃあ、もっとヤバい話なんですか!?」
俺が半泣きになりかけたその時、廊下からドタバタと無数の足音が近づいてきた。
「三上さん!!」
バンッ! と引き戸が激しく開け放たれ、黒瀬が飛び込んできた。その後ろには息を切らした小野寺と、事務所にいた組員たちが数人続いている。
いつもの冷静沈着で理知的な黒瀬の姿はそこにはなかった。
目は大きく見開かれ、ネクタイは少し曲がり、額には汗が滲んでいる。
黒瀬は足早に俺の前に歩み寄り、俺の手の中にある盃を、食い入るように見つめた。
「……本当に、光ったんですか?」
「え? あ、はい。床に落ちそうになったのを受け止めたら、突然、金ピカに光りまして……」
「どこかお怪我は!? 身体に異常は!?」
「いや、怪我はしてません。むしろなんか肩こりが治ったというか、体調はいいくらいで……」
黒瀬は次に、森田さんと小野寺へと鋭い視線を向けた。
「お前らも、この目で間違いなく見たのか」
「はい! 間違いないっす! 部屋中が真っ金金になりました!」
「私も確認しました。間違いなく、盃自体から光が放たれていました」
二人の証言を聞いた瞬間、黒瀬の顔つきが劇的に変わった。
驚き。動揺。そして、何かの確信を得たような、畏怖にも似た緊張感。
黒瀬は振り返り、組員たちに向かって怒鳴るような声で指示を飛ばした。
「小野寺! 今すぐ親父に連絡しろ! 緊急事態だと伝えろ!」
「はいっ!!」
「ほかの連中は部屋から出ろ! 親父が来るまで、ここには誰も勝手に入れるな! アリ一匹通すな!」
「「「了解です!!」」」
組員たちが一斉に散っていく。和室の扉は外からピシャリと閉められ、室内には俺と黒瀬、森田さんの三人だけが残された。
俺は完全に置いてけぼりだった。
(……あれ? なんか、とんでもないことになってないか?)
親父、と言った。
黒瀬のさらに上の人間。つまり、この株式会社汐見総合管理というフロント企業を裏で取り仕切る、本物の極道の組長だ。
その組長を、わざわざ緊急で呼び寄せるほどの事態。
(俺、ただ時給二千五百円で掃除の手伝いをしてただけなんだけど!? なんで本職のトップが出てくることになってんの!?)
「三上さん、とりあえず、盃を持ったままそちらの座布団にお掛けになっていてください」
「あ、はい……」
「親父がすぐこちらへ向かいます。詳しい話は、すべてその時に」
「……あの」
「はい」
「俺、殺されたりしませんよね?」
「……ご心配なく。あなたに危害を加えるようなことは、天地神明に誓ってありません」
黒瀬のその声は、なぜか普段の丁寧さよりもさらに一段階上の、絶対的な敬意を含んでいるように聞こえた。それが逆に俺の恐怖を煽った。
*
それから一時間弱。
俺が正座で足の感覚を失いかけていた頃、会社の外が騒がしくなった。
窓の外に、黒塗りの高級車が何台も連なって停まる音が聞こえる。
続いて、事務所のフロアから「お疲れ様です!!」「親父、お疲れ様です!!」という、かつてないほど巨大な挨拶の合唱が響き渡った。
(来た……ついに本物が来ちゃったよ……)
俺は座布団の上で亀のように身を縮めた。帰りたい。いますぐタイムカードを切って帰りたい。まだ午前十一時だけど、早退扱いでいいから帰らせてほしい。
バンッ!!
和室の引き戸が、乱暴に勢いよく開け放たれた。
「どこだ!! 盃は!!」
部屋に入ってきたのは、六十代後半と思われる初老の男だった。
白髪交じりの短い髪。顔には深く険しい皺が刻まれている。仕立ての良い和装を羽織り、身長はそれほど高くないはずなのに、見上げるような巨人に相対しているかのような恐ろしい威圧感があった。
黒瀬がインテリヤクザなら、この男は修羅場を潜り抜けてきた本物の『大親分』だ。一目見ただけで、逆らってはいけない生き物だと本能が警鐘を鳴らす。
「三上さん。こちらが榊原一家の組長、榊原源治です」
黒瀬が慌てて紹介してくれたが、こちらは「は、初めまして」と口にするのが精一杯だった。
しかし、その源治の様子は、威厳に満ちているというよりは、酷く興奮して取り乱しているように見えた。
源治は部屋の中央に座る俺を見つけると、ズンズンと大股で歩み寄り、凄まじい眼力で睨み下ろしてきた。
「お前! お前が、あの盃に触れたのか!!!」
「ひゃいっ!!?」
俺は変な悲鳴を上げながら、反射的に土下座しそうになった。
「お前が触ったんだな!? 間違いないな!?」
「す、すみません!! 小野寺君が脚立をぶつけて落ちそうになったんで、反射的に手が出ちゃって!! でも落としてません! 傷もつけてません!!」
「それで、盃が光ったんだな!?」
「はい!! ピカーッと光りました!! 本当にすみません!!」
「……そうか」
源治は、俺が両手で必死に掲げている盃を、穴の開くような目で見つめた。
その皺だらけの顔に浮かんでいるのは、怒りではない。信じられないものを目撃したような、純粋な驚愕と、震えるような歓喜だった。
「本当に申し訳ありません! もし何か問題があったなら、派遣会社の担当の方にも相談して……」
「お前さん、ちょっと黙ってくれ」
「はいっ!! 黙ります!!」
終わった。俺の人生、終わった。
派遣会社のブラックリスト入りどころか、戸籍ごと消されるかもしれない。
源治は大きく深呼吸を一つすると、ドカッと俺の真正面に胡座をかいて座った。
その後ろに黒瀬が静かに控え、入り口付近では小野寺が正座をして縮こまっている。
「お前さん、名前は?」
源治が、先ほどよりはずっと落ち着いた、しかし重低音の響く声で尋ねてきた。
「み、三上悠介です。三十四歳です。派遣社員です」
「そうか。三上か」
「はい……」
「黒瀬から聞いている。書類の整理が早くて、電話の受け答えもしっかりできる、仕事ができる男だそうじゃねえか」
「い、いや! 普通の事務仕事しかしてませんけど! ただのエクセル職人です!」
「ふっ、そうかそうか」
源治は、なぜか嬉しそうに短く笑った。
そして、俺の手の中にある盃を太い指で指し示した。
「その盃な。うちの一家が、江戸の昔から二百年以上守ってきたもんなんだ」
「……江戸時代」
「小野寺から少し聞いたか? うちは元々、江戸時代の博徒の一家が始まりでな。初代の親分ってのは、ただ喧嘩が強いだけの男じゃなかった。特別な『力』を持っていたんだ」
特別な力?
俺は首を傾げた。腕っぷしが強いとか、統率力があるとか、そういう意味だろうか。
「その盃は、初代が残した物だ。長い年月の中で、本来の力はほとんど忘れ去られちゃいたが、うちの一家の象徴として代々大切に受け継いできた」
「はあ……」
「昔から、一家の言い伝えがあった。その盃が光った時、初代の力を継ぐ者が現れる、とな」
「……はい?」
「だが、俺が知る限り、歴代の親分がどれだけ大事に磨いても、そんな現象は一度も起きなかった。ただのお伽話だと思ってたんだよ。今日まではな」
源治は苦笑交じりに溜息をついた。
「ところが今日、突然光りやがった。しかも、うちの血縁でも、盃を交わした若い衆でもない、ぽっと出の派遣社員のお前さんが触った瞬間にな」
「だ、だから、本当に偶然落ちそうになったのを……!」
「分かってる。責めてるわけじゃねえ。俺も驚いてるんだよ。まさかこんな形でお伽話の続きを見ることになるとはな」
源治の話は、俺の頭の上を素通りしていくようだった。
初代の力? 言い伝え?
時代劇かヤクザ映画の設定を語られている気分だ。
「あの……それって、どういう意味なんでしょう?」
「何がだ?」
「力を継ぐとか、盃が光るとか……比喩表現ですか?」
「そのままの意味だ」
「いや、意味が全く分からないんですけど!?」
俺が半泣きで訴えると、源治は隣の黒瀬に視線で合図を送った。
黒瀬が静かに口を開く。
「三上さん。あなたは、超能力というものを信じますか?」
「……はい?」
あまりにも唐突な単語に、俺は間抜けな声を漏らした。
「超能力、ですか。スプーン曲げたり、空飛んだりするやつ?」
「ええ。テレビのオカルト番組の類ではなく、現実の事象として。普通の人間にはできないような常識外の力を、本当に行動として起こせる人間が存在するとしたら?」
黒瀬の顔は極めて真剣だった。冗談を言っているようには見えない。
「世の中には、一般人の知らない超常的な『力』が存在します。政府の極秘機関や、世界的な特別な組織はそれを把握し、管理しています。ですが、一般社会には混乱を避けるために隠匿されている」
「……ええと」
「信じられないのも無理はありません。ですが、三上さんは一時間ほど前、何の仕掛けもないただの木の盃が、黄金色に発光するのを自らの目で見たはずです」
反論の言葉が喉に詰まった。
確かに、俺は見た。そして感じた。盃から流れ込んできたあの不思議な感覚と、劇的に回復した体調。
あれが手品や錯覚だと言う方が、よほど無理がある。
「……じゃあ、さっきのあれは、そういうオカルト的な現象だったってことですか?」
「オカルトという言葉で片づけられるものではなく、現実に起きる超常現象です。そして……」
黒瀬が言い淀んだところを、源治が引き継いだ。
源治は身を乗り出し、俺の目を真っ直ぐに射抜いた。
「さて、三上。問題はここからだ」
「……まだ何かあるんですか?」
「大ありだ。この盃はな、うちの一家の『正統な継承者』を認めるための呪物でもある」
「……継承者?」
「ああ。初代から続く不思議な力を受け継ぎ、この榊原一家を束ねる資格を持つ者だ」
「……はあ」
「そして、その盃が、お前さんに反応した」
和室に、シンとした沈黙が落ちた。
俺の頭の中で、今与えられたキーワードがぐるぐると回転し始めた。
正統な継承者。
榊原一家。
初代の力。
資格を持つ者。
(……待て待て待て待て)
俺の顔面から、一気に血の気が引いていくのが分かった。
「あの、ちょっと待ってください」
「なんだ?」
「継承者って、つまり……その、どういう立場なんでしょう?」
源治は、さも当然のことのように、ニヤリと笑って答えた。
「うちの初代から続く、正統な跡目の資格を持つってことだ」
「…………」
跡目。
アトメ。
ヤクザの、組長の跡目。次期組長。
俺の全身の毛穴から、一斉に冷や汗が噴き出した。
「え、いや、でも……! 俺、組員じゃないですよ!? 盃とか交わしてませんよ!?」
「ああ、知ってる」
「派遣社員なんですけど!? 時給二千五百円の!!」
「それも知ってる」
「榊原さんの親戚でもないし、隠し子でもないですけど!?」
「そうだな。俺の息子はとっくに勘当した」
「じゃあ!! なんで俺なんですか!!?」
俺の悲痛な叫びに対し、源治は大真面目な顔で答えた。
「……それは、俺にも分からん」
「分からないんですか!?」
「だが、由緒正しい呪物の盃が、お前さんを選んで光ったのは事実だ。こればっかりは、人間の理屈じゃどうにもならねえ」
理不尽。あまりにも理不尽極まりない。
俺は助けを求めて黒瀬を見た。
「く、黒瀬さん! なんとか言ってくださいよ! 俺、ただのエクセルが得意な一般人ですよ!?」
しかし、黒瀬もまた、酷く難しい顔をして眉間を揉み解していた。
「……親父。今後、どうされるおつもりで?」
「そうだなあ。盃が選んだ以上、無視するわけにはいかねえ」
「三上さんは、そもそも完全に堅気の方です。今の組の体制もあります。いくら呪物の承認があろうと、今日明日ですぐにどうこうできる話ではありません」
「ああ、分かってる。組織の筋目を通す必要はあるわな」
二人は、俺の頭越しに勝手に実務的な相談を始めている。
いや、黒瀬はまともなことを言っているようで、前提条件として俺が『跡目候補』であることを受け入れてしまっている。
しかも、源治に至っては、どこかウキウキしているようにすら見えた。
代々守り継がれてきた伝説の家宝が、ついに力を示したのだ。衰退しつつある古い一家にとって、これ以上ない歴史的な慶事なのだろう。
その生贄が俺だということを除けば。
「あの、確認なんですが……」
「なんだ、三上」
「俺、明日も普通に会社に来て、エクセルで家賃の集計とかしてればいいんですよね? 派遣の契約期間、まだ残ってますし」
「ああ、構わねえよ。今すぐお前に組長やれって言ってるわけじゃねえ」
俺は心の底から安堵の息を吐いた。
よかった。まだ普通の派遣社員として働ける。このヤバいお伽話は、あくまで名誉職みたいなものだと思えばいい。
しかし、源治はニヤリと笑って付け加えた。
「まあ、せっかくあの盃が正統な跡目を選んだんだ。これから少しずつ、極道の作法やら、その『力』の使い方やら、色々覚えてもらうことになるだろうがな」
「……え?」
「黒瀬、三上の今後の処遇と教育について、ちょっと考えておけ。とりあえず、若い衆を一人、直属で付けとけ」
「承知しました、親父。手配しておきます」
「ちょ、ちょっと待ってください!?」
俺の抗議は、完全に無視された。
源治は満足そうに立ち上がり、大きく頷いた。
「いやあ、まさか俺が生きてるうちに、こんな日が来るとはな! 今日は赤飯だな!」
「……あの、榊原さん?」
「親父、と呼べ。なんだ?」
「もしかして俺、これからどうなるんでしょうか?」
源治は、今日一番の豪快な笑顔で笑い飛ばした。
「決まってるだろう。お前さんは今日から、初代から続く榊原一家の正統な継承者だ!」
「…………」
「何しろ、あの家宝の盃が認めたんだからな! 胸張って生きろ!」
部屋の隅で、小野寺が潤んだ目で俺を見つめ、深く、深く頭を下げていた。まるで神様でも拝むかのように。
いやいやいやいや。
ちょっと待ってくれ。
正統な継承者? 極道の作法? 若い衆を付ける?
「いや、俺、ただの派遣社員なんですけどおおおおお!?」
俺の絶望の叫びは、防音の利いた重厚な和室の壁に虚しく吸い込まれていった。
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