派遣社員、うっかり極道の跡目に選ばれる ~歴代親分の異能を継いだ俺、最強のヤクザになるらしい~ 作:パラレル・ゲーマー
「……俺、普通にデスクでエクセル触ってるだけじゃ駄目なんですかね!?」
株式会社汐見総合管理の奥にある応接室。
金曜日の午後二時。俺――三上悠介は、頭を抱えて悲痛な叫び声を上げていた。
目の前には、汐見総合管理の実務責任者であり、榊原一家の若頭でもある黒瀬修一が、少し困ったような、しかしどこか楽しげな微苦笑を浮かべて立っている。
「もちろん、今までどおりお仕事を続けていただいて構いませんよ。あなたの事務処理能力には本当に助けられていますから」
「だったら! なんで俺が全国規模の暴力団の幹部と面会しなきゃいけないんですか!」
昨日一日、家でゴロゴロして精神を回復させ、今日からまた平和な派遣社員ライフを送る気満々だった俺にとって、黒瀬からの通達はまさに青天の霹靂だった。
一昨日の夜、小野寺君を救出するために武装ヤクザの集団をボコボコにした件が、どうやら俺の知らないところで盛大に噂になり、上部組織の偉い人の耳にまで届いてしまったらしいのだ。
黒瀬は、宥めるように穏やかな声を出した。
「三上さんのお名前と、強力な異能者であるという噂が上の方々にも知られてしまった以上、一度お会いしてご挨拶をしておいた方が、今後のためにもなるかと存じます。決して悪いお話ではありません」
「……今後のため、ですか」
「ええ。顔を繋いでおくことは、極道の世界では自衛の手段でもあります」
(……いや。ヤクザの大幹部に呼び出される時点で、俺にとっては十分すぎるほど悪い話なんですけど)
俺は心の中で毒づいたが、黒瀬の説明を聞く限り、いきなり拉致されて山に埋められたり、無理やり盃を交わさせられて正式な組員にされたりするわけではないらしい。
あくまで顔合わせ。面接のようなものだ。
その言葉で、俺は少しだけパニックを抑え込んだ。
「それで、いつ会うんですか?」
「来週の月曜日、午後七時半を予定しております」
「……月曜日?」
「はい。お仕事が終わってからで構いません」
俺はデスクの卓上カレンダーをちらりと見た。
今日は金曜日。土曜日と日曜日は休みだ。月曜日も、夕方までは普通に事務仕事ができる。
(……よかった。少なくとも、土日は普通に休めるのか)
俺は小さく胸を撫で下ろした。
しかし、来週月曜日の夜に何が待っているかを想像すると、途端に胃のあたりがキリキリと痛み始めた。
俺は、真面目な社会人として、面接に向かうにあたって当然の疑問を口にした。
「……あの、黒瀬さん」
「はい」
「ちなみに、面会の時の服装はどうしたらいいでしょう? やっぱり、黒無地のスーツとかの方がいいですか?」
「ええ。普段着られているスーツで構いませんよ」
「本当ですか? 俺、青山で二着目半額だった安物のスーツなんですけど、失礼になりませんか?」
「……ええ、全く問題ありません。三上さんは堅気の方ですから」
黒瀬は少しだけ目を丸くしたが、真面目に答えてくれた。
「ネクタイは地味な方がいいですよね? 派手な柄だと目をつけられたり……」
「特に指定はありません」
「菓子折りとか、手土産は?」
「必要ありません。我々で用意します」
「履歴書は手書きの方がいいですか? 職務経歴書も要ります?」
黒瀬は、そこで言葉を止めた。
「……三上さん」
「はい?」
「これは、就職面接ではありませんので」
「いや、分かってますけど!!」
俺だって分かっている。だが、相手はヤクザの大幹部なのだ。
一般企業の面接で履歴書の書き方を間違えれば「お祈りメール」が来るだけで済むが、極道社会の面接で粗相をすれば、文字通り「物理的なお祈り」をされる羽目になるかもしれないではないか。
「……あの、確認ですけど、俺って本当に、あちらの組織に何か約束したり、契約書にサインさせられたりする必要はないんですよね?」
俺は念を押すように尋ねた。
「はい。三上さんはまだ正式な組員ではありませんし、我々も無理強いするつもりはありません。今回の面会で、それが勝手に変わることもありません」
「ですよね! よかった!」
「ただ、先方から何かお話があれば、ご自分のお考えで率直にお答えいただければと思います」
「……自分の考え?」
「ええ。私と親父も同席し、必要があればフォローに入りますので、ご心配なく」
黒瀬の力強い言葉に、俺は少しだけ安心した。
この若頭は、インテリで恐ろしい男だが、決して嘘はつかないし、俺の意思を尊重してくれている。
騙されて連れて行かれるわけではない。それなら、ただの堅気の派遣社員として、礼儀正しく振る舞うだけでやり過ごせるかもしれない。
*
土曜日。
待ちに待った休日。
俺は朝から、特に何もする予定がなかった。
前日の金曜日は、普通にエクセルで家賃の集計をし、定時で帰宅した。
小野寺君はまだ怪我の回復中で休んでいるから、会社は妙に静かだった。銃撃戦に巻き込まれる予定もないし、ヤクザに凄まれる予定もない。
(……平和だ。これだよ、これ)
俺はベッドの上で大きく背伸びをし、幸せを噛み締めた。
俺が求めてたのは、こういう何もない退屈な生活なんだよ。のんびり動画を見たり、ゲームをしたり、近所のコンビニへふらっと買い物に行ったりして過ごす休日。最高じゃないか。
ところが。
リビングでテレビをつけ、バラエティ番組を流していると、映画の宣伝で強面の俳優がドアップで映し出された。
その瞬間。
(……あ)
脳裏に、来週月曜日の予定がフラッシュバックした。
ヤクザの大幹部との面会。
一気に胃が重くなり、俺はテレビを消した。
クローゼットを開け、月曜日に着ていく予定のスーツを確認する。
皺はない。ネクタイも、一番地味な紺色のストライプのものを出しておく。
玄関に置きっぱなしだった革靴を手に取り、無心でクリームを塗って磨き始めた。
(……なんで俺、貴重な休日にヤクザとの面接準備してるんだろう)
靴を磨きながら、俺は深い溜息をついた。
元営業マンとしての悲しい習性で、相手の組織について事前に調べようとしてスマホを開いたが、当然ながらヤクザの直参幹部の詳しいプロフィールなど、一般のインターネット検索で出てくるわけがない。
結局、俺にできることは、ただ身だしなみを整え、粗相のないようにシミュレーションを繰り返すことだけだった。
日曜日。
憂鬱な気分のまま過ごしていると、スマホに短いメッセージが届いた。
『親分! 体調はもうほとんど大丈夫っす! 来週の火曜から出勤できそうっす! またよろしくお願いします!!』
小野寺からだ。文面からでも五月蝿いほどの元気が伝わってくる。
俺は苦笑しながら返信を打った。
『無理しないでね。ちゃんと完全に治してから出勤して』
数十秒も経たないうちに、即座に返信が来た。
『へい! 親分のためなら命張ります!! 一生ついていきます!!』
(……だから、命を大事にしろって言ってるのに)
俺はスマホを置き、窓の外の青空を眺めた。
明日の夜には、あの恐ろしい面会が待っている。
逃げ出したい気持ちは山々だが、あの会社には、あんなふうに俺を慕ってくれる馬鹿で気のいい後輩や、理知的で頼れる若頭、豪快だが筋を通す親分、そしていつも優しくお茶を淹れてくれる森田さんがいるのだ。
(……まあ、ああいう連中がいる職場だからな)
そう簡単に、辞めて逃げ出す気にはならないんだよなあ。
俺はもう一度溜息をつき、革靴の仕上げに取り掛かった。
*
そして、運命の月曜日。
俺は普段どおりの時間に出勤し、いつものようにデスクに向かっていた。
午前中の仕事は、驚くほど平和だった。
先週末に届いた請求書の確認。管理物件のオーナーへ送る報告書の作成。エクセルでの入金管理。
キーボードを叩く音だけが、静かな事務室に響いている。
(……本当に平和だな。このまま、時間が止まって一日終わらないかな)
しかし、パソコンの右下に表示されている時計の数字を見るたびに、夜の面会時刻が刻一刻と近づいていることを思い出し、胃がキュッと縮み上がる。
午後になり、役員室から出てきた黒瀬が俺のデスクにやってきた。
「三上さん。本日の予定はお変わりありませんか?」
「……ああ、例の件ですよね。はい、大丈夫です」
「ええ。予定どおり、午後六時半にここを出て、親父と私が同行します」
「分かりました……」
俺が力なく頷くと、黒瀬は少しだけ声を潜めて説明を付け加えた。
「本日の面会場所は、全国組織の本部そのものではなく、我々の上部組織である久我組の事務所になります」
「……え? 全国の本部じゃないんですか?」
「はい。今回お会いするのは、全国規模である鷲尾会の『直参』――つまり、直接の構成組織の一つである久我組の親分ですので」
「…………」
(……もう、何が何だか分からなくなってきた)
ヤクザの組織図なんて、一般人にはさっぱりだ。とにかく、めちゃくちゃ偉い人だということだけは分かった。
午後六時。
俺は予定どおり、その日の仕事をきっちりと終わらせた。
帰り支度をしていると、森田さんが声をかけてきた。
「三上さん、今日もお疲れさまでした」
「あ、お疲れさまです、森田さん」
「明日の会議で使う資料のフォーマット、準備してありますので、また明日よろしくお願いしますね」
「はい、分かりました! 明日やります!」
俺は力強く返事をした。
(……ああ。明日もここへ来て、普通にエクセルを触る。その予定だけは、絶対に守りたい)
生きて帰る。その決意を胸に、俺は黒瀬と共に事務所を後にした。
*
午後六時半過ぎ。
俺は、源治と黒瀬に連れられ、黒塗りの高級車の後部座席に揺られていた。
行き先は、都内某所にあるという久我組の事務所だ。
「はっはっは! どうした三上、ガチガチに緊張してんじゃねえか!」
隣に座る源治は、いつものように豪快に笑い飛ばしている。
「してますよ!! 当たり前じゃないですか!!」
「別に取って食われるわけじゃねえんだ。気楽にしてろ!」
「いや、取って食われそうな人たちのトップクラスの人に会いに行くんでしょうが!?」
助手席に座る黒瀬が、バックミラー越しに静かにフォローを入れてくれた。
「三上さん。久我組長は、理不尽なことをなさる方ではありませんよ」
「……それ、本当ですか? いきなり灰皿飛んできたりしません?」
「ええ。あの方は非常に思慮深く、無闇に暴力を振るうようなことはありません。ただし……礼節には非常に厳しい方です」
「やっぱり怖い人じゃないですか!!」
俺が頭を抱えていると、黒瀬が改めて組織の階層について説明してくれた。
「先ほども少しお話ししましたが、我々が所属する全国規模の組織が『鷲尾会』です。その直参、つまり鷲尾会に直接連なる二次団体の一つが『久我組』で、榊原一家は久我組の傘下にある三次団体、ということになります」
「……なるほど」
俺は眉間に皺を寄せ、一般企業の感覚に翻訳して考えた。
「……えーっと。つまり、榊原さんの上司が久我さんで、そのさらに上に鷲尾会の社長みたいな人がいるってことですか?」
「おおむね、その理解で結構です。極道の世界では『盃』による親と子の関係になりますが、指示系統としてはそのようになります」
「…………」
(……上司の上司の、そのまた上がいるのか)
前の会社で、本社の役員との面談に呼ばれた時も死ぬほど緊張したが、今回の相手は全然レベルが違う。極道社会の役員面接だ。
源治が、葉巻を取り出しながら懐かしそうに目を細めた。
「久我の親分とは、もう随分と長え付き合いでな。昔から色々と世話になってるんだ」
「そうなんですか?」
「ああ。俺より年はいくつか下だが、あの人は大した男だぞ。腕っぷしだけじゃねえ。頭も切れるし、腹も据わってる。うちの榊原一家が苦しい時期にも、色々と面倒を見てもらった恩がある」
俺は少し意外に思った。
(……あの、俺が武装ヤクザの群れに単身突っ込むのを『お前なら大丈夫だ!』って笑顔で送り出した傍若無人な親父さんが、こんなに素直に褒める人なのか)
それって、相当すごい人なんじゃないか。
俺の緊張メーターが、さらに跳ね上がった。
車内が静かになったところで、黒瀬が俺に向き直り、少し声を潜めて念を押した。
「それと、三上さん。本日の面会にあたって、ひとつだけ絶対にお願いしたいことがあります」
「はい? なんでしょう」
「『初代の盃』の件については、こちらから絶対に話を出さないでください」
俺はコクリと頷いた。
「……ああ、あの奥の部屋にあった家宝のことですね」
「ええ。三上さんが初代の盃に選ばれた正統継承者であることも、まだ我々内部の極秘事項として伏せています」
「分かりました。俺はただの『雇われの異能者』ってことですね」
源治も、珍しく真面目な顔で俺を見た。
「三上。あの盃のことは、今はまだ俺たちだけの話にしといてくれ。余計な火の粉を被らねえためにな」
「はい。もちろんです。絶対に口外しません」
俺自身も、大勢のヤクザに「跡目だ!」と騒ぎ立てられるのは真っ平御免なので、隠すことには大賛成だった。
(……むしろ、一生秘密にしてください。これ以上、親分候補だなんて噂が広まったら、俺の平和な社会人生活が完全に終わる)
*
午後七時十五分。
俺たちを乗せた車は、都内某所にある久我組の事務所に到着した。
「うわ……」
車を降りた俺は、その建物の威容に圧倒され、思わず声を出してしまった。
全国組織の本部ではないというのに、都心の一等地にそびえ立つ、立派なオフィスビルだった。
ガラス張りのエントランス。大理石の床。
車寄せには、黒塗りのベンツやレクサスがズラリと並んでいる。
(……え? 同じヤクザの事務所で、こんなに違うの?)
うちの榊原一家の事務所なんて、商店街の端にある築四十年の三階建ての古い雑居ビルなんですけど!?
エントランスで待機していた、ビシッとしたスーツ姿の屈強な男が、源治の姿を見るなり深々と頭を下げた。
「榊原の親分。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「おう。ご苦労。久我の親分は?」
「すでに応接室でお待ちです。どうぞ、こちらへ」
俺は驚愕した。
普段はあんなに偉そうで威圧感のある源治が、ここではあくまで『来客の一人』として丁重に扱われている。しかも、周囲に立つ男たちの、ピリッとした緊張感が違う。本物のプロの空気が漂っている。
黒瀬が、呆然としている俺の背中を軽く押した。
「三上さん、こちらへ」
「は、はい!」
(……ああ。これ、絶対に失敗できないやつだ)
俺はスーツの襟を正し、黒瀬の後ろを小走りで追いかけた。
案内されたのは、ビルの上層階にある、広々とした待合室だった。
調度品はどれも高級そうだが、成金趣味のような派手さはない。落ち着いた重厚感のある空間だ。
俺は勧められた革張りのソファに座ったが、全く落ち着かなかった。
周囲には、壁際に数人のスーツ姿の男たちが無言で直立不動のまま立っている。誰も余計なことは一切話さない。
(……静かすぎて怖い。俺の派遣先も最初は軍隊みたいで怖かったけど、ここは本当に空気が違う。完全に研ぎ澄まされてる)
源治は慣れた様子で葉巻を咥えようとしたが、ここがよその事務所だと気づいてポケットにしまった。黒瀬は相変わらずポーカーフェイスで静かに座っている。
俺一人だけが、膝の上で手を組み、貧乏揺すりを必死に堪えていた。
*
午後七時三十分。
重厚な木製の両開き扉が、静かに開かれた。
案内役の男に促され、俺たちは広大な応接室へと足を踏み入れた。
部屋の奥、巨大なマホガニーのデスクの前に置かれたソファに、一人の初老の男性が座っていた。
短く刈り込まれた髪と、目尻に深く刻まれた皺。
高価だが落ち着いた色合いの濃紺のスーツ。
表情は穏やかで、一見するとどこかの企業の優しそうな会長のように見える。
しかし――目だけが、恐ろしいほどに鋭かった。獲物を射抜く鷹のような、研ぎ澄まされた眼光。
この男こそ、久我宗一郎。
鷲尾会の直参幹部であり、久我組の組長。つまり、榊原一家の親分である源治さんよりも、組織の序列では上に立つ大物だ。
源治が進み出て、深々と頭を下げた。
「久我の親分。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
久我はソファから立ち上がり、穏やかに頷いた。
「おう、源治。久しぶりだな。息災か?」
「へい。ご無沙汰しております」
「黒瀬も、相変わらず元気そうじゃねえか」
「おかげさまで。本日はよろしくお願いいたします」
俺は、二人のやり取りを背後で見ながら、さらに緊張を深めていた。
(……え? あの源治さんが、あんなに丁寧に、しかも少し緊張した面持ちで話してる。やっぱり、とんでもなく偉い人なんだ……)
挨拶を終えた久我が、ゆっくりと視線を俺へと向けた。
「……それで、そちらが例の『三上君』か」
俺はビクッとして、弾かれたように前に出た。
「は、初めまして!! 三上悠介と申します!!」
そして、九十度の角度で勢いよく頭を下げた。
「現在、株式会社汐見総合管理で派遣社員として働かせていただいております!! 主に営業事務と、管理物件のデータ入力、請求書作成などを担当しております!! 本日はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございます!!」
しんと、応接室に静寂が落ちた。
久我は、目を丸くして俺をじっと見つめていた。
「……派遣社員?」
「はい!!」
「……営業事務?」
「はい!!」
「……ほう」
久我の鋭い視線が、俺の頭のてっぺんから爪先までを舐めるように観察する。
その視線が、怖い。蛇に睨まれた蛙の気分だ。
(……まずい。自己紹介、なんか変だったかな? 前の会社での職歴や、取得してる資格とかも説明した方がよかったか!?)
俺が冷や汗を流していると、久我はふっと表情を緩め、声を出して笑った。
「……なるほど。源治から少しは聞いていたが……実に面白い男だな」
「……え?」
俺は何が面白かったのか分からず、間抜けな声を出してしまった。
久我は俺の安物スーツを一瞥すると、改めて顔を見つめた。武装した十八人を相手にした男としては、さぞ頼りなく見えるのだろう。何しろ自分でも、鏡に映る姿はただの会社員にしか見えない。
(……もしかして、もっと筋骨隆々の武闘派とか想像されてたのかな)
「まあ、そう硬くなるな。座れ」
久我に促され、俺は源治の隣のソファに、背筋をピンと伸ばして浅く腰掛けた。壁際には、スーツ姿の側近が一人、静かに控えている。
*
お茶が出され、久我は一口啜ってから、穏やかな口調で話し始めた。
彼はいきなり、異能の詳細や先週の戦闘について問いただすことはしなかった。
「三上君。今は汐見総合管理で、どんな仕事をしてるんだ?」
「えーっと、管理物件の家賃の入金確認とか、修繕業者さんからの見積書の整理とか、そういう事務仕事がメインですね」
「そうか」
「前の会社では営業もしていたので、電話対応や、取引先との直接のやり取りもできます。クレーム対応もある程度は」
「……ほう」
久我は興味深そうに頷き、相槌を打つ。
「数字は得意なのか?」
「まあ、人並みには。エクセルはマクロを組んだり、一通りの関数は使えます」
「なるほどな。現場の力仕事だけじゃなく、事務方もこなせるのは大したもんだ」
俺は少し拍子抜けし、同時にホッとしていた。
(……あれ? なんか、普通の中途採用の面接みたいな質問だ。これなら何とかなるかも)
極道の大幹部というから、もっと血生臭い話から入るのかと思っていた。
しかし、久我は湯呑みをコトリと置き、何でもないことのように話題を切り替えた。
「ところで、三上君」
「はい」
「先日、一人で十八人相手に、随分と派手に立ち回ったそうじゃねえか」
「……あ」
一瞬で、血生臭い現実へと引き戻された。
「いや、あれは、その……自分から喧嘩を売りに行ったわけじゃなくてですね……」
俺が言い訳をしようとすると、久我は静かに言葉を続けた。
「相手は、チャカも持っていたそうだな」
「……そうなんですよ!!」
俺は思わず、身を乗り出してしまった。
「本当にびっくりしました! 俺、平和的な話し合いのつもりで行ったのに、挨拶もそこそこにいきなり実弾撃ってきたんですよ!!」
「……ほう」
「しかも、一発奇跡的に避けたら、パニックになったのか何発も連射してくるんです!! もう本当に怖くて!! 生きた心地がしませんでしたよ!」
久我は、俺の必死の抗議を、表情を変えずにじっと聞いている。
「……それで、お前さんはどうした?」
俺は少し考え、あの時の異常な体験を正直に答えた。
「……えーっと。銃弾がゆっくり飛んでくるのが見えたので、首を振って避けました」
「…………」
「途中から、これ手でも掴める速度だなって分かったんで、何発かキャッチしたんですけど、今度は別の人が日本刀で斬りかかってきまして……」
「……ほう」
「で、両手が銃弾で塞がってたんで、咄嗟に口で受けちゃったんですよ。危なかったです」
「…………」
久我が、ゆっくりと視線を動かし、隣に座る源治を見た。
「……おい、源治」
「へい」
「こいつ、今、何の話をしてるんだ?」
源治は、待ってましたとばかりに腹を抱えて豪快に笑い出した。
「はっはっはっは!! 俺にもさっぱり分かりません!!」
「……お前も分からねえのか」
「理屈は分かりませんが、あいつらが全滅して、こいつが無傷で刀が砕けていたのは紛れもない事実です!」
俺は困惑して二人を交互に見た。
(……え? 俺、聞かれたから正直に答えただけなんですけど!? なんか変なこと言いました?)
久我は短く息を吐き、再び俺へと視線を戻した。俺がどんな能力を持っているのか、さらに根掘り葉掘り聞かれるかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
代わりに、久我はまったく別の質問を投げかけてきた。
「……三上君。ひとつ、聞かせてくれ」
「は、はい」
「どうして、お前さんは小野寺を助けに行ったんだ?」
その質問から、応接室の空気が微かに変わった。
*
「聞けば、お前さんはまだうちの正式な組員じゃねえそうだな」
「はい。ただの派遣社員です」
「なら、なぜわざわざ命の危険がある場所へ、一人で乗り込んだ? 小野寺は榊原の若い衆だろう。堅気のお前さんが、ヤクザの揉め事に首を突っ込んで命を懸ける義理はないはずだ」
久我の目は、俺の心の奥底を見透かそうとするように鋭かった。
俺は少し考えた。これは、俺にとって別に難しい質問でも、高尚な理由があるわけでもなかった。
「……いや、そもそもあいつが攫われたのって、敵が俺と間違えたからなんですよね。俺のせいで捕まったようなものですから」
「ほう」
「それに、小野寺君って、本当にいい奴なんですよ」
久我は黙って聞いている。俺は、あの元気な後輩の顔を思い浮かべながら言葉を続けた。
「ちょっとお調子者ですし、エクセルの関数も何度教えても全然覚えてくれないんですけど……でも、俺のことをすごく慕ってくれてて。俺が重い荷物を持とうとすると飛んできて手伝ってくれるし、お茶も淹れてくれるんです」
俺は小さく笑った。
「まあ、勝手に『親分』って呼んできたりして、少し鬱陶しいところもあるんですけどね」
「……親分?」
「はい。まだ正式な組員でもないし、ただの事務員なのに、なぜか親分扱いされてまして」
久我の目が、少しだけ細くなった。
しかし、そこから盃の話や、継承権の秘密について聞き出すことはしなかった。
「……なるほどな」
久我はもう一つ、確認するように尋ねた。
「お前さん、自分がそこまで強いと分かっていて、余裕で行ったのか?」
「いや、全然です!」
俺は即答した。
「身体の調子が良くなってるのは知ってましたけど、拳銃相手に何とかなるかなんて分かるわけないじゃないですか! 実戦なんて初めてなんですから!」
「……怖くなかったのか?」
「めちゃくちゃ怖かったですよ!!」
俺は身を乗り出して力説した。
「もう、行きたくなくて行きたくなくて! 最初は絶対に警察にお願いしましょうって黒瀬さんたちに泣きついたんですから!」
隣で、源治が少し気まずそうに「こほん」と咳払いをした。
「……俺が、あいつなら何とかなるから行ってこいって言ったんだ」
久我は源治をジロリと睨んだ。
「……お前が行かせたのか。堅気の人間を」
「へい。ですが、黒瀬たちに援軍を手配させたうえで、本人に納得してもらいました」
「ほう」
俺がすかさず口を挟む。
「そうなんですよ! プロの援軍がちゃんと来てくれるっていうから、それなら囮くらいにはなれるかなって思って行ったんです!!」
(……だから、本当に俺は最初からヒーローになるつもりなんかなかったし、自分から進んで戦いたかったわけじゃないんです!)
俺のヘタレな本音を聞いて、久我は、ゆっくりと視線を俺へと戻した。
「……それで、本当は行きたくなかったんだろ?」
「はい。本音を言えば」
「それでも、行ったのか」
「……まあ、あいつを見捨てるわけにはいかなかったので」
俺は少しだけ真面目な表情になり、膝の上の拳を軽く握った。
「あいつ、まだ二十五歳なんですよ。俺よりずっと若いですし、あんな理不尽な目に遭って、殺されていいような奴じゃないですから」
「…………」
「それに、俺のことを『親分』だと思ってくれてるって言うんです。だったら、せめてあいつが困ったときくらいは、不格好でも助けに行ってやりたいじゃないですか」
久我は、ピクリとも動かずに黙って俺の言葉を聞いていた。
俺は少し照れくさくなって、最後に付け加えた。
「……もちろん、助けに行くって決めてからも、現地に着いてからも、ずっとチビりそうなくらい怖かったですけどね」
言い終えてから、少し照れくさくなって視線を膝へ落とした。別に立派なことを言ったつもりはない。ただ、あのまま小野寺君を放っておけなかった。それだけだ。
久我は、しばらく俺をじっと見つめていた。
そして、ゆっくりと、口元をほころばせて笑った。
「……なるほどな」
俺は少し緊張した。
(……え? 今ので、面接の回答として合ってた? なんかマイナス評価になってない?)
久我は俺から視線を外し、源治を見た。
「源治」
「へい」
「いい男じゃねえか」
「……ありがとうございます!」
源治は、我が子を褒められた父親のように、嬉しそうに深く頭を下げた。
俺は驚いて二人を交互に見た。
「……え? 俺ですか?」
久我が愉快そうに笑う。
「お前さん以外に、ここに誰がいる」
俺は恐縮して手を振った。
「い、いや、そんな大した人間じゃないですよ! ただの臆病な一般人です!」
「そうかもしれんな」
「……え?」
「だが、少なくとも俺はお前さんのこと、気に入ったぞ」
俺はホッと胸を撫で下ろした。
(……よかったあああ。どうやら、変な返答をして怒鳴られることはなさそうだ)
隣では源治が嬉しそうに頷き、黒瀬もいつになく真剣な顔をしている。
(……二人とも、なんでそんなに大事なことみたいな顔をしてるんだ?)
*
少し和やかな空気になったところで、久我が俺を眺めながら、ふと、思いついたように尋ねてきた。
「……ところで、三上君」
「はい?」
「お前さん、うちで働く気はないか?」
「…………」
俺は、瞬きをするのを忘れて固まった。
「……え?」
久我は、まるで世間話の続きのように穏やかに説明した。
「久我組の直轄にも、フロント企業や関係会社はいくつかある。事務方の仕事も腐るほどあるし、お前さんなら正社員の幹部候補として迎えることも考えられる。給与は、今の派遣よりずっと良くできるだろう」
「……え?」
「もちろん、今すぐ返事をしろとは言わねえ。ゆっくり考えてくれて構わねえがな」
俺は完全に混乱していた。
(……待て。待ってくれ)
俺、今日ってただの顔合わせというか、ご挨拶に来たんじゃなかったっけ?
なんで、全国規模の暴力団の直参幹部から、直接の引き抜き・転職の話になってるの!?
隣で、源治の表情がわずかに強張るのが分かった。黒瀬も、膝の上の手を微かに握りしめ、姿勢を正している。
(……あれ? もしかして、これって二人にとっても笑えない話なのか?)
久我は二人の緊張した反応を見て、ふっと笑った。
「そんな怖い顔するな、源治。権力で無理やりお前のところから引き抜くつもりはねえよ」
「……はっ」
「本人が今の環境と俺の提案を天秤にかけて、どう考えているか、素直な気持ちを聞いてみたいだけだ」
源治は少しだけ安堵の息を吐いた。
久我は再び俺に向き直り、魅力的な条件を提示してきた。
「給料も悪いようにはしねえ。今の倍は出せる。住まいだって、セキュリティのしっかりしたタワーマンションでも、必要なら会社持ちで用意できるぞ」
俺は驚いて目を見開いた。
「……え? 住まいまで?」
「おう。お前さんほどの力があれば、それくらい安いもんだ」
「……へえ」
(……なんか、思ったよりちゃんとした転職のオファーだ)
今の時給制の派遣社員より、待遇が劇的に良くなる。
俺は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、その提案を真面目に考えた。
三十四歳。独身。前の会社をリストラ同然で退職し、再就職に苦労した。現在は不安定な派遣社員。
高給取りの正社員としての好条件の採用は、普通なら飛びつきたくなるほど魅力的な話だ。
しかし。
すぐに俺の頭に浮かんだのは、別の光景だった。
いつも優しい笑顔でお茶を淹れてくれる、森田さんの顔。
理不尽な命令はせず、俺の仕事を正当に評価してくれる黒瀬さんの顔。
豪快で無茶苦茶だが、なんだかんだで俺を大事にしてくれる源治の顔。
そして。
『親分! 一生ついていきます!!』
ボロボロの顔で、俺に向かって満面の笑みを向けた、小野寺の顔。
最初は、ヤクザのフロント企業だと知って、怖くてすぐにでも逃げ出したかった職場だ。
しかし、今は違う。
時給二千五百円は十分に高い。残業もほとんどない。エクセルの仕事にもすっかり慣れた。
何より、周囲の人間が、俺という人間をとても大切に扱ってくれている。俺を頼りにしてくれている。
(……いや、別に今の仕事に不満はないんだよな)
正社員にはなりたい。安定は欲しい。だけど、だからといって、今すぐあの居心地のいい会社を辞めて、別の見知らぬ巨大組織の歯車に移る必要も、理由もない。
俺は少し考えをまとめると、久我に向かって深々と頭を下げた。
「……大変ありがたいお話なんですけど、すみません」
久我が、わずかに眉を上げた。
「ほう?」
「今のところ、転職は考えてないんです」
久我が、静かに尋ねる。
「……理由を聞いてもいいか? 金が足りねえか?」
俺は首を振った。
「いえ。今の職場、結構気に入ってるんですよね」
「……ほう」
俺は正直な気持ちを口にした。
「時給も二千五百円と破格ですし、残業もほとんどないですし。事務の森田さんもすごく親切ですし、黒瀬さんも俺の事務仕事をちゃんと評価してくれますし」
隣で、黒瀬が少し驚いたように息を呑む気配がした。
俺は続ける。
「小野寺君もいますしね。……あいつ、まだ仕事は全然できなくて手がかかるんですけど、俺のことをすごく慕ってくれてるんですよ」
「…………」
「だから、せっかくの素晴らしいお話なんですけど、今はこのまま、汐見総合管理で働かせてもらいたいです」
俺はもう一度、深く頭を下げた。
「せっかくお誘いいただいたのに、申し訳ありません」
応接室に、深い沈黙が落ちた。
久我は、何も言わずに俺をじっと見つめている。源治も黒瀬も、固唾を飲んで久我の反応を窺っていた。
十秒ほどの沈黙の後。
「……くっ」
久我が、口元を押さえて吹き出した。
「はっはっはっはっは!!」
俺は驚いて顔を上げた。
「……え?」
久我は、腹を抱えて大笑いし始めた。
「そうか! 時給二千五百円と、残業の少なさか!! はっはっは! 俺のタワマンと幹部待遇のオファーが、時給に負けたか!!」
「……あの、俺、何か変なこと言いましたか?」
「いや、変じゃねえよ。実に面白い! 最高だ!」
つられて、隣の源治も豪快に笑い出した。
「はっはっは!! そうでしょう、久我の親分! こいつ、こういう奴なんでさぁ!」
久我は笑い涙を拭いながら、源治に向かって頷いた。
「なるほどな。源治、お前さんも本当にいいのを拾ったじゃねえか。羨ましいぜ」
「ありがとうございます!」
俺は一人だけ完全に置いてけぼりで、混乱していた。
(……なんで二人とも大笑いしてるの!? 俺、普通に転職のオファーを理由を添えてお断りしただけなんだけど!?)
俺が首を捻っている間も、久我の笑いはなかなか収まらなかった。
*
ひとしきり笑い終えた久我は、穏やかな表情に戻って言った。
「分かった。無理に誘うつもりはねえ。お前さんが今の仕事を気に入っているなら、その場所を大切にしな」
「……ありがとうございます!」
俺は心底安心した。
(……助かった。好条件の話を断っても、ちゃんと笑って受け入れてもらえた……!)
久我は、源治へと鋭い視線を向けた。
「源治」
「へい」
「大事にしてやれよ。この三上って男は、そう簡単に手に入るような安い人材じゃねえぞ」
源治は深く頭を下げる。
「もちろんです。うちの宝ですから」
「こいつが今の職場を気に入っているのは、お前たちがこいつをちゃんと人間として扱っているからだろう。そこを忘れるな」
「……へい、肝に銘じます」
しかし、久我はそこで少しだけ表情を引き締め、室内の空気を一段階重くした。
「……ただし、源治」
「はい」
「今後は、今までどおり平和にはいかんぞ」
俺の背筋が冷たくなる。
「お前のところに、とんでもねえ異能者が現れた。武装した十八人相手に無傷で勝ったなんて漫画みたいな話が広まれば、興味を持つ奴は必ず出てくる」
源治は険しい顔で頷いた。
「承知しております」
「探りを入れてくるのは、敵対組織だけじゃねえ。同じ鷲尾会の傘下にも、色んな考えの奴がいる」
黒瀬の表情も引き締まる。
久我は、忠告するように言った。
「強い奴を欲しがる連中もいる。自分たちの利益のために、その力を利用しようと企む奴もいるだろう。だから、この男の素性や、能力の底については、絶対に余計な情報を出すな」
そして、久我は俺へ向き直った。
「三上君」
「は、はい!」
「お前さんは強い。本当に強いんだろう。だが、その力だけで世の中の何でも解決できるとは、決して思わねえことだ」
「……はい」
「世の中には、力が強いだけではどうにもならねえ、厄介な話や謀略がいくらでもある」
「……そうなんですか」
「あるとも。だから、これからも周りの人間を大切にしな。一人で抱え込まず、こいつらを使え」
俺は真面目に頷いた。
「……分かりました。肝に銘じます」
しかし、内心では強烈なツッコミを入れていた。
(……いや、そもそも俺は自分の力で何でも解決しようなんて、一ミリも思ってないんだけどね!? 戦いたくないし!)
それでも、久我の言葉そのものには重みがあり、素直に納得できた。
久我は最後に、ニッと笑みを浮かべた。
「今日はわざわざ来てくれてありがとうな、三上君。面白い話が聞けた」
「い、いえ! こちらこそ、お忙しい中お時間をいただき、本当にありがとうございました!」
「また機会があれば、いつでも顔を見せに来な」
「……はい!」
俺は反射的に元気よく返事をして、ハッとした。
(……え? また? またここに来ることがあるの!?)
黒瀬がスッと立ち上がり、俺を促した。
「では、三上さん。そろそろ失礼しましょう」
俺は大急ぎで立ち上がった。
「はい! 失礼いたしました!! ありがとうございました!!」
俺は、これ以上ないほど深々と頭を下げ、逃げるように応接室を後にした。
*
三上たちが退出した後。
久我宗一郎は、先ほどまで三上が座っていた革張りのソファを、静かに見つめていた。
「……面白え男だな」
壁際に控えていた側近の男が、不思議そうに尋ねた。
「親分。あそこまで高く評価されるほどの人物でしょうか。確かに戦闘力は異常なようですが、ただの臆病な堅気にしか見えませんでしたが」
久我は小さく笑い、シガーカッターで葉巻の端を切り落とした。
「強いだけなら、広い世の中、ほかにもいる。だが、あれだけの圧倒的な暴力を持っていながら、あそこまで『普通の感覚』を失っていねえ奴は珍しい。力に溺れていねえ証拠だ」
「……なるほど」
「しかも、自分の命が危ないと分かっていながら、自分に懐いてきた若い衆を見捨てずに、単身で敵地に乗り込んだ」
久我は火をつけ、紫煙を燻らせた。
「自分の弱さを知っていて、それでも他人のために動ける。そして、義理と居心地の良さを重んじて、俺の好条件をあっさりと蹴り飛ばす」
側近は黙って聞いている。
久我は最後に、口元に深い笑みを刻んだ。
「……ああいう、自分の大事なもんを分かってる男には、自然と人がついてくるもんだ」
「源治のところも、まだまだ捨てたもんじゃねえな」
*
午後九時頃。
俺は、帰りの車の後部座席に乗り込み、シートに深く身体を沈めていた。
「……はああああああああ」
肺の中の空気をすべて絞り出すような、長いため息。
隣で源治が笑う。
「おう三上! お疲れさん! どうだったよ!」
「どうもこうもないですよ!! めちゃくちゃ緊張しました!! 寿命が三年は縮みましたよ!」
「はっはっは! そうかそうか!」
「本当に怖かったんですからね!? あの久我さんって人の目、完全に猛禽類でしたよ!」
助手席の黒瀬が、振り返って微笑んだ。
「お疲れ様でした、三上さん。ですが、非常に良い面会だったと思いますよ」
「……そうなんですか?」
「ええ。久我組長も、三上さんのことを随分と気に入られたようです」
俺は驚いた。
「……え? 本当ですか?」
「間違いありません。私が保証します」
黒瀬の言葉に、俺は心底ホッとした。
俺は、ふと思い出して尋ねた。
「……でも、俺、久我さんの転職の話、時給とか残業とかいうせせこましい理由で断っちゃいましたけど、本当に大丈夫だったんでしょうか?」
源治が再び豪快に笑う。
「はっはっは!! あの人の誘いを、時給と残業を理由に断る奴なんざ、日本中探してもお前さんくらいだぞ!!」
「…………」
俺は固まった。
「……え?」
「久我の親分は、ああ見えて鷲尾会でも発言力のある、相当な大物だからな!」
「……それ、もしかして俺、めちゃくちゃ失礼なことしたんじゃ……? あとから『やっぱり断るなんて許さん』とか言われませんよね!?」
黒瀬が静かに答える。
「三上さん。久我組長は、ご自分のお考えを率直にお伝えしたことを、むしろ好印象と受け取られていました。怒られるようなことはありませんよ」
「……そうなんですか?」
「ええ」
……よかった。どうやら本当に怒られなかったらしい。
ところが、俺の安心を打ち砕くように、黒瀬は言葉を続けた。
「ただ、これで三上さんの存在と器は、久我組長にも正式に高く認識されました」
「……はい?」
「今後、何かの折に、久我組長から直接お声がかかることもあるかもしれませんね」
「…………」
俺は、ゆっくりと黒瀬の後頭部を見た。
「……え?」
「久我組長は、三上さんを非常に高く評価されていましたので。今後とも良い関係を築いていけるでしょう」
「……あの、黒瀬さん」
「はい」
「……今後も、ああいう偉くて怖い人と、顔を合わせないといけないんですか?」
黒瀬は少し考える素振りをした。
「必ずというわけではありませんが、可能性は高いかと。我々としても、上部組織との関係は重要ですから」
「…………」
源治は上機嫌だ。
「はっはっは! いいじゃねえか! お前さんも裏社会で顔が広くなるぞ! 頼もしい限りだ!」
……いや。
俺、別にヤクザの世界で顔を広くしたいわけじゃないんだけど。
そもそも、正社員になりたくて真面目に就職活動してたはずなのに、なんでヤクザの直参幹部に顔が売れてるんだよ!?
俺は、窓の外を流れる夜景を力なく眺めた。
月曜日。
いつもどおり朝からエクセルで表計算をして、普通に仕事をした。
その後、全国規模の暴力団の幹部に会った。
なぜか高評価を受けた。
しかも、タワマン付きの好条件で転職の勧誘までされた。
しかし、それを断ったはずなのに、今後も顔を合わせる可能性があるらしい。
(……待て。俺、普通に仕事して、普通に定時で帰宅したかっただけなんだよな?)
俺は、心の底からの疑問を、黒瀬の背中に向かって投げかけた。
「……俺、転職をキッパリ断ったつもりなのに、なんでこれから仕事が増えそうなフラグが立ってるんですかね!?」
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