派遣社員、うっかり極道の跡目に選ばれる ~歴代親分の異能を継いだ俺、最強のヤクザになるらしい~ 作:パラレル・ゲーマー
火曜日の午前九時。
俺――三上悠介は、自分のデスクに座り、立ち上がったばかりのノートパソコンの画面をぼんやりと見つめていた。
画面の向こうで輝く、見慣れた緑色の表計算ソフトのアイコン。
手元には、今日中に処理しなければならない管理物件の修繕見積書と、家賃の入金確認リストが詰まった分厚いキングファイル。
(……素晴らしい。これだよ、これ。俺が心の底から求めていた平穏な社会人生活は)
俺は誰に聞かせるでもなく、胸の奥で深い安堵のため息をついた。
昨夜は全国規模の暴力団『鷲尾会』の直参幹部、久我組長との面会で胃が痛くなるほど緊張した。好条件の引き抜きまで持ちかけられたが、何とかお断りして無事に帰宅できたのだ。あの鋭い眼光を思い出すだけで、まだ少し胃が重い。
だが、それも昨日までの話だ。
今日からはまた、時給二千五百円で定時退社できるホワイトな事務作業に没頭する。そう決めていた。
俺がマウスに手を伸ばし、エクセルのファイルを開こうとした、まさにその時だった。
「親分!! おはようございますっ!!」
鼓膜を直接叩くような、底抜けに明るくて野太い声が事務室に響き渡った。
ビクッと肩を揺らして顔を上げると、そこには見慣れた短髪にピアスの若者――小野寺亮太が、満面の笑みを浮かべて仁王立ちしていた。
「あ、小野寺君。おはよう。もう出勤して大丈夫なのか?」
俺は椅子を少し引いて、彼の顔をまじまじと見上げた。
先週の水曜日、俺と間違えられて敵対組織に拉致され、散々な目に遭った彼だが、左の頬骨のあたりにはまだうっすらと黄色く変色しかけた痣が残っている。
「へいっ! おかげさまでもうピンピンしてるっすよ! 病院の先生からも、もう普通に仕事して問題ないってお墨付きをもらってきたっす!」
「そうか……でも、本当に無理はするなよ? まだ少し顔の腫れも残ってるみたいだし、外回りがきつかったら事務の雑用だけでもいいんだから」
「大丈夫っす! これくらい、昔の喧嘩に比べたら蚊に刺されたようなもんっすから! それより親分のそばで働けない方が、俺としちゃあ体が鈍っちまって辛かったんすよ!」
小野寺は豪快に笑いながら、自分の胸をドンと叩いてみせた。相変わらず暑苦しいほどの忠誠心だが、元気そうな姿を見られたことには素直にホッとする。
すると小野寺は、急に何かを思い出したように表情を引き締め、自分の後ろに隠すように持っていた小さなレジ袋を、うやうやしく両手で俺のデスクへ差し出してきた。
「親分。……これ、受け取ってくださいっす!」
「ん? なにこれ」
俺が袋の中を覗き込むと、そこには見慣れたデザインの、無糖ブラックの缶コーヒーが一本入っていた。
思わず目を瞬かせる。これは確か、先週の水曜日の朝、小野寺が外回りに出かける直前に俺が頼んだお使いの品だ。
「……え、小野寺君。もしかしてこれ、あの時の缶コーヒーか? まだ気にしてたのかよ!?」
「当然っすよ!! 親分に直々に頼まれた初めてのお使いだったのに、俺が間抜けにも攫われちまったせいで、お届けできてなかったっすから! 今日、出勤する途中でちゃんと同じ銘柄を買ってきたっす!」
鼻息を荒くして胸を張る小野寺を見て、俺は呆れるのを通り越し、思わず吹き出してしまった。
電話でも気にしていたが、まさか復帰初日の朝一番に、ここまで律儀に持ってくるなんて。ヤクザの構成員としてはどうなのか知らないが、後輩としては本当に愛嬌があって憎めない奴だ。
「はは、ありがとう。でも、そんな大げさに考えなくてよかったのに。……ほら、いくらだった? ちゃんとお金払うからレシート出して」
俺がポケットから小銭入れを取り出そうとすると、小野寺はまるで熱湯でもかけられたかのように飛び退き、全力で両手を横に振った。
「い、いらないっすよ!! これは俺の気持ちっすから!! 命を助けてもらった親分からコーヒー代なんて取ったら、俺、バチが当たって死んじまうっす!!」
「いや、命の恩人と百数十円の缶コーヒーを同じ天秤に乗せるなよ。いいから、社会人のルールとして立て替えてもらった分は払うってば」
「駄目っす!! 絶対受け取らないっすからね!!」
朝から事務室の真ん中で、缶コーヒー一本の代金を巡って押し問答を繰り広げる三十四歳の派遣社員と二十五歳のヤクザ。
向かいのデスクでパソコンを叩いていた事務の森田さんが、そんな俺たちのやり取りを見て、微笑ましそうに口元を押さえて笑っていた。
(……うん。少し騒がしいけど、やっぱりこの日常が一番落ち着くな)
俺はデスクに置かれた冷たい缶コーヒーのプルタブに指をかけながら、改めて平穏のありがたみを噛み締めていた。
*
しかし、俺のそんなささやかな平穏への願いは、それからわずか一時間後にあっさりと打ち砕かれることになる。
午前十時頃。
俺が缶コーヒーを片手に、先月分の駐車場の契約更新データをエクセルに打ち込んでいると、奥の役員室から出てきた若頭の黒瀬が、静かな足取りで俺のデスクへと近づいてきた。
「三上さん。作業中のところ恐れ入りますが、少しよろしいでしょうか」
「あ、はい。なんでしょう、黒瀬さん。先日の経費精算の件ですか?」
「いえ、業務の件ではありません。実は本日、三上さんへぜひご挨拶をしたいという方が、こちらへ向かっておられまして」
俺のキーボードを叩く指が、ピタリと止まった。
(…………え?)
今、なんて言った? ご挨拶? 俺に?
昨日、都心の一等地にある久我組の事務所で、胃に穴が空きそうな思いをして大幹部とご挨拶を済ませたばかりなんですけど!?
俺は引きつった顔をゆっくりと黒瀬へ向け、声を潜めて尋ねた。
「……あの、黒瀬さん。また、久我組長みたいな……その、目つきが鋭くて、背中から覇気が出てるような怖いヤクザの偉い人ですか?」
「いえ。本日お見えになるのは、女性の方ですよ」
「……女性?」
意外な言葉に、俺は小さく首を傾げた。
極道の世界の来客といえば、黒塗りのセダンから降りてくる強面のオッサンばかりだと勝手に思い込んでいた。
「ええ。我々、榊原一家と古くから付き合いのある『東雲会』という友好組織がございまして。今回はその会長のお嬢様にあたる、二十七歳の東雲詩織さんという方がお見えになります」
「東雲会のお嬢様……」
ヤクザのお嬢様。
その響きから俺の貧困な想像力が導き出したのは、往年の任侠映画や漫画に出てくるような、着物を着て竹刀かなにかを持ち、背後にはサングラスをかけた屈強な黒服を何十人も従えているような、気の強いお姫様の姿だった。
「なんでも、最近うちに非常に強力な異能者が入ったという話をどこからかお聞きになったようで、一度お顔を拝見したいとのことでした」
「……あの、それって、俺にとってはあんまり良くない流れですよね? 腕試しをしたいとか、そういう血生臭い話じゃないですよね?」
「ご安心ください。東雲会とは敵対関係にはありませんし、今回は純粋に顔合わせのご挨拶だけと伺っております」
俺は半信半疑で眉をひそめた。
(……俺、もう黒瀬さんの『ご挨拶だけ』って言葉を、額面通りには信用できなくなりそうなんだけど)
昨日の久我組長との面会だって、事前説明では「ただの顔合わせ」だったのに、蓋を開けてみればタワーマンション付きの好条件で引き抜きの打診をされるという、心臓に悪いイベントが発生したのだ。
ただ、そうして内心で愚痴をこぼしつつも、俺は黒瀬の様子に、普段とは違うわずかな変化があることに気づいていた。
彼の言葉遣いや立ち居振る舞いは、いつも通り完璧で隙がない。だが、その涼しげな目元の奥に、普段の業務では見せないような、針の穴を通すような細やかな緊張感が宿っているように見えたのだ。
黒瀬は俺への説明を終えると、すぐさま森田さんのデスクへと向かい、「森田さん、来客用のお茶を、一番上の棚にある特選の茶葉で準備をお願いします」と低い声で指示を出した。さらには自ら応接スペースのソファの位置やテーブルの上の灰皿の向きをミリ単位で整え、奥の役員室へ戻って組長の源治にも来客の到着が近いことを告げている。
(……え? 友好組織のお嬢さんがちょっと挨拶に来るだけなのに、黒瀬さんが自分でテーブル拭いたり、親父さんまで引っ張り出したりするの?)
いくら会長の娘とはいえ、二十代の若い女性一人を迎えるにしては、事務所全体の空気がどこかよそ行きで、妙に丁重すぎる気がした。
とはいえ、裏社会の序列や礼儀作法など、一介の派遣社員である俺に分かるはずもない。「大切な取引先のお嬢様だから、失礼がないように気を遣っているんだろう」と、俺は自分に都合よく解釈して、再びパソコンの画面へと向き直った。
*
午前十時半頃。
静かに事務作業が進んでいたフロアの入り口のガラス扉が開き、来客を知らせる控えめなセンサー音が鳴った。
すぐに席を立った森田さんが入り口へと向かい、数秒後、いつもよりワントーン明るく丁寧な声でフロアの奥へと声をかけた。
「黒瀬さん、東雲様がお見えになりました」
「ありがとうございます。こちらへご案内してください」
黒瀬がスッと立ち上がり、ジャケットのボタンを留める。そのすぐ後ろからは、和装ではなくパリッとしたスーツを着込んだ組長の源治までが姿を現した。
「おう、詩織ちゃん。久しぶりだな。わざわざ足を運んでもらって悪かったな」
源治のその気さくな、しかしどこか遠慮を含んだ呼びかけに、俺は思わずパソコンから顔を上げた。
(……詩織ちゃん? あの傍若無人な親父さんが、ちゃん付けで呼ぶなんて、本当に親戚のお嬢さんみたいな関係なのか?)
興味本位で入り口の方へと視線を向けた俺は、次の瞬間、呼吸をするのも忘れてそのまま固まってしまった。
森田さんに案内されてフロアへと足を踏み入れてきたのは、想像していたような「竹刀を持った着物の姉御」などでは断じてなかった。
艶やかな黒髪が、肩の下まで美しく流れている。
透き通るような白い肌に、すっと通った鼻筋と、長い睫毛に縁取られた涼やかな瞳。唇には控えめな桜色の紅が引かれ、柔らかな弧を描いて微笑んでいた。
身に纏っているのは、落ち着いた淡いベージュのワンピースと、仕立ての良さが一目で分かる上品なカシミヤのコート。華美な宝石や派手なブランド品で飾り立てているわけではないのに、背筋の伸びた立ち姿や、床を滑るような歩みの所作ひとつひとつから、圧倒的な「育ちの良さ」と「品格」が滲み出ている。
(……え? うそだろ)
俺は自分の目を疑った。
三十四年間生きてきて、テレビや雑誌の画面越しならいざ知らず、現実の空間でこれほどまでに整った容姿の女性を見たのは間違いなく初めてだった。大企業の受付嬢や、モデル事務所の看板タレントだと言われても、何の違和感もなく納得してしまいそうなほどの超絶美人だ。
しかも、不思議と威圧感がない。ただそこに立っているだけで、殺伐としたヤクザのフロント企業の事務所が、まるで高級ホテルのラウンジにでも変わったかのような錯覚すら覚える。
彼女は源治の前で立ち止まると、ふわりとコートの裾を揺らし、教科書に載せたいくらい美しい角度で丁寧に頭を下げた。
「榊原のおじ様、ご無沙汰しております。本日は突然お邪魔してしまい、申し訳ございません。おじ様もお元気そうで何よりですわ」
「はっはっは! なあに、水臭えことを言うな。お前さんが来てくれるなら、いつだって大歓迎だ」
源治は相好を崩して笑っている。ただ、俺に対して「自分を信じろ!」と無茶振りをしていた時のあの豪快で雑な態度と比べると、どこか言葉の端々に礼節を保とうとする慎重さが見て取れた。
続けて黒瀬も一歩前に出て、深々と頭を下げる。
「東雲さん、本日はようこそお越しくださいました。お変わりございませんか」
「ええ、黒瀬様もお久しぶりです。いつも父のところの若い者がお世話になっております」
凛としていながらも、耳に心地よく響く鈴のような声。
二人の対応を見て、俺は心の中で勝手に頷いていた。
(なるほどなあ……。友好組織のトップの愛娘で、しかもこれだけ礼儀正しいお嬢さんなら、親父さんや黒瀬さんが特別丁寧に扱うのも無理はないか)
そんなふうに感心しながら、まるで別世界の住人を眺めるようにぼんやりと突っ立っていた俺だったが、ふと、彼女の涼やかな瞳がこちらへと向けられた。
「……あ、あの。もしかして、あちらにいらっしゃるのが、三上悠介様でしょうか?」
「えっ!? あ、はい! そうです!」
急に名前を呼ばれ、俺は椅子をガタッと鳴らして慌てて立ち上がった。
東雲詩織と名乗ったその美女は、俺のデスクの前まで静かに歩み寄ってくると、源治や黒瀬に向けたものと全く変わらない、穏やかで敬意のこもった笑顔を俺へと向けた。
「初めまして。東雲詩織と申します。突然お仕事の最中に押し掛けてしまって、ごめんなさいね。どうぞよろしくお願いいたします」
「こ、こちらこそ初めまして!! 三上悠介と申します!! 現在、株式会社汐見総合管理で派遣社員として営業事務を担当しております!! よろしくお願いいたします!!」
俺は極度の緊張から、昨日の久我組長の前でやったのと寸分違わぬ、角度九十度の全力の営業お辞儀を繰り出してしまった。
顔を上げると、詩織さんは少しだけ目を丸くして瞬きをし、それから口元にそっと手を当てて、くすりと可憐に笑った。
「まあ……。お噂には聞いておりましたが、本当に真面目で、随分とご丁寧な方なのですね」
「……え? 噂、ですか?」
俺は思わず頬をひきつらせた。
ちょっと待ってほしい。武装ヤクザを素手でボコボコにしたという物騒な噂だけでなく、「自分を派遣社員だと言い張るやたら腰の低い男がいる」という情報まで裏社会に回っているのだろうか。だとしたら、恥ずかしすぎて今すぐ地面に穴を掘って埋まりたいのだが。
*
「ささ、立ち話もなんだ。そちらへどうぞ」
源治に促され、俺たちは事務室のフロアの一角にある、パーテーションで区切られた来客用の応接スペースへと移動した。
先日、俺が家宝の盃に触れて大騒ぎになった奥の和室ではなく、一般の取引先なども通す通常の応接席だ。初代の盃の件や、俺が榊原一家の跡目候補にされているという事実は、友好組織とはいえ外部の人間である彼女には伏せておくという黒瀬の配慮だろう。
ソファには詩織さんと、その対面に俺、そして俺の脇を固めるように源治と黒瀬が腰を下ろした。森田さんはお茶の準備のために給湯室へ向かい、小野寺も俺の世話役としてその手伝いについていっている。
「実はわたくし、昔から榊原のおじ様や黒瀬様には大変良くしていただいておりまして」
詩織さんは背筋を伸ばしてソファに浅く腰掛け、穏やかな口調で切り出した。
「ええ、そうなんですか」
「はい。それで先日、こちらにとても頼もしいお力を持った方が新しく入られたと耳にしまして……。どのような方なのか、どうしても一度ご挨拶をさせていただきたかったのです」
「ああ、そういうことでしたか……。いや、でも、俺は本当にそんな大した人間じゃないんですよ。ただの派遣社員ですし」
俺が恐縮して頭を掻くと、詩織さんは楽しそうに目を細めた。
「ふふ、ご謙遜を。久我のおじ様も、三上様のことを大変お褒めになっていらっしゃいましたよ?」
「……えっ!? 久我組長がですか!? 昨日の夜にお会いしたばかりなのに、もう話が伝わってるんですか!?」
俺が驚いて声を上げると、隣に座る黒瀬が「東雲さんは情報通でいらっしゃいますから」と短く補足した。裏社会の情報網というのは、インターネットのSNSよりも伝播が早いらしい。
「本当に、俺は前の会社でも普通の営業マンでしたし、今もここでエクセルを使って契約書の整理や家賃の計算をしてるだけなんです。誰かに誇れるような特別なことなんて、何もしてないんですよ」
俺が正直に自分の立場を説明すると、詩織さんは馬鹿にするでもなく、ひどく感心したように何度も小さく頷いた。
「まあ、事務のお仕事を。では、そういった書類を整えたり、数字を管理したりするお仕事がお好きなのですか?」
「好きかと言われると……どうでしょうね。でも、自分の手で散らかったデータを綺麗に整理して、予定通りにきっちり仕事を終わらせるのは、性に合ってると思います。嫌いじゃないですよ」
「素敵なことですわ。ご自身のお仕事に誇りを持って、日々の暮らしを大切にしていらっしゃるのですね」
嘘や社交辞令の匂いが一切しない、まっすぐで温かい称賛の言葉だった。
俺は思わず、顔が少し熱くなるのを感じて視線を逸らした。
(……なんだろう。ただ事務仕事が嫌いじゃないって言っただけなのに、こんな絶世の美女に真っ正面から『素敵です』なんて言われると、照れくさくてむず痒くなるな)
「それに……先日は、お一人でずいぶん大勢の荒っぽい方々を相手に戦われたとも伺いましたけれど」
「あー……あれは、その、事故みたいなものでして」
俺は苦笑いを浮かべ、先日の倉庫街での悪夢を思い出して肩をすくめた。
「正直なところ、あんな経験はもう二度とごめんですね。できれば思い出したくもないくらいです」
「まあ……やはり、とても怖い思いをなさったのですか?」
「そりゃあ怖かったですよ! だって相手、挨拶もなしにいきなり本物の拳銃をぶっ放してきたんですから! 日本刀まで振り回してくるし、本当に生きた心地がしませんでした!」
俺が思わず身を乗り出して力説すると、詩織さんはハッとしたように綺麗な眉を寄せ、胸元に手を当てて心底痛ましそうな表情を浮かべた。
「拳銃まで……。それは、本当に恐ろしい思いをなさいましたね。お怪我がなかったのが何よりですけれど、どれほどお辛かったことか……」
「……っ! そうなんですよ!!」
俺は感動のあまり、危うくテーブルの上から身を乗り出して彼女の両手を握りしめそうになった。
聞いてくれ。ここに、ようやく俺の感覚を真っ当に理解してくれる人が現れたぞ!
親父さんは「お前なら大丈夫だ、自分を信じろ!」と笑顔で戦場に送り出し、黒瀬さんに至っては銃撃戦の直後に「災難だったな、こいつら」と敵に同情していたのだ。小野寺君は小野寺君で、俺を無敵のヒーローか何かだと勘違いしている。
そんな狂った環境の中で、「拳銃を撃たれて怖かった」という俺の至極当然の感情に対して、「それは恐ろしい思いをなさいましたね」と真剣に寄り添ってくれたのは、この東雲詩織というお嬢様が初めてだったのだ。
(……なんていい人なんだ。見た目がお姫様みたいに綺麗なだけじゃなくて、ちゃんと一般人の心の痛みが分かる、常識的で優しい女性じゃないか!)
俺の中で、東雲詩織という女性に対する好感度が、天井を突き破って成層圏まで跳ね上がった瞬間だった。
*
すっかり気分を良くした俺は、緊張が解けたこともあり、少しだけこちらからも会話を振ってみることにした。
「ありがとうございます、東雲さん。そう言ってもらえると、なんだか報われますよ。……あ、そういえば、東雲さんは普段、どういったお仕事をされてるんですか? やっぱり、お父様のお手伝いとかを?」
俺が尋ねると、詩織さんはにこりと微笑み、上品な仕草で首を横に振った。
「いいえ、父の組織の運営とはまた別に、わたくし個人で事業を営んでおりますの。主に、物流関係のお仕事をしております」
「へえ、物流ですか!」
意外なほど堅実な業種が出てきたことに、俺は元営業マンとしての関心を惹かれた。前職でも、商品の配送手配や倉庫業者とのやり取りは日常茶飯事だったからだ。
「物流のお仕事って、スケジュール管理や手配が大変ですよね。トラックの手配とか、国内の配送網を扱っていらっしゃるんですか?」
「国内も扱っておりますが、最近は海外とのお取引が多いですね。さまざまな国のお客様とお付き合いをさせていただいております」
「おお、国際物流ですか! 貿易関係となると、通関の手続きとかもあってさらに専門的で難しそうですね。お若いのに、海外を相手に事業を回されてるなんて凄いなあ」
俺が純粋な感嘆を口にすると、詩織さんは嬉しそうに目を細めた。
「ありがとうございます。でも、わたくし自身が、人や物を運ぶというお仕事そのものがとても好きなんです」
「……物だけじゃなくて、人もですか?」
「ええ。観光で旅をなさる方もいらっしゃれば、お仕事のご都合で遠くの国へ赴く方も、あるいは、どうしても故郷へ帰りたいと願う方もいらっしゃいますでしょう? 人が場所を移動するのには、それぞれに大切な理由がございますから」
「ああ、なるほど。旅行代理店やチャーター便の手配みたいなこともされてるんですね」
「ふふ、そのようなところですわ。もちろん、お荷物も同じです。それを必要としている方のところへ、必要なものが滞りなく届く。誰かの願いを場所から場所へと繋ぐお手伝いができるというのは、とても素敵なことだと思いませんか?」
「わかります。物流が止まったら、世の中の経済も人の生活も全部ストップしちゃいますからね。本当に立派なお仕事だと思いますよ」
俺が深く頷くと、詩織さんはまるで満開の花が咲くように、それはもう可憐で幸せそうな笑顔を見せた。
そのあまりに純粋な笑顔を見ていると、こちらまで心が洗われるような気分になってくる。ヤクザの親分の娘として生まれながらも、裏社会の暴力とは距離を置き、国際的な物流ビジネスで社会に貢献している自立した女性なのだろう。
すると詩織さんは、ふと視線を窓の外へと向け、どこか遠くを懐かしむような、少しだけ憂いを帯びた表情になった。
「ただ……わたくし、このお仕事を続けておりますと、昔から少しだけ不思議に思うことがあるのです」
「不思議に思うこと、ですか?」
「ええ。この世界には、どうしても行きたい場所があるのにそこへ行けない方や、どうしても届けたい大切なものがあるのに届けられない方が、たくさんいらっしゃいますでしょう?」
「まあ……そうですね。いろんな事情があるでしょうし」
「国境という見えない線や、その国ごとの複雑な制度、あるいは過去のちょっとした事情などによって、人や物の行き先が一方的に制限され、閉じ込められてしまう……。わたくしは、そういった窮屈な仕組みが、あまり好きではありませんの」
鈴を転がすような美しい声で語られる言葉に、俺は「なるほどなあ」と感心しながら耳を傾けた。
国際物流の現場に身を置いていれば、発展途上国の厳しい関税や、紛争地域の渡航制限、ビザの発給トラブルなどで、困っているクライアントを目の当たりにすることも多いのだろう。
「人も物も、本来はもっと自由であるべきだと思うのです。行きたいと願う場所へは誰もが自由に足を運べるべきですし、求められている場所へは、どんなものであっても自由に届けられるべきだ、と」
そう言って俺を見つめ直す彼女の瞳は、打算や見栄など微塵もない、少女のように澄み切った情熱に満ちていた。
「分かりますよ、その気持ち。手続きやルールのせいで必要なものが届かないのはもどかしいですよね。俺も、もっと気軽に海外旅行とかに行ける世の中になったらいいなと思いますもん。まあ、俺の場合は国境の制度以前に、お金と有給休暇がないっていう個人的な事情が大きいですけど」
「まあ、ふふっ。三上様は海外旅行にご興味がおありなのですか? 休暇は大切になさらないと駄目ですわよ?」
俺のちょっとした冗談に、詩織さんは楽しそうに声を立てて笑ってくれた。
なんと和やかで、知的で、爽やかな歓談だろうか。
――そのとき、詩織さんが『国境や制度』『本来はもっと自由に移動できるべき』と口にした瞬間、俺の隣でお茶を啜っていた黒瀬さんの眉が、ピクリと動いた。
源治さんも、何やら苦虫を噛み潰したような顔で天井を仰いでいる。
(……あれ? 何か変なことでも言ったっけ?)
けれど詩織さんがあまりにも楽しそうに微笑んでくれるものだから、俺はすぐにその疑問を忘れてしまった。
*
「そういえば、三上様は毎日、こちらまでどのように通勤なさっているのですか?」
話題が一段落したところで、詩織さんがふと興味深そうに尋ねてきた。
「俺ですか? 普通に電車ですよ。最寄り駅からそこまで歩いて十分くらいですね」
「まあ、電車で。朝の電車というのは、やはり大変混雑しているのでしょう?」
「ええ、もう凄まじいですよ。特に都心へ向かう時間帯の満員電車は、毎日が戦場みたいなものです。雨の日なんて傘が濡れて邪魔になりますし、人身事故で遅延でもしようものなら、駅のホームに人が溢れかえって身動きも取れなくなりますからね」
俺がサラリーマン特有の通勤の苦労話を口にすると、詩織さんはまるで未知の異文化の話を聞くかのように、目を輝かせて前のめりに聞き入ってくれた。
「なるほど……。日々の移動というものには、本当にさまざまな不便が伴うのですね。三上様は、昔からずっとそのようにして通われていたのですか?」
「はい。前の会社にいた頃から十年間、ずっと満員電車に揺られてきましたからね。最近は体が軽くなったおかげで、立ちっぱなしでも疲れなくなったのだけは救いですけど、あの息苦しさだけは一生慣れる気がしませんよ」
俺がボヤくように笑うと、詩織さんはなぜかとても嬉しそうに口元を綻ばせた。
「ふふ。三上様は、本当に普段の何気ない生活を大切になさっているのですね」
「そうですかね? ただの貧乏性なだけだと思いますけど」
「いいえ、とても興味深いですわ。三上様ほどのお力をお持ちであれば、満員電車に乗らずとも、もっと特別な暮らし方を望むことだって簡単にできるでしょうに」
「いやあ……俺は今の、朝起きて会社に来て、エクセル触って定時で帰るっていう生活が、結構気に入ってるんですよ。背伸びしても疲れちゃいますしね」
昨日の夜、久我組長の前で言ったのとまったく同じ本音が、自然と口をついて出た。
すると詩織さんは、俺のその言葉を噛み締めるように、ゆっくりと、どこか熱を帯びた優しい眼差しで俺を見つめた。
「……そうなのですね。わたくし、三上様のそういうお考え、本当に素敵だと思います」
そのあまりにも真っ直ぐな好意が込められた視線に、俺は再び心臓が跳ねるのを感じた。
(……なんだろう。この人と話してると、すごく楽しいし、自己肯定感がめちゃくちゃ上がるぞ)
美人で、上品で、しかもこちらのこんな退屈な日常の愚痴まで、宝物でも見るような目で楽しそうに聞いてくれる。
一か月ほど前、無職で再就職先を探していた頃の俺なら、まず間違いなく一生関わることすらなかったであろう、雲の上の華やかな女性だ。住んでいる世界はまるで違うはずなのに、こうして向かい合って話していると、不思議と壁を感じさせない温かさがある。
そこへ、タイミングよく給湯室の方から小野寺がやってきた。
手にはお盆を持ち、湯気の立つ新しい急須と人数分の湯呑みが乗っている。
「し、失礼しますっ!」
小野寺は緊張で背中をガチガチに固めながら応接スペースに入ってくると、まず詩織さんの前に湯呑みを置き、それから俺の前へと置いた。
普段なら「親分、お茶っす!」と元気よく言うところだが、事前に黒瀬から『外部の来客の前では必ず三上さんと呼べ』と厳命されているため、その動きはロボットのようにぎこちない。
「み、三上さん! お茶のお代わりをお持ちしたっす!」
「あ、ありがとう、小野寺君」
小野寺の不慣れな敬語に俺が内心で苦笑していると、詩織さんはお盆を抱えて立つ小野寺へと顔を向け、俺に対するのと全く同じように、柔らかく丁寧に微笑みかけた。
「温かいお茶をありがとうございます。ええと……小野寺様、でいらっしゃいましたね?」
「へっ!? あ、はいっ! 小野寺亮太っす! 様なんてそんな、ただの下っ端なんで、呼び捨てにしてくだせえ!」
「ふふ、そういうわけには参りませんわ。美味しいお茶を淹れてくださって、感謝いたします」
下っ端の若い衆である小野寺に対しても、一切態度を変えずに礼を尽くす詩織さんの姿に、小野寺は顔を真っ赤にして恐縮しきっている。
さらに詩織さんは、小野寺の左頬に残る薄い痣に目を留め、心配そうに眉をひそめた。
「……小野寺様、お顔に痣がございますけれど、お怪我をなさったのですか?」
「あ、これっすか! いやあ、先週ちょっと不注意で転んじまいまして! でももう全然痛くねえっす、大丈夫っす!」
「まあ、それはようございました。でも、お身体は資本ですから、どうかご無理はなさらないでくださいね」
「へ、へいっ!! ありがとうございますっ!!」
小野寺は感激したように深々と頭を下げ、逃げるように自分のデスクへと戻っていった。
その背中を見送りながら、俺は改めて深い感銘を受けていた。
(……やっぱり、本当にいい人なんだな、このお嬢様は)
立場の上下に関わらず、誰に対してもとても礼儀正しくて、目の前の人間の怪我を自然に気遣うことができる。まさに育ちの良さと性格の良さがそのまま形になったような女性だ。
すると詩織さんは、去っていく小野寺の背中から俺へと視線を戻し、少し悪戯っぽく目を細めて言った。
「……三上様。あの方は、随分と三上様のことを慕っていらっしゃるようですね」
「え? ああ、小野寺君ですか。まあ、俺がパソコンの使い方とか書類の書き方を教えてるんで、懐かれちゃったみたいですね」
「ふふ、そうなのでしょうね。でも、なんだかそれだけではないような、とても強い信頼のようなものが見えましたけれど」
「……え?」
鋭い指摘に俺が返答に窮していると、詩織さんはそれ以上深く詮索することはせず、ただ嬉しそうに微笑んで湯呑みを口へと運んだ。
*
そうして三十分ほど和やかな歓談を楽しんだ後、詩織さんは時計に目をやり、名残惜しそうに腰を上げた。
「本日は突然お邪魔してしまい、お仕事の邪魔をしてしまって申し訳ございませんでした。そろそろおいとまいたしますわ」
「いえ、こちらこそわざわざお越しいただきありがとうございました。いつでもまたお立ち寄りください」
「おう、またいつでも顔を出しな、詩織ちゃん。親父さんにもよろしく言っといてくれ」
黒瀬と源治が立ち上がって挨拶を返す中、詩織さんは最後に俺の正面へと向き直った。
そして、白い指先を胸元に添え、今日一番の柔らかく華やかな笑顔を俺へと向けた。
「三上様。本日はお会いしてお話しできて、本当に楽しかったです」
「あ、は、はい! 俺の方こそ、東雲さんのような素敵な方とお話しできて光栄でした!」
「もしよろしければ……またぜひ、こうしてゆっくりお話しできる機会があれば嬉しく思います。わたくし、三上様のお話をもっとたくさん伺ってみたいですわ」
(…………え?)
俺は一瞬、自分の耳を疑って固まった。
今、この超絶美人のヤクザのお嬢様が、なんて言った?
俺と、また会ってゆっくり話したい? 社交辞令にしては、その涼やかな瞳は驚くほど真っ直ぐに俺を見つめており、頬にはほんのりと淡い朱色が差しているようにすら見える。
「も、もちろんです!! 俺なんかでよければ、いつでも!!」
「まあ、よかった。ありがとうございます、三上様。楽しみにしておりますね」
詩織さんは嬉しそうに目を細めて一礼すると、コートの裾を翻して入り口の方へと歩き出した。
俺は源治と黒瀬に促され、彼女を見送るために事務所の外まで一緒に出た。
昼前の明るい日差しが差し込む、雑居ビルの前の路上。
いつもならうちの組の黒塗りのセダンが停まっている場所の周辺をぐるりと見渡した俺は、ふと首を傾げた。
「……あれ? あの、東雲さん。お迎えのお車とかは、少し離れた場所に停めてあるんですか?」
こういう大きな組織のお嬢様なら、当然のように専属の運転手が高級車で送迎しているものだと思ったのだ。
しかし、詩織さんはこともなげに首を横に振った。
「いいえ、お車は使っておりませんの。本日は一人で参りましたから」
「え? お一人で? じゃあ、ここまで電車かタクシーでいらしたんですか?」
「いいえ、そういうわけでもございませんが……。帰りも問題ありませんので、どうぞお気遣いなく」
俺が不思議そうに眉を寄せていると、詩織さんは通行人の目がないビルのすぐ脇のスペースへと二、三歩移動し、俺たちに向かって優雅に頭を下げた。
「それでは皆様、本日はこれにて失礼いたします。ごきげんよう」
そう告げた、次の瞬間だった。
――ふっ。
音がしたわけではない。
光が弾けたわけでも、煙が上がったわけでもない。
ただ、まるで最初からそこには誰も立っていなかったかのように、東雲詩織という女性の姿が、昼前の明るい陽光の中から忽然と『消失』したのだ。
「………………」
俺は目を大きく見開いたまま、彼女が立っていたはずの何もないアスファルトの地面を凝視した。
一秒。二秒。三秒。
遅れて脳の処理が追いつき、俺の喉から裏返ったような絶叫が飛び出した。
「……ええええええええっ!? き、消えた!? 今、目の前で人が消えましたよ!? し、瞬間移動ですか!?」
俺がビルの脇へ駆け寄って空間を手で撫で回し、パニックになって騒ぎ立てていると、後ろに立つ源治と黒瀬は、至って平然とした顔でその様子を眺めていた。
「ええ。東雲さんは、空間移動系の異能をお持ちの方ですので」
「く、空間移動!? マジですか!? 漫画とかゲームに出てくるルーラとかテレポーテーションみたいなやつですか!?」
「詳細な条件までは存じ上げませんが、ご自身だけでなく、触れた人間や物品も別の場所へと移動させることができるそうです」
黒瀬の冷静な解説を聞いた瞬間、俺の頭の中にあった驚きは、たちまち猛烈な羨望へと変わった。
「す、すげえええ!! なにそれ、めちゃくちゃ便利じゃないですか!! その能力があれば、朝の満員電車にも乗らなくていいし、雨の日に傘を差して歩く必要もないし、ギリギリまで寝てても一瞬で会社に出勤できるじゃないですか!!」
「はっはっはっは!! おいおい三上、お前さん、あれだけデタラメな能力を目の前で見せられて、真っ先に羨ましがるのが『通勤が楽になる』ってことかよ!!」
源治が腹を抱えて笑い出したが、俺にとっては大真面目な話だ。全サラリーマンにとって、通勤時間ゼロというのは人類の夢と言っても過言ではない。
「ちなみに、三上さん」
すると、黒瀬が少しだけ声を落とし、目を細めて付け加えた。
「これはあくまで裏社会で囁かれている噂に過ぎず、八咫烏による正式な測定結果がどうなっているのかは我々も把握していないのですが……東雲さんは『Tier2』に至るのではないかと言われております」
「…………はい?」
俺の興奮していた思考が、ピタリと凍りついた。
「……え、Tier2? あの、俺がこの前の検査で言われたのって、確か……」
「ええ。三上さんは《戦術級》と呼ばれるTier3です。もし噂が事実であれば、東雲さんはその一つ上の階位――《特殊作戦級》に該当する異能者ということになります」
「……お、俺より上!? あんなに細くて、上品で、おっとりした綺麗なお嬢様がですか!?」
「先日の八咫烏の担当者も申しておりましたが、Tierという数値はあくまで『現実に干渉できる規模』を示すものであり、単純な殴り合いの強さの順位ではありません。ですが、人知を超えた極めて稀有な能力をお持ちであることは間違いないでしょうね」
俺は呆然としたまま、誰もいなくなったビルの脇を見つめた。
空間を飛び越える力。しかも、俺よりも上のランクかもしれない異能者。
(……いやあ、世の中、本当に広いな。でも、あんな凄い力を持ってるのに、俺みたいな派遣社員にも全然偉ぶらないで、あんなに優しく接してくれるなんて……。極道の世界にも、探せばあんな女神様みたいな人がいるんだなあ)
俺は先ほど彼女が去り際に浮かべた可憐な微笑みを思い出し、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
*
事務所の中へと戻り、俺が後片付けのために再び応接スペースへと足を踏み入れた時だった。
残っていた湯呑みを盆にまとめながら、俺は自然とこぼれ出る笑みを抑えきれずに言った。パーテーションで仕切られた席の周りに、ほかの人影はなかった。
「いやあ……それにしても、本当に凄いお嬢様でしたね、東雲さんは」
「ん? そうか?」
「ええ。あんなに目が眩むような美人なのに、礼儀正しくて、誰にでも優しくて、こちらの話も親身になって聞いてくれて……。しかも、あんなに便利な空間移動の能力を使って、若いうちから海外の物流のお仕事まで手広く成功されてるなんて、非の打ち所がないじゃないですか」
俺がべた褒めすると、黒瀬も「ええ、実務の手腕も非常に優秀な方ですよ」と静かに頷いた。
ところが、ソファにドカッと座り直して葉巻を取り出していた源治が、俺の言葉を聞いて、なんだかひどく奇妙なものを見るような目で眉をひそめたのだ。
「……おい、三上。ちょっと待て」
「はい? なんですか、親父さん」
「お前さん、もしかして、あの娘が普段どんな『物流』の仕事をしてるのか、まるで知らねえで褒めてんのか?」
「……え?」
俺は湯呑みを持ったまま、きょとんと首を傾げた。
「どんな仕事って……普通に、海外との荷物のやり取りとか、人が移動するお手伝いだって言ってましたけど。貿易とか旅行関係の会社じゃないんですか?」
「ああ、確かに人と物を運ぶ物流には違いねえがな」
源治は太い腕を組み、呆れたように鼻を鳴らして言った。
「あいつはな、この日本の裏社会における『密入国』と『密輸』のルートをほぼ一手に牛耳ってる、とんでもねえ大悪党だぞ」
「………………」
チャリ、と俺の手の中で湯呑み同士がぶつかって乾いた音を立てた。
思考が停止する。今、親父さんはなんて言った?
「……は、はい? みつ……え? 密入国と、密輸?」
「おう。あいつは自分のあのデタラメな空間移動の力と、世界中に張り巡らせた独自のネットワークを使ってな、税関も入国審査も全部すっ飛ばして、人も物も国境を越えて好き勝手に運んでやがるんだ。正規の手続きなんざ、端から通す気もねえ女だぞ」
「…………ええっ!?」
俺は文字通り、顎が外れるかと思うほど口をあんぐりと開けて固まった。
ちょっと待ってくれ。さっきのあの爽やかな「国際物流のお仕事をしております」という自己紹介は、そういう意味だったのか!?
混乱して目を白黒させている俺の横で、黒瀬が周囲を一度見回し、声を落として補足説明を始めた。
「東雲さんの空間移動能力は、輸送という分野においては文字通り無敵に近い力を発揮します。飛行機や船を使わず、記録も残さずに人や物を運べるわけですから。もちろん、表向きの合法的な物流事業だけでも十分に大成功を収めておられるのですが……」
「で、ですが、なんです?」
「ご本人の思想として、国家や法律による移動や流通の制限というものを、極端に嫌っておられるんですよ」
黒瀬のその言葉が落ちた瞬間、俺の脳裏に、つい十数分前にこの場所で交わされたばかりの美しい声が鮮明にフラッシュバックした。
『国境という見えない線や、その国ごとの複雑な制度、あるいは過去のちょっとした事情などによって、人や物の行き先が一方的に制限され、閉じ込められてしまう……。わたくしは、そういった窮屈な仕組みが、あまり好きではありませんの』
『人も物も、本来はもっと自由であるべきだと思うのです』
(…………あれ?)
俺の背中を、ツツーッと冷たい汗が流れ落ちていく。
(もしかして、さっきのあの意識の高い実業家みたいな発言……比喩でもなんでもなく、文字通りの意味だったのか!?)
「東雲さんは本気で考えていらっしゃるんです。人間が行きたい場所へ行くことや、求められている場所へ物が届くことを、国家が勝手に引いた国境や法律ごときで縛るべきではない、と」
「い、いや、でも黒瀬さん! いくらそう思ってたって、入国審査とか税関のルールとかは守らないと駄目じゃないですか!?」
「ええ。一般社会の常識ではその通りです。ですが、彼女にとっては、既存の法律よりもご自身の『移動の自由』という信念の方が遥かに優先されるのです」
俺は頭を抱えそうになった。
いや、言っている理念だけを切り取れば、どこか哲学的で美しく聞こえなくもない。だが、それを現実社会で実践したら、ただの国家規模の重大犯罪じゃないか!
そこで俺は、さらに恐ろしい事実に思い至り、震える声で黒瀬に尋ねた。
「……あ、あの。じゃあ、もしかしてですけど……その『過去のちょっとした事情で行きたい場所に行けない人』を運ぶっていうのは……」
「ええ。正式な依頼として彼女が引き受けさえすれば、相手がどのような人物であっても運びます」
「ど、どのような人物って、例えば……?」
「そうですね。警察に追われている人間はもちろん、国際指名手配を受けているような凶悪な犯罪者や、マフィアの幹部などでも、過去の犯罪歴を理由に断ることは一切しないそうです。同様に、法律で固く禁じられている危険な品物の輸出入にも深く関わっておられますね」
「………………」
俺は完全に言葉を失い、その場に立ち尽くした。
国際指名手配犯を、空間移動で国外へ逃がす。
違法なブツを、税関を無視して国内へ持ち込む。
「……え、それって、普通に凶悪犯を逃がしてるってことですよね!? そんな極悪人を別の国に逃がしたら、その人がまた逃げた先で酷い事件を起こすかもしれないじゃないですか!!」
「ええ、その危険性は常にありますね。ただ、東雲さんの中では『依頼人が善人か悪人かという問題』と『人が望む場所へ移動する自由』は、まったく別の問題として切り離されているようです」
「切り離しちゃ駄目な問題でしょうが、それはあああああ!!」
俺の魂の絶叫が、静かな事務所に木霊した。
ドン引きだ。成層圏まで跳ね上がっていた好感度が、重力を伴ってマントルまで一気に急降下していく音が聞こえた気がした。
「はっはっはっは! だからあいつは骨の髄までおっかねえ悪党だって言ってんだろうが! まあ、一度引き受けた仕事の契約は絶対に守るし、身内や気に入った相手にはとことん義理堅いところもあるんだがな」
「義理堅くてもやってることが地球規模の犯罪なら駄目でしょう!?」
笑い飛ばす源治に俺が必死で噛み付くと、隣に立つ黒瀬も神妙な面持ちで深く頷いた。
「ええ、三上さんのおっしゃる通りです。やはり、一国の法律や社会秩序というものは遵守しなければいけませんからね」
「……いや、黒瀬さん!? それ、本職のヤクザの若頭が言う台詞ですか!?」
俺が思わず反射的にツッコミを入れると、黒瀬は少しだけ困ったように目元を緩めて苦笑した。
「……まあ、我々のような立場の人間が申し上げても、いささか説得力に欠けるのは重々承知しておりますが」
「自覚あるんですね!?」
「はっはっは! 違いねえ! 俺たちも大概の悪党だが、あの娘のやってるシノギは、俺たちみたいな古い極道から見ても規模とタチの悪さが桁違いなんだよ!」
「なんでちょっと自慢げに言うんですか、親父さんまで!!」
俺はもう、どこからツッコんでいいのか分からず、天を仰いだ。
本職のヤクザである源治さんや黒瀬さんが、自分たちのことを棚に上げて「あいつはヤバい」「法律は守らないと」と真顔で評価するレベルの無法者。それが、あの清楚で可憐な東雲詩織という女性の正体だったのだ。
「……いや、でも、嘘でしょう……。だってさっき、俺が拳銃で撃たれて怖かったって言ったら、あんなに親身になって心配してくれたじゃないですか。小野寺君の顔の痣だって、わざわざ気遣って優しい言葉をかけてくれてたのに……」
俺がまだ信じきれない思いで呟くと、源治は葉巻の煙を吐き出し、少しだけ真面目な顔つきになって俺を見た。
「三上。あの娘が優しいってのは嘘じゃねえよ。本当に礼儀正しいし、困ってる人間を見りゃあ親切に手も差し伸べる。だがな、だからといって悪いことをやらねえって話にはならねえんだ」
「…………」
黒瀬も、静かに頷いていた。
源治の言葉に、俺は何も言い返せなかった。さっきの優しい笑顔も、あの恐ろしい仕事への信念も、詩織さんにとっては同じくらい本気なのだろう。
(……一番、理解できないタイプの人間だ……!)
俺は、さっきまでの自分の浅はかな浮かれっぷりを思い返し、ゆっくりと両手で自分の顔を覆った。
あんなに美しい笑顔で。
あんなに鈴のような綺麗な声で。
『またぜひ、お話しできる機会があれば嬉しく思います』
そう言われて、俺は「もちろんです、いつでも!」と鼻の下を伸ばして元気よく返事をしてしまったのだ。
「……あの、親父さん。黒瀬さん」
「あん? なんだ」
「……東雲さん、さっき帰り際に、俺のことをすごく気に入ってくれたみたいで……また会ってお話ししたいって言ってましたよね?」
「おう、そう言ってたな。あの詩織ちゃんが男にあそこまで個人的な興味を示すなんて珍しい。こりゃあ、本当に気に入られたんじゃねえか? よかったじゃねえか、三上!」
「………………」
よかった?
本当に、これ、よかったのか!?
俺は指の隙間から、能天気に笑う源治の顔を見つめた。
超絶美人で、スタイルも良くて、上品で、優しくて、俺の話をニコニコしながら聞いてくれる二十七歳のお嬢様。
そこだけ切り取れば、三十四歳の独身男にとって、人生最大のモテ期到来と言ってもいい奇跡的なシチュエーションだ。
なのに、その正体は、日本の密輸と密入国を牛耳り、凶悪犯だろうが違法薬物だろうが「移動の自由」の名の下に笑顔で空間転移させてしまう、Tier2疑惑の超大物犯罪者!
(なんでだよ!! せっかく俺にも春が来たかと思ったのに、なんでそんな国家レベルの危険人物から好意を持たれなきゃいけないんだよ!!)
俺は人気のなくなった応接スペースのど真ん中で、やり場のない絶望を抱え込み、天井に向かって魂の叫びを張り上げた。
「……なんで俺の周りには、こんな超美人のお嬢様まで、揃いも揃ってとんでもない大悪党しかいないんですかああああああっ!?」
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