派遣社員、うっかり極道の跡目に選ばれる ~歴代親分の異能を継いだ俺、最強のヤクザになるらしい~   作:パラレル・ゲーマー

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第9話 派遣社員、一般人に極道の親分と間違われる

 水曜日の午前九時。

 株式会社汐見総合管理の自分のデスクで、俺――三上悠介は、パソコンの起動を待ちながら小さく息を吐いていた。

 昨日は東雲詩織という、目が眩むような美女にして日本の密輸・密入国を牛耳る大悪党のお嬢様と対面し、散々に肝を冷やした。あれほど綺麗で優しい人が、裏では国際指名手配犯まで笑顔で運んでいるという事実は、俺のなけなしの常識を木っ端微塵にするには十分すぎた。

 

(……まあ、いくら美人でも、俺みたいなただの派遣社員とは住む世界が違いすぎる人だからな。今日からは気持ちを切り替えよう)

 

 俺は頭を振って雑念を追い払うと、手元の業務ファイルを開いた。

 今日こそは、朝から晩まで誰にも邪魔されず、平穏な事務作業に没頭したい。そう願っていた俺のデスクに、向かいの席から事務の森田さんがクリアファイルを手に歩み寄ってきた。

 

「三上さん、おはようございます。今日のお仕事のことで、少しお願いがあるんですけど」

「あ、おはようございます、森田さん。はい、なんでしょう? 新しい物件のデータ入力ですか?」

「いえ、パソコンの作業ではなくて、少し外に出ていただきたいんです。うちで管理している『リバーサイド東陽』というマンションの入居者さんから、玄関のドアの建て付けが悪くて閉まりにくいというご連絡がありまして。専門の修理業者さんを手配する前に、一度現地で実際の状況を確認してきていただけませんか?」

 

 森田さんから差し出されたクリアファイルを受け取り、俺は中の物件資料にざっと目を通した。

 ここから車で十五分ほどの住宅街にある、築二十数年の中規模賃貸マンションだ。

 

「玄関ドアの閉まりが悪い、ですか。なるほど、ドアクローザーの油圧が抜けたか、蝶番が歪んでるのかもしれませんね。入居者さんとの訪問時間の調整はもう済んでいますか?」

「ええ。三階にお住まいの長谷川さんという女性の方なんですけど、今日は午前中ならお仕事がお休みでご在宅とのことなので、十一時にお伺いするお約束になっています」

「分かりました。じゃあ、現地で扉の開閉状態を確認して写真を撮ってきますね。戻ってきたらそのまま業者さんに連絡して、見積もりと日程の調整を進めます」

 

 俺が淀みなく段取りを確認すると、森田さんは安心したように微笑んだ。

 そして俺自身も、胸の奥からじわじわと湧き上がってくる純粋な喜びに、思わず口元が緩むのを感じていた。

 

(……ああ、素晴らしい。なんて普通で、なんて平和な仕事なんだ!)

 

 拳銃を撃たれることもない。日本刀を噛み砕く必要もない。大物ヤクザに睨まれることもなければ、空間移動する密輸女王に振り回されることもない。

 不具合の連絡を受け、現地へ赴いて顧客の話を聞き、状況を記録して専門業者へ引き継ぐ。前職で十年間、来る日も来る日も当たり前にこなしてきた、正真正銘の『普通の営業事務』の仕事だ。

 

「ふふ。三上さん、なんだかすごく嬉しそうですね。そんなに現場確認のお仕事がお好きなんですか?」

「いやあ、好きというか……ここ最近、ちょっと普通じゃない出来事が多すぎたので、こういうまともな仕事ができるのが心の底から嬉しいんですよ!」

「まあ、先週から色々と大変でしたものね」

「本当にですよ! 俺、こういう平和な仕事をするためにこの会社に応募したんですからね!」

 

 俺が力強く頷いていると、奥の役員室から姿を現した若頭の黒瀬が、俺たちの会話を聞きつけて静かに歩み寄ってきた。

 

「三上さん。本日は管理物件の確認で外出されるそうですね」

「あ、黒瀬さん。はい、十一時に先方と約束がありますので、十時半頃には社用車で出ようかと思っています」

「承知しました。では、小野寺ともう一人、若い者を同行させます」

 

「…………はい?」

 

 俺の笑顔がピタリと凍りついた。

 

「……えーっと、黒瀬さん? 今、同行っておっしゃいました? いや、マンションのドアの閉まり具合を見て写真を撮ってくるだけなので、俺一人で十分なんですけど」

「いえ、念のためです。先週の水曜日、一人で外回りに出た小野寺が攫われたばかりですからね。現在の状況で、三上さんお一人で外を歩かれるのは、組織として避けたいのです」

 

 黒瀬は目を細め、至って真面目なトーンで言った。

 俺は思わず自分の両手を見下ろし、それから黒瀬の顔を見上げた。

 

(……いや、ちょっと待ってくれ。俺、先週の夜、その小野寺君を助けるために武装したヤクザ十八人を素手でボコボコにしましたよね?)

 

 自分で言うのもなんだが、今の俺は銃弾を素手で掴めるTier3の異能者だ。普通に考えれば、うちの事務所にいる誰よりも物理的な戦闘力は高いはずなのだが。

 

「あの、黒瀬さん。自分でこんなことを言うのも変なんですけど……万が一にも襲われたとして、本当に護衛が必要なのって俺の方ですかね?」

「ふっ。もちろん、三上さんの腕力については誰よりも信頼しておりますよ。ですが、先日久我組長も申しておられたでしょう。世の中には腕力だけでは対処できない問題もございます。万が一の際の連絡役や運転手、それに現場での雑務の補助も含めて、必ず人を付けさせてください」

 

 そう理路整然と言われると、一介の派遣社員としては「はい、分かりました」と引き下がるしかなかった。

 すると、離れたデスクで俺たちのやり取りを聞いていた小野寺が、待ってましたとばかりにガタッと椅子を蹴って立ち上がった。

 

「親分!! お供します!! 運転でも荷物持ちでも、なんでも任せてくださいっす!!」

「いや、ただのマンションの設備確認だからね? 命を張るような場面は絶対にないから、普通に仕事の手伝いをしてくれればいいんだよ?」

「もちろん分かってるっす! 親分の仕事ぶりを間近で勉強させてもらうっす!」

 

 尻尾を千切れんばかりに振って駆け寄ってくる小野寺。まあ、小野寺君なら昨日も一緒にいたし、気心が知れているからいいか。

 そう思ったのも束の間、事務所の入り口の方から、ずしりとした重い足音が近づいてきた。

 

「三上さん。本日はよろしくお願いいたします」

 

 俺の目の前に歩み出て、直角に腰を折って頭を下げたのは、毎朝ビルの入り口で黒塗りのセダンの横に立っている、あの大柄な組員だった。

 丸太のように太い首回り。身長は百八十センチを優に超え、頬から顎にかけては古い刃物の傷跡がくっきりと残っている。どう見ても「堅気の人間が近寄ってはいけない本職」のオーラを全身から放っている男だ。

 

「……あ、はい。こちらこそ、よろしくお願いします……」

 

 俺は引きつった笑顔で小さく頭を下げ返しながら、心の中で頭を抱えた。

(……いや、もう嫌な予感しかしないぞ。ただでさえ一人暮らしの女性の部屋に伺うのに、なんでこんなVシネマのジャケットから抜け出してきたみたいな強面二人を引き連れて行かなきゃいけないんだよ!)

 

 俺のささやかな「普通の仕事」への期待は、出発前から早くも暗雲が立ち込め始めていた。

 

 *

 

 午前十時五十分。『リバーサイド東陽』三〇二号室。

 この部屋に一人で暮らす長谷川奈緒は、リビングの時計をちらりと見上げ、小さく息を吐いた。

 都内の一般企業で事務職として働く彼女は、今日、有給休暇を使って午前中だけ休みを取っていた。数日前から玄関の鉄扉の建て付けがおかしくなり、外から帰ってきて扉を閉める際、最後にグッと体重をかけて強く押し込まないとラッチが収まらず、鍵が掛けづらくなっていたのだ。

 最初は我慢して使っていたものの、防犯上も良くないと思い、昨日、管理会社である『株式会社汐見総合管理』へと電話を入れた。電話に出た森田という女性事務員はとても丁寧で、今日の午前十一時に『三上』という男性担当者が状況確認に伺うと案内してくれたのだ。

 

(ちゃんと原因が分かって、早めに修理してもらえるといいな……)

 

 奈緒は化粧の崩れを軽くチェックすると、そろそろ担当者が到着する頃合いだと思い、道路に面したベランダ側の窓へと歩み寄った。レースのカーテンを少しだけめくり、三階からマンションのエントランス前の路上を見下ろす。

 

 ちょうどその時、一台の白い営業用のライトバンが、マンションの前に静かに滑り込んで停まった。

「あ、来たみたい」

 奈緒がホッとしたのも束の間。車から降りてきた人物たちの姿を見て、彼女の動きはピタリと止まった。

 

 運転席から飛び降りてきたのは、短く刈り上げた髪に大ぶりのピアスを光らせた、どこかヤンチャな雰囲気の若い男。

 さらに後部座席のドアが開くと、そこから、真っ黒なスーツに身を包んだ、熊のように巨大な体躯の男が姿を現したのだ。遠目からでも分かるほど厳つい顔つきをしており、あろうことか、その頬には生々しい傷跡まで走っている。

 

(……え? なに、あの人たち……。管理会社の人が来るんじゃなかったっけ?)

 

 奈緒の胸に、急速に不安が広がっていく。

 すると、若い男と傷のある大男が車の助手席側へと回り込み、二人がかりで恭しくドアを開けた。

 そこから降りてきたのは、ごく普通の落ち着いたスーツを着た、三十代半ばくらいの男性だった。手には書類ファイルを持ち、見た目はどこにでもいそうな真面目そうな会社員に見える。

 だが、次の瞬間、奈緒は自分の目を疑うような光景を目撃した。

 

 その普通の会社員風の男が軽く何かを口にすると、あの頬に傷のある熊のような大男と、ピアスをした若者が、二人揃って背筋をピンと伸ばし、路上で男に向かって深々と九十度のお辞儀をしたのだ。

 

(……えっ!? あのめちゃくちゃ怖そうな人たちが、あの人にペコペコ頭を下げてる!? じゃあ、あの真ん中の普通っぽい人って、一体何者なの……!?)

 

 奈緒はレースのカーテンを握りしめたまま、ゴクリと冷たい唾を呑み込んだ。

 

 *

 

 午前十一時ちょうど。

 マンションの敷地内へと入った俺は、手元の資料でもう一度部屋番号を確認した。

 

「えーっと、長谷川様のお部屋は三階の三〇二号室だね。今日はあくまで玄関ドアの開閉状況の確認と写真撮影だけだから、十分か十五分くらいで終わると思うよ」

「へい! 任せてくださいっす!」

「いや、任せるっていうか、長谷川さんとお話しして確認するのは俺だからね。小野寺君は俺がお願いした時に、スマホで写真を撮るのを手伝ってくれればいいから」

「了解っす! カメラマンっすね! 最高の角度でバッチリ撮るっす!」

「別に芸術写真を撮るわけじゃないから、普通に不具合の箇所が分かればいいんだよ」

 

 張り切る小野寺に苦笑いで釘を刺していると、後ろに控えていた頬に傷のある大柄な組員が、重低音の響く声でうやうやしく言った。

 

「三上さん。周辺の警戒は私にお任せください。何か不審な動きがあれば、即座に対処いたします」

「……いや、閑静な住宅街の午前中に不審な動きなんてないですから! そんなゴルゴみたいな目で周囲を睨み回さないでください、通報されちゃいますから!」

「……失礼いたしました。以後、気をつけます」

 

 大男は再び深々と頭を下げる。

(……本当に、この人たちは。たかがマンションの設備確認なんだから、もうちょっと普通の会社員っぽく振る舞ってくれないかなあ)

 俺は自分が周囲からどう見えているのかには思い至らないまま、溜息をついてオートロックのないエントランスを抜け、階段で三階へと上がった。

 

 三〇二号室の前で立ち止まり、インターホンを押す。

 

「お世話になっております。株式会社汐見総合管理の三上と申します。本日十一時にお約束しておりました、玄関ドアの確認で伺いました」

『……あ、は、はい。今、開けます……』

 

 インターホン越しに返ってきたのは、なぜかひどく緊張して強張ったような女性の声だった。

 ガチャリと内側から鍵が開き、ドアがゆっくりと押し開けられる。顔を出したのは、清潔感のあるブラウスとスカートを着た、三十歳前後の小柄な女性だった。

 

「長谷川様ですね。本日はお休みのところお時間をいただき、ありがとうございます。担当の三上です」

 

 俺は前職の営業マン時代から何千回と繰り返してきた、一番当たり障りのない柔和な営業スマイルを浮かべて一礼し、用意していた名刺を一枚差し出した。

 

「……あ、はい。長谷川です。よろしく、お願いします……」

 

 しかし、長谷川さんの表情は固く、視線が俺の顔のすぐ後ろあたりをチラチラと彷徨っている。何かをひどく怯えているような様子だ。

(……あれ? 俺、そんなに怖い顔してたかな?)

 不思議に思ってふと背後を振り返った俺は、その原因を即座に理解して愕然とした。

 

 狭い三階の共用廊下で、俺のすぐ後ろにピタリと張り付くようにして、短髪ピアスの小野寺と、頬に傷のある身長百八十センチ超えの大男が、手すり側を塞ぐようにして直立不動で仁王立ちしていたのだ。大人しく待っているつもりなのだろうが、大男の方は腕を後ろで組み、無表情のまま鋭い眼光を放っているため、威圧感が尋常ではない。完全に借金の取り立てか、カチコミの絵面である。

 

(……あ。原因、百パーセントこれじゃん!!)

 

 俺は内心で頭を抱え、慌てて長谷川さんへと向き直った。

 

「あ、あの! すみません、長谷川様! 今日はちょっと他の物件の巡回も兼ねてまして、現場の補助としてうちの若い同僚も二名同行してるんですが、ドアの確認自体は俺一人で大丈夫ですので!」

「……そ、そうなんですか……」

「はい! 狭い廊下に男が三人も突っ立ってたら圧迫感がありますよね! 小野寺君、悪いけど二人とも、ちょっとあっちの階段の踊り場のあたりで離れて待っててくれる?」

「へいっ! 分かりました!」

「後で写真を撮る時だけ呼ぶから、それまでは大人しくしててね」

「了解っす!」

 

 俺が指示を出すと、大柄な組員も「承知いたしました、三上さん。何かあればお呼びください」と、俺に向かって深々と頭を下げてから、小野寺と一緒に廊下の端へと下がっていった。

 その様子を見ていた長谷川さんの目が、さらなる驚愕に大きく見開かれたことには、俺はまったく気づいていなかった。

(……よし。とりあえずあの二人を遠ざけたから、これで少しは安心してもらえるだろう)

 

 *

 

「それでは長谷川様、早速ですがドアの状態を見させていただいてもよろしいでしょうか。普段、どのあたりで引っ掛かる感じがするのか、一度閉めて見せていただけますか?」

「あ、はい。えっと、こうやって普通に閉めようとすると……」

 

 長谷川さんが一歩外へ出て、開いていた鉄扉をゆっくりと引く。

 扉はスムーズに閉まっていくが、枠に収まる直前の数センチのところで、ガツッ、と何かが干渉するような鈍い音を立てて止まってしまった。そこから先は、長谷川さんが両手でグッと体重をかけて押し込まないと、カチリとラッチが収まらない状態だった。

 

「なるほど。最後の数センチのところで、下枠のあたりに擦れて引っ掛かってるみたいですね。ちょっと俺の方でも動かしてみますね」

 

 俺は扉の取っ手を握り、自分の手で何度かゆっくりと開閉を繰り返してみた。

 今の俺の筋力なら、こんな歪みなど無視して指先一つで強引に閉め切ることも、なんなら扉ごと枠から引きちぎることも簡単にできてしまうだろう。だが、そんなことをすれば原因が分からないどころか器物損壊だ。俺は意識して一般人と同じだけの弱い力加減を保ちながら、蝶番の隙間や上部のドアクローザーの角度を注意深く観察した。

 

「……ふむ。上部の蝶番が少しだけ緩んで、扉全体がわずかに斜めに下がってしまっているのかもしれませんね。ドアクローザーの速度調整弁も少し狂ってるみたいです」

「そうなんですね……。昨日の夜なんかは、荷物を持ったまま閉めようとしたら全然閉まらなくて、結構困ってしまって」

「そうですよね、これだけ固いと毎日の出入りが大変だったと思います。これは素人が下手にいじるより、専門の建具業者さんにきちんと調整してもらった方が良さそうです。業者さんに事前に状態を見せるために、何枚か写真を撮らせていただいてもよろしいですか?」

「はい、もちろんです。お願いします」

 

 俺はポケットから会社支給のスマホを取り出した。

 ただ、左手にクリアファイルとボールペンを持ったままでは、扉を引っ掛かる位置で固定しつつ、擦れている下枠の隙間を撮影するのが少し難しい。

 

「あー、やっぱり手が足りないな。……おーい、小野寺君! ちょっと写真撮るの手伝ってもらえる?」

 

 俺が廊下の端へ向かって声をかけると、階段の近くで待機していた小野寺が、待ってましたとばかりにダダダッと小走りで駆け寄ってきた。

 

「へいっ!! お待たせしましたっす!!」

「じゃあ、これにスマホ渡すから。俺がドアを引っ掛かる位置で止めておくんで、この下の隙間と、上の蝶番のあたりを何枚か撮ってくれる?」

「もちろんっす! 任せてください!」

 

 小野寺はスマホを両手で受け取ると、しゃがみ込んで真剣な顔つきで画面を覗き込んだ。

 俺が扉をゆっくりと動かし、ガツッと止まる位置でキープする。

 すると小野寺は、カメラの焦点を合わせながら、普段の事務所にいる時とまったく同じ調子で、元気いっぱいに声を張り上げたのだ。

 

「親分!! これ、もうちょっと右の角度から撮った方が分かりやすいっすか!?」

 

「………………」

 

 ピタリ、と。

 三階の吹き抜けの廊下に、冷たい冬の風がヒューッと通り抜けた。

 扉を支えていた俺の手が止まり、俺のすぐ横に立っていた長谷川さんの肩が、ビクンと激しく跳ね上がったのが視界の端で見えた。

 

(……あ。こいつ、今、言ったな)

 

 俺は扉から手を離し、しゃがみ込んでスマホを構えている小野寺の顔を、ゆっくりと見下ろした。

 

「……小野寺君」

「へいっ! なんすか?」

「君、今、俺のことをなんて呼んだ?」

「え? 親分っすけど!」

「だから!! 会社の外や一般のお客さんの前では、絶対に『三上さん』って呼べって黒瀬さんから言われてたでしょうが!!」

 

 俺が思わず声を潜めてツッコミを入れると、小野寺は「あっ!」と目を見開いて自分の口元を手で覆い、すぐさまその場で立ち上がって頭を下げた。

 

「す、すんません、親分!! ついいつもの癖で口が滑っちまったっす!!」

「それだよ!! 今まさにまた言ってるでしょ!! それをやめてって言ってるんだよ!!」

「あっ、すんません!! 三上さん!! 申し訳ないっす!!」

 

 ペコペコと必死に頭を下げる小野寺を見て、俺は額に手を当てて深い溜息をついた。

(……あああああ!! せっかくここまで完璧に『普通の管理会社の社員』として爽やかに仕事を進めてたのに!! なんで一番大事なところでぶち壊すかな、このお調子者は!!)

 

 俺が恐る恐る横を向くと、そこには案の定、顔面を蒼白にして完全にフリーズしている長谷川さんの姿があった。

 俺はスマホを小野寺からひったくるようにして回収すると、長谷川さんに向かって、両手をぶんぶんと振りながら必死の弁明を開始した。

 

「あ、あのっ! 違いますからね、長谷川様!? 今のは断じてそういう意味じゃないですからね!?」

「……は、はいぃ……?」

「こいつ、普段からちょっと変な任侠映画みたいな冗談を言う悪い癖がありまして! 先輩のことを冗談で『親分』なんて呼んでるだけなんです! 俺、ヤクザの親分とかじゃありませんから! ただのしがない派遣社員ですから!」

「……そ、そうなんですね……」

 

 長谷川さんは、引きつった笑顔でコクコクと高速で首を縦に振っている。目が完全に泳いでいるが、とりあえず頷いてはくれている。

(……よし、今の説明でなんとか体育会系のノリだってことにして誤魔化せたか?)

 俺が冷や汗を拭いながらホッとしかけた、その直後だった。

 

 隣で反省していたはずの小野寺が、俺の言葉を聞いて何を思ったのか、急にキリッとした真面目な顔つきになり、長谷川さんに向かってドンと胸を張って言ったのだ。

 

「いや、冗談なんかじゃないっす! 会社での肩書きがどうだろうと、俺にとっては三上さんが一生に一人の『親分』なのは間違いないっすから!!」

 

「………………」

「………………」

「小野寺くううううううん!? 今はそういう熱い忠誠心はいらないから黙っててえええええ!!」

 

 俺の悲痛な叫びが廊下に木霊する。

 すると、俺の大声を聞きつけたのか、階段の踊り場で待機していたはずのあの頬に傷のある大柄な組員までが、「ただ事ではない」という険しい顔つきでドスドスと足音を立てて駆け寄ってきた。

 

「三上さん! 何か問題でもございましたか!?」

「いや、問題ないです!! 何も問題は起きてないですから!! 小野寺君がまた余計なことを言い出しただけですから!!」

「……左様でしたか。大変失礼いたしました」

 

 大柄な男は俺に向かって深々と一礼すると、隣で固まっている小野寺の方へと向き直り、腹の底に響くようなドスの利いた低い声で睨みつけた。

 

「おい、小野寺。外で三上さんにご迷惑をおかけするんじゃねえぞ。後で若頭からきつく絞られたくなかったら、その口を閉じてろ」

「ひっ……! す、すんません、兄貴!」

「……小野寺君、今度は『兄貴』って言ったよね!? いや、もういいから! 怒らなくていいですから、二人ともとにかくあっちの階段の下に行って待っててください! お願いしますから!!」

 

 俺が半泣きになりながら二人を押しやると、大男は「承知いたしました。では、階下にて待機しております」と、これ以上ないほど恭しく一礼してから、小野寺の首根っこを引っ張るようにして階段を降りていった。

 

 嵐のように去っていった二人を見送り、俺が再び長谷川さんの方へと向き直ると。

 そこには、ドアノブを握りしめたまま、小動物のようにカタカタと肩を震わせている長谷川さんの姿があった。

 

「……あ、あの、長谷川様。本当に、誤解ですからね? 俺は時給制で働いてるただの事務員で、うちの会社も普通の不動産管理会社でして……」

「は、はいっ!! 分かっております!! もちろんです!! 三上様は、普通の派遣社員の方ですよね!!」

「あ、はい。分かっていただけてよかったです……」

「ええ!! そういうことにしておきます!! 私、誰にも何も言いませんので!!」

 

「…………ん?」

 俺は首を傾げた。

 今、この人、すごくいい笑顔で『そういうことにしておきます』『誰にも言いません』って言わなかったか?

 それって、完全に「表向きは一般市民を装っている裏社会のボス」に対する態度じゃないのか!?

 

「違う違う!! 『そういうこと』とかいう裏設定じゃなくて、本当にただの派遣社員なんですってば!!」

 

 俺は必死に食い下がろうとしたが、長谷川さんが「はい! 信じてます! 信じてますから!」と涙目で何度も頷くのを見て、それ以上言葉を続けるのを諦めた。

 ここで俺がムキになって否定すればするほど、なぜか「口封じをしようとしている怖い人」に見えてしまうという、底なしの沼にハマっていることにようやく気づいたからだ。

 

 *

 

(……くそっ。もうこうなったら、言葉で弁明するのはやめよう。とにかく目の前の業務を完璧に、そして誠実にこなして、俺が『無害でまともな管理会社の人間』だってことを態度で示すしかない!)

 

 俺は心の中で方針を切り替え、大きく深呼吸をした。いったんファイルを脇へ置き、長谷川さんに確認してもらいながら扉を開閉して、会社支給のスマホで不具合の箇所を数枚撮影する。必要な写真が揃ったところで、先ほど以上に丁寧で穏やかな営業マンのトーンで語りかけた。

 

「……ええと、大変お騒がせして申し訳ありませんでした。うちの若い連中、少し声が大きくて落ち着きがないもので……。写真は私の方で今撮りましたので、あともう少しだけ、今後の流れについてご説明させていただいてもよろしいでしょうか?」

「……あ、はい。もちろんです」

 

 俺が無理に距離を詰めず、一歩下がって礼儀正しく接すると、長谷川さんの肩から少しずつ過度な緊張が抜けていくのが分かった。

 

 俺はスマホの画面に表示された写真を長谷川さんにも見せながら、具体的な説明を始めた。

 

「今撮影したこちらの写真なんですが、やはり扉の下側が枠に干渉して擦れた跡がついていますね。このまま無理に押し込んで使っていると、鍵のシリンダー自体が壊れて開かなくなってしまう恐れがあります」

「えっ、鍵が開かなくなるんですか……? それは困りますね……」

「はい。ですので、会社に戻り次第、本日中に提携している専門の建具業者へこの写真を送って修理の手配をかけます。業者さんが訪問できる候補日時が分かり次第、私か事務の森田から長谷川様へお電話でご案内いたしますので、ご都合の良い日を選んでいただく形になります」

「今日中に手配していただけるんですね。ありがとうございます……」

 

 具体的な段取りを聞いて、長谷川さんの表情にようやく本来の落ち着きが戻ってきた。

 すると彼女は、少しだけ言い淀むように視線を落とし、恐る恐るといった様子で口を開いた。

 

「あの……ひとつお伺いしたいんですけど……。このドアの修理代って、やっぱり私が払うことになるんでしょうか……? 結構、高くなりますか……?」

 

 一人暮らしの女性にとって、突発的な設備の修理費用というのは切実な不安の種だ。悪質な管理会社だと、なんでもかんでも入居者の過失にして請求するところもあると聞く。

 俺は彼女の不安を取り除くように、ゆっくりと、しかし明確に首を横に振った。

 

「ご安心ください。最終的には専門業者さんが原因を診てからにはなりますが、今回のように、普通に使っていて経年劣化で蝶番が緩んだり建て付けが悪くなったりした場合は、基本的に建物のオーナー様側の負担で修繕することになります」

「えっ、そうなんですか?」

「はい。長谷川様が故意に強い衝撃を与えたといった事情がない限り、通常の使用で生じた不具合の修理費用を入居者様へご負担いただくことは原則ありません。もし万が一、費用が発生するような特殊なケースであっても、作業前に必ずこちらからご説明してご了承をいただきます。勝手に修理して後から高額な請求書を送りつけるようなことは絶対にいたしませんので、どうぞ安心してくださいね」

 

 それ以上余計な言葉を足さず、俺は長谷川さんが頷くのを待った。

 こういう時に役立つのは、前職の営業時代、クレームやトラブル対応で培った『相手の目線に立った説明スキル』だ。

 

 俺の言葉を聞いた長谷川さんは、目をパチパチと瞬かせ、それから心の底からホッとしたように胸を撫で下ろした。

 

「……よかったぁ。私、こういう設備のことで管理会社の方をお呼びするのが初めてだったもので、すごく高いお金を請求されたらどうしようって、昨日からずっと不安だったんです」

「そうだったんですね。毎日使う玄関ですし、女性の一人暮らしで鍵が閉まりにくいというのは防犯上も一番危ないですから、我慢せずに早めに連絡していただいて大正解でしたよ」

「なんか、こんな細かいことでわざわざ来ていただいて、かえって申し訳ないです……」

「いえいえ、建物を安全な状態に保つのが私たちの仕事ですから。また何か、水回りでも空調でも気になることがあれば、遠慮なくいつでもお電話くださいね」

 

 俺がにこりと微笑むと、長谷川さんの顔にも、ようやく警戒心のない自然な笑顔が咲いた。

(……よし! ちゃんと仕事ぶりで信頼を回復できたぞ! やっぱり俺の本領は、銃撃戦なんかじゃなくてこっちの穏やかな顧客対応だよな!)

 

 俺は満足感を胸にファイルを閉じ、長谷川さんに向かって深々と頭を下げた。

 

「それでは、本日の現地確認は以上となります。お休みのところご対応いただき、本当にありがとうございました。業者さんの日程が分かり次第、またご連絡いたします」

「はい、こちらこそ、すごく分かりやすく説明していただいて安心しました。よろしくお願いいたします」

 

 礼儀正しく挨拶を交わし、俺が爽やかな気分で共用廊下を階段の方へと歩き出した、まさにその時だった。

 

「三上さんっ!! お疲れさまでした!! お荷物、私がお持ちします!!」

 

 階段の下から、あの頬に傷のある大柄な組員が、地響きのような声とともに駆け上がってきたのだ。

 俺が止める間もなく、大男は俺の左手から薄いクリアファイルをうやうやしく両手で受け取ると、まるで王冠でも捧げ持つかのように胸の前に抱え、後ろからついてくる小野寺と一緒に「「お疲れさまでしたっ!!」」と廊下に響き渡る大声で頭を下げた。

 

「い、いや、クリアファイル一枚くらい自分で持てますってば……!」

 

 俺が小声でツッコミを入れながら、チラリと後ろの三〇二号室の方を振り返ると。

 玄関の前で俺たちを見送っていた長谷川さんが、再び目を丸くして固まりながら、俺たちの異様な主従関係を無言で見つめているのが見えた。

 

 *

 

 三人が階段を降りていった後、長谷川奈緒は三階の廊下の手すりから身を乗り出し、マンションの前の路上へと出てくる彼らの姿をそっと見下ろしていた。

 

 真ん中を歩く、普通のスーツ姿の三上という男性。

 その一歩後ろには、クリアファイル一枚を大事そうに抱えた傷顔の巨漢と、背筋を伸ばしたピアスの若者が、まるでSPか忠実な舎弟のようにピタリと付き従っている。三上が何か一言話しかけるたびに、二人の強面が「へい!」「左様でございますね!」と即座に頭を下げて応じているのが、三階からでもはっきりと見て取れた。

 

(……やっぱり、どう見ても普通の派遣社員なんかじゃないよね、あの人……)

 

 奈緒は自分の部屋へと戻り、内側からドアを閉めて(やはり最後は強く押し込んだ)、渡された名刺を見つめた。

『株式会社汐見総合管理 三上悠介』。肩書きは何も書かれていない。

 最初は、とんでもなく怖い反社会的な人たちが家にやってきたと思って、心臓が止まるかと思った。若い男がうっかり「親分」と呼んだ時は、ドラマでよく見る地上げ屋か何かに目を付けられたのかと本気で覚悟したほどだ。

 

 けれど。

 実際に三上という男性と一対一で話してみると、その印象は百八十度覆された。

 物腰は驚くほど柔らかく、言葉遣いも丁寧で、こちらの目をしっかりと見て話してくれる。ドアの不具合の原因も的確に調べてくれたし、何より、奈緒が一番不安に思っていた修理費用のことについて、素人にも分かるように優しく説明して安心させてくれたのだ。

 

(あんなに凶暴そうな部下の人たちを一睨みで黙らせてたのに、私みたいな一般の入居者には、あんなに何度も頭を下げて親切にしてくれた……)

 

 奈緒はリビングのソファに座り込み、先ほどの三上の穏やかな笑顔を思い返した。

 そして、彼女の中の真面目な想像力は、ひとつの「完璧な結論」へと辿り着いた。

 

(……そっか。テレビや漫画に出てくるチンピラみたいに威張り散らしてるのは、きっと下っ端の人たちなんだ。本当に裏社会で頂点に立つような器の大親分だからこそ、普段はあんなふうに身分を隠して、誰に対しても腰が低くて優しいんだわ……!)

 

 だから、あのおっかない部下の人たちも、彼のその人間的な大きさに心酔して、「一生ついていく」と命懸けで慕っているに違いない。間違いない、そうに決まっている。

 

 ピロン、とテーブルの上のスマホが鳴った。

 画面を見ると、会社の同僚で仲の良い友人から、『今日、家のドアの修理の人が来る日じゃなかったっけ? どうだった?』というメッセージが届いていた。

 奈緒はスマホを手に取り、少し迷いながらも指を動かして返信を打った。

 

『うん、さっき管理会社の人が来てくれたよ。すごく丁寧で親切な人だった。修理代は確認待ちだけど、普通に使ってて起きた不具合ならオーナーさん負担になるみたいで安心した』

 すぐに友人から『よかったじゃん!』とスタンプが返ってくる。

 奈緒は名刺をもう一度見つめ、少しだけ頬を緩めながら、追伸のようにメッセージを打ち込んだ。

 

『ただ、なんかお供を二人連れた極道の親分さんっぽい人だった……』

『え???』

『でも、めちゃくちゃ腰が低くていい人だったよ。きっとすごく立派な親分さんなんだと思う』

『……え? ちょっと待って奈緒、それどういうこと!? どっち!?』

 

 友人から困惑したメッセージが連投されてきたが、奈緒は「ふふっ」と小さく笑ってスマホを置いた。友人には思わず話してしまったが、これ以上あの人のことを詮索したり、誰かに広めたりするのはやめておこうと心に決めながら。

 

 *

 

 午後一時頃。

 昼食を済ませて事務所へと戻った俺は、早速デスクのパソコンに向かい、長谷川さんの部屋のドアの写真を整理して修繕依頼書を作成していた。

 

「森田さん、リバーサイド東陽の三〇二号室、状況写真と報告書を共有フォルダに入れておきました。建具屋の佐藤工務店さんに、見積もりと訪問可能日の確認をお願いできますか?」

「はい、確認しました。いつもお仕事が早くて助かります、三上さん。すぐに工務店さんに連絡しておきますね」

 

 森田さんに引き継ぎを終え、俺は自分のデスクで大きく伸びをした。

 途中、小野寺の失言によって冷や汗をかく場面はあったものの、最終的には顧客の不安を解消し、無事に案件を処理することができた。

(……うん。やっぱり俺には、こういう地道なデスクワークと顧客対応が一番合ってるよな)

 

 俺が達成感に浸りながら、午後の入金チェック作業に移ろうとした時だった。

 トゥルルルル、と森田さんのデスクのビジネスフォンが鳴った。

 

「はい、お電話ありがとうございます、株式会社汐見総合管理でございます。……あ、はい! 長谷川様ですね、先ほどはどうもありがとうございました」

 

 森田さんの声に、俺はピクリと耳をそばだてた。

(……あれ? 長谷川さんから電話だ。もしかして、さっきの説明で何か言い忘れたことがあったかな?)

 少し心配になって見守っていると、森田さんは終始にこやかな表情で相槌を打ち、やがて丁寧にお辞儀をして受話器を置いた。

 

「森田さん、長谷川さんからでしたよね? 何かトラブルでもありましたか?」

「いいえ、逆ですよ、三上さん。わざわざお礼のお電話をくださったんです。『先ほど来てくださった三上さんが、とても親切で丁寧に説明してくださったので本当に安心しました、よろしくお伝えください』って」

 

「おおっ、本当ですか! いやあ、そう言ってもらえると嬉しいですね!」

 

 俺はパッと顔を輝かせた。

 やはり、真面目に誠実に仕事をしていれば、相手にはちゃんと伝わるものなのだ。きっと、あの「親分」という変な誤解も、俺の営業マンとしての真摯な対応によって無事に払拭されたに違いない。

 

 ――と、俺が胸を撫で下ろした直後。

 森田さんは、なんだか少しだけ不思議そうに首を傾げながら、言葉を付け加えた。

 

「あ、それとですね、三上さん」

「はい?」

「長谷川様が最後に、『ご一緒にいらしていた頼もしそうな部下のお二人にも、どうかよろしくお伝えください』っておっしゃっていたんですけど……」

 

「………………」

 

 俺の顔から、スッと笑顔が消え失せた。

 

「……え? ぶ、部下?」

「ええ。とても礼儀正しい部下の方々だったから、って。……三上さん、現地でどういうご紹介をされたんですか?」

「いや、俺は『現場の補助で来た若い同僚です』って紹介しましたよ!? なんで俺の部下ってことになってるんですか!?」

 

 俺は頭を抱えてデスクに突っ伏しそうになった。

 全然、これっぽっちも誤解が解けていなかった! それどころか、俺が丁寧に仕事をすればするほど、長谷川さんの中では『親切で仕事ができる組長と、その忠実な舎弟二人』という構図がより強固に完成してしまっていたらしい!

 

「も、森田さんっ!! お願いがあります!!」

「は、はい!? なんでしょう?」

「次に修理の日程連絡で長谷川さんにお電話する時、俺は断じて親分なんかじゃなくて、時給二千五百円で雇われてるただの派遣社員だって、森田さんの口からもう一度はっきり訂正しておいてください!!」

「……え? でも三上さんは、実際に派遣社員として来ていただいているじゃないですか。どうしてそんなことをわざわざ?」

「そうなんですよ!! 事実なんですけど、なぜか誰もその単純な事実をそのまま信じてくれないんですよおおお!!」

 

 きょとんと目を丸くする森田さんの前で、俺は自分の不条理な境遇を嘆くしかなかった。

 

 *

 

 午後一時半。

 このままでは今後も外回りに出るたびに一般市民から「極道の親分」と勘違いされかねない。強い危機感を抱いた俺は、役員室から出てきた黒瀬の元へと駆け寄った。

 

「黒瀬さん!! ちょっと折り入ってお願いがあるんですけど!!」

「はい、三上さん。どうなさいましたか、そんなに慌てて」

「小野寺君のことです!! あいつ、今日のマンションの現場でも、一般の女性の入居者さんの目の前で、俺のことを大声で『親分』って呼んだんですよ!! もう一回、黒瀬さんの方から厳しく言ってやってくれませんか!?」

 

 俺の必死の訴えを聞いた瞬間、黒瀬の涼しげな目がスッと細まり、周囲の温度が二度ほど下がったかのような冷徹な空気が漂った。

 

「……なるほど。小野寺が、また外でそのような不始末を」

「はい! おかげで入居者さんにめちゃくちゃ怯えられて、大変だったんですから!」

「承知いたしました。外部でそのような呼び方をすることは、我々の組織の情報管理の観点からも決して看過できません。私から厳重に申し渡しておきます。……おい、小野寺。ちょっとここへ来い」

 

 黒瀬が低くよく通る声で呼ぶと、自分のデスクで書類を眺めていた小野寺が、ビクッとして弾かれたように立ち上がり、小走りで俺たちの前へとやってきた。

 

「へ、へいっ! 若頭、なんでしょう!」

「お前、先ほどの外出先で、一般の入居者様の前で三上さんを『親分』と呼んだそうだな」

「あっ……! い、いや、あれはその、写真を撮るのに夢中になっちまって、つい反射的に……」

「言い訳をするな。以前にもきつく申し渡したはずだぞ。三上さんは我々の正式な組員ではないし、そのお立場に関する事情は外へ軽々しく話していいことではない。取引先や堅気の方々の前では、いかなる時でも必ず『三上さん』とお呼びしろと言ったはずだが、もう忘れたのか?」

 

 黒瀬の静かだが有無を言わせぬ迫力に押され、小野寺は顔面を蒼白にして直角に頭を下げた。

 

「す、すんませんでした、若頭!! 俺が浅はかでした!!」

 

 黒瀬は俺をからかっているわけではなく、組織の規律と秘密を守るために本気で叱ってくれている。その真剣な態度に、俺も横で「よしよし、これでようやく小野寺君も懲りてくれるだろう」と安堵していた。

 

「ほら、小野寺君。黒瀬さんもこうおっしゃってるんだから、ちゃんと理解した? 次からは外では絶対に気をつけてよ?」

「へいっ!! 肝に銘じたっす! もう二度と外では口を滑らせないっす!」

 

 力強く頷く小野寺を見て、俺はホッと胸を撫で下ろした。

 ところが、頭を上げた小野寺は、そこで何を思ったのか、自分の拳をグッと握りしめ、潤んだ熱い瞳で俺を真っ直ぐに見つめて言ったのだ。

 

「……でもっ! 外ではちゃんと『三上さん』って呼ぶっす! ただ、俺にとってはいつまでも親分っすから!!」

「………………」

「もちろん、心の中だけにしておくっす!」

 

 暑苦しい。あまりにも暑苦しすぎる。

 俺はこめかみを押さえながら、半眼になって溜息をついた。

 

「……まあ、百歩譲って、君の心の中でどう思おうと勝手だけどさ。とにかく声にさえ出さなければいいからね」

「はいっ!! ありがとうございます、親分!!」

「だから今すぐ声に出してるじゃないか!! まだ一分も経ってないぞ!!」

 

 俺が全力でツッコミを入れていると、先ほど一緒に同行していたあの頬に傷のある大柄な組員までが、お茶の湯呑みを手に近くを通りかかり、俺に向かって恭しく足を止めた。

 

「三上さん。本日は現場へご同行させていただき、誠にありがとうございました。三上さんの鮮やかで誠実なお仕事ぶり、大変勉強になりました」

「あ、いえいえ。こちらこそ、お二人とも付き添っていただいて助かりましたよ」

「恐れ入ります。今後も外へ出られる際や、何かご入用の際には、いつでも我々若い衆にお申し付けください。それでは、失礼いたします」

 

 大柄な男は、軍人のように美しい角度で再び深々と頭を下げてから、自分の席へと戻っていった。

 その圧倒的な「組長に対する舎弟の礼儀」を目の当たりにした俺は、遠い目をして天井を見上げた。

(……駄目だ。これ、小野寺君の呼び方だけを直したところで、後ろに控えてる人たちの態度がこれじゃあ、誰が見たって本物の極道の親分にしか見えないじゃないか……)

 

 俺は自分のデスクに手をつき、今日一日の出来事を振り返って深く、深く息を吐き出した。

 今日はただ、管理マンションの玄関ドアの閉まり具合を確認しに行っただけだ。

 不具合の箇所を確かめ、スマホで写真を撮り、入居者さんに修理の手順を説明して安心してもらった。業務内容としては、百点満点の「普通の不動産管理会社の仕事」だったはずだ。

 それなのに、終わってみれば一般の女性入居者からは「身分を隠した器のでかい極道の親分」として畏敬の念を抱かれ、お礼の電話で「部下の方々にもよろしく」と言われる始末。

 

(……なんでだよ。俺はただ、普通に営業事務の仕事をしてただけなんだけど!?)

 

 俺が理不尽な現実に打ちひしがれていると、隣に立っていた小野寺が、まるで憧れのスターを見るようなキラキラした目で俺を見つめ、嬉しそうに言った。

 

「でも親分! 俺、今日初めて親分が入居者のお姉さんに説明してるところを見ましたけど、ああやって営業事務の仕事を完璧にこなしてる親分も、めちゃくちゃシブくて格好いいと思ったっすよ!!」

 

「………………」

 

 俺はゆっくりと首を回し、満面の笑みを浮かべる愛すべき馬鹿な後輩の顔をジッと見つめた。

 そして、腹の底から湧き上がるツッコミを、ありったけの声量で叩きつけた。

 

「……あのね、小野寺君っ!!」

「へいっ!!」

「俺は『営業事務もできる極道の親分』じゃなくて、最初からただの『営業事務の派遣社員』なんですってばあああああああっ!!」




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