先に謝っておきます。
多分皆さんの思ってたんとちゃいます。申し訳ないです。
あと、オリジナル設定もりもりです。
要するに、アレルゲンまみれです。
ご注意ください。
―――カナリアは、歌わない。
カナリアは、鳴かない。
カナリアは、誰も、温めない。
カナリアは、誰にも、温められない。
カナリアは、誰よりも先に、死ぬ。
炭鉱の底で、見えない毒をいちばん先に吸い込み、小さな体を痙攣させて落ちる。その死を合図に、人は毒の在処を知って刃を振るう。冷たい坑道の底で、誰の手のひらにも包まれず、誰の手のひらも温めずに。
それが僕に与えられた、たったひとつの役割だった。
◇
十月。朝の五時半に目を覚ます。
体温三十五度九分、脈拍は毎分五十二。手足の反応に異常はない。確認にかかった時間は二秒で、地下にいた頃と何も変わらない。
三十五度九分というのは、人の平熱より一度ほど低い。長老たちがそう作った。熱を生む代謝を削り、熱を感じる神経を削った。だからこの体は誰かを温めるほどの熱を持たないし、誰かの熱に触れても、それを温かいとは受け取らない。皮膚が何度のものに触れたか、その数字が通り過ぎていくだけだ。
六畳一間に窓がひとつ。寝台と机がひとつずつ。総耶駅の北側、繁華街の裏手にある古いアパートの二階を、長老たちの遺した金と、彼らが偽造した書類で借りている。壁には何も貼っておらず、棚には何も置いていない。冷蔵庫に入っているのは、ミネラルウォーターが十二本と、固形の栄養調整食品が四十八箱。
朝食は一本。四十回噛んで、飲み込む。
舌の上で情報がほどけていく。糖質、脂質、蛋白質、ビタミン群。塩分は基準値内、毒性なし。それで終わりだ。
味というものを、僕は知らない。甘い、辛い、苦い――人間は舌に乗った情報にそういう名前をつけて、喜んだり顔をしかめたりする。僕の舌は名前をつけない。数えるだけだ。喜ぶことも、顔をしかめることもない。喜怒哀楽というものが、もともとこの体には組み込まれていない。
――それでいい。
頭の奥で、嗄れた声がする。
――味はノイズだ。情もノイズだ。ノイズは刃を鈍らせる。
長老たちが死んで二年になる。それでもあの声は、毎朝きちんと頭蓋の内側で同じ言葉を繰り返す。
机の引き出しから、布にくるんだものを取り出した。
黒銀の短剣。刃渡りは十八センチで、柄には蔦と牙を組み合わせた一族の紋章が刻んである。
窓から射した朝の光が刃に落ちて、吸い込まれるように鈍く沈んだ。鞘に収めてベルトの背中側に差し、ブレザーの裾で隠す。
鏡の前に立つと、真新しい紺の制服を着た少年が映っている。
灰を溶かしたような薄い金髪に、北の冬空みたいな淡い灰青の目。日に当たることの少なかった白い肌と、この国の人間より少しだけ深い彫り。表情の薄い顔だ。
この顔は隠しようがない。だから長老たちは、書類のほうを顔に合わせた。
有波叶人、十七歳。父は日本人で、母は東欧の出身。都内の私立高校から家庭の事情で転入し、両親は仕事で海外にいる――書類の上では、そういうことになっている。
本当の名前は別にある。本当の国も、本当の生まれ年も。けれどそれを知っている人間はこの街にはいないし、知っていた人間はみんな死んだ。
鏡の中の少年に向かって、口角を二ミリ上げてみせる。
――人の中に紛れろ。紛れて、待て。
二ミリ。それ以上だと不自然で、それ以下だと陰気に見える。無口で、少し愛想のない転校生。目立つ顔をしているなら、せめて中身くらいは目立たないほうがいい。
鍵を二度確かめて、部屋を出た。
今日が転入の初日だった。
◇
六時四十分。総耶から四つ離れた駅の、上りホームのいちばん端に立つ。
監視対象がこの駅から電車に乗ることは、一週間前に確かめてあった。
遠野志貴。総耶高校の二年で、遠野家の長男。幼い頃の事故をきっかけに遠縁の有間家に預けられて育ち、父親の死を受けて、今日、遠野の本家に戻る。
蛇は、財と力を持つ家の子を選んで生まれ変わる。長老たちの遺した記録にはそう書かれていた。この街でいちばん古く、いちばん大きな家の長男。
――蛇の、次の器の候補。監視対象、一。
六時四十八分、改札のほうから少年がひとり歩いてきた。眼鏡をかけた細い体で、首筋に血の気がない。鞄を肩に掛けて、少し背中を丸めている。遠野志貴だ。
彼はホームの反対の端で電車を待ち、僕は柱の陰からそれを見ていた。距離はおよそ四十メートル。
電車が来た。遠野志貴は三両目の前の扉から乗り、僕は同じ車両の後ろの扉から乗った。
◇
朝の上り電車はまだ空いていた。吊り革につかまって窓の外を見るふりをしながら、ガラスに映る車両の前方を見る。遠野志貴は扉の脇に立って、ぼんやり外を眺めていた。
次の駅で、女子生徒がひとり乗ってきた。
眼鏡に、夜の色をした短い髪。総耶高校の紺の制服を着て、旅行鞄ほどもある重そうな鞄を両手で抱えている。彼女は遠野志貴の隣に立って何か話しかけ、遠野志貴は少し驚いた顔で何か答えた。
知り合いだろうか。
頭の中の名簿をめくる。転入の手続きをする前に、総耶高校の全校生徒の名前と顔写真は残らず覚えてきた。一年から三年まで、在籍者全員を。
あの顔はない。
――該当なし。総耶高校の制服を着た、名簿にない生徒。
記録しておく。
電車が揺れて、女子生徒の鞄が傾いた。何か起きたらしく、彼女は何度も頭を下げ、遠野志貴は困ったように手を振っている。走行音にまぎれて、声の切れ端だけが届いた。
「――ボランティアの、帰りで――」
「――本当に、ごめんなさい――」
「――今度、何かで、お詫びを――」
明るくて、よく通る声だった。
総耶の駅で二人は並んで降りていき、僕は三十秒待ってから降りた。
◇
八時三十分。総耶高校、二年の教室。
「今日からこのクラスに入る、有波だ」
担任の戸山が黒板に僕の名前を書いた。チョークの音がやむと、教室じゅうの視線が集まってくる。正確には、僕の髪と目と肌に。
「有波叶人です。……よろしくお願いします」
十五度だけ頭を下げて、それきり口を閉じた。
ざわ、と教室の空気が揺れる。
「……ハーフ?」
「目、灰色じゃない?」
「やば、モデルみたい」
小さな声があちこちで弾けた。
「静かにしろー。有波、席は窓際の後ろから二番目な」
指定された席に向かう途中、斜め前の席の横を通る。遠野志貴が頬杖をついて窓の外を見ていた。電車の中と同じ、少し眠そうな顔だった。
窓際の後ろから二番目。監視対象の斜め後ろで、観察にはいちばんいい位置だ。偶然ではない。転入の書類に、視力の都合で窓際の後方を希望すると書いておいた。
◇
休み時間のたびに、人が寄ってきた。
「ねえねえ、有波くん、どこから来たの?」
「……都内」
「お母さんが外国の人なんだよね? どこの国?」
「……ヨーロッパの、東のほう」
「へえー! 向こうの言葉、しゃべれる?」
「少し」
「すごーい。今度なんかしゃべってよ。あ、あとさ、連絡先――」
「次、移動教室だから」
教科書を持って立ち上がる。女子生徒たちは顔を見合わせ、ちょっと唇を尖らせてから笑った。
「……クールだね」
「ね。ちょっと怖いけど、かっこいい」
背中越しに、そんな声が聞こえた。
この顔は目立つし、目立つものには人が寄ってくる。とくに女子生徒が。そのたびに短く答えて、話が膨らむ前に閉じる。拒みはしないが、受け取りもしない。水面に落ちた葉を、沈めも拾いもせずに流していくように。
対応の手順は転入前に決めてあった。初日は六回。六回とも手順どおりに閉じた。
「よう、転校生」
頭の上から声が降ってきた。乾有彦。遠野志貴のいちばん近い友人で、軽薄な口ぶりと面倒見のよさが半分ずつ混ざった男だ。
「人気者じゃん。……まあ、困ったことあったら言えよ。この学校、変なやつ多いから」
「……ありがとう」
「おう」
それだけ言って、乾有彦は遠野志貴の席のほうへ歩いていった。
前のほうの席では、女子生徒がひとり、遠野志貴の背中をちらちらと見ていた。弓塚さつき。名簿の備考によれば、遠野志貴と中学が同じだ。話しかけようとしてはやめるのを、二度繰り返していた。
――弓塚さつき。遠野志貴に好意を持っている可能性、高。脅威度なし。
◇
昼休み、廊下に出たところで乾有彦に肩を叩かれた。
「転校生、学食行こうぜ。初日だし案内してやるよ。遠野も一緒」
監視対象と同じ席で昼食をとれる。観察の機会で、断る理由はない。
「……行く」
「お、ノリいいじゃん」
三人で廊下を歩いた。遠野志貴は一度だけ僕の顔を見て、小さく会釈した。
「遠野。……よろしく」
「有波です」
「知ってる。さっき聞いた」
遠野志貴は少しだけ笑った。
階段の踊り場に差しかかったとき、上の階から声が降ってきた。
「――あ、遠野くん!」
よく通る声。電車の中で聞いた声だった。
眼鏡に、夜の色の短い髪。紺のブレザーに淡い黄色のベスト、胸元に緑のリボン。片手に紙袋を提げた、あの女子生徒だ。
「よかった、見つけた。……今朝のお詫び、持ってきました」
「先輩、ほんとに持ってきたんですか」
「約束は守るんです」
彼女が紙袋を少し持ち上げてみせると、香辛料の匂いがした。
「シエル先輩じゃん。ちわっす」
「乾くん、こんにちは」
シエル。
乾有彦は当たり前のようにその名を口にし、遠野志貴も驚いた様子はない。
――三年に、シエルという生徒はいない。名簿にない。
シエルの目が、僕のところで止まった。
「……あら。初めて見る顔」
「今日転校してきた有波っす。遠野のクラス」
「転校生くん。……ふうん」
シエルは階段を下りてきて、僕の前に立った。眼鏡の奥の目が、髪を、目を、肌を、順番になぞっていく。
「有波くん、ですね。三年のシエルです。……覚えておいてくださいね。私、この学校のことならたいてい知ってますから」
その瞬間、こめかみの奥に何かが柔らかく触れた。
耳の奥から温かい水が流れ込んでくるような感触。記憶の表面を撫でて、そこに薄い膜を一枚、そっと貼りつけようとする指。
――この人は、ずっと前からここにいる先輩だ。知っていて当たり前の人だ。
そういう膜だった。暗示だ。
僕の頭の中には、そういうものを止める壁がある。長老たちが痛覚を剥がすより、味覚を削るより先に、いちばん最初に作った壁。
――蛇は心の隙間から入ってくる。だから隙間を塞げ。
膜は、壁の表面で止まった。
この学校の全員に、同じ膜が貼られているのだろう。乾有彦にも、遠野志貴にも。だから誰も、名簿にない名前を疑わない。
「……はい。よろしくお願いします、シエル先輩」
膜を受け入れたふりをして、頭を下げた。嘘をつくのは難しくない。そう作られている。
膜がすっと引いていった。
――上級生・シエル。名簿に記載なし。暗示による在籍の偽装と、魔術の行使を確認。正体不明。要警戒。
◇
学食は混んでいた。遠野志貴が窓際の長机に四人分の席を確保し、乾有彦と遠野志貴が並んで、その向かいにシエルと僕が座る。
シエルは紙袋から保温容器を取り出して、遠野志貴の前に置いた。蓋を開けると香辛料の匂いが立ちのぼる。カレーだった。
「今朝は本当にごめんなさい。これで許してください」
「いや、そんな……ありがとうございます」
困ったように笑ってスプーンを取る遠野志貴の向かいで、僕は鞄から栄養調整食品を一本出して、包装を破った。
シエルの目がそれを捉えた。
「……え」
固まっている。
「有波くん、それ、お昼ですか?」
「はい」
「それだけ?」
「はい」
「……毎日?」
「はい」
シエルの眉が、みるみる寄っていった。
「だめです」
きっぱりした声だった。
「育ち盛りの男の子が、そんなぼそぼそした四角いのだけなんて。だめです。ぜったいだめです」
「栄養は足りています」
「足りてません!」
「先輩、出た。世話焼きモード」
乾有彦がにやにやと笑う。
「乾くんは黙っててください」
シエルは保温容器の蓋にカレーを少し取り分けて、僕の前に置いた。
「はい。半分こは無理ですけど、ひと口だけでも」
「……いえ」
「どうぞ」
「理由がありません」
「先輩だからです」
理由になっていなかった。ただ、断り続ければ不自然になる。スプーンを借りて、ひと口運んだ。
――香辛料。クミン、コリアンダー、ターメリック、カルダモン、クローブ。唐辛子二種。カプサイシン高濃度、痛覚刺激を検出。処理対象外。
僕の舌は、それを痛みとして受け取らない。数値が通り過ぎていくだけだ。四十回噛んで飲み込み、顔を上げると、三人がそろって僕を見ていた。
「……有波、それ平気なのか」
遠野志貴が、自分の皿と僕の顔とを見比べる。
「俺、ひと口目でむせたんだけど」
「平気です」
シエルがぱちぱちと瞬きをして、それからぱっと顔を輝かせた。
「わあ……! 有波くん、辛いのいける人なんですね!」
「……」
「仲間です! この学校、辛いの好きな人ぜんぜんいなくて。遠野くんも乾くんも、すぐ音を上げちゃうし」
シエルはもう一度、僕の顔を覗きこんだ。
「それに、その髪と目。……有波くん、ヨーロッパのほうの血が入ってるんでしょう? 私もなんです。生まれは向こう」
楽しそうに笑う。
「ご同郷っぽいですね、私たち」
同郷。意味は知っているが、該当する関係はない。
僕の生まれた場所は、東の山の奥の、地図にも載っていない雪の里だ。もうどこにもない。
「……そうですか」
「そうですよ。決めました。有波くん、明日の放課後、茶道部に来てください。部員、私ひとりなんです。お茶くらいご馳走しますから」
「今日じゃないんすか」と乾有彦が口を挟む。
「今日は先約があるんです」
シエルは遠野志貴のほうを見て、にこりと笑った。
「ね、遠野くん。今朝約束しましたよね。放課後、部室に来てくれるって」
「……ああ、はい。行きます」
接近の機会だった。暗示を使う正体不明の上級生が、向こうから懐に招き入れてくれるというのだから。
「……わかりました。明日、伺います」
「約束ですよ」
シエルは満足そうに頷いた。
――慈悲の形をしたものを、信じるな。
頭の奥で、長老の声がした。
――蛇はいつだって、慈悲の顔をしてやってくる。
わかっている。
◇
「遠野くん、今はどちらに住んでるんでしたっけ」
食事の終わりに、シエルが訊いた。遠野志貴が少し言い淀んだ隙に、乾有彦が口を挟む。
「こいつ、今日から実家に戻るんすよ。遠野のでっかいお屋敷。親父さんが亡くなって、妹さんに呼び戻されたって」
「おい、有彦」
「いいだろ別に。隠すことでもねえし」
――対象、本日付で遠野本邸へ転居。転入前の調査と一致。
遠野志貴は困ったように頭を掻いてから、ぽつりぽつりと話しはじめた。遠縁の家に長く世話になっていたこと。父が亡くなったこと。妹が家を継いだこと。
シエルは黙って聞いていた。その目が一瞬だけ、遠野志貴の顔ではなく、首筋の脈のあたりをなぞった。ほんの一瞬で、すぐに柔らかい笑顔に戻る。
監視する者の目だった。この人も、遠野志貴を見ている。
やがて乾有彦が咳払いをした。
「あー、先輩。悪いんすけど、ちょっと遠野と二人で話したいことがあって」
「あら。男の子同士の話ですか」
「そんな感じっす。……あ、転校生も悪いな」
「……構わない」
トレイを持って立ち上がると、シエルも空の保温容器を紙袋に戻して席を立った。
「じゃあ、お邪魔虫は退散しますね。……有波くん、明日、忘れないでくださいね」
「はい」
ひらひらと手を振って、学食の出口へ歩いていく。その背中を見送った。
足取り、重心、肩の線。
――戦う人間の歩き方だ。
◇
放課後、終業の鐘が鳴ると、遠野志貴は校内の案内図と手元の紙を何度も見比べながら、旧校舎のほうへ歩いていった。二十メートル後ろを、足音を殺してついていく。
旧校舎の一階、いちばん奥。茶道部の引き戸の前で彼は立ち止まった。
「――あ、遠野くん。来てくれたんですね」
シエルの声がして、戸が閉まる。僕は廊下の角の、階段の陰に立った。
壁越しに、声が途切れ途切れに聞こえてくる。
「――有間の家の人たちは、本当によくしてくれたんです。でも俺、それにちゃんと返せてたのかなって」
「……そうですか」
「家族みたいに、って言ってもらえたのに、最後までどこか、お客さんみたいな気がしてて」
「それは、ちゃんと大事にしてもらった人の言葉ですよ」
シエルの声は柔らかかった。障子越しの夕日が、廊下に長い影を伸ばしている。
家族。
血縁や婚姻で結ばれ、生活を共にする集団。語義はそうだが、該当するものは僕の記録にはない。いちばん古い記憶は、炉の赤い光と石の天井と、長老たちの嗄れた声だ。彼らは僕を家族とは呼ばなかった。カナリアと呼んだ。
それで正しい。
階段の陰で、背中の刃に意識を向けた。
――鳴っている。
ごくかすかに。音でも震えでもない。刃の芯にある何かが、遠くの同じ周波数に、爪の先で触れているような感触だ。
この旧校舎の北側。一階の、さらに下。地面の奥に何かがいる。
蛇の共鳴に似ていた。ただし、遠野志貴のいる部室のほうからではない。
二人の話は、校舎が閉まる時間まで続いた。
◇
校門を出た遠野志貴は、駅とは反対の方角へ歩いていった。住宅街を抜けるにつれて家並みがまばらになり、やがて道の先に黒々とした森が見えてくる。その入り口に、屋敷があった。
百五十メートル手前、坂の上の電柱の陰から様子をうかがう。
古くて大きな洋館だった。夕闇のなかで、どの窓にも明かりがない。屋敷そのものが息を潜めて、何かを待っているように見えた。
遠野志貴は門の前でしばらく立ち止まっていた。帰ってきた家を見上げるというより、確かめるように。鉄の門扉の前で、黒と白の古風な給仕服を着た小柄な少女が深々と頭を下げ、門が開いて、彼の姿は屋敷に呑み込まれていった。
――対象、遠野本邸に入る。十七時四十二分。
背中の刃は鳴らなかった。屋敷から蛇の気配はしない。少なくとも、旧校舎の地面の奥ほどには。
器の候補と、蛇の共鳴の所在が一致しない。器がまだ目覚めていないのか、それとも器の推定そのものが誤っているのか。
推論は保留した。情報が足りない。
森のほうで鴉が一羽鳴いて、屋敷の窓にひとつ、明かりが灯った。
◇
夜十一時。駅の南側、ビジネス街の灯りの消えたオフィスビルの屋上で、フェンスの外側に腰を下ろして街を見下ろした。
総耶の夜は明るい。駅北の繁華街、幹線道路の車の列、住宅街の窓明かり。それらが黒い森の縁で、ふっと途切れる。遠野の屋敷のある方角だ。
夕方のニュースが、また連続殺人を伝えていた。この秋、この街で何人目になるのか。ニュースは「猟奇的」と書くが、長老たちの記録はそれを別の言葉で呼ぶ。
――死徒。
けれど、それは僕の仕事ではない。
刃を膝に置いて目を閉じる。
夜、ひとりになると再生が始まる。忘れないように、一族の最期を毎夜正確に思い出すように、長老たちがそう設定した。
雪。
里の門の前に、小さな影が倒れていた。十二か十三くらいの少女だった、という。
白い雪の上の黒い塊を、大人たちが優しい手つきで抱き上げる。
――かわいそうに。
――まだ子供じゃないか。
――中へ。早く温めてやれ。
その夜、里は死んだ。結界の内側で目を覚ました蛇が、一族をひとりずつ殺していった。
大きな儀式を控えた蛇が、その前に邪魔なものを摘みにきたのだ――長老たちはそう言った。魂を宿主から剥がす我らの刃を恐れて、自ら少女の皮を被ってここまで来たのだ、と。
けれどその話には、ひとつだけ説明のつかない場面がある。
最後の最後、地下の貯蔵庫へ続く扉の前で、蛇は手を止めた。扉の向こうに生き残りが隠れていると知っていたはずなのに、少女の形をした蛇はそこで何かに抗うように、自分の左腕を右手の爪で、血が滲むほど掻き毟っていた。
扉の隙間から、長老のひとりがそれを見ていた。少女の唇は何かを呟いていたが、扉越しには聞き取れなかった。祈りのようにも、悲鳴のようにも聞こえた、という。
そして蛇は背を向けて、去っていった。
扉の向こうにいたのは、長老四名と、身重の女がひとり。それが、スレイヨルンのすべてだった。
――嬲るためだ。生かして、絶望させるためだ。蛇とはそういうものだ。
長老たちはそう言ったし、僕はそれを疑ったことがない。疑う理由がない。
僕はその夜を見ていない。まだ生まれていなかった。扉の向こうで、女の胎の中で、何も知らずに眠っていた。
それでもこの光景は焼きついている。長老たちが何百回も同じ話を聞かせたからだ。僕が言葉を覚えるより先に、自分の名前を覚えるより先に。だから見ていないはずの雪を、僕は誰よりも正確に覚えている。
母のことは知らない。長老たちは一度も母の話をしなかった。
知っているのは、僕がまだ母の胎の中にいた頃から、長老たちの冷たい手が僕を作り替えはじめていた、ということだけだ。十三年前の冬のことになる。
けれど、僕が生きてきた時間は十三年ではない。
地下工房の奥には炉があった。スレイヨルンの刃は、鉄を打つだけでは完成しない。炉の中で何十年も寝かせ、魂の周波数に馴染ませて、はじめて刃になる。
長老たちには、その何十年がなかった。だから炉の中の時間を速めた。外で一年が過ぎるあいだに、中では一年半が過ぎる。そういう結界を、自分たちの命を削りながら張り続けた。
刃はその炉で鍛えられ、僕も同じ炉に置かれた。刃が完成するまでの保管庫として。刃が僕の魂に馴染むように、僕が刃の一部になるように。
外で十一年が過ぎたとき、炉の中では十六年が過ぎていた。刃が鍛え上がって炉の火が落とされたその年のうちに、長老たちはひとり残らず死んだ。速い時間に身を置き続けた彼らの寿命は、とうに燃え尽きていたのだ。
それから二年。僕の体も頭も、十八年分の時間を生きてきた。この世界の暦だけが、それに追いついていない。
――慈悲は毒だ。我らは慈悲で死んだ。
――雪の中に倒れた子供を抱き上げて、温めた。暖炉の前に座らせ、毛布を掛けて、温めた。……その温もりの内側で、蛇は目を覚ました。
――温もりは扉を開ける。結界を内側からほどく。
――カナリア。お前は歌うな。鳴くな。誰も温めるな。誰にも温められるな。
――温めればお前は扉を開ける。温められればお前は刃を鈍らせる。
――ただ、死ね。蛇の心臓の、すぐ前で。
長老たちの声には、いつも熱があった。怨嗟と憎悪。一族を奪われた者の、焼けつくような恨み。
僕にはそれがない。蛇を憎んではいないし、一族の仇だと思ったこともない。見たこともない里の、会ったこともない人々のために何かを思う機能は、この体に組み込まれていない。
長老たちも、自分たちの怨嗟を僕に継がせようとはしなかった。継がせたのは手順だけだ。蛇の魂を宿主から剥がし、この世から消す。それがスレイヨルンの刃の設計上の用途で、僕という部品の存在理由だった。
恨みで動く者は判断を誤る、と長老たちの記録にもある。僕は誤らない。誤るための理由を、はじめから持っていないのだから。
再生が終わる。
目を開けると、フェンスの向こうで、総耶の夜が何も知らずに瞬いていた。
◇
午前零時。アパートの机に、長老たちが遺した黒い革の手帳を広げて、今日の分を書き込む。
――転入初日。監視対象・遠野志貴と同じクラス。席は監視に最適。
――対象、本日遠野本邸へ転居。本邸より蛇の反応なし。
――旧校舎北側の地下より、蛇に類似した微弱な共鳴。器の候補との所在の不一致。要調査。
――上級生・シエル。名簿に記載なし。全校規模の暗示により在籍を偽装。戦闘の心得の可能性、高。遠野志貴を監視している。こちらへの暗示は無効、気づかれていない。
――同人物より、明日放課後、茶道部への招待。接触の機会として受諾。
――クラスの女子生徒より六回接触。手順どおりに処理。
ペンを置く。過不足はない。
電気を消して寝台に横になる。体温三十五度九分、脈拍は毎分五十二。今朝と同じで、地下にいた頃とも同じだ。誤差はない。
――カナリアは、歌わない。
――カナリアは、鳴かない。
――カナリアは、誰も、温めない。
――カナリアは、誰にも、温められない。
――カナリアは、誰よりも先に、死ぬ。
目を閉じる。
眠りはいつもどおり、三十秒で訪れた。