炭鉱のカナリア   作:にんら

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アンケートの結果通りに、月姫、シエルヒロインの小説です。

先に謝っておきます。

多分皆さんの思ってたんとちゃいます。申し訳ないです。

あと、オリジナル設定もりもりです。

要するに、アレルゲンまみれです。

ご注意ください。


転入生は歌わない

 ―――カナリアは、歌わない。

 

 カナリアは、鳴かない。

 

 カナリアは、誰も、温めない。

 

 カナリアは、誰にも、温められない。

 

 カナリアは、誰よりも先に、死ぬ。

 

 炭鉱の底で、見えない毒をいちばん先に吸い込み、小さな体を痙攣させて落ちる。その死を合図に、人は毒の在処を知って刃を振るう。冷たい坑道の底で、誰の手のひらにも包まれず、誰の手のひらも温めずに。

 

 それが僕に与えられた、たったひとつの役割だった。

 

◇

 

 十月。朝の五時半に目を覚ます。

 

 体温三十五度九分、脈拍は毎分五十二。手足の反応に異常はない。確認にかかった時間は二秒で、地下にいた頃と何も変わらない。

 

 三十五度九分というのは、人の平熱より一度ほど低い。長老たちがそう作った。熱を生む代謝を削り、熱を感じる神経を削った。だからこの体は誰かを温めるほどの熱を持たないし、誰かの熱に触れても、それを温かいとは受け取らない。皮膚が何度のものに触れたか、その数字が通り過ぎていくだけだ。

 

 六畳一間に窓がひとつ。寝台と机がひとつずつ。総耶駅の北側、繁華街の裏手にある古いアパートの二階を、長老たちの遺した金と、彼らが偽造した書類で借りている。壁には何も貼っておらず、棚には何も置いていない。冷蔵庫に入っているのは、ミネラルウォーターが十二本と、固形の栄養調整食品が四十八箱。

 

 朝食は一本。四十回噛んで、飲み込む。

 

 舌の上で情報がほどけていく。糖質、脂質、蛋白質、ビタミン群。塩分は基準値内、毒性なし。それで終わりだ。

 

 味というものを、僕は知らない。甘い、辛い、苦い――人間は舌に乗った情報にそういう名前をつけて、喜んだり顔をしかめたりする。僕の舌は名前をつけない。数えるだけだ。喜ぶことも、顔をしかめることもない。喜怒哀楽というものが、もともとこの体には組み込まれていない。

 

 ――それでいい。

 

 頭の奥で、嗄れた声がする。

 

 ――味はノイズだ。情もノイズだ。ノイズは刃を鈍らせる。

 

 長老たちが死んで二年になる。それでもあの声は、毎朝きちんと頭蓋の内側で同じ言葉を繰り返す。

 

 机の引き出しから、布にくるんだものを取り出した。

 

 黒銀の短剣。刃渡りは十八センチで、柄には蔦と牙を組み合わせた一族の紋章が刻んである。対霊的共振刃(ソウル・レゾネーター)――スレイヨルンの最高傑作だ。

 

 窓から射した朝の光が刃に落ちて、吸い込まれるように鈍く沈んだ。鞘に収めてベルトの背中側に差し、ブレザーの裾で隠す。

 

 鏡の前に立つと、真新しい紺の制服を着た少年が映っている。

 

 灰を溶かしたような薄い金髪に、北の冬空みたいな淡い灰青の目。日に当たることの少なかった白い肌と、この国の人間より少しだけ深い彫り。表情の薄い顔だ。

 

 この顔は隠しようがない。だから長老たちは、書類のほうを顔に合わせた。

 

 有波叶人、十七歳。父は日本人で、母は東欧の出身。都内の私立高校から家庭の事情で転入し、両親は仕事で海外にいる――書類の上では、そういうことになっている。

 

 本当の名前は別にある。本当の国も、本当の生まれ年も。けれどそれを知っている人間はこの街にはいないし、知っていた人間はみんな死んだ。

 

 鏡の中の少年に向かって、口角を二ミリ上げてみせる。

 

 ――人の中に紛れろ。紛れて、待て。

 

 二ミリ。それ以上だと不自然で、それ以下だと陰気に見える。無口で、少し愛想のない転校生。目立つ顔をしているなら、せめて中身くらいは目立たないほうがいい。

 

 鍵を二度確かめて、部屋を出た。

 

 今日が転入の初日だった。

 

◇

 

 六時四十分。総耶から四つ離れた駅の、上りホームのいちばん端に立つ。

 

 監視対象がこの駅から電車に乗ることは、一週間前に確かめてあった。

 

 遠野志貴。総耶高校の二年で、遠野家の長男。幼い頃の事故をきっかけに遠縁の有間家に預けられて育ち、父親の死を受けて、今日、遠野の本家に戻る。

 

 蛇は、財と力を持つ家の子を選んで生まれ変わる。長老たちの遺した記録にはそう書かれていた。この街でいちばん古く、いちばん大きな家の長男。

 

 ――蛇の、次の器の候補。監視対象、一。

 

 六時四十八分、改札のほうから少年がひとり歩いてきた。眼鏡をかけた細い体で、首筋に血の気がない。鞄を肩に掛けて、少し背中を丸めている。遠野志貴だ。

 

 彼はホームの反対の端で電車を待ち、僕は柱の陰からそれを見ていた。距離はおよそ四十メートル。

 

 電車が来た。遠野志貴は三両目の前の扉から乗り、僕は同じ車両の後ろの扉から乗った。

 

◇

 

 朝の上り電車はまだ空いていた。吊り革につかまって窓の外を見るふりをしながら、ガラスに映る車両の前方を見る。遠野志貴は扉の脇に立って、ぼんやり外を眺めていた。

 

 次の駅で、女子生徒がひとり乗ってきた。

 

 眼鏡に、夜の色をした短い髪。総耶高校の紺の制服を着て、旅行鞄ほどもある重そうな鞄を両手で抱えている。彼女は遠野志貴の隣に立って何か話しかけ、遠野志貴は少し驚いた顔で何か答えた。

 

 知り合いだろうか。

 

 頭の中の名簿をめくる。転入の手続きをする前に、総耶高校の全校生徒の名前と顔写真は残らず覚えてきた。一年から三年まで、在籍者全員を。

 

 あの顔はない。

 

 ――該当なし。総耶高校の制服を着た、名簿にない生徒。

 

 記録しておく。

 

 電車が揺れて、女子生徒の鞄が傾いた。何か起きたらしく、彼女は何度も頭を下げ、遠野志貴は困ったように手を振っている。走行音にまぎれて、声の切れ端だけが届いた。

 

「――ボランティアの、帰りで――」

 

「――本当に、ごめんなさい――」

 

「――今度、何かで、お詫びを――」

 

 明るくて、よく通る声だった。

 

 総耶の駅で二人は並んで降りていき、僕は三十秒待ってから降りた。

 

◇

 

 八時三十分。総耶高校、二年の教室。

 

「今日からこのクラスに入る、有波だ」

 

 担任の戸山が黒板に僕の名前を書いた。チョークの音がやむと、教室じゅうの視線が集まってくる。正確には、僕の髪と目と肌に。

 

「有波叶人です。……よろしくお願いします」

 

 十五度だけ頭を下げて、それきり口を閉じた。

 

 ざわ、と教室の空気が揺れる。

 

「……ハーフ?」

 

「目、灰色じゃない?」

 

「やば、モデルみたい」

 

 小さな声があちこちで弾けた。

 

「静かにしろー。有波、席は窓際の後ろから二番目な」

 

 指定された席に向かう途中、斜め前の席の横を通る。遠野志貴が頬杖をついて窓の外を見ていた。電車の中と同じ、少し眠そうな顔だった。

 

 窓際の後ろから二番目。監視対象の斜め後ろで、観察にはいちばんいい位置だ。偶然ではない。転入の書類に、視力の都合で窓際の後方を希望すると書いておいた。

 

◇

 

 休み時間のたびに、人が寄ってきた。

 

「ねえねえ、有波くん、どこから来たの?」

 

「……都内」

 

「お母さんが外国の人なんだよね? どこの国?」

 

「……ヨーロッパの、東のほう」

 

「へえー! 向こうの言葉、しゃべれる?」

 

「少し」

 

「すごーい。今度なんかしゃべってよ。あ、あとさ、連絡先――」

 

「次、移動教室だから」

 

 教科書を持って立ち上がる。女子生徒たちは顔を見合わせ、ちょっと唇を尖らせてから笑った。

 

「……クールだね」

 

「ね。ちょっと怖いけど、かっこいい」

 

 背中越しに、そんな声が聞こえた。

 

 この顔は目立つし、目立つものには人が寄ってくる。とくに女子生徒が。そのたびに短く答えて、話が膨らむ前に閉じる。拒みはしないが、受け取りもしない。水面に落ちた葉を、沈めも拾いもせずに流していくように。

 

 対応の手順は転入前に決めてあった。初日は六回。六回とも手順どおりに閉じた。

 

「よう、転校生」

 

 頭の上から声が降ってきた。乾有彦。遠野志貴のいちばん近い友人で、軽薄な口ぶりと面倒見のよさが半分ずつ混ざった男だ。

 

「人気者じゃん。……まあ、困ったことあったら言えよ。この学校、変なやつ多いから」

 

「……ありがとう」

 

「おう」

 

 それだけ言って、乾有彦は遠野志貴の席のほうへ歩いていった。

 

 前のほうの席では、女子生徒がひとり、遠野志貴の背中をちらちらと見ていた。弓塚さつき。名簿の備考によれば、遠野志貴と中学が同じだ。話しかけようとしてはやめるのを、二度繰り返していた。

 

 ――弓塚さつき。遠野志貴に好意を持っている可能性、高。脅威度なし。

 

◇

 

 昼休み、廊下に出たところで乾有彦に肩を叩かれた。

 

「転校生、学食行こうぜ。初日だし案内してやるよ。遠野も一緒」

 

 監視対象と同じ席で昼食をとれる。観察の機会で、断る理由はない。

 

「……行く」

 

「お、ノリいいじゃん」

 

 三人で廊下を歩いた。遠野志貴は一度だけ僕の顔を見て、小さく会釈した。

 

「遠野。……よろしく」

 

「有波です」

 

「知ってる。さっき聞いた」

 

 遠野志貴は少しだけ笑った。

 

 階段の踊り場に差しかかったとき、上の階から声が降ってきた。

 

「――あ、遠野くん!」

 

 よく通る声。電車の中で聞いた声だった。

 

 眼鏡に、夜の色の短い髪。紺のブレザーに淡い黄色のベスト、胸元に緑のリボン。片手に紙袋を提げた、あの女子生徒だ。

 

「よかった、見つけた。……今朝のお詫び、持ってきました」

 

「先輩、ほんとに持ってきたんですか」

 

「約束は守るんです」

 

 彼女が紙袋を少し持ち上げてみせると、香辛料の匂いがした。

 

「シエル先輩じゃん。ちわっす」

 

「乾くん、こんにちは」

 

 シエル。

 

 乾有彦は当たり前のようにその名を口にし、遠野志貴も驚いた様子はない。

 

 ――三年に、シエルという生徒はいない。名簿にない。

 

 シエルの目が、僕のところで止まった。

 

「……あら。初めて見る顔」

 

「今日転校してきた有波っす。遠野のクラス」

 

「転校生くん。……ふうん」

 

 シエルは階段を下りてきて、僕の前に立った。眼鏡の奥の目が、髪を、目を、肌を、順番になぞっていく。

 

「有波くん、ですね。三年のシエルです。……覚えておいてくださいね。私、この学校のことならたいてい知ってますから」

 

 その瞬間、こめかみの奥に何かが柔らかく触れた。

 

 耳の奥から温かい水が流れ込んでくるような感触。記憶の表面を撫でて、そこに薄い膜を一枚、そっと貼りつけようとする指。

 

 ――この人は、ずっと前からここにいる先輩だ。知っていて当たり前の人だ。

 

 そういう膜だった。暗示だ。

 

 僕の頭の中には、そういうものを止める壁がある。長老たちが痛覚を剥がすより、味覚を削るより先に、いちばん最初に作った壁。

 

 ――蛇は心の隙間から入ってくる。だから隙間を塞げ。

 

 膜は、壁の表面で止まった。

 

 この学校の全員に、同じ膜が貼られているのだろう。乾有彦にも、遠野志貴にも。だから誰も、名簿にない名前を疑わない。

 

「……はい。よろしくお願いします、シエル先輩」

 

 膜を受け入れたふりをして、頭を下げた。嘘をつくのは難しくない。そう作られている。

 

 膜がすっと引いていった。

 

 ――上級生・シエル。名簿に記載なし。暗示による在籍の偽装と、魔術の行使を確認。正体不明。要警戒。

 

◇

 

 学食は混んでいた。遠野志貴が窓際の長机に四人分の席を確保し、乾有彦と遠野志貴が並んで、その向かいにシエルと僕が座る。

 

 シエルは紙袋から保温容器を取り出して、遠野志貴の前に置いた。蓋を開けると香辛料の匂いが立ちのぼる。カレーだった。

 

「今朝は本当にごめんなさい。これで許してください」

 

「いや、そんな……ありがとうございます」

 

 困ったように笑ってスプーンを取る遠野志貴の向かいで、僕は鞄から栄養調整食品を一本出して、包装を破った。

 

 シエルの目がそれを捉えた。

 

「……え」

 

 固まっている。

 

「有波くん、それ、お昼ですか?」

 

「はい」

 

「それだけ?」

 

「はい」

 

「……毎日?」

 

「はい」

 

 シエルの眉が、みるみる寄っていった。

 

「だめです」

 

 きっぱりした声だった。

 

「育ち盛りの男の子が、そんなぼそぼそした四角いのだけなんて。だめです。ぜったいだめです」

 

「栄養は足りています」

 

「足りてません!」

 

「先輩、出た。世話焼きモード」

 

 乾有彦がにやにやと笑う。

 

「乾くんは黙っててください」

 

 シエルは保温容器の蓋にカレーを少し取り分けて、僕の前に置いた。

 

「はい。半分こは無理ですけど、ひと口だけでも」

 

「……いえ」

 

「どうぞ」

 

「理由がありません」

 

「先輩だからです」

 

 理由になっていなかった。ただ、断り続ければ不自然になる。スプーンを借りて、ひと口運んだ。

 

 ――香辛料。クミン、コリアンダー、ターメリック、カルダモン、クローブ。唐辛子二種。カプサイシン高濃度、痛覚刺激を検出。処理対象外。

 

 僕の舌は、それを痛みとして受け取らない。数値が通り過ぎていくだけだ。四十回噛んで飲み込み、顔を上げると、三人がそろって僕を見ていた。

 

「……有波、それ平気なのか」

 

 遠野志貴が、自分の皿と僕の顔とを見比べる。

 

「俺、ひと口目でむせたんだけど」

 

「平気です」

 

 シエルがぱちぱちと瞬きをして、それからぱっと顔を輝かせた。

 

「わあ……! 有波くん、辛いのいける人なんですね!」

 

「……」

 

「仲間です! この学校、辛いの好きな人ぜんぜんいなくて。遠野くんも乾くんも、すぐ音を上げちゃうし」

 

 シエルはもう一度、僕の顔を覗きこんだ。

 

「それに、その髪と目。……有波くん、ヨーロッパのほうの血が入ってるんでしょう? 私もなんです。生まれは向こう」

 

 楽しそうに笑う。

 

「ご同郷っぽいですね、私たち」

 

 同郷。意味は知っているが、該当する関係はない。

 

 僕の生まれた場所は、東の山の奥の、地図にも載っていない雪の里だ。もうどこにもない。

 

「……そうですか」

 

「そうですよ。決めました。有波くん、明日の放課後、茶道部に来てください。部員、私ひとりなんです。お茶くらいご馳走しますから」

 

「今日じゃないんすか」と乾有彦が口を挟む。

 

「今日は先約があるんです」

 

 シエルは遠野志貴のほうを見て、にこりと笑った。

 

「ね、遠野くん。今朝約束しましたよね。放課後、部室に来てくれるって」

 

「……ああ、はい。行きます」

 

 接近の機会だった。暗示を使う正体不明の上級生が、向こうから懐に招き入れてくれるというのだから。

 

「……わかりました。明日、伺います」

 

「約束ですよ」

 

 シエルは満足そうに頷いた。

 

 ――慈悲の形をしたものを、信じるな。

 

 頭の奥で、長老の声がした。

 

 ――蛇はいつだって、慈悲の顔をしてやってくる。

 

 わかっている。

 

◇

 

「遠野くん、今はどちらに住んでるんでしたっけ」

 

 食事の終わりに、シエルが訊いた。遠野志貴が少し言い淀んだ隙に、乾有彦が口を挟む。

 

「こいつ、今日から実家に戻るんすよ。遠野のでっかいお屋敷。親父さんが亡くなって、妹さんに呼び戻されたって」

 

「おい、有彦」

 

「いいだろ別に。隠すことでもねえし」

 

 ――対象、本日付で遠野本邸へ転居。転入前の調査と一致。

 

 遠野志貴は困ったように頭を掻いてから、ぽつりぽつりと話しはじめた。遠縁の家に長く世話になっていたこと。父が亡くなったこと。妹が家を継いだこと。

 

 シエルは黙って聞いていた。その目が一瞬だけ、遠野志貴の顔ではなく、首筋の脈のあたりをなぞった。ほんの一瞬で、すぐに柔らかい笑顔に戻る。

 

 監視する者の目だった。この人も、遠野志貴を見ている。

 

 やがて乾有彦が咳払いをした。

 

「あー、先輩。悪いんすけど、ちょっと遠野と二人で話したいことがあって」

 

「あら。男の子同士の話ですか」

 

「そんな感じっす。……あ、転校生も悪いな」

 

「……構わない」

 

 トレイを持って立ち上がると、シエルも空の保温容器を紙袋に戻して席を立った。

 

「じゃあ、お邪魔虫は退散しますね。……有波くん、明日、忘れないでくださいね」

 

「はい」

 

 ひらひらと手を振って、学食の出口へ歩いていく。その背中を見送った。

 

 足取り、重心、肩の線。

 

 ――戦う人間の歩き方だ。

 

◇

 

 放課後、終業の鐘が鳴ると、遠野志貴は校内の案内図と手元の紙を何度も見比べながら、旧校舎のほうへ歩いていった。二十メートル後ろを、足音を殺してついていく。

 

 旧校舎の一階、いちばん奥。茶道部の引き戸の前で彼は立ち止まった。

 

「――あ、遠野くん。来てくれたんですね」

 

 シエルの声がして、戸が閉まる。僕は廊下の角の、階段の陰に立った。

 

 壁越しに、声が途切れ途切れに聞こえてくる。

 

「――有間の家の人たちは、本当によくしてくれたんです。でも俺、それにちゃんと返せてたのかなって」

 

「……そうですか」

 

「家族みたいに、って言ってもらえたのに、最後までどこか、お客さんみたいな気がしてて」

 

「それは、ちゃんと大事にしてもらった人の言葉ですよ」

 

 シエルの声は柔らかかった。障子越しの夕日が、廊下に長い影を伸ばしている。

 

 家族。

 

 血縁や婚姻で結ばれ、生活を共にする集団。語義はそうだが、該当するものは僕の記録にはない。いちばん古い記憶は、炉の赤い光と石の天井と、長老たちの嗄れた声だ。彼らは僕を家族とは呼ばなかった。カナリアと呼んだ。

 

 それで正しい。

 

 階段の陰で、背中の刃に意識を向けた。

 

 ――鳴っている。

 

 ごくかすかに。音でも震えでもない。刃の芯にある何かが、遠くの同じ周波数に、爪の先で触れているような感触だ。

 

 この旧校舎の北側。一階の、さらに下。地面の奥に何かがいる。

 

 蛇の共鳴に似ていた。ただし、遠野志貴のいる部室のほうからではない。

 

 二人の話は、校舎が閉まる時間まで続いた。

 

◇

 

 校門を出た遠野志貴は、駅とは反対の方角へ歩いていった。住宅街を抜けるにつれて家並みがまばらになり、やがて道の先に黒々とした森が見えてくる。その入り口に、屋敷があった。

 

 百五十メートル手前、坂の上の電柱の陰から様子をうかがう。

 

 古くて大きな洋館だった。夕闇のなかで、どの窓にも明かりがない。屋敷そのものが息を潜めて、何かを待っているように見えた。

 

 遠野志貴は門の前でしばらく立ち止まっていた。帰ってきた家を見上げるというより、確かめるように。鉄の門扉の前で、黒と白の古風な給仕服を着た小柄な少女が深々と頭を下げ、門が開いて、彼の姿は屋敷に呑み込まれていった。

 

 ――対象、遠野本邸に入る。十七時四十二分。

 

 背中の刃は鳴らなかった。屋敷から蛇の気配はしない。少なくとも、旧校舎の地面の奥ほどには。

 

 器の候補と、蛇の共鳴の所在が一致しない。器がまだ目覚めていないのか、それとも器の推定そのものが誤っているのか。

 

 推論は保留した。情報が足りない。

 

 森のほうで鴉が一羽鳴いて、屋敷の窓にひとつ、明かりが灯った。

 

◇

 

 夜十一時。駅の南側、ビジネス街の灯りの消えたオフィスビルの屋上で、フェンスの外側に腰を下ろして街を見下ろした。

 

 総耶の夜は明るい。駅北の繁華街、幹線道路の車の列、住宅街の窓明かり。それらが黒い森の縁で、ふっと途切れる。遠野の屋敷のある方角だ。

 

 夕方のニュースが、また連続殺人を伝えていた。この秋、この街で何人目になるのか。ニュースは「猟奇的」と書くが、長老たちの記録はそれを別の言葉で呼ぶ。

 

 ――死徒。

 

 けれど、それは僕の仕事ではない。

 

 刃を膝に置いて目を閉じる。

 

 夜、ひとりになると再生が始まる。忘れないように、一族の最期を毎夜正確に思い出すように、長老たちがそう設定した。

 

 雪。

 

 里の門の前に、小さな影が倒れていた。十二か十三くらいの少女だった、という。

 

 白い雪の上の黒い塊を、大人たちが優しい手つきで抱き上げる。

 

 ――かわいそうに。

 

 ――まだ子供じゃないか。

 

 ――中へ。早く温めてやれ。

 

 その夜、里は死んだ。結界の内側で目を覚ました蛇が、一族をひとりずつ殺していった。

 

 大きな儀式を控えた蛇が、その前に邪魔なものを摘みにきたのだ――長老たちはそう言った。魂を宿主から剥がす我らの刃を恐れて、自ら少女の皮を被ってここまで来たのだ、と。

 

 けれどその話には、ひとつだけ説明のつかない場面がある。

 

 最後の最後、地下の貯蔵庫へ続く扉の前で、蛇は手を止めた。扉の向こうに生き残りが隠れていると知っていたはずなのに、少女の形をした蛇はそこで何かに抗うように、自分の左腕を右手の爪で、血が滲むほど掻き毟っていた。

 

 扉の隙間から、長老のひとりがそれを見ていた。少女の唇は何かを呟いていたが、扉越しには聞き取れなかった。祈りのようにも、悲鳴のようにも聞こえた、という。

 

 そして蛇は背を向けて、去っていった。

 

 扉の向こうにいたのは、長老四名と、身重の女がひとり。それが、スレイヨルンのすべてだった。

 

 ――嬲るためだ。生かして、絶望させるためだ。蛇とはそういうものだ。

 

 長老たちはそう言ったし、僕はそれを疑ったことがない。疑う理由がない。

 

 僕はその夜を見ていない。まだ生まれていなかった。扉の向こうで、女の胎の中で、何も知らずに眠っていた。

 

 それでもこの光景は焼きついている。長老たちが何百回も同じ話を聞かせたからだ。僕が言葉を覚えるより先に、自分の名前を覚えるより先に。だから見ていないはずの雪を、僕は誰よりも正確に覚えている。

 

 母のことは知らない。長老たちは一度も母の話をしなかった。

 

 知っているのは、僕がまだ母の胎の中にいた頃から、長老たちの冷たい手が僕を作り替えはじめていた、ということだけだ。十三年前の冬のことになる。

 

 けれど、僕が生きてきた時間は十三年ではない。

 

 地下工房の奥には炉があった。スレイヨルンの刃は、鉄を打つだけでは完成しない。炉の中で何十年も寝かせ、魂の周波数に馴染ませて、はじめて刃になる。

 

 長老たちには、その何十年がなかった。だから炉の中の時間を速めた。外で一年が過ぎるあいだに、中では一年半が過ぎる。そういう結界を、自分たちの命を削りながら張り続けた。

 

 刃はその炉で鍛えられ、僕も同じ炉に置かれた。刃が完成するまでの保管庫として。刃が僕の魂に馴染むように、僕が刃の一部になるように。

 

 外で十一年が過ぎたとき、炉の中では十六年が過ぎていた。刃が鍛え上がって炉の火が落とされたその年のうちに、長老たちはひとり残らず死んだ。速い時間に身を置き続けた彼らの寿命は、とうに燃え尽きていたのだ。

 

 それから二年。僕の体も頭も、十八年分の時間を生きてきた。この世界の暦だけが、それに追いついていない。

 

 ――慈悲は毒だ。我らは慈悲で死んだ。

 

 ――雪の中に倒れた子供を抱き上げて、温めた。暖炉の前に座らせ、毛布を掛けて、温めた。……その温もりの内側で、蛇は目を覚ました。

 

 ――温もりは扉を開ける。結界を内側からほどく。

 

 ――カナリア。お前は歌うな。鳴くな。誰も温めるな。誰にも温められるな。

 

 ――温めればお前は扉を開ける。温められればお前は刃を鈍らせる。

 

 ――ただ、死ね。蛇の心臓の、すぐ前で。

 

 長老たちの声には、いつも熱があった。怨嗟と憎悪。一族を奪われた者の、焼けつくような恨み。

 

 僕にはそれがない。蛇を憎んではいないし、一族の仇だと思ったこともない。見たこともない里の、会ったこともない人々のために何かを思う機能は、この体に組み込まれていない。

 

 長老たちも、自分たちの怨嗟を僕に継がせようとはしなかった。継がせたのは手順だけだ。蛇の魂を宿主から剥がし、この世から消す。それがスレイヨルンの刃の設計上の用途で、僕という部品の存在理由だった。

 

 恨みで動く者は判断を誤る、と長老たちの記録にもある。僕は誤らない。誤るための理由を、はじめから持っていないのだから。

 

 再生が終わる。

 

 目を開けると、フェンスの向こうで、総耶の夜が何も知らずに瞬いていた。

 

◇

 

 午前零時。アパートの机に、長老たちが遺した黒い革の手帳を広げて、今日の分を書き込む。

 

 ――転入初日。監視対象・遠野志貴と同じクラス。席は監視に最適。

 

 ――対象、本日遠野本邸へ転居。本邸より蛇の反応なし。

 

 ――旧校舎北側の地下より、蛇に類似した微弱な共鳴。器の候補との所在の不一致。要調査。

 

 ――上級生・シエル。名簿に記載なし。全校規模の暗示により在籍を偽装。戦闘の心得の可能性、高。遠野志貴を監視している。こちらへの暗示は無効、気づかれていない。

 

 ――同人物より、明日放課後、茶道部への招待。接触の機会として受諾。

 

 ――クラスの女子生徒より六回接触。手順どおりに処理。

 

 ペンを置く。過不足はない。

 

 電気を消して寝台に横になる。体温三十五度九分、脈拍は毎分五十二。今朝と同じで、地下にいた頃とも同じだ。誤差はない。

 

 ――カナリアは、歌わない。

 

 ――カナリアは、鳴かない。

 

 ――カナリアは、誰も、温めない。

 

 ――カナリアは、誰にも、温められない。

 

 ――カナリアは、誰よりも先に、死ぬ。

 

 目を閉じる。

 

 眠りはいつもどおり、三十秒で訪れた。

 

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