―――美味しいです。
あの子は毎日、そう言った。一日も欠かさず。平らな声で。
私は、それを一度も疑わなかった。
◇
蛇口を、いっぱいに開けた。水が洗面台を叩く音で、何もかもかき消してしまいたかった。自分の声も。
鏡の中に、眼鏡を外した、ひどい顔の女がいる。目が真っ赤だった。鼻の頭も。唇が震えている。
――訊かれたら、そう答えるように、仕込まれています。
美味しいです、と。
――残せば、不審に思われるからです。
全部、食べてくれたのは。
――辛さは、痛覚です。僕には、ありません。
辛いの、平気だったのは。
仲間です、って、私、はしゃいだ。学食の窓際の長机で。この学校、辛いの好きな人ぜんぜんいなくて、って。
あの子は、痛みがわからなかっただけなのに。私はそれを、仲間だって喜んだ。
膝から力が抜けて、洗面台の縁にしがみつく。
――卵焼き。三回、巻いた。
朝、四時半に起きて、何度も失敗して、四回目でやっときれいな渦になった。ハンバーグに、ケチャップで星を描いた。人参を包丁で花の形に切った。ひとつ一分。五つで、五分。あの子が少しでも、目で楽しんでくれたらって。
――断面を、目視しました。三重でした。均等な厚さで。
――味は、わかりません。熱量と、塩分と、温度を、記録しました。
ちゃんと見てくれてたんだ、って、私、嬉しかった。
見ただけ、だった。見て、記録しただけだった。熱量と、塩分と、温度を。
「……っ」
声が漏れた。蛇口の水音に紛れて。
漏れて。漏れて。止まらなかった。
◇
――温かいものを飲むと、ちょっと、ほっとするでしょう?
茶道部の部室で、初めてあの子にお茶を点てた日。
――温度、六十二度でした。ほっとする、という状態は、該当、ありませんでした。
――さみしい顔、してますね。
――欠けているものを、欠けていると感じる機能が、ありません。
さみしい顔じゃ、なかった。さみしいと感じることすら、できない顔だった。
私が勝手に、昔の自分の顔を重ねただけ。教会の地下で生き返ったときの自分を。名前を呼ばれない。灰色の、味のしない食事。
――長老たちが、金属の盆で、運んできました。灰色の、練った穀物と、栄養剤です。
――カナリア、と、呼ばれていました。
同じじゃなかった。私には、それでも、さみしいと感じる心があった。あの子には、それすらなかった。
はじめから。生まれる、前から。
◇
――母の、胎の中に、いました。
――生き延びた長老たちが、胎の中にいた僕を、作り替え始めました。
鏡の中の女の顔が、歪んだ。
あの夜。地下へ続く、分厚い木の扉の前。扉の向こうの、四つの老いた鼓動。若い女の人の、震える鼓動。そして、その女の人のお腹の奥の。
小さな、小さな、とても速い、もうひとつの鼓動。
とくとくとく、と。
雪の夜の底で、何も知らずに。
あれが。
あの子だった。
私は、扉を開けなかった。開けさせなかった。蛇の手の中で暴れて、暴れて、自分の腕を引き裂いて。にげて、って。あの小さな鼓動を、守りたくて。
――守れて、なかった。
扉の向こうで生き延びた人たちは、その鼓動を守らなかった。作り替えた。蛇を殺すための部品に。痛みも、味も、心も、全部剥ぎ取って。
――蛇の心臓の前で、誰よりも先に死ぬように、作られました。
私があの夜、扉を開けなかったから、あの子は生まれた。生まれて、そして、あんなふうに作られた。
私が、あの里に入り込まなければ。私の体が、あの人たちを殺さなければ。扉の向こうの人たちは、怨嗟に狂わなかった。お腹の中の子を、部品になんかしなかった。あの子は普通の子として生まれていた。普通に痛がって。普通に、卵焼きを甘いって言って。普通に、さみしがって。
――全部、私が奪った。
あの子の一族を。あの子のお母さんを。それから、あの子の痛みと、味と、心を。生まれる、前から。
私は、洗面台の下の床に座り込んでいた。膝を抱えて。蛇口の水が、まだ流れ続けていた。
◇
言わなきゃ、と思った。あの子は、まだ知らない。
――名簿にない上級生であること。暗示を使うこと。教会の代行者であること。
――それだけ、です。
あの子は、私が誰なのかを知らない。あの夜、里の門の前に倒れていた少女が誰なのかを。知らないまま私に背負われて、知らないまま私の作ったものを食べて、知らないまま私に傷を縫わせた。
言わなきゃ。
言わないで、このまま先輩の顔をして、あの子の世話を焼き続けることは、もう一度あの里の門の前に倒れるのと同じだ。かわいそうな少女の顔をして、優しい人たちの懐に入り込むのと。
蛇口を閉めた。冷たい水で、何度も顔を洗った。眼鏡をかけ直した。
鏡の中の女は、まだひどい顔をしていた。構わない。この顔のまま、行く。
廊下を、一歩ずつ戻る。足が重かった。部屋の前で一度だけ立ち止まって、それから、扉を開けた。
◇
あの子は、ベッドの上に座っていた。さっきと同じ姿勢で。
灰青の目が、私を見た。何も変わらない目だった。私が何分洗面所にいたのか、そこで何をしていたのか、きっと全部わかっている。わかっていて、何も訊かない。訊く理由が、ないから。
私は椅子には座らずに、ベッドの脇の床の上に正座した。
膝の上に、両手を置く。手のひらを上に向けて、あの子に見せるように。
この手を。
「……私も、言わなきゃいけないことが、あります」
声は、思ったよりまっすぐに出た。
「私の、本当の名前は、エレイシア、といいます」
あの子の目は、動かなかった。
「フランスの、田舎の、パン屋の娘でした。……十二歳の頃。私の中で、蛇が、目を覚ましました。何度目かの、転生の器として」
――蛇の、器。
あの子の唇が、微かにその言葉をなぞった。
「それから、紅い月の夜に、真祖の姫に殺されるまで。……私の体は、たくさんの人を、殺しました。私は、それを、全部、蛇の意識の奥で、見ていました」
目を逸らさなかった。逸らしたら、もう言えなくなる気がした。
「その中に、ひとつ。東欧の、山の中の、魔術師の、一族が、いました」
あの子の目は動かなかった。ほんの、一ミリも。
「雪の、夜でした。私の体は、里の門の前に、倒れました。蛇が、そうさせました。……かわいそうに、まだ子供じゃないか、早く温めてやれって。優しい人たちが、私を、抱き上げて、中に入れてくれました」
声が震えはじめた。止められなかった。
「暖炉の前で、スープを、もらいました。小さな男の子が、黒パンを、半分、くれました。……それから、蛇が、目を開けて」
喉が詰まった。
「私の、この手が」
膝の上の、自分の手のひらを見下ろした。
「あなたの一族を、殺しました。……ひとりずつ」
部屋の中が、静かだった。
あの子は何も言わなかった。顔のどこも、動かなかった。怒りも、驚きも、憎しみも、何も。ただ灰青の目で、私を見ていた。まるで、資料庫の記録を読み上げられているのを聞いているように。
「……照合、しました」
しばらくして、あの子が言った。平らな、かすれた声で。
「長老たちの話と、一致します。十三年前の冬。里の門の前に倒れていた、少女。十二か、十三。……あなたで、間違い、ありませんね」
「……はい」
「記録します」
それだけだった。
記録します。私の告白を、あの子は記録した。
◇
「……扉の前で」
言うつもりは、なかった。言い訳にしか聞こえないから。それでも、口が勝手に動いていた。
「地下への、扉の前で。……私、抗ったんです。蛇から、右手だけ、奪い返して。自分の腕を、引っ掻いて。……にげてって。扉の向こうに、届かない声で」
あの子の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「扉の向こうに、心臓の音が、聞こえてたんです。老いた人が、四人。女の人が、ひとり。それから……そのお腹の中に、もうひとつ。小さくて、速い……」
声が割れた。
「それが、聞こえてる間だけ、私、蛇の中で、暴れられたんです。……扉を、開けさせなかった。蛇は、残り滓だって言って、背を向けて」
「長老たちの話とは、解釈が、異なります」
あの子が言った。
「長老たちは、あの夜の少女の行動を、嬲るためだと、言っていました。生かして、絶望させるためだ、と」
嬲るため。そう、思われていた。
当然だ。あの人たちから見れば、私は、里を滅ぼした蛇そのものだった。
「宿主本人の証言として、記録します。……検証の手段が、現時点で、ありません。仮説として、保留します」
仮説として、保留。
信じてほしいなんて、思っていなかった。思う資格もなかった。それでも、その言葉は胸の真ん中に、冷たく落ちた。
「……そんなの」
首を振る。
「そんなの、どっちでも、いいんです。何の言い訳にも、ならない。扉の向こうの数人を、逃がせたかもしれない。でも、その前に、六十人を、殺した。この手で。あなたのお母さんを、あの扉の向こうに、追い込んだのも。……あなたが、生まれる前から、作り替えられなきゃいけなかったのも」
声が、割れた。
「あなたが、味も、痛みも、何も、わからないのも。……全部、私の、せいです」
それから、言わなければいけないことが、もうひとつあった。
「私の中には、まだ、蛇の知識が、残っています。蛇の術も。……人の魂を、器から器へ移し替える術も。人の体の中の道を、思うままに書き換える術も」
あの子の目が、ほんの少しだけ動いた。
「だから、決めているんです。……その術は、ロアと、あの真祖の姫にしか、使わない、って」
自分の手のひらを、見下ろした。
「それ以外の誰かに、あの蛇の術を使ったら。……私は、きっと、あの蛇の側に、戻ってしまう。蛇の力を、自分のものとして、認めてしまう」
十三年間、一度も破らなかった。これからも、破らない。そう思っていた。
「……記録します」
あの子は平らな声で、そう言った。
誓いまで、記録された。
◇
立ち上がって、部屋の隅の木の箱を開けた。封印の布に包まれた刃を取り出して、布をほどく。
霜に覆われた、黒銀の刃。蔦と、牙。あの人たちが打った、刃。
両手で捧げ持って、あの子の前に、また膝をついた。
「お願いが、あります」
差し出した刃の上に、私の涙が落ちる。落ちた端から霜に触れて、白く凍っていく。
「私の体は、死ねないんです。蛇が、この世のどこかで生きている限り、世界は、私の魂を、蛇のものだと思い込んでいる。……首を落とされても、心臓を貫かれても、元に、戻される」
刃を見下ろす。
「でも、この刃なら。……魂と呪いの結びつきを、断てるなら。私と、蛇を繋いでいる糸も、切れるかもしれない」
顔を上げる。
「切ってください。……そして、私を、殺してください」
言えた。
十三年間、誰にも、言えなかったこと。
「あなたになら。……あなたにだけは、殺されても、いい。殺して、ほしい」
笑ってしまった。涙で、ぐしゃぐしゃの顔で。
「そうしたら、私、やっと、人間として、死ねるんです。……それに、あなたの一族の人たちにも、少しは――」
あの子の目が、刃を見ていた。それから、私を見た。何かを測るように。
数秒。
「あなたを、殺す理由は、ありません」
平らな声だった。
息が、止まった。
「……どう、して」
「あなたは、蛇に敵対する存在です。この街で、最も戦力の高い、蛇の敵です」
はっきりと、あの子は言った。
「蛇に敵対する存在を、減らす必要性は、ありません」
◇
何を言われたのか、わからなかった。
――蛇に敵対する存在を、減らす必要性は、ありません。
恨みでも、許しでも、憐れみでもなかった。ただの、計算だった。
「……恨んで、ないんですか」
声が震えていた。
「私は、あなたの一族を――」
「恨むための機能が、ありません」
「でも」
「僕は、その夜、まだ、生まれていませんでした。奪われたのは、長老たちです。僕が継いだのは、長老たちの怨嗟ではありません。手順だけです」
あの子は、淡々と続けた。
「蛇の魂を、宿主から剥がして、消す。……その手順にとって、あなたを殺すことは、損失でしかありません」
損失。
私を殺すことは、損失。私が生きていることは、利益。蛇に敵対する、戦力として。
――それだけ。
「……ずるい」
しゃくり上げていた。
「ずるいです、そんなの……。恨んで、くれたら……殺して、くれたら……私、やっと……」
「あなたの死は、合理的ではありません」
「そういうことじゃ、ない……っ」
刃を床に置いて、両手で顔を覆った。
泣いた。子供のように。十二歳の、パン屋の娘のように。
あの子はベッドの上で、それを見ていた。指の間から、それが見えた。灰青の目が、私を見ていた。
何もしなかった。慰めもしなかったし、背を向けもしなかった。ただ、見ていた。泣いている、器を。
記録しているのだろう。
――上級生・シエル。流涙。持続。原因、推定、依頼の拒否。
そんなふうに。
恨まれる方が、よかった。憎まれて、刃を突き立てられる方が、ずっと、よかった。
あの子は、私を恨まない。許しもしない。許すための機能も、たぶん、ないから。
私はここで、裁かれることも、赦されることもなく、ただ役に立つから生かされる。あの子の、手順のために。
――それが、私への罰なのだと。
そのときは、まだ、わからなかった。
◇
あの子は、三十秒で眠った。ベッドに横になって、目を閉じて、三十秒。時計を見ていたから、わかった。あんなことの後で、三十秒。
私はベッドの脇の椅子に座っていた。眠れなかったし、眠るつもりもなかった。
あの子の寝顔を見ていた。灰を溶かしたような、色の薄い金髪。閉じた瞼の、薄い色の睫毛。寝顔は、ひどく幼かった。
暦の上では、十三歳。
――体と、頭は、十八年分の時間を、生きています。
十八年。炉の赤い光と、石の天井と、嗄れた声と、金属の盆。それだけの、十八年。そのあいだ、誰かに手を握られたことが、あったのだろうか。
手を伸ばした。ベッドの上の、あの子の右手の上に、指先だけをそっと重ねる。包帯の巻かれた、ひんやりとした手の甲。
あの子は目を覚まさなかった。手を、引かなかった。
――引く理由も、引かない理由も、ないから。
きっと、それだけ。わかっている。
それでも、私は指を離せなかった。朝まで。
◇
九日目、朝七時半。
お粥を作った。卵を落として、ほぐして。あの子は右手で匙を使って、それを食べた。
咀嚼の回数を数えた。四十回。ひと匙ごとに、きっちり四十回。
「……どうですか」
訊いてしまった。鍋を洗いながら、振り返らずに。昨日までの癖で。
「温度は、六十六度です」
手が止まった。
――温度は、六十六度です。
美味しいです、じゃ、なかった。もう、そう答えないのだ。私が、知ってしまったから。知っている相手に仕込まれた答えを返すことに、意味はない。あの子なら、きっとそう考える。
正しい。あの子は、正しい。
なのに、美味しいです、と言ってほしかった。嘘でも。仕込まれた言葉でも。
――そう思った自分が、いちばん、醜かった。
「……そうですか」
水の音を、少しだけ強くした。
◇
ゆうべ、あの子が眠っているあいだに、ひとつ作ったものがあった。手書きの表。縦に日付、横に項目。
――体温。脈拍。食事。痛み。気分。
「回復の、記録です。毎日、つけてください」
ペンを、あの子の右手に握らせた。
「数字で、いいですから。……あなたが、わかる範囲で」
あの子は、書いた。
――体温、三十五度六分。
――脈拍、五十八。
――食事、粥。熱量、約二百キロカロリー。温度、六十六度。完食。
――痛み。
ペンが止まった。一秒。あの子は何も書かずに、次の欄へ進んだ。
――気分。
ペンが止まった。一秒。何も、書かなかった。
表が返ってくる。数字の並んだ三つの欄と、何も書かれていない二つの欄。
わかっていた。空欄になるとわかっていて、作った。それでも、その二つの白い升目を見たとき、喉の奥が焼けるように熱くなった。
この子には、痛みがない。気分がない。
私が、奪った。
表を、冷蔵庫の扉に磁石で留めた。目の高さに。毎日、いちばん最初に目に入る場所に。
「……学校、行ってきますね。今日は、愛染先生に、有波くんの欠席の連絡、私からしておきます」
エプロンを外して、鞄を肩に掛ける。玄関で靴を履いて、振り返った。
「明日も、つけてくださいね。……空いてる欄は、空いたままで、いいですから」
「了解しました」
「……いつか」
言いかけた。いつか、そこに何かが書ける日が来たら。
――言えなかった。そんな日を願う資格が私にあるとは、思えなかった。
「いってきます」
扉を閉めて、鍵をかけて、外階段を下りる。一段。二段。三段。
途中で立ち止まって、手すりにしがみついた。朝の光が眩しかった。
左の前腕が、ひどく疼いていた。袖の上から右手で掴んで、爪を立てる。十三年前と同じ場所に。
――にげて。
あの夜、扉の向こうに届かなかった声は、今も、どこにも届いていない。
あの子は逃げられなかった。生まれる前から。今も。
私の作ったものを食べて。私のベッドで眠って。私が奪った痛みの欄を空白のまま、毎日記録して。
あの子は、逃げない。逃げる理由が、ないから。
外階段の途中で、私はしばらく動けなかった。
◇
学校では、何も頭に入らなかった。黒板の数式が、ただの白い線に見えた。
休み時間に、二年の教室の前を通った。窓際の後ろから二番目の席は、空いていた。その前の席の女の子たちが話していた。
「転校生くん、まだ休みなんだって。交通事故」
「えー、大丈夫かな。お見舞い、行きたいね」
「家、どこか知ってる?」
「知らなーい。あの子、なんにも教えてくれないじゃん」
「ね。クールすぎ」
笑い声。
クール。
あの子は、クールなんじゃない。あの子の中には、何もないだけ。
――私が、そうした。
廊下の窓枠に、ノエルが背中を預けていた。
「……ほんと、ひどい顔」
私の顔を見て、ノエルが言った。
「昨夜、何があったの。マーリオゥの坊やが朝から、あんたの可愛い後輩のアパートで合鍵借りて、家探ししてたけど。……もぬけの殻だったって」
「……」
「連れてったんだ。自分の部屋に」
ノエルが薄く笑った。
「祖の原理ごと? ……教会にばれたら、あんた、ただじゃ済まないわよ」
「わかってます」
「わかってて、やるんだ」
ノエルの目が、少しだけ細くなった。
「何者なの、あの子」
「……普通の、後輩です」
「嘘」
ノエルは窓枠から背中を離した。
「あんたが、そんな顔するの、初めて見た。……十三年前のこと以外で」
ヒールの音が遠ざかっていった。
十三年前のこと、以外で。
違う。これも、十三年前のことだ。ずっと、十三年前のことだった。
◇
昼休み、茶道部の部室にひとりでいた。
釜に湯を沸かして、茶碗を温めて、茶杓で抹茶を掬った。
茶筅を振る。しゃかしゃか、と。あの子に教えた振り方で、手首を柔らかく。淡い緑の、きめの細かい泡。
口をつける。
苦い。柔らかい。温かい。
――温度、六十二度でした。
あの子の舌の上では、この苦さも、柔らかさも、温かさも、全部数字になる。カテキン。カフェイン。苦味成分、中程度。温度、六十二度。
この部屋で、私の目の前で、あの子はそれを飲んでいた。美味しいです、と言って。私が、ほっとするでしょう、と言ったら、黙って茶碗を置いて。
茶碗を、膝の上に下ろした。泡が少しずつ消えていく。湯気が少しずつ薄くなっていく。冷めていく。六十二度から、五十度。四十度。
あの子なら、きっと正確に数えられる。私には、ただ、温かいものが冷めていくのがわかるだけだ。
――それが、わかるだけでも。
あの子には、それすら、ない。
茶碗の縁に、ぽたり、と何かが落ちた。冷めかけた抹茶に、小さな波紋が広がった。
◇
夕方、部屋に帰った。
「ただいま、有波くん。……わ、床に、座ってる」
「歩行の、訓練です。六歩、歩けました」
床の上に、あの子が座っていた。壁に、片手をついて。
「……もう」
ベッドに戻す。軽い。ゆうべ背負ったときと、同じ重さ。
それから、学校のことを話した。遠野くんのこと。ノエルが昨夜、駅の北のマンションで異形の死者と戦って、灰にしたこと。そこに遠野くんがいて、黒い獣が遠野くんを連れていったこと。マーリオゥがあの子のアパートを合鍵で開けて、何も見つけられなかったこと。
あの子は黙って聞いていた。それから、短く言った。
「七日目の夜、遠野志貴は、蛇の影に、襲われています。冷蔵庫越しに、刃が、それを拾いました」
「……ええ。ノエルが、焼き払ったって」
「影は、地面の下へ、逃げました。旧校舎の方角へ。……遠野志貴の中から、ではなく」
あの子は、淡々と続けた。
「蛇の器は、遠野志貴では、ない可能性があります。遠野志貴の、周囲の、別の誰か」
淡々と。昨夜、私が何を言って、何を差し出して、どう泣いたのか。何も、なかったように。
――記録しました。
それだけなのだ。あの子にとって、昨夜のことは。
台所に立って、エプロンを着ける。壁のカレンダーが目に入った。
机の上の壁に貼ってある、この一か月の、あの子のお弁当の献立。
――十五日、おすそ分け。からあげ。卵焼き(甘め)。
――十七日、入部のお礼! 卵焼き三回巻き! ハンバーグに星。人参、お花。
感嘆符まで、つけて。浮かれて。
余白に、少し大きな字で書いてあった。
――有波くんの好きなもの:?
その下に、いくつかの料理の名前。卵焼き。からあげ。辛いもの。それぞれの横に、小さな疑問符。
好きなもの。見つけてあげます、って、私、言った。毎日作ってたら、どれか当たるかもしれないでしょうって。
当たるはずが、なかった。あの子の舌は、何を乗せても数字しか返さないのだから。
剥がそう、と思った。手を伸ばして、カレンダーの端に指をかけた。
――剥がせなかった。指が、動かなかった。
しばらく、そのまま立っていた。
それから、ペンを取った。疑問符の隣に、小さな字で書き足した。
――いつか。
それだけ。願う資格なんて、ないのに。それでも、書かずにはいられなかった。
◇
夜。あの子は、また三十秒で眠った。
鞄の中の手帳を、そっと開いた。六日目の朝、マーリオゥに言われたことを、その日のうちに書き留めた頁がある。
――勝手に灰にすんなよ。
この子に、まだ言っていない。教会が、蛇を消すことを望んでいないかもしれないことを。この子の刃が、教会にとって邪魔になるかもしれないことを。
言えなかった。言えば、この子はひとりで行く。蛇の心臓の前へ。誰よりも先に死ぬために、作られたとおりに。殺してと頼んで、拒まれて、泣いて、それからどの顔で、それを止めればいいのか。
――最後は、いつも、自分ひとりで決めて、勝手にいなくなる。
ノエルの声が、耳の奥でした。
手帳を、閉じた。
私はまた椅子に座って、冷蔵庫の扉の表を見ていた。部屋の明かりを消しても、窓からの街灯の光で、白い紙がぼんやりと浮かんで見える。
――痛み。空欄。
――気分。空欄。
明日も。明後日も。きっと、ずっと。あの子は律儀に、その欄を空けたまま記録し続けるのだろう。私が毎日、それを見るために。
――空いてる欄は、空いたままで、いい。
そう言ったのは、私だ。本当は、そんなこと、思っていない。
あの欄に、いつか何かが書かれてほしい。痛い、でも。苦しい、でも。何でもいい。何でもいいから、あの子の中から、何かが出てきてほしい。
でも、それを願うことは。あの子から全部を奪った私が、それを願うことは、許されるのだろうか。
答えは、どこからも来なかった。
ベッドの上で、あの子が静かに呼吸していた。一分に、五十と少し。ゆっくりすぎる鼓動。十三年前、扉の向こうで聞いた鼓動は、あんなに速かったのに。
私は、あの子の右手の上に、また指先だけを重ねた。
あの子は、引かなかった。引く理由も、引かない理由も、ないから。
それでいい。今は、それで。
空いてる欄は、空いたままで、いい。
――嘘だ。
そう言った自分の声が、耳の奥で、何度も、何度も繰り返していた。