炭鉱のカナリア   作:にんら

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感情欄、空白

 ―――美味しいです。

 

 あの子は毎日、そう言った。一日も欠かさず。平らな声で。

 

 私は、それを一度も疑わなかった。

 

◇

 

 蛇口を、いっぱいに開けた。水が洗面台を叩く音で、何もかもかき消してしまいたかった。自分の声も。

 

 鏡の中に、眼鏡を外した、ひどい顔の女がいる。目が真っ赤だった。鼻の頭も。唇が震えている。

 

 ――訊かれたら、そう答えるように、仕込まれています。

 

 美味しいです、と。

 

 ――残せば、不審に思われるからです。

 

 全部、食べてくれたのは。

 

 ――辛さは、痛覚です。僕には、ありません。

 

 辛いの、平気だったのは。

 

 仲間です、って、私、はしゃいだ。学食の窓際の長机で。この学校、辛いの好きな人ぜんぜんいなくて、って。

 

 あの子は、痛みがわからなかっただけなのに。私はそれを、仲間だって喜んだ。

 

 膝から力が抜けて、洗面台の縁にしがみつく。

 

 ――卵焼き。三回、巻いた。

 

 朝、四時半に起きて、何度も失敗して、四回目でやっときれいな渦になった。ハンバーグに、ケチャップで星を描いた。人参を包丁で花の形に切った。ひとつ一分。五つで、五分。あの子が少しでも、目で楽しんでくれたらって。

 

 ――断面を、目視しました。三重でした。均等な厚さで。

 

 ――味は、わかりません。熱量と、塩分と、温度を、記録しました。

 

 ちゃんと見てくれてたんだ、って、私、嬉しかった。

 

 見ただけ、だった。見て、記録しただけだった。熱量と、塩分と、温度を。

 

「……っ」

 

 声が漏れた。蛇口の水音に紛れて。

 

 漏れて。漏れて。止まらなかった。

 

◇

 

 ――温かいものを飲むと、ちょっと、ほっとするでしょう?

 

 茶道部の部室で、初めてあの子にお茶を点てた日。

 

 ――温度、六十二度でした。ほっとする、という状態は、該当、ありませんでした。

 

 ――さみしい顔、してますね。

 

 ――欠けているものを、欠けていると感じる機能が、ありません。

 

 さみしい顔じゃ、なかった。さみしいと感じることすら、できない顔だった。

 

 私が勝手に、昔の自分の顔を重ねただけ。教会の地下で生き返ったときの自分を。名前を呼ばれない。灰色の、味のしない食事。

 

 ――長老たちが、金属の盆で、運んできました。灰色の、練った穀物と、栄養剤です。

 

 ――カナリア、と、呼ばれていました。

 

 同じじゃなかった。私には、それでも、さみしいと感じる心があった。あの子には、それすらなかった。

 

 はじめから。生まれる、前から。

 

◇

 

 ――母の、胎の中に、いました。

 

 ――生き延びた長老たちが、胎の中にいた僕を、作り替え始めました。

 

 鏡の中の女の顔が、歪んだ。

 

 あの夜。地下へ続く、分厚い木の扉の前。扉の向こうの、四つの老いた鼓動。若い女の人の、震える鼓動。そして、その女の人のお腹の奥の。

 

 小さな、小さな、とても速い、もうひとつの鼓動。

 

 とくとくとく、と。

 

 雪の夜の底で、何も知らずに。

 

 あれが。

 

 あの子だった。

 

 私は、扉を開けなかった。開けさせなかった。蛇の手の中で暴れて、暴れて、自分の腕を引き裂いて。にげて、って。あの小さな鼓動を、守りたくて。

 

 ――守れて、なかった。

 

 扉の向こうで生き延びた人たちは、その鼓動を守らなかった。作り替えた。蛇を殺すための部品に。痛みも、味も、心も、全部剥ぎ取って。

 

 ――蛇の心臓の前で、誰よりも先に死ぬように、作られました。

 

 私があの夜、扉を開けなかったから、あの子は生まれた。生まれて、そして、あんなふうに作られた。

 

 私が、あの里に入り込まなければ。私の体が、あの人たちを殺さなければ。扉の向こうの人たちは、怨嗟に狂わなかった。お腹の中の子を、部品になんかしなかった。あの子は普通の子として生まれていた。普通に痛がって。普通に、卵焼きを甘いって言って。普通に、さみしがって。

 

 ――全部、私が奪った。

 

 あの子の一族を。あの子のお母さんを。それから、あの子の痛みと、味と、心を。生まれる、前から。

 

 私は、洗面台の下の床に座り込んでいた。膝を抱えて。蛇口の水が、まだ流れ続けていた。

 

◇

 

 言わなきゃ、と思った。あの子は、まだ知らない。

 

 ――名簿にない上級生であること。暗示を使うこと。教会の代行者であること。

 

 ――それだけ、です。

 

 あの子は、私が誰なのかを知らない。あの夜、里の門の前に倒れていた少女が誰なのかを。知らないまま私に背負われて、知らないまま私の作ったものを食べて、知らないまま私に傷を縫わせた。

 

 言わなきゃ。

 

 言わないで、このまま先輩の顔をして、あの子の世話を焼き続けることは、もう一度あの里の門の前に倒れるのと同じだ。かわいそうな少女の顔をして、優しい人たちの懐に入り込むのと。

 

 蛇口を閉めた。冷たい水で、何度も顔を洗った。眼鏡をかけ直した。

 

 鏡の中の女は、まだひどい顔をしていた。構わない。この顔のまま、行く。

 

 廊下を、一歩ずつ戻る。足が重かった。部屋の前で一度だけ立ち止まって、それから、扉を開けた。

 

◇

 

 あの子は、ベッドの上に座っていた。さっきと同じ姿勢で。

 

 灰青の目が、私を見た。何も変わらない目だった。私が何分洗面所にいたのか、そこで何をしていたのか、きっと全部わかっている。わかっていて、何も訊かない。訊く理由が、ないから。

 

 私は椅子には座らずに、ベッドの脇の床の上に正座した。

 

 膝の上に、両手を置く。手のひらを上に向けて、あの子に見せるように。

 

 この手を。

 

「……私も、言わなきゃいけないことが、あります」

 

 声は、思ったよりまっすぐに出た。

 

「私の、本当の名前は、エレイシア、といいます」

 

 あの子の目は、動かなかった。

 

「フランスの、田舎の、パン屋の娘でした。……十二歳の頃。私の中で、蛇が、目を覚ましました。何度目かの、転生の器として」

 

 ――蛇の、器。

 

 あの子の唇が、微かにその言葉をなぞった。

 

「それから、紅い月の夜に、真祖の姫に殺されるまで。……私の体は、たくさんの人を、殺しました。私は、それを、全部、蛇の意識の奥で、見ていました」

 

 目を逸らさなかった。逸らしたら、もう言えなくなる気がした。

 

「その中に、ひとつ。東欧の、山の中の、魔術師の、一族が、いました」

 

 あの子の目は動かなかった。ほんの、一ミリも。

 

「雪の、夜でした。私の体は、里の門の前に、倒れました。蛇が、そうさせました。……かわいそうに、まだ子供じゃないか、早く温めてやれって。優しい人たちが、私を、抱き上げて、中に入れてくれました」

 

 声が震えはじめた。止められなかった。

 

「暖炉の前で、スープを、もらいました。小さな男の子が、黒パンを、半分、くれました。……それから、蛇が、目を開けて」

 

 喉が詰まった。

 

「私の、この手が」

 

 膝の上の、自分の手のひらを見下ろした。

 

「あなたの一族を、殺しました。……ひとりずつ」

 

 部屋の中が、静かだった。

 

 あの子は何も言わなかった。顔のどこも、動かなかった。怒りも、驚きも、憎しみも、何も。ただ灰青の目で、私を見ていた。まるで、資料庫の記録を読み上げられているのを聞いているように。

 

「……照合、しました」

 

 しばらくして、あの子が言った。平らな、かすれた声で。

 

「長老たちの話と、一致します。十三年前の冬。里の門の前に倒れていた、少女。十二か、十三。……あなたで、間違い、ありませんね」

 

「……はい」

 

「記録します」

 

 それだけだった。

 

 記録します。私の告白を、あの子は記録した。

 

◇

 

「……扉の前で」

 

 言うつもりは、なかった。言い訳にしか聞こえないから。それでも、口が勝手に動いていた。

 

「地下への、扉の前で。……私、抗ったんです。蛇から、右手だけ、奪い返して。自分の腕を、引っ掻いて。……にげてって。扉の向こうに、届かない声で」

 

 あの子の目が、ほんの少しだけ細くなった。

 

「扉の向こうに、心臓の音が、聞こえてたんです。老いた人が、四人。女の人が、ひとり。それから……そのお腹の中に、もうひとつ。小さくて、速い……」

 

 声が割れた。

 

「それが、聞こえてる間だけ、私、蛇の中で、暴れられたんです。……扉を、開けさせなかった。蛇は、残り滓だって言って、背を向けて」

 

「長老たちの話とは、解釈が、異なります」

 

 あの子が言った。

 

「長老たちは、あの夜の少女の行動を、嬲るためだと、言っていました。生かして、絶望させるためだ、と」

 

 嬲るため。そう、思われていた。

 

 当然だ。あの人たちから見れば、私は、里を滅ぼした蛇そのものだった。

 

「宿主本人の証言として、記録します。……検証の手段が、現時点で、ありません。仮説として、保留します」

 

 仮説として、保留。

 

 信じてほしいなんて、思っていなかった。思う資格もなかった。それでも、その言葉は胸の真ん中に、冷たく落ちた。

 

「……そんなの」

 

 首を振る。

 

「そんなの、どっちでも、いいんです。何の言い訳にも、ならない。扉の向こうの数人を、逃がせたかもしれない。でも、その前に、六十人を、殺した。この手で。あなたのお母さんを、あの扉の向こうに、追い込んだのも。……あなたが、生まれる前から、作り替えられなきゃいけなかったのも」

 

 声が、割れた。

 

「あなたが、味も、痛みも、何も、わからないのも。……全部、私の、せいです」

 

 それから、言わなければいけないことが、もうひとつあった。

 

「私の中には、まだ、蛇の知識が、残っています。蛇の術も。……人の魂を、器から器へ移し替える術も。人の体の中の道を、思うままに書き換える術も」

 

 あの子の目が、ほんの少しだけ動いた。

 

「だから、決めているんです。……その術は、ロアと、あの真祖の姫にしか、使わない、って」

 

 自分の手のひらを、見下ろした。

 

「それ以外の誰かに、あの蛇の術を使ったら。……私は、きっと、あの蛇の側に、戻ってしまう。蛇の力を、自分のものとして、認めてしまう」

 

 十三年間、一度も破らなかった。これからも、破らない。そう思っていた。

 

「……記録します」

 

 あの子は平らな声で、そう言った。

 

 誓いまで、記録された。

 

◇

 

 立ち上がって、部屋の隅の木の箱を開けた。封印の布に包まれた刃を取り出して、布をほどく。

 

 霜に覆われた、黒銀の刃。蔦と、牙。あの人たちが打った、刃。

 

 両手で捧げ持って、あの子の前に、また膝をついた。

 

「お願いが、あります」

 

 差し出した刃の上に、私の涙が落ちる。落ちた端から霜に触れて、白く凍っていく。

 

「私の体は、死ねないんです。蛇が、この世のどこかで生きている限り、世界は、私の魂を、蛇のものだと思い込んでいる。……首を落とされても、心臓を貫かれても、元に、戻される」

 

 刃を見下ろす。

 

「でも、この刃なら。……魂と呪いの結びつきを、断てるなら。私と、蛇を繋いでいる糸も、切れるかもしれない」

 

 顔を上げる。

 

「切ってください。……そして、私を、殺してください」

 

 言えた。

 

 十三年間、誰にも、言えなかったこと。

 

「あなたになら。……あなたにだけは、殺されても、いい。殺して、ほしい」

 

 笑ってしまった。涙で、ぐしゃぐしゃの顔で。

 

「そうしたら、私、やっと、人間として、死ねるんです。……それに、あなたの一族の人たちにも、少しは――」

 

 あの子の目が、刃を見ていた。それから、私を見た。何かを測るように。

 

 数秒。

 

「あなたを、殺す理由は、ありません」

 

 平らな声だった。

 

 息が、止まった。

 

「……どう、して」

 

「あなたは、蛇に敵対する存在です。この街で、最も戦力の高い、蛇の敵です」

 

 はっきりと、あの子は言った。

 

「蛇に敵対する存在を、減らす必要性は、ありません」

 

◇

 

 何を言われたのか、わからなかった。

 

 ――蛇に敵対する存在を、減らす必要性は、ありません。

 

 恨みでも、許しでも、憐れみでもなかった。ただの、計算だった。

 

「……恨んで、ないんですか」

 

 声が震えていた。

 

「私は、あなたの一族を――」

 

「恨むための機能が、ありません」

 

「でも」

 

「僕は、その夜、まだ、生まれていませんでした。奪われたのは、長老たちです。僕が継いだのは、長老たちの怨嗟ではありません。手順だけです」

 

 あの子は、淡々と続けた。

 

「蛇の魂を、宿主から剥がして、消す。……その手順にとって、あなたを殺すことは、損失でしかありません」

 

 損失。

 

 私を殺すことは、損失。私が生きていることは、利益。蛇に敵対する、戦力として。

 

 ――それだけ。

 

「……ずるい」

 

 しゃくり上げていた。

 

「ずるいです、そんなの……。恨んで、くれたら……殺して、くれたら……私、やっと……」

 

「あなたの死は、合理的ではありません」

 

「そういうことじゃ、ない……っ」

 

 刃を床に置いて、両手で顔を覆った。

 

 泣いた。子供のように。十二歳の、パン屋の娘のように。

 

 あの子はベッドの上で、それを見ていた。指の間から、それが見えた。灰青の目が、私を見ていた。

 

 何もしなかった。慰めもしなかったし、背を向けもしなかった。ただ、見ていた。泣いている、器を。

 

 記録しているのだろう。

 

 ――上級生・シエル。流涙。持続。原因、推定、依頼の拒否。

 

 そんなふうに。

 

 恨まれる方が、よかった。憎まれて、刃を突き立てられる方が、ずっと、よかった。

 

 あの子は、私を恨まない。許しもしない。許すための機能も、たぶん、ないから。

 

 私はここで、裁かれることも、赦されることもなく、ただ役に立つから生かされる。あの子の、手順のために。

 

 ――それが、私への罰なのだと。

 

 そのときは、まだ、わからなかった。

 

◇

 

 あの子は、三十秒で眠った。ベッドに横になって、目を閉じて、三十秒。時計を見ていたから、わかった。あんなことの後で、三十秒。

 

 私はベッドの脇の椅子に座っていた。眠れなかったし、眠るつもりもなかった。

 

 あの子の寝顔を見ていた。灰を溶かしたような、色の薄い金髪。閉じた瞼の、薄い色の睫毛。寝顔は、ひどく幼かった。

 

 暦の上では、十三歳。

 

 ――体と、頭は、十八年分の時間を、生きています。

 

 十八年。炉の赤い光と、石の天井と、嗄れた声と、金属の盆。それだけの、十八年。そのあいだ、誰かに手を握られたことが、あったのだろうか。

 

 手を伸ばした。ベッドの上の、あの子の右手の上に、指先だけをそっと重ねる。包帯の巻かれた、ひんやりとした手の甲。

 

 あの子は目を覚まさなかった。手を、引かなかった。

 

 ――引く理由も、引かない理由も、ないから。

 

 きっと、それだけ。わかっている。

 

 それでも、私は指を離せなかった。朝まで。

 

◇

 

 九日目、朝七時半。

 

 お粥を作った。卵を落として、ほぐして。あの子は右手で匙を使って、それを食べた。

 

 咀嚼の回数を数えた。四十回。ひと匙ごとに、きっちり四十回。

 

「……どうですか」

 

 訊いてしまった。鍋を洗いながら、振り返らずに。昨日までの癖で。

 

「温度は、六十六度です」

 

 手が止まった。

 

 ――温度は、六十六度です。

 

 美味しいです、じゃ、なかった。もう、そう答えないのだ。私が、知ってしまったから。知っている相手に仕込まれた答えを返すことに、意味はない。あの子なら、きっとそう考える。

 

 正しい。あの子は、正しい。

 

 なのに、美味しいです、と言ってほしかった。嘘でも。仕込まれた言葉でも。

 

 ――そう思った自分が、いちばん、醜かった。

 

「……そうですか」

 

 水の音を、少しだけ強くした。

 

◇

 

 ゆうべ、あの子が眠っているあいだに、ひとつ作ったものがあった。手書きの表。縦に日付、横に項目。

 

 ――体温。脈拍。食事。痛み。気分。

 

「回復の、記録です。毎日、つけてください」

 

 ペンを、あの子の右手に握らせた。

 

「数字で、いいですから。……あなたが、わかる範囲で」

 

 あの子は、書いた。

 

 ――体温、三十五度六分。

 

 ――脈拍、五十八。

 

 ――食事、粥。熱量、約二百キロカロリー。温度、六十六度。完食。

 

 ――痛み。

 

 ペンが止まった。一秒。あの子は何も書かずに、次の欄へ進んだ。

 

 ――気分。

 

 ペンが止まった。一秒。何も、書かなかった。

 

 表が返ってくる。数字の並んだ三つの欄と、何も書かれていない二つの欄。

 

 わかっていた。空欄になるとわかっていて、作った。それでも、その二つの白い升目を見たとき、喉の奥が焼けるように熱くなった。

 

 この子には、痛みがない。気分がない。

 

 私が、奪った。

 

 表を、冷蔵庫の扉に磁石で留めた。目の高さに。毎日、いちばん最初に目に入る場所に。

 

「……学校、行ってきますね。今日は、愛染先生に、有波くんの欠席の連絡、私からしておきます」

 

 エプロンを外して、鞄を肩に掛ける。玄関で靴を履いて、振り返った。

 

「明日も、つけてくださいね。……空いてる欄は、空いたままで、いいですから」

 

「了解しました」

 

「……いつか」

 

 言いかけた。いつか、そこに何かが書ける日が来たら。

 

 ――言えなかった。そんな日を願う資格が私にあるとは、思えなかった。

 

「いってきます」

 

 扉を閉めて、鍵をかけて、外階段を下りる。一段。二段。三段。

 

 途中で立ち止まって、手すりにしがみついた。朝の光が眩しかった。

 

 左の前腕が、ひどく疼いていた。袖の上から右手で掴んで、爪を立てる。十三年前と同じ場所に。

 

 ――にげて。

 

 あの夜、扉の向こうに届かなかった声は、今も、どこにも届いていない。

 

 あの子は逃げられなかった。生まれる前から。今も。

 

 私の作ったものを食べて。私のベッドで眠って。私が奪った痛みの欄を空白のまま、毎日記録して。

 

 あの子は、逃げない。逃げる理由が、ないから。

 

 外階段の途中で、私はしばらく動けなかった。

 

◇

 

 学校では、何も頭に入らなかった。黒板の数式が、ただの白い線に見えた。

 

 休み時間に、二年の教室の前を通った。窓際の後ろから二番目の席は、空いていた。その前の席の女の子たちが話していた。

 

「転校生くん、まだ休みなんだって。交通事故」

 

「えー、大丈夫かな。お見舞い、行きたいね」

 

「家、どこか知ってる?」

 

「知らなーい。あの子、なんにも教えてくれないじゃん」

 

「ね。クールすぎ」

 

 笑い声。

 

 クール。

 

 あの子は、クールなんじゃない。あの子の中には、何もないだけ。

 

 ――私が、そうした。

 

 廊下の窓枠に、ノエルが背中を預けていた。

 

「……ほんと、ひどい顔」

 

 私の顔を見て、ノエルが言った。

 

「昨夜、何があったの。マーリオゥの坊やが朝から、あんたの可愛い後輩のアパートで合鍵借りて、家探ししてたけど。……もぬけの殻だったって」

 

「……」

 

「連れてったんだ。自分の部屋に」

 

 ノエルが薄く笑った。

 

「祖の原理ごと? ……教会にばれたら、あんた、ただじゃ済まないわよ」

 

「わかってます」

 

「わかってて、やるんだ」

 

 ノエルの目が、少しだけ細くなった。

 

「何者なの、あの子」

 

「……普通の、後輩です」

 

「嘘」

 

 ノエルは窓枠から背中を離した。

 

「あんたが、そんな顔するの、初めて見た。……十三年前のこと以外で」

 

 ヒールの音が遠ざかっていった。

 

 十三年前のこと、以外で。

 

 違う。これも、十三年前のことだ。ずっと、十三年前のことだった。

 

◇

 

 昼休み、茶道部の部室にひとりでいた。

 

 釜に湯を沸かして、茶碗を温めて、茶杓で抹茶を掬った。

 

 茶筅を振る。しゃかしゃか、と。あの子に教えた振り方で、手首を柔らかく。淡い緑の、きめの細かい泡。

 

 口をつける。

 

 苦い。柔らかい。温かい。

 

 ――温度、六十二度でした。

 

 あの子の舌の上では、この苦さも、柔らかさも、温かさも、全部数字になる。カテキン。カフェイン。苦味成分、中程度。温度、六十二度。

 

 この部屋で、私の目の前で、あの子はそれを飲んでいた。美味しいです、と言って。私が、ほっとするでしょう、と言ったら、黙って茶碗を置いて。

 

 茶碗を、膝の上に下ろした。泡が少しずつ消えていく。湯気が少しずつ薄くなっていく。冷めていく。六十二度から、五十度。四十度。

 

 あの子なら、きっと正確に数えられる。私には、ただ、温かいものが冷めていくのがわかるだけだ。

 

 ――それが、わかるだけでも。

 

 あの子には、それすら、ない。

 

 茶碗の縁に、ぽたり、と何かが落ちた。冷めかけた抹茶に、小さな波紋が広がった。

 

◇

 

 夕方、部屋に帰った。

 

「ただいま、有波くん。……わ、床に、座ってる」

 

「歩行の、訓練です。六歩、歩けました」

 

 床の上に、あの子が座っていた。壁に、片手をついて。

 

「……もう」

 

 ベッドに戻す。軽い。ゆうべ背負ったときと、同じ重さ。

 

 それから、学校のことを話した。遠野くんのこと。ノエルが昨夜、駅の北のマンションで異形の死者と戦って、灰にしたこと。そこに遠野くんがいて、黒い獣が遠野くんを連れていったこと。マーリオゥがあの子のアパートを合鍵で開けて、何も見つけられなかったこと。

 

 あの子は黙って聞いていた。それから、短く言った。

 

「七日目の夜、遠野志貴は、蛇の影に、襲われています。冷蔵庫越しに、刃が、それを拾いました」

 

「……ええ。ノエルが、焼き払ったって」

 

「影は、地面の下へ、逃げました。旧校舎の方角へ。……遠野志貴の中から、ではなく」

 

 あの子は、淡々と続けた。

 

「蛇の器は、遠野志貴では、ない可能性があります。遠野志貴の、周囲の、別の誰か」

 

 淡々と。昨夜、私が何を言って、何を差し出して、どう泣いたのか。何も、なかったように。

 

 ――記録しました。

 

 それだけなのだ。あの子にとって、昨夜のことは。

 

 台所に立って、エプロンを着ける。壁のカレンダーが目に入った。

 

 机の上の壁に貼ってある、この一か月の、あの子のお弁当の献立。

 

 ――十五日、おすそ分け。からあげ。卵焼き(甘め)。

 

 ――十七日、入部のお礼! 卵焼き三回巻き! ハンバーグに星。人参、お花。

 

 感嘆符まで、つけて。浮かれて。

 

 余白に、少し大きな字で書いてあった。

 

 ――有波くんの好きなもの:?

 

 その下に、いくつかの料理の名前。卵焼き。からあげ。辛いもの。それぞれの横に、小さな疑問符。

 

 好きなもの。見つけてあげます、って、私、言った。毎日作ってたら、どれか当たるかもしれないでしょうって。

 

 当たるはずが、なかった。あの子の舌は、何を乗せても数字しか返さないのだから。

 

 剥がそう、と思った。手を伸ばして、カレンダーの端に指をかけた。

 

 ――剥がせなかった。指が、動かなかった。

 

 しばらく、そのまま立っていた。

 

 それから、ペンを取った。疑問符の隣に、小さな字で書き足した。

 

 ――いつか。

 

 それだけ。願う資格なんて、ないのに。それでも、書かずにはいられなかった。

 

◇

 

 夜。あの子は、また三十秒で眠った。

 

 鞄の中の手帳を、そっと開いた。六日目の朝、マーリオゥに言われたことを、その日のうちに書き留めた頁がある。

 

 ――勝手に灰にすんなよ。

 

 この子に、まだ言っていない。教会が、蛇を消すことを望んでいないかもしれないことを。この子の刃が、教会にとって邪魔になるかもしれないことを。

 

 言えなかった。言えば、この子はひとりで行く。蛇の心臓の前へ。誰よりも先に死ぬために、作られたとおりに。殺してと頼んで、拒まれて、泣いて、それからどの顔で、それを止めればいいのか。

 

 ――最後は、いつも、自分ひとりで決めて、勝手にいなくなる。

 

 ノエルの声が、耳の奥でした。

 

 手帳を、閉じた。

 

 私はまた椅子に座って、冷蔵庫の扉の表を見ていた。部屋の明かりを消しても、窓からの街灯の光で、白い紙がぼんやりと浮かんで見える。

 

 ――痛み。空欄。

 

 ――気分。空欄。

 

 明日も。明後日も。きっと、ずっと。あの子は律儀に、その欄を空けたまま記録し続けるのだろう。私が毎日、それを見るために。

 

 ――空いてる欄は、空いたままで、いい。

 

 そう言ったのは、私だ。本当は、そんなこと、思っていない。

 

 あの欄に、いつか何かが書かれてほしい。痛い、でも。苦しい、でも。何でもいい。何でもいいから、あの子の中から、何かが出てきてほしい。

 

 でも、それを願うことは。あの子から全部を奪った私が、それを願うことは、許されるのだろうか。

 

 答えは、どこからも来なかった。

 

 ベッドの上で、あの子が静かに呼吸していた。一分に、五十と少し。ゆっくりすぎる鼓動。十三年前、扉の向こうで聞いた鼓動は、あんなに速かったのに。

 

 私は、あの子の右手の上に、また指先だけを重ねた。

 

 あの子は、引かなかった。引く理由も、引かない理由も、ないから。

 

 それでいい。今は、それで。

 

 空いてる欄は、空いたままで、いい。

 

 ――嘘だ。

 

 そう言った自分の声が、耳の奥で、何度も、何度も繰り返していた。

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