十日目、朝六時に起床。
体温三十五度七分、脈拍は毎分五十六。右腕は正常。左手は指三本、左肘がわずかに応答。左肩は縫合済み。右脚は正常、左脚は膝まで。確認に要した時間は三秒で、誤差は減少している。
ベッドの脇の椅子で、シエルが眠っていた。背もたれに頭を預け、眼鏡がずれたままだ。その右手が、ベッドの上の僕の右手に重ねられていた。指先だけで、軽く引っかけるようにして。昨夜も、一昨日の夜もそうだった。
――上級生・シエル。三夜連続、睡眠中にこちらの右手に接触。
手は引かなかった。引く理由も、引かない理由もなかった。
◇
朝食はトーストと目玉焼きと、温かい牛乳だった。
テーブルまで、壁を伝って歩いた。九歩。膝は折れなかった。
シエルがフライパンを持ったまま振り返った。
「……歩けてる」
「九歩です」
「九歩も」
シエルは何かを言いかけて、それから口を閉じた。拍手はしなかったし、笑いもしなかった。ただ、少しだけ目を細めた。
目玉焼きを食べる。
――卵、塩、胡椒、油。温度七十一度。毒性なし。
シエルは何も訊かなかった。どうですか、とも。
食べ終えると、冷蔵庫の扉に貼られた表に、ペンで書き込む。
――体温、三十五度七分。
――脈拍、五十六。
――食事、トースト、目玉焼き、牛乳。熱量、約四百五十キロカロリー。温度、七十一度。完食。
――痛み。
空欄。
――気分。
空欄。
三日目の空欄だった。シエルは背中越しにそれを見ていたが、何も言わなかった。
「……今夜、遅くなります」
鞄を肩に掛けながら、シエルが言った。
「真祖の様子が、おかしいんです。ここ数日、ずっと。……遠野くんも、何か、巻き込まれてる。見に、行かないと」
「了解しました」
「絶対に、出ないでくださいね。その足じゃ、まだ、無理だから」
「了解しました」
「……いってきます」
扉が閉まり、鍵のかかる音がした。足音が遠ざかっていく。
◇
壁を伝って、部屋の中を歩く。九歩、十歩、十一歩。机の前で止まった。
机の上の壁にカレンダーが貼られていて、日付の枠の中に、細かい字で弁当の献立が書いてある。
――十七日、入部のお礼! 卵焼き三回巻き! ハンバーグに星。人参、お花。
感嘆符。余白には、少し大きな字で。
――有波くんの好きなもの:?
その下に料理の名前が並んでいた。卵焼き、からあげ、辛いもの。それぞれの横に、小さな疑問符。それから疑問符の隣に、インクの色が違う、新しい字で。
――いつか。
小さな字だった。ほかの字より筆圧が弱い。
――上級生・シエル。カレンダーに追記。「いつか」。記入時期は昨日と推定。
――意味を推定。対象の嗜好が将来判明することへの期待。ただし、対象に嗜好は存在しない。期待の根拠はない。
そこまで記録して、なぜこの上級生は根拠のない期待を書いたのか、それを推定しようとした。
――推定、できない。
テーブルの上に、折り畳んだ紙が置いてあった。
――お昼は、冷蔵庫の中です。おにぎりと、卵焼きと、からあげ。温めなくても、食べられます。
――お水、ちゃんと飲んでくださいね。
――シエル
冷蔵庫を開けると、ラップのかかった皿があった。おにぎりがふたつ、卵焼きが三切れ、からあげが四つ。最初の日の弁当と同じ献立だった。
食べる。
――米、塩、海苔、鮭。卵、砂糖多め、出汁。鶏肉、醤油、生姜、大蒜。温度六度、冷蔵によるもの。毒性なし。
数値が並んで、それで終わりだ。
紙を畳み直して、手帳の後ろの頁に挟んだ。七日目にドアノブに掛けられていた、あの手紙の隣に。
――上級生・シエルからの書面、二通目。
この部屋に来て、三日目になる。この上級生の生活の音を、僕は記録している。
朝は五時に起きる。台所で何かを刻む音と、鍋の蓋の鳴る音。それから、僕の朝食と、昼の分と、自分の分。夜は零時を過ぎて帰ってきて、僕の包帯を替え、椅子で眠る。
学校の踊り場では、ときどき鼻歌を歌っていた。少しだけ調子の外れた鼻歌を。この部屋に来てから、一度も聴いていない。
――上級生・シエル。鼻歌なし、三日連続。原因は睡眠不足と推定。あるいは、心理的負荷。
◇
昼過ぎ、部屋の隅の木の箱の前に座った。蓋の上では、シエルが指で描いた何かの印がうっすらと光っている。封印の印だ。
この箱の中の刃は、教会の封印の布に包まれ、さらにこの印で閉じられている。冷気はほとんど漏れていない。その代わり、刃の芯の共鳴も外の何かには届かない。この三日、僕は蛇の共鳴を聴けていない。旧校舎の地下の何かが、今どれくらい目を覚ましているのか、わからない。
――情報の空白は、任務の障害。
蓋に手をかけて、開ける。冷気がふわりと溢れ出した。封印の布の上から刃に右手を当てて、目を閉じる。共鳴を聴く。
――南。
学校の方角。旧校舎の、地面の奥。細く、冷たく、ねじれた共鳴。
強い。五日前に最後に聴いたときより、ずっと強い。爪の先で触れるのではない。手のひらで触れられるほどに。
――蛇の覚醒、進行。
それから、もうひとつ。街のどこかで、月の共鳴が揺れている。激しく。弱っているのではない。何かを必死に押さえ込んでいるように。内側から食い破ろうとする何かと、戦っているように。
――真祖の共鳴に、異常な揺らぎ。原因不明。
箱の蓋を閉めると、印がまたうっすらと光った。
◇
二十一時三十分。ベッドの上で天井を見ていた。箱の蓋は閉じてあり、共鳴はほとんど聴こえない。
それでも。
――跳ねた。
蓋越しに、封印越しに、月の共鳴が一瞬、激しく跳ね上がった。昼に聴いたあの揺らぎとは違う。押さえ込んでいたものが、押さえきれずに溢れ出しかけたような。
五秒。十秒。
それから急に小さくなって、遠ざかっていく。北へ、北へ。街の外のほうへ。逃げるように。
――二十一時三十分。真祖の共鳴、急激な上昇。その後、北方へ急速に遠ざかる。原因不明。
◇
二十二時四十分、玄関の鍵が回った。
シエルではない。シエルは鍵を回す前に、一度扉の取っ手に触れる。その音がしなかった。それに足音が違う。シエルより重く、踵の高い靴で、一歩ごとにわずかに左へ体重が寄る。
ベッドの上で上体を起こした。刃は部屋の隅の箱の中だ。距離は三メートル。今の脚では二秒以上かかる。
――第一段階、待機。
寝室の扉が開いた。
「――はーい、こんばんは。お見舞いに来たわよ、転校生くん」
女だった。ゆるく巻いた明るい色の髪に、体の線がはっきり出る黒い服。左腕を首から吊っていて、添え木は折れた木の枝とハンカチ。応急の間に合わせだ。肩には男物の紺のブレザーが掛けられている。総耶高校の制服の上着で、サイズが合っていない。頬には乾いた泥。
知っている顔だった。愛染ノエル。代理の担任で、シエルの弟子。
「あら、起きてた? 顔色、思ったより悪くないじゃない」
ノエルは扉の枠に、しなを作るようにもたれかかった。教室で男子生徒に顔を近づけて話すときと同じ声、同じ角度。目だけが笑っていなかった。
「鍵は」
「ん?」
「玄関の、鍵です」
「ああ、あれ。……あの人の部屋の鍵くらい、開けられなきゃ、弟子なんて、やってらんないのよ」
ノエルは部屋の中に入ってきて、シエルがいつも座っている椅子に勝手に腰を下ろした。座るときに息を詰めた。胸のどこかを庇っている。
――左前腕、骨折。肋骨に損傷の可能性。
ノエルが脚を組む。
「あの人なら、まだ帰ってこないわよ。……毎晩、蛇を探して、屋根から屋根へ跳び回ってるから」
◇
「さっきね」
ノエルは吊った左腕を顎で示した。
「公園で、ちょっとした修羅場があったの。……真祖の姫さま、もう、限界よ。吸血衝動。遠野くんの首筋、目の前にして、牙、出しかけてた」
――真祖の共鳴の、異常な揺らぎ。
その原因が、ひとつ判明した。
「だから、私と、マーリオゥの坊やで、割って入ったの。……割って入った、っていうか」
ノエルは笑った。ひどく歪んだ笑い方だった。
「私、足が止まったのよ。真祖の目、見たら。……そしたら、坊やの糸が、私の手足に、絡みついて。勝手に、斬りかからされた。私の秘蹟で。私の、体で」
吊った腕を軽く持ち上げる。
「で、これ。……使われたの、私。操り人形みたいに」
「……糸」
「坊やの得意技よ。人の体を、楽器みたいに、鳴らすの」
――後始末の部署の少年。糸状の精神干渉。七日目に僕にもかけようとしたもの。人の体を操作する用途にも使用可能。
「それからね。坊やが、勝手に、全部、喋っちゃった。真祖と蛇の因縁とか。真祖がどれだけ渇いてるかとか。……遠野くんの前で」
ノエルは肩をすくめた。
「姫さま、逃げちゃった。遠野くん、置き去り。……かわいそうよねえ、あの子も」
「……蛇の、因縁」
「あら、知らないの? 真祖の姫さまはね、八百年前に、蛇に騙されて、血を吸わされたの。それで、自分の力の一部を、蛇に持ってかれてる。……だから、蛇を追ってるのよ。この街まで」
――真祖は蛇に力の一部を奪われている。真祖が蛇を追う理由、判明。
「でもね」
ノエルが身を乗り出した。
「今日、話しに来たのは、そのことじゃないの」
その目が、まっすぐに僕を見た。
「あんた、スレイヨルンの子でしょ」
◇
「……どこで、その名前を」
「あの人の端末。パスワード、ずっと同じなのよ。弟子になった時から、ずっと」
ノエルは薄く笑った。
「八日目の昼にね、あの人の部屋に、こっそり入ったの。……あの人が、八日目の朝、教会の資料庫で、何を開いたのか。……十三年間、一度も開かなかったフォルダを、あの人が、開いてた。その中の、ひとつの記録を。何度も、何度も」
ノエルの目が、部屋の隅の木の箱へ滑った。
「それで、その日の夜に、あんたを、ここに連れてきた。……祖の原理ごと」
脚を組み替える。
「ねえ、転校生くん。十三年前のロアが、誰の体を使ってたか、知ってる?」
「知っています」
ノエルの目が見開かれた。
「……は?」
「本人から、聞きました。エレイシア。十三年前、スレイヨルンの里を滅ぼした時の、蛇の器。……二日前の夜に」
ノエルはしばらく口を開けたまま僕を見ていたが、やがて乾いた声で笑った。
「……なにそれ。あの人、自分から、言ったの?」
「はい」
「で、あんたは?」
「記録しました」
ノエルの笑い声が止まった。それから薄く笑って、付け足した。
「じゃあ、これは、知ってる? ……あの人、ひとりで蛇の前に行くつもりよ」
――。
「十三年、蛇だけを追ってきた人だもの。教会の中に、蛇を殺されたら困る人たちがいたって、お構いなし。命令違反でも、何でも。蛇の前で死ねるなら、それでいいって顔してるもの。あの人、あんたに、言ってないでしょ」
「……聞いていません」
「でしょうね。……あの人は、最後は、いつも、自分ひとりで決めて、勝手にいなくなるの」
――上級生・シエル。単独で蛇と交戦する意思あり。教会の内部に、蛇の殺害を望まない勢力の存在。
それから、記録を見直す。
――単独。
その語の下に、何か書き足すべきことがある気がした。何を書くべきかは、わからなかった。
――保留。
◇
「……私の町もね」
ノエルは椅子の背もたれに深く体を預けて、天井を見上げた。
「あの人の体に、焼かれたの」
声が平らになった。
「十三年前の、クリスマス・イブ。フランスの、小さな町。……蛇が、祖を何人も呼び集めて、大きな儀式を、やったの。町の人たちは、その儀式の、材料にされた。ひとり残らず」
ノエルは目を閉じた。
「呼び集められた祖は、六人。……町は、儀式の、皿にされたの。あの夜、町の上の空は、ずっと、赤かった。教会の鐘が、誰も鳴らしてないのに、一晩中、鳴ってた」
ノエルの声は平らなままだった。平らにしようとしている声だった。
「明け方近くに、何かが、来たの。……七人目。誰なのかは、知らない。そいつが来て、全部が、ひっくり返って。祖たちが、散り散りになって。最後に、真祖の姫さまが、広場の真ん中の、蛇の器を、殺した」
目を閉じたまま、ノエルは続けた。
「生き残ったのは、私だけ。十四歳だった。……雪の中で、町が燃えるのを、見てた。広場の真ん中に、夜の色の髪の、女の子が、立ってた。真っ白な顔で。笑ってた」
夜の色の、髪。
――十三年前の冬。里の門の前に倒れていた、少女。
「教会に拾われて、修道院に入って。代行者になって。……才能なんか、何もなかった。失敗ばかりして、司教さまの機嫌を損ねて、クビになりかけた時に」
ノエルの唇が歪んだ。
「あの人が、私を、拾ったの。……弟子にしてあげます、って。優しい顔で」
ノエルはくすりと笑った。
「訓練は、鬼みたいに、厳しかった。でも、終わったあとで、カレー、作ってくれたりして。……辛すぎて、食べられなかったけど。あの人、私が涙目になるの見て、ちょっとだけ、楽しそうにしてた」
ノエルは笑った。ひどく歪んだ笑い方だった。
「知ったのは、弟子になって、二年目。……あの広場の、夜の色の髪の女の子が、誰だったのか」
沈黙。
「それでも、私は、あの人の弟子なの。五年間。……任務以外で、口をきいたことは、ほとんどないけど。……笑えるでしょ」
笑えるのかどうか、僕には判定できない。記録しておく。
◇
「ねえ」
ノエルが身を乗り出した。目の奥で、何かが燃えていた。
「あんたの、その刃。魂と呪いの結びつきを、断つんでしょ?」
その目が木の箱を見た。
「あの人と、蛇を繋いでる糸も、切れるんじゃない?」
「理論上は」
「切れば、あの人は、ただの人間。……心臓を刺せば、ちゃんと、死ぬ」
ノエルは囁くように言った。
「あの人ね、ずっと、死にたがってるの。人間として死ぬことだけが、あの人の、たったひとつの願い。……弟子だもの。知ってる」
「知っています。二日前の夜に、本人から、依頼されました」
ノエルの目が、また見開かれた。
「……依頼、された?」
「糸を切って、殺してほしい、と」
「……で?」
「拒否しました」
「……どうして」
「あの人は、蛇に敵対する存在です。この街で、最も戦力の高い、蛇の敵です。……蛇に敵対する存在を、減らす必要性は、ありません」
ノエルは何も言わなかった。しばらく、信じられないものを見る目で僕を見ていた。
「……恨んで、ないの?」
「恨むための機能が、ありません」
「自分の一族を、皆殺しにした女よ? あんたのお母さんを、雪の中に追いやった女よ?」
「僕は、その夜、まだ、生まれていませんでした」
「……っ」
ノエルはしばらく口を開けたまま黙っていた。それから、ふと何かを思いついたように言った。
「……ねえ。あの人のお弁当、食べてたんでしょ。毎日」
「はい」
「美味しかった?」
「熱量と、塩分と、温度を、記録しました。味は、わかりません」
ノエルは一瞬きょとんとして、それから腹を抱えて笑い出した。甲高い、止まらない、ひきつったような笑い声だった。
「最高……最高じゃない、それ。あの人、自分が殺した一族の子に、毎朝、一生懸命お弁当作って……その子は、温度しか、わからないって……!」
笑い声が途中でひび割れた。ノエルは目元を、手の甲で乱暴に拭った。笑いすぎた涙なのか、別の何かなのか、判定できなかった。
「……で」
ノエルがかすれた声で言った。
「あんたは、それでも、あの人を、生かしとくわけ?」
「僕が継いだのは、手順だけです。蛇の魂を、宿主から剥がして、消す。……その手順にとって、あの人を殺すことは、損失でしかありません」
◇
ノエルが立ち上がった。椅子が、がたん、と音を立てた。
「……気持ち悪い」
吐き捨てるように言った。
「あんたも、あの人も。……気持ち悪い」
ノエルは窓のほうへ歩いていって、カーテンの隙間から外の夜を見た。こちらに背中を向けたまま、肩が小さく震えていた。
「……じゃあ、訊くけど」
背中越しにノエルが言った。さっきより低い声だった。
「あの人が、死んだら。……あんた、困る?」
演算する。質問の意図は、上級生・シエルの喪失が僕にとって損失であるかどうか。答えは明確だ。損失だ。蛇に敵対する、最大の戦力の喪失。だから、困る。
答える。
「――」
口が、動かなかった。
答えは出ている。演算は完了している。
それなのに。
声が出るまでに。
〇・四秒。
「……困ります」
ようやく、出た。
「戦力の、喪失になるので」
ノエルが振り返って、僕の顔をじっと見た。
「……今、ちょっと、間があったわね」
答えなかった。答えられなかった。
――演算の完了から出力までに、〇・四秒の遅延。原因不明。
僕の記録の中に原因不明の遅延が記されたのは、それが初めてだった。
◇
ノエルはしばらく黙っていた。それから、コートの襟を立てた。
「……ま、いいわ」
寝室の扉の前で、一度だけ振り返る。
「ひとつ、教えといてあげる。……あの人が、真祖のことで動いてる間、マーリオゥの坊やは、別のことで動いてるわよ。あの子の本当の目的は、祖の原理じゃない。蛇よ。蛇が持ってる、不老の秘術。……蛇と、取引したがってるの。枢機卿の爺さまたちの、ために」
――後始末の部署の少年。蛇との取引を目論む。
「あんたが、蛇を、魂ごと消したら。……あの坊や、きっと、怒るでしょうね」
ノエルは薄く笑った。
「それと。……今夜、私が来たこと、あの人に、言ってもいいわよ。言ったら、あの人、どんな顔するかなあ。……どうせ私、腕がくっついたら、本部に送り返されるんだし。坊やに、そう言われたの」
足音が遠ざかっていき、玄関の扉が閉まった。鍵はかけられなかった。
――殺せ。
頭の奥で、嗄れた声がした。
――器を殺せ。蛇の皮を被った、あの娘を。
――あれが、我らの里に、入り込んだ。あれが、我らの子らを、裂いた。
――殺せ。殺せ。殺せ。
長老たちの声だ。二日前の夜よりも大きく、熱い。
長老たちの手順の中に、蛇の器を殺せという項目はない。今の声は手順ではない。怨嗟だ。僕はそれを継いでいない。
――ノイズ。処理対象外。
それから、代行者・ノエルについて情報を整理する。
――シエルの弟子、五年前から。十三年前、フランスの町を蛇の器に焼かれた、唯一の生存者。それを知りながら、シエルの弟子であり続けている。後始末の部署の少年から、本部への送還を予告されている。
――今夜、シエルの殺害を示唆した。二度目。
目的を推定する。シエルへの報復。ただし、自分の手を汚さずに。合理的な行動ではない。あの代行者は恨みで動いている。恨みで動く者は判断を誤る。長老たちの記録のとおりだ。
――代行者・ノエル。恨みによる行動。予測の精度、低。要警戒。
それから、もうひとつの記録を見直す。
――演算の完了から出力までに、〇・四秒の遅延。
質問は単純だった。あの人が死んだら、困るか。答えも単純だった。困る。戦力の喪失。演算に迷いはなかった。
なのに、声が出なかった。
〇・四秒。
喉の凍傷の後遺症。そう説明できる。
説明、できる。
――記録。
◇
零時十分。玄関の取っ手に、誰かが触れる音がした。鍵を回そうとして、開いていることに気づいたらしい。扉が乱暴に開き、廊下を駆けてくる足音がした。
「――有波くん!」
寝室の扉が開いた。シエルだった。黒い装束で、頬に乾いた血の筋がある。ベッドの上で上体を起こしている僕を見て、シエルは扉の枠に手をついた。肩で息をしていた。
それから、その目が椅子の肘掛けの黒い染みに落ちた。鼻が微かに動く。香水の残り香。
「……ノエル、ですか」
「はい。二十二時四十分に、来ました。二十三時二十分に、帰りました」
隠す理由は、もうない。この上級生は僕の素性を知っているし、僕もこの上級生の素性を知っている。情報の非対称は、もう存在しない。
「……何を、言われましたか」
シエルの声は、ほとんど聞き取れなかった。
「フランスの、町のことを。……あなたが、その町を焼いた時の、蛇の器だったことを。それから」
正確に伝える。
「あなたと蛇の糸を切って、あなたを殺せば、と。あなたは、それを、望んでいる、と」
シエルの顔から血の気が引いていった。
「……それで」
「拒否しました。二日前と、同じ理由です」
「……」
「あなたは、蛇に敵対する存在です。減らす必要性は、ありません」
シエルは扉の枠に手をついたまま動かなかった。それから、ずるずると床に座り込んだ。膝を抱えて、額を膝に押しつける。黒い装束の背中が、小さく震えていた。
――上級生・シエル。脱力、流涙の兆候。原因は弟子による暴露と推定。あるいは、二度目の依頼拒否の確認。
僕はベッドの上で、それを見ていた。
しばらくして、シエルが顔を上げないまま言った。
「……あの子、他に、何か、言ってましたか」
「あなたが死んだら、困るか、と、訊かれました」
シエルの肩の震えが止まった。
「……なんて、答えたんですか」
「困ります、と。戦力の、喪失になるので」
シエルは何も言わなかった。顔も上げなかった。ただ、膝を抱えた腕に、少しだけ力がこもった。
――答える前に、〇・四秒の遅延があったこと。
それは伝えなかった。伝える必要がないと判断した。
――判断の根拠。
演算を遡る。根拠が見つからなかった。
――原因不明。
それから、もうひとつ。ひとりで蛇の前に行くつもりなのかどうかは、訊かなかった。訊く合理的な理由はあった。蛇に敵対する戦力が、単独で蛇の結界の中へ入るのかどうか。それは任務に関わる情報だ。
それでも訊かなかった。訊けば、この上級生は答えるだろう。答えを、聞くことになる。
――原因不明。
しばらくして、シエルが顔を上げた。目が赤かった。
「……あの子を、責めないでください」
かすれた声だった。
「あの子は、悪くないんです。あの子の町を焼いたのは、私の体だから。……あの子には、私を恨む権利が、ある。私を殺したいって思う権利も」
「責めていません。評価も、していません」
「……そう、ですよね」
シエルは小さく笑った。ひどく下手な笑い方だった。
「……見て、ました」
膝を抱えたまま、シエルが言った。
「公園の、向かいの、屋根の上から。……ノエルが、糸で、操られて。腕を、折られて。……私、見てたのに。動けなかった」
声がかすれていた。
「関わるな、って、言われてるから。……あの子は、私の弟子なのに」
答えるべき言葉は見つからなかった。
「それと……真祖が、今夜、遠野くんの前から、いなくなりました。遠野くんを、置いて。……吸血衝動が、もう、限界なんです。あの人、遠野くんの血を、吸わないために、逃げたんです」
――二十一時三十分の、共鳴の跳ね上がり。北方への急速な離脱。
その原因が判明した。
「蛇が、それを、待ってた。……真祖が弱って、遠野くんから離れるのを。きっと、もうすぐ、動きます」
シエルは立ち上がり、装束の袖で頬の血を拭った。
「……明日も、出かけます。遠野くんを、見てないと」
「了解しました」
「有波くんは――」
「歩行、十一歩。走行、不可。第一段階、使用可能。……まだ、届きません」
「……ええ」
シエルは何かを言いかけて、やめた。部屋の明かりを消して、いつもの椅子に座る。暗がりの中で、ずっと僕のほうを見ていた。
体温三十五度八分、脈拍は毎分五十九。今朝より三つ多い。原因は不明だ。
不明なことは、記録しておく。いつかそれが、致命的な誤差になるかもしれないから。