炭鉱のカナリア   作:にんら

11 / 12
修道女の告げ口

 十日目、朝六時に起床。

 

 体温三十五度七分、脈拍は毎分五十六。右腕は正常。左手は指三本、左肘がわずかに応答。左肩は縫合済み。右脚は正常、左脚は膝まで。確認に要した時間は三秒で、誤差は減少している。

 

 ベッドの脇の椅子で、シエルが眠っていた。背もたれに頭を預け、眼鏡がずれたままだ。その右手が、ベッドの上の僕の右手に重ねられていた。指先だけで、軽く引っかけるようにして。昨夜も、一昨日の夜もそうだった。

 

 ――上級生・シエル。三夜連続、睡眠中にこちらの右手に接触。

 

 手は引かなかった。引く理由も、引かない理由もなかった。

 

◇

 

 朝食はトーストと目玉焼きと、温かい牛乳だった。

 

 テーブルまで、壁を伝って歩いた。九歩。膝は折れなかった。

 

 シエルがフライパンを持ったまま振り返った。

 

「……歩けてる」

 

「九歩です」

 

「九歩も」

 

 シエルは何かを言いかけて、それから口を閉じた。拍手はしなかったし、笑いもしなかった。ただ、少しだけ目を細めた。

 

 目玉焼きを食べる。

 

 ――卵、塩、胡椒、油。温度七十一度。毒性なし。

 

 シエルは何も訊かなかった。どうですか、とも。

 

 食べ終えると、冷蔵庫の扉に貼られた表に、ペンで書き込む。

 

 ――体温、三十五度七分。

 

 ――脈拍、五十六。

 

 ――食事、トースト、目玉焼き、牛乳。熱量、約四百五十キロカロリー。温度、七十一度。完食。

 

 ――痛み。

 

 空欄。

 

 ――気分。

 

 空欄。

 

 三日目の空欄だった。シエルは背中越しにそれを見ていたが、何も言わなかった。

 

「……今夜、遅くなります」

 

 鞄を肩に掛けながら、シエルが言った。

 

「真祖の様子が、おかしいんです。ここ数日、ずっと。……遠野くんも、何か、巻き込まれてる。見に、行かないと」

 

「了解しました」

 

「絶対に、出ないでくださいね。その足じゃ、まだ、無理だから」

 

「了解しました」

 

「……いってきます」

 

 扉が閉まり、鍵のかかる音がした。足音が遠ざかっていく。

 

◇

 

 壁を伝って、部屋の中を歩く。九歩、十歩、十一歩。机の前で止まった。

 

 机の上の壁にカレンダーが貼られていて、日付の枠の中に、細かい字で弁当の献立が書いてある。

 

 ――十七日、入部のお礼! 卵焼き三回巻き! ハンバーグに星。人参、お花。

 

 感嘆符。余白には、少し大きな字で。

 

 ――有波くんの好きなもの:?

 

 その下に料理の名前が並んでいた。卵焼き、からあげ、辛いもの。それぞれの横に、小さな疑問符。それから疑問符の隣に、インクの色が違う、新しい字で。

 

 ――いつか。

 

 小さな字だった。ほかの字より筆圧が弱い。

 

 ――上級生・シエル。カレンダーに追記。「いつか」。記入時期は昨日と推定。

 

 ――意味を推定。対象の嗜好が将来判明することへの期待。ただし、対象に嗜好は存在しない。期待の根拠はない。

 

 そこまで記録して、なぜこの上級生は根拠のない期待を書いたのか、それを推定しようとした。

 

 ――推定、できない。

 

 テーブルの上に、折り畳んだ紙が置いてあった。

 

 ――お昼は、冷蔵庫の中です。おにぎりと、卵焼きと、からあげ。温めなくても、食べられます。

 

 ――お水、ちゃんと飲んでくださいね。

 

 ――シエル

 

 冷蔵庫を開けると、ラップのかかった皿があった。おにぎりがふたつ、卵焼きが三切れ、からあげが四つ。最初の日の弁当と同じ献立だった。

 

 食べる。

 

 ――米、塩、海苔、鮭。卵、砂糖多め、出汁。鶏肉、醤油、生姜、大蒜。温度六度、冷蔵によるもの。毒性なし。

 

 数値が並んで、それで終わりだ。

 

 紙を畳み直して、手帳の後ろの頁に挟んだ。七日目にドアノブに掛けられていた、あの手紙の隣に。

 

 ――上級生・シエルからの書面、二通目。

 

 この部屋に来て、三日目になる。この上級生の生活の音を、僕は記録している。

 

 朝は五時に起きる。台所で何かを刻む音と、鍋の蓋の鳴る音。それから、僕の朝食と、昼の分と、自分の分。夜は零時を過ぎて帰ってきて、僕の包帯を替え、椅子で眠る。

 

 学校の踊り場では、ときどき鼻歌を歌っていた。少しだけ調子の外れた鼻歌を。この部屋に来てから、一度も聴いていない。

 

 ――上級生・シエル。鼻歌なし、三日連続。原因は睡眠不足と推定。あるいは、心理的負荷。

 

◇

 

 昼過ぎ、部屋の隅の木の箱の前に座った。蓋の上では、シエルが指で描いた何かの印がうっすらと光っている。封印の印だ。

 

 この箱の中の刃は、教会の封印の布に包まれ、さらにこの印で閉じられている。冷気はほとんど漏れていない。その代わり、刃の芯の共鳴も外の何かには届かない。この三日、僕は蛇の共鳴を聴けていない。旧校舎の地下の何かが、今どれくらい目を覚ましているのか、わからない。

 

 ――情報の空白は、任務の障害。

 

 蓋に手をかけて、開ける。冷気がふわりと溢れ出した。封印の布の上から刃に右手を当てて、目を閉じる。共鳴を聴く。

 

 ――南。

 

 学校の方角。旧校舎の、地面の奥。細く、冷たく、ねじれた共鳴。

 

 強い。五日前に最後に聴いたときより、ずっと強い。爪の先で触れるのではない。手のひらで触れられるほどに。

 

 ――蛇の覚醒、進行。

 

 それから、もうひとつ。街のどこかで、月の共鳴が揺れている。激しく。弱っているのではない。何かを必死に押さえ込んでいるように。内側から食い破ろうとする何かと、戦っているように。

 

 ――真祖の共鳴に、異常な揺らぎ。原因不明。

 

 箱の蓋を閉めると、印がまたうっすらと光った。

 

◇

 

 二十一時三十分。ベッドの上で天井を見ていた。箱の蓋は閉じてあり、共鳴はほとんど聴こえない。

 

 それでも。

 

 ――跳ねた。

 

 蓋越しに、封印越しに、月の共鳴が一瞬、激しく跳ね上がった。昼に聴いたあの揺らぎとは違う。押さえ込んでいたものが、押さえきれずに溢れ出しかけたような。

 

 五秒。十秒。

 

 それから急に小さくなって、遠ざかっていく。北へ、北へ。街の外のほうへ。逃げるように。

 

 ――二十一時三十分。真祖の共鳴、急激な上昇。その後、北方へ急速に遠ざかる。原因不明。

 

◇

 

 二十二時四十分、玄関の鍵が回った。

 

 シエルではない。シエルは鍵を回す前に、一度扉の取っ手に触れる。その音がしなかった。それに足音が違う。シエルより重く、踵の高い靴で、一歩ごとにわずかに左へ体重が寄る。

 

 ベッドの上で上体を起こした。刃は部屋の隅の箱の中だ。距離は三メートル。今の脚では二秒以上かかる。

 

 ――第一段階、待機。

 

 寝室の扉が開いた。

 

「――はーい、こんばんは。お見舞いに来たわよ、転校生くん」

 

 女だった。ゆるく巻いた明るい色の髪に、体の線がはっきり出る黒い服。左腕を首から吊っていて、添え木は折れた木の枝とハンカチ。応急の間に合わせだ。肩には男物の紺のブレザーが掛けられている。総耶高校の制服の上着で、サイズが合っていない。頬には乾いた泥。

 

 知っている顔だった。愛染ノエル。代理の担任で、シエルの弟子。

 

「あら、起きてた? 顔色、思ったより悪くないじゃない」

 

 ノエルは扉の枠に、しなを作るようにもたれかかった。教室で男子生徒に顔を近づけて話すときと同じ声、同じ角度。目だけが笑っていなかった。

 

「鍵は」

 

「ん?」

 

「玄関の、鍵です」

 

「ああ、あれ。……あの人の部屋の鍵くらい、開けられなきゃ、弟子なんて、やってらんないのよ」

 

 ノエルは部屋の中に入ってきて、シエルがいつも座っている椅子に勝手に腰を下ろした。座るときに息を詰めた。胸のどこかを庇っている。

 

 ――左前腕、骨折。肋骨に損傷の可能性。

 

 ノエルが脚を組む。

 

「あの人なら、まだ帰ってこないわよ。……毎晩、蛇を探して、屋根から屋根へ跳び回ってるから」

 

◇

 

「さっきね」

 

 ノエルは吊った左腕を顎で示した。

 

「公園で、ちょっとした修羅場があったの。……真祖の姫さま、もう、限界よ。吸血衝動。遠野くんの首筋、目の前にして、牙、出しかけてた」

 

 ――真祖の共鳴の、異常な揺らぎ。

 

 その原因が、ひとつ判明した。

 

「だから、私と、マーリオゥの坊やで、割って入ったの。……割って入った、っていうか」

 

 ノエルは笑った。ひどく歪んだ笑い方だった。

 

「私、足が止まったのよ。真祖の目、見たら。……そしたら、坊やの糸が、私の手足に、絡みついて。勝手に、斬りかからされた。私の秘蹟で。私の、体で」

 

 吊った腕を軽く持ち上げる。

 

「で、これ。……使われたの、私。操り人形みたいに」

 

「……糸」

 

「坊やの得意技よ。人の体を、楽器みたいに、鳴らすの」

 

 ――後始末の部署の少年。糸状の精神干渉。七日目に僕にもかけようとしたもの。人の体を操作する用途にも使用可能。

 

「それからね。坊やが、勝手に、全部、喋っちゃった。真祖と蛇の因縁とか。真祖がどれだけ渇いてるかとか。……遠野くんの前で」

 

 ノエルは肩をすくめた。

 

「姫さま、逃げちゃった。遠野くん、置き去り。……かわいそうよねえ、あの子も」

 

「……蛇の、因縁」

 

「あら、知らないの? 真祖の姫さまはね、八百年前に、蛇に騙されて、血を吸わされたの。それで、自分の力の一部を、蛇に持ってかれてる。……だから、蛇を追ってるのよ。この街まで」

 

 ――真祖は蛇に力の一部を奪われている。真祖が蛇を追う理由、判明。

 

「でもね」

 

 ノエルが身を乗り出した。

 

「今日、話しに来たのは、そのことじゃないの」

 

 その目が、まっすぐに僕を見た。

 

「あんた、スレイヨルンの子でしょ」

 

◇

 

「……どこで、その名前を」

 

「あの人の端末。パスワード、ずっと同じなのよ。弟子になった時から、ずっと」

 

 ノエルは薄く笑った。

 

「八日目の昼にね、あの人の部屋に、こっそり入ったの。……あの人が、八日目の朝、教会の資料庫で、何を開いたのか。……十三年間、一度も開かなかったフォルダを、あの人が、開いてた。その中の、ひとつの記録を。何度も、何度も」

 

 ノエルの目が、部屋の隅の木の箱へ滑った。

 

「それで、その日の夜に、あんたを、ここに連れてきた。……祖の原理ごと」

 

 脚を組み替える。

 

「ねえ、転校生くん。十三年前のロアが、誰の体を使ってたか、知ってる?」

 

「知っています」

 

 ノエルの目が見開かれた。

 

「……は?」

 

「本人から、聞きました。エレイシア。十三年前、スレイヨルンの里を滅ぼした時の、蛇の器。……二日前の夜に」

 

 ノエルはしばらく口を開けたまま僕を見ていたが、やがて乾いた声で笑った。

 

「……なにそれ。あの人、自分から、言ったの?」

 

「はい」

 

「で、あんたは?」

 

「記録しました」

 

 ノエルの笑い声が止まった。それから薄く笑って、付け足した。

 

「じゃあ、これは、知ってる? ……あの人、ひとりで蛇の前に行くつもりよ」

 

 ――。

 

「十三年、蛇だけを追ってきた人だもの。教会の中に、蛇を殺されたら困る人たちがいたって、お構いなし。命令違反でも、何でも。蛇の前で死ねるなら、それでいいって顔してるもの。あの人、あんたに、言ってないでしょ」

 

「……聞いていません」

 

「でしょうね。……あの人は、最後は、いつも、自分ひとりで決めて、勝手にいなくなるの」

 

 ――上級生・シエル。単独で蛇と交戦する意思あり。教会の内部に、蛇の殺害を望まない勢力の存在。

 

 それから、記録を見直す。

 

 ――単独。

 

 その語の下に、何か書き足すべきことがある気がした。何を書くべきかは、わからなかった。

 

 ――保留。

 

◇

 

「……私の町もね」

 

 ノエルは椅子の背もたれに深く体を預けて、天井を見上げた。

 

「あの人の体に、焼かれたの」

 

 声が平らになった。

 

「十三年前の、クリスマス・イブ。フランスの、小さな町。……蛇が、祖を何人も呼び集めて、大きな儀式を、やったの。町の人たちは、その儀式の、材料にされた。ひとり残らず」

 

 ノエルは目を閉じた。

 

「呼び集められた祖は、六人。……町は、儀式の、皿にされたの。あの夜、町の上の空は、ずっと、赤かった。教会の鐘が、誰も鳴らしてないのに、一晩中、鳴ってた」

 

 ノエルの声は平らなままだった。平らにしようとしている声だった。

 

「明け方近くに、何かが、来たの。……七人目。誰なのかは、知らない。そいつが来て、全部が、ひっくり返って。祖たちが、散り散りになって。最後に、真祖の姫さまが、広場の真ん中の、蛇の器を、殺した」

 

 目を閉じたまま、ノエルは続けた。

 

「生き残ったのは、私だけ。十四歳だった。……雪の中で、町が燃えるのを、見てた。広場の真ん中に、夜の色の髪の、女の子が、立ってた。真っ白な顔で。笑ってた」

 

 夜の色の、髪。

 

 ――十三年前の冬。里の門の前に倒れていた、少女。

 

「教会に拾われて、修道院に入って。代行者になって。……才能なんか、何もなかった。失敗ばかりして、司教さまの機嫌を損ねて、クビになりかけた時に」

 

 ノエルの唇が歪んだ。

 

「あの人が、私を、拾ったの。……弟子にしてあげます、って。優しい顔で」

 

 ノエルはくすりと笑った。

 

「訓練は、鬼みたいに、厳しかった。でも、終わったあとで、カレー、作ってくれたりして。……辛すぎて、食べられなかったけど。あの人、私が涙目になるの見て、ちょっとだけ、楽しそうにしてた」

 

 ノエルは笑った。ひどく歪んだ笑い方だった。

 

「知ったのは、弟子になって、二年目。……あの広場の、夜の色の髪の女の子が、誰だったのか」

 

 沈黙。

 

「それでも、私は、あの人の弟子なの。五年間。……任務以外で、口をきいたことは、ほとんどないけど。……笑えるでしょ」

 

 笑えるのかどうか、僕には判定できない。記録しておく。

 

◇

 

「ねえ」

 

 ノエルが身を乗り出した。目の奥で、何かが燃えていた。

 

「あんたの、その刃。魂と呪いの結びつきを、断つんでしょ?」

 

 その目が木の箱を見た。

 

「あの人と、蛇を繋いでる糸も、切れるんじゃない?」

 

「理論上は」

 

「切れば、あの人は、ただの人間。……心臓を刺せば、ちゃんと、死ぬ」

 

 ノエルは囁くように言った。

 

「あの人ね、ずっと、死にたがってるの。人間として死ぬことだけが、あの人の、たったひとつの願い。……弟子だもの。知ってる」

 

「知っています。二日前の夜に、本人から、依頼されました」

 

 ノエルの目が、また見開かれた。

 

「……依頼、された?」

 

「糸を切って、殺してほしい、と」

 

「……で?」

 

「拒否しました」

 

「……どうして」

 

「あの人は、蛇に敵対する存在です。この街で、最も戦力の高い、蛇の敵です。……蛇に敵対する存在を、減らす必要性は、ありません」

 

 ノエルは何も言わなかった。しばらく、信じられないものを見る目で僕を見ていた。

 

「……恨んで、ないの?」

 

「恨むための機能が、ありません」

 

「自分の一族を、皆殺しにした女よ? あんたのお母さんを、雪の中に追いやった女よ?」

 

「僕は、その夜、まだ、生まれていませんでした」

 

「……っ」

 

 ノエルはしばらく口を開けたまま黙っていた。それから、ふと何かを思いついたように言った。

 

「……ねえ。あの人のお弁当、食べてたんでしょ。毎日」

 

「はい」

 

「美味しかった?」

 

「熱量と、塩分と、温度を、記録しました。味は、わかりません」

 

 ノエルは一瞬きょとんとして、それから腹を抱えて笑い出した。甲高い、止まらない、ひきつったような笑い声だった。

 

「最高……最高じゃない、それ。あの人、自分が殺した一族の子に、毎朝、一生懸命お弁当作って……その子は、温度しか、わからないって……!」

 

 笑い声が途中でひび割れた。ノエルは目元を、手の甲で乱暴に拭った。笑いすぎた涙なのか、別の何かなのか、判定できなかった。

 

「……で」

 

 ノエルがかすれた声で言った。

 

「あんたは、それでも、あの人を、生かしとくわけ?」

 

「僕が継いだのは、手順だけです。蛇の魂を、宿主から剥がして、消す。……その手順にとって、あの人を殺すことは、損失でしかありません」

 

◇

 

 ノエルが立ち上がった。椅子が、がたん、と音を立てた。

 

「……気持ち悪い」

 

 吐き捨てるように言った。

 

「あんたも、あの人も。……気持ち悪い」

 

 ノエルは窓のほうへ歩いていって、カーテンの隙間から外の夜を見た。こちらに背中を向けたまま、肩が小さく震えていた。

 

「……じゃあ、訊くけど」

 

 背中越しにノエルが言った。さっきより低い声だった。

 

「あの人が、死んだら。……あんた、困る?」

 

 演算する。質問の意図は、上級生・シエルの喪失が僕にとって損失であるかどうか。答えは明確だ。損失だ。蛇に敵対する、最大の戦力の喪失。だから、困る。

 

 答える。

 

「――」

 

 口が、動かなかった。

 

 答えは出ている。演算は完了している。

 

 それなのに。

 

 声が出るまでに。

 

 〇・四秒。

 

「……困ります」

 

 ようやく、出た。

 

「戦力の、喪失になるので」

 

 ノエルが振り返って、僕の顔をじっと見た。

 

「……今、ちょっと、間があったわね」

 

 答えなかった。答えられなかった。

 

 ――演算の完了から出力までに、〇・四秒の遅延。原因不明。

 

 僕の記録の中に原因不明の遅延が記されたのは、それが初めてだった。

 

◇

 

 ノエルはしばらく黙っていた。それから、コートの襟を立てた。

 

「……ま、いいわ」

 

 寝室の扉の前で、一度だけ振り返る。

 

「ひとつ、教えといてあげる。……あの人が、真祖のことで動いてる間、マーリオゥの坊やは、別のことで動いてるわよ。あの子の本当の目的は、祖の原理じゃない。蛇よ。蛇が持ってる、不老の秘術。……蛇と、取引したがってるの。枢機卿の爺さまたちの、ために」

 

 ――後始末の部署の少年。蛇との取引を目論む。

 

「あんたが、蛇を、魂ごと消したら。……あの坊や、きっと、怒るでしょうね」

 

 ノエルは薄く笑った。

 

「それと。……今夜、私が来たこと、あの人に、言ってもいいわよ。言ったら、あの人、どんな顔するかなあ。……どうせ私、腕がくっついたら、本部に送り返されるんだし。坊やに、そう言われたの」

 

 足音が遠ざかっていき、玄関の扉が閉まった。鍵はかけられなかった。

 

 ――殺せ。

 

 頭の奥で、嗄れた声がした。

 

 ――器を殺せ。蛇の皮を被った、あの娘を。

 

 ――あれが、我らの里に、入り込んだ。あれが、我らの子らを、裂いた。

 

 ――殺せ。殺せ。殺せ。

 

 長老たちの声だ。二日前の夜よりも大きく、熱い。

 

 長老たちの手順の中に、蛇の器を殺せという項目はない。今の声は手順ではない。怨嗟だ。僕はそれを継いでいない。

 

 ――ノイズ。処理対象外。

 

 それから、代行者・ノエルについて情報を整理する。

 

 ――シエルの弟子、五年前から。十三年前、フランスの町を蛇の器に焼かれた、唯一の生存者。それを知りながら、シエルの弟子であり続けている。後始末の部署の少年から、本部への送還を予告されている。

 

 ――今夜、シエルの殺害を示唆した。二度目。

 

 目的を推定する。シエルへの報復。ただし、自分の手を汚さずに。合理的な行動ではない。あの代行者は恨みで動いている。恨みで動く者は判断を誤る。長老たちの記録のとおりだ。

 

 ――代行者・ノエル。恨みによる行動。予測の精度、低。要警戒。

 

 それから、もうひとつの記録を見直す。

 

 ――演算の完了から出力までに、〇・四秒の遅延。

 

 質問は単純だった。あの人が死んだら、困るか。答えも単純だった。困る。戦力の喪失。演算に迷いはなかった。

 

 なのに、声が出なかった。

 

 〇・四秒。

 

 喉の凍傷の後遺症。そう説明できる。

 

 説明、できる。

 

 ――記録。

 

◇

 

 零時十分。玄関の取っ手に、誰かが触れる音がした。鍵を回そうとして、開いていることに気づいたらしい。扉が乱暴に開き、廊下を駆けてくる足音がした。

 

「――有波くん!」

 

 寝室の扉が開いた。シエルだった。黒い装束で、頬に乾いた血の筋がある。ベッドの上で上体を起こしている僕を見て、シエルは扉の枠に手をついた。肩で息をしていた。

 

 それから、その目が椅子の肘掛けの黒い染みに落ちた。鼻が微かに動く。香水の残り香。

 

「……ノエル、ですか」

 

「はい。二十二時四十分に、来ました。二十三時二十分に、帰りました」

 

 隠す理由は、もうない。この上級生は僕の素性を知っているし、僕もこの上級生の素性を知っている。情報の非対称は、もう存在しない。

 

「……何を、言われましたか」

 

 シエルの声は、ほとんど聞き取れなかった。

 

「フランスの、町のことを。……あなたが、その町を焼いた時の、蛇の器だったことを。それから」

 

 正確に伝える。

 

「あなたと蛇の糸を切って、あなたを殺せば、と。あなたは、それを、望んでいる、と」

 

 シエルの顔から血の気が引いていった。

 

「……それで」

 

「拒否しました。二日前と、同じ理由です」

 

「……」

 

「あなたは、蛇に敵対する存在です。減らす必要性は、ありません」

 

 シエルは扉の枠に手をついたまま動かなかった。それから、ずるずると床に座り込んだ。膝を抱えて、額を膝に押しつける。黒い装束の背中が、小さく震えていた。

 

 ――上級生・シエル。脱力、流涙の兆候。原因は弟子による暴露と推定。あるいは、二度目の依頼拒否の確認。

 

 僕はベッドの上で、それを見ていた。

 

 しばらくして、シエルが顔を上げないまま言った。

 

「……あの子、他に、何か、言ってましたか」

 

「あなたが死んだら、困るか、と、訊かれました」

 

 シエルの肩の震えが止まった。

 

「……なんて、答えたんですか」

 

「困ります、と。戦力の、喪失になるので」

 

 シエルは何も言わなかった。顔も上げなかった。ただ、膝を抱えた腕に、少しだけ力がこもった。

 

 ――答える前に、〇・四秒の遅延があったこと。

 

 それは伝えなかった。伝える必要がないと判断した。

 

 ――判断の根拠。

 

 演算を遡る。根拠が見つからなかった。

 

 ――原因不明。

 

 それから、もうひとつ。ひとりで蛇の前に行くつもりなのかどうかは、訊かなかった。訊く合理的な理由はあった。蛇に敵対する戦力が、単独で蛇の結界の中へ入るのかどうか。それは任務に関わる情報だ。

 

 それでも訊かなかった。訊けば、この上級生は答えるだろう。答えを、聞くことになる。

 

 ――原因不明。

 

 しばらくして、シエルが顔を上げた。目が赤かった。

 

「……あの子を、責めないでください」

 

 かすれた声だった。

 

「あの子は、悪くないんです。あの子の町を焼いたのは、私の体だから。……あの子には、私を恨む権利が、ある。私を殺したいって思う権利も」

 

「責めていません。評価も、していません」

 

「……そう、ですよね」

 

 シエルは小さく笑った。ひどく下手な笑い方だった。

 

「……見て、ました」

 

 膝を抱えたまま、シエルが言った。

 

「公園の、向かいの、屋根の上から。……ノエルが、糸で、操られて。腕を、折られて。……私、見てたのに。動けなかった」

 

 声がかすれていた。

 

「関わるな、って、言われてるから。……あの子は、私の弟子なのに」

 

 答えるべき言葉は見つからなかった。

 

「それと……真祖が、今夜、遠野くんの前から、いなくなりました。遠野くんを、置いて。……吸血衝動が、もう、限界なんです。あの人、遠野くんの血を、吸わないために、逃げたんです」

 

 ――二十一時三十分の、共鳴の跳ね上がり。北方への急速な離脱。

 

 その原因が判明した。

 

「蛇が、それを、待ってた。……真祖が弱って、遠野くんから離れるのを。きっと、もうすぐ、動きます」

 

 シエルは立ち上がり、装束の袖で頬の血を拭った。

 

「……明日も、出かけます。遠野くんを、見てないと」

 

「了解しました」

 

「有波くんは――」

 

「歩行、十一歩。走行、不可。第一段階、使用可能。……まだ、届きません」

 

「……ええ」

 

 シエルは何かを言いかけて、やめた。部屋の明かりを消して、いつもの椅子に座る。暗がりの中で、ずっと僕のほうを見ていた。

 

 体温三十五度八分、脈拍は毎分五十九。今朝より三つ多い。原因は不明だ。

 

 不明なことは、記録しておく。いつかそれが、致命的な誤差になるかもしれないから。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。