十一日目。朝の六時に起きる。
体温三十五度八分、脈拍は毎分五十五。右腕は正常。左手は指が四本まで動き、左肘も応答する。左肩は縫合済みだが、まだ上がらない。両脚は正常で、左膝の亀裂だけが残っている。確認にかかった時間は二秒。
ベッドの脇の椅子は空だった。台所から、包丁の音がしていた。
◇
朝食は白いご飯と味噌汁、それに焼いた鮭だった。
テーブルまでは、壁に手をつかずに歩いた。十四歩。シエルは振り返らなかったが、味噌汁の椀を置く手が一瞬だけ止まった。
食べ終えて、冷蔵庫の扉の表に書き込む。
――痛み。空欄。
――気分。空欄。
空欄が続いて、これで五日目になる。
シエルはエプロンを外して椅子の背に掛け、テーブルの向かいに座った。
「……有波くんに、言わなきゃいけないことが、あります」
眼鏡の奥の目が、テーブルの木目に落ちた。
「ノエルが、教会の病院から、いなくなりました。夜明け前に」
昨夜この部屋に来た、左腕を吊った代行者だ。あのあと、教会の病院に運ばれたのだろう。
「マーリオゥに、本部へ送り返すって言われてたから。……逃げたんだと思います。学校のあと、探しに行きます」
「……了解しました」
いつものように、口がそう言った。
シエルはテーブルの上で指を組んだ。
「それから、今日の放課後、遠野くんに話します。私が代行者だってこと。真祖の姫が、何者なのか。……もう、黙っていられないので」
シエルは制服の緑のリボンを指で整えた。いつもより丁寧に。
「本当は、遠野くんにだけは、知られたくなかったんですけど」
◇
「……今日の、部活は」
口が動いていた。言ってから気づいた。この質問は、任務と関係がない。
――不要な質問。原因、不明。
シエルが顔を上げた。眼鏡の奥の目が、少しだけ見開かれていた。
「……お休み、ですね」
それから目を伏せて、少しだけ笑う。
「部員、ふたりしかいないのに。部長が、休んでばっかりで。……ごめんなさい」
シエルは鞄を肩に掛けた。
玄関で靴を履いて、シエルは振り返った。何かを言いかけて、やめた。
「……いってきます」
「いってらっしゃい」
扉が閉まり、鍵のかかる音がした。足音が遠ざかっていく。外階段の途中で一度だけ止まって、それから、また下りていった。
◇
昼。部屋の中を歩いた。十四歩。二十歩。三十歩。
――第一段階、起動。出力、最小。
壁から壁へ、三歩で駆ける。膝が軋むが、折れはしない。
――短距離の走行、可能。
今日のシエルは、放課後に遠野志貴と話し、夜は弟子を探しに出る。旧校舎の地面の奥で、蛇の共鳴は日ごとに強くなっている。僕はこの四日間、何も測っていない。
――あの人、ひとりで蛇の前に行くつもりよ。
昨夜のノエルの声を、記録から呼び出す。
――今日、旧校舎の地下を直接調べる。シエルが、ひとりで下りる前に。
ひとりで下りる前に。
その条件がなぜ演算に入ったのか、記録できなかった。
◇
十七時四十分、総耶高校。旧校舎の北側にある、ボイラー室の錆びた鉄扉。鍵は三秒で開いた。
階段を下りると、黴と油と湿った埃の匂いがした。古いボイラーが、動かないまま闇の中にうずくまっている。
その奥の壁で、刃が強く鳴った。
壁に右手を当てる。コンクリートの継ぎ目のうち、一枚だけがほんのわずかに温度が違う。
――結界。
押すと、壁は音もなく内側へ沈んだ。その奥に、さらに下へ続く階段がある。人の手で掘られたものではなかった。土が溶けて固まったような、何かが地面の中を這いずって通り道を作ったような跡だ。
下りる。十メートル。十五メートル。二十メートル。
闇の底に、部屋があった。
壁という壁、床という床、天井という天井に、文字と図形がびっしりと刻まれていた。幾重にも重なった光の紋様。知らない文字、知らない図形。けれど、刃の芯はそれを知っていた。細く、冷たく、ねじれた共鳴。
――蛇の工房。
壁の一角に、古い紙の束が無造作に積まれていた。手に取ってみると、系図だった。古い墨の字で、遠野という姓が何代にもわたって枝分かれしていく。そのいちばん新しい枝の先に、槙久の名があった。その下に、二つの名前が並んでいる。
――四季。秋葉。
四季の名前の上には、赤い細い線で丸が描かれていた。
――器の選定の痕跡。
――蛇の器は、遠野家の長男、遠野四季。遠野志貴ではない。
九日目に、蛇の器は遠野志貴ではなく、その周囲の別の誰かだという仮説を立てていた。その推論が、ここで確定した。転入の初日から、器の候補と蛇の共鳴の所在が一致しなかった理由も。
部屋の中央には、何かが横たわっていた形跡がある。人の形の窪みだ。その窪みは空だった。
――器は、既にここを出ている。
工房の中を測る。刃を床に当て、壁に当て、天井に向ける。
――結界の範囲、推定半径二十メートル。旧校舎の地下をほぼ覆う。
――結界の機能。外部からの探知の阻害、および何かの増幅。
――蛇の共鳴の残留、極めて強い。
それから、工房の天井の一点から、細い糸が一本、上へ伸びていることに気づいた。
刃の芯がその糸を捉える。辿っていく。天井を抜け、地面を抜け、旧校舎の床を抜けて、北へ。渡り廊下のほうへ。本校舎の二階へ。
――移動している。
糸の先の蛇が、ゆっくりと、獲物に近づく獣の速度で動いている。そして同じ二階の廊下の先に、もうひとつ人の気配があった。推定、遠野志貴。放課後の校舎に、ひとりで。
――蛇が遠野志貴に接近。
――距離、推定四十メートル。
携帯端末を取り出す。七日目の夜、ドアの郵便受けから差し込まれていた十一桁の番号。一度もかけたことのない番号に、かける。
一回目の呼び出し音の途中で繋がった。電話の向こうで、駅の構内放送が鳴っていた。
『――有波くん!? どうしたんですか、今、どこ――』
「本校舎、二階。東側の廊下。渡り廊下の手前」
遮って言った。
「蛇が、遠野志貴に接近しています。距離、四十メートル。……三十」
端末の向こうで、息を呑む音がした。
『――わかった』
通話が切れた。
◇
階段を駆け上がる。
――第一段階、起動。
脚の毛細血管が切れ、膝の亀裂が軋む。二十メートル、十五、十。ボイラー室の鉄扉を抜けて外へ出る。夕暮れの校庭を、旧校舎から本校舎へ。
刃が叫んでいた。頭上で、本校舎の二階で、蛇の共鳴が跳ね上がる。雷のように、一瞬で遠野志貴の気配のすぐ背後へ。
――間に合わない。
僕の脚では。膝の亀裂が軋む。第一段階の出力では、二階まであと十二秒。蛇はもう遠野志貴の背後にいる。十二秒は長すぎる。
それでも走る。校庭の土を蹴る。
電話から三十秒。あの上級生は、どこから来るのか。
本校舎の外壁、二階の廊下の窓。その窓の内側で、何かが光った。青白い雷光。
それから、蛇の共鳴が変わった。細く、冷たく、ねじれていた何かが、太く深く、ひとつの完全な形に結晶していく。ずっと被っていた仮面の下から、本当の顔が現れたように。
――器の、完全な掌握。
――遠野四季という人間の最後の意識が、今、消えた。
工房の壁際の系図で、赤い丸に囲まれていた名前。
次の瞬間、窓が砕けた。外側から。
黒い影が夕闇の中を跳んで、二階の窓を蹴り破っていた。銀色の雨が廊下の中に降り注ぐ。白い炎。
――上級生・シエル、現着。電話から二分十秒。
◇
本校舎の昇降口へ回り、階段を上る。
二階の廊下を、非常灯が赤く照らしていた。割れたガラス、床に突き立った無数の銀色の剣、焦げた壁。蛇の共鳴は、もうそこにはなかった。下へ、地面の奥へ、急速に潜っていく。工房へ。
廊下の奥で、シエルが膝をついていた。その腕の中に、遠野志貴がいた。
胸が赤い。制服の胸の真ん中が、黒く濡れている。そこにシエルの手のひらが押し当てられていた。淡い光。秘蹟だ。
シエルが顔を上げ、眼鏡の奥の目が僕を捉えた。
「……有波くん」
声が震えていた。
「間に合った……電話、なかったら、間に合わなかった……」
「遠野志貴の、状態は」
「心臓は、外れてる。……でも、深い。ここじゃ、手当てしきれない」
シエルは遠野志貴の体を抱え上げた。
「遠野くんのお屋敷に、運びます。……あそこなら、手当ての道具も、人も、いるから」
「蛇は、地下の工房に戻りました。旧校舎の地下、二十メートル。結界の中です」
「……工房」
「器の掌握が完了しています。今夜、出てきます」
シエルの腕の中で、遠野志貴の瞼が薄く開いた。眼鏡がない。裸の目が、僕を見た。
「……あり、なみ……」
掠れた声だった。
「……シキ、だった。……あれ、は」
「知っています」
遠野志貴は何かを言おうとして、また目を閉じた。
「……すぐ、戻ります」
シエルが言った。
「それまで、絶対に、ひとりで地下に入らないで。……絶対に、ですよ」
「了解しました。……シエル先輩」
「はい」
「代行者・ノエルは」
シエルは一瞬きょとんとした顔をして、それから、ひどくくしゃくしゃな顔で笑った。
「……探すの、途中で、放り出してきちゃいました」
遠野志貴を抱えたまま、シエルは割れた窓から夜の中へ跳んでいった。
◇
二十二時。駅の南の住宅地を、シエルの部屋へ戻る途中だった。
背中の刃が鳴っていた。
――近い。
月の共鳴だ。それが激しく揺れている。内側から食い破ろうとする何かを、必死に押さえ込んでいるように。
足を止めた。前方の、街灯が落とす白い円の中に、誰かが立っていた。
白い柔らかそうなセーター。淡い金色の髪。紅い目。
真祖だった。五日目の夜、凍土の騎士の冷気を背中で受け止めて、遠野志貴を守った女。その女が、街灯の下から僕を見ていた。
顔が白かった。月の光の白さではなく、紙の白さだった。唇に色がなく、額にはうっすらと汗が浮いている。右手の指先が、微かに震えていた。
「……やっぱり」
真祖が言った。軽い調子だったが、その声はひどく細かった。
「変な匂いが、するって思った。……ヴローヴの冬と、シエルの匂いと、それから、あなたの匂い」
「……」
「あなたが、穴の底でヴローヴの原理を剥がした子でしょ」
答えなかった。答える必要がない。この女は、もう知っている。
「あの時、私、倒れてたけど。……見えてたよ。槍に肩を刺されたまま、ヴローヴの胸に、刃を突き立ててた」
真祖は首を傾げた。
「変な子。……人間なのに、人間の匂いが薄い。部品みたいな匂いがする」
「部品です」
そう答えると、真祖は目を丸くして、それから、くすりと笑った。
「そっか。……じゃあ、私と、ちょっと、似てるね」
◇
真祖は街灯の柱に背中を預けて、空を見上げた。十月の終わりの夜空に、満ちかけの月が出ていた。
「私ね、作られたの」
軽い調子で、真祖は言った。
「堕ちた仲間を狩るために。必要な時だけ起こされて、終わったら、また眠らされて。……それを、八百年くらい、ずっと繰り返してた」
――長老たちの記録にあった、真祖の成り立ち。
同じ話を、この女は自分の口でしている。
「目的のために作られて、目的のためだけに動く。余計なことは、何も考えない。……楽だったよ。すごく」
真祖は、震える自分の指先をぼんやりと見下ろした。
「でもね、志貴に殺されたの。十七個に、ばらばらにされて」
十七分割。三日目の午後、北西の集合住宅。人間ではないものの血を踏んだ、学生靴の二十三歩分。推論が確定した。
「そしたら、なんか、いろいろ変わっちゃった。……志貴と町を歩いたり。映画を観たり。つまんない話をしたり。そういうの、今まで、一回もしたことなかったから」
真祖は笑った。楽しそうに、そして、ひどく苦しそうに。
「今朝、志貴に、お別れしてきたの」
声が、少しだけ柔らかくなった。
「それから、ずっと遠くから見てた。……さっき、志貴が学校で刺されたのも」
真祖の指先が、強く握り込まれた。
「行けなかった。……近づいたら、私、志貴の血、吸っちゃうから。シエルが来てくれて、よかった」
◇
「今ね、すごく、喉が渇いてるの」
真祖の指先の震えが強くなった。
「血が、欲しい。……弱ってるから。すごく、すごく、欲しい。志貴がすぐそばにいて、首筋に、あったかい血が流れてて」
紅い目の奥で、何かが揺らめいた。
「でも、吸わない」
きっぱりとした声だった。
「吸ったら、私は、また、ただの兵器に戻っちゃう。志貴のことを、ただの餌として見るようになっちゃう。……それは、いや」
「合理的では、ありません」
僕は言った。
「弱体化が進行すれば、あなたの戦力はさらに低下します。蛇との交戦に、支障が出ます。遠野志貴の血を摂取することが、最も合理的な――」
「うん。知ってる」
真祖はあっさりと頷いた。
「合理的じゃないの。わかってる。……でもね」
紅い目が、まっすぐに僕を見た。
「使われるのと、選ぶのは、違うんだよ」
夜風が吹き抜けた。
真祖の淡い金色の髪が、揺れた。
「私を作った人たちは、私を使った。私は、ずっと使われてた。……今は、違う。今の私は、自分で選んでるの。吸わないって。志貴の隣を、離れるって」
真祖は街灯の柱から背中を離した。
「あなたは、どう?」
「……」
「誰かに、使われてる? それとも、自分で、選んでる?」
◇
僕を作ったのは長老たちだ。手順を与えたのも長老たちで、僕はその手順を遂行している。
それは、使われているということか。
長老たちは全員死んでいる。死んだ者が、生きている者を使うことはできるのか。手順は残っている。頭の奥の声も残っている。けれど、その手順を今遂行しているのは僕で、判断しているのも僕だ。
祖には近づくなという声に背いて、穴の底へ下りたのも。器を殺せという声に背いて、シエルを殺さなかったのも。
僕だ。
それは、使われているということか。
それとも。
――演算が、完了しなかった。
「……判断材料が、不足しています」
「そっか」
真祖はまた笑った。今度は、少しだけ優しく。
「じゃあ、いつか、わかるといいね」
それから、ふと、鼻をすんと鳴らした。
「……シエルの匂い、すごく、するね。あなた」
「あの人の部屋にいるので」
「ふうん。……あの子とは、ずっと喧嘩ばっかりなんだけどね。会うたびに、剣、投げてくるし」
真祖は肩をすくめた。
「でも、昔から、変に面倒見のいい子なの。困ってる子を見ると、放っておけないの。……あの子の、悪い癖」
「……」
「シエル、あなたのこと、大事にしてるんだ」
「戦力として、です」
「ふーん」
真祖は首を傾げた。
「それ、思ってるの、あなただけじゃない?」
「……」
「じゃあ、あなたは?」
紅い目が、僕を覗き込んだ。
「あなたは、シエルのこと、どう思ってるの?」
答える。戦力、と。蛇に敵対する、最大の――
――出力が、止まった。
演算の結果が、ひとつに定まらなかった。
戦力。治療者。情報源。それから、名前のつかない何か。
複数の出力が同時に浮かんで、どれも確定しなかった。
――演算が、収束しない。
――原因、不明。
「……判断材料が、不足しています」
さっきと同じ答えを返した。
真祖はしばらく僕の顔を見ていた。それから、声を上げて笑った。
「あはは。……さっきより、ちょっと、間が長かったよ」
◇
「ね、ひとつだけ、教えて」
笑い終えて、真祖は言った。
「その刃。……蛇の魂を、宿主から剥がせるの?」
「設計上は」
「剥がした魂って、どうなるの?」
「宿主を失った魂は、次の器へ向かう前に、一瞬だけ剥き出しになります。……その一瞬に、魂そのものを終わらせる手段があれば」
「志貴の目なら、できるかもね」
真祖はあっさりと言った。
「志貴はね、なんでも殺せるの。形のないものでも。……あなたが剥がして、志貴が殺す。それなら、あいつ、今度こそ終わるかも」
「……あなたは」
「ん?」
「あなたは、どうするのですか。蛇は、あなたの力を持っています」
真祖は少しだけ黙って、夜空の、満ちかけの月を見上げた。
「あいつは、私が片付ける。……志貴を、巻き込みたくないから」
そう言って、くるりと背を向ける。
「ばいばい、部品くん。……シエルに、よろしく言っといて。言わなくても、いいけど」
真祖が地面を蹴った。白い影が民家の屋根の上へ跳び、そのまま夜の中へ溶けていった。
月の共鳴が遠ざかっていく。北へ、北へ。揺れながら。
――真祖と接触。二十二時十八分。対話、約二十分。敵意なし。
――真祖の吸血衝動、極限。遠野志貴と別離。
――蛇の討伐を、単独で試みる意思あり。
――質問を二つ、保留。
歩き出す。シエルの部屋まで、あと十五分。
歩きながら、保留した質問を並べ直した。
――使われているのか。選んでいるのか。
――シエルのことを、どう思っているのか。
それから、もうひとつ。夕方、電話の向こうで聞いた、駅の構内放送。あの上級生は、今頃どこにいるのか。遠野志貴を屋敷に運んで、また弟子を探しに戻るのか。それとも、そのまま旧校舎の地下へ下りるのか。ひとりで。
――下りれば、十三年前の器が、蛇のすぐ前に立つ。
合理的な懸念だ。それだけの、はずだ。
部屋の鍵を開ける。明かりの消えた六畳の部屋。シエルは、まだ帰っていなかった。
――記録。
しなかった。
◇
零時十分、シエルの部屋。
玄関の鍵が回り、取っ手に一度触れる音がした。シエルだった。
制服のままで、紺のブレザーの袖が、乾いた血で黒く汚れていた。遠野志貴の血だ。
「……ただいま、有波くん」
「おかえりなさい」
遠野志貴を屋敷に運んだあと、もう一度、駅のまわりを探したのだという。ノエルは、見つからなかった。
シエルは靴を脱ぐと、そのまま玄関の床に座り込んだ。
「遠野くん、お屋敷に運びました。妹さんが、すごい顔で睨んでました。教会の人間は、この家の敷居を跨ぐな、って。……それでも、手当てだけは、させてもらいました。心臓は、外れてます。たぶん、大丈夫」
「了解しました」
シエルは膝を抱えた。
「放課後は、祖と戦ったあの穴の跡で、遠野くんと話しました。私が代行者だってこと。真祖の姫が、何者なのか。……あの人が、あんなに楽しそうに感情を見せたのは、初めてだって。そう、言いました。それから、さよなら、って」
シエルは膝に額を押しつけた。
「……明日から、どんな顔して、学校で会えばいいんでしょうね」
シエルはポケットから端末を取り出して、見下ろした。ノエルからの返信は、一件もなかった。
「……駅で、あの子を探してたら、電話が鳴ったんです。有波くんから。一度もかかってきたことのない番号から」
端末を膝の上に置く。
「出た瞬間に、あの子のことも、全部、忘れてました。……師匠、失格ですね」
沈黙。
「……よかった」
口が動いていた。
何を言ったのか、自分で聞いてから気づいた。
よかった。
何が、よかったのか。遠野志貴が助かったことか。蛇の器が確定したことか。
それとも。
この上級生が、今夜、ひとりで地下へ下りずに、ここへ帰ってきたことか。
――不要な発言。対象、不明。原因、不明。
シエルが顔を上げて、僕の顔をじっと見ていた。何かを言いかけて、唇を震わせて、それから何も言わずに、顔を膝に埋めた。
肩が、小さく震えていた。
◇
「……途中で、真祖に会いました」
しばらくして、僕は言った。シエルが顔を上げる。
「何もされていません。……あなたに、よろしく、と」
「……あのあーぱー吸血鬼」
シエルは小さく悪態をついてから、僕の袖をそっと掴んだ。確かめるように。
「何を、話したんですか」
「使われるのと、選ぶのは、違う、と言われました。……僕は、使われているのか、選んでいるのか、と訊かれました」
「……なんて、答えたんですか」
「判断材料が、不足している、と」
シエルは何も言わなかった。
「それから、もうひとつ、訊かれました」
「……なにを」
この質問を、この上級生に伝えるべきか。
――伝える合理的な理由は、ない。
「……忘れました」
嘘をついた。けれど、今の嘘の目的を、僕は記録できなかった。
「……有波くんが、忘れるわけ、ないのに」
シエルは小さくそう言った。嘘だとわかっている。わかっていて、それ以上は訊かなかった。
体温三十六度一分、脈拍は毎分六十二。朝より七多い。歩行による上昇だと、そう説明できる。
説明、できる。
――エラー、累計、七件。
――原因、すべて、不明。