十二日目。朝の六時に起きる。
体温三十五度九分、脈拍は毎分五十六。左肩は三十度まで上がる。左膝の亀裂は縮小している。
ベッドの脇の椅子で、シエルが眠っていた。制服のままで、昨夜遠野志貴を運んだときの血の跡が、袖に残ったままになっている。その右手が、僕の右手の上に重ねられていた。
テーブルの上に、シエルの端末が伏せて置かれていた。ノエルからの連絡は、まだない。
シエルが目を覚ました。ずれた眼鏡の奥で、二度瞬きをする。それから重ねていた手に気づいて、そっと引いた。
「……おはようございます、有波くん」
「おはようございます」
昨夜僕が口にした「よかった」のことを、シエルは何も言わなかった。僕も何も言わなかった。言うべき合理的な理由が、見つからなかった。
ただ朝食のあいだ、シエルは何度か僕の顔を見ては、慌てたように目を逸らした。
冷蔵庫の扉の表に書き込む。
――痛み。空欄。
――気分。空欄。
空欄は、これで六日目になる。今日、シエルはそれを見なかった。
◇
朝食の後、シエルの端末が短く鳴った。画面を見たシエルの顔から、表情が消えた。
「……マーリオゥです」
画面を僕に見せる。
――弟子が病院から消えた。匿ってんじゃねえだろうな。
――今日中に、話がある。逃げんなよ、代行者さん。
「……怒られちゃいますね」
シエルは笑おうとして、うまく笑えなかった。それから、どこかへ電話をかけた。遠野の屋敷だ。しばらくして繋がる。
『――はい、遠野でございます』
静かな少女の声。屋敷の使用人だ。
「シエルです。……遠野くんの、具合は」
『志貴さまは、お休みになっておられます。傷は塞がりつつあります。……それから今朝、秋葉さまが志貴さまと、長くお話しになりました』
「……お話?」
『遠野家のことでございます。志貴さまの、お生まれのことも。……四季さまのことも』
シエルが息を呑んだ。電話を切ってからも、しばらく黙っていた。
「……遠野くんは、遠野家の本当の子供じゃないんです。昔、遠野の家に引き取られた、別の家の子。本当の長男は、四季くん。……有波くんが、系図で見た名前」
「知っています」
「遠野くん、今朝、それを全部、聞かされたんですね。……刺された翌朝に」
シエルは自分の膝を見下ろした。
「どんな顔で、聞いたんだろう」
答えるべき言葉は、なかった。
◇
駅の南口のコンビニエンスストアの前を、通り過ぎようとした時だった。
「――よう、転校生」
声がした。高い、声変わり前の子供の声だ。
店の前の車止めの上に、男の子が座っていた。仕立てのいい黒い外套に、手袋。その手に紙パックの牛乳。後始末の部署の少年だった。その後ろに、背の高い眠たげな目をした男が立っている。
「歩けるようになったんだな。交通事故の割に、治りが早えじゃねえか」
少年はストローをずず、と鳴らした。
「代行者さんの部屋に匿ってもらってるんだって? ……あの部屋は、さすがにオレも、勝手には入れねえ。うまいとこに逃げ込んだもんだ」
答えなかった。少年は紙パックを握り潰した。
「単刀直入に言うぜ。……お前、穴の底で十九位の原理を剥がしたろ。ホテルで死者の糸を切ったろ」
「……」
「お前の刃は、魂の結びつきを断つ。……祖の原理も、死者の糸も。それから、たぶん、転生の魂も」
少年の目が細くなった。
「蛇を魂ごと消すつもりだな」
「設計上の用途です」
「困るんだよ、それ」
少年が車止めから飛び降りた。
「あの蛇は、八百年、転生を繰り返してきた。不老の秘術を持ってる。……うちのジジイは、それが喉から手が出るほど欲しいんだ。蛇と取引できるなら、この街のひとつやふたつ、くれてやってもいいってくらいにな」
こめかみの奥で、何かが触れた。細い、細い糸。目に見えない糸が何本も、少年の指先から僕の頭の中へ、するすると伸びてくる。
――蛇には、手を出すな。
糸がそう命じてくる。壁がそれを止めた。
今度は、そこに揺らぎを加えた。七日目の夜に記録した改善の手順だ。完璧すぎる壁は、それ自体が異常として目立つ。だから、少しだけかかったように見せる。視線をわずかに泳がせる。
「……蛇には、手を、出さない」
平らな声で復唱した。
少年の眉が、ぴくりと動いた。しばらく僕の顔を見ていて、それから舌打ちをした。
「……下手くそな芝居だな。前より、ましになっただけで」
糸が引いていった。
「ま、いいや。覚えとけ、転校生。……お前が蛇を消したら、ジジイはお前を許さねえ。オレが、許さねえ」
少年は背を向けた。
「アンドウ。帰るぞ」
背の高い男が、無言でその後に続いた。
――後始末の部署の少年。蛇との取引のため、蛇の消滅を阻止する意思。
――精神干渉に揺らぎを加えた偽装、看破された。
――警告を受領。任務の変更はなし。
背の高い男が運転席のドアを開け、少年が後部座席に乗り込む。
「アンドウ。学校だ。……旧校舎の方な」
ドアが閉まり、車が走り出した。
後始末の部署の少年は、蛇との取引を目論んでいる。それが今、学校へ向かった。旧校舎へ。蛇の工房へ。
――追う。
――第一段階、起動。出力、最小。
少年の糸の感触が、まだこめかみの奥に残っていた。精神干渉に揺らぎを加えた偽装は、看破された。これで二度目だ。あの少年は、もう僕をただの転校生だとは思っていない。思っていて、手を出さない。その理由は、ひとつしか推定できない。今のあの少年には、僕より優先すべき相手がいる。
◇
総耶高校の正門。昼過ぎの、授業中の静かな校舎。
二年の教室の窓が見えた。窓際の後ろから二番目が僕の席で、その斜め前が遠野志貴の席だ。どちらも、今日は空いている。
旧校舎の一階、いちばん奥に、障子の閉まった窓がある。茶道部の部室。部員がふたりしかいない部室だ。
◇
車は旧校舎の裏手に停まったまま、動かなかった。放課後を待っているように。
十六時過ぎ、放課後の総耶高校。部活の生徒たちの声が、遠くの校庭から聞こえてくる。旧校舎の周りには、誰もいなかった。
中庭の銀杏の木の陰に、身を潜める。旧校舎の裏手に停まった黒い車は、運転席の窓が少しだけ開いていた。
「――坊ちゃん。マジで、あれと取引する気っすか」
背の高い男の、気だるげな声。
「ジジイの密命だ。ラウレンティスの爺さんの、な。不老不死の研究。……オレが欲しいわけじゃねえよ」
「代行者さんは、どうするんすか」
「手を引かせる。あいつがいると、蛇が話に乗ってこねえ。……十三年前の器が、すぐそばで剣ぶら下げてたら、誰だって警戒するだろ」
男はしばらく黙っていた。
「……あの人に、坊ちゃんの命令なんか届かないっすよ。埋葬機関でしょ」
「わかってるよ。だから紙にすんだ。破ったら破ったで、ジジイに上げる理由になる。命令違反ってのは、便利な首輪だ」
少年が車から降りて、旧校舎の壁に背中を預けた。手に、小さな黒い機械を持っている。無線機のような、マイクのような。
「――聞こえてんだろ、蛇」
少年が機械に話しかけると、その声が、旧校舎の古い放送設備のスピーカーから、ざらついた音で校舎じゅうに響いた。一つ一つの教室の、黒板の上の四角いスピーカーから。
「こっちは、聖堂教会の東方慰問司祭代行、マーリオゥ・ジャッロ・ベスティーノ。……あんたに、商談を持ってきた」
沈黙。風が銀杏の葉を揺らした。
「器を乗っ取ったばかりで、まだ本調子じゃねえだろ。七日だ。七日間、教会の増援を止めてやる。代行者も引き揚げる。好きにすりゃいい。真祖の姫を追うなり、この街の血を啜るなり」
少年は新しい紙パックの牛乳をすすった。
「その代わり、あんたの研究の在処を吐け。八百年、転生を繰り返してきた、不老不死の研究。……それだけでいい」
沈黙。長い沈黙。
――刃が、鳴った。
地面の奥で、細く、冷たく、ねじれた共鳴が、ゆっくりとこちらを向いた。
それから、共鳴の先が一瞬だけ、僕のほうを撫でた。銀杏の木の陰にいる、僕を。
息を止め、気配を消す。共鳴は僕の上を通り過ぎていった。興味を失ったように。
――見えていない。
――あるいは、見えていても、取るに足らないものとして処理された。
それから、旧校舎のスピーカーが鳴った。少年の声ではなかった。低く落ち着いた、理知の響き。
『――ベスティーノ、か』
声はざらついたノイズに混じって校舎じゅうに満ちた。
『ラウレンティスの子だな。あの男がまだ生きているとは、驚いた。……そちらはそちらで、愉快なことになっているようだ』
少年の指が紙パックの上で止まった。
『七日の猶予など、要らぬ。それに、くれてやる研究もない。人の身に、不老不死は届かぬ。あの男のような、ただの人間にはな。肉の不老など、私はとうの昔に袋小路として捨てた。私が辿ったのは、魂のほうだ』
「……捨てた、だと?」
少年の声から軽さが消えていた。
『私が欲しいのは、姫だけだ。月の姫だけだ。……老人の延命など、どうでもいい』
スピーカーがぶつりと切れた。共鳴がまた地面の奥へ沈んでいく。
少年はしばらく黙って機械を見下ろしていた。顔から血の気が引いていた。
「……ちっ」
紙パックを握り潰す。
「捨てた、だと。……八百年かけて、それかよ」
少年は端末を取り出し、画面を叩いて耳に当てた。
「――代行者さん。オレだ。……蛇との取引は、不成立」
短い沈黙。
「撤退だ。いったん引いて、数を揃えて出直す。それまで、あんたも蛇には触るな。命令書は昼に渡したよな。あんたに従う義務がねえのは知ってる。破ったら破ったで、ジジイに上げるだけだ。消えた弟子の分も、まとめてな」
通話が切れた。少年はもう一度だけ旧校舎を見上げてから、車に乗り込んだ。
――後始末の部署の少年、蛇との取引を提案。七日間の増援停止と引き換えに、不老不死の研究を要求。蛇は拒否。肉体の不老の研究は、とうに捨てたという。
――蛇の目的は真祖。……月の姫。
――後始末の部署の少年、撤退を決定。上級生・シエルに、蛇への不干渉を命令。
車が去ってから、銀杏の木の陰を出た。旧校舎の北側、ボイラー室の錆びた鉄扉の前まで歩く。扉には触れずに、刃を地面に当てた。
――深い。
昨日、工房に下りた時よりも、さらに。工房の結界が、何かを少しずつ、少しずつ溜め込んでいる。月の満ち欠けに合わせるように。
――今夜の月齢、満月。日付が変わる頃に満ちきる。
――蛇の力の極大、推定、今夜半。
◇
十七時四十分、シエルの部屋。
鍵を開けると、シエルはテーブルの前に座っていた。テーブルの上に、白い封筒がある。中身は一枚の命令書だった。蛇への一切の干渉を禁ずる。署名はマーリオゥの名前で、その下に枢機卿の印が押してある。昼に呼び出されて渡されたのだという。さっきの電話は、その念押しだった。
「……おかえりなさい、有波くん」
「ただいま、帰りました」
シエルは封筒を指でなぞっていた。
「マーリオゥから、電話がありました。……いったん、手を引くそうです。蛇とは、取引できなかったって」
「知っています。旧校舎で、聞いていました」
シエルが顔を上げた。
「……また、ひとりで、行ったんですか」
「後始末の部署の少年を、追いました。合理的な判断です」
「……もう」
シエルは怒ろうとして、怒れなかった。封筒を見下ろす。
「埋葬機関のわたしに、あの子の命令に従う義務は、ないんです。……でも、破れば、ラウレンティス枢機卿を敵に回します。次の教皇に、いちばん近い人です。ノエルのことも、たぶん、まとめて」
沈黙。
「代行者で、いられなくなるかもしれない。……十三年分の、償いの行き場が、なくなる」
シエルは封筒の上で指を止めた。
「でも、教会がいなくなったら、この街の蛇は、真祖の姫と、遠野くんと、それから――」
僕のほうを見る。
「……あなたしか、いなくなる」
それから、今度はまっすぐに僕を見た。
「……有波くんは、どう、思いますか」
◇
問いは単純だった。この上級生が、命令に従って蛇から手を引くべきか、引かざるべきか。
――引くべき理由。
後始末の部署の少年の命令だ。この上級生に従う義務はない。それでも逆らえば少年の後ろの枢機卿を敵に回し、代行者の地位を失うおそれがある。この上級生にとって、代行者であることは十三年の償いと同義で、それを失わせるべきではない。
――引かざるべき理由。
蛇はまだ旧校舎の地下にいる。目的は真祖で、その真祖は渇きの限界にいる。教会が撤退すれば、蛇に敵対する戦力は、真祖と遠野志貴と僕だけになる。この上級生は、この街で最も戦力の高い、蛇の敵だ。
――どちらも合理的。
――どちらも正しい。
出力を選ぶ。引け、と。あるいは、引くな、と。
――出力が、止まった。
口が開いた。
何も、出てこなかった。
一秒。
二秒。
三秒。
演算は完了している。両方の答えが並んでいる。なのに、どちらも声にならない。
引け、と言えば、この上級生は蛇から手を引き、蛇の前に立つのは僕ひとりになる。引くな、と言えば、この上級生は代行者でいられなくなる。どちらを選んでも、何かが失われる。
何が失われるのか。
――戦力。代行者の地位。
それだけではない気がした。それ以外の、名前のつかない何かが、両方の答えの底に沈んでいた。
四秒。
――演算の完了から出力までに、遅延。三・二秒以上。継続中。
――原因、不明。
シエルは、ずっと僕の顔を見ていた。何も言わずに、待っていた。
それから、ふっと目を細めた。
「……言えないんですね」
柔らかい声だった。
「引け、とも。引くな、とも」
答えられなかった。
シエルは封筒を手に取って、しばらく見下ろしていた。
それから両手で、ゆっくりと二つに裂いた。
四つに。八つに。
「――わたしが、決めます」
シエルは言った。
「引きません。命令違反、です」
裂かれた紙片が、テーブルの上に散った。
「有波くんが、言えなかったから。……言えなかったことが、答えだと、思ったから」
――答え。
僕は何も答えていない。出力はなかった。
「……合理的では、ありません」
やっと、声が出た。
「代行者の地位を、失う可能性があります。十三年分の――」
「知ってます」
シエルは笑った。泣きそうな顔で、笑った。
「使われるのと、選ぶのは、違うんですよね。……あの人の、受け売りですけど」
――真祖の言葉。昨夜、僕がこの上級生に伝えた言葉だ。
「十三年、ずっと、教会に使われてきました。償いのために。……一度くらい、自分で選んでみたいんです」
シエルは自分の左の前腕を、袖の上からそっと撫でた。
「あの夜、扉の前で、わたしは、蛇の手の中で暴れました。自分の右手だけ、奪い返して。……あれが、たぶん、わたしが自分で何かを選んだ、最後でした」
十三年前の雪の夜。扉の向こうの、小さな鼓動。
「十三年ぶりに、選びます。……今度は、扉の向こうに隠れていたあなたの、隣で」
シエルは裂いた紙片を両手で集めて、ごみ箱に捨てた。それから立ち上がって、エプロンを着けた。
「今夜、カレー、作ります」
台所に向かいながら、そう言う。
「本気の、やつ。……初めて会った日に、約束したでしょう」
台所から、包丁の音がしてきた。玉葱を刻む音が、いくつも。
「……どうして、カレーなのですか」
台所のシエルの背中に、訊いた。訊く合理的な理由は、なかった。
シエルは手を止めずに答えた。
「辛いものって、食べると汗が出て、心臓がどきどきするでしょう。……生きてるって、感じがするんです」
包丁の音が、一定の速さで続く。
「十三年前に、教会の地下で生き返った時、何を食べても味がしなかった。灰色で。……初めて辛いカレーを食べた時、舌が痛くて、涙が出て。それで、ああ、わたし、まだ生きてるんだって」
玉葱を鍋に入れる音。
「だから、カレーなんです。……有波くんにも、いつか、そう感じてほしくて」
辛さは痛覚だ。僕にはない。だから、生きていると感じることもない。
――そう、記録しかけて。
やめた。
鍋に油の弾ける音がして、香辛料の匂いが部屋に広がっていく。クミン、コリアンダー、ターメリック、カルダモン、クローブ。数値として、ひとつずつ読み取れる。
読み取れることが、なぜか少しだけ、もどかしかった。
――記録。
――上級生・シエル、不干渉の命令を拒否。蛇との交戦を選択。
――理由。僕が、言えなかったこと。
――。
それ以上、記録が続かなかった。
――カナリア。
頭の奥で、嗄れた声がした。
――器が、残る。お前の隣に。
――あれは、我らの里に入り込んだ娘だ。あれの温もりの内側で、蛇は目を覚ました。
――温めるな。温められるな。
長老たちの声。正しいと、十八年間記録してきた声だ。
台所で、鍋がくつくつと鳴っている。香辛料の匂いの中で、あの上級生が小さく鼻歌を歌いはじめた。少しだけ調子の外れた鼻歌。この部屋に来てから、ずっと聴いていなかったものだ。
――上級生・シエル。鼻歌。七日ぶり。
記録した。
長老たちの声は、それ以上、何も言わなかった。鼻歌のほうが、少しだけ大きかったから。
脈拍、毎分六十六。朝より十多い。
――エラー、累計、八件。
――原因、すべて、不明。