十二日目、十八時。シエルの部屋の台所。
鍋の中で、玉葱が少しずつ色を変えていく。飴色になるまで、三時間。シエルは木べらで、鍋の底を焦がさないように、ゆっくりと混ぜ続けていた。
鼻歌を歌いながら。少しだけ調子の外れた鼻歌だった。昨日まで七日間、聴こえなかったものだ。
――玉葱、色調は白から淡黄へ。三十分経過。
――淡黄から黄金へ。一時間経過。
――黄金から褐色へ。二時間経過。
数値と、色と、時間。記録すると、それだけになる。記録しない部分に、鼻歌がずっと流れていた。
◇
カレーが煮込まれているあいだ、シエルは台所のテーブルに工具箱を広げて、刃の鞘を分解していた。
「留め金が歪んでます。……祖の槍を受けた時かな。これだと、抜く時に一瞬引っかかりますよ」
小さなやすりで金具を削り、油を差して、ばねの強さを指で確かめる。手際がよかった。茶筅を振る時とも、包帯を巻く時とも違う、もっと楽しそうな手つきだった。
「道具をいじるの、好きなんです。昔から」
シエルは金具を光にかざしながら言った。
「黒鍵も第七聖典も、ぜんぶ自分で手入れしてます。……この鞘、すごくいい作りですね。材質も、縫製も。作った人、本当に腕が良かったんだ」
作ったのは長老たちだ。この上級生の体が、あの夜、扉の前で殺し損ねた人たち。
「……はい」
それだけ答えた。シエルもそれ以上は何も言わなかった。ただ、金具を磨く手が、ほんの少しだけ丁寧になった。
組み直した鞘が、僕の前に置かれる。
「抜いてみてください」
抜くと、刃は滑らかに鞘から走り出た。
――抜刀に要する時間、〇・二秒短縮。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
シエルは工具箱を片付けながら、今度は自分の武器の手入れを始めた。銀色の、柄のない剣――黒鍵。一本ずつ光にかざして、刃筋を確かめていく。二十四本。
それから、部屋の隅の白い布に包まれた、長く重い何か。布をほどくと、杭のような、あるいは巨大な弓のような、見たことのない形の武器が出てきた。
「第七聖典です」
シエルはその表面を布で拭いながら言った。
「転生を否定するための、武器。……蛇を終わらせるために、教会がわたしに預けたもの」
転生を否定する。僕の刃と似た目的の武器だ。ただし、原理はまるで違う。刃の芯はあの武器に共鳴せず、静かに黙っている。
「有波くんの刃と、これと。それから、遠野くんの目」
シエルは第七聖典を布で包み直した。
「三つとも、蛇を終わらせるためのものです。……どれかひとつでも、届けば」
「届かせます」
「……ええ」
それからシエルは、蛇について知っていることを話した。淡々と、代行者の声で。
蛇は雷の術を使う。速い。目で追えないほどに。それから、蛇の目。
「あの蛇の目は、命を視るんです」
シエルは黒鍵を光にかざしたまま言った。
「遠野くんの目が物の死を視るのと、ちょうど逆。……生き物の、生かしている部分を視る。だから蛇には、相手の命がどれくらい残っているのか、どこを壊せば止まるのか、全部見えてる」
「生き物にしか、効かない目ですか」
「……たぶん。命のないものは、蛇の目には映らない」
――蛇の目は命を視る。命の薄いものは映りにくい可能性。
「それから、器の体。……遠野家の血は、人の血に別のものが混じってる。ちょっとやそっとの傷なら、すぐに治ってしまう」
「再生能力」
「ええ。だから、体を壊すだけじゃ終わらない。……転生そのものを、断たないと」
シエルは黒鍵を束に戻した。
「十三年前、真祖の姫は、わたしの体ごと蛇を殺しました。でも、蛇はまた転生した。……今度こそ、終わらせなきゃ」
シエルは夕方からずっと台所に立っていた。クミン、コリアンダー、ターメリック、カルダモン、クローブ。それから赤い唐辛子。玉葱をいくつも刻んで、焦がさないように、飴色になるまで時間をかけて炒める。三時間。
鍋の中身が、くつくつと鳴っている。
二十一時。湯気の立つ皿が、テーブルに置かれた。白いご飯の上に、濃い茶色のルウ。刻んだ玉葱が形のなくなるまで溶けていて、表面には赤い油が薄く浮いている。
「……本気の、カレーです」
シエルが言った。
「初めて会った日に、約束した。……わたしの、いちばん得意なやつ」
スプーンを取る。右手で。掬って、口に入れる。
――香辛料七種。カプサイシン、高濃度。
――玉葱の糖、トマトの酸、牛肉の脂。
――塩分、中程度。温度、七十三度。毒性なし。
四十回噛んで、飲み込む。
シエルは向かいの椅子に座り、頬杖をついてそれを見ていた。どうですか、とは訊かなかった。美味しいですか、とも。温かいですか、とも。ただ見ていた。僕が皿を空にするまで。
「……ごちそうさまでした」
食べ終わって、そう言った。仕込まれた言葉ではない。食事の終わりにはそう言うものだと、この部屋でシエルが毎回そう言うのを聞いていたから、手順として学習しただけだ。
「はい。お粗末さまでした」
シエルは皿を下げながら、小さく笑った。笑い方が、少しだけ下手だった。
それから壁のカレンダーの前に立ち、ペンを取って、まだ白い先の日付の枠に何かを書き込んだ。書き終えるとペンを置いて、台所へ戻っていく。
僕はカレンダーを見た。
――カレー(二回目)。有波くん、全快祝い。
その下に、小さな字で。
――好きなもの、今度こそ、見つける。
日付は空白だった。いつかの日付。まだ決まっていない日付。
僕はそれを記録した。
◇
二十一時半。皿を洗い終えたシエルが、部屋の隅の白い布の包みをほどいた。第七聖典。杭のような、弓のような、重く白い武器。その表面を、布でゆっくりと拭っていく。
「……今夜、ですね」
シエルが言った。
「満月です。工房の結界も、それに合わせて組まれているんでしょう?」
「はい。蛇の力の極大は、今夜、日付が変わる頃と推定します」
「……有波くん」
シエルの手が止まった。
「今夜は、無理をしないでくださいね。……第二段階で、四日も動けなかったんですから」
「必要な範囲で、します」
「その、必要な範囲、が、怖いんです」
答えなかった。答えるべき言葉が、ひとつしかなかった。
――第三段階。
回路そのものを燃料にする。不可逆で、一度起動すれば心停止まで止まらない。カナリアの、最後の段階。
この上級生には、まだ話していない。話す合理的な理由がない。話せば、この上級生の戦力が下がる。
――そう分類した。
冷蔵庫の扉の表に、今日の分を書き込む。
――痛み、空欄。気分、空欄。
七日目の空欄だった。シエルが背中越しにそれを見ていた。今日は、目を逸らさなかった。
それから、ふと立ち上がった。
「……遠野くんに、会っておきたいんです。今夜のうちに」
◇
二十二時半。遠野の屋敷の、森の手前。門の前で、シエルが足を止めた。
「……遠野くんに、会っていきます。たぶん、これが最後の機会だから」
「最後」
「日付が変わる頃に、月が満ちきります。……蛇は、満月に全部を賭けてくる。その前に、遠野くんに伝えておかないといけないことが、あるんです」
シエルは僕を振り返った。
「有波くんは、ここで待っていてください。……お屋敷の人たちに、これ以上、知らない顔を見せたくないので」
「了解しました」
シエルが呼び鈴を押すと、門が細く開いた。黒と白の古風な給仕服を着た、小柄な少女。転入初日の夕方に遠野志貴を迎えた、あの少女だった。少女はシエルの顔を見てわずかに身を固くし、それから深く頭を下げて、門を開けた。
屋敷の二階の窓に、赤く熱い気配がひとつ灯っていた。遠野家の当主だ。教会の人間を歓迎していない気配だった。それでも門は開き、シエルはその中へ消えていった。
僕は森の縁の、欅の木の下に立った。夜風が冷たい。十月の終わりの夜風だった。
右腕の芯には、まだ祖の冬の冷たさが残っている。刃が預かったものを、僕も預かっている。
――カナリアは、誰にも、温められない。
頭の奥で、嗄れた声がした。
さっきまでいた部屋の、鍋の湯気。鼻歌。あれは温度の数値として記録した。それだけだ。
――それだけ、のはずだ。
この欅は、七日目にシエルが遠野邸を見張っていた木だ。シエルがそう話していた。
屋敷の中庭に面した縁側の、障子が開いていた。布団の上に遠野志貴が身を起こしていて、胸には厚い包帯が巻かれている。その傍らに、シエルが正座した。
二人の声は、ここまでは届かない。ただ、遠野志貴の表情だけが見えた。
シエルが何かを静かに話している。遠野志貴の顔が強張り、それから歪む。何かを否定するように首を振る。シエルがもう一度何かを言うと、遠野志貴はうつむいた。
長い沈黙。それから彼は顔を上げて、何かを言った。はっきりと、まっすぐに。
シエルの肩が、小さく揺れた。
――その時、頭上で枝が鳴った。
欅の高い枝の上に、白い影がいた。淡い金色の髪に、白いセーター。いつからそこにいたのか、気配がなかった。月の共鳴が弱すぎて、刃にも届いていなかったのだ。
真祖は縁側の二人を見下ろしていた。紅い目に、溢れそうなほど何かが満ちていた。
――聞いていた。遠野志貴が、今、言ったことを。
真祖の唇が震えた。
「――大好き」
小さな声だった。
「大好き、大好き、大好き……!」
それから、真祖は枝を蹴った。
夜空へ。白い光の筋が総耶の夜を横切っていく。南へ、学校の方角へ。旧校舎の地面の奥で待つ、蛇のもとへ。
刃の芯が、遅れて跳ねた。遠ざかっていく月の共鳴は、弱く、細く、けれどまっすぐだった。
――真祖、単独で蛇の工房へ向かう。満月の前夜、蛇の力は極大の直前。
――真祖の力は蛇に奪われたまま、渇きは限界。勝算、推定、低。
それでも、あの白い影は迷わずに跳んでいった。大好き、と三度言って。
縁側で、遠野志貴が立ち上がろうとして崩れた。
「――アルクェイド!」
その声だけは、ここまで届いた。
シエルが障子の外へ出てきて、夜空を見上げた。それから、森の縁にいる僕のほうを、まっすぐに見た。気配は消していた。それでも見つかった。
「……有波くん」
シエルが門の外まで走ってきた。
「真祖が、行きました。ひとりで。……遠野くんが、追いかけるって聞かないんです。立てもしないのに」
「行かせるべきです」
僕はそう答えた。
「遠野志貴の目が要ります。蛇を終わらせるには。……真祖だけでは、蛇は終わりません。満月の夜には、蛇は再生します」
シエルは唇を噛んだ。
「……わかりました。遠野くんは、わたしが背負っていきます」
「僕は、先に行きます」
「――有波くん!」
走り出しかけた背中を、呼び止められた。
「正門で、待っていてください。……ひとりで中に入らないで。今度こそ、絶対に」
「……了解しました」
走る。
――第一段階、起動。
月が、空の高いところに昇っていた。ほとんどまんまるの月だった。
◇
二十三時五十分、総耶高校の正門。
月が出ていた。丸い月。満月だった。
正門の石の柱に背中を預けて、待つ。シエルは遠野志貴を背負って、屋敷からここまで来る。僕は先に走ってきた。
刃の芯が、旧校舎の地下を測っている。工房の結界の中で、何かが満ちていく。満月に合わせているのだと推定した。月の満ちる夜に、血の理は最も強くなる。長老たちの記録にそうあった。
それから、さっき夜空を横切っていった白い影。月の共鳴は、もう旧校舎のすぐ上にいる。
待つあいだに、もうひとつ演算をしていた。真祖の、二つの問い。
――使われているのか。選んでいるのか。
――シエルのことを、どう思っているのか。
答えは、まだ出ていなかった。
それから、今夜カレンダーに書き込まれた、日付のない一行。
――カレー(二回目)。有波くん、全快祝い。
いつかの日付。その日付が来る時、僕はもういない。
設計通りなら。
背中には刃がある。鞘の留め金は、シエルが直したものだ。刃の芯は鳴り続けている。旧校舎の地面の奥で、何かが目を覚ましている。もう寝返りではない。起き上がって、伸びをして、獲物を待っている。
坂の下から、足音がひとつ上ってきた。軽い、けれど重いものを背負った足音。
シエルだった。その背中に、遠野志貴が背負われていた。胸に厚く包帯を巻き、制服の上着を肩に引っかけている。顔は灰色に近い。それでも目は開いていて、眼鏡をかけていた。
「……ほとんど、歩けないのに」
シエルが僕の前で立ち止まって言った。
「止めても、聞かなくて」
「……アルクェイドが」
シエルの背中で、遠野志貴が言った。
「あいつ、もう、行っちまった。……ひとりで片付けるって、言ってたから。……あいつ、もう、ほとんど力、残ってないのに」
――あいつは、わたしが、片付ける。
昨夜、街灯の下で、真祖はそう言った。遠野志貴を巻き込みたくないから、と。遠野志貴は、それでも来た。
シエルの背中の遠野志貴を、見上げる。制服のポケットに、ナイフの膨らみがあった。七つ夜。
「遠野志貴」
呼ぶと、遠野志貴が僕を見下ろした。
「あなたのナイフが、要ります」
「……」
「僕が、蛇の魂を器から剥がします。……剥がれた魂は、次の器へ向かう前に、一瞬だけ剥き出しになります」
淡々と述べる。
「その一瞬に、殺してください。……殺せるのは、あなたの目だけです」
遠野志貴は、しばらく何も言わなかった。眼鏡の奥の目が、僕の顔の上をなぞった。僕の輪郭の、ほんの少し内側を。穴の底でそうしたように。
「……お前の線、まだぐちゃぐちゃだぞ」
「知っています」
「……そうか」
遠野志貴は小さく笑った。ひどく疲れた笑い方だった。
「わかった。……やるよ」
それから遠野志貴は、シエルの肩越しに、僕をまっすぐに見た。
「穴の底で、ヴローヴの冷気止めたの、お前だったんだな」
「……」
「ありがとな。……あの時、言えなかったから」
「要請に、応じたわけではありません」
「それでも、だよ」
遠野志貴はそれだけ言って、シエルの背中に額を預けた。
◇
シエルが遠野志貴を背負い直して、僕のほうを見た。満月の光が、眼鏡のレンズに白く映っていた。
「……有波くん」
「はい」
「穴の底で使ったのが、第二段階、でしたよね」
「はい」
「……その先は」
シエルの声が低くなった。
「その先は、あるんですか」
演算する。
第三段階。魔術回路そのものを燃料にする。不可逆で、一度起動すれば心停止まで止まらない。カナリアの、最後の段階。蛇の心臓の前で、誰よりも先に死ぬための。
正直に答えた場合、この上級生の心理的負荷は増大する。今夜の戦闘における、この上級生の戦力が低下する可能性がある。虚偽を答えた場合、心理的負荷は一時的に軽減される。
――合理的なのは、後者。
「ありません」
そう答えた。
シエルの目が、僕の顔の上をなぞった。額、目、鼻筋、顎。嘘を探すように。
それから、シエルは小さく頷いた。
「……信じます」
信じていない声だった。
――虚偽の申告、一件。上級生・シエルの戦力の維持のため。
それから、記録を見直す。上級生・シエルの戦力の維持のため――その分類が正しいのかどうかを。
正しい。合理的な嘘だ。任務のための嘘で、これまで何度もついてきた嘘と同じ種類のものだ。
――そう分類した。
分類、できる。
三人で正門をくぐる。満月の下の、夜の校舎へ。
――カナリアは、歌わない。
頭の奥で、嗄れた声がした。
――カナリアは、鳴かない。
――カナリアは、誰も、温めない。
――カナリアは、誰にも、温められない。
――カナリアは、誰よりも先に、死ぬ。
――蛇の心臓の、すぐ前で。
ああ。設計通りだ。
体温三十六度一分、脈拍は毎分六十六。
――エラー、累計、八件。
――原因、すべて、不明。