カナリアは歌わない   作:にんら

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月世界 1/2

 零時、満月。総耶高校の正門を、三人でくぐる。シエルが遠野志貴を背負って、僕がその半歩後ろを。

 

 夜の校庭は白かった。満月の光が、土の上に影という影をくっきりと落としている。鉄棒の影、銀杏の木の影。それから、僕たち三人の影。

 

 背中の刃が鳴っている。旧校舎の地面の奥で、それはもう眠ってはいない。起き上がって、伸びをして、地上へ上ってきている。

 

「……感じます」

 

 シエルが低く言った。

 

「上がってきてる。……工房から、渡り廊下の方へ」

 

「本校舎と旧校舎を繋ぐ、二階の渡り廊下。地上から、約七メートル。……蛇は、そこで待つつもりです」

 

「どうして、わかるんですか」

 

「工房の結界の構造です。満月の力を地下で増幅して、真上の一点に集めるように組まれていました。その一点が、渡り廊下の中央です」

 

 シエルの背中で、遠野志貴が顔を上げた。

 

「……アルクェイドは」

 

「もう、上にいます」

 

 僕は答えた。刃の芯が、旧校舎の上のほうに、弱く細い月の共鳴を拾っていた。

 

「渡り廊下の近く。……蛇と、まだ接触していません。ですが、時間の問題です」

 

 シエルは遠野志貴を背負い直した。

 

「……急ぎましょう」

 

 遠野志貴の呼吸が浅い。胸の包帯に、また赤いものが滲み始めている。それでもその手は、制服のポケットのナイフの膨らみを、ずっと押さえていた。

 

 シエルが、ちらりと僕のほうを見た。

 

「……有波くん、肩」

 

「問題ありません」

 

「縫い目、引きつってますよ。……無理、しないで」

 

「必要な範囲で、します」

 

 シエルは何も言わなかった。ただ、遠野志貴を背負った腕に、少しだけ力を込めた。

 

◇

 

 旧校舎の昇降口に、鍵はかかっていなかった。

 

 中に入ると、暗い廊下が延びていた。古い木の床は、ところどころ板が浮いている。月の光が窓から斜めに差し込んでいる。廊下の突き当たりに二階への階段があり、そこを上って右へ折れれば渡り廊下だ。

 

 階段の手前で、刃が跳ねた。

 

 蛇の共鳴とは違う。もっと濁った、もっとたくさんの。何十もの細い糸が、ひとつの塊により合わされているような。

 

「――止まって」

 

 シエルが足を止めた。

 

 階段の上から、何かが下りてきた。

 

 ずる。ずる。ずる、と。

 

 脚があった。何本も。人の腕の形をしていた。人の脚の形をしていた。それが肘と膝とをあり得ない方向に折り曲げて、八本、十本、十二本。階段の壁に、手すりに、天井に突き立てている。

 

 その脚の付け根に、胴体があった。いくつもの胴体が溶けてくっつき、ひとつの丸い塊になっている。塊の表面には、顔が浮いていた。ひとつ、ふたつ、みっつ。目を閉じた人の顔が。

 

 ――死者。ただし、ひとつではない。何体もの死者を継ぎ合わせて、一体にしたもの。

 

 蜘蛛だった。人で作られた蜘蛛。

 

◇

 

 シエルの指の間で、銀色の剣が鳴った。

 

「……蛇の仕業ですね」

 

 声が凍りついていた。

 

「死者を、継ぎ合わせて。……あの人の、やりそうなことです」

 

 蜘蛛は階段の踊り場で止まった。十二本の脚で、壁と天井とに張りついている。表面の顔たちが、一斉に目を開いた。どの目も、何も見ていなかった。

 

 シエルが遠野志貴を、そっと廊下の壁際に下ろした。

 

「遠野くん、ここで――」

 

「……先輩」

 

 遠野志貴が、壁に手をついて立ち上がった。膝が笑っている。胸の包帯の赤が、広がっていく。

 

「俺、先に行きます。……あいつが、待ってる」

 

「その体で――」

 

「旧校舎の、西側の外階段」

 

 僕は言った。

 

「そこから二階に上がれます。渡り廊下の、旧校舎側の入口に出ます。……蜘蛛は、この階段から動きません。親の糸に、ここに縛られています」

 

 遠野志貴が僕を見て、眼鏡の奥で小さく頷いた。それから壁を伝って廊下を引き返し、窓を越えて夜の中へ出ていった。ひとりで。

 

 ――遠野志貴、単独で先行。

 

 あの少年は最初から、ひとりで、あの女のところへ行くことになっていた。そんな気がした。記録は、しなかった。

 

◇

 

 蜘蛛が動いた。十二本の脚が、一斉に壁を蹴る。

 

 シエルが前に出た。銀色の剣が指の間から放たれ、四本、八本と脚の付け根に突き立って、白く燃える。燃えた脚が崩れる。崩れた先から、別の死者の腕がずるりと伸びてきて、新しい脚になる。

 

「……っ、再生、してる……!」

 

 シエルの剣が、また放たれる。燃える。崩れる。また生える。

 

 ――束ねる糸が、無数の死者を次々と継ぎ足している。外側を焼いても終わらない。浄化の炎は、親の糸までは届かない。

 

 シエルの額に汗が浮かんでいた。剣を投げる手は正確で、一本の無駄もない。それでも、蜘蛛は減らない。

 

 三分。五分。

 

 ――月の共鳴が、旧校舎の上で揺れた。

 

 遠く、渡り廊下の方角だ。細く、冷たく、ねじれた共鳴が地面の下から上ってきて、月の共鳴とぶつかり始めている。

 

 シエルが天井を見上げた。その顔色が変わった。

 

「――シエル先輩」

 

 呼ぶ。

 

「代わります」

 

 シエルが振り返った。

 

「……何を」

 

「この蜘蛛は、何体もの死者の、糸の塊です。糸を断つのは、僕の刃の設計上の用途です。……あなたの剣より、僕の刃の方が早く終わります」

 

「でも――」

 

「蛇が、真祖と接触しました。遠野志貴は、ひとりでそこへ向かっています。……あなたが、行くべきです」

 

 シエルは唇を噛んで、蜘蛛と、僕と、天井とを順番に見た。

 

「……有波くんの、脚じゃ」

 

「第一段階で、足ります」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

 嘘ではなかった。すべてでもなかった。

 

 ――第二段階は使わない。使えば数日動けなくなる。今夜、蛇の前に立つ前に、動けなくなるわけにはいかない。

 

 ――第三段階は、蛇の心臓の前のために残す。

 

 だから、第一段階で足りさせる。

 

 シエルは、長い、長い息を吐いた。

 

「……死なないで、ください」

 

「ここでは、死にません」

 

 シエルの目が、一瞬揺れた。ここでは――その言葉の意味を、この上級生は正確に受け取ったのかもしれない。

 

 何も言わないまま、シエルは廊下を引き返して、窓から外へ跳んだ。

 

◇

 

 蜘蛛がこちらを向いた。十二本の脚が、一斉に壁を蹴る。速い。

 

 ――過負荷駆動、第一段階。

 

 指先の毛細血管が切れる。脚の、腕の、背中の。世界が遅くなる。

 

 腕の形をした蜘蛛の脚が一本、僕の頭へ振り下ろされる。半身で躱すと、床板が砕けた。二本目、三本目。躱す。躱す。四本目が左の肩を掠めて、縫合の糸がぶつりと切れた。

 

 ――左肩、縫合、一部断裂。出血、再開。

 

 構わない。刃を抜くと、シエルが直した留め金がかちりと鳴った。〇・二秒、速い。

 

 蜘蛛の脚の付け根へ、刃を突き立てる。

 

 見えた。糸だ。

 

 一本ではない。十数本の細く黒い糸が、この脚の付け根でより合わされている。それぞれが、別々の死者と親との繋がりだ。そしてそのすべてが、さらに一本の太い糸に束ねられて、上へ伸びている。渡り廊下の方へ。

 

 ――蛇。親はひとつ。子は十数体。

 

 ――束ねている糸を断てば、すべての死者が同時に止まる。ただし、束ねている糸は蜘蛛の中心、表面の顔たちの奥。今の位置からは届かない。

 

 ――外側から、一本ずつ剥がしていく。

 

 ――第二段階を使えば、中心まで一息に届く。ただし、使えば数日動けなくなる。蛇の前に立てなくなる。

 

 ――却下。第一段階で、時間をかけて剥がす。

 

 ――共振、開始。

 

 一。二。三。

 

 一本目の糸が切れて、脚が一本、動かなくなる。

 

 四本目の脚が、横から来た。躱せない。右の脇腹に叩きつけられて、壁まで飛ばされる。古い板壁が割れた。

 

 ――右側腹部、打撲。肋骨一本、亀裂の可能性。

 

 痛みはない。立ち上がる。

 

 共振。

 

 一。二。三。四。

 

 二本目。

 

 共振。

 

 一。二。三。

 

 三本目。

 

 数える。切る。数える。切る。

 

 蜘蛛の脚が、一本ずつ動かなくなっていく。十二本が十本に、八本に、六本に。

 

 蜘蛛の表面の顔のひとつが、月の光の中に浮かび上がった。若い顔だった。十六か、十七。短い髪で、耳に小さな穴の跡がある。その下の首に、紺の布の切れ端が、溶けた肉に埋もれていた。ブレザーの襟だ。

 

 ――この学校の制服。

 

 隣の顔も、その隣の顔も。

 

 記録する。行方不明者の名前を照合しようとして、やめた。照合しても、何も変わらない。

 

 蜘蛛の表面の顔たちが、口を開いた。声はなかった。声帯はもう、とうに溶けているのだろう。ただ口だけが、何かを叫ぶ形に開いていた。

 

◇

 

 四本目の脚を剥がした時、天井が揺れた。旧校舎全体が、ひとつ深く息を吸い込んだような揺れだった。

 

 背中の刃の芯が、叩かれた。

 

 ――月の共鳴。

 

 膨れ上がった。真祖だ。旧校舎の上のほう、渡り廊下の方角で、満月の夜に、星の触覚が最後の力を掻き集めていた。

 

 弱い。五日目の夜の、半分にも満たない。消えかけた灯の、最後のひと揺れ。

 

 それでも、その共鳴が触れた瞬間、旧校舎の窓という窓が一斉に震えた。

 

 ――真祖、蛇と接触。

 

 同時に、別の共鳴も刃の芯に届いていた。渡り廊下の、本校舎側の端。浄化の炎の気配――シエルの剣だ。一本、二本、十本、二十本と、次々に、休みなく。何かを押し止めている。たくさんの何かを。

 

 ――上級生・シエル、渡り廊下の端で交戦中。相手は多数。蛇の配下と推定。

 

 蜘蛛の脚が、五本目を振り下ろしてくる。躱す。

 

 共振。

 

 一。二。三。

 

 切れる。残り、四本。

 

 蜘蛛が階段を後ずさった。表面の顔たちが、一斉に上を向いた。渡り廊下の方を。親を呼んでいるように。

 

◇

 

 ――世界が、変わった。

 

 頭上で月の共鳴が膨れ上がり、それから何かが書き換えられた。窓の外の、月の光の色が変わる。白から、透明へ。

 

 旧校舎の天井の、さらに上。渡り廊下のある一点を中心に、空気が結晶していく。硝子のように。氷のように。世界そのものが、ひとつの透き通った立方体に切り取られていく。

 

 ――空想具現化。

 

 長老たちの記録の、真祖の頁に、一行だけあった。

 

 ――星の触覚は、世界の一部を切り取り、その内側のすべてを、なかったことにする。

 

 蛇の共鳴が、消えた。

 

 ぷつり、と。まるで最初から、そこに何もなかったように。

 

 蜘蛛が止まった。残った四本の脚がだらりと垂れて、表面の顔たちが、口を開けたまま動かなくなった。束ねていた太い糸が、その先の親が、消えたから。

 

 ――蛇の共鳴、消失。真祖の勝利。

 

 そう推定した。

 

◇

 

 推定は、二秒で覆った。

 

 ――鳴った。

 

 刃の芯が。消えたはずの蛇の共鳴が、細く、細く、けれど確かに。渡り廊下の中央で。

 

 ――まだ、いる。

 

 蜘蛛の脚が、ぴくりと動いた。垂れていた四本の脚に、力が戻っていく。束ねる糸が、また上から伸びてくる。

 

 蛇が戻ってきている。あの立方体の内側から。何もなくなったはずの場所から、満月の光を吸い込んで。

 

 刃の芯で聴く。蛇の共鳴が膨れ上がっていく。首、頭。そこから下へ、肩、胸、腕。逆回しの映像のように、ものすごい速さで。

 

 月の光が細く細く、渡り廊下の一点へ吸い込まれていく。窓の外の満月が、ほんの少し色を失ったように見えた。

 

 工房の結界が、地下で唸っている。満月の力を増幅して、真上の一点に集めて。そのために組まれていた結界。

 

 ――あれは、このためだった。真祖に一度消されることを、前提に。

 

 ――器の再生。満月の力と、遠野の血。真祖の一撃で、すべては消えなかった。ほんのわずかな欠片が、残った。

 

 そして、蛇の共鳴が鋭く尖った。何かをなぞるように。月の共鳴の上を、細い、細い線を引くように。

 

 月の共鳴が揺れた。激しく、悲鳴のように。それから細く、細くなっていった。ひとつ、またひとつと、何かが断たれていくように。

 

 ――蛇。命を視る目。真祖の生かしている部分をなぞって、断った。

 

 ――真祖、致命的な損傷。共鳴、急激に減衰。生存の確率、低。

 

 蜘蛛がまた動き出す。四本の脚が床を蹴る。

 

 ――終わらせる。今、すぐに。

 

 蜘蛛の中心の、束ねる糸は、表面の顔たちの奥にある。外側からでは届かない。ならば、内側から。

 

 蜘蛛の脚の付け根に刃を突き立てて、そのまま捩じ込む。顔と顔の隙間へ。腕を肘まで、蜘蛛の溶けた肉の内側へ。

 

 冷たい。腐った果実の匂いがする。構わない。

 

 届いた。束ねる、太い糸。

 

 ――共振。

 

 一。

 

 二。

 

 三。

 

 四。

 

 五。

 

 六。

 

 七。

 

 ぶつり、と。

 

 切れた。

 

 蜘蛛の体から、力が抜けた。十二の脚が、いくつもの胴が、表面の顔たちが、ほどけて、崩れて、ばらばらの人の形に戻って、階段の上に折り重なって倒れた。

 

 動かない。もう、二度と。

 

 ――蜘蛛型の異形、排除。

 

◇

 

 刃を抜くと、腕が肘まで黒く濡れていた。

 

 ――左肩、縫合断裂、二針。出血継続。右側腹部、肋骨、亀裂。全身の毛細血管、損傷多数。

 

 ――第一段階の連続使用、十八分。任務に支障なし。

 

 倒れた死者たちを見下ろす。ばらばらになった顔。その中に、制服の襟が見えた。総耶高校の、紺のブレザー。

 

 ――この学校の生徒。行方不明者の可能性。

 

 名前は照合しなかった。照合する必要がなかった。

 

 ――何も思わない。思うための機能が、ない。

 

 階段を上る。

 

◇

 

 旧校舎の二階。右へ折れる。

 

 階段を上るたびに、右の脇腹の亀裂が軋んだ。左肩の切れた縫い目から、血が袖の中を伝っていく。構わない。刃の芯が、蛇の方へ引かれている。生まれる前から、そう作られている。

 

 渡り廊下の入口で、足が止まった。

 

 渡り廊下は透き通っていた。壁も、床も、天井も、窓硝子も、色を失って、硝子のような、氷のような結晶になっていた。

 

 その結晶が今、ゆっくりとほどけ始めていた。世界が元に戻ろうとしている。ほどけていく結晶のひとつひとつが、満月の光を細かく砕いて、渡り廊下の中に撒き散らしていた。床にも、壁にも、天井にも、きらきらと。まるで雪が降っているように。

 

 その中央に、白い影が膝をついていた。

 

 淡い金色の髪。白いセーター。真祖だ。

 

 白いセーターの上を、何本もの細く赤い線が走っていた。胸から腹へ、肩から腕へ。爪でなぞられた跡だった。線の一本一本から、赤いものが静かに溢れて、透き通った床の上に広がっていく。

 

 ――蛇の目が視た、命の線。それを、蛇の爪が断った。

 

 真祖の傍らに、遠野志貴がいた。膝をついて真祖の肩を抱き、何かを叫んでいる。真祖の名前を。

 

 真祖の唇が動いた。声は届かなかった。ただ、紅い目が遠野志貴の顔を見上げて、少しだけ笑ったように見えた。それから、その目がゆっくりと閉じた。

 

 月の共鳴が、消えかけた灯のように、細く、細くなっていく。

 

 ――真祖、意識喪失の可能性。

 

 渡り廊下の、本校舎側の入口に、シエルがいた。黒鍵を指の間に構えている。その足元には、燃え尽きた死者の炭がいくつも転がっていた。蛇の配下だ。渡り廊下の両端から湧き出てきたのだろう。シエルはそれをひとりで押し止めていた。遠野志貴と真祖に、近づけさせないように。

 

 そして、渡り廊下の中央の、少し奥に。

 

 男が立っていた。

 

 遠野四季の体。ほんのわずかな欠片から生え直したばかりの、胴と、腕と、脚と。まだところどころ皮膚が張りきっておらず、赤い肉が、満月の光の中でてらてらと光っていた。

 

 それでも、立っていた。前髪を指で後ろへ撫でつけ、片手を腰の後ろに回して。夜会の広間に立つ、古い時代の学者か、貴族のように。

 

「――惜しかったな、姫」

 

 男の声がした。低く落ち着いた、理知の響き。

 

「この器が、ただの人間の器であれば、今の一撃で終わっていた。……だが、遠野の血は、実に便利だ。ひとかけらでも残れば、満月が、残りを編み直してくれる」

 

 男は、膝をついた真祖を見下ろした。

 

「八百年。……君は、何度、私を殺した? 何度、私は、戻ってきた?」

 

 満月の光の中で、男は微笑んだ。

 

「今夜で、終わりにしよう。君の力は、もう、ほとんど私の中にある」

 

◇

 

 男の目がゆっくりと巡って、本校舎側の入口のシエルへ向いた。

 

「久しいな、キャーンズ」

 

 シエルの肩が跳ねた。

 

「十三年ぶりか、エレイシア。……君の体は、居心地がよかった。あの頃が、懐かしい」

 

 男は、まだ皮膚の張りきらない指先を、ゆっくりと握って、開いた。

 

「君の中で目を覚ましてから、フランスの町に至るまで。あれほどよく馴染んだ器は、なかった。……それなのに、君は、ずっと私の中で泣いていた。暴れていた。鬱陶しいほどに」

 

 シエルの指の間で、黒鍵が軋んだ。シエルは何も言わなかった。ただ、その目が凍りついたように男を見ていた。

 

 黒鍵を握っていないほうの左手が、装束の袖の上から、自分の左の前腕を掴んでいた。布越しに、爪が食い込むほど。

 

「あの里でも、君は、よく暴れた」

 

 男が楽しそうに続けた。

 

「扉の前で、右手を奪い返して、自分の腕を裂いて。……あれは、少々、骨が折れた。おかげで、残り滓を取りこぼした」

 

 男の目が一瞬だけ、僕のほうをかすめた。かすめて、止まらなかった。

 

「まあ、いい。残り滓は、残り滓だ」

 

 ――蛇の証言。扉の前で、器が抗った。右手を奪い返し、自分の腕を裂いた。そのせいで取りこぼした、と。

 

 長老たちの解釈と、四日前の夜のシエルの証言とを照合する。

 

 ――宿主の証言と、加害者の証言が一致。長老たちの解釈は誤っていた。仮説、検証、完了。

 

 それから、もうひとつ記録すべきことがあった。

 

 ――扉が開かれなかったのは、器が抗ったから。

 

 ――扉の向こうにいたのは、長老四名と、身重の女ひとり。

 

 ――その女の、胎の中に。

 

 僕が、いた。

 

 ――僕は、あの夜、この上級生の抵抗によって生き延びた。

 

 記録した。事実を記録しただけだ。

 

 それなのに、脈拍が、一、上がった。

 

 ――原因、不明。

 

 シエルの肩が震えていた。

 

「……あなたは」

 

 シエルが口を開いた。低く平らな、代行者の声で。

 

「あなたは、ここで、終わります。……ロア」

 

 男は声を上げて笑った。

 

 それから、男の目は遠野志貴に移った。真祖の肩を抱いた、眼鏡の少年に。

 

 その眼鏡を、彼はもう外していた。裸の目で男を見上げていた。男の輪郭の、ほんの少し内側を。

 

 男の微笑みが、一瞬揺らいだ。

 

「……君の、その目」

 

 男の声から、余裕がほんの少しだけ削れた。

 

「私の目は、命を視る。生かしている部分を。どこを壊せば、止まるのかを。……だが、君の目は、違う。君の目は、何を、視ている」

 

 遠野志貴は答えなかった。胸の包帯が真っ赤に染まっていた。昨夕刺された傷が、開いている。息をするたびに、肩が大きく上下している。立っているのが不思議なほどの状態だった。

 

 それでも、その目だけは揺れていなかった。男の体のどこかに、男自身にも見えない何かに、焦点が合っていた。

 

 ただ、ポケットからナイフを取り出した。小さな、古い、折り畳みのナイフ。七つ夜。その刃を開く。

 

 男が一歩、後ずさった。

 

 それから男の目が、最後に、渡り廊下の旧校舎側の入口へ動いた。僕のほうへ。

 

 男の目が、僕の上をなぞった。人の輪郭の、ほんの少し内側を。命の残りを。

 

 ――一秒。

 

 男の目は、止まらなかった。

 

 僕の上を、通り過ぎた。

 

「……ほう。蜘蛛を、抜けてきたか」

 

 興味のなさそうな声だった。

 

「だが、ずいぶんと命が薄いな。……擦り切れた糸だ。今にも、切れそうだ」

 

 男は鼻で笑った。

 

「死にかけの小鳥に、用はない」

 

 男の目が僕から逸れた。まるで、もうそこに何もいないかのように。

 

◇

 

 時間を計算する。満月の力は、まだ工房の結界で増幅され続けている。蛇の再生は止まらない。真祖の一撃でも、終わらなかった。遠野志貴のナイフが蛇の体を殺しても、蛇の魂は器から逃げる。

 

 逃げる先は。

 

 ――蛇。器・遠野四季。満月と遠野の血による再生。真祖、腹部に重傷、戦闘不能。

 

 ――上級生・シエル、本校舎側の入口にて蛇の配下を阻止中。遠野志貴、ナイフを展開、蛇の正面。

 

 ――蛇の目は命を視る。蛇の目は、僕を映さなかった。命が薄いものを、蛇の目は見落とす。

 

 ――ならば、命をさらに薄くすれば。

 

 蛇の目には、僕はもう、何も映らなくなる。

 

 ――戦術上、有用な情報。

 

 頭の奥で、嗄れた声がした。

 

 ――カナリア。

 

 ――蛇の心臓が、そこにある。

 

 ――時は、来た。

 

 わかっている。

 

 蛇の胸の奥を、刃の芯が捉えている。細く、冷たく、ねじれた魂。器に深く、深く根を張った、八百年分の。

 

 それから、その根の一本が細い糸になって、どこかへ伸びている。

 

 ――遠野志貴の方へ。

 

 幼い日に一緒に遊んだ、二人の「シキ」。その間に、繋がりが残っている。遠野志貴が蛇の体を殺した瞬間、蛇はその糸を伝って、遠野志貴の中へ逃げ込む。

 

 ――蛇の魂を器から剥がす。同時に、遠野志貴への糸を断つ。剥き出しになった魂を、遠野志貴の目が殺す。

 

 ――必要なのは、蛇の胸に刃を届かせること。蛇の目に、映らずに。

 

 演算、完了。

 

 背中の刃を、握り直す。

 

 シエルが、本校舎側の入口からこちらを見た。黒鍵を構えたまま。眼鏡の奥の目が僕を捉えて、何かを悟ったように見開かれた。

 

 ――ありません。

 

 さっき、正門の前で、僕はそう答えた。第二段階の、先は。

 

 満月が、渡り廊下のほどけかけた結晶を、白く照らしていた。

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