零時、満月。総耶高校の正門を、三人でくぐる。シエルが遠野志貴を背負って、僕がその半歩後ろを。
夜の校庭は白かった。満月の光が、土の上に影という影をくっきりと落としている。鉄棒の影、銀杏の木の影。それから、僕たち三人の影。
背中の刃が鳴っている。旧校舎の地面の奥で、それはもう眠ってはいない。起き上がって、伸びをして、地上へ上ってきている。
「……感じます」
シエルが低く言った。
「上がってきてる。……工房から、渡り廊下の方へ」
「本校舎と旧校舎を繋ぐ、二階の渡り廊下。地上から、約七メートル。……蛇は、そこで待つつもりです」
「どうして、わかるんですか」
「工房の結界の構造です。満月の力を地下で増幅して、真上の一点に集めるように組まれていました。その一点が、渡り廊下の中央です」
シエルの背中で、遠野志貴が顔を上げた。
「……アルクェイドは」
「もう、上にいます」
僕は答えた。刃の芯が、旧校舎の上のほうに、弱く細い月の共鳴を拾っていた。
「渡り廊下の近く。……蛇と、まだ接触していません。ですが、時間の問題です」
シエルは遠野志貴を背負い直した。
「……急ぎましょう」
遠野志貴の呼吸が浅い。胸の包帯に、また赤いものが滲み始めている。それでもその手は、制服のポケットのナイフの膨らみを、ずっと押さえていた。
シエルが、ちらりと僕のほうを見た。
「……有波くん、肩」
「問題ありません」
「縫い目、引きつってますよ。……無理、しないで」
「必要な範囲で、します」
シエルは何も言わなかった。ただ、遠野志貴を背負った腕に、少しだけ力を込めた。
◇
旧校舎の昇降口に、鍵はかかっていなかった。
中に入ると、暗い廊下が延びていた。古い木の床は、ところどころ板が浮いている。月の光が窓から斜めに差し込んでいる。廊下の突き当たりに二階への階段があり、そこを上って右へ折れれば渡り廊下だ。
階段の手前で、刃が跳ねた。
蛇の共鳴とは違う。もっと濁った、もっとたくさんの。何十もの細い糸が、ひとつの塊により合わされているような。
「――止まって」
シエルが足を止めた。
階段の上から、何かが下りてきた。
ずる。ずる。ずる、と。
脚があった。何本も。人の腕の形をしていた。人の脚の形をしていた。それが肘と膝とをあり得ない方向に折り曲げて、八本、十本、十二本。階段の壁に、手すりに、天井に突き立てている。
その脚の付け根に、胴体があった。いくつもの胴体が溶けてくっつき、ひとつの丸い塊になっている。塊の表面には、顔が浮いていた。ひとつ、ふたつ、みっつ。目を閉じた人の顔が。
――死者。ただし、ひとつではない。何体もの死者を継ぎ合わせて、一体にしたもの。
蜘蛛だった。人で作られた蜘蛛。
◇
シエルの指の間で、銀色の剣が鳴った。
「……蛇の仕業ですね」
声が凍りついていた。
「死者を、継ぎ合わせて。……あの人の、やりそうなことです」
蜘蛛は階段の踊り場で止まった。十二本の脚で、壁と天井とに張りついている。表面の顔たちが、一斉に目を開いた。どの目も、何も見ていなかった。
シエルが遠野志貴を、そっと廊下の壁際に下ろした。
「遠野くん、ここで――」
「……先輩」
遠野志貴が、壁に手をついて立ち上がった。膝が笑っている。胸の包帯の赤が、広がっていく。
「俺、先に行きます。……あいつが、待ってる」
「その体で――」
「旧校舎の、西側の外階段」
僕は言った。
「そこから二階に上がれます。渡り廊下の、旧校舎側の入口に出ます。……蜘蛛は、この階段から動きません。親の糸に、ここに縛られています」
遠野志貴が僕を見て、眼鏡の奥で小さく頷いた。それから壁を伝って廊下を引き返し、窓を越えて夜の中へ出ていった。ひとりで。
――遠野志貴、単独で先行。
あの少年は最初から、ひとりで、あの女のところへ行くことになっていた。そんな気がした。記録は、しなかった。
◇
蜘蛛が動いた。十二本の脚が、一斉に壁を蹴る。
シエルが前に出た。銀色の剣が指の間から放たれ、四本、八本と脚の付け根に突き立って、白く燃える。燃えた脚が崩れる。崩れた先から、別の死者の腕がずるりと伸びてきて、新しい脚になる。
「……っ、再生、してる……!」
シエルの剣が、また放たれる。燃える。崩れる。また生える。
――束ねる糸が、無数の死者を次々と継ぎ足している。外側を焼いても終わらない。浄化の炎は、親の糸までは届かない。
シエルの額に汗が浮かんでいた。剣を投げる手は正確で、一本の無駄もない。それでも、蜘蛛は減らない。
三分。五分。
――月の共鳴が、旧校舎の上で揺れた。
遠く、渡り廊下の方角だ。細く、冷たく、ねじれた共鳴が地面の下から上ってきて、月の共鳴とぶつかり始めている。
シエルが天井を見上げた。その顔色が変わった。
「――シエル先輩」
呼ぶ。
「代わります」
シエルが振り返った。
「……何を」
「この蜘蛛は、何体もの死者の、糸の塊です。糸を断つのは、僕の刃の設計上の用途です。……あなたの剣より、僕の刃の方が早く終わります」
「でも――」
「蛇が、真祖と接触しました。遠野志貴は、ひとりでそこへ向かっています。……あなたが、行くべきです」
シエルは唇を噛んで、蜘蛛と、僕と、天井とを順番に見た。
「……有波くんの、脚じゃ」
「第一段階で、足ります」
「本当に?」
「はい」
嘘ではなかった。すべてでもなかった。
――第二段階は使わない。使えば数日動けなくなる。今夜、蛇の前に立つ前に、動けなくなるわけにはいかない。
――第三段階は、蛇の心臓の前のために残す。
だから、第一段階で足りさせる。
シエルは、長い、長い息を吐いた。
「……死なないで、ください」
「ここでは、死にません」
シエルの目が、一瞬揺れた。ここでは――その言葉の意味を、この上級生は正確に受け取ったのかもしれない。
何も言わないまま、シエルは廊下を引き返して、窓から外へ跳んだ。
◇
蜘蛛がこちらを向いた。十二本の脚が、一斉に壁を蹴る。速い。
――過負荷駆動、第一段階。
指先の毛細血管が切れる。脚の、腕の、背中の。世界が遅くなる。
腕の形をした蜘蛛の脚が一本、僕の頭へ振り下ろされる。半身で躱すと、床板が砕けた。二本目、三本目。躱す。躱す。四本目が左の肩を掠めて、縫合の糸がぶつりと切れた。
――左肩、縫合、一部断裂。出血、再開。
構わない。刃を抜くと、シエルが直した留め金がかちりと鳴った。〇・二秒、速い。
蜘蛛の脚の付け根へ、刃を突き立てる。
見えた。糸だ。
一本ではない。十数本の細く黒い糸が、この脚の付け根でより合わされている。それぞれが、別々の死者と親との繋がりだ。そしてそのすべてが、さらに一本の太い糸に束ねられて、上へ伸びている。渡り廊下の方へ。
――蛇。親はひとつ。子は十数体。
――束ねている糸を断てば、すべての死者が同時に止まる。ただし、束ねている糸は蜘蛛の中心、表面の顔たちの奥。今の位置からは届かない。
――外側から、一本ずつ剥がしていく。
――第二段階を使えば、中心まで一息に届く。ただし、使えば数日動けなくなる。蛇の前に立てなくなる。
――却下。第一段階で、時間をかけて剥がす。
――共振、開始。
一。二。三。
一本目の糸が切れて、脚が一本、動かなくなる。
四本目の脚が、横から来た。躱せない。右の脇腹に叩きつけられて、壁まで飛ばされる。古い板壁が割れた。
――右側腹部、打撲。肋骨一本、亀裂の可能性。
痛みはない。立ち上がる。
共振。
一。二。三。四。
二本目。
共振。
一。二。三。
三本目。
数える。切る。数える。切る。
蜘蛛の脚が、一本ずつ動かなくなっていく。十二本が十本に、八本に、六本に。
蜘蛛の表面の顔のひとつが、月の光の中に浮かび上がった。若い顔だった。十六か、十七。短い髪で、耳に小さな穴の跡がある。その下の首に、紺の布の切れ端が、溶けた肉に埋もれていた。ブレザーの襟だ。
――この学校の制服。
隣の顔も、その隣の顔も。
記録する。行方不明者の名前を照合しようとして、やめた。照合しても、何も変わらない。
蜘蛛の表面の顔たちが、口を開いた。声はなかった。声帯はもう、とうに溶けているのだろう。ただ口だけが、何かを叫ぶ形に開いていた。
◇
四本目の脚を剥がした時、天井が揺れた。旧校舎全体が、ひとつ深く息を吸い込んだような揺れだった。
背中の刃の芯が、叩かれた。
――月の共鳴。
膨れ上がった。真祖だ。旧校舎の上のほう、渡り廊下の方角で、満月の夜に、星の触覚が最後の力を掻き集めていた。
弱い。五日目の夜の、半分にも満たない。消えかけた灯の、最後のひと揺れ。
それでも、その共鳴が触れた瞬間、旧校舎の窓という窓が一斉に震えた。
――真祖、蛇と接触。
同時に、別の共鳴も刃の芯に届いていた。渡り廊下の、本校舎側の端。浄化の炎の気配――シエルの剣だ。一本、二本、十本、二十本と、次々に、休みなく。何かを押し止めている。たくさんの何かを。
――上級生・シエル、渡り廊下の端で交戦中。相手は多数。蛇の配下と推定。
蜘蛛の脚が、五本目を振り下ろしてくる。躱す。
共振。
一。二。三。
切れる。残り、四本。
蜘蛛が階段を後ずさった。表面の顔たちが、一斉に上を向いた。渡り廊下の方を。親を呼んでいるように。
◇
――世界が、変わった。
頭上で月の共鳴が膨れ上がり、それから何かが書き換えられた。窓の外の、月の光の色が変わる。白から、透明へ。
旧校舎の天井の、さらに上。渡り廊下のある一点を中心に、空気が結晶していく。硝子のように。氷のように。世界そのものが、ひとつの透き通った立方体に切り取られていく。
――空想具現化。
長老たちの記録の、真祖の頁に、一行だけあった。
――星の触覚は、世界の一部を切り取り、その内側のすべてを、なかったことにする。
蛇の共鳴が、消えた。
ぷつり、と。まるで最初から、そこに何もなかったように。
蜘蛛が止まった。残った四本の脚がだらりと垂れて、表面の顔たちが、口を開けたまま動かなくなった。束ねていた太い糸が、その先の親が、消えたから。
――蛇の共鳴、消失。真祖の勝利。
そう推定した。
◇
推定は、二秒で覆った。
――鳴った。
刃の芯が。消えたはずの蛇の共鳴が、細く、細く、けれど確かに。渡り廊下の中央で。
――まだ、いる。
蜘蛛の脚が、ぴくりと動いた。垂れていた四本の脚に、力が戻っていく。束ねる糸が、また上から伸びてくる。
蛇が戻ってきている。あの立方体の内側から。何もなくなったはずの場所から、満月の光を吸い込んで。
刃の芯で聴く。蛇の共鳴が膨れ上がっていく。首、頭。そこから下へ、肩、胸、腕。逆回しの映像のように、ものすごい速さで。
月の光が細く細く、渡り廊下の一点へ吸い込まれていく。窓の外の満月が、ほんの少し色を失ったように見えた。
工房の結界が、地下で唸っている。満月の力を増幅して、真上の一点に集めて。そのために組まれていた結界。
――あれは、このためだった。真祖に一度消されることを、前提に。
――器の再生。満月の力と、遠野の血。真祖の一撃で、すべては消えなかった。ほんのわずかな欠片が、残った。
そして、蛇の共鳴が鋭く尖った。何かをなぞるように。月の共鳴の上を、細い、細い線を引くように。
月の共鳴が揺れた。激しく、悲鳴のように。それから細く、細くなっていった。ひとつ、またひとつと、何かが断たれていくように。
――蛇。命を視る目。真祖の生かしている部分をなぞって、断った。
――真祖、致命的な損傷。共鳴、急激に減衰。生存の確率、低。
蜘蛛がまた動き出す。四本の脚が床を蹴る。
――終わらせる。今、すぐに。
蜘蛛の中心の、束ねる糸は、表面の顔たちの奥にある。外側からでは届かない。ならば、内側から。
蜘蛛の脚の付け根に刃を突き立てて、そのまま捩じ込む。顔と顔の隙間へ。腕を肘まで、蜘蛛の溶けた肉の内側へ。
冷たい。腐った果実の匂いがする。構わない。
届いた。束ねる、太い糸。
――共振。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
ぶつり、と。
切れた。
蜘蛛の体から、力が抜けた。十二の脚が、いくつもの胴が、表面の顔たちが、ほどけて、崩れて、ばらばらの人の形に戻って、階段の上に折り重なって倒れた。
動かない。もう、二度と。
――蜘蛛型の異形、排除。
◇
刃を抜くと、腕が肘まで黒く濡れていた。
――左肩、縫合断裂、二針。出血継続。右側腹部、肋骨、亀裂。全身の毛細血管、損傷多数。
――第一段階の連続使用、十八分。任務に支障なし。
倒れた死者たちを見下ろす。ばらばらになった顔。その中に、制服の襟が見えた。総耶高校の、紺のブレザー。
――この学校の生徒。行方不明者の可能性。
名前は照合しなかった。照合する必要がなかった。
――何も思わない。思うための機能が、ない。
階段を上る。
◇
旧校舎の二階。右へ折れる。
階段を上るたびに、右の脇腹の亀裂が軋んだ。左肩の切れた縫い目から、血が袖の中を伝っていく。構わない。刃の芯が、蛇の方へ引かれている。生まれる前から、そう作られている。
渡り廊下の入口で、足が止まった。
渡り廊下は透き通っていた。壁も、床も、天井も、窓硝子も、色を失って、硝子のような、氷のような結晶になっていた。
その結晶が今、ゆっくりとほどけ始めていた。世界が元に戻ろうとしている。ほどけていく結晶のひとつひとつが、満月の光を細かく砕いて、渡り廊下の中に撒き散らしていた。床にも、壁にも、天井にも、きらきらと。まるで雪が降っているように。
その中央に、白い影が膝をついていた。
淡い金色の髪。白いセーター。真祖だ。
白いセーターの上を、何本もの細く赤い線が走っていた。胸から腹へ、肩から腕へ。爪でなぞられた跡だった。線の一本一本から、赤いものが静かに溢れて、透き通った床の上に広がっていく。
――蛇の目が視た、命の線。それを、蛇の爪が断った。
真祖の傍らに、遠野志貴がいた。膝をついて真祖の肩を抱き、何かを叫んでいる。真祖の名前を。
真祖の唇が動いた。声は届かなかった。ただ、紅い目が遠野志貴の顔を見上げて、少しだけ笑ったように見えた。それから、その目がゆっくりと閉じた。
月の共鳴が、消えかけた灯のように、細く、細くなっていく。
――真祖、意識喪失の可能性。
渡り廊下の、本校舎側の入口に、シエルがいた。黒鍵を指の間に構えている。その足元には、燃え尽きた死者の炭がいくつも転がっていた。蛇の配下だ。渡り廊下の両端から湧き出てきたのだろう。シエルはそれをひとりで押し止めていた。遠野志貴と真祖に、近づけさせないように。
そして、渡り廊下の中央の、少し奥に。
男が立っていた。
遠野四季の体。ほんのわずかな欠片から生え直したばかりの、胴と、腕と、脚と。まだところどころ皮膚が張りきっておらず、赤い肉が、満月の光の中でてらてらと光っていた。
それでも、立っていた。前髪を指で後ろへ撫でつけ、片手を腰の後ろに回して。夜会の広間に立つ、古い時代の学者か、貴族のように。
「――惜しかったな、姫」
男の声がした。低く落ち着いた、理知の響き。
「この器が、ただの人間の器であれば、今の一撃で終わっていた。……だが、遠野の血は、実に便利だ。ひとかけらでも残れば、満月が、残りを編み直してくれる」
男は、膝をついた真祖を見下ろした。
「八百年。……君は、何度、私を殺した? 何度、私は、戻ってきた?」
満月の光の中で、男は微笑んだ。
「今夜で、終わりにしよう。君の力は、もう、ほとんど私の中にある」
◇
男の目がゆっくりと巡って、本校舎側の入口のシエルへ向いた。
「久しいな、キャーンズ」
シエルの肩が跳ねた。
「十三年ぶりか、エレイシア。……君の体は、居心地がよかった。あの頃が、懐かしい」
男は、まだ皮膚の張りきらない指先を、ゆっくりと握って、開いた。
「君の中で目を覚ましてから、フランスの町に至るまで。あれほどよく馴染んだ器は、なかった。……それなのに、君は、ずっと私の中で泣いていた。暴れていた。鬱陶しいほどに」
シエルの指の間で、黒鍵が軋んだ。シエルは何も言わなかった。ただ、その目が凍りついたように男を見ていた。
黒鍵を握っていないほうの左手が、装束の袖の上から、自分の左の前腕を掴んでいた。布越しに、爪が食い込むほど。
「あの里でも、君は、よく暴れた」
男が楽しそうに続けた。
「扉の前で、右手を奪い返して、自分の腕を裂いて。……あれは、少々、骨が折れた。おかげで、残り滓を取りこぼした」
男の目が一瞬だけ、僕のほうをかすめた。かすめて、止まらなかった。
「まあ、いい。残り滓は、残り滓だ」
――蛇の証言。扉の前で、器が抗った。右手を奪い返し、自分の腕を裂いた。そのせいで取りこぼした、と。
長老たちの解釈と、四日前の夜のシエルの証言とを照合する。
――宿主の証言と、加害者の証言が一致。長老たちの解釈は誤っていた。仮説、検証、完了。
それから、もうひとつ記録すべきことがあった。
――扉が開かれなかったのは、器が抗ったから。
――扉の向こうにいたのは、長老四名と、身重の女ひとり。
――その女の、胎の中に。
僕が、いた。
――僕は、あの夜、この上級生の抵抗によって生き延びた。
記録した。事実を記録しただけだ。
それなのに、脈拍が、一、上がった。
――原因、不明。
シエルの肩が震えていた。
「……あなたは」
シエルが口を開いた。低く平らな、代行者の声で。
「あなたは、ここで、終わります。……ロア」
男は声を上げて笑った。
それから、男の目は遠野志貴に移った。真祖の肩を抱いた、眼鏡の少年に。
その眼鏡を、彼はもう外していた。裸の目で男を見上げていた。男の輪郭の、ほんの少し内側を。
男の微笑みが、一瞬揺らいだ。
「……君の、その目」
男の声から、余裕がほんの少しだけ削れた。
「私の目は、命を視る。生かしている部分を。どこを壊せば、止まるのかを。……だが、君の目は、違う。君の目は、何を、視ている」
遠野志貴は答えなかった。胸の包帯が真っ赤に染まっていた。昨夕刺された傷が、開いている。息をするたびに、肩が大きく上下している。立っているのが不思議なほどの状態だった。
それでも、その目だけは揺れていなかった。男の体のどこかに、男自身にも見えない何かに、焦点が合っていた。
ただ、ポケットからナイフを取り出した。小さな、古い、折り畳みのナイフ。七つ夜。その刃を開く。
男が一歩、後ずさった。
それから男の目が、最後に、渡り廊下の旧校舎側の入口へ動いた。僕のほうへ。
男の目が、僕の上をなぞった。人の輪郭の、ほんの少し内側を。命の残りを。
――一秒。
男の目は、止まらなかった。
僕の上を、通り過ぎた。
「……ほう。蜘蛛を、抜けてきたか」
興味のなさそうな声だった。
「だが、ずいぶんと命が薄いな。……擦り切れた糸だ。今にも、切れそうだ」
男は鼻で笑った。
「死にかけの小鳥に、用はない」
男の目が僕から逸れた。まるで、もうそこに何もいないかのように。
◇
時間を計算する。満月の力は、まだ工房の結界で増幅され続けている。蛇の再生は止まらない。真祖の一撃でも、終わらなかった。遠野志貴のナイフが蛇の体を殺しても、蛇の魂は器から逃げる。
逃げる先は。
――蛇。器・遠野四季。満月と遠野の血による再生。真祖、腹部に重傷、戦闘不能。
――上級生・シエル、本校舎側の入口にて蛇の配下を阻止中。遠野志貴、ナイフを展開、蛇の正面。
――蛇の目は命を視る。蛇の目は、僕を映さなかった。命が薄いものを、蛇の目は見落とす。
――ならば、命をさらに薄くすれば。
蛇の目には、僕はもう、何も映らなくなる。
――戦術上、有用な情報。
頭の奥で、嗄れた声がした。
――カナリア。
――蛇の心臓が、そこにある。
――時は、来た。
わかっている。
蛇の胸の奥を、刃の芯が捉えている。細く、冷たく、ねじれた魂。器に深く、深く根を張った、八百年分の。
それから、その根の一本が細い糸になって、どこかへ伸びている。
――遠野志貴の方へ。
幼い日に一緒に遊んだ、二人の「シキ」。その間に、繋がりが残っている。遠野志貴が蛇の体を殺した瞬間、蛇はその糸を伝って、遠野志貴の中へ逃げ込む。
――蛇の魂を器から剥がす。同時に、遠野志貴への糸を断つ。剥き出しになった魂を、遠野志貴の目が殺す。
――必要なのは、蛇の胸に刃を届かせること。蛇の目に、映らずに。
演算、完了。
背中の刃を、握り直す。
シエルが、本校舎側の入口からこちらを見た。黒鍵を構えたまま。眼鏡の奥の目が僕を捉えて、何かを悟ったように見開かれた。
――ありません。
さっき、正門の前で、僕はそう答えた。第二段階の、先は。
満月が、渡り廊下のほどけかけた結晶を、白く照らしていた。