カナリアは歌わない   作:にんら

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月世界 2/2

 満月が、渡り廊下のほどけかけた結晶を白く照らしていた。床にも壁にも天井にも、砕けた光が雪のように降っている。

 

 僕は旧校舎側の入口に立っていた。渡り廊下の中央に蛇がいて、その前に、真祖を抱いた遠野志貴。本校舎側の入口には、黒鍵を構えたシエル。

 

 蛇の目は僕を映していない。刃の芯が、蛇の胸の奥を捉え続けている。

 

 ――待つ。遠野志貴が動く、その瞬間を。

 

「……化け物め」

 

 男が遠野志貴に言った。七つ夜の刃を開いた、眼鏡のない少年に。その声から余裕が消えていた。

 

「私の目は、命を視る。八百年、ずっと、視てきた。……生かしている部分。どこを壊せば、止まるのか。どれだけ壊れても、まだ、止まらないのか」

 

 男が一歩後ずさった。まだ皮膚の張りきらない足が、ほどけかけた結晶の床を軋ませる。

 

「人も、獣も、草も、死徒も。生きているものは、みな、等しく、生かしている部分を持っている。心臓の鼓動。血の流れ。魔力の循環。それを、私は、糸のように、視る。……どの糸を断てば、止まるのか。どの糸が、もうすぐ、切れるのか」

 

 男は自分の胸に手を当てた。

 

「だから、私は、死を、知っている。八百年、他人の糸が切れるのを、視てきた。……死とは、糸が、切れることだ」

 

 男の目が、遠野志貴の手の中のナイフに落ちた。

 

「だが、君の目は。……君の目は、私には、視えない何かを、視ている」

 

 遠野志貴は答えなかった。ただ男を見ていた。男の輪郭の、ほんの少し内側を。

 

 男の手のひらに雷が集まった。青白い光が、遠野志貴へ向かう。

 

 その瞬間、本校舎側の入口から黒い影が跳んだ。遠野志貴と雷のあいだへ。シエルだった。

 

 雷がシエルの胸を貫いた。音は遅れて来た。

 

 シエルの体が、ほどけかけた結晶の壁に叩きつけられる。胸に穴が開き、装束が焦げている。彼女は壁に背を預けたまま、ずるずると座り込んだ。

 

 気づくと、足が一歩前に出ていた。崩れた壁際の、シエルのほうへ。

 

 ――停止。

 

 止めた。今シエルのもとへ行く合理的な理由はない。シエルは死なない。それなのに、足が先に動いていた。

 

 ――指示のない出力。原因不明。

 

 ――上級生・シエル。胸部貫通。

 

 死なない。蛇がこの世にいる限り、この上級生は死ねない。それでも、胸の穴はすぐには塞がらない。

 

 ――戦闘、一時不能。

 

 記録しなければいけない。記録は、まだできる。

 

◇

 

 遠野志貴はシエルのほうを見なかった。見ている余裕がなかったのだろう。あるいは、見たら動けなくなると知っていたのか。

 

 その目が男から逸れて、下へ向いた。渡り廊下の床へ。ほどけかけた結晶の奥の、古いコンクリートの床の、何もない場所へ。遠野志貴の裸の目が細められた。

 

 そこに何かがある。僕には見えない。蛇にも見えない。

 

 物の死。形のあるものがいつか必ず迎える、終わりの線。渡り廊下という建物の死を、遠野志貴は見ていた。

 

 ナイフがなぞった。音はしなかった。床が、床であることをやめた。

 

 渡り廊下の中央、男の立っていた場所の床が崩れ落ちる。壁が崩れ、天井が崩れる。男の腰から下ごと、再生の基盤ごと、殺された。

 

 瓦礫と一緒に、男の上半身が二階の高さから地面へ落ちていく。轟音と粉塵。満月の光が、舞い上がった粉塵を白く照らした。

 

 遠野志貴が縁を蹴った。崩れた渡り廊下の断面から、粉塵の底へ。

 

 瓦礫の上で、腰から下を失った男が、両腕で瓦礫を掴んで上半身を起こそうとしていた。その前に遠野志貴が降り立つ。眼鏡のない目が、男の胸の、心臓のほんの少し右を見ていた。

 

 ナイフが走った。小さな古い七つ夜が、男の胸の、何もない一点を突いた。

 

 男の体がびくりと跳ね、それからゆっくりと瓦礫の上に崩れていった。

 

 満月の光が、舞い上がった粉塵を白く照らしていた。

 

 ――遠野志貴、死の点を突いた。蛇の器、機能停止。

 

◇

 

 崩れた渡り廊下の、断面の縁に立って見下ろした。

 

 粉塵の底で、遠野志貴が膝をついて肩で息をしている。胸の包帯は真っ赤に染まっていた。その前に男の上半身が横たわって、動かない。

 

 ――終わった。

 

 そう記録しかけたとき、刃が叫んだ。まだだ、と。

 

 男の胸の奥で、何かが蠢いた。見えた。器に深く、深く根を張った、八百年分の男の魂。器が死んでも、魂はまだそこにいる。そしてその根の一本が細い糸になって、すぐ目の前の、遠野志貴の胸へ伸びていた。

 

 男の手が動いた。崩れかけた腕が、遠野志貴の手首を掴む。

 

「――まだだ」

 

 男の唇は、血を吐きながら笑っていた。

 

「お前と、この器には、縁がある。……同じ名を、分け合った、二人のシキ。幼い日に、同じ庭で、遊んだ縁が」

 

 糸が太くなっていく。男の魂が、その糸を伝って遠野志貴の中へ流れ込もうとしている。

 

「この器は、もう要らぬ。……お前の体を、貰う。直死の目ごと、な」

 

 遠野志貴の顔が歪んだ。振りほどこうとしても振りほどけない。死の点を突いた疲れで、腕に力が入らないのだ。

 

 ――蛇は今、遠野志貴の中へ逃げ込もうとしている。

 

 ――今、蛇の魂を器から剥がし、同時にその糸を断てば、蛇の魂はどこにも行けない。剥き出しのまま、一瞬だけこの世に取り残される。その一瞬を、誰かの刃が貫けば。

 

 演算完了。必要なのは、蛇の目に映らずに、その胸へ刃を届かせることだ。

 

 ――命が薄いものを、蛇の目は見落とす。

 

 ならば、命をもっと薄くすれば。

 

◇

 

 崩れた壁際で、シエルが顔を上げた。胸の穴からは、まだ血が流れている。その目が僕を見て、僕の次の行動を推定した。

 

「……だめ」

 

 声になっていなかった。

 

「だめ、有波くん、それは、だめ……っ、ありませんって、言った、のに……!」

 

 ――ありません。

 

 さっき、正門の前で僕はそう答えた。それは嘘だった。合理的な、嘘だった。

 

 起動の前に、最後の記録を残しておく。

 

 ――蛇。器・遠野四季。死の点を突かれ、機能停止。魂、残存。

 

 ――蛇の魂、縁の糸を伝って遠野志貴へ移動を開始。

 

 ――上級生・シエル。胸部貫通、戦闘一時不能。

 

 ――真祖。命の線を断たれ、生存の確率、低。

 

 ――遠野志貴。死の点を突き、消耗。蛇に手首を掴まれている。

 

 ――エラー累計、十件。原因はすべて不明。

 

 ――カレンダー。日付のない枠。カレー、二回目。

 

 最後の一行は、任務と何の関係もない。消す時間はなかった。

 

 ――過負荷駆動。

 

 ――第三段階。深度、解放。

 

◇

 

 燃えた。体の中の何かが。毛細血管ではない。筋でも骨でもない。魔術回路だ。

 

 背中に、腕に、脚に、胸に、網の目のように刻まれた銀色の線。長老たちが胎の中から書き換え続けてきた回路が、一本ずつ、燃料として燃えていく。

 

 心臓が跳ねた。一度、二度。それから脈が速くなっていく。速く、速く、数えられないほどに。

 

 回路が燃えるたびに、何かが瞼の裏を過ぎていく。

 

 ――炉の赤い光。石の天井。冷たい床。金属の盆。

 

 ――嗄れた声。何人もの老いた声。カナリアは、歌わない。カナリアは、鳴かない。誰も、温めない。誰にも、温められない。

 

 ――ある朝、声がひとつ減る。次の朝、またひとつ。最後の長老の瞼を閉じる手。眩しい外の光。

 

 ――それから。

 

 ――学食の窓際の長机。いちばん辛いカレー。仲間ですね、とはしゃぐ声。

 

 ――三重に巻かれた卵焼き。星の形のケチャップ。花の形の人参。

 

 ――茶道部の、障子越しの夕日。手首の上に重ねられた手のひら。三十六度二分。

 

 ――ドアノブに掛けられたスープ。早く元気になってください、という丸い字。

 

 ――冷蔵庫の扉の空欄。カレンダーの、いつか。

 

 十八年分の記録が、回路と一緒に燃えていく。最後の二週間分だけが、燃え残るように、いつまでも瞼の裏に残っていた。

 

 世界が止まった。

 

 粉塵の一粒一粒が、宙に静止している。崩れかけた瓦礫が落ちる途中で止まり、蛇の指先の雷が、指先から離れる途中で止まっている。

 

 ――カナリアは、歌わない。

 

 頭の奥で、嗄れた声がした。

 

 ――カナリアは、鳴かない。

 

 ――カナリアは、誰も、温めない。

 

 ――カナリアは、誰にも、温められない。

 

 ――カナリアは、誰よりも先に、死ぬ。

 

 ――蛇の心臓の、すぐ前で。

 

 ああ、設計通りだ。

 

 縁を蹴った。止まった世界の中を落ちていく。

 

 蛇の目がこちらを向いた。向いただけだった。焦点が合っていない。蛇の目には見えていないのだ。命を燃やし尽くしかけた小鳥は、蛇の目には、もうただの影にすぎない。

 

 蛇の指先の雷が、宙に止まったまま僕の頬の横を過ぎる。瓦礫を蹴って、一歩。蛇の胸の前。

 

 刃を突き立てた。

 

◇

 

 蛇が僕を見た。今度は焦点が合っていた。胸に突き立った刃の、柄の紋章を――蔦と牙を見ていた。

 

「――貴様」

 

 ――共振開始。

 

 一。

 

 刃の芯が鳴った。蛇の魂は、器に深く根を張っている。ヴローヴの鎖よりもずっと深く、ずっと古く。八百年分の、転生の根が。

 

 二。

 

 蛇の手が、刃を握る僕の右手首を掴んだ。雷だ。腕の中を、焼けるものが走る。構わない。

 

 三。

 

 四。

 

「……その紋章。北の森の、刃打ちども」

 

 蛇が僕の耳元で囁いた。腰から下を失った体で、それでも愉快そうに。

 

「残り滓が、まだ、生きていたとはな。……いや、違う。君は、あの夜、扉の向こうにいた。老いぼれ四人と、腹の膨れた女。その、腹の中の――」

 

 蛇の目が細くなった。

 

「キャーンズが、腕を裂いてまで守った、あの、小さな鼓動か」

 

 五。

 

「皮肉なものだ。あの娘が守ったものが、今、私の胸に、刃を突き立てている」

 

 根が一本剥がれる。

 

 六。

 

 七。

 

 回路が燃える。背中の銀色の線が、一本、また一本と焼き切れていく。

 

 八。

 

 九。

 

 ――そのとき、何かが来た。

 

 雷に焼かれた右の手首から。脊髄の手前で書き換えられるはずの何かが、書き換えられずに、まっすぐ頭の中へ。

 

 ――何だ。これは何だ。

 

 熱いのではない。冷たいのでもない。数値ではない。右の手首が焼けているという事実が、事実のまま、頭の中に突き刺さってくる。

 

 十。

 

 回路の書き換えが追いつかない。第三段階が回路を燃やしすぎて、痛覚を出力に変換する術式そのものが焼き切れている。

 

 背中から。右の脇腹から。左肩から。十三日分の傷のすべてから、書き換えられずに。

 

 何かが。何かが。何かが。

 

 ――何だ、これは。

 

 知らない。データにない。いや、知っている。語義としては知っている。人間が体の損傷を知覚するときの。声を上げて泣いたり、顔をしかめたりするときの。

 

「……い」

 

 口から何かが漏れた。

 

「……いた、い」

 

◇

 

 十一。

 

 出力が落ちる。痛覚を出力に変えていた術式が焼けたのだ。今の僕の体は、ただの、壊れかけた人間の体だった。

 

 蛇の手が、僕の手首を押し返してくる。刃が蛇の胸から抜けかける。

 

 十二。

 

 痛い。

 

 痛い。

 

 痛い。

 

 手順にない。痛みを出力に変換できない場合の手順は、ない。長老たちはそれを想定していなかった。

 

 演算が止まる。手順がない。なら――なら、どうする。

 

 ――使われるのと、選ぶのは、違うんだよ。

 

 街灯の下の、真祖の声がした。なぜ今、その声が。演算の結果ではない。記録の再生でもない。ただ、聞こえた。

 

「――有波くんっ!」

 

 瓦礫の向こうから、シエルの割れた声がした。僕の名前を呼んでいた。カナリアではなく。

 

 十三。

 

 痛い。それは、この体がまだ生きているということだ。壊れていく部品は痛みを感じない。痛みを感じるのは、生きている人間の体だけだ。

 

 右手に力を込める。術式でも回路でも、手順でもない。ただ込める。

 

 痛い。

 

 痛い。

 

 それでも、込める。

 

 刃が一センチ戻る。蛇の雷が手首を焼いて、二センチ押し戻される。切っ先が、蛇の胸の傷口から覗く。

 

 足りない。壊れかけた人間の腕の力では、八百年の蛇に届かない。

 

◇

 

 ――持っていけ、小僧。

 

 声がした。雪の降る穴の底で聞いた声だ。

 

 ――その冷たさは、おれには、もう、要らぬ。

 

 ――その刃で、あれを断てるなら。

 

 刃の芯の、さらに奥に、永久の冬が眠っている。

 

 剥がして、封じる。そこまでが設計上の用途で、封じたものを外に出すことは想定されていない。設計にない。手順にない。だから――

 

 ――使われているのか。選んでいるのか。

 

 街灯の下で、真祖にそう訊かれた。判断材料が不足しています、と僕は答えた。

 

 今、判断材料は揃っていた。長老たちの手順に、この先はない。長老たちの声も、この先を知らない。この先に進むのは、誰の手順でもない。

 

 ――僕が、選ぶ。

 

 封印に隙間を開ける。全部ではない。糸一本ぶん。それだけで、刃の芯が軋んだ。

 

 冬が流れ出した。

 

 刃の芯から切っ先へ、切っ先から蛇の胸の傷口の奥へ。そして逆向きに、刃の芯から柄へ、柄から僕の右手へ。

 

 白く凍る。蛇の胸が、刃が、僕の手が、僕の手首を掴んでいた蛇の指が、ひとつの白い氷の塊になって繋がる。離れない。

 

「――貴様、その冬は……っ!」

 

 蛇が叫んだ。

 

 すぐそばの瓦礫の上で、遠野志貴が何かを叫んでいた。壁際では、胸に穴を開けたままのシエルが身を起こそうとしている。二人の声が遠い。氷の軋む音の向こうで。

 

 雷が氷の中でぱちぱちと弾けて、散っていく。凍りついた腕を、蛇はもう引けない。僕も引けない。刃はもう、どちらの力でも動かない。切っ先は、蛇の胸のいちばん深いところで止まったままだ。

 

 冷たい。右手が冷たい。

 

 違う。これも、痛い、だ。

 

 凍っていく指の一本一本が痛い。皮膚がひび割れていくのが痛い。骨の芯まで冷えていくのが痛い。冷たいは、痛い。初めて知った。

 

「――っ、あ、ぁ、あ……!」

 

 声が出ていた。叫んでいた。僕が。

 

 それでも刃の芯は鳴り続けていた。凍りついて一ミリも動かない刃が、蛇の魂の根に触れたまま、共振を続けている。

 

◇

 

 十四。痛い。

 

 十五。痛い。

 

 十六。痛い。

 

 根が剥がれる。剥がれる。剥がれる。

 

 痛みのひとつひとつに名前がない。熱いでも、冷たいでもない。ただ痛い。十八年分、数値の向こうに押しやられていたものが、今、一度に全部帰ってきている。

 

 蛇が叫んだ。八百年分の何かが軋む声で。

 

 十七。

 

 最後の根が剥がれた。

 

 そして同時に、蛇の魂から上へ、遠野志貴へと伸びていた細い糸を、凍りついた刃の、切っ先の共鳴だけを跳ね上げて――断った。

 

 剥がれた。遠野四季の体から、何かが立ち上った。形はなかった。色もなかった。ただ刃の芯が、そこにあると叫んでいた。

 

 剥き出しの、蛇の魂。行き場を失い、どこにも逃げられずに、一瞬だけこの世に取り残されている。

 

 縁を断たれて、遠野志貴の手首を掴んでいた男の指がほどけた。

 

「――シエル先輩!」

 

 叫んだ声が、割れていた。

 

 崩れた壁際から、白い光が走った。胸に穴を開け、壁に背を預けたまま、シエルが腕を振り抜いていた。白く燃える、一本の刃。十三年ずっと、この一瞬のために研いできたもの。

 

 ――刃と、これと、遠野くんの目。

 

 ――三つとも、蛇を、終わらせるためのもの。

 

 ――どれかひとつでも、届けば。

 

 遠野志貴の目は、もう死の点に届いていた。僕の刃は今、縁の糸に届いた。そして、三つ目が。

 

 白い光が、何もない空間を貫いた。剥き出しの、蛇の魂を。

 

 音はしなかった。ただ刃の芯の中で、八百年鳴り続けてきた細く、冷たく、ねじれた共鳴が――

 

 ぷつり、と途切れた。

 

◇

 

 遠野四季の上半身が、瓦礫の上に崩れ落ちた。その重みに引かれて、蛇の胸と刃と僕の手とを繋いでいた氷が、音を立てて砕ける。刃が凍った指の間から外れて、瓦礫の上に転がった。右手は柄を握った形のまま、白く凍りついていた。

 

 遠野四季の唇が、最後に微かに動いた。

 

「……ああ。これが」

 

 囁くような声だった。

 

「これが、死、か」

 

 その目は最後に見開かれていた。八百年、他人の命の糸を視てきた目が、初めて自分の終わりを視ていた。糸が切れるのとは違う、何かを。

 

 目が閉じて、もう二度と開かなかった。

 

 ――蛇、消滅。零時二十七分。

 

 記録はした。そこで膝が折れて、瓦礫の上に倒れた。

 

 痛い。どこもかしこも痛い。背中が、脇腹が、左肩が、凍った右手が、胸が。胸がいちばん痛い。

 

 心臓が速すぎる。速すぎて、もう脈として数えられない。第三段階は止まらない。一度起動したら、心停止まで。設計通りだ。

 

 カナリアは、蛇の心臓の前で、誰よりも先に、死ぬ。

 

 蛇は死んだ。僕のほうが、少しだけ遅かった。設計と、少しだけ違う。

 

 遠野志貴が、解放された手首を押さえて瓦礫の上で身を起こしていた。僕を見て、何かを言おうとしていた。

 

「――遠野くん」

 

 崩れた壁際から、シエルの声がした。胸の穴を押さえ、壁に手をついて立ち上がりながら。

 

「蛇を、仕留めたのは、わたしです」

 

 はっきりとした声だった。

 

「埋葬機関の、代行者が、教会の聖典で、蛇の転生を、断ちました。……そう、覚えておいてください。誰に、訊かれても」

 

 遠野志貴はシエルを見て、それから、瓦礫の上に倒れた僕を見た。何かを悟ったような顔で。

 

「……わかった」

 

 短く、そう言った。

 

 ――上級生・シエル、蛇の討伐を自身の功として申告。理由の推定……僕の存在を、教会から隠すため。

 

 記録できた。まだ、できる。

 

◇

 

 頭上で何かが光った。月の共鳴だ。消えかけていた灯が、一気に燃え上がる。蛇に奪われていたものが、今、あるべき場所へ還っていく。

 

 崩れた渡り廊下の縁で、白い影が身を起こしていた。裂けていた腹が塞がっていく。紅い目が開いて、瓦礫の底の僕を見下ろした。

 

「……部品くん」

 

 その声はひどく遠かった。

 

 遠野志貴が、ナイフを握ったまま瓦礫の上を這うようにして近づいてきて、僕の傍らに膝をついた。

 

「有波! おい、有波!」

 

 肩を揺さぶられる。痛い。

 

「……お前の線、全部、切れかけて……」

 

 遠野志貴の声が震えていた。その目には見えているのだろう。僕の体のどこもかしこもが、終わりに向かってほどけていくのが。

 

 満月が、少しずつ色を取り戻していく。地下で工房の結界がほどけていくのだ。蛇がいなくなって、満月の力を集める理由がなくなったから。

 

 崩れた渡り廊下の縁から、真祖がふわりと瓦礫の底に降りてきた。遠野志貴の隣に。紅い目が僕を見下ろしていた。何かを確かめるように。僕の体の中の、燃え続けているものを。

 

「……まだ、燃えてる」

 

 真祖が呟いた。意味はわからなかった。推定する力が、もう残っていなかった。

 

「――有波くん!」

 

 誰かが瓦礫の上を這ってくる音がした。シエルだった。胸に穴が開いたまま、瓦礫に手をついて、膝で這ってくる。

 

 その胸の穴が塞がっていない。塞がる気配がない。

 

 蛇が死んだからだ。世界はもう、シエルの魂を蛇のものだと思わなくなった。シエルはもう、死ねない体ではない。

 

 シエルが僕の頭を膝に乗せた。

 

「有波くん、有波くん、有波くん……っ」

 

 ぽたり、と頬に何かが落ちた。

 

 温度は測れなかった。測定の機能が、もう応答しない。

 

 ――カナリアは、誰にも、温められない。

 

 そう作られている。頬に落ちたものも、ただの液体だ。数値が出てこないだけの。

 

 ――そのはずだった。

 

 シエルの手が震えていた。僕の頬に触れた指先が、血で濡れていた。シエル自身の、胸の穴から流れた血で。その血が止まらない。この上級生の体は、もう何も元には戻さない。

 

「嘘つき……ありませんって、言ったのに……っ」

 

 嘘をつきました。そう言おうとしたが、声が出なかった。

 

 シエルの手が、僕の胸の上に置かれる。心臓の上に。手のひらの、そこだけが、数値ではない何かを。ほんの少しだけ。

 

 ――何だ、これは。

 

 推定する時間はなかった。

 

 速すぎる鼓動が、少しずつ、少しずつ遅くなっていく。とくとくとく、と。

 

 十三年前の雪の夜、扉の向こうでこの人が聞いた、小さな、速い鼓動。この人が蛇の手の中で、自分の腕を裂いて守った鼓動。それが今、この人の手のひらの下で止まろうとしている。

 

 痛い。

 

 胸が痛い。心臓が止まりかけているから。でも、それだけではない気がした。理由は推定できなかった。

 

 視界が暗くなっていく。シエルの顔が滲んでいく。

 

 最後にひとつだけ、記録を呼び出した。壁のカレンダーの、日付のない枠に書かれていたこと。

 

 ――カレー(二回目)。有波くん、全快祝い。

 

 ――好きなもの、今度こそ、見つける。

 

 それから、冷蔵庫の扉の表。

 

 ――痛み。空欄。

 

 今なら。今なら、あの欄に書けるのに。

 

 とくん、と。

 

 最後の鼓動がひとつ。

 

 それきり、何も聞こえなくなった。

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