―――止まった。
わたしの手のひらの下で。
とくん、と、ひとつ。
それきり。
◇
有波くんの胸の上に、両手を重ねていた。さっきまで速すぎて数えられないほどだった鼓動が、何も伝わってこない。何も。
「……有波、くん」
呼んでも、答えない。灰青の目は半分だけ開いたまま、どこも見ていなかった。右手は何かを握っていた形のまま白く凍りついて、指の一本一本に霜がびっしりと張りついている。
「有波くん。……ねえ。有波くん」
揺さぶると、首が力なく揺れた。
秘蹟を流し込む。わたしの手のひらから淡い光が、有波くんの胸に染み込んでいく。染み込んで、染み込んで、どこにも届かない。光は有波くんの体の中で行き場を失って、散っていった。体の中に、光を運ぶための道がもうないのだ。
背中の、あの銀色の線。網の目のように刻まれていた回路が、ほとんど焼き切れている。
燃やしたのだ。この子は、自分の体の中の道という道を、全部燃やしてしまったのだ。蛇の心臓の、すぐ前で。
屋上へ続く階段の踊り場で、ぼそぼそした四角い栄養食を齧っていた無口な転校生。いちばん辛いカレーを顔色ひとつ変えずに食べて、仲間ですね、とわたしが喜んだら、黙って首を傾げていた。茶筅を一度見ただけで、完璧に振ってみせた。弁当箱をパッキンまで外して、ぴかぴかに洗って返してくれた。毎日、一日も欠かさずに。
ホテルの非常階段で、蒸気の向こうからわたしの背後の死者に刃を投げたのも、この子だった。穴の底では、槍に肩を貫かれたまま、祖の胸に刃を突き立てた。三日もひとりで、あの何もない部屋の床に倒れていた。
温度は六十六度です、と言った。蛇に敵対する存在を減らす必要性はありません、と言った。一度もかけたことのなかった番号に、電話をかけてくれた。
ありません、と嘘をついた。
十三日。たった十三日。
「……だめ」
声が震えた。
「だめ。だめ。だめ。……ねえ、起きて。起きてよ。カレー、二回目、作るんだよ。全快祝い、するんだよ。好きなもの、今度こそ、見つけるって、書いたのに……!」
胸が痛かった。ロアの雷に貫かれたわたしの胸の穴が、塞がらない。十三年間、どんな傷も朝には消えていたのに、塞がらない。血が止まらない。
――ああ。わたしはもう、死ねる体なんだ。ロアが死んだから。
十三年間、あれほど願い続けてきたものが、今、この胸にある。それなのに、ちっとも嬉しくなかった。
◇
「先輩!」
遠野くんが瓦礫の上を駆け寄ってきた。胸の包帯が真っ赤に染まっている。夕方の傷が開いているのだ。
「有波は……」
答えられなかった。
遠野くんは有波くんの顔を見て、それから眼鏡のない目で、有波くんの体のどこかをじっと見た。その目が見開かれる。
「……線が」
遠野くんが呟いた。
「線が、まだ、ある。……切れてない。死んでない、先輩。こいつ、まだ、死んでない」
息が止まった。
「でも、どんどん、増えてる。体中に、線が。……内側から、燃えてる。止まってない。まだ、燃え続けてる」
そこまで言って、遠野くんの体がぐらりと傾いた。
「遠野くん!」
胸の包帯は真っ赤だった。昨夕、四季くんの体に刺された傷が、ナイフを振るうたびに開いていたのだ。遠野くんは瓦礫の上に膝から崩れて、そのまま横向きに倒れた。意識がない。
第三段階は、心停止まで止まらない。
心臓が止まっても、まだ止まらないのだ。回路の燃え残りが、有波くんの命を最後の一滴まで燃料にして、体の内側で燻り続けている。心臓を動かしても、燃えている限り、また止まる。
「――止めないと」
頭上から声が降ってきた。
崩れた渡り廊下の縁の上に、月の光を背負って、あの人が立っていた。真祖の姫、アルクェイド・ブリュンスタッド。
ロアに奪われていた力が還っている。その輪郭が、夜の中で淡く光っていた。白いセーターの上を走っていた何本もの細い赤い線――ロアの爪があの人の命の線をなぞって断った跡が、ひとつずつ消えていくのが見えた。
ついさっきまで、あの人は確かに死にかけていた。遠野くんの腕の中で、目を閉じて。ロアが完全に死んで、ロアが八百年かけて盗んだものが全部あの人に還ったから、あの人はもう一度目を開けたのだ。
あの人はふわりと瓦礫の底に降りてきて、まず、倒れた遠野くんの傍らに膝をついた。血の滲んだ胸に手を伸ばしかけて、止める。紅い目が一瞬だけ遠野くんの首筋を見て、すぐに逸らされた。
唇を噛んで、遠野くんの頭の下に、自分の白いセーターの袖をそっと敷く。それから有波くんの傍らにしゃがみ込んで、紅い目でその体をなぞった。
「……燃えてる。この子、自分で自分を、燃やしてる」
「わかってます」
声が刺々しくなった。この人に向ける声は、いつもそうなってしまう。
「わかってるなら、止めて。……あなたなら、できるでしょう。あなたの力なら」
「できないよ」
あの人は、あっさりと言った。
「わたしの力は、世界に触るものだから。人間みたいに、世界から切り離されてるものには、直接、触れないの。……この子の体の中の火は、わたしには、消せない」
目の前が暗くなった。
「――でも」
あの人の目が、瓦礫の上に転がっていた黒銀の刃を見た。有波くんの手から離れた刃。その表面を、白い霜が覆っている。
「この子の周りなら、触れる」
「……どうして」
わたしは訊いた。
「どうして、あなたが、この子を」
あの人は少しだけ首を傾げた。
「この前の夜ね、この子と、ちょっとだけ、話したの。……使われてるの、それとも、選んでるの、って訊いたら、わかんないって言った」
あの人は、有波くんの顔を見下ろした。
「でも、さっき。この子、痛いって、叫びながら、刃を押し込んでた。……あれは、誰かに使われてる子の、顔じゃなかったよ」
紅い目が、少しだけ柔らかくなった。
「ちゃんと、自分で、選んでた。……だから、まだ、死なせたくないの。やっと、選べるようになった子なんだもん」
◇
あの人は刃を拾い上げた。素手で。霜が指を白く凍らせていくのを、あの人は気にしなかった。
「ヴローヴの冬。……ここに、まだ、眠ってる」
刃の芯を覗き込むように、あの人は目を細めた。
「……少しだけ、減ってる。この子、使ったんだね、さっき。蛇を、離さないために」
あの人は、有波くんの凍りついた右手を見た。
「封じるだけの刃なのに。外に出すなんて、きっと、誰にも、教わってないのに」
その目が、また柔らかくなった。
「……ほんとに、自分で、選んだんだ」
あの人は、刃の切っ先を有波くんの胸のすぐ上にかざした。
「これを、外に出して。この子の周りだけ、冬にする。……ほんとの冬。時間が止まったみたいに、何もかもが、凍りつく冬。そうすれば、この子の中の火も、燃えるのを、やめる」
「そんなことしたら、有波くんも、凍って――」
「凍るよ。でも、死なない。……冬の間は、何も、進まないから。燃えるのも、壊れるのも、死ぬのも」
あの人はわたしを見た。
「その間に、あなたが、この子の中の道を、直すの。燃えちゃった道を。……できる?」
道を直す。焼き切れた回路を繋ぎ直す。
教会の秘蹟ではできない。秘蹟は傷を塞ぐもので、回路そのものを組み直すものではない。
それができる術を、わたしはひとつだけ知っている。わたしの頭の中にある。十三年前、わたしの体に棲みついていた蛇が置いていったもの。人の魂を別の器に移し替えるための、人の体の中の道を思うままに書き換えるための――ロアの魔術。
あの人とロアにしか使わないと決めていた。十三年間、一度も破らなかった。
ロアの知識で誰かを救うなんて。そんなことをしたら、わたしはあの蛇の力を、自分のものとして認めてしまう。あの夜、わたしの手が何をしたのかを、この手で上書きしてしまう。
――それでも。
――私の術を、使うか、エレイシア。
頭の奥で声がした。もうこの世のどこにもいないはずの、あの声。
――君の手が、私の知識で、誰かを救う。……滑稽だな。あの夜、その同じ手で、あの一族を、ひとりずつ――
黙って。あなたはもういない。あなたの声は、もう、ただのわたしの記憶だ。わたしの記憶なら、どう使うかはわたしが決める。
「……できます」
わたしは言った。
「やります」
◇
あの人が刃の柄を両手で握って、目を閉じた。刃の表面の霜が震える。
それから、刃の芯の奥から白いものが溢れ出した。冷気。凍てついた永久の冬。ヴローヴの原理。
溢れ出した冬は、あの人の手のひらの下でぴたりと止まって、広がらなかった。あの人が止めているのだ。世界に触れる真祖の力で、この冬が触れていい世界の範囲を、ほんの半径二メートルに書き換えている。
有波くんの周りの瓦礫が、白く凍りついた。空気が凍り、舞っていた粉塵が凍って、きらきらと宙に止まる。有波くんの髪に霜が降りる。睫毛に。唇に。
白い。白くて静かで、雪だ、と思った。十三年前のあの夜の、里の門の前の。あのとき雪の上に倒れていたのは、わたしだった。
今は。
「……今だよ」
あの人が言った。額に汗が浮いていた。
「長くは、もたない。……この冬、すごく、重い。あの人、こんなもの、何百年も、背負ってたんだ」
わたしは有波くんの胸に両手を置いた。冬の中へ手を差し入れた瞬間、指が凍った。構わない。
目を閉じる。頭の奥の、いちばん奥。十三年間鍵をかけて閉じ込めてきた、蛇の知識の扉を――開けた。
◇
見えた。有波くんの体の中の道が。ずたずたに焼き切れている。
背中から腕へ、脚へ、胸へと網の目のように張り巡らされていたものが、ほとんど炭になっている。ところどころに、まだ細く残っているものがある。
それを繋ぐ。蛇の術式で、焼け残った一本と焼け残った一本を、わたしの魔力で編み直す。
一本。二本。三本。
――気持ち悪い。
頭の中で、蛇の知識が蠢く。この術式を、蛇は何百回も使ってきた。人の魂を器から器へ移し替えるために。人の体を、自分好みに作り変えるために。あの夜も、わたしの体をそうやって。
吐き気が込み上げる。構わない。
四本。五本。十本。
道を編むたびに、その道の奥のものが指先に触れてくる。
――赤い光。炉の光。石の天井。冷たい床。
――嗄れた声。何人もの老いた声。
――カナリアは、歌わない。カナリアは、鳴かない。カナリアは、誰も、温めない。カナリアは、誰にも、温められない。カナリアは、誰よりも先に、死ぬ。
――毎朝。毎晩。何百回も、何千回も。
――小さな手が、金属の盆から灰色の食べ物を掬っている。ひとりで。隣には誰もいない。誰も名前を呼ばない。
――ある朝、声がひとつ減る。次の朝、またひとつ。
――最後の声が途切れた朝。小さな、いや、もう大きくなった手が、冷たくなった老人の瞼を閉じる。何の表情もないまま。
――それから、ひとりで地下工房の扉を開けて、外の眩しい光の中へ。
有波くんの記憶だった。回路に刻み込まれていた、十八年分の。
息ができなかった。
この子は、こんなところで育ったのだ。わたしがあの扉の向こうに残してしまった小さな鼓動は、こんなに寒いところで、ひとりで。
――温めればお前は扉を開ける。温められればお前は刃を鈍らせる。
――我らは雪の中の子供を温めて死んだのだから。
雪の中の子供。わたしだ。あの人たちは、わたしを温めて死んだ。だからこの子に言い聞かせたのだ。誰も温めるな、と。誰にも温められるな、と。
この子の体温の低さも、温かいものを温かいと感じられないことも、全部、あの夜のわたしのせいだった。
――ごめんなさい。
声にはしなかった。しても届かない。届かせるなら、別の方法しかない。
――なら。なら、わたしが。
片手を胸から離して、凍りついた有波くんの右手を包んだ。柄を握った形のまま、指の一本一本に霜をまとった手を。
息を吹きかける。白い息が、霜の上ですぐに凍る。それでも吹きかける。温めるな、と言われてきた手を。温められるな、と言われてきた手を。わたしの、この手で。
もう片方の手で編む。編む。編む。
それから、編み直した道に流し込む。わたしの魔力を。わたしの命を。十三年間、蛇がこの世にいる限り尽きることのなかった、わたしの中の底なしの泉を。
流し込む。流し込む。流し込む。
有波くんの体の中を、わたしの魔力が流れていく。編み直したばかりの細い道を伝って、背中から肩へ、肩から腕へ、腕から指先へ。凍った体の奥の奥まで、焼け焦げた道の一本一本に、灯りを点していくように。
――胸が、痛い。
塞がらない胸の穴から、血が流れ続けている。魔力を流すたびに、その流れが速くなる。当然だ。わたしはもう、死ねる体なのだから。命を流し込めば、その分だけわたしの命は減っていく。
「……シエル」
あの人の声がした。冬を支えたまま、額に汗を浮かべて。
「あなたも、死ぬよ。……そんなに、注いだら」
「知ってます」
目を閉じたまま答えた。
「やっと、死ねるようになったんです、わたし。十三年、ずっと、それだけを、願ってた」
こんなときに、笑ってしまった。
「……でも、今は、死にません」
流し込む。
「この子に、カレー、作らなきゃいけないから」
流し込む。
「全快祝い、するんです。……好きなもの、今度こそ、見つけてあげるって、約束、したから」
約束はしていない。この子は、約束なんてしてくれなかった。だからわたしが勝手に決めた。意味は、わたしが決める。
◇
どれくらいそうしていたのか、わからない。
指の感覚がなくなっていた。凍って。胸の感覚も、なくなっていた。血が流れすぎて。
目の前が白い。冬の白さなのか、わたしの意識が白くなっているのか、わからない。ただ、手のひらの下の有波くんの胸に、全部の意識を向けていた。
――とくん。
聞こえた。小さな、とても小さな。
――とくん。
凍った胸の、奥の、奥で。
――とくん。とくん。
速い。小さくて、速い。とくとくとく、と。
あの夜の、扉の向こうの。雪の夜の底で、何も知らずに鳴っていた、あの鼓動。
あの夜、わたしの手は奪った。暖炉の前でスープを掬ってくれた人から。額を拭ってくれた人から。黒パンを半分にしてくれた、小さな男の子から。この手が、全部奪った。扉の前で、爪を立てることしかできなかった。
今夜、同じ手が――同じこの手が、あの扉の向こうの鼓動を、もう一度鳴らしている。
許されるわけじゃない。何も取り戻せるわけじゃない。あの里の人たちは、もう誰も帰ってこない。
それでも。それでも、この鼓動だけは。
「――っ」
声にならなかった。涙が凍った頬を伝って、有波くんの胸の上に落ちた。落ちた端から凍っていった。
「……止めるよ、冬」
あの人が言った。
「火は、もう、消えてる。……道も、繋がってる。あとは、この子次第」
刃の芯へ、冬が吸い込まれていく。凍っていた空気がほどけて、宙に止まっていた粉塵が、またゆっくりと舞い始める。有波くんの睫毛の霜が溶けて、しずくになって頬を伝った。
――とくん。とくん。とくん。
鼓動が少しずつ、ゆっくりになっていく。速すぎず、遅すぎず。人間の速さに。
◇
有波くんの瞼が動いた。
灰青の目がゆっくりと開いた。どこも見ていなかった目が、わたしを見た。
「……せん、ぱい」
掠れた声だった。凍った喉から、無理やり押し出したような。
「……有波、くん」
有波くんの眉が、微かに寄った。この子の顔にそんな形が浮かぶのを、わたしは一度も見たことがなかった。
「……痛い、です」
有波くんが言った。
「全部、痛い、です。……背中も。脇腹も。肩も。手も。胸も」
灰青の目の端に、何かが滲んだ。滲んで、溢れて、こめかみのほうへ一筋流れていった。
有波くんは、それが何なのかわからないように、瞬きをした。
「……これ、は」
もう一筋流れる。また一筋。
「……僕、は」
「うん」
わたしは有波くんの頬に、凍えた手のひらを当てた。流れていくものを指先で拭う。
温かかった。
「痛いね」
声がぐしゃぐしゃになった。
「痛いよね。……生きてるから。生きてるから、痛いんだよ」
有波くんは泣きながらわたしを見ていた。自分が泣いていることを、まだ知らないまま。
それから、ほんの少しだけ唇が動いた。その目が、わたしの胸の塞がらない穴を見た。
「……先輩、も」
「え……?」
「先輩も、痛い、ですか」
息が止まった。この子が、初めて、誰かの痛みを訊いた。
「……痛いです」
泣きながら、わたしは笑った。
「すごく、痛いです。……おそろい、ですね」
有波くんはしばらく、何かを確かめるようにわたしの顔を見ていた。
「……記録、します」
小さくそう言って、有波くんの目はまたゆっくりと閉じた。
鼓動は止まらなかった。とくん、とくん、と、わたしの手のひらの下でずっと鳴っていた。
あの人が刃を瓦礫の上にそっと置いて、立ち上がろうとして、ふらついた。倒れたままの遠野くんを見下ろす。紅い目が、遠野くんの胸の、血の滲んだ包帯を見ていた。見ないようにしようとして、見てしまって、あの人は唇を噛んだ。血が滲むほど強く。
「……ねえ、シエル」
あの人は遠野くんから目を逸らして、わたしのほうを見た。
「ロアが死んで、わたしの力、戻ってきたの。全部。……戻ってきた分だけ、喉の渇きも、戻ってきた」
あの人は笑った。軽い、いつもの調子で。肩が震えていた。
「もう、志貴の隣には、いられない。……近すぎるから」
「……」
「志貴はね、さっき、見てたの。わたしが、ロアに線を切られて、死ぬところ」
あの人は、遠野くんの寝顔を見下ろした。
「だから、それで、いいの。……志貴の前で、わたしは、一回、ちゃんと、死んだから」
「……起きたら、遠野くんは、きっと、訊きますよ。あの人は、って」
「うん」
あの人は少しだけ、困ったように笑った。
「その時は、本当のことを、言って。……蛇に線を切られて、消えたって。それは、本当だから」
「……全部は、本当じゃない」
「全部じゃなくて、いいの。……そうしないと、志貴、追いかけてくるから。あの子、そういう子だから」
紅い目が、まっすぐにわたしを見た。
「あなたにしか、頼めないの」
あの人は遠野くんの傍らに、もう一度だけしゃがみ込んだ。眠っている顔を見下ろして、前髪にほんの少しだけ、指先で触れる。首筋には触れなかった。
それから立ち上がった。
「ばいばい、シエル。……その子のこと、ちゃんと、見ててあげてね」
白い影が、崩れた渡り廊下の上へ跳んだ。夜明け前の、まだ暗い空の中へ。満月のほうへ。
そして、見えなくなった。
◇
そこから先のことは、途切れ途切れにしか覚えていない。
体から力が抜けていった。有波くんの胸の上に崩れ落ちそうになったわたしの体を、誰かが後ろから支えた。遠野くんではなかった。
薄手のコートに、明るい色のゆるく巻いた髪。左腕を、首から白い三角巾で吊っていた。
「……ほんと、馬鹿な人」
ノエルだった。
三日前の夜、公園でマーリオゥの糸に操られて、腕を折られたあの子。教会の病院から姿を消したきり、どこにいたのかもわからなかった。いつからそこにいたのだろう。
ノエルは片手で自分のコートを脱いで、わたしの肩にかけた。それから、無事なほうの手のひらをわたしの胸の穴に当てた。秘蹟の淡い光。わたしが教えた、下手くそな秘蹟。
「死なせないわよ」
ノエルは、わたしの顔を見ずに言った。
「アンタは、生きて、ちゃんと、その子の顔、見てなさい。……それが、アンタへの、いちばんの罰なんだから」
声が震えていた。
瓦礫の向こうで、誰かの舌打ちが聞こえた。黒い外套の、小柄な影。マーリオゥだった。崩れた渡り廊下と、瓦礫の上の遠野四季の体と、それから霜の消えかけた黒銀の刃とを、順番に見ていた。
「……なんにも、残っちゃいねえ」
低い声だった。
「蛇の魂も。祖の原理も。……全部、消えちまった」
マーリオゥの目が有波くんを見た。殺気があった。
「てめえ――」
「やめなさい、坊や」
ノエルが振り返らずに言った。
「蛇を仕留めたのは、シエルよ。埋葬機関の、第七位。教会の聖典で、転生を断ったの。……遠野くんも、そう証言する。報告書には、そう書くの」
「……あぁ?」
「その子は、巻き込まれただけの、ただの転校生よ。……わかった?」
マーリオゥはしばらくノエルの背中を睨んでいたが、やがて、また舌打ちをした。
「……ブタノエルのくせに」
足音が遠ざかっていった。
「マーリオゥには、原理血戒は、使い切って消えたって、報告しとく。……本当のことだし」
ノエルは刃のほうをちらりと見た。霜はもう、ほとんど消えていた。ヴローヴの冬は、有波くんの周りで使い果たされたのだ。
「だから、その子は、教会には、何の関係もない。ただの、転校生。……わかった?」
「……ノエル」
「お礼なんか、言わないでよ」
ノエルは顔を背けた。
「言われたら、わたし、たぶん、アンタのこと、許しちゃうから。……まだ、許してやんないんだから」
罰。そうかもしれない。
生きて、この子の顔を見続けること。この子が痛みを知って、涙を知って、それからきっと、もっとたくさんのことを知っていくのを。わたしが滅ぼした一族の、たったひとりの子が生きていくのを、ずっと。
それは罰だ。きっと、世界でいちばん優しい罰だ。
◇
目を覚ましたとき、空が白み始めていた。
瓦礫の底で、わたしはノエルのコートにくるまって、有波くんの隣に横たわっていた。わたしの右手が、有波くんの左手を握っていた。握っていたのか、握られていたのか、わからなかった。
有波くんは眠っていた。胸がゆっくりと上下している。とくん、とくん、と。
それを確かめてから、わたしは自分の胸に手を当てた。
穴は、ノエルの下手くそな秘蹟で塞がりかけていた。完全には塞がっていない。脈に合わせて、ずきずきと痛む。
痛い。十三年ぶりに、傷が痛いままでいる。
左の前腕に、袖の上からそっと右手を伸ばした。さすろうとして、やめた。痒くなかった。十三年間ずっと、ときどき疼いていた場所が、今は静かだった。
それから顔を上げた。瓦礫の向こうで、遠野くんが身を起こしていた。ノエルの秘蹟が、遠野くんの胸の傷も少しだけ塞いだのだろう。顔色はまだ灰色だった。
遠野くんは眼鏡をかけていた。崩れた渡り廊下を見上げて、それから瓦礫の上を見回す。何かを探すように。誰かを探すように。
「……先輩」
遠野くんの声がした。
「アルクェイドは」
喉が詰まった。
――その時は、本当のことを、言って。蛇に線を切られて、消えたって。
――あなたにしか、頼めないの。
嘘をつくのは得意だ。代行者を何年もやってきた。でも、これは嘘じゃない。全部が本当でもない。
声が出るまでに、ずいぶん時間がかかった。
「……あの人は」
目は逸らさなかった。逸らしたら、全部ばれてしまう気がした。
「蛇に、命の線を、切られて。……消えました」
遠野くんは何も言わなかった。しばらくわたしの顔を見て、それから崩れた渡り廊下の上のほうを見上げた。夜明けの空に、白く薄く、満月がまだ残っていた。
「……そうですか」
それだけ言った。声が震えていなかったのが、いちばんつらかった。
遠野くんはしばらくそうして空を見上げていたが、やがて胸を押さえながら、ゆっくりとこちらへ歩いてきて、有波くんの寝顔を見下ろした。
「……こいつ、線、減ったよ」
遠野くんが言った。
「さっきまで、体中、ぐちゃぐちゃだったのに。……普通の人間くらいに、戻ってる」
「……そう、ですか」
「先輩」
遠野くんはわたしのほうを見ずに言った。
「有波のこと、頼みます。……目が覚めたら、ありがとうって、伝えといてください。俺ひとりじゃ、あいつの魂には、届かなかったから」
遠野くんは少しだけ笑った。ひどく疲れた笑顔だった。
「帰ります。……家で、妹が、待ってるんで」
遠野くんは瓦礫を登って、朝の中へ歩いていった。一度も振り返らなかった。
わたしはその背中に、何も言えなかった。あの人は生きています、とも。ごめんなさい、とも。
――また、ひとつ。
わたしは誰かに、本当のことの半分だけを渡した。今度は、誰かを守るために。
有波くんの手を握り直した。温かかった。ちゃんと、温かかった。
気がつくと、わたしの指先のほうが冷えていた。命を注ぎすぎたのだろう。その冷えた指先が、有波くんの手のひらの中で少しずつ温まっていく。この子の体温で。
――カナリアは、誰も、温めない。
あの子の回路の奥で何千回も繰り返されていた、あの声に、わたしは心の中でそっと答えた。
――嘘つき。
カレンダーの、日付のない枠を思い出す。
――カレー(二回目)。有波くん、全快祝い。
あの枠に、日付を書き込もう。この子が次に目を覚ました日を。
全快にはほど遠い。有波くんも、わたしも。それでもカレーは作ろう。この子が次に目を覚ましたときに、すぐに温められるように。
朝日が、瓦礫の底まで届いてきた。凍っていた最後の霜が、有波くんの髪の上で溶けて、光った。
その光を見ながら、わたしはもう一度目を閉じた。とくん、とくん、と、手のひらの向こうの鼓動を数えながら。