カナリアは歌わない   作:にんら

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冬の揺籃

 ―――止まった。

 

 わたしの手のひらの下で。

 

 とくん、と、ひとつ。

 

 それきり。

 

◇

 

 有波くんの胸の上に、両手を重ねていた。さっきまで速すぎて数えられないほどだった鼓動が、何も伝わってこない。何も。

 

「……有波、くん」

 

 呼んでも、答えない。灰青の目は半分だけ開いたまま、どこも見ていなかった。右手は何かを握っていた形のまま白く凍りついて、指の一本一本に霜がびっしりと張りついている。

 

「有波くん。……ねえ。有波くん」

 

 揺さぶると、首が力なく揺れた。

 

 秘蹟を流し込む。わたしの手のひらから淡い光が、有波くんの胸に染み込んでいく。染み込んで、染み込んで、どこにも届かない。光は有波くんの体の中で行き場を失って、散っていった。体の中に、光を運ぶための道がもうないのだ。

 

 背中の、あの銀色の線。網の目のように刻まれていた回路が、ほとんど焼き切れている。

 

 燃やしたのだ。この子は、自分の体の中の道という道を、全部燃やしてしまったのだ。蛇の心臓の、すぐ前で。

 

 屋上へ続く階段の踊り場で、ぼそぼそした四角い栄養食を齧っていた無口な転校生。いちばん辛いカレーを顔色ひとつ変えずに食べて、仲間ですね、とわたしが喜んだら、黙って首を傾げていた。茶筅を一度見ただけで、完璧に振ってみせた。弁当箱をパッキンまで外して、ぴかぴかに洗って返してくれた。毎日、一日も欠かさずに。

 

 ホテルの非常階段で、蒸気の向こうからわたしの背後の死者に刃を投げたのも、この子だった。穴の底では、槍に肩を貫かれたまま、祖の胸に刃を突き立てた。三日もひとりで、あの何もない部屋の床に倒れていた。

 

 温度は六十六度です、と言った。蛇に敵対する存在を減らす必要性はありません、と言った。一度もかけたことのなかった番号に、電話をかけてくれた。

 

 ありません、と嘘をついた。

 

 十三日。たった十三日。

 

「……だめ」

 

 声が震えた。

 

「だめ。だめ。だめ。……ねえ、起きて。起きてよ。カレー、二回目、作るんだよ。全快祝い、するんだよ。好きなもの、今度こそ、見つけるって、書いたのに……!」

 

 胸が痛かった。ロアの雷に貫かれたわたしの胸の穴が、塞がらない。十三年間、どんな傷も朝には消えていたのに、塞がらない。血が止まらない。

 

 ――ああ。わたしはもう、死ねる体なんだ。ロアが死んだから。

 

 十三年間、あれほど願い続けてきたものが、今、この胸にある。それなのに、ちっとも嬉しくなかった。

 

◇

 

「先輩!」

 

 遠野くんが瓦礫の上を駆け寄ってきた。胸の包帯が真っ赤に染まっている。夕方の傷が開いているのだ。

 

「有波は……」

 

 答えられなかった。

 

 遠野くんは有波くんの顔を見て、それから眼鏡のない目で、有波くんの体のどこかをじっと見た。その目が見開かれる。

 

「……線が」

 

 遠野くんが呟いた。

 

「線が、まだ、ある。……切れてない。死んでない、先輩。こいつ、まだ、死んでない」

 

 息が止まった。

 

「でも、どんどん、増えてる。体中に、線が。……内側から、燃えてる。止まってない。まだ、燃え続けてる」

 

 そこまで言って、遠野くんの体がぐらりと傾いた。

 

「遠野くん!」

 

 胸の包帯は真っ赤だった。昨夕、四季くんの体に刺された傷が、ナイフを振るうたびに開いていたのだ。遠野くんは瓦礫の上に膝から崩れて、そのまま横向きに倒れた。意識がない。

 

 第三段階は、心停止まで止まらない。

 

 心臓が止まっても、まだ止まらないのだ。回路の燃え残りが、有波くんの命を最後の一滴まで燃料にして、体の内側で燻り続けている。心臓を動かしても、燃えている限り、また止まる。

 

「――止めないと」

 

 頭上から声が降ってきた。

 

 崩れた渡り廊下の縁の上に、月の光を背負って、あの人が立っていた。真祖の姫、アルクェイド・ブリュンスタッド。

 

 ロアに奪われていた力が還っている。その輪郭が、夜の中で淡く光っていた。白いセーターの上を走っていた何本もの細い赤い線――ロアの爪があの人の命の線をなぞって断った跡が、ひとつずつ消えていくのが見えた。

 

 ついさっきまで、あの人は確かに死にかけていた。遠野くんの腕の中で、目を閉じて。ロアが完全に死んで、ロアが八百年かけて盗んだものが全部あの人に還ったから、あの人はもう一度目を開けたのだ。

 

 あの人はふわりと瓦礫の底に降りてきて、まず、倒れた遠野くんの傍らに膝をついた。血の滲んだ胸に手を伸ばしかけて、止める。紅い目が一瞬だけ遠野くんの首筋を見て、すぐに逸らされた。

 

 唇を噛んで、遠野くんの頭の下に、自分の白いセーターの袖をそっと敷く。それから有波くんの傍らにしゃがみ込んで、紅い目でその体をなぞった。

 

「……燃えてる。この子、自分で自分を、燃やしてる」

 

「わかってます」

 

 声が刺々しくなった。この人に向ける声は、いつもそうなってしまう。

 

「わかってるなら、止めて。……あなたなら、できるでしょう。あなたの力なら」

 

「できないよ」

 

 あの人は、あっさりと言った。

 

「わたしの力は、世界に触るものだから。人間みたいに、世界から切り離されてるものには、直接、触れないの。……この子の体の中の火は、わたしには、消せない」

 

 目の前が暗くなった。

 

「――でも」

 

 あの人の目が、瓦礫の上に転がっていた黒銀の刃を見た。有波くんの手から離れた刃。その表面を、白い霜が覆っている。

 

「この子の周りなら、触れる」

 

「……どうして」

 

 わたしは訊いた。

 

「どうして、あなたが、この子を」

 

 あの人は少しだけ首を傾げた。

 

「この前の夜ね、この子と、ちょっとだけ、話したの。……使われてるの、それとも、選んでるの、って訊いたら、わかんないって言った」

 

 あの人は、有波くんの顔を見下ろした。

 

「でも、さっき。この子、痛いって、叫びながら、刃を押し込んでた。……あれは、誰かに使われてる子の、顔じゃなかったよ」

 

 紅い目が、少しだけ柔らかくなった。

 

「ちゃんと、自分で、選んでた。……だから、まだ、死なせたくないの。やっと、選べるようになった子なんだもん」

 

◇

 

 あの人は刃を拾い上げた。素手で。霜が指を白く凍らせていくのを、あの人は気にしなかった。

 

「ヴローヴの冬。……ここに、まだ、眠ってる」

 

 刃の芯を覗き込むように、あの人は目を細めた。

 

「……少しだけ、減ってる。この子、使ったんだね、さっき。蛇を、離さないために」

 

 あの人は、有波くんの凍りついた右手を見た。

 

「封じるだけの刃なのに。外に出すなんて、きっと、誰にも、教わってないのに」

 

 その目が、また柔らかくなった。

 

「……ほんとに、自分で、選んだんだ」

 

 あの人は、刃の切っ先を有波くんの胸のすぐ上にかざした。

 

「これを、外に出して。この子の周りだけ、冬にする。……ほんとの冬。時間が止まったみたいに、何もかもが、凍りつく冬。そうすれば、この子の中の火も、燃えるのを、やめる」

 

「そんなことしたら、有波くんも、凍って――」

 

「凍るよ。でも、死なない。……冬の間は、何も、進まないから。燃えるのも、壊れるのも、死ぬのも」

 

 あの人はわたしを見た。

 

「その間に、あなたが、この子の中の道を、直すの。燃えちゃった道を。……できる?」

 

 道を直す。焼き切れた回路を繋ぎ直す。

 

 教会の秘蹟ではできない。秘蹟は傷を塞ぐもので、回路そのものを組み直すものではない。

 

 それができる術を、わたしはひとつだけ知っている。わたしの頭の中にある。十三年前、わたしの体に棲みついていた蛇が置いていったもの。人の魂を別の器に移し替えるための、人の体の中の道を思うままに書き換えるための――ロアの魔術。

 

 あの人とロアにしか使わないと決めていた。十三年間、一度も破らなかった。

 

 ロアの知識で誰かを救うなんて。そんなことをしたら、わたしはあの蛇の力を、自分のものとして認めてしまう。あの夜、わたしの手が何をしたのかを、この手で上書きしてしまう。

 

 ――それでも。

 

 ――私の術を、使うか、エレイシア。

 

 頭の奥で声がした。もうこの世のどこにもいないはずの、あの声。

 

 ――君の手が、私の知識で、誰かを救う。……滑稽だな。あの夜、その同じ手で、あの一族を、ひとりずつ――

 

 黙って。あなたはもういない。あなたの声は、もう、ただのわたしの記憶だ。わたしの記憶なら、どう使うかはわたしが決める。

 

「……できます」

 

 わたしは言った。

 

「やります」

 

◇

 

 あの人が刃の柄を両手で握って、目を閉じた。刃の表面の霜が震える。

 

 それから、刃の芯の奥から白いものが溢れ出した。冷気。凍てついた永久の冬。ヴローヴの原理。

 

 溢れ出した冬は、あの人の手のひらの下でぴたりと止まって、広がらなかった。あの人が止めているのだ。世界に触れる真祖の力で、この冬が触れていい世界の範囲を、ほんの半径二メートルに書き換えている。

 

 有波くんの周りの瓦礫が、白く凍りついた。空気が凍り、舞っていた粉塵が凍って、きらきらと宙に止まる。有波くんの髪に霜が降りる。睫毛に。唇に。

 

 白い。白くて静かで、雪だ、と思った。十三年前のあの夜の、里の門の前の。あのとき雪の上に倒れていたのは、わたしだった。

 

 今は。

 

「……今だよ」

 

 あの人が言った。額に汗が浮いていた。

 

「長くは、もたない。……この冬、すごく、重い。あの人、こんなもの、何百年も、背負ってたんだ」

 

 わたしは有波くんの胸に両手を置いた。冬の中へ手を差し入れた瞬間、指が凍った。構わない。

 

 目を閉じる。頭の奥の、いちばん奥。十三年間鍵をかけて閉じ込めてきた、蛇の知識の扉を――開けた。

 

◇

 

 見えた。有波くんの体の中の道が。ずたずたに焼き切れている。

 

 背中から腕へ、脚へ、胸へと網の目のように張り巡らされていたものが、ほとんど炭になっている。ところどころに、まだ細く残っているものがある。

 

 それを繋ぐ。蛇の術式で、焼け残った一本と焼け残った一本を、わたしの魔力で編み直す。

 

 一本。二本。三本。

 

 ――気持ち悪い。

 

 頭の中で、蛇の知識が蠢く。この術式を、蛇は何百回も使ってきた。人の魂を器から器へ移し替えるために。人の体を、自分好みに作り変えるために。あの夜も、わたしの体をそうやって。

 

 吐き気が込み上げる。構わない。

 

 四本。五本。十本。

 

 道を編むたびに、その道の奥のものが指先に触れてくる。

 

 ――赤い光。炉の光。石の天井。冷たい床。

 

 ――嗄れた声。何人もの老いた声。

 

 ――カナリアは、歌わない。カナリアは、鳴かない。カナリアは、誰も、温めない。カナリアは、誰にも、温められない。カナリアは、誰よりも先に、死ぬ。

 

 ――毎朝。毎晩。何百回も、何千回も。

 

 ――小さな手が、金属の盆から灰色の食べ物を掬っている。ひとりで。隣には誰もいない。誰も名前を呼ばない。

 

 ――ある朝、声がひとつ減る。次の朝、またひとつ。

 

 ――最後の声が途切れた朝。小さな、いや、もう大きくなった手が、冷たくなった老人の瞼を閉じる。何の表情もないまま。

 

 ――それから、ひとりで地下工房の扉を開けて、外の眩しい光の中へ。

 

 有波くんの記憶だった。回路に刻み込まれていた、十八年分の。

 

 息ができなかった。

 

 この子は、こんなところで育ったのだ。わたしがあの扉の向こうに残してしまった小さな鼓動は、こんなに寒いところで、ひとりで。

 

 ――温めればお前は扉を開ける。温められればお前は刃を鈍らせる。

 

 ――我らは雪の中の子供を温めて死んだのだから。

 

 雪の中の子供。わたしだ。あの人たちは、わたしを温めて死んだ。だからこの子に言い聞かせたのだ。誰も温めるな、と。誰にも温められるな、と。

 

 この子の体温の低さも、温かいものを温かいと感じられないことも、全部、あの夜のわたしのせいだった。

 

 ――ごめんなさい。

 

 声にはしなかった。しても届かない。届かせるなら、別の方法しかない。

 

 ――なら。なら、わたしが。

 

 片手を胸から離して、凍りついた有波くんの右手を包んだ。柄を握った形のまま、指の一本一本に霜をまとった手を。

 

 息を吹きかける。白い息が、霜の上ですぐに凍る。それでも吹きかける。温めるな、と言われてきた手を。温められるな、と言われてきた手を。わたしの、この手で。

 

 もう片方の手で編む。編む。編む。

 

 それから、編み直した道に流し込む。わたしの魔力を。わたしの命を。十三年間、蛇がこの世にいる限り尽きることのなかった、わたしの中の底なしの泉を。

 

 流し込む。流し込む。流し込む。

 

 有波くんの体の中を、わたしの魔力が流れていく。編み直したばかりの細い道を伝って、背中から肩へ、肩から腕へ、腕から指先へ。凍った体の奥の奥まで、焼け焦げた道の一本一本に、灯りを点していくように。

 

 ――胸が、痛い。

 

 塞がらない胸の穴から、血が流れ続けている。魔力を流すたびに、その流れが速くなる。当然だ。わたしはもう、死ねる体なのだから。命を流し込めば、その分だけわたしの命は減っていく。

 

「……シエル」

 

 あの人の声がした。冬を支えたまま、額に汗を浮かべて。

 

「あなたも、死ぬよ。……そんなに、注いだら」

 

「知ってます」

 

 目を閉じたまま答えた。

 

「やっと、死ねるようになったんです、わたし。十三年、ずっと、それだけを、願ってた」

 

 こんなときに、笑ってしまった。

 

「……でも、今は、死にません」

 

 流し込む。

 

「この子に、カレー、作らなきゃいけないから」

 

 流し込む。

 

「全快祝い、するんです。……好きなもの、今度こそ、見つけてあげるって、約束、したから」

 

 約束はしていない。この子は、約束なんてしてくれなかった。だからわたしが勝手に決めた。意味は、わたしが決める。

 

◇

 

 どれくらいそうしていたのか、わからない。

 

 指の感覚がなくなっていた。凍って。胸の感覚も、なくなっていた。血が流れすぎて。

 

 目の前が白い。冬の白さなのか、わたしの意識が白くなっているのか、わからない。ただ、手のひらの下の有波くんの胸に、全部の意識を向けていた。

 

 ――とくん。

 

 聞こえた。小さな、とても小さな。

 

 ――とくん。

 

 凍った胸の、奥の、奥で。

 

 ――とくん。とくん。

 

 速い。小さくて、速い。とくとくとく、と。

 

 あの夜の、扉の向こうの。雪の夜の底で、何も知らずに鳴っていた、あの鼓動。

 

 あの夜、わたしの手は奪った。暖炉の前でスープを掬ってくれた人から。額を拭ってくれた人から。黒パンを半分にしてくれた、小さな男の子から。この手が、全部奪った。扉の前で、爪を立てることしかできなかった。

 

 今夜、同じ手が――同じこの手が、あの扉の向こうの鼓動を、もう一度鳴らしている。

 

 許されるわけじゃない。何も取り戻せるわけじゃない。あの里の人たちは、もう誰も帰ってこない。

 

 それでも。それでも、この鼓動だけは。

 

「――っ」

 

 声にならなかった。涙が凍った頬を伝って、有波くんの胸の上に落ちた。落ちた端から凍っていった。

 

「……止めるよ、冬」

 

 あの人が言った。

 

「火は、もう、消えてる。……道も、繋がってる。あとは、この子次第」

 

 刃の芯へ、冬が吸い込まれていく。凍っていた空気がほどけて、宙に止まっていた粉塵が、またゆっくりと舞い始める。有波くんの睫毛の霜が溶けて、しずくになって頬を伝った。

 

 ――とくん。とくん。とくん。

 

 鼓動が少しずつ、ゆっくりになっていく。速すぎず、遅すぎず。人間の速さに。

 

◇

 

 有波くんの瞼が動いた。

 

 灰青の目がゆっくりと開いた。どこも見ていなかった目が、わたしを見た。

 

「……せん、ぱい」

 

 掠れた声だった。凍った喉から、無理やり押し出したような。

 

「……有波、くん」

 

 有波くんの眉が、微かに寄った。この子の顔にそんな形が浮かぶのを、わたしは一度も見たことがなかった。

 

「……痛い、です」

 

 有波くんが言った。

 

「全部、痛い、です。……背中も。脇腹も。肩も。手も。胸も」

 

 灰青の目の端に、何かが滲んだ。滲んで、溢れて、こめかみのほうへ一筋流れていった。

 

 有波くんは、それが何なのかわからないように、瞬きをした。

 

「……これ、は」

 

 もう一筋流れる。また一筋。

 

「……僕、は」

 

「うん」

 

 わたしは有波くんの頬に、凍えた手のひらを当てた。流れていくものを指先で拭う。

 

 温かかった。

 

「痛いね」

 

 声がぐしゃぐしゃになった。

 

「痛いよね。……生きてるから。生きてるから、痛いんだよ」

 

 有波くんは泣きながらわたしを見ていた。自分が泣いていることを、まだ知らないまま。

 

 それから、ほんの少しだけ唇が動いた。その目が、わたしの胸の塞がらない穴を見た。

 

「……先輩、も」

 

「え……?」

 

「先輩も、痛い、ですか」

 

 息が止まった。この子が、初めて、誰かの痛みを訊いた。

 

「……痛いです」

 

 泣きながら、わたしは笑った。

 

「すごく、痛いです。……おそろい、ですね」

 

 有波くんはしばらく、何かを確かめるようにわたしの顔を見ていた。

 

「……記録、します」

 

 小さくそう言って、有波くんの目はまたゆっくりと閉じた。

 

 鼓動は止まらなかった。とくん、とくん、と、わたしの手のひらの下でずっと鳴っていた。

 

 あの人が刃を瓦礫の上にそっと置いて、立ち上がろうとして、ふらついた。倒れたままの遠野くんを見下ろす。紅い目が、遠野くんの胸の、血の滲んだ包帯を見ていた。見ないようにしようとして、見てしまって、あの人は唇を噛んだ。血が滲むほど強く。

 

「……ねえ、シエル」

 

 あの人は遠野くんから目を逸らして、わたしのほうを見た。

 

「ロアが死んで、わたしの力、戻ってきたの。全部。……戻ってきた分だけ、喉の渇きも、戻ってきた」

 

 あの人は笑った。軽い、いつもの調子で。肩が震えていた。

 

「もう、志貴の隣には、いられない。……近すぎるから」

 

「……」

 

「志貴はね、さっき、見てたの。わたしが、ロアに線を切られて、死ぬところ」

 

 あの人は、遠野くんの寝顔を見下ろした。

 

「だから、それで、いいの。……志貴の前で、わたしは、一回、ちゃんと、死んだから」

 

「……起きたら、遠野くんは、きっと、訊きますよ。あの人は、って」

 

「うん」

 

 あの人は少しだけ、困ったように笑った。

 

「その時は、本当のことを、言って。……蛇に線を切られて、消えたって。それは、本当だから」

 

「……全部は、本当じゃない」

 

「全部じゃなくて、いいの。……そうしないと、志貴、追いかけてくるから。あの子、そういう子だから」

 

 紅い目が、まっすぐにわたしを見た。

 

「あなたにしか、頼めないの」

 

 あの人は遠野くんの傍らに、もう一度だけしゃがみ込んだ。眠っている顔を見下ろして、前髪にほんの少しだけ、指先で触れる。首筋には触れなかった。

 

 それから立ち上がった。

 

「ばいばい、シエル。……その子のこと、ちゃんと、見ててあげてね」

 

 白い影が、崩れた渡り廊下の上へ跳んだ。夜明け前の、まだ暗い空の中へ。満月のほうへ。

 

 そして、見えなくなった。

 

◇

 

 そこから先のことは、途切れ途切れにしか覚えていない。

 

 体から力が抜けていった。有波くんの胸の上に崩れ落ちそうになったわたしの体を、誰かが後ろから支えた。遠野くんではなかった。

 

 薄手のコートに、明るい色のゆるく巻いた髪。左腕を、首から白い三角巾で吊っていた。

 

「……ほんと、馬鹿な人」

 

 ノエルだった。

 

 三日前の夜、公園でマーリオゥの糸に操られて、腕を折られたあの子。教会の病院から姿を消したきり、どこにいたのかもわからなかった。いつからそこにいたのだろう。

 

 ノエルは片手で自分のコートを脱いで、わたしの肩にかけた。それから、無事なほうの手のひらをわたしの胸の穴に当てた。秘蹟の淡い光。わたしが教えた、下手くそな秘蹟。

 

「死なせないわよ」

 

 ノエルは、わたしの顔を見ずに言った。

 

「アンタは、生きて、ちゃんと、その子の顔、見てなさい。……それが、アンタへの、いちばんの罰なんだから」

 

 声が震えていた。

 

 瓦礫の向こうで、誰かの舌打ちが聞こえた。黒い外套の、小柄な影。マーリオゥだった。崩れた渡り廊下と、瓦礫の上の遠野四季の体と、それから霜の消えかけた黒銀の刃とを、順番に見ていた。

 

「……なんにも、残っちゃいねえ」

 

 低い声だった。

 

「蛇の魂も。祖の原理も。……全部、消えちまった」

 

 マーリオゥの目が有波くんを見た。殺気があった。

 

「てめえ――」

 

「やめなさい、坊や」

 

 ノエルが振り返らずに言った。

 

「蛇を仕留めたのは、シエルよ。埋葬機関の、第七位。教会の聖典で、転生を断ったの。……遠野くんも、そう証言する。報告書には、そう書くの」

 

「……あぁ?」

 

「その子は、巻き込まれただけの、ただの転校生よ。……わかった?」

 

 マーリオゥはしばらくノエルの背中を睨んでいたが、やがて、また舌打ちをした。

 

「……ブタノエルのくせに」

 

 足音が遠ざかっていった。

 

「マーリオゥには、原理血戒は、使い切って消えたって、報告しとく。……本当のことだし」

 

 ノエルは刃のほうをちらりと見た。霜はもう、ほとんど消えていた。ヴローヴの冬は、有波くんの周りで使い果たされたのだ。

 

「だから、その子は、教会には、何の関係もない。ただの、転校生。……わかった?」

 

「……ノエル」

 

「お礼なんか、言わないでよ」

 

 ノエルは顔を背けた。

 

「言われたら、わたし、たぶん、アンタのこと、許しちゃうから。……まだ、許してやんないんだから」

 

 罰。そうかもしれない。

 

 生きて、この子の顔を見続けること。この子が痛みを知って、涙を知って、それからきっと、もっとたくさんのことを知っていくのを。わたしが滅ぼした一族の、たったひとりの子が生きていくのを、ずっと。

 

 それは罰だ。きっと、世界でいちばん優しい罰だ。

 

◇

 

 目を覚ましたとき、空が白み始めていた。

 

 瓦礫の底で、わたしはノエルのコートにくるまって、有波くんの隣に横たわっていた。わたしの右手が、有波くんの左手を握っていた。握っていたのか、握られていたのか、わからなかった。

 

 有波くんは眠っていた。胸がゆっくりと上下している。とくん、とくん、と。

 

 それを確かめてから、わたしは自分の胸に手を当てた。

 

 穴は、ノエルの下手くそな秘蹟で塞がりかけていた。完全には塞がっていない。脈に合わせて、ずきずきと痛む。

 

 痛い。十三年ぶりに、傷が痛いままでいる。

 

 左の前腕に、袖の上からそっと右手を伸ばした。さすろうとして、やめた。痒くなかった。十三年間ずっと、ときどき疼いていた場所が、今は静かだった。

 

 それから顔を上げた。瓦礫の向こうで、遠野くんが身を起こしていた。ノエルの秘蹟が、遠野くんの胸の傷も少しだけ塞いだのだろう。顔色はまだ灰色だった。

 

 遠野くんは眼鏡をかけていた。崩れた渡り廊下を見上げて、それから瓦礫の上を見回す。何かを探すように。誰かを探すように。

 

「……先輩」

 

 遠野くんの声がした。

 

「アルクェイドは」

 

 喉が詰まった。

 

 ――その時は、本当のことを、言って。蛇に線を切られて、消えたって。

 

 ――あなたにしか、頼めないの。

 

 嘘をつくのは得意だ。代行者を何年もやってきた。でも、これは嘘じゃない。全部が本当でもない。

 

 声が出るまでに、ずいぶん時間がかかった。

 

「……あの人は」

 

 目は逸らさなかった。逸らしたら、全部ばれてしまう気がした。

 

「蛇に、命の線を、切られて。……消えました」

 

 遠野くんは何も言わなかった。しばらくわたしの顔を見て、それから崩れた渡り廊下の上のほうを見上げた。夜明けの空に、白く薄く、満月がまだ残っていた。

 

「……そうですか」

 

 それだけ言った。声が震えていなかったのが、いちばんつらかった。

 

 遠野くんはしばらくそうして空を見上げていたが、やがて胸を押さえながら、ゆっくりとこちらへ歩いてきて、有波くんの寝顔を見下ろした。

 

「……こいつ、線、減ったよ」

 

 遠野くんが言った。

 

「さっきまで、体中、ぐちゃぐちゃだったのに。……普通の人間くらいに、戻ってる」

 

「……そう、ですか」

 

「先輩」

 

 遠野くんはわたしのほうを見ずに言った。

 

「有波のこと、頼みます。……目が覚めたら、ありがとうって、伝えといてください。俺ひとりじゃ、あいつの魂には、届かなかったから」

 

 遠野くんは少しだけ笑った。ひどく疲れた笑顔だった。

 

「帰ります。……家で、妹が、待ってるんで」

 

 遠野くんは瓦礫を登って、朝の中へ歩いていった。一度も振り返らなかった。

 

 わたしはその背中に、何も言えなかった。あの人は生きています、とも。ごめんなさい、とも。

 

 ――また、ひとつ。

 

 わたしは誰かに、本当のことの半分だけを渡した。今度は、誰かを守るために。

 

 有波くんの手を握り直した。温かかった。ちゃんと、温かかった。

 

 気がつくと、わたしの指先のほうが冷えていた。命を注ぎすぎたのだろう。その冷えた指先が、有波くんの手のひらの中で少しずつ温まっていく。この子の体温で。

 

 ――カナリアは、誰も、温めない。

 

 あの子の回路の奥で何千回も繰り返されていた、あの声に、わたしは心の中でそっと答えた。

 

 ――嘘つき。

 

 カレンダーの、日付のない枠を思い出す。

 

 ――カレー(二回目)。有波くん、全快祝い。

 

 あの枠に、日付を書き込もう。この子が次に目を覚ました日を。

 

 全快にはほど遠い。有波くんも、わたしも。それでもカレーは作ろう。この子が次に目を覚ましたときに、すぐに温められるように。

 

 朝日が、瓦礫の底まで届いてきた。凍っていた最後の霜が、有波くんの髪の上で溶けて、光った。

 

 その光を見ながら、わたしはもう一度目を閉じた。とくん、とくん、と、手のひらの向こうの鼓動を数えながら。

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