意識が戻る。
最初に確かめるのは、いつも同じことだ。体温、脈拍、四肢の反応。
――体温。
わからない。数値が出てこない。
代わりに、体じゅうのあちこちが痛い。背中が。右の脇腹が。左の肩が。右手の指の一本一本が。胸の奥が。
痛い。それしかわからない。
確認にかかった時間は、計っていなかった。
◇
知っている天井だった。白くて低い天井に、小さな丸い照明。カーテン越しに朝の光が射している。シエルの部屋だ。
首を左に回す。十五度ではなかった。もっと回った。
ベッドの脇の椅子で、シエルが眠っていた。背もたれに頭を預け、眼鏡はずれたままで、胸元に厚い包帯が覗いている。その右手が、ベッドの上の僕の左手に重ねられていた。指先だけで、軽く引っかけるようにして。
初めてこの部屋で目を覚ましたときと同じだった。
記録しようとして、やめた。
代わりに見ていた。シエルの寝顔を。目の下の黒い影を。ずれた眼鏡のレンズに映る朝の光を。重ねられた指先を。しばらく、ずっと。
――どれくらい見ていたのか。数えていなかった。
「……ん」
シエルが身じろぎをして、瞼が持ち上がった。目が合う。
シエルは何も言わなかった。ただゆっくりと目を見開いて、それから、その目からぽろぽろと何かが落ちてきた。
「……おかえり、なさい」
声が震えていた。
「おかえりなさい、有波くん」
この言葉に対する返答の手順を、演算する。
――ない。仕込まれていない。
それでも、口が動いた。
「……ただいま、帰りました」
シエルが声を上げて泣いた。僕の左手を、両手で握りしめて。
痛かった。握られた手が、少しだけ痛かった。
それが、なぜだか嫌ではなかった。
◇
三日、眠っていたらしい。
右手は凍傷で、指先の皮膚がほとんど剥がれていた。包帯に巻かれて、指は一本も見えない。左手は、肘から先が動くようになっていた。背中の回路は、シエルが編み直した細い道が、かろうじて繋がっている。
「もう、第一段階も、使えないと思います」
包帯を替えながら、シエルが言った。
「道が、細すぎて。……無理に通したら、今度こそ、焼き切れちゃう」
「そうですか」
「……痛覚を、別のものに変える術式も、焼けたままです。たぶん、もう、戻りません」
「はい」
「だから、これからは」
シエルの指が、包帯の上で止まった。
「痛いのは、痛いままです」
「はい」と答えた。「……知っています」
シエルは少しだけ笑った。泣きそうな顔で。
「お腹、空いてますか」
演算する。空腹とは、胃の内容物の欠乏と血糖値の低下による、摂食の欲求だ。三日、何も摂取していない。
――空いている、と思う。
思う。そのとおりに答えた。
「……空いている、と、思います」
「思う」
シエルが繰り返した。
「はい。……確信は、ありません」
シエルは目元を拭って、立ち上がった。
「全快祝いには、まだ、ほど遠いですけど」
台所へ向かう。
「カレンダー通り、です」
壁のカレンダーの、あの日付のない枠。
――カレー(二回目)。有波くん、全快祝い。
その枠の隅に、今日の日付が、新しいインクで書き込まれていた。
◇
湯気の立つ皿が、ベッドの脇の小さなテーブルに置かれた。白いご飯の上に、濃い茶色のルウ。刻んだ玉葱が、形がなくなるまで溶けている。
あの前夜と同じカレーだった。三時間かけて玉葱を飴色にした、本気のカレー。
シエルがベッドの縁に腰を下ろして、スプーンを取った。僕の両手は、包帯で使えない。
「はい。……口、開けてください」
スプーンが口元に運ばれてくる。口を開けると、スプーンが入ってきて、舌の上に何かが乗った。
――香辛料。
そこまで来て、情報がほどけない。クミンも、コリアンダーも、カルダモンも。濃度も、塩分も。数値が出てこない。
代わりに、何かが広がっていった。舌の上から、口の中から、喉を通って胸の奥へ。
数値ではない。温度計の目盛りでもない。七十何度、ではない。
ただ。
――温かい。
口の中が。喉が。胸の奥が。
温かい。
スプーンを見た。震えているシエルの指を見た。湯気の向こうで泣き出しそうになっている、シエルの顔を見た。
咀嚼の回数を、数えるのを忘れていた。
飲み込むと、胸の奥に温かいものが落ちていった。落ちて、そこでゆっくりと広がっていく。
「……どう、ですか」
シエルが小さな声で訊いた。
訊かれたら、美味しいです、と答える。そう仕込まれている。そうでなければ温度を答える。ずっとそうしてきた。
どちらでもなかった。
「……温かい、です」
声が出た。
「温かい、です。……先輩」
シエルの手からスプーンが落ちて、皿の上で、かちん、と小さな音を立てた。シエルは両手で口元を覆った。
「……味、は、まだ、よく、わかりません。辛いのかどうかも。……でも」
続ける。続けなければいけない気がした。
「温かい、です。……数値では、なく。温かい、ということが、わかります」
――カナリアは、誰にも、温められない。
頭の奥のその一行が、どこかで軋んだ。
シエルが崩れた。ベッドの縁から僕の胸の上へ、額を押しつけるようにして、声を上げて泣いた。十三年分。あるいは、それよりずっと長い時間の分。
胸の上で、シエルの肩が震えている。その重さが。その温度が。
温かかった。
――記録、します。
そう言いかけて、やめた。記録なんかしなくても、忘れないと思った。
◇
目を覚ました次の日の夜、包帯を替え終えたシエルは、ベッドの脇の椅子で膝の上に手を組んでいた。
「……有波くんに、言っておかなきゃいけないことが、あります」
シエルが話したのは、あの夜明けのことだった。
真祖が蛇に命の線を断たれて、一度、本当に死にかけたこと。蛇が完全に死んで、盗まれていた力が還り、もう一度目を開けたこと。力が還った分だけ渇きも還って、遠野志貴の隣にはいられないこと。そして、遠野志貴には本当のことを言って、と頼まれたこと。蛇に線を切られて、消えた、と。
「……遠野くんに、半分だけ、本当のことを、言いました。あの人は、蛇に線を切られて、消えました、って」
シエルは自分の手を見下ろしていた。
「嘘じゃない。でも、全部でもない。……あの人の、お願いだったから。でも、遠野くんの声、少しも、震えてなくて。それが、いちばん、つらかった」
「……そうですか」
「有波くんにだけは、本当のことを、言っておきたくて」
理由にはなっていなかった。この人の言うことは、いつもそうだ。
◇
遠野志貴が訪ねてきたのは、それから一週間後だった。
玄関でシエルと少し話してから、寝室の入り口に立つ。眼鏡をかけていて、胸の包帯は、もう制服の上からはわからない。
「よう、有波」
「……遠野」
「元気そう、でもないか」
遠野志貴は少しだけ笑った。
「ありがとな。……あの夜。お前がいなかったら、あいつの魂は、俺の中に逃げ込んでた。俺ひとりじゃ、届かなかった」
「……お互いに、です」
「そうか」
遠野志貴は窓の外を見た。ほんの一瞬だけ、何かを探すように。そこには誰もいなかった。
「……アルクェイドは、蛇に線を切られて、消えたって、先輩が」
窓の外を見たまま、遠野志貴は言った。
「でも、なんでかな。……まだ、どっかに、いる気がするんだ。あいつ、しぶといから」
それから、僕のほうを振り返った。
「有波。お前、あの時、あいつのそばにいたんだろ。……何か、知らないか」
演算する。真実を告げる理由はある。遠野志貴が、それを知りたがっている。告げない理由もある。真祖がそれを望み、シエルがそれを守っている。どちらにも理由があって、どちらを選ぶかは、演算では決まらない。
――僕が、選ぶ。
「……推定、できません」
嘘をついた。任務のためではない。誰かの選んだものを守るために。
「……そっか」
遠野志貴は、それ以上訊かなかった。眼鏡の奥の目が、ほんの少しだけ赤かった。
――真祖。部品くん、と僕を呼んだ人。使われるのと選ぶのは違う、と言った人。
あの人は、自分で選んだのだ。遠野志貴の隣から離れることを。
胸の奥が、少しだけ痛かった。傷の痛みではなかった。
◇
十一月の、最初の月曜日。総耶高校、二年の教室。
窓際の後ろから二番目の席に鞄を置くと、前のほうの席の女子生徒が二人、振り返った。
「あ、有波くん! おかえりー!」
「長かったね、風邪。……って、手、どうしたの!?」
右手には、まだ薄い包帯を巻いている。
「……凍傷」
「凍傷!? 十月に!?」
「冷蔵庫に、手を、入れすぎて」
嘘だった。女子生徒たちは顔を見合わせて、それから、けらけらと笑った。
「何それ、有波くん、冗談言うんだ」
「意外ー」
冗談を言ったつもりはなかった。けれど、二人が笑っているのを見て、口角が少しだけ上がった。
二ミリではなかった。何ミリなのかは、測らなかった。
「……ありがとう。おかえり、って」
女子生徒たちはきょとんとして、それから、もっと大きな声で笑った。
「よう、転校生! 生きてたか!」
乾有彦に、背中をばんと叩かれた。痛い。
「……痛い」
「お、悪い悪い。……って、お前、痛いとか言うんだな」
「言います」
「そっか」
乾有彦は、なぜか嬉しそうだった。
斜め前の席では、遠野志貴が頬杖をついて窓の外を見ていた。隣の、ずっと空いたままの席を一度だけ見て、それからまた窓の外を。
弓塚さつきは、まだ見つかっていない。
始業の鐘が鳴った。
教室の扉が開いて、新しい担任が入ってきた。白髪まじりの、穏やかな顔をした年配の教師で、代理の代理ということらしい。代理の教師が一か月の予定を待たずに辞めたことを、この学校の誰も、深くは覚えていないようだった。
出席簿の名前が読み上げられていく。
「――有波」
「はい」
今朝、昇降口の下駄箱の中に、小さな紙が一枚入っていた。丸みのある、大きな字だった。
――アイツ泣かせたら、承知しないから。 N
その紙は、手帳の後ろの頁に挟んである。シエルの三通の書き置きの隣に。
◇
昼休み、屋上へ続く階段のいちばん上の踊り場。約束の時刻の二分前に、階段の下から軽い足音がした。
「有波くん、お待たせしました」
シエルだった。片手に新しい包みを、もう片手に自分の分の包みを提げている。制服の上に、紺のカーディガンを羽織っていた。
「今日から、また、ここで」
シエルは嬉しそうに言った。
「卒業までは、毎日、作りますから。覚悟してください」
「卒業まで」
「三年生ですから。……あと、半年もないですけど」
空の弁当箱を差し出す。仔犬の絵の弁当箱だ。あの夜の夜食で、食べられなかった分を、目覚めてから三日かけて少しずつ食べた。
「ぴかぴか」
「洗い方は、覚えているので」
新しい包みを受け取って、開ける。卵焼き、唐揚げ、おひたし、きんぴら、胡麻を振ったご飯。最初の日と同じ献立だった。
卵焼きを一切れ、口に入れて噛む。数は数えない。
舌の上に何かがある。柔らかい。温かくはない、冷めている。それでも。
――何か、ある。
数値ではない何かが。ぼんやりとした、輪郭のない何かが。
「……甘い、気がします」
シエルの箸が止まった。
「気が、するだけかも、しれません。……でも、たぶん。甘い、です」
「……甘めに、作ったんです」
シエルの声がかすれた。
「有波くん、最初の日、卵焼き、最初に食べたから。……好きなのかなって、思って」
「最初に食べたのは、いちばん手前にあったからです」
「……ですよね」
シエルは笑った。泣きそうな顔で笑った。
「でも、甘い、って。……わかったんですね」
「たぶん」
「たぶん、で、いいです」
シエルは自分の卵焼きを口に入れた。
「たぶん、で、十分です」
◇
放課後の、茶道部の部室。古い畳の匂いがして、床の間には何も掛かっていない。
僕は釜の前に正座し、シエルは客の座についた。
茶道部の部員は、三年のシエルと、二年の有波叶人のふたりだけだ。顧問はいなかった。職員室で新しい担任に顧問になってほしいと頼むと、担任は首を傾げながら判子を押した。鍵は今日から僕が持っている。
「部長、交代ですね」
客の座で、シエルが言った。
「今日から、有波くんが、部長です。三年生は、そろそろ引退ですから。……わたしは、ただの、お客さん」
左手で茶杓を取る。右手はまだ細かい動きができないので、茶筅も左手で振る。しゃかしゃかと。手首の角度、力の抜き方。あの日シエルが、僕の右手の上に自分の手を重ねて教えてくれたとおりに。
「どうぞ」
シエルの前に茶碗を置く。シエルは両手でそれを取り、回して、口をつけて、目を閉じた。ずいぶん長いあいだ。
「……美味しい」
シエルが言った。
「すごく、美味しいです。……わたしが点てるより、ずっと」
「手順通りに、しただけです」
「それが、難しいんですよ」
同じ会話だった。何度目かの。
それから、シエルは茶碗を僕のほうへ差し出した。
「有波くんも。……飲んでみて」
受け取って、回して、口をつける。淡い緑の泡が、舌の上に乗った。
――苦い。
はっきりと。数値ではなく。
苦い。
そして、その苦さの奥から、鼻の奥へ、何かが抜けていった。青い草のような。雨上がりの畳のような。
「……苦い、です」
声が出た。
「それから……いい、匂いが、します」
シエルが息を呑んだ。
「……香り、ですか」
「香り。……はい。たぶん、それです」
茶碗を見下ろす。淡い緑の泡。初めての日に同じものを飲んで、僕はカテキンとカフェインと苦味成分の濃度と、六十二度という温度しか読み取れなかった。同じものなのに。
「……温かいものを飲むと、ちょっと、ほっとする」
口から出ていた。初めての日に、シエルが言った言葉だった。
「あの日、先輩が、そう言いました」
「……覚えてたんですか」
「記録、してあったので」
それから少しだけ考えて、付け足した。
「……今は、少し、わかります」
シエルは何も言わずに、目元を袖で拭った。
◇
日曜日、駅の北側にある古いアパートの二階。
鍵を二度回して、中に入る。六畳一間に窓がひとつ。寝台と机がひとつずつ。壁には何も貼っておらず、棚には何も置いていない。一か月前と何も変わっていなかった。変わっていないことが、少しだけ奇妙に感じられた。
冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターが九本、固形の栄養調整食品が三十九箱。
一本取り出して封を切り、齧って、噛む。
――ぼそぼそしている。
粉っぽくて、乾いている。甘いような、しょっぱいような、どちらでもないような。初めての日、シエルはこれを、ぼそぼそした四角いの、と言った。そのとおりだった。僕はそれを十八年間、毎日食べていた。
残りを飲み込む。
不味い、と思った。初めて、そう思った。
机の引き出しを開けると、黒い革の手帳がある。長老たちが遺したものだ。十三日分の記録が、びっしりと並んでいる。登校時刻、下校時刻、交友関係、残滓、交戦、損傷、エラー。
最後の頁を開いて、ペンを取る。しばらく考えて、一行だけ書いた。
――今夜の献立、シエルのハンバーグ。
手帳を閉じて、鞄に入れる。冷蔵庫の中の三十九箱は、置いていくことにした。
鍵を二度確かめて、部屋を出る。
振り返らなかった。
◇
その夜、シエルの部屋の台所。
僕はもう、あの部屋には住んでいなかった。駅の北側の古いアパート、壁に何も貼っていない六畳の部屋。冷蔵庫の中の、三十九箱の栄養調整食品。契約はまだ残っている。けれど、あの部屋に帰る理由を演算するより先に、シエルが合鍵を僕の手のひらに置いた。
――理由には、なっていなかった。
この人のすることは、いつもそうだ。
テーブルの上にシエルの端末が開かれていて、画面に教会の資料庫の記録が映っていた。
――東欧山間部、魔術師集落。一族名「スレイヨルン」。
崩れた石壁の、紋章の写真がある。蔦と牙。その前には、崩れた暖炉の跡。
「……見て、いいんですか」
「あなたの、一族の、記録です」
シエルは隣の椅子に座った。
僕は記録を上から読んでいった。ゆっくりと、一行ずつ。
――住民、推定六十余名。生存者、確認できず。
――地下貯蔵庫へ続く扉の前に、多量の血痕。血液の分析結果は、当時の宿主、エレイシア本人のものと一致。自傷によるものの可能性が高い。
――扉の奥の地下通路に、複数名が逃走した痕跡あり。通路の途中に、遺留品一点。編みかけの、乳児用の衣類。生存者の有無は、不明。
写真が添えられていた。灰色の毛糸で、片方の袖だけが編み上がり、もう片方はまだ編み針に掛かったまま。小さな、小さな産着。
指が止まった。
母のことは知らない。顔も、声も、名前も。長老たちは、母の話を一度もしなかった。
――あの女は、地下の通路を、這って逃げた。腹を、両腕で、庇いながら。
いちばん年老いた長老が、一度だけそう言った。
この袖を編んでいた手があった。生まれてくる誰かのために、もう片方の袖も編むつもりで。その手が、腹を庇っていた。
――胸が。
「……先輩」
「……はい」
「胸が、痛いです」
シエルが僕を見た。
「どこも、怪我を、していないのに。……胸の、奥が、痛いです」
シエルは何も言わずに、僕の手に自分の手を重ねた。しばらくして、小さく言った。
「それはね、有波くん。……悲しい、って、いうんです」
悲しい。
語義は知っていた。該当する状態、なし。ずっとそう記録してきた。
「……記録、します」
シエルの手が、少しだけ強く握られた。
それから記録をもう一度読み返して、僕は言った。
「この記録には、誤りが、あります」
シエルが僕を見た。
「……誤り」
「生存者の有無は、不明、とあります。……不明では、ありません。生存者は、六名です。うち、五名は、既に、死亡しています」
「……はい」
「一名は、ここにいます」
シエルの指が、膝の上で握り込まれた。
「それから、扉の前の、血痕。……自傷の可能性、とあります。正確では、ありません」
続ける。
「あれは、抵抗の、痕跡です。宿主が、蛇から、自分の右手を奪い返して、扉の向こうの生存者を、守った痕跡です」
シエルの呼吸が止まった。
「誤った記録を、放置する理由は、ありません」
あの夜、廊下で蛇に言ったのと同じように。
「……訂正、してください」
シエルは長いあいだ動かなかった。それから震える指で、端末に触れた。記録の末尾に注記の欄が開いて、一文字ずつ、ゆっくりと文字が並んでいく。
――追記。
――生存者、一名。カナリア・スレイヨルン。
そこで指が止まって、シエルは僕を見た。
「……カナリアなんて、呼ばないって、言ったのに」
「記録には、正確な名前が、必要です」
「……そうですね」
シエルは続きを打った。
――現在、有波叶人として、日本国内にて、人として生活中。
――扉前の血痕について。当時の宿主による、蛇への抵抗の痕跡と判明。自傷にあらず。上記生存者は、この抵抗により、生存したものである。
最後の一文を打ち終えて、シエルは端末から手を離した。その手が膝の上でぎゅっと握られて、震えていた。
僕は、包帯の取れかけた自分の右手を、その上に重ねた。
――なぜ、そうしたのか。もう、演算はしなかった。
◇
その週の金曜日。カレンダーのその日の枠には、こう書かれていた。
――カレー(三回目)。本当の、全快祝い。いちばん辛いやつ。
湯気の立つ皿が、テーブルに置かれた。ルウの色が今までと違う。赤い。表面に浮いた油が、ほとんど朱に近い。
「有波くんが、痛いの、わかるようになったので」
向かいの椅子に座ったシエルが、頬杖をついて、にこにこしながら言った。
「今日は、手加減、なしです。……最初の日の、お詫びのカレーより、辛いですよ」
スプーンを取る。右手で。包帯はもう取れていて、指先の皮膚はまだ薄く、赤い。
掬って、口に入れる。
――熱い。
違う。熱いのではない。舌の上で、口の中で、喉で、何かが燃えていた。燃えて、燃えて。
「――っ」
痛い。
口の中が痛い。舌が痛い。唇が痛い。喉の奥が、焼けるように痛い。
目の奥から何かが込み上げてきて、鼻の奥がつんとして、視界が滲んだ。ぽたりと、皿の横のテーブルに何かが落ちた。
「……っ、からい、です」
声がひっくり返った。
「辛いです。……痛い、です。先輩、これ、辛すぎます」
「あはは」
シエルが笑った。声を上げて、お腹を抱えて、目元に涙を浮かべて。
「辛いでしょう。……痛いでしょう」
「痛い、です。……舌が、痛い。先輩は、ずっと、こんなものを、食べていたんですか」
「ずっと、です」
「……信じられません」
もう一口掬って、口に入れる。
痛い。辛い。涙が止まらない。
それでも、その痛みの向こう側に、辛さの底のほうに、何かがあった。
玉葱の甘さ。肉の脂の深さ。香辛料のひとつひとつが、重なって、ほどけて、また重なって。そして、そのすべてを包んで。
温かい。
ああ。
これが。
「……美味しい、です」
泣きながら言った。
「辛くて。痛くて。……美味しいです、先輩」
シエルが笑うのをやめた。頬杖をついたまま、僕を見ていた。眼鏡の奥の目から、涙がひと筋流れていた。
「……見つけた」
シエルが呟いた。
「好きなもの。……やっと、見つけた」
僕は答えなかった。口の中が痛くて。
答える代わりに、もう一口掬った。
◇
それから、ひと月が過ぎた。
十一月の終わり、放課後の茶道部の部室。障子の向こうが夕焼けで赤かった。
客の座で、シエルが茶碗を両手で包んでいた。今日も引退した先輩の顔をして、当たり前のように客の座に収まっている。
「……苦くて、いい匂いがします」
シエルが言った。僕の口癖を真似して。
「真似を、しないでください」
「ふふ。だって、本当に、そうなんですもん」
茶筅を洗って、障子を少しだけ開ける。旧校舎一階のこの窓から、中庭越しに本校舎が見える。夕焼けに赤く染まった、二年の教室の窓が。
中庭を、ひとりの生徒が横切っていった。眼鏡に細い体、鞄を肩に掛けて。遠野志貴だった。校門のほうへ歩いていく。
この一か月、遠野志貴は放課後になると、いつもすぐに帰っていった。誰とも、あまり話さずに。
――アルクェイドは、蛇に線を切られて、消えたって、先輩が。
――でも、なんでかな。まだ、どっかに、いる気がするんだ。
中庭の真ん中で、遠野志貴の足が止まった。
同時に、部屋の隅に立てかけた鞄の中で、刃が鳴った。ほんの微かに。
――月の、共鳴。
シエルの手の中で、茶碗が小さく鳴った。シエルも気づいていた。
遠野志貴が振り返って、本校舎を見上げた。二年の教室の窓。夕焼けの光の中に、淡い金色の髪が見えた気がした。
一瞬だけ。
遠野志貴の肩から、鞄が落ちた。拾わなかった。走り出した。中庭を横切って、昇降口へ。まっすぐに、振り返らずに。胸の傷がまだ完全には塞がっていないはずなのに、全力で。
シエルが茶碗を畳の上に置いた。両手が震えていた。
「……あの人」
声がかすれていた。
「来たんですね。……ちゃんと、会いに」
◇
本校舎の二階、二年の教室へ続く廊下を、シエルと並んで歩いた。足音を立てないように。
追う理由はなかった。けれど、シエルが障子を開けて部室を出ていったから、僕もその後を歩いた。
教室の手前、廊下の角で、シエルが足を止めた。それ以上は近づかなかった。
教室の扉の磨り硝子の向こうに、夕焼けの光が満ちていた。その光の中に、人影が二つ並んでいる。ひとつは、制服の少年の影。もうひとつは、白い、柔らかそうな服の影。
声は聞こえなかった。聞こうともしなかった。シエルも、僕も。
ただ、白い影がときどき肩を揺らして、笑っているように見えた。楽しそうに。街灯の下で僕に、使われるのと選ぶのは違う、と言ったときと同じように。
シエルが、廊下の壁に背中を預けた。眼鏡を外して、手の甲で目元を押さえた。
「……よかった」
小さな声だった。
「半分だけ、本当のことを、言って。……ずっと、怖かったんです。遠野くんは、あの人のこと、本当に、死んだって、思ってるんじゃないかって」
磨り硝子の向こうで、二つの影が向かい合っていた。
「……よかった」
シエルは、もう一度言った。
僕は何も言わなかった。ただ、壁に預けたシエルの手のすぐ隣に、自分の手を置いた。指先が、少しだけ触れた。シエルは何も言わずに、その指先を握った。
夕焼けが、少しずつ紫に変わっていく。磨り硝子の向こうの白い影の輪郭が、夕焼けの光に溶けるように、少しずつ、少しずつ薄くなっていった。
やがて、磨り硝子の向こうの影は、ひとつだけになった。制服の少年の影が、ひとりで窓の外を見ていた。日が沈むまで、ずっと。
刃の共鳴は、もうどこにもなかった。
――記録。
しなかった。
シエルが眼鏡をかけ直した。僕の指先を、離さないまま。
「……帰りましょうか、有波くん」
「はい」
廊下を引き返す。足音を立てないように。教室の中の少年が、気づかないように。
あれは、あの二人のものだ。
昇降口へ下りる途中で、中庭に遠野志貴の鞄がひとつ、落ちたままになっているのが見えた。拾って、遠野志貴の下駄箱の上に置いておいた。
それだけ、した。それくらいはしてもいい気がした。
◇
夜、寝る前に、冷蔵庫の扉の表の前に立った。
ひと月分の升目に、体温、脈拍、食事の数字がびっしりと並んでいる。それから、ひと月分の空欄。「痛み」の列の白い升目が、目を覚ました日を境に途切れていた。
――痛み。背中。右手。左肩。少し。
――痛み。右手。少し。
――痛み。辛いカレーで、舌。
「気分」の列は、まだずっと白いままだった。
ペンを取る。今日の日付の欄。
――気分。
ペンが止まった。一秒。二秒。
演算は、しなかった。
書いた。
――温かい。
背後で、シエルが息を呑む音がした。
振り返らなかった。振り返ったら、この人が泣いているのが、わかってしまうから。
それは、推定ではなかった。
◇
明かりを消した部屋の、シエルのベッドの上。僕は壁際に、シエルはその隣に。
椅子で眠るのは、もうやめました、とシエルは言った。椅子だと腰が痛いので、と。合理的な理由だった。この人が合理的な理由を口にするのは、珍しかった。
暗がりの中で、シエルの腕が僕の背中に回された。傷の上を、そっと避けて。僕の額が、シエルの肩のくぼみに収まる。
シエルの髪から、香辛料と石鹸の匂いがした。
匂い。わかる。
シエルの胸の奥のほうから、とくん、とくん、と鼓動が聞こえた。速くも遅くもない、人間の鼓動。僕の鼓動と同じ速さの。
十三年前の雪の夜、この人は扉の向こうで、僕の鼓動を聞いていた。今夜は、僕がこの人の鼓動を聞いている。
僕の胸の上に、シエルの手が置かれていた。十一月の夜気で、指先が冷えていた。その指先が、僕の胸の上で少しずつ温まっていく。僕の体温で。三十五度九分、人より一度ほど低い体温で。
それでも、この人の指先は温まっていった。
「……有波くん」
シエルの声が、髪の上から降ってきた。
「はい」
「温かい、ですか」
演算はしなかった。しなくてもわかった。背中に回された腕が、額の下の肩が、胸と胸のあいだのわずかな隙間が、どこもかしこも、この人の体温で満ちていた。
「……温かい、です」
答えた。
「すごく。……温かい、です」
シエルの腕に、少しだけ力がこもった。
「……それはね、有波くん」
シエルの声は、ほとんど囁きだった。
「幸せ、って、いうんですよ」
幸せ。
語義は知っていた。満ち足りて、望ましい状態。該当する状態、なし。ずっとそう記録してきた。
今は。
「……記録、します」
小さく言った。
シエルがくすりと笑って、その振動が額に伝わってきた。温かかった。
明日の朝、冷蔵庫の扉の表の「気分」の欄に、書き足そう。温かい、の隣に、幸せ、と。たぶん、とひとこと添えて。
◇
――カナリアは、歌わない。
頭の奥で、声がした。嗄れた、老いた声。長老たちの声。
――カナリアは、鳴かない。
――カナリアは、誰も、温めない。
――カナリアは、誰にも、温められない。
――カナリアは、誰よりも先に、死ぬ。
ずっと、毎朝毎晩、頭蓋の内側で、正しく同じ言葉を繰り返してきた声。
その声が、今夜はひどく遠かった。遠くて、小さくて。まるで、ずっと昔に閉じた扉の向こう側から聞こえてくるように。
僕は目を閉じたまま、シエルの鼓動を聴きながら、口を開いた。
声は、ほとんど出なかった。息のような、かすかな音。
旋律。
あの朝、台所から聞こえてきた、少しだけ調子の外れたシエルの鼻歌。記録してあった。音程も、拍子も、外れ方まで正確に。それをなぞる。
下手だった。外れていた。シエルの鼻歌より、もっと。
シエルの肩が震えた。笑っているのか、泣いているのか。たぶん、両方だった。
「……有波くん」
震える声で、シエルが言った。
「今、歌って、ました?」
「……たぶん」
「たぶん」
「はい。……確信は、ありません」
シエルは、僕の頭を胸に抱き寄せた。強く。温かく。
「いいんです。たぶん、で」
囁くように。
「たぶん、で、十分です」
カナリアは、歌わない。
カナリアは、誰も、温めない。
カナリアは、誰にも、温められない。
長老たちは、そう言った。雪の中の子供を温めて、死んだ人たちが。
――訂正します。
心の中で呟く。記録の誤りは、放置する理由がない。
カナリアは。
今夜、少しだけ、歌った。
下手くそに。調子の外れた声で。誰かに温められて。誰かを温めて。あの雪の夜、扉の前で自分の腕を裂いて僕を守った人の、冷えた指先を、僕の低い体温で。
誰よりも先に死ぬためではなく。誰かの隣で、明日を生きるために。
窓の外で、十一月の夜風が鳴っていた。寒い夜だった。
それでも、この部屋は。この腕の中は。
温かかった。
カナリアは歌わない
超駆け足で終わらせましたが、これで取りあえず完結となります。
まほよの小説のほうでのアンケートから始まりましたが、どうだったでしょうか…
こんながっつり一人称視点メインの物語を書くのは初めてだったのですが、正直難しすぎました。
型月のオリ主×ヒロインアンケートはまたやると思います。
いつになるかは、わかりませんが。
カロリー激高なので、あまり高頻度でやると死んでしまいます。
いったんここからは、まほよの隈乃温泉篇とホヨバの小説のほうに注力しようかなと思います。
後日談的な番外編は、たまーに上げるかもです。