炭鉱のカナリア   作:にんら

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空席

第2 十月。転入二日目。

 

 朝五時半、起床。

 

 体温、三十五度九分。脈拍、毎分五十二。四肢の反応に異常なし。確認に要した時間は二秒。誤差、なし。

 

 朝食は一本。咀嚼四十回、嚥下。

 

 ――糖質、脂質、蛋白質。塩分、基準値内。毒性、なし。

 

 刃を鞘に収めて、ベルトの背中側へ。鏡の前で、口角を二ミリ上げる。

 

 鍵を二度確かめて、部屋を出る。

 

◇

 

 八時三十分。始業の鐘が鳴っても、担任の戸山は来なかった。

 

 五分。十分。

 

 教室がざわつきはじめる。

 

「戸山、休み?」

 

「珍しくね? あの人、皆勤賞だったのに」

 

「……なんか、昨日の夜、駅の向こうで警察が来てたって」

 

 十五分が過ぎた頃、教室の前の扉が開いた。

 

 入ってきたのは、戸山ではなかった。

 

「はーい、みんな、おはよう」

 

 女だった。

 

 ゆるく巻いた、明るい色の髪。体の線がはっきり出る、細身のスーツ。高いヒール。教壇に上がるとき、わざとらしく腰を揺らした。

 

 男子生徒の何人かが見とれ、女子生徒の何人かは露骨に眉をひそめた。

 

「戸山先生ね、ちょっと、ほら、最近の事件に巻き込まれちゃったみたいで。しばらく学校には来られないの。その間、このクラスの担任を代わりにやることになりました」

 

 黒板に名前を書く。丸みのある、大きな字で。

 

 ――愛染ノエル。

 

「体育と、英語。担当するのは、一か月の予定。……みんな、仲良くしてね?」

 

 ノエルは、教卓に肘をついて、教室をゆっくりと見回した。男子生徒の顔の上で、少しずつ視線を止めながら。

 

 教師の名簿を、頭の中でめくる。

 

 愛染ノエル。――該当、なし。

 

 当然だ。今日、着任したのだから。ただし、昨日の時点では、代理の教師が来るという連絡は、学校の掲示にも職員の会話にもなかった。

 

 急すぎる。

 

 ノエルの視線が、窓際の斜め前の席で止まった。

 

 遠野志貴。

 

 ほんの一瞬だった。笑みの形は崩れなかったが、目の奥の温度が変わった。

 

 品定めではない。確認だ。

 

 それから、その視線が、ゆっくりと僕のほうへ移ってきた。

 

「あら」

 

 ノエルが声を上げた。

 

「見ない顔。……っていうか、すっごく目立つ顔。あなた、転校生?」

 

「……昨日から、です」

 

「昨日」

 

 ノエルは首を傾げた。

 

「ふうん。昨日、ね。……私と、ほとんど同じタイミングなんだ。奇遇じゃない?」

 

 笑っていた。目は笑っていなかった。

 

 ――代理教師・愛染ノエル。着任の経緯、不自然。遠野志貴を注視。こちらにも関心。

 

 ――この視線は、教師のものではない。

 

 記録。

 

 僕は、何も答えずに目を伏せた。無口な転校生は、視線を向けられれば逸らす。それが手順だ。

 

 ノエルはしばらく僕を見ていたが、やがて、つまらなそうに出席簿を開いた。

 

◇

 

 ホームルームの終わり際。

 

「最後に、ひとつだけ」

 

 ノエルは出席簿を閉じて、教室を見渡した。

 

「最近、この街、物騒でしょ。殺人事件とか、行方不明とか。……だから、夜遅くまで、出歩かないこと。先生との、約束ね」

 

 軽い調子だった。けれど、その言葉の途中で、ノエルの目はまた遠野志貴の上で止まっていた。念を押すように。

 

 遠野志貴は窓の外を見たまま、気づいていないようだった。あるいは、気づかないふりをしているのか。

 

 ――代理教師・愛染ノエル。遠野志貴に対し、夜間外出への警告。意図、不明。

 

 ノエルが出ていったあと、教室は一斉にざわついた。

 

「なにあれ。教師?」

 

「やばくない? あのスーツ」

 

「男子、鼻の下伸びすぎ」

 

「伸びてねーよ」

 

 前のほうの席の女子生徒が二人、振り返った。

 

「ねえ、有波くんも、ああいうのが好きなの?」

 

「……別に」

 

「えー、ほんとに?」

 

「ほんとに」

 

 教科書を開く。二人はくすくす笑いながら、前を向いた。

 

 七回目。手順どおりに閉じる。

 

◇

 

 昼休み。屋上へ続く階段の、いちばん上の踊り場。

 

 扉には鍵がかかっていて、誰も来ない。転入前の下見で、確認してある。

 

 栄養調整食品を一本と、ミネラルウォーターを半分。咀嚼四十回。

 

「――見つけた」

 

 階段の下から声がした。軽い足音が、迷いなく上ってくる。

 

 シエルだった。片手に、小さな保存容器。透明な蓋の、四角いもの。

 

「やっぱり。また、それだけ」

 

 シエルは、僕の手元の栄養調整食品を見て、深く溜息をついた。

 

「学食にもいないし、教室にもいないし。……こんなところで、ひとりで、そんなの食べてたんですか」

 

「静かなので」

 

「静かでも、だめです」

 

 シエルは、階段を二段上がって、僕の隣に腰を下ろした。距離、四十センチ。

 

「はい。これ」

 

 保存容器を、膝の上に置かれる。

 

「……これは」

 

「おかずです。今朝、作りすぎちゃったので。……おすそ分け」

 

「作りすぎ」

 

「作りすぎ、です」

 

 シエルは、なぜか少しだけ目を逸らした。

 

「捨てるのも、もったいないし。昨日の、あれを見たら、ちょっと、放っておけなくて。……ほら、私、だらしない生き方、見てられないんです」

 

 蓋を開ける。

 

 卵焼き、唐揚げ、ほうれん草のおひたし、人参のきんぴら。隅に、カレー風味の小さな肉団子。ご飯は入っていない。

 

「ご飯は、その四角いので、どうぞ。……肉団子だけ、ちょっとだけ辛くしてあります。昨日、学食で、平気な顔してたから」

 

「……ありがとう、ございます」

 

「どういたしまして」

 

 断り続けると、不自然になる。それに、この上級生が何者なのかを知るためには、この接触は有用だ。

 

 食べる。

 

 卵焼き。咀嚼四十回。

 

 ――卵、砂糖、出汁。塩分、微量。毒性、なし。

 

 唐揚げ。

 

 ――鶏肉、醤油、生姜、大蒜。衣の油、やや多め。毒性、なし。

 

 肉団子。

 

 ――香辛料。カプサイシン、低濃度。

 

 数値が並んでいく。昨日の栄養調整食品と同じで、何も変わらない。

 

「……どうですか?」

 

 シエルが、横から覗き込んできた。

 

「美味しいです」

 

 訊かれたらそう答えるように、仕込まれている。

 

「ふふ。よかった」

 

 シエルは、自分の弁当箱を膝に乗せて、箸を動かしはじめた。茶色い仔犬の絵の蓋。

 

 嬉しそうだった。

 

 その理由を推定する。好意による接近。遠野志貴の監視のための、偽装の一部。あるいは、正体の知れない転校生を、手元に置いて観察するため。

 

 いずれでも構わない。こちらも、同じことをしているのだから。

 

「そういえば、代理の先生、来ましたね」

 

 シエルが言った。

 

「愛染先生。……すごい人でしたね、いろいろと」

 

「……はい」

 

「有波くん、ああいう先生、どう思います?」

 

「特に、何も」

 

「そう、ですか」

 

 シエルの声が、ほんの少しだけ平らになった。箸を持つ手が一瞬止まる。

 

 何かを考えている。

 

 ――上級生・シエル。代理教師・愛染ノエルの話題に、わずかな反応。

 

 最後の一口まで食べる。

 

 昼に必要な熱量は、栄養調整食品一本分。おかずを足せば、それを三割ほど上回る。残せば、不審に思われる。完食する。余剰の熱量は、今夜の巡回で消費すればいい。

 

「わあ。空っぽ」

 

 シエルが容器を覗き込んで、ぱっと笑った。

 

「えらいです。……あ、容器は、洗って返してくださいね。いつでも、いいので」

 

 空の保存容器が、膝の上に戻された。

 

 ――上級生・シエル。おかずの供与。一回限り、と推定。

 

 ――容器の返却。接触の機会、一回分確保。

 

 記録。

 

◇

 

 放課後。旧校舎の一階、いちばん奥にある茶道部の部室。

 

 引き戸を開けると、古い畳の匂いがした。

 

 八畳の和室。何も掛かっていない床の間。隅に積まれた、埃をかぶった段ボール箱。障子紙だけが、ところどころ新しく張り替えられている。

 

「何年も、使われてなかったんです。部員がいなくなって、そのまま。もったいないから、少しずつ、片付けてるんです」

 

「ひとりで、ですか」

 

「ひとりで、です」

 

 シエルは、少しだけ誇らしげに言って、釜の前に正座した。

 

 茶筅が、しゃかしゃかと鳴る。

 

 その手元に、無駄がない。手首の返し、指の角度、力の抜き方。作法が身についている、というだけではない。長い時間をかけて、何かを繰り返してきた人間の手。

 

 ――戦う人間の、指だ。

 

「はい、どうぞ」

 

 淡い緑の泡。作法は調べてある。椀を取り、回して、口をつける。

 

 ――カテキン、カフェイン。苦味成分、中程度。温度、六十二度。毒性、なし。

 

「……どうですか?」

 

「美味しいです」

 

「よかった。……ほら、温かいものを飲むと、ちょっと、ほっとするでしょう?」

 

 ほっとする。

 

 意味は知っている。該当する状態、なし。温度は六十二度で、それ以上の情報はない。

 

 ――カナリアは、誰にも、温められない。

 

 六十二度の液体が喉を通り過ぎて、胃の中で体温と混ざっていく。

 

 それだけだ。そう作られている。

 

「人はね、有波くん」

 

 シエルは、自分の分を点てながら、ぽつりと言った。

 

「温かいものを食べないと、心が、冷えちゃうんです。冷えきった心は、ちょっとやそっとじゃ、温まらないんですよ」

 

 返答は不要と判断して、黙って椀を置いた。

 

「ご家族は?」

 

「両親は、仕事で、海外に」

 

 書類どおりの答え。練習どおりの間。

 

「じゃあ、ひとり暮らし? ごはんは……朝も、夜も、あれ?」

 

「……はい」

 

 茶筅が止まった。

 

 眼鏡の奥の目が、じっと僕を見た。障子の向こうで、運動部の掛け声が遠く聞こえた。

 

「……さみしい顔、してますね」

 

「え?」

 

「あ、ごめんなさい。変なこと言いました」

 

 さみしい。欠けているものを、欠けていると感じる状態。

 

 該当、なし。

 

 欠けていると感じる機能が、僕には、はじめからないのだから。

 

 シエルは何かを振り払うように、ぱん、と両手を合わせた。

 

「ね、有波くん。入部、しませんか?」

 

 一枚の紙が差し出された。入部届。

 

 演算する。

 

 昨日、この旧校舎の地面の奥で、刃が蛇に似た共鳴を拾った。この部室は、その旧校舎の一階の奥にある。

 

 放課後、正当な理由で、毎日ここに出入りできる。共鳴の変化を、同じ場所で測定し続けられる。そして、正体不明の上級生を、すぐ近くで観察できる。

 

「……入ります」

 

「ほんとですか!」

 

 シエルは、畳の上で、ほとんど跳ねるようにして両手を合わせた。

 

「やった。部員、ふたりです。ふたり!」

 

 名前を書く。有波叶人。

 

「叶える、に、人」

 

 シエルが紙を覗き込んで、ゆっくり読み上げた。

 

「いいお名前ですね。……誰かの願いを、叶える人」

 

「……ありがとうございます」

 

 この名前を選んだのは、長老たちだ。

 

 願いを叶える人。一族の悲願を叶えるための部品。

 

 その意味で、この名前は正確だった。

 

◇

 

 帰り道、総耶の駅の北口。

 

 夕暮れの雑踏の中で、ふと、刃が鳴った。微かに。

 

 蛇の共鳴とは違う。もっと細く、もっと濁っている。人間だったものが人間でなくなっていく途中の、澱んだ匂い。

 

 死徒の下位の眷属。

 

 方角は駅の西、繁華街の裏路地。

 

 足を向けかけて、止める。

 

 蛇ではない。僕の任務の対象ではない。

 

 ――ただし、遠野志貴の帰宅経路に近い。

 

 演算する。

 

 遠野志貴は今日、茶道部には来なかった。終業後、まっすぐ下校している。遠野の屋敷へ向かう道は、駅の西の繁華街の端をかすめる。

 

 監視対象が、死徒の眷属に接触する可能性。低い。けれど、零ではない。

 

 路地の入口まで行く。

 

 誰もいない。残滓だけがある。

 

 それと。

 

 路地の奥、ゴミ箱の陰のアスファルトの上に、学生鞄がひとつ落ちていた。総耶高校の指定鞄。

 

 拾い上げる。名札はない。中身は、教科書と筆箱と、小さな財布。

 

 鞄の持ち手に、微かに体温が残っていた。

 

 ――三十度。落とされてから十分以内。

 

 持ち主はここにいて、鞄を置いたまま、どこかへ行った。

 

 あるいは。

 

 路地の、さらに奥へ目を凝らす。誰もいない。残滓も、それ以上は続いていない。

 

 鞄の中の教科書を、一冊開く。裏表紙に名前。

 

 ――遠野志貴。

 

 記録。

 

 ――十七時十一分。駅西の路地裏にて、遠野志貴の鞄を発見。持ち主、不在。周辺に死徒の下位眷属の残滓。

 

 鞄を元の場所に戻した。持ち去れば、持ち主が戻ったときに不審に思われる。

 

 電柱の陰に立つ。

 

 七分後、路地の奥から遠野志貴が歩いてきた。

 

 ふらついていた。眼鏡がずれている。額に汗。目の焦点が合っていない。自分がどうしてここにいるのか、わかっていないようだった。

 

 鞄を拾い上げて、周りを見回す。それから、何かを振り払うように頭を振って、表通りのほうへ歩いていった。

 

 ――対象、駅西の路地裏より出現。意識の混濁、推定。外傷は確認できず。

 

 ――路地裏で何があったのか、不明。

 

 遠野志貴の背中を、二十メートルの距離で、遠野の屋敷の門まで追った。

 

 門の向こうに消えるまで、遠野志貴は一度も振り返らなかった。

 

◇

 

 転入三日目、朝八時三十分。

 

 ノエルが出席簿を開いた。

 

「――弓塚さん。……弓塚さつきさん?」

 

 返事がなかった。

 

 斜め前のほうの席。昨日まで、遠野志貴の背中をちらちらと見ていた女子生徒の席が、空いていた。

 

「欠席、かな。連絡、来てないけど」

 

 ノエルは、出席簿に何かを書き込んで、次の名前を読み上げた。

 

 ――弓塚さつき。欠席。理由、不明。

 

 記録。

 

 空席の数、一。

 

 遠野志貴は、その空席を一度だけ見た。顔色は、昨日よりさらに白かった。

 

 観察する。手指に、微細な震え。呼吸、浅い。

 

 それから、制服のズボンの右のポケット。昨日まではなかった膨らみがある。細長く、硬いもの。長さは十数センチ。座るときに、無意識に、右手でそれを押さえた。

 

 ――対象の右ポケットに、細長い硬質の物体。刃物の可能性。

 

 昨日の路地裏の、意識の混濁。そして、今朝の刃物。

 

 この監視対象の周りで、何かが動きはじめている。

 

◇

 

 二時間目は体育だった。

 

 校庭に、秋の薄い日差し。ジャージ姿のノエルが、ホイッスルを首から下げて生徒たちの前に立った。

 

「はーい、今日は、百メートル走のタイム測るよー。男子から、二人ずつね」

 

 自分の番が来る。隣のレーンは乾有彦だった。

 

「転校生、悪いけど、負けねえからな」

 

「……そう」

 

 スタートの姿勢。

 

 演算する。総耶高校二年男子の、百メートル走の平均は十四秒台の前半。その範囲に収める。

 

 ホイッスル。

 

 走る。筋の出力を抑え、歩幅を揃える。呼吸を乱してみせる。

 

 ゴール。

 

「――十四秒二! 有波くん、平均ど真ん中ね」

 

 ノエルが、ストップウォッチを見ながら言った。

 

「乾くん、十三秒八。勝ちー」

 

「っしゃあ!」

 

 乾有彦が拳を突き上げた。

 

 僕は、膝に手をついて、肩で息をしてみせた。

 

 ――手順どおり。

 

 顔を上げると、ストップウォッチを持ったまま、ノエルがこちらを見ていた。

 

 笑っていた。目は笑っていなかった。

 

「……有波くん、さあ」

 

 すれ違いざまに、ノエルが小さく言った。

 

「息の上がり方、ちょっと、きれいすぎない?」

 

 答えなかった。答える合理的な理由がない。

 

 ノエルはそれ以上何も言わずに、次の生徒の名前を呼んだ。

 

 ――代理教師・愛染ノエル。こちらの身体能力の偽装に、疑念を示した可能性。

 

 ――手順の精度に、改善の余地あり。呼吸の乱れ方に、個体差の揺らぎを加えること。

 

 記録。

 

◇

 

 三時間目の途中で、遠野志貴は席を立った。

 

 教師に何かを告げて、教室を出ていく。足取りが、わずかに揺れている。

 

「また貧血かよ、あいつ」

 

 乾有彦が、誰に言うでもなく呟いた。

 

 十分後、窓の外に、校門を出ていく細い背中が見えた。

 

 ――対象、早退。十一時八分。

 

 尾行はしない。

 

 転入三日目の生徒が理由もなく早退すれば、目立つ。目立つことは、任務の障害になる。

 

 昨日の路地裏の件があるから、尾行の優先度は昨日までよりは高い。それでも、目立つことの損失のほうが大きい。

 

 ――尾行の優先度、中。下校後、屋敷周辺の確認で補う。

 

 そう判断した。

 

 窓の外で、細い背中が角を曲がって見えなくなった。

 

 空席の数、二。

 

◇

 

 昼休み。踊り場で、空の保存容器をシエルに返した。

 

「ぴかぴか。……パッキンまで、外して洗ってある」

 

「調べたので」

 

「調べたんですか。洗い方」

 

「はい」

 

 シエルは少しだけ黙った。

 

 それから、ふわりと笑って、布の包みを僕の膝に置いた。茶色い仔犬の絵の弁当箱。昨日シエルが自分の分を食べていたのと、同じ形のものだった。

 

「……これは」

 

「ついで、です」

 

 シエルは先に言った。

 

「どうせ毎朝、自分の分は作るので。ひとつ増えても、手間は、ほとんど同じなんです。……それに、あの四角いのだけじゃ、やっぱり、心配だから」

 

 少しだけ早口だった。

 

「余計なお世話だったら、言ってくださいね。……言わなかったら、明日も、作っちゃいますけど」

 

 断る理由を演算した。

 

 見つからなかった。

 

 断り続ければ、不自然になる。それに、この上級生が何者なのかを知るためには、この接触は有用だ。

 

「……ありがとう、ございます」

 

「どういたしまして」

 

 ――接触の手段、確保。弁当箱の受け渡し。

 

 有用な経路だった。

 

「遠野くん、また早退しちゃいましたね」

 

「……三時間目の、途中で」

 

「それに、弓塚さんも、お休み」

 

 シエルの声は柔らかい。けれど、その目は、階段の窓の向こう、校門の方角を、ほんの一瞬鋭く測った。

 

 ――上級生・シエル。遠野志貴の早退、および弓塚さつきの欠席を把握。追ってはいない。

 

 この人も、僕と同じ理由で追わないのか。それとも、別の理由があるのか。

 

 記録。

 

 今日の弁当は、小さなハンバーグと、茹でたブロッコリーと、ポテトサラダだった。

 

 ――挽肉、玉葱、ナツメグ。塩分、中程度。毒性、なし。

 

「どうですか?」

 

「美味しいです」

 

「ふふ。よかった」

 

◇

 

 放課後、茶道部の部室で、シエルは僕に茶筅の振り方を教えた。

 

 手首の角度、振幅、速度。見たとおりに再現する。

 

「……上手。上手すぎます。初めてですよね?」

 

「見たので」

 

「見ただけで?」

 

「はい」

 

「……でも、ちょっとだけ、固いかな」

 

 シエルが膝でにじり寄ってきて、僕の右手の上に、自分の手をそっと重ねた。

 

「力を、抜いて。……そう、手首を、柔らかく」

 

 ――体表温度、三十六度二分。

 

 ――脈拍、指先越しに毎分七十八。平常値よりやや速い。

 

 理由は不明。

 

 記録。

 

 僕の手の甲の温度は、三十三度。重ねられた手のひらとの差は、三度。

 

 その熱は、僕の皮膚に移っていく。数値として。それ以上のものとしては、何も移ってこない。

 

「ほら。泡が、細かくなった」

 

 茶碗の中で、淡い緑が、きめの細かい泡に変わっていた。

 

「上手です、有波くん」

 

 それから、シエルは自分の茶碗を両手で包んで、ぽつりと言った。

 

「……空いてる席、ふたつになっちゃいましたね。有波くんのクラス」

 

「はい」

 

「弓塚さん、何か、聞いてますか?」

 

「いいえ」

 

「……そう、ですか」

 

 シエルは、茶碗の中の泡を、じっと見下ろしていた。

 

「この街、最近、本当に、物騒だから。……有波くんも、気をつけてくださいね。夜は、あんまり、出歩かないで」

 

 代理教師と同じことを言う。

 

 ただし、この上級生の目は、教室で見たノエルの目とは違っていた。確認の目ではなかった。

 

 ――判定、保留。情報が足りない。

 

 手首の力を抜くと、泡が細かくなる。

 

 記録。技術として、有用。

 

 それだけだ。

 

 背中の刃に意識を向ける。

 

 旧校舎の、地面の奥。昨日と同じ共鳴。わずかに強い。

 

 ――記録。

 

◇

 

 夜十一時。駅の北側、繁華街の外れにある雑居ビルの屋上で、フェンスの外側に腰を下ろして街を見下ろす。

 

 夕方、遠野の屋敷の周辺を確認した。

 

 門は閉ざされていた。窓の明かりは、いつもどおり。遠野志貴がいつ帰宅したのかは、わからない。早退した十一時八分から日没までの間のどこかで、帰ったのだろう。

 

 刃を膝の上に置いて、目を閉じる。

 

 共鳴を聴く。

 

 ――静か。

 

 旧校舎の方角から、いつもの、爪の先ほどの微かな共鳴。それ以外は何もない。

 

 異常、なし。

 

 そのはずだった。

 

 ――鳴った。

 

 刃が。

 

 膝の上で、刃が跳ねた。

 

 目を開ける。刃が震えている。これまでのどんな共鳴とも違う。

 

 遠い何かに爪の先で触れる、のではない。巨きな何かが、向こうからこちらを押し潰しに来るような。

 

 北西。駅の向こうの、高級な集合住宅が建ち並ぶ一角。

 

 その方角の夜空が、一瞬だけ白く滲んで見えた。

 

 月。

 

 まるで、月そのものが、地上に降りてきたような。

 

 規模、測定不能。

 

 蛇ではない。

 

 蛇の共鳴は、細く、冷たく、ねじれている。これはもっと巨きく、もっと純粋で、もっと遠い。

 

 十秒。二十秒。三十秒。

 

 それから、潮が引くように共鳴は弱まっていった。弱まって、弱まって、やがて消えかけた灯のように細くなった。

 

 消えてはいない。ただ、ひどく弱っている。

 

 長老たちの遺した記録の、いちばん古い頁に、一行だけ書かれていたことがある。

 

 ――蛇を狩るものが、もうひとつ、ある。月の姫。白き真祖(しんそ)。あれには、決して、近づくな。

 

 フェンスを乗り越える。屋上から、隣のビルの屋上へ。

 

 北西へ。

 

◇

 

 二十分後。

 

 高層の集合住宅。白い外壁に、磨かれたガラスのエントランス。

 

 刃の芯が、上を指している。最上階に近いあたり。

 

 あの巨きな共鳴は、もうほとんど感じられない。眠っている獣の寝息のように、細く静かに、上のほうで続いている。

 

 エントランスには入らない。非常階段の外側の踊り場へ、壁を伝って上る。

 

 十五階。

 

 非常扉の細い隙間。その前の、コンクリートの床に。

 

 ――痕跡。

 

 しゃがんで、指先を近づける。

 

 乾いた黒い染み。ひとつ、ふたつ。踊り場から下の階へ向かって、点々と続いている。足跡の形に。

 

 ――靴底の痕跡。サイズ、二十六センチ前後。学生靴の形状。

 

 ――付着物、血液。

 

 ただし、刃の芯がその染みに反応している。

 

 ――血液、人間のものではない。

 

 あの巨きな共鳴と同じ周波数の、残り香。

 

 人間の靴が、人間ではないものの血を踏んで、この階段を下りていった。

 

 数える。

 

 踊り場から十四階へ。十四階から十三階へ。靴跡は、だんだん薄くなって、九階の踊り場で消えていた。

 

 ――血痕、靴跡、計二十三歩分。人間のものではない血液。踏んだのは人間。

 

 ――推定時刻、本日の昼過ぎ。

 

 昼過ぎ。三時間目の途中で早退した、細い背中。

 

 推論を組み立てる。

 

 遠野志貴が早退して、この建物に来た。ここで、人間ではない巨きな何かの血を浴び、それを踏んで階段を下りていった。

 

 ――推論。確度、低。保留。

 

 非常扉の向こうの、最上階を見上げる。

 

 あの寝息のような共鳴は、まだ続いている。弱っている。けれど、死んではいない。

 

 ――決して、近づくな。

 

 長老たちの記録の、一行。

 

 真祖は蛇ではない。僕の任務の対象ではない。弱っていても、あれは人が触れていい種類のものではない。

 

 非常階段を下りる。九階の、靴跡の途切れた踊り場を通り過ぎる。

 

◇

 

 午前一時。アパートの流し台で、仔犬の絵の弁当箱を洗う。蓋、本体、仕切り、箸箱。

 

 パッキンは外して、油汚れはぬるま湯で。

 

 温度、三十八度。指先が、数値を読み取る。それ以上の情報はない。

 

 水切り籠に伏せて、机に向かう。長老たちが遺した、黒い革の手帳を開く。

 

 ――代理教師・愛染ノエル。着任二日目。経緯、不自然。遠野志貴を注視し、夜間外出に警告。こちらにも関心。正体不明。要警戒。

 

 ――二日目夕刻、駅西の路地裏にて、遠野志貴、意識の混濁を伴い出現。原因、不明。

 

 ――三日目、弓塚さつき欠席。理由、不明。

 

 ――三日目、遠野志貴早退。尾行、せず。

 

 ――同日夜、北西の集合住宅最上階付近に巨大な反応。真祖の可能性、高。反応は急速に減衰。現在、微弱ながら持続。

 

 ――同建物の非常階段に、人間以外の血液を踏んだ学生靴の痕跡。遠野志貴との関連を推定。確度、低。

 

 ――茶道部に入部。旧校舎の共鳴の定点観測が可能に。

 

 ――上級生・シエル。弁当の供給、開始。接触の経路、安定。

 

 ペンを置く。過不足はない。

 

 空席の数を数える。

 

 弓塚さつきの席。早退した遠野志貴の席。

 

 ふたつ。

 

 明日は、いくつになるのか。

 

 推定できない。推定する必要もない。数えるだけだ。

 

 電気を消して、寝台に横たわる。

 

 体温、三十五度九分。脈拍、毎分五十二。誤差、なし。

 

 ――カナリアは、歌わない。

 

 ――カナリアは、鳴かない。

 

 ――カナリアは、誰も、温めない。

 

 ――カナリアは、誰にも、温められない。

 

 ――カナリアは、誰よりも先に、死ぬ。

 

 目を閉じる。

 

 眠りはいつもどおり、三十秒で訪れた。

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