第2 十月。転入二日目。
朝五時半、起床。
体温、三十五度九分。脈拍、毎分五十二。四肢の反応に異常なし。確認に要した時間は二秒。誤差、なし。
朝食は一本。咀嚼四十回、嚥下。
――糖質、脂質、蛋白質。塩分、基準値内。毒性、なし。
刃を鞘に収めて、ベルトの背中側へ。鏡の前で、口角を二ミリ上げる。
鍵を二度確かめて、部屋を出る。
◇
八時三十分。始業の鐘が鳴っても、担任の戸山は来なかった。
五分。十分。
教室がざわつきはじめる。
「戸山、休み?」
「珍しくね? あの人、皆勤賞だったのに」
「……なんか、昨日の夜、駅の向こうで警察が来てたって」
十五分が過ぎた頃、教室の前の扉が開いた。
入ってきたのは、戸山ではなかった。
「はーい、みんな、おはよう」
女だった。
ゆるく巻いた、明るい色の髪。体の線がはっきり出る、細身のスーツ。高いヒール。教壇に上がるとき、わざとらしく腰を揺らした。
男子生徒の何人かが見とれ、女子生徒の何人かは露骨に眉をひそめた。
「戸山先生ね、ちょっと、ほら、最近の事件に巻き込まれちゃったみたいで。しばらく学校には来られないの。その間、このクラスの担任を代わりにやることになりました」
黒板に名前を書く。丸みのある、大きな字で。
――愛染ノエル。
「体育と、英語。担当するのは、一か月の予定。……みんな、仲良くしてね?」
ノエルは、教卓に肘をついて、教室をゆっくりと見回した。男子生徒の顔の上で、少しずつ視線を止めながら。
教師の名簿を、頭の中でめくる。
愛染ノエル。――該当、なし。
当然だ。今日、着任したのだから。ただし、昨日の時点では、代理の教師が来るという連絡は、学校の掲示にも職員の会話にもなかった。
急すぎる。
ノエルの視線が、窓際の斜め前の席で止まった。
遠野志貴。
ほんの一瞬だった。笑みの形は崩れなかったが、目の奥の温度が変わった。
品定めではない。確認だ。
それから、その視線が、ゆっくりと僕のほうへ移ってきた。
「あら」
ノエルが声を上げた。
「見ない顔。……っていうか、すっごく目立つ顔。あなた、転校生?」
「……昨日から、です」
「昨日」
ノエルは首を傾げた。
「ふうん。昨日、ね。……私と、ほとんど同じタイミングなんだ。奇遇じゃない?」
笑っていた。目は笑っていなかった。
――代理教師・愛染ノエル。着任の経緯、不自然。遠野志貴を注視。こちらにも関心。
――この視線は、教師のものではない。
記録。
僕は、何も答えずに目を伏せた。無口な転校生は、視線を向けられれば逸らす。それが手順だ。
ノエルはしばらく僕を見ていたが、やがて、つまらなそうに出席簿を開いた。
◇
ホームルームの終わり際。
「最後に、ひとつだけ」
ノエルは出席簿を閉じて、教室を見渡した。
「最近、この街、物騒でしょ。殺人事件とか、行方不明とか。……だから、夜遅くまで、出歩かないこと。先生との、約束ね」
軽い調子だった。けれど、その言葉の途中で、ノエルの目はまた遠野志貴の上で止まっていた。念を押すように。
遠野志貴は窓の外を見たまま、気づいていないようだった。あるいは、気づかないふりをしているのか。
――代理教師・愛染ノエル。遠野志貴に対し、夜間外出への警告。意図、不明。
ノエルが出ていったあと、教室は一斉にざわついた。
「なにあれ。教師?」
「やばくない? あのスーツ」
「男子、鼻の下伸びすぎ」
「伸びてねーよ」
前のほうの席の女子生徒が二人、振り返った。
「ねえ、有波くんも、ああいうのが好きなの?」
「……別に」
「えー、ほんとに?」
「ほんとに」
教科書を開く。二人はくすくす笑いながら、前を向いた。
七回目。手順どおりに閉じる。
◇
昼休み。屋上へ続く階段の、いちばん上の踊り場。
扉には鍵がかかっていて、誰も来ない。転入前の下見で、確認してある。
栄養調整食品を一本と、ミネラルウォーターを半分。咀嚼四十回。
「――見つけた」
階段の下から声がした。軽い足音が、迷いなく上ってくる。
シエルだった。片手に、小さな保存容器。透明な蓋の、四角いもの。
「やっぱり。また、それだけ」
シエルは、僕の手元の栄養調整食品を見て、深く溜息をついた。
「学食にもいないし、教室にもいないし。……こんなところで、ひとりで、そんなの食べてたんですか」
「静かなので」
「静かでも、だめです」
シエルは、階段を二段上がって、僕の隣に腰を下ろした。距離、四十センチ。
「はい。これ」
保存容器を、膝の上に置かれる。
「……これは」
「おかずです。今朝、作りすぎちゃったので。……おすそ分け」
「作りすぎ」
「作りすぎ、です」
シエルは、なぜか少しだけ目を逸らした。
「捨てるのも、もったいないし。昨日の、あれを見たら、ちょっと、放っておけなくて。……ほら、私、だらしない生き方、見てられないんです」
蓋を開ける。
卵焼き、唐揚げ、ほうれん草のおひたし、人参のきんぴら。隅に、カレー風味の小さな肉団子。ご飯は入っていない。
「ご飯は、その四角いので、どうぞ。……肉団子だけ、ちょっとだけ辛くしてあります。昨日、学食で、平気な顔してたから」
「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
断り続けると、不自然になる。それに、この上級生が何者なのかを知るためには、この接触は有用だ。
食べる。
卵焼き。咀嚼四十回。
――卵、砂糖、出汁。塩分、微量。毒性、なし。
唐揚げ。
――鶏肉、醤油、生姜、大蒜。衣の油、やや多め。毒性、なし。
肉団子。
――香辛料。カプサイシン、低濃度。
数値が並んでいく。昨日の栄養調整食品と同じで、何も変わらない。
「……どうですか?」
シエルが、横から覗き込んできた。
「美味しいです」
訊かれたらそう答えるように、仕込まれている。
「ふふ。よかった」
シエルは、自分の弁当箱を膝に乗せて、箸を動かしはじめた。茶色い仔犬の絵の蓋。
嬉しそうだった。
その理由を推定する。好意による接近。遠野志貴の監視のための、偽装の一部。あるいは、正体の知れない転校生を、手元に置いて観察するため。
いずれでも構わない。こちらも、同じことをしているのだから。
「そういえば、代理の先生、来ましたね」
シエルが言った。
「愛染先生。……すごい人でしたね、いろいろと」
「……はい」
「有波くん、ああいう先生、どう思います?」
「特に、何も」
「そう、ですか」
シエルの声が、ほんの少しだけ平らになった。箸を持つ手が一瞬止まる。
何かを考えている。
――上級生・シエル。代理教師・愛染ノエルの話題に、わずかな反応。
最後の一口まで食べる。
昼に必要な熱量は、栄養調整食品一本分。おかずを足せば、それを三割ほど上回る。残せば、不審に思われる。完食する。余剰の熱量は、今夜の巡回で消費すればいい。
「わあ。空っぽ」
シエルが容器を覗き込んで、ぱっと笑った。
「えらいです。……あ、容器は、洗って返してくださいね。いつでも、いいので」
空の保存容器が、膝の上に戻された。
――上級生・シエル。おかずの供与。一回限り、と推定。
――容器の返却。接触の機会、一回分確保。
記録。
◇
放課後。旧校舎の一階、いちばん奥にある茶道部の部室。
引き戸を開けると、古い畳の匂いがした。
八畳の和室。何も掛かっていない床の間。隅に積まれた、埃をかぶった段ボール箱。障子紙だけが、ところどころ新しく張り替えられている。
「何年も、使われてなかったんです。部員がいなくなって、そのまま。もったいないから、少しずつ、片付けてるんです」
「ひとりで、ですか」
「ひとりで、です」
シエルは、少しだけ誇らしげに言って、釜の前に正座した。
茶筅が、しゃかしゃかと鳴る。
その手元に、無駄がない。手首の返し、指の角度、力の抜き方。作法が身についている、というだけではない。長い時間をかけて、何かを繰り返してきた人間の手。
――戦う人間の、指だ。
「はい、どうぞ」
淡い緑の泡。作法は調べてある。椀を取り、回して、口をつける。
――カテキン、カフェイン。苦味成分、中程度。温度、六十二度。毒性、なし。
「……どうですか?」
「美味しいです」
「よかった。……ほら、温かいものを飲むと、ちょっと、ほっとするでしょう?」
ほっとする。
意味は知っている。該当する状態、なし。温度は六十二度で、それ以上の情報はない。
――カナリアは、誰にも、温められない。
六十二度の液体が喉を通り過ぎて、胃の中で体温と混ざっていく。
それだけだ。そう作られている。
「人はね、有波くん」
シエルは、自分の分を点てながら、ぽつりと言った。
「温かいものを食べないと、心が、冷えちゃうんです。冷えきった心は、ちょっとやそっとじゃ、温まらないんですよ」
返答は不要と判断して、黙って椀を置いた。
「ご家族は?」
「両親は、仕事で、海外に」
書類どおりの答え。練習どおりの間。
「じゃあ、ひとり暮らし? ごはんは……朝も、夜も、あれ?」
「……はい」
茶筅が止まった。
眼鏡の奥の目が、じっと僕を見た。障子の向こうで、運動部の掛け声が遠く聞こえた。
「……さみしい顔、してますね」
「え?」
「あ、ごめんなさい。変なこと言いました」
さみしい。欠けているものを、欠けていると感じる状態。
該当、なし。
欠けていると感じる機能が、僕には、はじめからないのだから。
シエルは何かを振り払うように、ぱん、と両手を合わせた。
「ね、有波くん。入部、しませんか?」
一枚の紙が差し出された。入部届。
演算する。
昨日、この旧校舎の地面の奥で、刃が蛇に似た共鳴を拾った。この部室は、その旧校舎の一階の奥にある。
放課後、正当な理由で、毎日ここに出入りできる。共鳴の変化を、同じ場所で測定し続けられる。そして、正体不明の上級生を、すぐ近くで観察できる。
「……入ります」
「ほんとですか!」
シエルは、畳の上で、ほとんど跳ねるようにして両手を合わせた。
「やった。部員、ふたりです。ふたり!」
名前を書く。有波叶人。
「叶える、に、人」
シエルが紙を覗き込んで、ゆっくり読み上げた。
「いいお名前ですね。……誰かの願いを、叶える人」
「……ありがとうございます」
この名前を選んだのは、長老たちだ。
願いを叶える人。一族の悲願を叶えるための部品。
その意味で、この名前は正確だった。
◇
帰り道、総耶の駅の北口。
夕暮れの雑踏の中で、ふと、刃が鳴った。微かに。
蛇の共鳴とは違う。もっと細く、もっと濁っている。人間だったものが人間でなくなっていく途中の、澱んだ匂い。
死徒の下位の眷属。
方角は駅の西、繁華街の裏路地。
足を向けかけて、止める。
蛇ではない。僕の任務の対象ではない。
――ただし、遠野志貴の帰宅経路に近い。
演算する。
遠野志貴は今日、茶道部には来なかった。終業後、まっすぐ下校している。遠野の屋敷へ向かう道は、駅の西の繁華街の端をかすめる。
監視対象が、死徒の眷属に接触する可能性。低い。けれど、零ではない。
路地の入口まで行く。
誰もいない。残滓だけがある。
それと。
路地の奥、ゴミ箱の陰のアスファルトの上に、学生鞄がひとつ落ちていた。総耶高校の指定鞄。
拾い上げる。名札はない。中身は、教科書と筆箱と、小さな財布。
鞄の持ち手に、微かに体温が残っていた。
――三十度。落とされてから十分以内。
持ち主はここにいて、鞄を置いたまま、どこかへ行った。
あるいは。
路地の、さらに奥へ目を凝らす。誰もいない。残滓も、それ以上は続いていない。
鞄の中の教科書を、一冊開く。裏表紙に名前。
――遠野志貴。
記録。
――十七時十一分。駅西の路地裏にて、遠野志貴の鞄を発見。持ち主、不在。周辺に死徒の下位眷属の残滓。
鞄を元の場所に戻した。持ち去れば、持ち主が戻ったときに不審に思われる。
電柱の陰に立つ。
七分後、路地の奥から遠野志貴が歩いてきた。
ふらついていた。眼鏡がずれている。額に汗。目の焦点が合っていない。自分がどうしてここにいるのか、わかっていないようだった。
鞄を拾い上げて、周りを見回す。それから、何かを振り払うように頭を振って、表通りのほうへ歩いていった。
――対象、駅西の路地裏より出現。意識の混濁、推定。外傷は確認できず。
――路地裏で何があったのか、不明。
遠野志貴の背中を、二十メートルの距離で、遠野の屋敷の門まで追った。
門の向こうに消えるまで、遠野志貴は一度も振り返らなかった。
◇
転入三日目、朝八時三十分。
ノエルが出席簿を開いた。
「――弓塚さん。……弓塚さつきさん?」
返事がなかった。
斜め前のほうの席。昨日まで、遠野志貴の背中をちらちらと見ていた女子生徒の席が、空いていた。
「欠席、かな。連絡、来てないけど」
ノエルは、出席簿に何かを書き込んで、次の名前を読み上げた。
――弓塚さつき。欠席。理由、不明。
記録。
空席の数、一。
遠野志貴は、その空席を一度だけ見た。顔色は、昨日よりさらに白かった。
観察する。手指に、微細な震え。呼吸、浅い。
それから、制服のズボンの右のポケット。昨日まではなかった膨らみがある。細長く、硬いもの。長さは十数センチ。座るときに、無意識に、右手でそれを押さえた。
――対象の右ポケットに、細長い硬質の物体。刃物の可能性。
昨日の路地裏の、意識の混濁。そして、今朝の刃物。
この監視対象の周りで、何かが動きはじめている。
◇
二時間目は体育だった。
校庭に、秋の薄い日差し。ジャージ姿のノエルが、ホイッスルを首から下げて生徒たちの前に立った。
「はーい、今日は、百メートル走のタイム測るよー。男子から、二人ずつね」
自分の番が来る。隣のレーンは乾有彦だった。
「転校生、悪いけど、負けねえからな」
「……そう」
スタートの姿勢。
演算する。総耶高校二年男子の、百メートル走の平均は十四秒台の前半。その範囲に収める。
ホイッスル。
走る。筋の出力を抑え、歩幅を揃える。呼吸を乱してみせる。
ゴール。
「――十四秒二! 有波くん、平均ど真ん中ね」
ノエルが、ストップウォッチを見ながら言った。
「乾くん、十三秒八。勝ちー」
「っしゃあ!」
乾有彦が拳を突き上げた。
僕は、膝に手をついて、肩で息をしてみせた。
――手順どおり。
顔を上げると、ストップウォッチを持ったまま、ノエルがこちらを見ていた。
笑っていた。目は笑っていなかった。
「……有波くん、さあ」
すれ違いざまに、ノエルが小さく言った。
「息の上がり方、ちょっと、きれいすぎない?」
答えなかった。答える合理的な理由がない。
ノエルはそれ以上何も言わずに、次の生徒の名前を呼んだ。
――代理教師・愛染ノエル。こちらの身体能力の偽装に、疑念を示した可能性。
――手順の精度に、改善の余地あり。呼吸の乱れ方に、個体差の揺らぎを加えること。
記録。
◇
三時間目の途中で、遠野志貴は席を立った。
教師に何かを告げて、教室を出ていく。足取りが、わずかに揺れている。
「また貧血かよ、あいつ」
乾有彦が、誰に言うでもなく呟いた。
十分後、窓の外に、校門を出ていく細い背中が見えた。
――対象、早退。十一時八分。
尾行はしない。
転入三日目の生徒が理由もなく早退すれば、目立つ。目立つことは、任務の障害になる。
昨日の路地裏の件があるから、尾行の優先度は昨日までよりは高い。それでも、目立つことの損失のほうが大きい。
――尾行の優先度、中。下校後、屋敷周辺の確認で補う。
そう判断した。
窓の外で、細い背中が角を曲がって見えなくなった。
空席の数、二。
◇
昼休み。踊り場で、空の保存容器をシエルに返した。
「ぴかぴか。……パッキンまで、外して洗ってある」
「調べたので」
「調べたんですか。洗い方」
「はい」
シエルは少しだけ黙った。
それから、ふわりと笑って、布の包みを僕の膝に置いた。茶色い仔犬の絵の弁当箱。昨日シエルが自分の分を食べていたのと、同じ形のものだった。
「……これは」
「ついで、です」
シエルは先に言った。
「どうせ毎朝、自分の分は作るので。ひとつ増えても、手間は、ほとんど同じなんです。……それに、あの四角いのだけじゃ、やっぱり、心配だから」
少しだけ早口だった。
「余計なお世話だったら、言ってくださいね。……言わなかったら、明日も、作っちゃいますけど」
断る理由を演算した。
見つからなかった。
断り続ければ、不自然になる。それに、この上級生が何者なのかを知るためには、この接触は有用だ。
「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
――接触の手段、確保。弁当箱の受け渡し。
有用な経路だった。
「遠野くん、また早退しちゃいましたね」
「……三時間目の、途中で」
「それに、弓塚さんも、お休み」
シエルの声は柔らかい。けれど、その目は、階段の窓の向こう、校門の方角を、ほんの一瞬鋭く測った。
――上級生・シエル。遠野志貴の早退、および弓塚さつきの欠席を把握。追ってはいない。
この人も、僕と同じ理由で追わないのか。それとも、別の理由があるのか。
記録。
今日の弁当は、小さなハンバーグと、茹でたブロッコリーと、ポテトサラダだった。
――挽肉、玉葱、ナツメグ。塩分、中程度。毒性、なし。
「どうですか?」
「美味しいです」
「ふふ。よかった」
◇
放課後、茶道部の部室で、シエルは僕に茶筅の振り方を教えた。
手首の角度、振幅、速度。見たとおりに再現する。
「……上手。上手すぎます。初めてですよね?」
「見たので」
「見ただけで?」
「はい」
「……でも、ちょっとだけ、固いかな」
シエルが膝でにじり寄ってきて、僕の右手の上に、自分の手をそっと重ねた。
「力を、抜いて。……そう、手首を、柔らかく」
――体表温度、三十六度二分。
――脈拍、指先越しに毎分七十八。平常値よりやや速い。
理由は不明。
記録。
僕の手の甲の温度は、三十三度。重ねられた手のひらとの差は、三度。
その熱は、僕の皮膚に移っていく。数値として。それ以上のものとしては、何も移ってこない。
「ほら。泡が、細かくなった」
茶碗の中で、淡い緑が、きめの細かい泡に変わっていた。
「上手です、有波くん」
それから、シエルは自分の茶碗を両手で包んで、ぽつりと言った。
「……空いてる席、ふたつになっちゃいましたね。有波くんのクラス」
「はい」
「弓塚さん、何か、聞いてますか?」
「いいえ」
「……そう、ですか」
シエルは、茶碗の中の泡を、じっと見下ろしていた。
「この街、最近、本当に、物騒だから。……有波くんも、気をつけてくださいね。夜は、あんまり、出歩かないで」
代理教師と同じことを言う。
ただし、この上級生の目は、教室で見たノエルの目とは違っていた。確認の目ではなかった。
――判定、保留。情報が足りない。
手首の力を抜くと、泡が細かくなる。
記録。技術として、有用。
それだけだ。
背中の刃に意識を向ける。
旧校舎の、地面の奥。昨日と同じ共鳴。わずかに強い。
――記録。
◇
夜十一時。駅の北側、繁華街の外れにある雑居ビルの屋上で、フェンスの外側に腰を下ろして街を見下ろす。
夕方、遠野の屋敷の周辺を確認した。
門は閉ざされていた。窓の明かりは、いつもどおり。遠野志貴がいつ帰宅したのかは、わからない。早退した十一時八分から日没までの間のどこかで、帰ったのだろう。
刃を膝の上に置いて、目を閉じる。
共鳴を聴く。
――静か。
旧校舎の方角から、いつもの、爪の先ほどの微かな共鳴。それ以外は何もない。
異常、なし。
そのはずだった。
――鳴った。
刃が。
膝の上で、刃が跳ねた。
目を開ける。刃が震えている。これまでのどんな共鳴とも違う。
遠い何かに爪の先で触れる、のではない。巨きな何かが、向こうからこちらを押し潰しに来るような。
北西。駅の向こうの、高級な集合住宅が建ち並ぶ一角。
その方角の夜空が、一瞬だけ白く滲んで見えた。
月。
まるで、月そのものが、地上に降りてきたような。
規模、測定不能。
蛇ではない。
蛇の共鳴は、細く、冷たく、ねじれている。これはもっと巨きく、もっと純粋で、もっと遠い。
十秒。二十秒。三十秒。
それから、潮が引くように共鳴は弱まっていった。弱まって、弱まって、やがて消えかけた灯のように細くなった。
消えてはいない。ただ、ひどく弱っている。
長老たちの遺した記録の、いちばん古い頁に、一行だけ書かれていたことがある。
――蛇を狩るものが、もうひとつ、ある。月の姫。白き真祖(しんそ)。あれには、決して、近づくな。
フェンスを乗り越える。屋上から、隣のビルの屋上へ。
北西へ。
◇
二十分後。
高層の集合住宅。白い外壁に、磨かれたガラスのエントランス。
刃の芯が、上を指している。最上階に近いあたり。
あの巨きな共鳴は、もうほとんど感じられない。眠っている獣の寝息のように、細く静かに、上のほうで続いている。
エントランスには入らない。非常階段の外側の踊り場へ、壁を伝って上る。
十五階。
非常扉の細い隙間。その前の、コンクリートの床に。
――痕跡。
しゃがんで、指先を近づける。
乾いた黒い染み。ひとつ、ふたつ。踊り場から下の階へ向かって、点々と続いている。足跡の形に。
――靴底の痕跡。サイズ、二十六センチ前後。学生靴の形状。
――付着物、血液。
ただし、刃の芯がその染みに反応している。
――血液、人間のものではない。
あの巨きな共鳴と同じ周波数の、残り香。
人間の靴が、人間ではないものの血を踏んで、この階段を下りていった。
数える。
踊り場から十四階へ。十四階から十三階へ。靴跡は、だんだん薄くなって、九階の踊り場で消えていた。
――血痕、靴跡、計二十三歩分。人間のものではない血液。踏んだのは人間。
――推定時刻、本日の昼過ぎ。
昼過ぎ。三時間目の途中で早退した、細い背中。
推論を組み立てる。
遠野志貴が早退して、この建物に来た。ここで、人間ではない巨きな何かの血を浴び、それを踏んで階段を下りていった。
――推論。確度、低。保留。
非常扉の向こうの、最上階を見上げる。
あの寝息のような共鳴は、まだ続いている。弱っている。けれど、死んではいない。
――決して、近づくな。
長老たちの記録の、一行。
真祖は蛇ではない。僕の任務の対象ではない。弱っていても、あれは人が触れていい種類のものではない。
非常階段を下りる。九階の、靴跡の途切れた踊り場を通り過ぎる。
◇
午前一時。アパートの流し台で、仔犬の絵の弁当箱を洗う。蓋、本体、仕切り、箸箱。
パッキンは外して、油汚れはぬるま湯で。
温度、三十八度。指先が、数値を読み取る。それ以上の情報はない。
水切り籠に伏せて、机に向かう。長老たちが遺した、黒い革の手帳を開く。
――代理教師・愛染ノエル。着任二日目。経緯、不自然。遠野志貴を注視し、夜間外出に警告。こちらにも関心。正体不明。要警戒。
――二日目夕刻、駅西の路地裏にて、遠野志貴、意識の混濁を伴い出現。原因、不明。
――三日目、弓塚さつき欠席。理由、不明。
――三日目、遠野志貴早退。尾行、せず。
――同日夜、北西の集合住宅最上階付近に巨大な反応。真祖の可能性、高。反応は急速に減衰。現在、微弱ながら持続。
――同建物の非常階段に、人間以外の血液を踏んだ学生靴の痕跡。遠野志貴との関連を推定。確度、低。
――茶道部に入部。旧校舎の共鳴の定点観測が可能に。
――上級生・シエル。弁当の供給、開始。接触の経路、安定。
ペンを置く。過不足はない。
空席の数を数える。
弓塚さつきの席。早退した遠野志貴の席。
ふたつ。
明日は、いくつになるのか。
推定できない。推定する必要もない。数えるだけだ。
電気を消して、寝台に横たわる。
体温、三十五度九分。脈拍、毎分五十二。誤差、なし。
――カナリアは、歌わない。
――カナリアは、鳴かない。
――カナリアは、誰も、温めない。
――カナリアは、誰にも、温められない。
――カナリアは、誰よりも先に、死ぬ。
目を閉じる。
眠りはいつもどおり、三十秒で訪れた。