転入四日目。朝の七時四十分。
森の手前、住宅街の外れの交差点。電柱の陰。
遠野の屋敷から学校へ向かうなら、必ずここを通る。地図で確かめてある。
昨夜、北西の集合住宅の非常階段で、学生靴の跡を見つけた。人間ではないものの血を踏んで、九階まで下りていった二十三歩分の跡だ。
その靴の持ち主が遠野志貴であるかどうか、確かめる方法はない。ただ、観察を続けるだけだ。
七時五十二分、坂の上から遠野志貴が下りてきた。
ひとりだった。鞄を肩に掛けて、背中を丸めている。顔色は昨日よりさらに悪く、目の下に黒い影がある。眠れなかったのだろう。
――対象、登校。表情、著しい疲労。挙動、不安定。
遠野志貴が交差点を渡る。その先、通学路の白いガードレールの上に、誰かが腰掛けていた。
白い柔らかそうなセーターに、淡い金色の髪。すらりとした脚を、ぶらぶらと揺らしている。朝の光の中で、そこだけ光の当たり方が違って見えた。
背中の刃が鳴った。
昨夜、北西の空で感じた、あの巨きく純粋な共鳴。ただし、ひどく弱い。消えかけた灯のように、細い。
――昨夜の、月の反応。
あの女だ。
遠野志貴の足が止まった。その顔から、目に見える速さで血の気が引いていった。まるで、死んだはずの人間に出会ったように。
女がガードレールからひょいと飛び降りて、にこにこと笑いながら遠野志貴の方へ歩いていく。何かを言った。距離は六十メートルで、聞こえない。
遠野志貴が後ずさった。女はその手首を掴み、そのまま通学路を外れて、細い路地の方へ引きずっていった。
――対象・遠野志貴、真祖と思われる女と接触。七時五十四分。路地へ移動。
――対象の反応は恐怖、あるいは強い動揺。両者の間に、既知の関係がある可能性、高。
記録。
追う。路地の入口まで行って、覗き込む。誰もいなかった。
路地の奥のブロック塀の上で、白いものが一瞬だけ揺れて、消えた。人間の脚では、ありえない跳躍だ。
――追跡不可。
真祖は蛇ではない。僕の任務の、対象ではない。
そして、あれには、決して、近づくな。
長老たちの記録の、一行だ。
演算する。遠野志貴は今日、学校には来ない。転入四日目の転校生が、監視対象と同じ日に欠席すれば、関連を疑われる可能性がある。とくに、あの代理教師に。
――登校し、通常の行動を維持する。放課後、真祖の共鳴を辿る。
そう判断した。
◇
八時三十分。
「――遠野くん。……遠野志貴くん?」
ノエルが、出席簿から顔を上げた。窓際の斜め前の席は、空いていた。
「あら、遠野くんも、お休み?」
ノエルの声は軽かった。けれど、出席簿に何かを書き込むペンの先が、一瞬止まった。それから、その視線が遠野志貴の空席から、ゆっくりと僕の方へ滑ってきた。
一秒。
僕は教科書に目を落としていた。視線を向けられれば、逸らす。それが手順だ。
ノエルは何も言わずに、次の名前を読み上げた。
――弓塚さつき、欠席。二日目。
――遠野志貴、欠席。
空席の数は二。昨日、早退していた遠野志貴の席を数えれば、昨日から変わっていない。けれど、今日の空席の意味は昨日とは違う。昨日は早退だった。今日は、真祖に連れ去られた。
記録。
◇
昼休み。屋上へ続く階段の、いちばん上の踊り場。約束の時刻の二分前に、階段の下から軽い足音がした。
「有波くん、お待たせしました」
シエルだ。片手に新しい包み、もう片手に自分の分の包み。
空の弁当箱を差し出す。
「ぴかぴか。……ありがとうございます」
新しい包みを受け取る。同じ仔犬の絵の弁当箱だ。蓋を開ける。
「今日のは、ちょっと、頑張ってみました」
シエルが、少しだけ照れたように言った。
「入部してくれた、お礼です。……部員、ふたりになったので」
卵焼き、小さなハンバーグ、ほうれん草の胡麻和え、人参のグラッセ。小さな俵型のおにぎりがふたつ。片方には梅、もう片方には刻んだ何かの赤いもの。
卵焼きの断面は、均等な厚さで三重に渦を巻いていた。ハンバーグの上には、ケチャップで小さな星の形。人参は、花の形に切ってあった。
食べる。卵焼き、咀嚼四十回。
――卵、砂糖多め、出汁。塩分〇・二グラム、温度二十二度、毒性なし。
ハンバーグ。
――牛と豚の挽肉、玉葱、ナツメグ。塩分〇・四グラム、温度二十二度、毒性なし。
胡麻和え。
――ほうれん草、胡麻、醤油、砂糖。塩分〇・二グラム、毒性なし。
人参のグラッセ。
――人参、バター、砂糖。塩分〇・一グラム、毒性なし。
おにぎり、梅。
――米、梅干し。塩分〇・二グラム。
おにぎり、赤いもの。
――米、鮭、唐辛子。カプサイシン低濃度、塩分〇・一グラム。
合計。
――熱量、約五百八十キロカロリー。塩分一・二グラム、温度二十二度、毒性なし。
渦の数も、星の形も、花の形も、舌の上では何の情報にもならなかった。
「……どうですか?」
シエルが、横から覗き込んできた。
「美味しいです」
「ほんとですか?」
「はい」
「……ふふ。よかった」
シエルは嬉しそうに、自分の弁当を膝の上で開いた。
「卵焼き、三回巻くの、けっこう難しいんですよ。ハンバーグの星も、ケチャップの出し方にコツがあって。人参も、型抜きじゃなくて、包丁で切ったんです」
「……そうですか」
「そうなんです」
シエルは、自慢げに胸を張った。
僕はもう一度、人参を見た。五枚の花弁を持つ花の形で、花弁にはそれぞれ細い筋が一本ずつ入っている。
包丁でこれを切るのに要する時間を、推定する。ひとつにつき一分弱で、弁当箱の中に五つ。
――調理の工程、推定四十分以上。
朝の四十分を、この上級生は僕の弁当に費やした。
その目的を推定する。好意による接近か、監視のための偽装か。四十分は、偽装としては過剰だ。
――判定、保留。情報が足りない。
記録。
最後の一口まで食べる。残せば、不審に思われる。
「わあ。今日も、空っぽ」
シエルは空の弁当箱を見て、ぱっと笑った。
「えらいです、有波くん」
それから、その笑顔が少しだけ翳った。
「……遠野くん、今日、お休みなんですね」
「はい」
「弓塚さんも、まだ」
「はい」
シエルは、階段の窓の外を見た。薄い秋の空だった。
「……今日は、部活、少し早めに切り上げますね。ちょっと、用事があって」
「わかりました」
「有波くんは、まっすぐ、お家に帰ってくださいね。……最近、本当に、物騒だから」
シエルの声は柔らかかった。けれど、その目の奥で何かが張り詰めていた。
――上級生・シエル。今夕、用事。内容、不明。遠野志貴の欠席に、強い関心。
◇
放課後の部室は、三十分で閉められた。シエルは茶を一杯だけ点てて僕に飲ませると、慌ただしく鞄を掴んで出ていった。
「戸締まり、お願いしますね!」
鍵を受け取る。ひとりになった部室で、背中の刃に意識を向ける。
旧校舎の地面の奥に、昨日と同じ共鳴がある。わずかに強い。
それから、もうひとつ。ずっと遠く、駅の南の方角に、朝の通学路で感じた、あの弱りきった月の共鳴。
移動している。ゆっくりと、誰かと一緒に歩いているような速度で。
部室の鍵を閉めて、旧校舎を出る。南へ。
◇
十八時四十分。駅の南、ビジネス街の外れに、白い高層ホテルが空へ突き出している。
刃の芯が、上を指している。最上階に近いあたりだ。朝の、あの女の共鳴。弱く、細い。その隣に、人間の気配がひとつ。推定、遠野志貴。
真祖と器の候補が、同じ建物の同じ階にいる。
回転扉の向こうに、磨き上げられた大理石のロビーが見えた。吹き抜けにシャンデリア。フロントに三人。ソファには、宿泊客らしい男女が七人。
窓際のテーブルで、若い夫婦が紅茶を飲んでいた。そのあいだに五つか六つくらいの女の子がいて、ぬいぐるみを抱えて、足をぶらぶらさせている。
誰も上を見ていない。
回転扉をくぐり、宿泊客の顔をしてロビーを横切る。エレベーターには、乗らない。密室には逃げ場がない。
フロントの死角にある従業員用の扉の鍵は、三秒で開いた。
非常階段。灰色のコンクリート、蛍光灯の白い光。踊り場ごとに、赤い非常灯。
上る。五階。十階。十五階。二十階。
二十二階の踊り場で、足を止めた。月の共鳴が近い。この上の、二十五階か二十六階。
ここなら、上の階の扉が開く音も、エレベーターの到着音も拾える。監視位置を定める。
十九時。十九時半。二十時。二十時半。変化なし。
――その時。
下から、熱が来た。
◇
階段のずっと下、吹き抜けの底の方で、何かが爆ぜた。
ごう、と。建物全体がひとつ、深く息を吸い込んだような音。それから遠く、何人もの悲鳴。非常ベルが鳴り始めた。
手すりから身を乗り出して、階段の吹き抜けを見下ろす。
蒼い。二十二階分の闇の底が、蒼く燃えていた。
背中の刃が叫んだ。
熱い。
これまでに感じたことのない種類の、熱く、太く、飢えた共鳴。
死徒。それも、桁が違う。蛇とも、真祖とも違う。
炎が、階段を、壁を、天井を這い上がってくる。一階分ずつ焼きながら、この建物を下から順に燃やし尽くしていく。
五階。八階。十一階。
十二階の踊り場の非常扉が、内側から弾け飛んだ。中から、何かが飛び出してきた。
犬だ。大型の犬の形をした、蒼い炎の塊。四つ足で、階段を駆け上がってくる。一頭。二頭。三頭。
その後ろから、人の形をしたものが続く。皮膚の下で蒼い炎を脈打たせた、人の形。
燃える、死者(グール)。
上には真祖と遠野志貴がいて、炎はそこへ向かっている。僕は、その間に立っている。
――撤退、あるいは迎撃。
上は真祖のいる階で、下は炎の群れ。どちらも塞がっている。
迎撃。
背中の鞘から刃を抜く。
――過負荷駆動(オーバードライブ)、第一段階。
指先の毛細血管が、ぷつ、ぷつと切れていく。本来なら痛みとして届くはずの信号が、脊髄の手前で、すべて筋肉への出力に書き換えられる。
視界が澄む。世界が遅くなる。
◇
最初の一頭が、二十一階の踊り場を蹴って跳んだ。炎の顎が開く。
遅い。
半身で躱し、すれ違いざまに刃を炎の胴へ。
その奥に、糸がある。親と子を繋ぐもの。太く、熱く、脈打っている。
――共振。
一。二。三。四。五。
切れる。
炎の犬がほどけた。灰になって、階段に散る。
二頭目。三頭目。同時に。
左の一頭を蹴り落とし、右の一頭の胴へ刃。
共振。
一。二。三。四。五。六。
――遅い。
糸が太い。親が近いからだ。
七。
切れる。
蹴り落とした一頭が体勢を戻して、僕の右手に食らいついた。
じゅう、と皮膚が焼ける音。
構わない。刃を左手に持ち替える。右手に噛みついた炎の胴へ、刃。
共振。
一。二。三。四。五。六。七。
切れる。
右手を見る。手首から手の甲にかけて、皮膚が赤黒く焼けただれていた。
痛みはない。握力、二割減。任務に支障のない範囲。
燃える死者が、階段を上ってくる。四体。五体。
数える。切る。数える。切る。数える。切る。
◇
十八階の踊り場まで、押し下げた時だった。下の十七階の踊り場で、銀色の光が閃いた。
細く長い、柄のない剣。それが三本。六本。九本。
雨のように、階段の吹き抜けを下から上へ降り注いだ。燃える死者の頭を、胸を、脚を、壁ごと、床ごと縫い止める。
縫い止められた死者の体の炎が、蒼から白へ色を変えた。そして、一瞬で燃え尽きた。蒼い炎を、別の炎が焼き尽くしていく。
――柄のない投擲の剣。浄化の炎。
長老たちの記録の、教会についての頁。その数少ない記述の中にあった。
――聖堂教会の代行者は、柄のない剣を、投げる。
十七階の踊り場から、黒い影がひとつ跳び上がってきた。
黒い装束。夜の色の短い髪。眼鏡。両手の指の間に、同じ銀色の剣を三本ずつ。
――シエル。
十八階と十七階の間。僕は十八階の踊り場の、非常扉の影に身を引いた。
煙が濃い。スプリンクラーの水が蒸気になって、視界を白く覆っている。シエルは、僕に気づいていない。
階段の下から、また燃える死者が這い上がってくる。シエルの背後からだ。シエルは正面の三体を相手にしていて、背後の一体に気づくまで、推定二秒。
演算する。
この上級生は、教会の代行者だ。そして今、この建物の中で、上の階の真祖と遠野志貴に向かう炎を、下から押し返している。この上級生が倒れれば、炎は上へ抜ける。僕の退路も、器の候補も焼かれる。
――援護する。ただし、姿を見せずに。
非常扉の影から、刃を投げる。回転する黒銀が蒸気の中を走り、シエルの背後の死者の胸に突き立つ。
刃と僕の魂は、同じ炉で十六年を過ごした。手を離れても、共振は続く。距離六メートル、限界に近い。
一。二。三。四。五。六。七。八。九。
切れる。
死者が、炭になって崩れた。黒銀の刃が、からん、と階段に落ちる。
シエルが振り返った。炭の山と、その上の黒い刃を見た。それから、蒸気の向こうの、非常扉の影の方を。
「……誰?」
低く平らな声だった。昼の踊り場で弁当の包みを差し出してきた声とは、別人のようだった。
息を止め、気配を消す。歩くことより先に、教わったことだ。
三秒。
シエルが何かを言いかけた時、下からまた炎が湧き上がってきた。シエルは舌打ちをして、階段を駆け下りていった。
刃を回収する。柄の紋章を、指先で確かめる。蔦と牙。
――見られたか。
刃は見られた。蒸気の中で、紋章まで判別できた可能性は低い。僕の姿は、見られていない。
記録。
◇
それから、どれくらいの間、切り続けたのか。二十一体目から、数えるのをやめた。
十五階の客室階の廊下に、宿泊客が取り残されているのが、階段の手すり越しに見えた。
ロビーで紅茶を飲んでいた、あの若い夫婦だ。父親が女の子を抱き上げ、母親がその背中に手を添えて、廊下の奥の行き止まりの方へ追い詰められている。その前に、燃える死者が二体。
演算する。宿泊客は任務と無関係。救出には、共振の時間と姿を晒す危険が伴う。優先度、低。
階段を上へ――
その時、廊下の反対側の非常扉が、蹴り開けられた。
黒い装束に銀色の剣。シエルが二体の死者を、一瞬で白く燃やした。
それから、夫婦の前に膝をつき、父親の額にそっと指先を当てて、何かを囁く。
父親の目から、焦点が抜けた。ふらりと立ち上がり、女の子を抱いたまま、シエルの指さした非常口の方へ歩いていく。母親も、その後に続く。
女の子はぬいぐるみを抱えたまま、父親の肩越しに、燃える廊下を不思議そうに見ていた。
シエルは三人が扉の向こうに消えるまで、その背中をじっと見送っていた。それから、何かを振り払うように、次の廊下へ走り出した。
――上級生・シエル。巻き込まれた宿泊客を、優先的に救出。暗示による誘導。
記録。
僕なら、救わなかった。救う合理的な理由が、なかったからだ。
途中で一度だけ、吹き抜けの手すり越しにロビーが見えた。
蒼い炎の海。その中心に、ひとりの男が立っていた。
背が高く、二メートル近い。古い軍服のような外套。全身から蒼い炎が、陽炎のように立ちのぼっている。
大階段の中ほどに、淡い金色の髪の白い影。あの女、真祖だ。その後ろに、遠野志貴。
女が何かを言った。遠すぎて聞き取れない。蒼い炎の男が、ゆっくりと女の方へ首を向けた。そして、名乗ったように見えた。
背中の刃が軋んだ。熱い糸の親。桁が違う。
――蛇ではない。任務の対象ではない。
――あの戦いに近づけば、生還の確率は、限りなく零に近い。
手すりから離れた。
◇
午前四時十分。ホテルの搬入口へ抜ける、従業員用の裏階段。その三階の踊り場。
背中が焼けていた。
二十階のあたりで、天井から燃える梁が落ちてきた。躱しきれずに、制服の背中が燃え落ち、その下の皮膚が焼けた。
右手。背中。左の前腕。
――右手、第二度熱傷。背部、第二度、一部に第三度の可能性。左前腕、第二度。
――第一段階の反復使用による、毛細血管の損傷、多数。
――任務に支障なし。
痛みはない。ただ、出力が落ちている。脚が重い。
踊り場の壁に背を預け、刃を鞘に収める。焼け残ったブレザーの裾で、隠す。
上の方で、炎の音が遠ざかっていく。熱い糸の共鳴も、月の共鳴も弱まっていく。両方とも、建物の外へ。
――その時。
階段の上から、足音が降りてきた。軽い。迷いがない。
黒い装束。煤に汚れた頬。シエルだった。
僕を見た。眼鏡の奥の目が、大きく、大きく見開かれた。
「――有波、くん……?」
◇
「どうして……どうして、ここに……!」
シエルが駆け寄ってきて、膝をつき、僕の肩を掴む。その手が背中に回りかけて、止まった。焼けた背中に。
「ひどい……っ」
シエルの声が割れた。
演算する。
僕の正体を、この上級生に開示することの損失。代行者は教会の人間だ。長老たちは、教会に関わるなと言った。正体を知られれば、監視の任務に支障が出る。
開示しないことの損失。なし。
「……ここで、食事を、していて」
言葉を選ぶ。
「親戚が、上の階に、泊まっていて。……火事が、起きて。気がついたら、ここに」
嘘をつくのは難しくない。そう作られている。
シエルは、僕の顔を見ていた。煤に汚れた頬と、焼けた制服を。
それから、ポーチを取り出して手当てを始めた。消毒液、ガーゼ、軟膏、新しい包帯。
手際がよかった。傷を洗い、軟膏を薄く伸ばし、ガーゼを当て、包帯を巻く。巻く強さも、重ねる幅も、関節の動きを殺さない角度も、どれも正確で、どれも速い。
――応急処置の手順。
病院のものではない。もっと荒れた場所で、何度も、何度も繰り返してきた人間の手順だ。
「……痛い、ですよね。ごめんなさい。もう少しだけ」
「……」
答えない。痛いとも、痛くないとも。どちらを答えても、何かがずれる。黙っているのが、最も普通の人間に近い。
シエルの指先が、震えていた。
手当てを終えると、シエルは僕の顔を両手で挟んで、まっすぐに目を覗き込んできた。
「……有波くん」
こめかみの奥で、何かが柔らかく触れた。温かい水。記憶の表面を撫でる指。
「今夜のことは、全部、怖い夢です。あなたは、火事に巻き込まれて、気を失って。気がついたら、救急車の中にいた。……変なものは、何も、見てない。黒い服の人も、銀色の剣も、何も」
膜は、壁の表面で止まった。初めて会った日と同じように。
だから、僕はゆっくりと瞼を下ろした。
意識を失った、ふりをする。体の力を抜き、首を傾けて、シエルの手のひらに頬の重さを預ける。
「……ごめんなさい」
シエルの声が、すぐ近くでした。
「巻き込んで、ごめんなさい。……私が、もっと、早く……」
ぽたり、と僕の頬に何かが落ちた。
温度、三十六度前後。塩分を含む液体。
――上級生・シエル。流涙。
記録。
理由を推定する。巻き込まれた一般の生徒への、責任感。あるいは、自分の後輩が負傷したことへの動揺。
――上級生・シエルは、僕を、巻き込まれた一般人と認識した。
――暗示が効いたと、判断している。
シエルは僕の体を軽々と背負って、裏階段を下りていく。
搬入口の外。夜明け前の冷たい空気。遠くでサイレン、救急車の赤い回転灯。
シエルは救急隊員の目の届く場所の、植え込みの陰に、僕をそっと横たえた。それから、もう一度だけ僕の髪に触れた。
足音が遠ざかっていった。
◇
薄く瞼を開ける。夜明けの灰色の空。ホテルの上層階の窓が、いくつも黒く焦げていた。
通りのずっと向こう、まだ暗い歩道を、ひとりの少年が歩いていた。遠野志貴だった。
その隣に、白い女。淡い金色の髪が、夜明けの風に揺れていた。女は、ひどく疲れているように見えた。遠野志貴の肩に、少しだけもたれかかっている。
二人は駅の北の方角へ、ゆっくりと遠ざかっていった。
――対象・遠野志貴、生存。真祖と共に現場を離脱。午前四時三十二分。
記録。
駅前の方から、報道の車が何台もやってくる。カメラのライト、野次馬の携帯電話の画面の光。
明日の朝には、ニュースが「原因不明の火災」と書く。この街の夜は、いつもそういうことになる。
救急隊員が僕を見つけて、駆け寄ってきた。
「君! 大丈夫か! 意識は――」
「……あります」
起き上がる。
「名前は? どこから――」
答えずに立ち上がって、人混みの中へ紛れた。
◇
朝の六時。アパートの机に、黒い革の手帳を広げる。
――ホテル襲撃。上位死徒。燃える死者、炎の獣を多数使役。建物を、下層から順に焼く。蛇とは別系統。名は不明。真祖に名乗った可能性。
――真祖、遠野志貴と行動を共にしている。著しく弱体化。
――上級生・シエル。聖堂教会の代行者と、確定。柄のない剣の投擲、浄化の炎。戦力として極めて高い。
――同人物、こちらを火災に巻き込まれた一般の生徒と認識。暗示による記憶の消去を、試みた。効いたと判断している。
――刃を一度、目視された可能性。紋章の判別は、困難と推定。
――右手、背部、左前腕に熱傷。任務に支障なし。
ペンを置く。過不足はない。
背中の包帯の下で、焼けた皮膚がじくじくと体液を滲ませている。シエルが巻いた包帯だった。
痛みはない。
流し台の水切り籠の中で、仔犬の絵の弁当箱が乾いていた。昨日の昼、渦を巻いた卵焼きと、星の形のハンバーグと、花の形の人参が入っていた箱。
――熱量、約五百八十キロカロリー。塩分一・二グラム、温度二十二度。
あの弁当について、僕が知っていることは、それだけだ。そして、それで正しい。
体温三十六度四分。熱傷による上昇で、想定の範囲内。脈拍は毎分五十八、これも同じ。誤差はない。
――カナリアは、歌わない。
――カナリアは、鳴かない。
――カナリアは、誰も、温めない。
――カナリアは、誰にも、温められない。
――カナリアは、誰よりも先に、死ぬ。
今日も学校がある。巻き込まれた一般人の顔をして、登校しなければならない。
弁当箱を布で包んだ。