炭鉱のカナリア   作:にんら

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弁当、成分表示

 転入四日目。朝の七時四十分。

 

 森の手前、住宅街の外れの交差点。電柱の陰。

 

 遠野の屋敷から学校へ向かうなら、必ずここを通る。地図で確かめてある。

 

 昨夜、北西の集合住宅の非常階段で、学生靴の跡を見つけた。人間ではないものの血を踏んで、九階まで下りていった二十三歩分の跡だ。

 

 その靴の持ち主が遠野志貴であるかどうか、確かめる方法はない。ただ、観察を続けるだけだ。

 

 七時五十二分、坂の上から遠野志貴が下りてきた。

 

 ひとりだった。鞄を肩に掛けて、背中を丸めている。顔色は昨日よりさらに悪く、目の下に黒い影がある。眠れなかったのだろう。

 

 ――対象、登校。表情、著しい疲労。挙動、不安定。

 

 遠野志貴が交差点を渡る。その先、通学路の白いガードレールの上に、誰かが腰掛けていた。

 

 白い柔らかそうなセーターに、淡い金色の髪。すらりとした脚を、ぶらぶらと揺らしている。朝の光の中で、そこだけ光の当たり方が違って見えた。

 

 背中の刃が鳴った。

 

 昨夜、北西の空で感じた、あの巨きく純粋な共鳴。ただし、ひどく弱い。消えかけた灯のように、細い。

 

 ――昨夜の、月の反応。

 

 あの女だ。

 

 遠野志貴の足が止まった。その顔から、目に見える速さで血の気が引いていった。まるで、死んだはずの人間に出会ったように。

 

 女がガードレールからひょいと飛び降りて、にこにこと笑いながら遠野志貴の方へ歩いていく。何かを言った。距離は六十メートルで、聞こえない。

 

 遠野志貴が後ずさった。女はその手首を掴み、そのまま通学路を外れて、細い路地の方へ引きずっていった。

 

 ――対象・遠野志貴、真祖と思われる女と接触。七時五十四分。路地へ移動。

 

 ――対象の反応は恐怖、あるいは強い動揺。両者の間に、既知の関係がある可能性、高。

 

 記録。

 

 追う。路地の入口まで行って、覗き込む。誰もいなかった。

 

 路地の奥のブロック塀の上で、白いものが一瞬だけ揺れて、消えた。人間の脚では、ありえない跳躍だ。

 

 ――追跡不可。

 

 真祖は蛇ではない。僕の任務の、対象ではない。

 

 そして、あれには、決して、近づくな。

 

 長老たちの記録の、一行だ。

 

 演算する。遠野志貴は今日、学校には来ない。転入四日目の転校生が、監視対象と同じ日に欠席すれば、関連を疑われる可能性がある。とくに、あの代理教師に。

 

 ――登校し、通常の行動を維持する。放課後、真祖の共鳴を辿る。

 

 そう判断した。

 

◇

 

 八時三十分。

 

「――遠野くん。……遠野志貴くん?」

 

 ノエルが、出席簿から顔を上げた。窓際の斜め前の席は、空いていた。

 

「あら、遠野くんも、お休み?」

 

 ノエルの声は軽かった。けれど、出席簿に何かを書き込むペンの先が、一瞬止まった。それから、その視線が遠野志貴の空席から、ゆっくりと僕の方へ滑ってきた。

 

 一秒。

 

 僕は教科書に目を落としていた。視線を向けられれば、逸らす。それが手順だ。

 

 ノエルは何も言わずに、次の名前を読み上げた。

 

 ――弓塚さつき、欠席。二日目。

 

 ――遠野志貴、欠席。

 

 空席の数は二。昨日、早退していた遠野志貴の席を数えれば、昨日から変わっていない。けれど、今日の空席の意味は昨日とは違う。昨日は早退だった。今日は、真祖に連れ去られた。

 

 記録。

 

◇

 

 昼休み。屋上へ続く階段の、いちばん上の踊り場。約束の時刻の二分前に、階段の下から軽い足音がした。

 

「有波くん、お待たせしました」

 

 シエルだ。片手に新しい包み、もう片手に自分の分の包み。

 

 空の弁当箱を差し出す。

 

「ぴかぴか。……ありがとうございます」

 

 新しい包みを受け取る。同じ仔犬の絵の弁当箱だ。蓋を開ける。

 

「今日のは、ちょっと、頑張ってみました」

 

 シエルが、少しだけ照れたように言った。

 

「入部してくれた、お礼です。……部員、ふたりになったので」

 

 卵焼き、小さなハンバーグ、ほうれん草の胡麻和え、人参のグラッセ。小さな俵型のおにぎりがふたつ。片方には梅、もう片方には刻んだ何かの赤いもの。

 

 卵焼きの断面は、均等な厚さで三重に渦を巻いていた。ハンバーグの上には、ケチャップで小さな星の形。人参は、花の形に切ってあった。

 

 食べる。卵焼き、咀嚼四十回。

 

 ――卵、砂糖多め、出汁。塩分〇・二グラム、温度二十二度、毒性なし。

 

 ハンバーグ。

 

 ――牛と豚の挽肉、玉葱、ナツメグ。塩分〇・四グラム、温度二十二度、毒性なし。

 

 胡麻和え。

 

 ――ほうれん草、胡麻、醤油、砂糖。塩分〇・二グラム、毒性なし。

 

 人参のグラッセ。

 

 ――人参、バター、砂糖。塩分〇・一グラム、毒性なし。

 

 おにぎり、梅。

 

 ――米、梅干し。塩分〇・二グラム。

 

 おにぎり、赤いもの。

 

 ――米、鮭、唐辛子。カプサイシン低濃度、塩分〇・一グラム。

 

 合計。

 

 ――熱量、約五百八十キロカロリー。塩分一・二グラム、温度二十二度、毒性なし。

 

 渦の数も、星の形も、花の形も、舌の上では何の情報にもならなかった。

 

「……どうですか?」

 

 シエルが、横から覗き込んできた。

 

「美味しいです」

 

「ほんとですか?」

 

「はい」

 

「……ふふ。よかった」

 

 シエルは嬉しそうに、自分の弁当を膝の上で開いた。

 

「卵焼き、三回巻くの、けっこう難しいんですよ。ハンバーグの星も、ケチャップの出し方にコツがあって。人参も、型抜きじゃなくて、包丁で切ったんです」

 

「……そうですか」

 

「そうなんです」

 

 シエルは、自慢げに胸を張った。

 

 僕はもう一度、人参を見た。五枚の花弁を持つ花の形で、花弁にはそれぞれ細い筋が一本ずつ入っている。

 

 包丁でこれを切るのに要する時間を、推定する。ひとつにつき一分弱で、弁当箱の中に五つ。

 

 ――調理の工程、推定四十分以上。

 

 朝の四十分を、この上級生は僕の弁当に費やした。

 

 その目的を推定する。好意による接近か、監視のための偽装か。四十分は、偽装としては過剰だ。

 

 ――判定、保留。情報が足りない。

 

 記録。

 

 最後の一口まで食べる。残せば、不審に思われる。

 

「わあ。今日も、空っぽ」

 

 シエルは空の弁当箱を見て、ぱっと笑った。

 

「えらいです、有波くん」

 

 それから、その笑顔が少しだけ翳った。

 

「……遠野くん、今日、お休みなんですね」

 

「はい」

 

「弓塚さんも、まだ」

 

「はい」

 

 シエルは、階段の窓の外を見た。薄い秋の空だった。

 

「……今日は、部活、少し早めに切り上げますね。ちょっと、用事があって」

 

「わかりました」

 

「有波くんは、まっすぐ、お家に帰ってくださいね。……最近、本当に、物騒だから」

 

 シエルの声は柔らかかった。けれど、その目の奥で何かが張り詰めていた。

 

 ――上級生・シエル。今夕、用事。内容、不明。遠野志貴の欠席に、強い関心。

 

◇

 

 放課後の部室は、三十分で閉められた。シエルは茶を一杯だけ点てて僕に飲ませると、慌ただしく鞄を掴んで出ていった。

 

「戸締まり、お願いしますね!」

 

 鍵を受け取る。ひとりになった部室で、背中の刃に意識を向ける。

 

 旧校舎の地面の奥に、昨日と同じ共鳴がある。わずかに強い。

 

 それから、もうひとつ。ずっと遠く、駅の南の方角に、朝の通学路で感じた、あの弱りきった月の共鳴。

 

 移動している。ゆっくりと、誰かと一緒に歩いているような速度で。

 

 部室の鍵を閉めて、旧校舎を出る。南へ。

 

◇

 

 十八時四十分。駅の南、ビジネス街の外れに、白い高層ホテルが空へ突き出している。

 

 刃の芯が、上を指している。最上階に近いあたりだ。朝の、あの女の共鳴。弱く、細い。その隣に、人間の気配がひとつ。推定、遠野志貴。

 

 真祖と器の候補が、同じ建物の同じ階にいる。

 

 回転扉の向こうに、磨き上げられた大理石のロビーが見えた。吹き抜けにシャンデリア。フロントに三人。ソファには、宿泊客らしい男女が七人。

 

 窓際のテーブルで、若い夫婦が紅茶を飲んでいた。そのあいだに五つか六つくらいの女の子がいて、ぬいぐるみを抱えて、足をぶらぶらさせている。

 

 誰も上を見ていない。

 

 回転扉をくぐり、宿泊客の顔をしてロビーを横切る。エレベーターには、乗らない。密室には逃げ場がない。

 

 フロントの死角にある従業員用の扉の鍵は、三秒で開いた。

 

 非常階段。灰色のコンクリート、蛍光灯の白い光。踊り場ごとに、赤い非常灯。

 

 上る。五階。十階。十五階。二十階。

 

 二十二階の踊り場で、足を止めた。月の共鳴が近い。この上の、二十五階か二十六階。

 

 ここなら、上の階の扉が開く音も、エレベーターの到着音も拾える。監視位置を定める。

 

 十九時。十九時半。二十時。二十時半。変化なし。

 

 ――その時。

 

 下から、熱が来た。

 

◇

 

 階段のずっと下、吹き抜けの底の方で、何かが爆ぜた。

 

 ごう、と。建物全体がひとつ、深く息を吸い込んだような音。それから遠く、何人もの悲鳴。非常ベルが鳴り始めた。

 

 手すりから身を乗り出して、階段の吹き抜けを見下ろす。

 

 蒼い。二十二階分の闇の底が、蒼く燃えていた。

 

 背中の刃が叫んだ。

 

 熱い。

 

 これまでに感じたことのない種類の、熱く、太く、飢えた共鳴。

 

 死徒。それも、桁が違う。蛇とも、真祖とも違う。

 

 炎が、階段を、壁を、天井を這い上がってくる。一階分ずつ焼きながら、この建物を下から順に燃やし尽くしていく。

 

 五階。八階。十一階。

 

 十二階の踊り場の非常扉が、内側から弾け飛んだ。中から、何かが飛び出してきた。

 

 犬だ。大型の犬の形をした、蒼い炎の塊。四つ足で、階段を駆け上がってくる。一頭。二頭。三頭。

 

 その後ろから、人の形をしたものが続く。皮膚の下で蒼い炎を脈打たせた、人の形。

 

 燃える、死者(グール)。

 

 上には真祖と遠野志貴がいて、炎はそこへ向かっている。僕は、その間に立っている。

 

 ――撤退、あるいは迎撃。

 

 上は真祖のいる階で、下は炎の群れ。どちらも塞がっている。

 

 迎撃。

 

 背中の鞘から刃を抜く。

 

 ――過負荷駆動(オーバードライブ)、第一段階。

 

 指先の毛細血管が、ぷつ、ぷつと切れていく。本来なら痛みとして届くはずの信号が、脊髄の手前で、すべて筋肉への出力に書き換えられる。

 

 視界が澄む。世界が遅くなる。

 

◇

 

 最初の一頭が、二十一階の踊り場を蹴って跳んだ。炎の顎が開く。

 

 遅い。

 

 半身で躱し、すれ違いざまに刃を炎の胴へ。

 

 その奥に、糸がある。親と子を繋ぐもの。太く、熱く、脈打っている。

 

 ――共振。

 

 一。二。三。四。五。

 

 切れる。

 

 炎の犬がほどけた。灰になって、階段に散る。

 

 二頭目。三頭目。同時に。

 

 左の一頭を蹴り落とし、右の一頭の胴へ刃。

 

 共振。

 

 一。二。三。四。五。六。

 

 ――遅い。

 

 糸が太い。親が近いからだ。

 

 七。

 

 切れる。

 

 蹴り落とした一頭が体勢を戻して、僕の右手に食らいついた。

 

 じゅう、と皮膚が焼ける音。

 

 構わない。刃を左手に持ち替える。右手に噛みついた炎の胴へ、刃。

 

 共振。

 

 一。二。三。四。五。六。七。

 

 切れる。

 

 右手を見る。手首から手の甲にかけて、皮膚が赤黒く焼けただれていた。

 

 痛みはない。握力、二割減。任務に支障のない範囲。

 

 燃える死者が、階段を上ってくる。四体。五体。

 

 数える。切る。数える。切る。数える。切る。

 

◇

 

 十八階の踊り場まで、押し下げた時だった。下の十七階の踊り場で、銀色の光が閃いた。

 

 細く長い、柄のない剣。それが三本。六本。九本。

 

 雨のように、階段の吹き抜けを下から上へ降り注いだ。燃える死者の頭を、胸を、脚を、壁ごと、床ごと縫い止める。

 

 縫い止められた死者の体の炎が、蒼から白へ色を変えた。そして、一瞬で燃え尽きた。蒼い炎を、別の炎が焼き尽くしていく。

 

 ――柄のない投擲の剣。浄化の炎。

 

 長老たちの記録の、教会についての頁。その数少ない記述の中にあった。

 

 ――聖堂教会の代行者は、柄のない剣を、投げる。

 

 十七階の踊り場から、黒い影がひとつ跳び上がってきた。

 

 黒い装束。夜の色の短い髪。眼鏡。両手の指の間に、同じ銀色の剣を三本ずつ。

 

 ――シエル。

 

 十八階と十七階の間。僕は十八階の踊り場の、非常扉の影に身を引いた。

 

 煙が濃い。スプリンクラーの水が蒸気になって、視界を白く覆っている。シエルは、僕に気づいていない。

 

 階段の下から、また燃える死者が這い上がってくる。シエルの背後からだ。シエルは正面の三体を相手にしていて、背後の一体に気づくまで、推定二秒。

 

 演算する。

 

 この上級生は、教会の代行者だ。そして今、この建物の中で、上の階の真祖と遠野志貴に向かう炎を、下から押し返している。この上級生が倒れれば、炎は上へ抜ける。僕の退路も、器の候補も焼かれる。

 

 ――援護する。ただし、姿を見せずに。

 

 非常扉の影から、刃を投げる。回転する黒銀が蒸気の中を走り、シエルの背後の死者の胸に突き立つ。

 

 刃と僕の魂は、同じ炉で十六年を過ごした。手を離れても、共振は続く。距離六メートル、限界に近い。

 

 一。二。三。四。五。六。七。八。九。

 

 切れる。

 

 死者が、炭になって崩れた。黒銀の刃が、からん、と階段に落ちる。

 

 シエルが振り返った。炭の山と、その上の黒い刃を見た。それから、蒸気の向こうの、非常扉の影の方を。

 

「……誰?」

 

 低く平らな声だった。昼の踊り場で弁当の包みを差し出してきた声とは、別人のようだった。

 

 息を止め、気配を消す。歩くことより先に、教わったことだ。

 

 三秒。

 

 シエルが何かを言いかけた時、下からまた炎が湧き上がってきた。シエルは舌打ちをして、階段を駆け下りていった。

 

 刃を回収する。柄の紋章を、指先で確かめる。蔦と牙。

 

 ――見られたか。

 

 刃は見られた。蒸気の中で、紋章まで判別できた可能性は低い。僕の姿は、見られていない。

 

 記録。

 

◇

 

 それから、どれくらいの間、切り続けたのか。二十一体目から、数えるのをやめた。

 

 十五階の客室階の廊下に、宿泊客が取り残されているのが、階段の手すり越しに見えた。

 

 ロビーで紅茶を飲んでいた、あの若い夫婦だ。父親が女の子を抱き上げ、母親がその背中に手を添えて、廊下の奥の行き止まりの方へ追い詰められている。その前に、燃える死者が二体。

 

 演算する。宿泊客は任務と無関係。救出には、共振の時間と姿を晒す危険が伴う。優先度、低。

 

 階段を上へ――

 

 その時、廊下の反対側の非常扉が、蹴り開けられた。

 

 黒い装束に銀色の剣。シエルが二体の死者を、一瞬で白く燃やした。

 

 それから、夫婦の前に膝をつき、父親の額にそっと指先を当てて、何かを囁く。

 

 父親の目から、焦点が抜けた。ふらりと立ち上がり、女の子を抱いたまま、シエルの指さした非常口の方へ歩いていく。母親も、その後に続く。

 

 女の子はぬいぐるみを抱えたまま、父親の肩越しに、燃える廊下を不思議そうに見ていた。

 

 シエルは三人が扉の向こうに消えるまで、その背中をじっと見送っていた。それから、何かを振り払うように、次の廊下へ走り出した。

 

 ――上級生・シエル。巻き込まれた宿泊客を、優先的に救出。暗示による誘導。

 

 記録。

 

 僕なら、救わなかった。救う合理的な理由が、なかったからだ。

 

 途中で一度だけ、吹き抜けの手すり越しにロビーが見えた。

 

 蒼い炎の海。その中心に、ひとりの男が立っていた。

 

 背が高く、二メートル近い。古い軍服のような外套。全身から蒼い炎が、陽炎のように立ちのぼっている。

 

 大階段の中ほどに、淡い金色の髪の白い影。あの女、真祖だ。その後ろに、遠野志貴。

 

 女が何かを言った。遠すぎて聞き取れない。蒼い炎の男が、ゆっくりと女の方へ首を向けた。そして、名乗ったように見えた。

 

 背中の刃が軋んだ。熱い糸の親。桁が違う。

 

 ――蛇ではない。任務の対象ではない。

 

 ――あの戦いに近づけば、生還の確率は、限りなく零に近い。

 

 手すりから離れた。

 

◇

 

 午前四時十分。ホテルの搬入口へ抜ける、従業員用の裏階段。その三階の踊り場。

 

 背中が焼けていた。

 

 二十階のあたりで、天井から燃える梁が落ちてきた。躱しきれずに、制服の背中が燃え落ち、その下の皮膚が焼けた。

 

 右手。背中。左の前腕。

 

 ――右手、第二度熱傷。背部、第二度、一部に第三度の可能性。左前腕、第二度。

 

 ――第一段階の反復使用による、毛細血管の損傷、多数。

 

 ――任務に支障なし。

 

 痛みはない。ただ、出力が落ちている。脚が重い。

 

 踊り場の壁に背を預け、刃を鞘に収める。焼け残ったブレザーの裾で、隠す。

 

 上の方で、炎の音が遠ざかっていく。熱い糸の共鳴も、月の共鳴も弱まっていく。両方とも、建物の外へ。

 

 ――その時。

 

 階段の上から、足音が降りてきた。軽い。迷いがない。

 

 黒い装束。煤に汚れた頬。シエルだった。

 

 僕を見た。眼鏡の奥の目が、大きく、大きく見開かれた。

 

「――有波、くん……?」

 

◇

 

「どうして……どうして、ここに……!」

 

 シエルが駆け寄ってきて、膝をつき、僕の肩を掴む。その手が背中に回りかけて、止まった。焼けた背中に。

 

「ひどい……っ」

 

 シエルの声が割れた。

 

 演算する。

 

 僕の正体を、この上級生に開示することの損失。代行者は教会の人間だ。長老たちは、教会に関わるなと言った。正体を知られれば、監視の任務に支障が出る。

 

 開示しないことの損失。なし。

 

「……ここで、食事を、していて」

 

 言葉を選ぶ。

 

「親戚が、上の階に、泊まっていて。……火事が、起きて。気がついたら、ここに」

 

 嘘をつくのは難しくない。そう作られている。

 

 シエルは、僕の顔を見ていた。煤に汚れた頬と、焼けた制服を。

 

 それから、ポーチを取り出して手当てを始めた。消毒液、ガーゼ、軟膏、新しい包帯。

 

 手際がよかった。傷を洗い、軟膏を薄く伸ばし、ガーゼを当て、包帯を巻く。巻く強さも、重ねる幅も、関節の動きを殺さない角度も、どれも正確で、どれも速い。

 

 ――応急処置の手順。

 

 病院のものではない。もっと荒れた場所で、何度も、何度も繰り返してきた人間の手順だ。

 

「……痛い、ですよね。ごめんなさい。もう少しだけ」

 

「……」

 

 答えない。痛いとも、痛くないとも。どちらを答えても、何かがずれる。黙っているのが、最も普通の人間に近い。

 

 シエルの指先が、震えていた。

 

 手当てを終えると、シエルは僕の顔を両手で挟んで、まっすぐに目を覗き込んできた。

 

「……有波くん」

 

 こめかみの奥で、何かが柔らかく触れた。温かい水。記憶の表面を撫でる指。

 

「今夜のことは、全部、怖い夢です。あなたは、火事に巻き込まれて、気を失って。気がついたら、救急車の中にいた。……変なものは、何も、見てない。黒い服の人も、銀色の剣も、何も」

 

 膜は、壁の表面で止まった。初めて会った日と同じように。

 

 だから、僕はゆっくりと瞼を下ろした。

 

 意識を失った、ふりをする。体の力を抜き、首を傾けて、シエルの手のひらに頬の重さを預ける。

 

「……ごめんなさい」

 

 シエルの声が、すぐ近くでした。

 

「巻き込んで、ごめんなさい。……私が、もっと、早く……」

 

 ぽたり、と僕の頬に何かが落ちた。

 

 温度、三十六度前後。塩分を含む液体。

 

 ――上級生・シエル。流涙。

 

 記録。

 

 理由を推定する。巻き込まれた一般の生徒への、責任感。あるいは、自分の後輩が負傷したことへの動揺。

 

 ――上級生・シエルは、僕を、巻き込まれた一般人と認識した。

 

 ――暗示が効いたと、判断している。

 

 シエルは僕の体を軽々と背負って、裏階段を下りていく。

 

 搬入口の外。夜明け前の冷たい空気。遠くでサイレン、救急車の赤い回転灯。

 

 シエルは救急隊員の目の届く場所の、植え込みの陰に、僕をそっと横たえた。それから、もう一度だけ僕の髪に触れた。

 

 足音が遠ざかっていった。

 

◇

 

 薄く瞼を開ける。夜明けの灰色の空。ホテルの上層階の窓が、いくつも黒く焦げていた。

 

 通りのずっと向こう、まだ暗い歩道を、ひとりの少年が歩いていた。遠野志貴だった。

 

 その隣に、白い女。淡い金色の髪が、夜明けの風に揺れていた。女は、ひどく疲れているように見えた。遠野志貴の肩に、少しだけもたれかかっている。

 

 二人は駅の北の方角へ、ゆっくりと遠ざかっていった。

 

 ――対象・遠野志貴、生存。真祖と共に現場を離脱。午前四時三十二分。

 

 記録。

 

 駅前の方から、報道の車が何台もやってくる。カメラのライト、野次馬の携帯電話の画面の光。

 

 明日の朝には、ニュースが「原因不明の火災」と書く。この街の夜は、いつもそういうことになる。

 

 救急隊員が僕を見つけて、駆け寄ってきた。

 

「君! 大丈夫か! 意識は――」

 

「……あります」

 

 起き上がる。

 

「名前は? どこから――」

 

 答えずに立ち上がって、人混みの中へ紛れた。

 

◇

 

 朝の六時。アパートの机に、黒い革の手帳を広げる。

 

 ――ホテル襲撃。上位死徒。燃える死者、炎の獣を多数使役。建物を、下層から順に焼く。蛇とは別系統。名は不明。真祖に名乗った可能性。

 

 ――真祖、遠野志貴と行動を共にしている。著しく弱体化。

 

 ――上級生・シエル。聖堂教会の代行者と、確定。柄のない剣の投擲、浄化の炎。戦力として極めて高い。

 

 ――同人物、こちらを火災に巻き込まれた一般の生徒と認識。暗示による記憶の消去を、試みた。効いたと判断している。

 

 ――刃を一度、目視された可能性。紋章の判別は、困難と推定。

 

 ――右手、背部、左前腕に熱傷。任務に支障なし。

 

 ペンを置く。過不足はない。

 

 背中の包帯の下で、焼けた皮膚がじくじくと体液を滲ませている。シエルが巻いた包帯だった。

 

 痛みはない。

 

 流し台の水切り籠の中で、仔犬の絵の弁当箱が乾いていた。昨日の昼、渦を巻いた卵焼きと、星の形のハンバーグと、花の形の人参が入っていた箱。

 

 ――熱量、約五百八十キロカロリー。塩分一・二グラム、温度二十二度。

 

 あの弁当について、僕が知っていることは、それだけだ。そして、それで正しい。

 

 体温三十六度四分。熱傷による上昇で、想定の範囲内。脈拍は毎分五十八、これも同じ。誤差はない。

 

 ――カナリアは、歌わない。

 

 ――カナリアは、鳴かない。

 

 ――カナリアは、誰も、温めない。

 

 ――カナリアは、誰にも、温められない。

 

 ――カナリアは、誰よりも先に、死ぬ。

 

 今日も学校がある。巻き込まれた一般人の顔をして、登校しなければならない。

 

 弁当箱を布で包んだ。

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