転入五日目、朝八時十五分。総耶高校の校門。
昇降口の脇の自販機の陰に、シエルが立っていた。登校してくる生徒の流れを見ている。誰かを待っているように。
――待っているのは、僕だ。
推定する。昨夜、あの上級生は火災現場で負傷した転校生を手当てし、記憶を消して、救急の目の届く場所に置いた。今朝、その転校生がどういう状態で登校してくるのか、記憶の消去が正しく機能しているのか、確認したいはずだ。
ならば、確認させればいい。
「――おはようございます、シエル先輩」
声をかけると、シエルが振り返った。瞳孔がわずかに開き、呼吸が一瞬止まる。
「……有波、くん」
声の高さが、昨日より半音低い。
「その……包帯、どうしたんですか」
予想通りの質問。手首を見下ろして、少しだけ首を傾げる。記憶の曖昧な人間は、自分の傷を他人事のように見る。
「火事に、巻き込まれたみたいで」
「……みたい、で?」
「よく、覚えていません。気がついたら、外にいて。救急の人に、声をかけられて。……親戚と、食事をしていたはず、なんですけど。そこから先が、少し、曖昧で」
シエルは笑った。口角の上がり方がいつもより遅く、目の周りの筋肉はほとんど動いていない。
――作られた笑顔。
「怖い思い、しましたね。……でも、無事でよかった。本当に」
「はい」
「痛くないですか?」
「平気です」
シエルの指が、スカートの横で握り込まれた。
――上級生・シエル。記憶消去の成否を確認。成功と判断した模様。
――ただし、心理的な負荷の兆候が顕著。原因は、負傷させたことへの責任感と推定。
記録。
昼休みの踊り場でも、シエルは何度も僕の包帯を見ていた。
弁当箱を包み直す時に、右手が手すりの角にぶつかった。火傷のちょうど真上だ。
「あ――」
シエルの方が声を上げた。
僕は右手をちらりと見下ろして、それから包みを結び直した。顔はしかめなかった。しかめるという反応が、この体にはない。
――失策。
記憶の曖昧な一般の生徒でも、火傷を打てば顔をしかめる。手順の欠落。
「……痛く、なかったですか、今の」
「平気です」
シエルはそれ以上何も言わず、ただ、何かを飲み込むように唇を結んだ。
――記録。痛覚反応の偽装を手順に追加すること。
十八時三十分、アパートの狭い流し台の前。背中の包帯をほどいて、鏡越しに焼けた皮膚を確認する。
赤くただれ、ところどころ黒く硬くなっている。肩甲骨の下の二か所は、第三度の可能性が高い。
――背部熱傷。範囲、約三割。治癒、未。
――右手、第二度熱傷。握力、二割減。
――左前腕、第二度熱傷。
――任務に、支障なし。
記録。
軟膏を塗り、新しいガーゼを当てて、包帯を巻く。昨夜、シエルが巻いた包帯の巻き方を再現する。巻く強さ、重ねる幅、関節の動きを殺さない角度。正確な手順には、模倣の価値がある。
巻き終えて、制服を着る。その上に、黒い私服の上着。刃を鞘に収めて、ベルトの背中側へ。
――今日は、部活、休みにしましょう。まっすぐ帰って、ゆっくり休んでください。
――約束、ですよ。
昼の踊り場で、シエルはそう言った。僕は、はい、と答えた。
あれは約束ではない。
転校生・有波叶人として、最も自然な返答を返しただけだ。巻き込まれて、記憶の曖昧な一般の生徒は、先輩に休めと言われれば、はい、と答える。だから、はい、と答えた。それだけのことだ。
演算する。
昨夜、あの祖は真祖と一度ぶつかり、決着はついていない。祖は今夜、また動く。真祖は遠野志貴と行動を共にしていて、その遠野志貴は蛇の器の候補だ。
器が祖の炎に焼かれて失われれば、蛇はまたどこか別の器へと散り、十三年分の長老たちの追跡が無に帰る。それは許容できない。
――ただし、祖には近づかない。観測に徹する。
――器の候補の生存を確認する。それ以上はしない。
そう判断した。
鍵を二度確かめて、部屋を出る。
◇
十九時二十分、駅の北口。帰宅の人の波の中で、背中の刃が鳴った。
西。昨夜、ホテルの吹き抜けの底で感じた、熱く太い、飢えた共鳴。その親だ。
駅の西側は、再開発の途中で放り出された一角だ。古い商店街を取り壊した跡の広い空き地に、錆びたフェンスと動かない重機。建てかけのまま止まった、骨組みだけのビル。
人通りは少なく、夜になればほとんど誰もいなくなる。
――戦場として、最適。
祖が選んだのか、真祖が選んだのか。
人波に逆らって、西へ歩く。空気が少しずつ乾いていく。頬に当たる夜風が、十月の夜の風にしては温い。
すれ違う会社員が、ネクタイを緩めて首筋の汗をハンカチで拭っていた。
「なんか、今日、暑くね?」
「十月だよな?」
笑いながら駅の方へ歩いていく。
歩道の植え込みの陰に、雀が一羽落ちていた。羽根の先が焦げている。誰も気づかない。
熱は少しずつ、少しずつ、街の西の底から滲み出している。
再開発地区の入口。錆びたフェンスに、立入禁止の黄色い札がぶら下がっている。その札の端が、熱でくるりと丸まっていた。
◇
十九時五十分。空き地を見下ろす建てかけのビルの、骨組みの九階で、剥き出しの鉄骨の上に身を伏せる。
空き地までの距離は三百メートル。夜目は効く。地下で、そう作られた。
空き地の中央が、燃えていた。
蒼い炎が地面を這っている。錆びたフェンスを、重機を、積み上げられた廃材を舐めるように焼いて、空き地全体を、ゆらゆらと揺れる蒼い湖に変えていた。
その湖の中心に、男が立っていた。
古い軍服のような外套に、二メートル近い体躯。全身から陽炎のように立ちのぼる、蒼い炎。昨夜、ホテルの吹き抜けの底にいたあの男だ。
――死徒二十七祖。
足元に、何かがいくつも転がっている。男がそのひとつを片手で持ち上げた。人だった。
首筋に口をつけて、啜る。男の体の炎が、ひときわ高く燃え上がった。空になったものを無造作に放り捨てる。
次のひとつを持ち上げる。啜る。燃え上がる。捨てる。
男は血を浴びていた。浴びるたびに、熱を増していく。
それなのに、その肩が微かに震えていた。まるで凍えている人間のように。
男の唇が動いた。風に乗って、ほんのわずかに声が届いた。
――寒い。
そう聞こえた。
――記録。理由、不明。
長老たちの記録に、二十七祖についての頁は数えるほどしかなかった。
――祖は、それぞれ、己の血に、世界の法則を刻む。原理血戒(イデアブラッド)。その血の理が、祖の力の源であり、祖の呪いそのものである。
――血の理は、見かけ通りとは限らぬ。炎の祖の奥に、別の理が眠ることも、ある。
――祖とは、決して、事を構えるな。我らの刃は、蛇のためにある。
炎の祖が、寒いと言う。炎は、あの男の本当の理ではないのかもしれない。
推論、保留。
◇
二十時四分。空き地の北の端、錆びたフェンスの向こうから、二つの影が歩いてきた。遠野志貴と真祖だった。
遠野志貴は眼鏡をかけていた。顔色は、昨夜よりさらに悪いが、足取りはしっかりしていた。
真祖は、服が違った。白いセーターではない。体の線に沿った、光沢のある白い何か。炎の照り返しを受けても、その表面だけは焦げる気配がない。
――耐熱の装束。
昨夜、真祖はあの炎に苦しめられていた。だから、今夜は備えてきたのだ。
刃の芯の、月の共鳴は、昨夜よりも少しだけ強い。この夜のために、どこかから力を掻き集めてきたように。それでも弱い。朝のガードレールで感じた時の、半分にも満たないかもしれない。
真祖が遠野志貴の方を振り返って何かを言い、遠野志貴が何かを答えた。聞こえない。
ただ、遠野志貴が拳を握りしめたのが見えた。空き地の蒼い炎の湖を、足元に転がっている空になったものたちを見ている。
遠野志貴の肩が震えていた。恐怖ではない。
推定する。あれは怒りだ。
――対象・遠野志貴。祖の行為に対し、強い情動反応。
真祖が笑った。楽しそうに。それから、夜空へ跳んだ。
◇
流星だった。
白い光が夜空の高みで一度止まって、それからまっすぐに落ちてきた。空き地の中央へ。男の真上へ。
衝突。
音が、遅れて来た。地面が跳ね、鉄骨が軋んで、九階の骨組みがぐらりと揺れる。鉄骨に指をかける。
空き地の中央の地面が、一瞬で陥没していた。すり鉢状の巨大な穴で、直径は推定八十メートル以上。蒼い炎の湖が、穴の縁から底へと流れ落ちていく。
穴の底に、男が膝をついていた。穴の縁に、真祖が立っていた。白い装束が炎を弾いている。
男が立ち上がる。炎が膨れ上がり、穴の底から蒼い炎の柱が何本も噴き上がった。
真祖が指を振る。
穴の壁が動いた。土が、岩が、コンクリートの破片が、真祖の指の動きに従って形を変え、うねり、男へと殺到していく。世界が、あの女の思う通りに書き換えられていく。
――空想具現化(マーブル・ファンタズム)。
長老たちの記録の、真祖についての頁に、その言葉が一度だけあった。
――星の触覚。世界そのものを、己の意のままに、作り替える。
男の炎が、うねる大地を焼く。焼いても焼いても、大地は新しく湧き上がってくる。
男が炎の槍を投げる。真祖が片手で払う。
男が炎の壁を立ち上げる。真祖が地面ごとそれをひっくり返す。
男が穴の壁を駆け上がって、遠野志貴の方へ向かおうとする。穴の壁が男の足元で崩れ、男は穴の底へ落ちる。
何度も。何度も。
檻の中の獣と、それを眺める気まぐれな飼い主のようだった。
真祖は笑っていた。楽しそうに。そして時折、ひどく苦しそうに、肩で息をしていた。
――真祖。戦闘において、優勢。ただし、消耗が著しい。長期戦は不利と推定。
真祖が押している。男の炎が、少しずつ、少しずつ弱くなっていく。
◇
穴の縁の東側から、燃える死者が這い出してきた。五体。八体。十体。
男の炎に引き寄せられて、この空き地に集まってきていたのだろう。それが今、穴の縁から溢れて、四方へ散っていく。
ひとつの群れは南へ、駅の方へ。もうひとつの群れは西へ、住宅街の方へ。
――西の群れの進路に、僕の観測位置。
この骨組みのビルの真下を通る。観測を続けるには、排除する必要がある。
鉄骨を伝って下りる。九階、七階、五階、三階。地面に降り立つ。
――過負荷駆動(オーバードライブ)、第一段階。
指先の毛細血管が切れる。焼けた右手の包帯の下で、血が滲む。
世界が遅くなる。
最初の一体が、フェンスの破れ目から躍り出てきた。
刃を胸へ。
糸。昨夜より細い。親が血を使い果たしかけているからだ。
――共振。
一。二。三。四。
切れる。
二体目。三体目。
共振。一、二、三、四。切れる。
共振。一、二、三。切れる。
四体目が横から来る。左の前腕で受け止める。包帯の上から、炎が食い込む。
構わない。刃を胸へ。
共振。一、二、三。切れる。
数える。切る。数える。切る。
八体目の死者は、制服を着ていた。焦げて半分以上燃え落ちていたが、胸元に名札の跡が残っている。ホテルの従業員の制服だ。昨夜、あの建物の中で血を吸われて、一日かけて人間でないものになった。
何も思わない。思うための機能がない。
刃を胸へ。
共振。一、二、三。切れる。
九体目。十体目。十体目が炭になって崩れた。
――西の群れ、排除。
顔を上げる。南の群れの方角、駅へ向かう炎の列の先頭が、白く燃え上がった。一体、二体、三体。次々と。
空き地の南の端、三階建ての廃ビルの屋上から、銀色の雨が降っていた。柄のない細く長い剣と、浄化の炎。黒い装束に、夜の色の短い髪。
――シエル。
距離は二百メートル。
シエルは南の群れを、ひとりで押し返していた。駅へ、人の多い方へ、炎を一体も通さないように。
こちらには気づいていない。気づかれてはいけない。昨夜、僕は巻き込まれた一般の生徒として、記憶を消されたことになっている。今夜、ここにいる理由はない。
骨組みのビルの影に身を引き、気配を消す。
――上級生・シエル。空き地の南端にて、燃える死者の南下を阻止中。こちらに気づかず。
――互いの持ち場が自然に分かれている。
廃ビルの屋上で、シエルがまた剣を放った。四本、八本。死者の頭と胸を正確に縫い止めていく。一本の無駄もない。
それから、シエルは屋上の縁から身を乗り出して、廃ビルの下の路地に何かを叫んだ。
逃げ遅れた誰かがいたのだろう。シエルの剣が、その誰かと死者の間に白い炎の壁を立ち上げた。
路地の奥へ、小さな影が走り去っていく。シエルはそれを最後まで見送っていた。昨夜、ホテルの客室階で親子を見送っていた時と同じように。
――上級生・シエル。民間人の保護を、最優先。
――戦闘の効率としては、非合理。
記録。
駅の方角では、明るい窓を連ねた電車が高架の上を走っていった。あの窓の中の誰も、この空き地で何が起きているのかを知らない。知らないまま帰って眠り、明日の朝、ニュースで何かの事故の名前を聞くのだろう。
再び鉄骨を上る。九階の観測位置に戻る。
◇
二十時三十七分。穴の底の男の炎は、もうほとんど残っていなかった。
外套の裾から、ちろちろと青い舌が覗いているだけだ。浴びていた血も、蓄えていた血も、燃やして、燃やして、燃やし尽くして。
男が膝をついた。真祖が穴の縁からそれを見下ろしている。男は、もう顔を上げなかった。
終わる。そう推定した。
――その時。
熱が消えた。突然に。
空き地を覆っていた、乾いた熱気が、一瞬でどこかへ吸い込まれた。
頬に当たる夜風が冷たくなる。冷たく、冷たく、さらに冷たく。
外気温を測る。
――十度。
――零度。
――零下二十度。
下がっていく。下がり続けている。
吐く息が白い。鉄骨に白い霜が降りていく。指先の下で、鉄がぴしりと音を立てて縮む。
背中の刃が叫んだ。
これまでのどんな共鳴とも違う。熱い糸でも、蒼い炎でもない。
凍てついた何か。深い、深い、永久に凍りついた大地の底から、這い上がってくるような。
◇
穴の底で、男が立ち上がっていた。
炎はない。代わりに、外套の裾から、足元から、白い冷気が滝のように流れ落ちていた。
穴の底の、溶けかけたアスファルトが白く凍る。蒼い炎の残り火が、炎の形のまま白い霜に覆われる。
空から何かが降ってきた。雪。十月の総耶の夜に、雪が降っていた。
――雪。
瞼の裏に、別の雪が重なった。里の門の前の雪。白い雪の上の黒い塊と、それを抱き上げた大人たちの優しい手つき。
見ていないはずの雪。
長老たちが、そう設定した。雪を見るたびに、一族の最期を思い出すように。決して忘れないように。
再生が始まりかける。
――停止。
今は観測中だ。再生を後回しにする。それも、長老たちが与えた手順のひとつだ。
男が顔を上げた。ぼんやりとしていた目が、今は違った。澄んでいた。凍りついた湖のように、底まで透き通っていた。
男の右手に、何かが凝り固まっていく。白い霜が、雪が、冷気が、一本の長い、長い槍の形に。
青白い、氷の騎士槍。
――血を、失い尽くして。
――灼熱の夢から、醒めた。
なぜそんな言葉が浮かんだのかは、わからない。ただ、あの男の目を見た時、そう感じた。
炎は夢だった。この冬こそが、あの男の本当の姿だ。
外気温。
――零下六十度。
――零下八十度。
――零下百度。
真祖が、穴の縁で何かを言った。笑ったように見えた。それから、男へ跳んだ。
白い光。
男の槍が動いた。一度だけ。
白い光が止まった。真祖の体が空中で止まっていた。氷の槍の穂先が、真祖の肩口を貫いていた。
見えなかった。第一段階の知覚でも、あの槍が動いた瞬間を捉えられなかった。真祖の跳躍の速度を、男の槍が上回った。昨夜まで炎の中でぼんやりと首を巡らせていた男と、同じ存在だとは推定しにくい。
耐熱の白い装束が、一瞬で白く凍る。
――真祖の防御を貫いた。
あの槍は、ただの氷ではない。
男が槍を振り抜いた。真祖の体が穴の壁に叩きつけられる。壁が砕け、真祖が崩れ落ちる。凍りついた肩から血が流れて、流れた端から凍っていく。
男の足元から冷気が噴き上がった。穴の底から四方へ、白い壁が津波のように広がっていく。穴の縁の北側へ、遠野志貴の立っている方へ。南へ、駅の方へ。
穴の壁に叩きつけられた真祖が、身を起こした。肩から先が凍りついている。動かない腕をだらりと下げたまま、跳んだ。
南へではなかった。北へ。遠野志貴の前へ。
白い壁が、真祖の背中に叩きつけられた。真祖の髪が白く凍る。白い装束の背中が、ぱきぱきと音を立てて霜に覆われていく。
けれど、真祖の前の遠野志貴は、凍らなかった。
真祖の体のすぐ内側、半径一メートルにも満たない、小さな球のような空間。そこだけ、冬がなかったことにされていた。
――空想具現化(マーブル・ファンタズム)。
世界を書き換えている。この子の周りだけは寒くない、と。自分の体を外套のようにして。
――真祖。遠野志貴を冷気から防護。自身の防護は、放棄。
――優先順位、不合理。
記録。
真祖の肩が震えていた。凍えているのか、力を使いすぎているのか。それでも、遠野志貴の前から一歩も動かなかった。
◇
南へ向かった白い壁は、止まらなかった。空き地の端の錆びたフェンスが白く凍って砕け、動かない重機が霜の塊になる。
三階建ての廃ビルの屋上に、黒い装束の影が立っていた。
――シエル。
白い壁が廃ビルを呑み込んだ。屋上ごと、黒い影ごと。
一秒。二秒。
冷気が通り過ぎる。屋上の手すりも給水塔も、すべてが白い霜に覆われていた。
その中央に、白い、人の形の像が立っていた。黒い装束が白く凍り、髪が白く凍って、剣を構えた姿勢のまま動かない。
――上級生・シエル。凍結。
――生存の確率、低。
記録しかけたその時、像の表面にひびが入った。ぴしり、と。
霜の殻が内側から割れていく。白い殻の下から黒い装束が現れる。凍って裂けて、血の滲んでいた頬が、見ている間に塞がっていく。裂けた皮膚が閉じ、凍って黒ずんだ指先に赤みが戻る。
シエルは、何事もなかったように肩の霜を払い、剣を構え直した。
――上級生・シエル。凍結から自力で回復。所要時間、約十秒。
――昨夜の燃える死者の爪の傷も、今朝には消えていた。
――異常な再生能力。……不死に近い性質の可能性。
記録。推論、保留。
今は、それより先に演算すべきことがある。
◇
男が槍を下ろした。澄んだ目で、遠野志貴の前に立つ真祖を見下ろして。
真祖は、もう跳ばない。跳べない。跳べば、遠野志貴の周りの小さな春が消える。
それから、首を巡らせた。
穴の縁の北側、瓦礫の上に、遠野志貴が立っていた。眼鏡を外している。
遠野志貴の目が男を見ている。正確には、男の体のどこかを。人の輪郭の、ほんの少し内側を。
男が動いた。後ろへ跳んだ。十メートル、二十メートル。遠野志貴から距離を取った。
迷いのない、全力の後退だった。騎士の動きだった。
男は、遠野志貴を見ていなかった。遠野志貴の目を見ていなかった。見ていないまま、何かを知っていた。
あの少年は、自分を殺せる。だから近づかない。近づかせない。
槍の穂先を遠野志貴に向けたまま、男の周りの空気が凍りついていく。
冷気が形を結ぶ。針。無数の氷の針。男の周囲に何百本も、何千本も宙に浮かんで、その切っ先がすべて遠野志貴の方を向いた。
外気温、零下百度。
遠野志貴は、真祖の防護の内側ではまだ動ける。けれど、防護の外へ一歩出れば、零下百度の空気が肺を凍らせる。氷の針の壁の向こうへは届かない。
空き地の南の端、廃ビルの屋上で、シエルが指の間に剣を構え直していた。
推定する。あの上級生は、針が放たれた瞬間に、遠野志貴を守るために剣を投げる。姿は見せず、真祖にも遠野志貴にも気づかれない位置から。今夜、ずっとそうしていた。
ただし、何千本の針のすべては落とせない。あの男の冬を止めない限り。
膠着。
その膠着の間にも、男の足元から冷気は流れ続けている。真祖は、遠野志貴を冷気から守るので手一杯だ。攻めに回る余力はなく、次の冷気の噴出を止めるものはない。
――遠野志貴。蛇の器の候補。
あの針が放たれれば、器は失われる。
演算、開始。
◇
刃の芯を澄ます。三百メートル先の、男の胸。
見えた。太い。
これまで見たどんな糸とも違う。糸ではない。鎖だ。何重にも巻かれた、凍りついた白い鎖が、男の心臓のさらに奥に絡みついている。
――あれが、原理。
それから、もうひとつ。鎖のさらに奥に、十本の細い、温かい糸が束ねられて眠っていた。一本一本が、別々の誰かの血の気配。
男はさっきまで、地面に転がった死体から血を啜っていた。啜って、燃やして、燃やし尽くしていた。それなのに、この十本だけは一滴も使われていない。大切に、大切に、しまい込まれたまま。
――用途、不明。
記録。
祖の血に刻まれた、世界の法則を書き換える呪い。僕の刃は、魂と呪いの結びつきを断つためのものだ。
原理が呪いであるならば。あの男の魂と、あの男の原理とを繋ぐ鎖があるならば。
――切れる。
理論上は。
ただし、第一段階の出力では、あの男に近づくことすらできない。氷の針の一本目で終わる。
第二段階。骨と筋を燃料にする。使用後、推定で数日から一週間は行動不能。
――許容する。
ここで器の候補を失うことに比べれば、損失は小さい。
――祖とは、決して、事を構えるな。
頭の奥で、嗄れた声がした。
――我らの刃は、蛇のためにある。蛇の心臓の前以外で、カナリアは、死んではならぬ。
長老たちの声。
正しい。祖との交戦で僕が死ねば、蛇に届く刃は失われる。だから、死なない範囲で動く。第二段階は死なない範囲だ。数日動けなくなるだけだ。
演算を重ねる。
氷の針が遠野志貴に放たれるまで、推定、数十秒。この骨組みから穴の底の男まで到達するのに、第二段階の出力で推定十二秒。男の鎖を断つのに要する共振の数は、推定十五から二十。
その間、男の動きを止める必要がある。
止める手段は。僕の体。
祖には近づかない。観測に徹する。今夜、部屋を出る前にそう判断した。
状況が変わった。判断を更新する。
鉄骨の上で、身を起こす。吐く息が白い。包帯の下で、焼けた背中の皮膚に霜が降りていく。
痛みは、ない。
空き地の南の端、三階建ての廃ビルの屋上。黒い装束の影が、凍りついた手すりに手をついて、穴の方を見ていた。指の間の銀色の剣が、雪明かりの中で細く光っていた。
あの剣が届けば。あの剣と、僕の刃と、遠野志貴の目が、同じ瞬間に届けば。
――演算、完了。
穴の底で、凍土の騎士が槍を構え直した。
氷の針が、一斉に鳴った。
僕は鉄骨を蹴った。