―――燃えるものは、燃やせばいい。
代行者になって最初に教わったことだった。穢れたものは焼いて灰にして、なかったことにする。それが教会の、後片付けの作法だ。
でも、あの夜焼けたのは、穢れたものだけではなかった。
◇
ホテルの火が消えた夜明け前。午前五時に部屋へ戻って、シャワーを浴びた。
熱いお湯で煤を流す。髪に絡んだ焦げた匂いが、なかなか落ちなかった。
鏡に映った自分の体には、傷ひとつなかった。炎に焼かれた腕も、死者の爪に裂かれた脇腹も、もうどこにも跡がない。
この体は、いつもそうだ。蛇がこの世のどこかで生きている限り、世界は私の魂を蛇のものだと思い込んでいる。だから壊れても壊れても、元に戻される。
私だけが元に戻る。あの子の背中は、戻らないのに。
タオルで髪を拭きながら、ベッドの縁に座り込んだ。
――有波くん。
非常階段の三階で、壁に背を預けて座り込んでいた。制服の背中が燃え落ちて、右手も左の腕も焼けていた。
それなのに、あの子は泣いていなかった。叫びもせず、ただ静かにそこに座っていた。
ショックで声も出なかったのだろう。一般の人があんな地獄を見たら、そうなる。私はそれを何度も見てきた。
――私が、もっと早く、上の階に行っていれば。
――あの子のいた階まで、炎を押し返せていれば。
十三年前、私の体はたくさんの人を焼いた。フランスの小さな町。修道院。それから、もっともっと、たくさん。
蛇の意識の奥に閉じ込められたまま、私はそれを全部見ていた。自分の手が何をしたのか、全部、自分のしたことのように感じていた。
代行者になったのは、その償いのためじゃない。償いなんて、できるはずがない。
ただ、もう二度と、私の目の前で関係のない誰かが焼かれるのを見たくなかった。
それだけ、だったのに。
あの子は、関係のない誰かだった。私が守らなきゃいけない側の人だった。
背負った時の重さを思い出す。思っていたより、軽かった。
それから、首筋に触れたあの子の脈。ひどくゆっくりだった。一分に五十と少し。あれだけの火傷をして、あれだけ怖い思いをした人の脈にしては、静かすぎた。
ショックで体が縮こまっていたのだろう。
そう思った。そう思うことに、した。
タオルを握りしめる。窓の外が白み始めていた。眠れそうになかった。
◇
朝六時。ホテルの前の通りには、まだ黄色い規制線が張られていた。
白い外壁の上の方の窓が、いくつも黒く焦げている。割れたガラスの破片が朝日を受けて、歩道の上でちかちかと光っていた。
消防車が二台、警察の車両が三台。それから報道の車がいくつか。
野次馬の輪のいちばん外側に、私は立っていた。制服の上にカーディガンを羽織って、ただの通りすがりの女子高生の顔をして。
眠っていない。夜明け前、あの子を救急車の見える植え込みの陰に横たえてから、ずっと。
「――ガス管の破裂だってさ」
隣で、どこかの会社員が携帯電話の画面を見ながら言った。
「地下のボイラー室から引火して、上まで一気に、だって。怖えなあ」
ガス管の破裂。もう、そういうことになっている。夜が明けて、まだ二時間も経っていないのに。
「――よう、代行者さん」
背後から声がした。高い、声変わり前の子供の声。それなのに、言葉の運びがひどくぞんざいだった。
振り返る。小柄な男の子だった。
十二歳か、そこら。黒い仕立てのいい外套に、手袋。その後ろに背の高い無表情な男がひとり、影のように控えている。
マーリオゥ・ジャッロ・ベスティーノ。
聖堂教会の東方慰問司祭代行で、ラウレンティス枢機卿の秘蔵っ子。
「ずいぶん派手に焼いてくれたよなあ、昨夜は。後始末する方の身にもなれっての」
「焼いたのは、私じゃありません」
「わかってるよ。十九位の祖サマだろ。……でも、あんたもいたよな? 下の階で、ばかすか黒鍵投げてたって、聞いてるぜ」
マーリオゥは焦げた窓を見上げた。
「ガス管の破裂。地下のボイラー室から引火。死者、なし。負傷者、十四名。……ってことに、した。死者なしってのが、あんたの手柄だってのは、認めてやる」
「……ありがとうございます」
「礼なんか言うな。気色わりい」
マーリオゥは鼻を鳴らした。それから、ふと声を低くした。
「で、だ。代行者さん。ひとつ、気になることがあってな」
◇
マーリオゥは外套の内ポケットから、一枚の写真を取り出した。
焦げた非常階段の踊り場。床の上に、黒い人の形の炭。
「これ、あんたの仕事か?」
「……燃える死者なら、たくさん、焼きました」
「よく見ろよ」
写真を受け取る。
炭の形。黒鍵で縫い止めて火葬式典で焼いた死者なら、炭はもっと形が崩れている。白い炎は骨まで焼き尽くすから。
この炭は違った。人の形を保ったまま、崩れている。
焼かれたのではない。糸が切れた操り人形のように、中に流れていた何かがぷつりと途切れて、そのまま燃え尽きた形。
「十八階から、二十二階の間。同じ壊れ方をした死者が、二十いくつか。それと、炎の犬が、三頭」
マーリオゥが指を折った。
「黒鍵の跡は、ない。浄化の炎の跡も、ない。教会の秘蹟でも、魔術協会の連中の術でも、見たことのない壊れ方だ。……親と子を繋ぐ、血の糸。それだけを、正確に、切ってる」
写真を持つ指が冷たくなった。
――知っている。
あの夜。十八階と十七階の間。蒸気の向こうから回転しながら飛んできた、黒い刃。私の背後の死者の胸に突き立って、そして死者は、何かが切れたように崩れた。
黒銀の短剣。柄に、何かの紋章があった。蒸気が濃くて、形まではわからなかった。
――誰?
あの時、私はそう訊いた。答えはなかった。非常扉の影には、誰もいなかった。
「……知りません」
写真を返す。
「私が見たのは、燃える死者と、炎の犬と、それから、祖の背中だけです」
「ふうん」
マーリオゥは写真を内ポケットにしまった。信じていない目だった。
「ま、いいさ。教会の人間じゃない誰かが、この街で、死徒を狩ってる。……覚えとけよ、代行者さん。そいつが何者でも、教会の邪魔になるなら、片付ける」
「……」
「それからな」
マーリオゥは背を向けかけて、振り返った。
「十九位の祖サマが、もし、この街で死んだら。……原理血戒ってのは、どこへ行くと思う?」
原理血戒。祖の血に刻まれた、世界の法則を書き換える呪い。祖が死んでも、それはすぐには消えない。
「祖の亡骸に残ります。……誰かが、回収しない限り」
「そ。誰かが回収しない限り、な」
マーリオゥは薄く笑った。十二歳の子供の顔に、似合わない笑い方だった。
「枢機卿の爺さま方は、そういうの、喉から手が出るほど欲しがるんだよ。……教会のもんだ。勝手に持ってくやつがいたら、ただじゃおかねえ」
「……あなたが欲しいのは、祖の原理だけですか」
私は訊いた。
「この街に、もうひとつ、何かがいるのは、知ってるはずです」
マーリオゥの目が、一瞬だけ細くなった。
「さあな。……この街に何がいようと、俺の仕事は、後始末だ。それと、教会の役に立つもんを、拾って帰ること」
はぐらかした。
この子の背後には、ラウレンティス枢機卿がいる。不老の秘術を喉から手が出るほど欲しがっていると噂される、老人たちが。
蛇は八百年、転生を繰り返してきた。その秘術を欲しがる者がいても、おかしくない。
「――安藤。行くぞ」
マーリオゥが背後の男に声をかけると、影のような男は無言で頷いた。マーリオゥはその男を連れて、人混みの向こうへ消えていった。
あの子は、何を追っているのだろう。この街の死徒か。祖か。それとも、もっと別の何かか。
ロア、と。その名前が喉の奥まで出かかって、飲み込んだ。
◇
八時十五分、学校の校門。
登校してくる生徒たちの流れを、昇降口の脇の自販機の陰から見ていた。
待っていた。あの子を。
来ないかもしれない、と思った。背中にあれだけの火傷をして、救急車で運ばれて。今日は病院のベッドの上かもしれない。
それでいい、と思った。会わなくて済むなら、それがいい。
会ったら、きっと、私は――
「――おはようございます、シエル先輩」
声がした。平らな、低い声。
振り返ると、あの子が立っていた。
灰を溶かしたような色の薄い金髪に、北の冬空に似た淡い灰青の目。
制服の袖口から、白い包帯が覗いていた。右の手首にも、左の前腕にも。
ブレザーの背中は真新しかった。昨日のは、燃えてしまったから。
「……有波、くん」
声が震えなかったかどうか、自信がない。
「その……包帯、どうしたんですか」
訊かなければ不自然だから、訊いた。昨日まで包帯なんて巻いていなかった後輩が両手を包帯でぐるぐる巻きにして登校してきたら、普通の先輩は訊く。
あの子は自分の手首を見下ろして、少しだけ首を傾げた。
「火事に、巻き込まれたみたいで」
「……みたい、で?」
「よく、覚えていません。気がついたら、外にいて。救急の人に、声をかけられて」
淡々と、他人事のように言った。
「親戚と、食事をしていたはず、なんですけど。……そこから先が、少し、曖昧で」
曖昧なのは。覚えていないのは。私が、そうしたからだ。
あの夜、この子の頬を両手で挟んで、怖い夢だと言い聞かせたからだ。あなたは、何も見ていない、と。
「……そう、ですか」
私は笑った。ちゃんと笑えていたと思う。代行者を何年もやってきた。嘘をつくのは得意だ。
「怖い思い、しましたね。……でも、無事でよかった。本当に」
「はい」
「痛くないですか?」
「平気です」
平気、なわけがない。
あの背中を、私は見た。この手で包帯を巻いた。平気なわけがないのに、この子は表情ひとつ変えずに、平気です、と言う。
――覚えていないから、なのかな。
痛みも怖さも、全部私が夢にしてしまったから。だから、こんなに平らな顔で。
「……お昼、いつもの場所で、待ってますね」
「はい」
あの子は小さく頭を下げて、昇降口の中へ消えていった。
その背中を見送りながら、私は自販機の陰で、自分の左の前腕を右手でぎゅっと掴んでいた。袖の上から、いつのまにか。
どうして、こんなにあの子のことが気になるのだろう。
初めて会ったのは、四日前の学食だ。ぼそぼそした四角い栄養食を、ひとりで黙々と齧っていた。両親は仕事で海外に。ひとり暮らしで、ごはんは朝も夜もあれだけ。
その話を聞いた時、ふと思い出したのだ。教会の地下で生き返った時の、自分のことを。
教会の冷たい石の部屋。目を覚ましても、誰も名前を呼んでくれなかった。家族も町も、もうどこにもなかった。出された食事は灰色で、何の味もしなかった。
――さみしい顔、してますね。
あの子に、そう言った。言ってから、しまったと思った。
あれは、あの子の顔じゃなかったのかもしれない。昔の私の顔だったのかもしれない。
だから、放っておけないのだ。ヨーロッパの血を引いた、異国の街のひとりぼっちの子供。
ご同郷、なんて冗談めかして言ったけれど。本当は、少しだけ本気だった。
◇
二時間目と三時間目の間の休み時間。二年の教室の前の廊下を、わざとゆっくり通り過ぎた。
窓際の、後ろから二番目の席。あの子はそこに座っていた。
女の子たちが三人、机の横に立って、包帯の巻かれた手を指さして何か言っている。あの子は短く答えて、教科書を開く。女の子たちは少し頬を膨らませて、席に戻っていく。
いつも通り。
斜め前の席は空いていた。遠野くんの席。
昨夜、あの人と――真祖の姫と、一緒にいた。ホテルの大階段で、あの人の後ろに立っていた。祖の炎の前で。
どうして、あの人と遠野くんが。
考えなきゃいけないことは、山ほどあった。ロアの器の候補として見張ってきた遠野くんが、真祖と行動を共にしている。それが何を意味するのか。今夜、祖はまた動くのか。真祖はどこまで弱っているのか。
なのに、私の目はさっきから、窓際の後ろから二番目の席から離れなかった。
「――何、見てんの」
背後から声がした。甘ったるい、作った声。振り返らなくても、わかった。
「……愛染先生」
「やめてよ、その呼び方。気持ち悪い」
ノエルが、廊下の窓枠に背中を預けていた。体の線が出るスーツに、高いヒール。教壇の上のあの媚びた笑顔は、どこにもなかった。
「独断で、来たそうですね」
「だったら、何?」
「戸山先生に、何をしたんですか」
「何も。……事件に巻き込まれたのは、本当よ。私は、空いた席に座っただけ」
ノエルは肩をすくめた。
五年前、教会の門を叩いた才能も何もないひとりの娘を、私は弟子にした。それから五年間、この子とは任務以外の言葉をほとんど交わしていない。
この子が私を憎んでいるから。それは、当然のことだったから。
十三年前のクリスマス・イブ。フランスの小さな町。蛇に呼び集められた祖たちの、儀式の夜。町の人たちは、ひとり残らず殺された。
生き残ったのは、たったひとり。十四歳の女の子。
その子が今、私の目の前で、媚びたスーツを着て教師のふりをしている。
あの夜、その町に蛇の器として立っていたのが私だったことを、この子は知っている。
「あの転校生」
ノエルが顎で教室の中を示した。
「有波、だっけ。……あんた、ずいぶん、目をかけてるみたいじゃない」
「……普通の、後輩です」
「普通、ねえ」
ノエルは薄く笑った。
「昨日の体育で、百メートル走らせたの。十四秒二。学年の平均の、ど真ん中。……でもね、ゴールしたあとの息の上がり方が、変だったの。教科書通りすぎて。まるで、平均的な高校生の息切れを、どこかで覚えてきて、再現してるみたいな」
「……」
「それに、昨夜のホテル。……救急の記録、見た? 身元不明の、外国人みたいな顔した男子高校生が、背中に大火傷して、名前も言わずに消えたって」
息が止まった。
「あんたが、助けたんでしょ」
ノエルがこちらを見た。目は笑っていなかった。
「巻き込まれた一般人を助けて、記憶を消して、置いてきた。……ほんと、そういうとこ、変わってないよね、あんた」
「……ノエル」
「心配しなくても、何もしないわよ。私の目的は、そっちじゃないし」
ノエルは窓枠から背中を離した。
「ただ、気をつけた方がいいよって、言いたかっただけ。……普通の後輩、なんでしょ?」
ヒールの音が、廊下の向こうへ遠ざかっていった。
私は、窓際の席をもう一度見た。あの子は教科書を見下ろしていた。何も知らない顔で。
――普通の、後輩。
そうだ。あの子は、巻き込まれただけの普通の後輩だ。
百メートルの息切れが教科書通りなのは、きっと体を動かすのが苦手なだけ。背中にあれだけの火傷をして平気です、と言うのは、きっと私が怖い夢にしてしまったから。
そう思うことにした。
◇
三時間目。三年の教室の、窓際の私の席。
誰も、私がこの教室に一か月前からいたことを疑わない。暗示は、そういうふうにかけてある。
黒板の数式をノートに写すふりをしながら、ノートの隅にペンを走らせていた。
細長い刃の形。刃渡りは二十センチ弱。黒に銀が混じったような色。柄に、何かの紋章。
紋章の部分だけ、どうしても描けなかった。蒸気の向こうで、一瞬見えただけだから。
――蔦。
なぜか、その言葉が浮かんだ。見えてもいないのに。
ペンが止まる。消しゴムで刃の絵を消すと、ノートの隅が少しだけ黒く汚れた。
◇
昼休み。屋上へ続く階段の、いちばん上の踊り場。
約束の時刻の二分前に行った。あの子は、もうそこにいた。いつも二分前に来て、一度も遅れたことがない。
「……これ」
空の弁当箱が差し出される。ぴかぴかに洗ってある。パッキンまで外して。
あの火事の夜にも、この子は家に帰って、これを洗ったのだ。背中を焼かれて、夢だと思い込まされて。それでも、パッキンを外して。
「……ありがとうございます。はい、今日の分」
新しい包みを渡す。
今朝、四時半に起きて作った。ホテルから帰ってきてシャワーを浴びて、そのまま台所に立った。眠れなかったから。何かをしていないと、いられなかったから。
――最初は、確かめるためだった。
事件が始まったのと同じ週に、遠野くんのクラスに季節外れの転校生。代行者なら、まず疑う。
おかずを分けたのも、ついでの一箱も、半分は近くで様子を見るための口実だった。
半分は。
残りの半分が何だったのかは、自分でもよくわからない。四角い栄養食をひとりで齧っていた、横顔のせいかもしれない。
それが、昨夜から半分じゃなくなった。巻き込んで、怪我をさせて、私の手で記憶を夢にした。口実なんか、もう要らなかった。
あの子が包みを開ける。包帯の巻かれた右手で、器用に箸を使う。
卵焼き。咀嚼。嚥下。
「……どうですか?」
「美味しいです」
いつもの答え。いつもの、平らな声。
それを聞いて、私は少しだけ泣きそうになった。
泣かなかった。
「……昨日の、卵焼き。三回巻いたやつ」
「はい」
「あれ、ちゃんと、渦になってたの、気づいてくれました?」
あの子は、少しだけ考えるような間を置いた。
「……はい。断面が、三重でした。均等な厚さで」
「……ふふ。ちゃんと、見てくれてたんだ」
「見たので」
見ただけ。それでも、見てくれていた。それだけでいいと思った。
食べ終わって、弁当箱を包み直そうとした時。あの子の包帯の右手が、階段の手すりの角にごつん、とぶつかった。火傷の、ちょうど真上。
「あ――」
私の方が声を上げた。
あの子は何も言わず、顔もしかめなかった。ぶつかった右手をちらりと見下ろして、それから何事もなかったように包みを結び直した。
「……痛く、なかったですか、今の」
「平気です」
まただ。
――覚えていないから、だよね。
痛みも怖さも、私が夢にしてしまったから。そうだと思う。そうでなければ、説明がつかない。
「今日のは、普通の卵焼きです。……ごめんなさい。今朝は、ちょっと、手が、うまく動かなくて」
「そうですか」
「火傷、まだ、痛むでしょう。……今日は、部活、休みにしましょう。まっすぐ帰って、ゆっくり休んでください」
「……はい」
「約束、ですよ」
「はい」
あの子は素直に頷いた。いつも、素直に頷く。嫌だとも面倒だとも言わない。
まるで、そう答えるように作られているみたいに。
――ばかなこと、考えてる。
私は自分の卵焼きを口に入れた。少しだけ、焦げていた。
◇
放課後。部室には行かなかった。
旧校舎の前を通り過ぎる時だけ、一階のいちばん奥の窓を見た。障子の閉まった、茶道部の部室。
一昨日、あの部屋で、あの子に茶筅の振り方を教えた。手首が固かったから、上から手を重ねた。あの子の手の甲は、ひんやりとしていた。
力を抜いて、と言ったら、その通りに抜いた。泡が細かくなった。上手です、と言ったら、あの子は黙って茶碗の中を見下ろしていた。
何を考えていたのだろう。私には、あの子の考えていることがひとつもわからない。わからないのに、気になって仕方がない。
まっすぐ部屋に帰った。
装束に着替える。黒い布。黒鍵の束を、指の間で確かめる。
鏡の前に立つと、眼鏡の奥の目がひどい色をしていた。
昨夜の祖。
ヴローヴ・アルハンゲリ。死徒二十七祖、第十九位。
炎の祖。少なくとも昨夜は、そう見えた。でも、祖の原理は見かけ通りとは限らない。あの炎の奥に、もっと別の何かが眠っている気がした。
それに、真祖。あの人は昨夜、まだ全力ではなかった。全力を出せないほど弱っていた。
今夜、もし祖がもう一度街に出てきたら。あの人と遠野くんは、きっとそこにいる。そして、昨夜のあの黒い刃の誰かも。
親と子を繋ぐ血の糸だけを、正確に切る刃。
マーリオゥは、見たことがないと言った。私も、ない。
――ない、はずだ。
なのに、あの壊れ方を写真で見た時。どこか、ずっと底の方で、何かがことりと音を立てた気がした。
魂の結びつきを断つための技術。そういうものを、どこかで知っていた気がする。遠い昔に。私ではない、誰かの記憶の中で。
――ロア。
この街のどこかに、あの蛇がいる。十三年間追い続けてきた蛇。この体を私から奪って、たくさんの人を殺させた蛇。
祖と真祖の戦いの陰で、あの蛇が何を企んでいるのか。それを見逃すわけにはいかない。
だから、今夜も行く。
装束の袖を通す。左の前腕の内側を、袖の上からもう一度だけさする。
傷なんてない。この体に、傷は残らない。それでもときどき、ここが痒くなる。ずっと昔に、自分の爪で掻き毟った場所みたいに。
それがいつ、どこでのことだったのか。考えようとすると、頭の奥が白く靄がかかったようになる。
――雪。
窓の外に、雪なんて降っていないのに。
頭を振る。今は考えるな。今夜のことだけ考えろ。
あの子は今頃、家で休んでいる。約束、しましたから。まっすぐ帰って、ゆっくり休んでくださいって。はい、って、あの子は素直に頷いた。
だから、大丈夫。今夜、あの子が火の中に来ることは、ない。
部屋を出る前に、ベランダに出た。
夕暮れの総耶の街。駅の北の繁華街に、灯りが点り始めている。南のビジネス街は、昨夜のホテルの焦げた窓だけが黒い穴のように並んでいる。
森の縁の、遠野の屋敷。今夜も窓に明かりはない。遠野くんは今夜も帰らないのだろう。あの人と、一緒に。
それから、駅の北側の繁華街の裏手。古いアパートがいくつか、肩を寄せ合うように建っている一角。
あの子の家がどこにあるのか、私は知らない。聞いたこともなかった。
知らなくていい。知ったら、きっと毎晩見に行ってしまう。
街の西の方角の空が、うっすらと赤く滲み始めていた。夕焼けの色では、なかった。
私は、黒鍵の束を握りしめた。