―――
体の奥で、何かが軋んだ。
毛細血管ではない。もっと太いもの。
筋繊維が一本ずつ、内側から千切れていく。骨の芯が熱を持つ。関節の軟骨が、圧力でひしゃげていく。
本来なら叫び声を上げるはずの信号が、すべて脊髄の手前で、出力に書き換えられていく。
千切れる。書き換える。
ひしゃげる。書き換える。
壊れる。書き換える。
世界が止まった。降りしきる雪の一片一片が、宙に静止して見える。
骨組みの九階から跳ぶ。落ちる。止まった世界の中を。
着地。膝の骨が鳴った。亀裂。
――左膝、膝蓋骨に亀裂。出力に変換。
走る。
◇
空き地を横切る。凍りついた廃材を蹴る。炎の形のまま霜に覆われた、蒼い炎の残骸を蹴る。
一歩ごとに、足の裏の皮膚が凍った地面に張りついて、剥がれる。構わない。
穴の縁へ。
すり鉢状の巨大な穴。その底で、凍土の騎士が槍を構えていた。
騎士の周りに、氷の針が浮かんでいる。何百本も。何千本も。その切っ先はすべて、穴の北の縁にいる遠野志貴に向いている。
遠野志貴は眼鏡を外したまま、瓦礫の上に立っていた。真祖の小さな春の内側で、ナイフを構えていた。小さく古い、折り畳みのナイフ。
遠野志貴の目が、騎士の体のどこかを見ている。人の輪郭の、ほんの少し内側を。
氷の針が、一斉に鳴った。放たれる。何千本の白く細い死が、遠野志貴とその前の真祖へ殺到する。
――その瞬間、真祖が腕を振った。凍りついて動かない肩とは、逆の腕を。
穴の縁の、家ほどもあるコンクリートの塊が、浮いた。
世界が書き換えられる。重さを忘れたように。
塊が宙を滑る。穴の斜面に叩きつけられる。砕けずに、斜めに突き刺さる。
一枚の長く傾いだ板。穴の北の縁から騎士の頭上へと続く、瓦礫の橋。
殺到した氷の針が、その裏側に突き刺さる。何百本も、何千本も。橋は砕けなかった。
遠野志貴が、橋に飛び乗った。凍った瓦礫の表面を、靴底で滑る。穴の底へ。騎士へ。
真祖の小さな春が、薄い膜のように遠野志貴の体に貼りついたまま。零下百度の中を、遠野志貴だけが凍らずに滑り降りていく。
――真祖と遠野志貴の連携。……合理的。
橋を回り込んだ針の群れが、遠野志貴の進路へ流れ込む。どこからか、銀色の剣が数本飛んできた。白く燃えて、針を砕く。
穴の南の、崩れた壁の陰。投げ手の姿は、真祖の位置からも遠野志貴の位置からも見えない。
――上級生・シエル。誰にも見られない位置から援護。
記録。
それでも、騎士は針を生み続けている。橋の先端に、新しい針の壁が編まれていく。遠野志貴の滑走はそこで止まる。騎士の冬が止まらない限り。
◇
穴の縁を蹴る。斜面を駆け下りる。
砕けきれなかった氷の針が何本か、軌道を外れてこちらへ流れてきた。一本目を、首を傾けて躱す。二本目を、刃の腹で弾く。三本目が、右の脇腹を掠める。制服が裂けて、皮膚が薄く凍る。
構わない。
騎士の背後へ。
騎士は遠野志貴を見ていた。遠野志貴だけを見ていた。あの少年だけが自分を殺せると、知っているから。
だから、背後のもうひとつの影を見ていなかった。見る必要がなかった。この影は自分を殺せない。
騎士の判断は正しい。僕には、あの男を殺す力はない。殺す必要もない。剥がすだけでいい。
残り十メートル。五メートル。
騎士の首が、ゆっくりとこちらへ回った。澄んだ目。凍った湖の目。その目に僕が映った。
侮り。あるいは、無関心。
――邪魔だ。
そう言ったように見えた。
騎士の槍が動いた。片手で、無造作に。羽虫を払うように。青白い穂先が雪を裂いて、一直線に僕の胸へ――
演算する。
躱せる。第二段階の出力なら、半身で躱せる。
躱した場合。槍は空を切る。騎士は間合いを取り直す。僕は、騎士に近づけない。
躱さない場合。
――躱さない。
半歩だけずらす。胸ではなく、左の肩へ。
入ってきた。冷たい。骨を砕き、肉を貫いて、背中へ抜けていく。青白い穂先が、僕の左肩から突き出ていた。
――左肩、貫通。鎖骨と肩甲骨、粉砕。
――出力に変換。
記録。
痛みは、ない。
槍の柄を、右手で掴む。焼けただれた右手で。握力は二割減。第二段階の出力で補う。
騎士が槍を引こうとする。引かせない。
槍に肩を貫かれたまま、柄を伝って前へ。前へ。前へ。
肩の中を、槍の柄がこすれていく。凍てついた柄が、肉を内側から凍らせていく。構わない。
騎士との距離が、槍の長さから腕の長さに縮まる。騎士の目が、初めて揺れた。
左手の刃を、騎士の胸へ。肋骨の隙間。心臓の、さらに奥。
見えた。凍りついた白い鎖。何重にも、何重にも巻かれて、騎士の魂に深く食い込んで。
――共振、開始。
◇
一。
刃の芯が鳴った。これまでのどんな共振とも違う音。
鎖が刃を拒む。凍てついた何かが刃の芯を伝って、僕の手の中へ、腕の中へ這い上がってくる。指先が白くなる。
二。
騎士の左手が、僕の喉を掴んだ。凍る。喉の皮膚が一瞬で白く凍り、息ができない。
構わない。息は、あと三十秒止められる。
三。四。
騎士の手が、僕の喉を握り潰そうとする。気管が軋む。
――その時、騎士の手がわずかに緩んだ。騎士の目が、僕から逸れていた。遠野志貴の方へ。
銀色の剣が開いた一筋の道を、遠野志貴が駆けてくる。騎士の注意が割れた。
五。六。七。
鎖が軋む。刃が軋む。僕の左腕の骨が軋む。
八。九。
刃の芯を伝って流れ込んでくるのは、冷気だけではなかった。
――灰色の空。凍った海。
――どこまでも続く、白い氷の原。
――鎖に繋がれて、氷の上に置き去りにされる。罪を着せられて。
――暖炉の前で笑う、何人もの女たちの顔。十人。ひとりひとりの名前を呼ぶ声。
――誰かの白く細い手。その手が、自分の首に牙を立てる。冬の主。
――それから、もっと新しい記憶。
――細く、冷たく、ねじれた何かの気配。
――蛇。
――蛇の手が、自分の血に何かを刻んでいく。抗えない。逃げられない。
――二百年。
蛇。この男も、蛇に触れられていた。
記憶の断片。魂と原理とを繋ぐ鎖に刃が触れているから、鎖の向こうのものが漏れ出してくる。
処理対象外。記録は、しない。
十。
足元の雪が赤い。僕の血だ。左肩から流れて、流れた端から凍っていく。
十一。十二。十三。
鎖の一本目が切れた。
騎士が、声を上げた。獣のような、それでいてひどく人間じみた声を。
十四。
頭上を、銀色の剣がまた走った。二度目の雨。シエルの剣が騎士の足元に次々と突き立ち、白い炎が上がる。
その炎が、すぐ間近で僕の手元を照らした。騎士の胸に突き立てた、黒銀の刃の柄を。蔦と牙の紋章を。
穴の南の、崩れた壁の陰で、黒い装束の影が動きを止めた。剣を投げ終えた右手を宙に浮かせたまま、こちらを見ていた。
フードの陰で、顔は見えないはずだ。けれど、あの目は、僕の顔ではなく、僕の手の中の刃の柄を見ていた。
――見られた。
記録。
騎士の周りに浮かんでいた氷の針が、一斉に震えた。
十五。二本目。
針が、形を失い始める。切っ先から崩れて、ただの雪に戻っていく。
十六。三本目。
視界の端が白く滲む。体温、測定不能。
十七。
ぶつり、と。最後の鎖が切れた。
白い何かが、騎士の胸から刃の中へ流れ込んできた。凍てついた、永久の冬。
黒銀の刃が、一瞬で白く霜に覆われた。刃の芯のさらに奥で、何かが静かに眠りについた。
――剥離、完了。
――原理、刃内に封印。
記録。
それから、刃の芯から冷たいものが、柄を伝って僕の右手へ染み出してきた。指先から手首へ。手首から肘へ。
封じたものは、消えるわけではない。刃が預かる。刃と魂の通った僕も、預かる。
――体温低下、一度。
――原理の封印に伴う、冷えの蓄積を確認。
――代償として記録。
◇
雪が止んだ。
宙に浮かんでいた何千本の氷の針が、さらさらと崩れていく。ただの白い粉になって、穴の底に降り積もっていく。
外気温が上がっていく。零下六十度。零下二十度。零度。
騎士の体から、冷気が消えていた。
騎士は、僕の喉を掴んでいた手をゆっくりと離した。槍が、騎士の手の中で溶けていく。僕の左肩を貫いていた柄も、溶けて水になって流れ落ちていく。
騎士が、僕を見下ろしていた。
澄んだ目でも、ぼんやりとした目でもなかった。ひとりの、疲れ果てた男の目だった。
その目が、僕の手の中の刃に落ちた。白く霜に覆われた黒銀の刃。柄の、蔦と牙の紋章。
「……そうか」
低い声だった。眠たげではない、まっすぐに通る声。
「蛇の魂をも、断ちかねない刃か。……噂には、聞いていた。遠い昔に。北の森の、どこかで、そういうものを打つ者たちがいる、と」
男は、小さく笑った。
「お前も、あの蛇に、何かを奪われたのか」
「いいえ」
答える。喉が凍っていて、声が軋んだ。
「恨みは、ありません。そう、決められているだけです」
「……おれには、ある」
男の目に、一瞬だけ暗い炎が灯った。
「あの蛇は、おれの血に、勝手なものを刻んだ。おれの主を、おれの手で、殺させた。……二百年、ずっと、あの蛇の糸に、繋がれていた」
男は、僕の刃の、霜に覆われた刃身を見た。
「その刃なら、あれを、断てるのか」
「設計上は」
「……そうか」
男は、しばらく黙っていた。それから、もう一度笑った。今度は少しだけ、哀しそうに。
「……そうか。お前も、誰かの、呪いを、継いだのか」
それから、男は自分の胸に手を当てた。剥がされた鎖の、さらに奥。十本の温かい糸が、まだそこにある。
「……なぜ、十本には、触れなかった」
男が訊いた。
「見えていたはずだ。お前は、あれを、見ていた」
「あれは、呪いでは、ありません」
答える。
「この刃が断つのは、魂と、呪いの結びつきだけです。……あれは、呪いの形を、していませんでした」
男は、しばらく何も言わなかった。それから、喉の奥で低く笑った。
「……呪いではない、か」
男は目を細めた。
「何百年も、あれを、呪いのように、抱えていた。使えば、春が、終わる。だから、使えない。……そう思っていた」
男の視線が、僕の肩越しに動いた。氷の針の消えた雪の上。眼鏡を外した遠野志貴が、そこまで来ていた。
男は、もう後ずさらなかった。
「ならば、持っていけ、小僧」
男が、僕の刃を顎で示した。
「その冷たさは、おれには、もう、要らぬ。……ずっと、寒かった。何百年も。どれだけ血を浴びても、ずっと」
男の胸の奥で、十本の温かい糸がほどけた。ひとつ。またひとつ。
刃は、触れていない。男が、自分でほどいていた。
「――本当に寒い時に、とっておけ、と、言われた」
男は、僕ではない誰かに向かって話していた。
「……今が、そうらしい」
ほどけた糸から、何かが男の体に広がっていく。刃の芯で聴こえた。十の、小さな温かい鼓動のような何かが。
男は目を閉じた。
「ようやく、少しだけ、暖かい」
瓦礫の橋の先端から、針の壁の崩れた跡を越えて、遠野志貴が雪の上に降り立った。
眼鏡のない目が、男の胸の少し右の、何もない場所を見ていた。遠野志貴にしか見えない何かを。
遠野志貴のナイフが、男の体の何もない場所をなぞった。音は、なかった。
男の体が、ほどけた。砂が崩れるように。雪が溶けるように。ほどけて、ほどけて、夜風の中に消えていった。
最後まで、男は目を閉じていた。
――死徒二十七祖、第十九位。消滅。二十時五十八分。
記録。
◇
遠野志貴が、僕を見た。眼鏡のない、裸の目で。
その目が、僕の輪郭のほんの少し内側をなぞって、見開かれた。
「……お前、は」
掠れた声。
「なんだ、その……線。……ぐちゃぐちゃだ。体中、切れかけて……」
答えない。
遠野志貴の目が何を見ているのかは、わからない。けれど、あの目は、あの騎士の体の何もない場所に死を見つけた目だ。長く見られるべきではない。
フードを目深に被り直す。
穴の北の縁の方で、何かが崩れる音がした。遠野志貴が振り返る。
「――アルクェイド!」
霜に覆われた真祖が、瓦礫の上に膝をついていた。
遠野志貴は、僕を一度だけ見て、それから瓦礫の橋を駆け上がっていった。
――第二段階、解除。
解除した瞬間、体の内側で、千切れた筋と砕けた骨と凍った肉が一斉にその状態を報告してきた。痛みとしてではない。数値として。
――左肩、貫通創。鎖骨と肩甲骨、粉砕。
――左膝、膝蓋骨に亀裂。
――全身の筋繊維、断裂。推定三割以上。
――喉、凍傷。
――背部、熱傷の上に凍傷。
――足底、皮膚の剥離。
――出血、多量。
――体温三十三度、低下中。
膝が折れかけた。折れさせない。
――第一段階、再起動。出力最小。
毛細血管が切れる。脚に、わずかに力が戻る。
穴の南の崩れた壁の陰で、シエルの気配がこちらへ向かいかけて、止まった。
真祖と遠野志貴が、まだこの穴の縁にいる。あの上級生は、今夜一度もあの二人の前に姿を見せていない。だから、まだ降りてこない。
――ただし、二人が去れば降りてくる。
――シエル。
この姿を、見られてはならない。
昨夜、巻き込まれた一般の生徒として記憶を消されたことになっている僕が、今夜、祖の胸に刃を突き立てていた。見られれば、すべての前提が崩れる。
穴の壁を見る。真祖の一撃で抉れた、すり鉢の斜面。その途中に、崩れた土の間から古いコンクリートの管が口を開けていた。雨水の排水管。直径一メートル弱。
跳ぶ。跳べない。脚が、そこまで動かない。
這う。雪の上を。斜面を。凍った血の跡を引きずりながら。
排水管の口に、体を押し込む。闇。湿った黴の匂い。奥へ二メートル。三メートル。止まる。
振り返って、管の口から外を見る。
◇
雪は、もう止んでいた。
穴の底の白い雪の上に、僕が這った跡が赤い筋になって、管の口まで続いている。
――痕跡の隠蔽、不可能。
ただ、空からまた何かが、ひらひらと降り始めていた。騎士の冬の名残。凍った空気の中に残っていた、最後の雪。それが赤い筋の上に、薄く、薄く降り積もっていく。
穴の縁の北側で、真祖が身を起こしていた。遠野志貴を守り続けた背中が、白い霜に覆われている。動かない肩を、だらりと下げて。
遠野志貴が、瓦礫の橋を駆け上がっていく。真祖の傍らに膝をつく。遠野志貴の腕に、氷の針が何本か刺さっていた。橋の上で避けきれなかった分だ。
真祖が、懐から何かを取り出した。灰のような、古く乾いた何かの欠片のような。それを、遠野志貴の傷に当てる。傷が塞がっていく。
――真祖。何らかの触媒による治癒。詳細不明。
それから真祖は、遠野志貴に何かを言った。ひどく柔らかい顔で。そして、夜の中へ跳んでいった。
遠野志貴はその方角を、しばらく見上げていた。それから、ふらつく足取りで穴の縁を上っていった。
――真祖、遠野志貴、現場を離脱。二十一時十九分。
記録。
◇
穴の南の崩れた壁の陰から、黒い影が出てきた。シエルだった。
真祖と遠野志貴がいなくなるまで、姿を見せずに、ずっとそこで待っていた。
穴の斜面を駆け下りてくる。騎士の消えた場所を見て、それから、雪の上を見回した。
「……どこ」
小さな声が、管の中まで届いた。
「どこに、いるの」
シエルの目が、穴の底をなぞっていく。騎士の消えた跡。遠野志貴の足跡。瓦礫の橋。それから、雪の下にうっすらと透けて見える、赤い筋。
シエルが、その筋を辿り始めた。一歩。また一歩。管の口へ近づいてくる。
息を止める。気配を消す。歩くことより先に、教わったことだ。
シエルが、管の口の二メートル手前でしゃがみ込んだ。赤い筋が新しい雪に埋もれて、途切れている。
「……誰?」
闇の中へ、問いかけてくる。ホテルの蒸気の向こうへ向けたのと、同じ言葉。
答えなかった。
――その時、穴の外の通りの方から車の音がした。いくつも。ヘッドライトの光が、穴の縁を白くなぞる。
シエルが、顔を上げた。
「……マーリオゥ」
舌打ちのような、小さな声。
シエルは管の闇を、もう一度だけ見つめた。それから、唇を強く噛んで立ち上がり、穴の南の斜面を駆け上がっていった。
――上級生・シエル。追跡を中断、現場を離脱。二十一時二十六分。
――刃の紋章を見られた可能性。
――剣の炎に照らされた瞬間。蔦と牙。距離、推定三十メートル。
――判別可能な距離。
記録。
管の中は冷たかった。騎士の冬が、この管の中にもまだ残っていた。湿った壁に、霜が張りついている。
左肩の穴から、血が流れ続けている。凍っては溶けて、また凍って。右手で、穴を押さえる。押さえても止まらない。指の間から溢れていく。
――出血、継続。止血困難。
――意識の維持、困難になりつつある。
――カナリア。
頭の奥で、嗄れた声がした。
――蛇の心臓の前以外で、死んではならぬ。
わかっている。だから、死なない。
体温を保つ。呼吸を浅く、長く。心拍を意図的に下げる。代謝を落とす。
地下で教わった。傷を負って、助けが来ない時の手順。助けは、来たことがなかった。だから、手順はいつも、自分ひとりで完結するようにできている。
霜に覆われた黒銀の刃。その芯のさらに奥で、永久の冬が眠っている。
――持っていけ、小僧。
――ようやく、少しだけ、暖かい。
あの男の最後の言葉。意味は、推定できない。記録は、しない。
視界が暗くなっていく。体温、三十二度。
――意識の喪失まで、推定三十秒。
――生存の確率、低くはない。
――蛇の心臓の前以外で、カナリアは、死なない。
目を閉じた。
◇
夜明け。目を開ける。管の口から、灰色の光が差し込んでいた。
生きている。
体温、測定不能。体が冷えすぎている。
穴の底には、黄色い規制線が張り巡らされていた。作業服の男たちが、何人も行き来している。重機の音。誰かの怒鳴り声。
「――ガス管の破裂ってことで! 地下の老朽化した本管!」
「穴は、陥没事故! 報道には、そのように!」
教会の後始末。
その中に、黒い外套の小柄な影がひとつ、混じっていた。十二歳くらいの男の子。騎士の消えた場所にしゃがみ込んで、雪の溶けた地面を指でなぞっている。
「……ねえよ」
男の子が呟いた。
「どこにも、ねえ。祖が死んだら、原理は残る。亡骸に、残るはずだ。……なのに、どこにもねえ」
男の子は手袋を外して、素手で地面に触れた。
「……冷てえ。この穴の底だけ、まだ、冬みてえに冷てえ。原理の残り香は、ある。なのに、本体が、ねえ」
男の子は眉を寄せて、穴の斜面をゆっくりと見上げていった。
「誰かが、持ってった。……真祖の姫さんか。それとも、あの眼鏡の坊主か。それとも」
舌打ち。
「昨夜のホテルの、糸切り野郎か」
男の子が立ち上がって、穴の周りをぐるりと見回した。その目が、斜面の途中の排水管の口の方へ向きかけて、背後の背の高い男に何かを話しかけられて、逸れた。
「――ちっ。安藤、撤収だ。報告は、俺が上げる。……原理血戒、行方不明。そう書くしかねえ」
男の子は、もう一度だけ穴の底を振り返った。
「必ず、見つけてやる。教会のもんだ」
足音が遠ざかっていく。作業服の男たちも、一人、また一人と穴を離れていく。
午前六時半。穴の底に、誰もいなくなった。
――第一段階、起動。出力最小。
毛細血管が切れる。
這う。
管の口から、雪解けの泥の上へ。穴の斜面を這い上がる。右手と右脚だけで。左腕は、動かない。左脚は、膝から下が応答しない。
フェンスの破れ目。路地。
這う。
駅の北側。繁華街の裏手。まだ誰も起きていない、灰色の街を。
這う。
新聞配達のバイクが、通りの向こうを走っていく。自動販売機の陰に身を寄せる。バイクの音が遠ざかる。
這う。
ゴミ置き場の脇で、鴉が三羽、袋をつついていた。僕を見て、一羽が羽ばたいて電線に逃げた。残りの二羽は逃げなかった。這い寄ってくる血まみれのものを、首を傾げて見ていた。もうすぐ餌になるものを見るように。
――鴉の判断は、誤っている。
這う。
交差点。信号が赤から青に変わる。誰も渡らない。
這う。
アパートの外階段。十二段。一段ずつ、右手で手すりを掴んで、体を引き上げる。十二段に、四十分かかった。
全部で、三時間かかった。
◇
午前九時四十分。アパートの二階。
鍵を二度確かめる余裕は、なかった。
床に倒れる。仰向けに。しばらく、動けなかった。
それから、右手を伸ばす。流し台の下の救急箱。指先が届く。引き寄せる。蓋を開ける。消毒液。ガーゼ。包帯。
左肩の穴に、ガーゼを詰める。前から。後ろは届かない。床に背中を押しつけて、体重で圧迫する。
包帯を巻こうとする。片手では巻けない。三度試して、やめた。
ガーゼを詰めた肩に、タオルを押し当てる。
――止血、不完全。ただし出血量、減少傾向。
――生存の確率、低くはない。
天井が見える。六畳の、何もない天井。
ポケットから、携帯端末を取り出す。右手の指だけで、学校の番号を押す。
「……二年の、有波です。……交通事故に遭いました。……しばらく、休みます」
事務員が、何かを言っている。大丈夫ですか。病院は。親御さんは。
「大丈夫です。……親戚が、いますので」
切る。端末を床に置く。
床の上のすぐ脇に、刃が転がっていた。白く霜に覆われた黒銀の刃。その周りの畳が、うっすらと白く凍り始めていた。刃の芯の奥で眠っている、あの男の冬が、わずかに漏れている。
右手で、刃を引き寄せる。救急箱の中の残りのタオルで、何重にも包む。
――封印、安定。ただし刃の周囲に、微弱な冷気の漏出。保管方法の検討が必要。
机の上の黒い革の手帳には、手が届かない。だから、頭の中で記録する。
――死徒二十七祖、第十九位。消滅。遠野志貴のナイフによる。
――同祖の原理血戒、剥離。刃内に封印。教会の後始末の部署が、その行方を探索中。
――上級生・シエル。剣の投擲により氷の針を破砕、遠野志貴の進路を確保。
――同人物。刃の紋章を目視した可能性、高。
――こちらの姿は見られていない。
――真祖。戦闘不能から回復。遠野志貴を治癒し、離脱。
――遠野志貴。こちらの姿を目視。フードにより、顔の判別は困難と推定。
――損傷。左肩貫通。鎖骨と肩甲骨、粉砕。左膝亀裂。全身の筋断裂、三割以上。喉、凍傷。背部、熱傷と凍傷。足底剥離。
――第二段階の反動。行動不能、推定四日から六日。
――任務に、支障。
初めて、その一行を記録した。
任務に、支障。
それでも、器の候補は生きている。蛇の追跡は途切れていない。損失は、許容の範囲内。
体温、測定不能。脈拍、毎分六十四。損傷による上昇。
――カナリアは、歌わない。
――カナリアは、鳴かない。
――カナリアは、誰も、温めない。
――カナリアは、誰にも、温められない。
――カナリアは、誰よりも先に、死ぬ。
――ただし、ここでは、ない。
床の上で、目を閉じる。
眠りは、三十秒では訪れなかった。
七秒で、訪れた。