炭鉱のカナリア   作:にんら

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休学

 意識が、戻る。

 

 最初に確認するのは、いつも同じことだ。体温。脈拍。四肢の反応。

 

 ――体温、三十五度一分。

 

 平常値より〇・八度低い。出血のせいだけではない。右腕の芯に、まだ冷たいものが残っている。昨夜、刃に封じた冬の名残。

 

 ――脈拍、毎分六十二。

 

 ――四肢の反応。

 

 右手の指、動く。右腕、肘まで。左手、応答なし。左肩から先、すべて応答なし。

 

 右脚、膝まで。左脚、足首まで。首、十五度。

 

 確認に要した時間、八秒。誤差、大。原因は、はっきりしている。第二段階の反動だ。

 

 記録。

 

◇

 

 転入六日目。朝九時。

 

 六畳の床の上で、目を覚ました。昨日の朝、這って帰ってきて倒れた場所から、一センチも動いていない。

 

 天井が白い。窓のカーテンの隙間から、灰色の光が差し込んでいる。

 

 左肩に押し当てていたタオルが、乾いた血で皮膚に張りついていた。右手で、ゆっくり剥がす。

 

 穴は塞がりかけていたが、完全ではない。縁が黒く硬くなっている。凍傷の跡。

 

 ――左肩、貫通創。出血、停止。感染の兆候、なし。

 

 ――骨の癒合、未。

 

 記録。

 

 すぐ脇に、タオルで何重にも包んだ刃が転がっていた。その周りの畳が、白く霜に覆われている。範囲は昨日よりも広く、直径六十センチ。

 

 刃の芯の奥で眠っている、あの騎士の冬が漏れ続けている。

 

 ――このままでは、室温が下がり続ける。

 

 ――冷気の漏出は、外から感知される可能性がある。

 

 演算する。冷気を隠す方法。冷たいものを、冷たいものの中に隠す。

 

 右手と右脚だけで、床を這う。流し台の横の、小さな冷蔵庫まで二メートル。四分かかった。

 

 上の段の冷凍室の扉を開ける。製氷皿がひとつ。それ以外は何も入っていない。

 

 製氷皿を出し、タオルに包んだ刃を押し込んで、扉を閉める。

 

 ――刃、冷凍室に保管。冷気の漏出、遮蔽。

 

 ――冷凍室内の温度、推定零下五十度以下。冷蔵庫の故障の可能性。許容。

 

 記録。

 

 冷蔵庫の扉に背中を預けて、座り込む。下の段には、ミネラルウォーターが九本と、固形の栄養調整食品が三十九箱。

 

 一本取り出して、封を切る。咀嚼、四十回。

 

 ――糖質、脂質、蛋白質。塩分、基準値内。毒性、なし。

 

 それで終わり。

 

◇

 

 机の上の、黒い革の手帳。手が届かない。

 

 冷蔵庫の前から机まで、また這う。三分。

 

 手帳を床に引きずり下ろし、ペンを右手で握る。

 

 ――転入五日目。死徒二十七祖、第十九位、消滅。遠野志貴のナイフによる。

 

 ――同祖の原理血戒、剥離、刃内に封印。現在、冷凍室に保管。

 

 ――教会の後始末の部署。原理の行方を探索中。

 

 ――上級生・シエル。刃の紋章を目視した可能性、高。

 

 ――損傷、甚大。行動不能、推定四日から六日。

 

 ペンを置く。字が乱れていた。右手の指先の、毛細血管の傷のせいだ。

 

 ――記録の精度、低下。

 

 それも記録した。

 

 それから、状況を整理する。

 

 昨夜、僕は二つの判断を更新した。祖には近づかない、という判断を。観測に徹する、という判断を。

 

 更新の結果、器の候補は生き残り、祖は消えた。そして僕の体は、四日から六日、動かない。

 

 その間は、旧校舎の地面の奥の、蛇の共鳴を測ることができない。遠野志貴を見張ることもできない。

 

 さらに、新しい危険が二つ生じた。

 

 ひとつ。上級生・シエルが刃の紋章を見た。

 

 ふたつ。後始末の部署の少年が、原理の行方を探している。

 

 ――住居の移動を検討する。

 

 ――ただし、現在の体では、移動そのものが不可能。

 

 ――結論。現状を維持する。冷気の漏出を遮蔽し続ける。来訪者には応対せず、やむを得ない場合は、交通事故の負傷者として最小限に応対する。

 

 記録。

 

 ――カナリア。

 

 頭の奥で、嗄れた声がした。

 

 ――祖と事を構えるなと、言ったはずだ。

 

 わかっている。

 

 判断の更新が正しかったのかどうか、演算を繰り返す。

 

 器の候補を失った場合の損失。十三年分の追跡の消失。

 

 僕が動けない場合の損失。四日から六日の空白。

 

 前者の方が大きい。

 

 ――判断は正しかった。

 

 記録。

 

 声は、それ以上何も言わなかった。

 

◇

 

 十八時二十分。

 

 ドアを叩く音がした。軽い。三回。

 

 床に寝たまま、ドアの方へ首を十五度向ける。

 

「――有波くん?」

 

 ドアの向こうから声がした。よく通る声。

 

「シエルです。……いますか?」

 

 演算する。なぜ、この上級生がここを知っているのか。この住所は、学校の書類にしか書いていない。

 

「……事務室で、こっそり、見ちゃいました。ごめんなさい」

 

 ドアの向こうで、シエルが言った。僕が訊く前に。

 

「交通事故に遭ったって、担任の、愛染先生が言ってて。……どうしても、気になって」

 

 暗示だ。この上級生は、学校の誰にでも、自分をずっと前からそこにいる先輩だと思わせることができる。事務室の書類を見るくらい、造作もない。

 

「……はい。います」

 

 声を出す。喉の凍傷がまだ癒えていなくて、声が軋む。

 

「有波くん! よかった……声、すごく、かすれてますけど。大丈夫ですか? 開けても、いいですか?」

 

 演算する。ドアを開ければ、この上級生はこの部屋を見る。

 

 床に転がった、乾いた血のタオル。救急箱。霜の跡の残る畳。

 

 それから、僕の左肩。昨夜、穴の底で、あの騎士の槍に貫かれた左肩。

 

 あの上級生は斜面の途中から、それを見ていた。槍に肩を貫かれたまま、騎士の胸に刃を突き立てていた、フードの影を。

 

 この左肩を見れば。

 

 ――すべての前提が崩れる。

 

「……すみません。今、着替えの、途中で」

 

「あ……ご、ごめんなさい!」

 

 ドアの向こうで、慌てた声。

 

「親戚が、来ていて。今、薬を買いに、出ていて。……病院で、診てもらいました。骨が、少し、折れていて。しばらく、動けないだけです」

 

 嘘をつくのは難しくない。そう作られている。

 

「……そう、ですか」

 

 ドアの向こうで、シエルの声が少しだけ沈んだ。

 

「お見舞い、持ってきたんです。スープと、おにぎり。……ドアノブに、掛けておきますね」

 

「ありがとうございます」

 

「ちゃんと、食べてくださいね。……スープ、まだ、温かいですから」

 

 それからシエルは、ドアの向こうで学校のことを話した。

 

「遠野くん、今日は、来てました。……なんだか、すごく、疲れた顔してましたけど。乾くんに、二日も無断で家を空けて、妹さんにものすごく怒られたって、話してました」

 

「それから、お医者さんに診てもらったら、すごく痛い注射を打たれたんですって。効いてるのかどうかもよくわからないのに、とにかく痛いだけだった、って。……乾くん、大笑いしてました」

 

 痛い注射。

 

 語義は知っている。針が皮膚を貫いて、薬液が筋肉に押し込まれる時の刺激。人間は、それを痛いと呼ぶ。

 

 昨夜、僕の左肩を貫いた槍は、注射の針の何百倍も太かった。

 

 該当する感覚はなかった。

 

 ――痛い。語義のみ。該当、なし。

 

 記録。

 

「有波くんも、骨折、痛むでしょう? 痛み止め、ちゃんと飲んでくださいね」

 

「……はい」

 

 痛み止め。止めるべき痛みは、この体にはない。

 

 二日。ホテルの夜と、穴の夜。遠野志貴は、あの真祖と一緒に、屋敷に帰らなかったのだ。

 

「弓塚さんは、まだ、お休みです。……愛染先生は、相変わらず、です。男の子たちに、ちょっかい出して。女の子たちに、睨まれて」

 

 シエルの声が少しだけ尖り、すぐに柔らかく戻った。

 

「有波くんの席、女の子たちが、気にしてましたよ。……転校生くん、大丈夫かなって。人気者ですね」

 

「……そうですか」

 

「そうですよ」

 

 ビニール袋の、がさがさという音。それからしばらく、何の音もしなかった。

 

 ドアの向こうには、まだ気配がある。立ち去らない。

 

「……有波くん」

 

「はい」

 

「お部屋、寒くないですか?」

 

 息が、止まった。

 

「ドア、すごく、冷たいんです。……金属だから、かな。でも、なんだか、冬みたいに、冷たくて」

 

 刃を冷凍室に移したのは、今朝だ。それまでひと晩と半日、あの騎士の冬は、この部屋の床の上で漏れ続けていた。

 

 部屋の空気はまだ冷え切っていて、ドアの金属がそれを外へ伝えている。

 

「……暖房が、壊れていて」

 

「えっ。それ、だめですよ。怪我してるのに、寒い部屋なんて。……明日、大家さんに、言ってくださいね」

 

「はい」

 

「約束、ですよ」

 

「はい」

 

 足音が遠ざかり、外階段を下りていく。

 

 一段。二段。三段。

 

 途中で止まった。しばらく、そのまま。それから、また下りていった。

 

 ――上級生・シエル。住所を学校の書類から入手。

 

 ――ドアの冷たさに言及。冷気の漏出を感知された可能性。

 

 ――室内への立ち入りは阻止。左肩の損傷は目視されていない。

 

 記録。

 

◇

 

 十分、待った。

 

 外階段に誰の気配もないことを確かめてから、ドアまで這った。

 

 鍵を開け、ドアを細く開ける。ドアノブに、ビニール袋がぶら下がっていた。引き込んで、鍵を閉める。

 

 袋の中には、保温の水筒がひとつと、アルミ箔に包まれたおにぎりが三つ。それから、折り畳んだ小さな紙が一枚。

 

 開く。

 

 ――有波くんへ。

 

 ――早く、元気になってくださいね。

 

 ――元気になったら、また、茶道部で。今度は、有波くんが、お茶を点ててください。

 

 ――それと、好きなもの、まだ、見つけてないので。毎日、作り続けますから、覚悟してください。

 

 ――シエル

 

 丸みのある、柔らかい字だった。最後の、自分の名前のところだけ、少し筆圧が強かった。

 

 紙を畳んで、手帳のいちばん後ろの頁に挟む。

 

 ――上級生・シエルからの書面。内容、見舞いの定型句。および、今後の弁当の継続の宣言。

 

 記録。

 

 水筒の蓋を開けると、湯気が立ちのぼった。

 

 野菜のスープ。玉葱、人参、じゃがいも。それから、細かく刻んだ何かの葉。

 

 口をつける。

 

 ――温度、六十八度。

 

 ――玉葱、人参、じゃがいも、セロリ。鶏の出汁。塩分、低。毒性、なし。

 

 飲む。喉の凍傷の上を、六十八度の液体が通り過ぎていく。

 

 痛みはない。温度の数値だけが、通り過ぎていく。

 

 おにぎりをひとつ。

 

 ――米。鮭。海苔。塩分、中程度。温度、三十一度。

 

 三つとも食べる。昼に必要な熱量の、三割増し。

 

 今は、回復のために熱量が要る。合理的な摂取だ。

 

 ――記録。

 

 夜、ひとりになると再生が始まる。

 

 雪。門の前の、小さな影。抱き上げる大人たちの手。

 

 蛇が目を覚まし、里が死んでいく。

 

 扉の前で、少女の形をした蛇が、自分の腕を掻き毟る。

 

 それから、扉の向こうの地下通路。

 

 長老たちは、その先の話をほとんどしなかった。

 

 ただ一度だけ、いちばん年老いた長老が、炉の火を見つめながら、ぽつりと言ったことがある。

 

 ――あの女は、地下の通路を、這って逃げた。腹を、両腕で、庇いながら。

 

 ――雪の中を、三日。

 

 ――あの女は、お前を――

 

 そこで長老は口を閉じ、それきり二度と、その話はしなかった。

 

 あの女は、僕をどうしたのか。産んで、それからどうなったのか。

 

 記録にはない。推定する必要もない。

 

 再生、終了。

 

◇

 

 転入七日目。朝七時。

 

 床の上で、テレビをつける。右手だけで、リモコンの電源を押す。

 

 朝のニュース。

 

『――総耶市の連続殺人事件で、新たな犠牲者です。昨夜未明、駅北側の路地で、二十代の女性が――』

 

 画面に、規制線の張られた路地が映った。

 

 見覚えのある路地だった。このアパートから、歩いて十分もかからない。

 

『――首筋に、刃物のようなもので刺された痕があり、遺体からは、大量の血液が――』

 

 ヴローヴ・アルハンゲリは消滅した。それでも、殺人は続いている。

 

 ――この街には、もうひとつ、血を吸うものがいる。

 

 ヴローヴの炎と冷気の陰で、ずっと息を潜めていたもの。旧校舎の、地面の奥で。

 

 ――蛇。

 

 あるいは、蛇の眷属。

 

 記録。

 

 テレビを消す。

 

 右手の指を、一本ずつ曲げて、伸ばす。百回。二百回。筋繊維の再生を促すための反復。

 

 地下にいた頃から、体が壊れるたびに、そうしてきた。壊れて、繋いで、また壊れる。部品とは、そういうものだ。

 

 昼前に一度、立とうとした。

 

 右手で冷蔵庫の扉の取っ手を掴んで、体を引き上げる。右脚に体重を移す。立つ。

 

 ――膝が折れた。

 

 床に崩れ落ちて、左肩が床にぶつかる。粉砕された骨がずれる音がした。

 

 痛みはない。

 

 右手で体を引き上げる。三分かかった。

 

 もう一度。立つ。折れる。

 

 四度目で、二秒立てた。

 

 ――起立、二秒。歩行、不可。

 

 記録。

 

◇

 

 十五時。ドアの呼び鈴が鳴った。

 

 シエルではない。シエルは呼び鈴を鳴らさない。昨日は、ドアを軽く三回叩いた。それに、まだ授業の時間だ。

 

「――すいませーん。ガス会社の者でーす。点検に、伺いましたー」

 

 子供の声だった。高い、声変わり前の。それなのに、言葉の運びがひどくぞんざいだった。

 

 ――後始末の部署の少年。

 

 駅西の穴の底で、原理の行方を探していた。

 

「先日の、駅西の陥没事故、ご存知ですよね? あれ、ガス管の破裂だったんでー。この辺りの古いアパート、念のため、全部回ってるんですよー」

 

 演算する。居留守を使えば、どうなるか。この少年は、点検の名目で合鍵を手配するかもしれない。あるいは、もっと別の手段で。

 

 ドアを開けて応対するのが、最も不審が少ない。ただし、左肩を見せてはならない。

 

 床から体を起こし、右手で壁を伝って立ち上がる。膝が震える。

 

 ――第一段階、起動。出力、最小。

 

 脚の毛細血管が切れて、わずかに力が戻る。

 

 上着を羽織る。左腕は袖に通さず、肩に掛けるだけにして、左肩の膨らみを隠す。

 

 ドアまで五歩。

 

 チェーンを掛けたまま、ドアを細く開けた。

 

◇

 

 ドアの隙間の向こうに、作業服を着た男の子が立っていた。

 

 十二歳くらい。だぶだぶの作業服に、ガス会社のロゴの入った帽子。その後ろに、同じ作業服を着た、背の高い無表情な男。

 

 男の子の目が、隙間越しに僕を見上げた。僕の髪を。目を。肩に掛けた上着を。

 

「……あ、どうも。ガスの点検でーす。お部屋の中、ちょっとだけ、見せてもらってもいいっすか?」

 

「……交通事故で、怪我をしていて。人を、入れられる状態では」

 

「あー、そうなんすか。それは、大変っすね」

 

 男の子は、にこにこと笑った。目は笑っていなかった。

 

 鼻を、すん、と鳴らす。

 

「……でも、なんか、この部屋、寒くないっすか? ドアの隙間から、すげえ冷たい空気、出てきてますけど」

 

「暖房が、壊れていて」

 

「へえ。暖房」

 

 男の子の手袋の指先が、ドアの縁に触れた。

 

 ――その時。

 

 こめかみの奥で、何かが触れた。

 

 シエルの暗示とは違う。温かい水ではなく、細い、細い糸。

 

 何本もの、目に見えない糸が、指先から僕の頭の中へ、するすると伸びてくる。意識の表面に絡みつこうとする。

 

 操り糸。

 

 ――この部屋に、何を隠してる?

 

 糸が、そう問いかけてくる。問いかけに答えるように、意識を引っ張ろうとする。

 

 壁が、それを止めた。長老たちがいちばん最初に作った壁。

 

 ――蛇は、心の隙間から入ってくる。だから、隙間を塞げ。

 

 糸は、壁の表面で絡まって、止まった。

 

 だから、問いかけに答える。答えても問題のないことだけを。

 

「……何も。……交通事故で、怪我をして。……寝ていた、だけです」

 

 声の調子を平らに緩め、目の焦点をわずかにずらす。操られている人間の話し方。

 

 ホテルの夜、シエルの暗示にかけられた宿泊客たちを見ていた。あの話し方を再現する。

 

 男の子の眉が、ぴくりと動いた。

 

 糸の感触が一瞬強くなり、それから、ふっと引いていった。

 

「……ふうん」

 

 男の子は、ドアの縁から手を離した。

 

「お前、変な手応えだな」

 

 低い声だった。作った敬語は、もうどこにもなかった。

 

 男の子の目が、僕の肩越しに部屋の奥へ滑った。

 

 流し台の横の、小さな冷蔵庫。低い、唸るような駆動音を立てている。冷凍室の中の冷気に、圧縮機が追いつかないのだ。

 

「……冷蔵庫、ずいぶん、頑張ってんな」

 

「古いので」

 

「ふうん」

 

「普通は、もっと、ずぶずぶ入るんだよ。……なのに、お前の頭、なんか、表面がつるつるしてやがる。氷みてえに」

 

 男の子は、しばらく僕の顔を見上げていた。それから、肩をすくめた。

 

「ま、いいや。今日は、点検だけだ」

 

 男の子は帽子を被り直した。

 

「お大事に、転校生。……また、来るかもしれねえけど」

 

 背を向ける。背の高い男が、無言でその後に続く。外階段を下りていく足音。

 

 ドアを閉め、チェーンを外さずに、鍵を掛ける。

 

 ――後始末の部署の少年。ガス点検を装い、来訪。

 

 ――精神干渉、糸状。暗示とは異なる系統。遮断に成功。ただし、手応えの異常を感知された。

 

 ――こちらを転校生と呼んだ。素性を事前に調べている。

 

 ――再訪の可能性、高。

 

 記録。

 

 上級生・シエルの暗示は、温かい水のように、記憶の表面に絵を貼りつけようとする。後始末の部署の少年の糸は、細く冷たく意識に絡みついて、引っ張ろうとする。

 

 系統が違う。けれど、どちらも同じ壁で止まった。長老たちの壁は、外から入ってくるものを、種類を問わずに止める。

 

 ――ただし、止めたことそのものを悟られた。

 

 壁は完璧だ。完璧すぎるものは、それ自体が異常として目立つ。

 

 ――手順の改善。精神干渉に対し、適度にかかったように見せる揺らぎを加えること。

 

 記録。

 

 ドアに背中を預けて、座り込んだ。第一段階の出力が切れて、膝が床に落ちた。

 

 冷蔵庫の冷凍室の扉の隙間から、白い冷気が細く、細く漏れていた。

 

◇

 

 十八時二十分。

 

 ドアを叩く音。軽い。三回。

 

「有波くん、シエルです」

 

 昨日と同じ時刻、同じ叩き方。

 

「……はい」

 

「よかった。……今日のは、肉じゃがと、ご飯です。また、ドアノブに、掛けておきますね」

 

「ありがとうございます」

 

「昨日のスープ、どうでした?」

 

「美味しかったです」

 

「……ふふ。よかった」

 

 ドアの向こうで、シエルが少しだけ笑った。それから、声が少し低くなった。

 

「有波くん。……今日、このアパートの近くで、変な子を、見かけました。作業服を着た、小さな男の子。……何か、来ませんでしたか?」

 

 演算する。シエルは、あの少年を知っている。教会の人間同士だ。

 

「……ガスの点検の人が、来ました」

 

「……そう、ですか」

 

 沈黙。

 

「何か、されませんでしたか?」

 

「点検だけ、でした」

 

「……そう」

 

 長い沈黙。

 

「有波くん。もし、また、その子が来ても、ドアは、開けないでくださいね。……私に、連絡してください」

 

 ドアの郵便受けの隙間から、小さな紙片が差し込まれた。十一桁の数字。電話番号。

 

「何かあったら、すぐ、来ますから」

 

「……はい」

 

「それと」

 

 シエルの声が、また少し変わった。探るような。確かめるような。

 

「……あの火事の夜のこと。何か、思い出したり、してませんか?」

 

「いいえ」

 

「……そう、ですよね」

 

 ドアの向こうで、シエルが小さく息を吐いた。

 

「ごめんなさい。変なこと、訊いて。……おやすみなさい、有波くん」

 

 足音が遠ざかっていく。今日は、外階段の途中で止まらなかった。

 

 ――上級生・シエル。後始末の部署の少年の来訪を把握。警戒を促す。電話番号を提供。

 

 ――火災の夜の記憶について、再確認。

 

 ――昨日の見舞いの時点より、こちらへの質問の質が変化。

 

 何かを探っている。あの夜、穴の底で、蔦と牙の紋章を見た目で。

 

 ――推論。上級生・シエルは、紋章の持ち主を探している。

 

 ――ただし、その持ち主と僕とを結びつけてはいない。現時点では。

 

 記録。

 

◇

 

 二十二時。床の上で、天井を見ていた。

 

 刃は、冷凍室の中だ。共鳴を直接聴くことはできない。

 

 それでも、冷蔵庫の扉越しに、微かに伝わってくるものがある。刃の芯が、遠くの何かに触れている。

 

 ――月の共鳴。

 

 街の中を動いている。ゆっくりと、誰かと並んで歩くような速度で。

 

 真祖が、夜の街を歩いている。推定、遠野志貴と一緒に。

 

 何かを探すように、路地から路地へ。巡回だ。

 

 ――真祖、二十二時より市内を巡回する動き。遠野志貴と同行の可能性。

 

 ――目的、推定。ヴローヴではない、別の血を吸うものの捜索。

 

 記録。

 

 月の共鳴が近づいてくる。駅の北側、繁華街の裏手。

 

 このアパートから、二百メートル。百メートル。

 

 窓の外の路地を、二つの足音が通り過ぎていった。軽く跳ねるような足音と、疲れた重い足音。

 

 カーテンの隙間から、街灯の下を、白い影と制服の影が並んで歩いていくのが見えた。

 

 白い影が何かを言って笑い、制服の影が肩をすくめた。

 

 路地の先で、二つの影が立ち止まる。今朝のニュースの、規制線の張られた路地。

 

 白い影がしゃがみ込んで地面に触れ、それから立ち上がって、南の方角を見た。旧校舎の方角を。

 

 しばらく、そのまま。やがて二つの影は、路地の向こうへ消えていった。

 

 ――真祖。今朝の殺人現場を確認。南の方角を注視。

 

 ――真祖もまた、旧校舎の方角の何かを感知している可能性。

 

 記録。

 

 二十三時四十分。

 

 冷蔵庫の扉越しに、刃の芯が跳ねた。

 

 南。旧校舎の方角ではない。もっと近い、住宅地のどこか。

 

 細く、冷たく、ねじれた共鳴が、地面の下からふっと地上に浮き上がってきた。影のような何か。

 

 そのすぐ近くに、月の共鳴と人間の気配。真祖と遠野志貴。

 

 共鳴がぶつかる。蛇の影と、遠野志貴の何か。斬り合っているような、激しく短い揺れ。

 

 それから、別の方角から白く熱いものが割り込んできた。

 

 浄化の炎。

 

 教会の。けれど、シエルの剣の炎とは違う。もっと荒く、もっと重い。

 

 ――代行者・ノエルと推定。

 

 白い炎が影を包む。影の共鳴が薄れて、地面の下へ逃げていった。

 

 ――二十三時四十分。蛇、あるいはその影が地上に出現。遠野志貴と交戦。代行者・ノエルと推定される者が奇襲し、撃退。

 

 ――蛇が、地上に手を伸ばし始めている。

 

 記録。

 

 それから、影の逃げていった先。ずっと南の方角、旧校舎の地面の奥。

 

 細く、冷たく、ねじれた共鳴。昨日よりも、少しだけ強い。

 

 ――蛇が、目を覚まし始めている。

 

 ――器の候補、遠野志貴。器の候補と蛇の共鳴の所在、依然として不一致。

 

 記録。

 

 僕の体は、まだ動かない。歩けるようになるまで、推定、あと三日。

 

 ――遅い。

 

 蛇は、待たない。

 

 ――カナリアは、歌わない。

 

 頭の奥で、嗄れた声がした。

 

 ――カナリアは、鳴かない。

 

 ――カナリアは、誰も、温めない。

 

 ――カナリアは、誰にも、温められない。

 

 ――カナリアは、誰よりも先に、死ぬ。

 

 ――蛇の心臓の、すぐ前で。

 

 ドアノブに掛けられたままの肉じゃがの袋を、まだ取り込んでいなかった。

 

 ドアまで這っていき、鍵を開けて、袋を引き込む。

 

 ――肉じゃが。温度、二十四度。冷めている。

 

 冷めていても、熱量は変わらない。

 

 食べる。

 

 ――牛肉。じゃがいも。玉葱。人参。醤油。砂糖。塩分、中程度。毒性、なし。

 

 数値が並ぶ。それで終わり。

 

 体温三十五度四分、脈拍は毎分六十。回復の途上。誤差は第二段階の反動によるもので、想定の範囲内。

 

 目を閉じる。

 

 眠りはいつも通り、三十秒で訪れた。

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