―――航空券。
白い封筒の中に一枚。総耶から空港へ、空港からローマへ。出発は五日後の夜。
私の名前が印字されている。私が頼んだものではなかった。
◇
六日目。朝九時、駅の南にあるビジネスホテルの最上階。
窓のカーテンを閉め切った部屋で、マーリオゥはソファに深く沈み込み、紙パックの牛乳をストローですすっていた。その後ろに、安藤さんが影のように立っている。
「――以上。祖サマは消えた。後始末も済んだ。で、代行者さん、あんたの仕事は、ここまでだ」
テーブルの上に、白い封筒が滑ってきた。
「帰りの切符。五日後の便。……ご苦労さん」
「ロアの件は」
私は、封筒に手を伸ばさずに訊いた。
「この街には、まだ、蛇がいます。祖を呼び寄せたのも、あの蛇の――」
「わかってるよ」
マーリオゥはストローを噛んだ。
「蛇の件は、俺が預かる。……正確には、枢機卿の爺さま方の預かりだ。あんたは、もう、関わらなくていい」
「関わらなくていい、って」
「埋葬機関の第七位サマは、いろいろと、事情がおありだろ?」
マーリオゥの目が細くなった。十二歳の子供の顔に似合わない目つきだった。
「十三年前に、蛇の器だった女に、蛇を追わせるのは、上の方々が、ご不安なんだとさ。……まあ、俺は、どっちでもいいけどな」
嘘だ、と思った。この子は、どっちでもよくなんかない。蛇に、何かを求めている。
祖の原理の行方をあれほど血眼になって探していた子が、蛇の件だけは自分の手元に引き寄せようとしている。
何のために。
「……祖の原理は、見つかったんですか」
話を逸らすと、マーリオゥの顔が露骨に歪んだ。
「見つかってたら、こんな顔してねえよ。……穴の底には、残り香しかなかった。祖が死んだのに、原理だけ、どこにもねえ。誰かが、持ってった」
「誰か」
「真祖の姫さんか、眼鏡の坊主か。……それとも、ホテルの糸切り野郎か」
マーリオゥの目が、私の顔の上をなぞった。
「あんた、昨夜、穴の近くにいたろ。何か、見なかったか」
蔦と牙。白い炎に照らされた、黒銀の刃の柄。
「……見ていません」
嘘をついた。なぜついたのか、自分でもわからなかった。ただ、あの刃のことをこの子に渡してはいけない気がした。
「ふうん」
マーリオゥは、信じていない顔で肩をすくめた。
「ま、いい。原理の方は、俺が探す。……あんたは、もう、関係ない」
「……命令、ですか」
「命令だ。ローマからの、正式な」
マーリオゥは紙パックを握り潰した。
「五日後。飛行機に乗れよ、代行者さん。……乗らなかったら、それはそれで、面白いことになるけどな」
それから、ふと、思い出したように付け足した。
「そうだ。学生ごっこ、楽しかったか?」
答えなかった。
「暗示、解いてから帰れよ。三年のシエル先輩が、ある日いきなり消えたら、騒ぎになる。……最初から、いなかったことにしとけ」
最初から、いなかったことに。それがいちばんきれいなやり方だと、わかっている。何度もそうしてきた。
◇
封筒を受け取った。受け取るしかなかった。
十三年。蛇を追うことだけが、私の償いだった。あの蛇をこの世から消すことだけが、私の手が奪った人たちに差し出せる、たったひとつのものだった。
その蛇がこの街にいる。手を伸ばせば届く場所に。
なのに、私は外された。蛇の器だった女に蛇を追わせるのは不安だから、と。
――正しい。
上の人たちは正しい。私の中には、まだ、あの蛇の知識が残っている。あの蛇の術が残っている。あの蛇と同じ、死ねない体が残っている。蛇に近づけば、私はまた蛇の側に引き寄せられるかもしれない。
そう思われても仕方がない。
仕方が、ない。
ホテルを出て、駅前の雑踏を歩いた。朝の総耶。会社へ急ぐ人たちと、学校へ向かう制服の子たち。その中に、総耶高校の紺のブレザーが混じっている。
私と同じ制服。私が暗示で着ている制服。
あと五日で、私はこの制服を脱ぐ。学校の誰も、三年のシエル先輩のことを覚えていなかったことになる。茶道部の部室も、屋上へ続く階段の踊り場も。
――有波くんも。
足が止まった。
交通事故で休んでいる、あの子。昨日の朝、包帯を巻いて登校してきた。火事の夜のことを覚えていないと言った。痛くないですか、と訊いたら、平気です、と言った。
――あの子のことは。
あの子のことは、関係ない。巻き込まれただけの、普通の後輩だ。私がいなくなっても、あの子は、ちゃんと生きていく。ぼそぼそした四角い栄養食を齧りながら。
……ぼそぼそした、四角い。
それだけを毎日。ひとりで。
封筒を握った指に、力が入った。
◇
学校では、何も頭に入らなかった。
昼休み、踊り場に行ってしまった。誰もいなかった。当然だ。あの子は休んでいる。
膝の上に、包みがふたつ。今朝も作ってしまった。マーリオゥに呼び出される前に、いつもの癖で。卵焼き。唐揚げ。おひたし。
自分の分の包みを、ひとつほどいて、食べる。味がしなかった。
あの子の分は、ほどかずに鞄に戻した。
――事務室で、こっそり住所を調べた。代行者の力をそんなことに使うのは、初めてだった。古いアパートの、二階のいちばん奥。
放課後、行ってみよう、と思った。お弁当はもう冷めてしまったから、スープを作り直して。
五日後にはいなくなるのだから。それまでの間くらいは。
廊下の窓枠に、ノエルが背中を預けていた。
「――帰るんだって?」
甘ったるい声は作っていなかった。
「マーリオゥの坊やから、聞いた。五日後の便だって。……よかったじゃない。やっと、日本の学生ごっこから、解放されて」
「……ノエル」
「蛇は、どうするの」
ノエルが私を見た。
「十三年、追ってきたんでしょ。あの町を焼いた蛇を。……あんたの体を使って、私の町を焼いた蛇を」
答えられなかった。
「放っておいて、帰るんだ」
ノエルは薄く笑った。
「……ま、いいけど。あんたがいなくても、私が、なんとかするから。どうせ、あんたは、最後はいつも、自分ひとりで決めて、勝手にいなくなるんだし」
ヒールの音が遠ざかっていった。
最後はいつも、勝手にいなくなる。
――そう、かもしれない。
◇
日が暮れかけていた。駅の西の再開発地区。
昨夜の穴は、もう黄色い規制線と青いビニールシートで覆われていた。陥没事故、ガス管の破裂。報道にはそう流れている。
作業員たちが引き上げた後の、静かな穴の底へ降りた。
すり鉢の斜面の途中に、古いコンクリートの排水管の口がある。昨夜、赤い筋はここで途切れていた。
しゃがみ込んで、管の中を覗く。暗い。湿った黴の匂い。
指を伸ばした。管の内壁に、まだ薄く霜が残っていた。祖の冬の名残だ。
その霜の下に、黒く乾いたものがこびりついていた。
血。たくさんの血。
ここに、誰かがいた。昨夜、私が「誰?」と問いかけた時、この闇のほんの数メートル奥に。息を殺して、血を流しながら、答えずに。
――どうして、答えてくれなかったの。
管の奥の闇は、何も答えなかった。
◇
古いアパートの外階段。十二段。二階のいちばん奥のドアを、軽く三回叩く。
「――有波くん? シエルです。……いますか?」
しばらくして、かすれた声が返ってきた。
「……はい。います」
喉を痛めたような声。
交通事故で骨を折ったと、あの子は言った。着替えの途中で、とドアを開けてくれなかった。親戚が来ている、と。薬を買いに出ている、と。
スープの水筒をドアノブに掛けて、小さな紙も入れた。好きなもの、まだ見つけてないので、毎日作り続けますから、覚悟してください、と。
書きながら、思っていた。毎日、なんて。五日後にはいなくなるのに。
――それでも、書いた。
学食で、いちばん辛いカレーを、顔色ひとつ変えずに食べた子。
三回巻いた卵焼きの断面が三重だったと、覚えていてくれた子。
お茶を点てたら、手首の固い子だった。上から手を重ねたら、言われた通りに力を抜いた。
さみしい顔、してますね、と言ったら、黙って茶碗の中を見ていた。
あの子に、好きなものを見つけてあげたかった。それだけは、四日ではきっと間に合わない。
ドアに手のひらを当てた。冷たかった。冬みたいに。
金属だから、と自分に言い聞かせた。それでも、その冷たさは、どこか知っている冷たさに似ていた。昨夜、穴の底に降っていた雪。祖の冬。
「……有波くん。お部屋、寒くないですか?」
暖房が、壊れていて、とあの子は言った。
――そうですか。
そう思うことにした。
外階段を下りる。一段。二段。三段。途中で、止まった。
振り返って、二階のいちばん奥のドアを見上げた。何か見落としている気がした。とても大事な何かを。
ポケットの中で、白い封筒の角が指に当たった。
――五日後。
それから、また下りていった。
◇
七日目、朝。
学校へ行く前に、ひとつだけ調べた。
総耶の救急病院。整形外科のある個人の医院。この二日間に交通事故で運ばれた、十代の男の子。外国の血の入った顔立ちの。
代行者の力を使えば、受付の記録くらい簡単に見られる。
――該当、なし。
どこの病院にも、有波叶人という名前はなかった。
親戚の人が、どこか遠くの病院に連れて行ったのかもしれない。骨が少し折れただけなら、近所の小さな診療所で済ませたのかもしれない。
そう思うことにした。そう思うことが、だんだん難しくなっていた。
◇
七日目、昼過ぎ。学校を早退した。暗示があれば、誰も咎めない。
遠野の屋敷の、森の手前。大きな欅の枝の上に身を潜めた。
任務から外された身だ。ここにいる理由はない。あるとすれば、ただ見ておきたかった。蛇の器の候補としてずっと見張ってきた、遠野くんの家を。あと四日で、もう見られなくなるから。
――屋敷の門の前に、白い影が立っていた。
淡い金色の髪。白いセーター。
真祖の姫。
あの人は、門の呼び鈴を押していた。何度も、楽しそうに。
――何、してるの、あの人。
門が開いて、和服の小柄な少女が顔を出す。屋敷の使用人の子だ。
あの人は、にこにこと何かを言って、少女の脇をするりとすり抜けた。友達の家に遊びに来たみたいに、屋敷の中へ。
少しして、屋敷の空気が変わった。
熱い。赤い、熱い何かが、屋敷の奥から膨れ上がってくる。
――遠野の血。
当主の遠野秋葉さん。人の血に人ではないものが混ざった家の、当主。その気配が、怒りで膨らんでいる。今にも人の形をはみ出しそうなほどに。
対する月の気配は、弱っている。弱っているのに、少しも引かない。
――一触即発。
黒鍵を指の間に滑らせた。
任務から外されている。関わるな、と言われている。それでも、もし、あの屋敷の中で真祖と遠野の当主がぶつかったら。遠野くんが、その間にいたら。
五分。十分。
熱い気配が、すっと引いていった。
屋敷の二階の窓のひとつ、カーテンの隙間に、遠野くんの顔が見えた。困り果てた顔で、部屋の奥に向かって何かを言っている。その隣に、白いセーターの肩。
階下の窓には、もうひとりの使用人の子の姿があった。着物の袖を口元に当てて、笑っているように見えた。
それから、屋敷の窓のひとつから、あの人の明るい笑い声が聞こえてきた。
黒鍵を袖に戻した。
――遠野くんが、止めたのだろう。
あの人と妹さんの間に立って。あの人を、自分の家に招き入れて。
欅の枝の上で、膝を抱えた。
あの人は、遠野くんの家に遊びに来ている。八百年、同胞を狩るためだけに眠って、目覚めて、また眠ってきた人が。呼び鈴を楽しそうに、何度も押して。
――羨ましい、のかな。
ふと、そう思った。何が羨ましいのかは、わからなかった。
あの人が遠野くんの家にいることか。あの人が、あんなふうに笑えることか。
それとも。
あの人には帰る家がなくても、訪ねていける家があることか。
◇
夕方。古いアパートの外階段、十二段。
肉じゃがを作ってきた。
「有波くん、シエルです」
「……はい」
「昨日のスープ、どうでした?」
「美味しかったです」
いつもの平らな声。それを聞いて、少しだけほっとした。
「今日、このアパートの近くで、変な子を、見かけました。作業服を着た、小さな男の子。……何か、来ませんでしたか?」
「……ガスの点検の人が、来ました」
マーリオゥだ。祖の原理を探しているあの子が、なぜここに。どうして、この子の部屋に。
「……何か、されませんでしたか?」
「点検だけ、でした」
郵便受けから、電話番号を書いた紙を差し込んだ。何かあったら、すぐ来ますから、と。
五日後にはいなくなるのに。
――違う。
あと四日だ。四日で、何ができる。それでも、紙を差し込んだ。
「それと。……あの火事の夜のこと。何か、思い出したり、してませんか?」
「いいえ」
ですよね、と言って、ドアの前を離れた。
外階段を下りる。今日は、途中で止まらなかった。止まったら、もう動けなくなる気がした。
◇
二十二時。住宅地の屋根の上。
あの人と遠野くんが、並んで夜の街を歩いていた。巡回だ。蛇を探している。
あの人は、ときどき遠野くんの方を見て笑い、遠野くんは困ったように肩をすくめていた。
――私の、仕事だったのに。
蛇を追うのは。十三年間、ずっと。
今、私は屋根の上から、それを見ているだけ。任務を外された代行者として。
二十三時四十分。
地面の下から、細く、冷たく、ねじれた気配が浮き上がってきた。
影。蛇の影。遠野くんの、すぐ前に。
黒鍵を抜いた。
――関わるな。
頭の中で、マーリオゥの声がした。
指が止まった。一秒。
その一秒の間に、遠野くんがナイフで影と斬り結んでいた。
それから、別の方角から、白い荒々しい炎が影に叩きつけられた。浄化の炎。
ハルバードを振りかぶった、明るい色の巻き髪。
――ノエル。
あの子の炎だった。私が教えた。下手くそで、荒っぽくて、それでもまっすぐな炎。
影が焼かれて、地面の下へ逃げていく。
遠野くんがノエルを見て何かを言い、ノエルがハルバードを肩に担いで何かを言い返した。
あの子が、遠野くんを守った。私の代わりに。
ノエルが顔を上げて、まっすぐにこちらの屋根を見た。
気配は、代行者の技術で消していた。あの子には見つけられないはずだった。それでもノエルは、私のいる屋根の上を見ていた。
見つけた、という顔ではなかった。
――どうせ、そこにいるんでしょ。
そういう顔だった。
それから、ノエルはふいと目を逸らして、夜の路地へ消えていった。
見ているだけなの、と。声にはならなかったその言葉が、ずっと耳に残った。
黒鍵を袖に戻した。指が震えていた。
――関わるな。
あの子は、私の弟子だ。五年間、任務以外でほとんど口をきいてこなかった弟子が、今、私の代わりに蛇の影と戦っている。
私は、屋根の上で見ているだけ。
◇
零時。部屋に戻った。
ベッドの上に白い封筒を置いた。隣に一枚の紙。ボールペンの震えた線で描いた、細長い刃の絵。
蔦と牙。穴の底で祖の胸に突き立てられていた、刃の紋章。
あれは、誰だったのだろう。
ホテルの非常階段で、蒸気の向こうから、私の背後の死者に刃を投げた誰か。
穴の底で槍に肩を貫かれたまま、祖の原理を剥がした誰か。
赤い筋を辿って、排水管の口まで行った。闇の中に問いかけた。
――誰?
答えはなかった。
あの刃の持ち主も、蛇を追っている。きっと。
なのに、私は、あと四日でこの街を去る。蛇を、遠野くんを、あの刃の誰かを置いて。
それから。
古いアパートの二階の、冷たいドアの向こうの、あの子を置いて。
封筒を手に取った。破り捨てることはできなかった。
命令だ。ローマからの、正式な。
逆らえば、私は代行者ではいられなくなる。代行者でなくなったら、十三年分の償いの、行き場がなくなる。
封筒を手帳に、刃の絵の隣に挟んだ。
――あと、四日。
左の前腕が疼いていた。袖の上から右手でさする。傷なんてないのに。ずっと昔に、自分の爪で掻き毟った場所みたいに。
――雪。
窓の外に雪なんて降っていないのに、瞼の裏に白いものがちらついた。
それが扉の前の雪だったと私が思い出すのは、もう少しだけ先のことだった。