炭鉱のカナリア   作:にんら

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カナリア

 八日目、十八時十分。

 

 冷蔵庫の扉に背中を預けて、座っていた。体温三十五度二分、脈拍は毎分六十。左腕は応答なし。左膝に亀裂。歩行は不可能だ。

 

 冷凍室の扉の隙間から、白い冷気が細く、細く漏れている。

 

 昨日のガス点検の少年は、今日は来ていない。

 

 ――再訪の可能性、高。

 

 演算を続けていた。昨夜、上級生・シエルはドア越しに、火事の夜のことを何か思い出したか、と訊いた。一昨日は、お部屋、寒くないですか、と訊いた。問いの質が日ごとに変わっている。見舞いの問いから、確認の問いへ。

 

 ――上級生・シエルは、刃の紋章の持ち主を探している。その探索の範囲が、この部屋に近づいている。

 

 対策を検討する。住居の移動は不可能。体が動かない。刃の移動も不可能だ。冷凍室の外に出せば、冷気が漏れる。

 

 ――対策なし。来訪時、ドアを開けない。それだけを維持する。

 

 十八時二十分、外階段を上ってくる足音がした。軽い。けれど、いつもより遅い。一段ごとに止まるような足音だ。

 

 足音はドアの前で止まり、しばらく何の音もしなかった。それから、軽く三回。

 

「……有波くん。シエルです」

 

 いつもの声だった。いつもより、半音低い。

 

「……はい」

 

「開けて、ください」

 

 開けない。それが手順だ。

 

「……すみません。今、親戚が――」

 

「親戚の人は、いませんよね」

 

 遮られた。この上級生のものとは思えないほど、低い声だった。

 

「この三日、私が来る時間に、この部屋に、あなた以外の気配は、一度も、ありませんでした。……代行者ですから。そういうのは、わかるんです」

 

 ――代行者。

 

 この上級生は今、自分からその言葉を口にした。巻き込まれた一般の生徒に、明かすはずのない言葉を。

 

 ――上級生・シエルは、僕を一般の生徒として扱っていない。前提が崩れた。

 

「開けて、ください。……お願い」

 

 答えなかった。答えるための合理的な言葉がなかった。

 

 ドアノブが回り、鍵が抵抗する。

 

「……ごめんなさい」

 

 鍵穴の中で、小さな乾いた音がした。金属の細い何かが、錠の機構を正確に断ち切った音だった。

 

 ドアが開いた。

 

 廊下の明かりを背負って、シエルが立っていた。手には何も持っていない。見舞いのスープも、おにぎりも。眼鏡の奥の目が、部屋の中をなぞっていく。床の血のタオル、救急箱、何もない壁、冷蔵庫。それから、僕を。僕の左肩を。

 

 シエルは何も言わずに部屋に入ってきた。靴を脱がずに、僕の前を通り過ぎて。

 

 冷凍室の扉を、開けた。

 

◇

 

 シエルが、凍って張りついたタオルを一枚ずつ剥がしていく。一枚、二枚、三枚。

 

 黒銀の刃が出てきた。

 

 シエルの手が止まった。柄を見ている。ポケットの中で端末が短く震えたが、シエルはそれを見なかった。刃を握ったまま、その場に膝から崩れ落ちた。

 

「……見られましたか」

 

 確認のために、僕は言った。

 

 シエルは答えなかった。答えられないように見えた。

 

◇

 

 見られた。

 

 冷凍室の扉は開いたままで、白い冷気が床を這って部屋の中に広がっていく。シエルは刃を握ったまま、畳の上に膝をついていた。霜に覆われた黒銀の刃。柄の、蔦と牙。眼鏡の奥の目が、大きく見開かれたまま僕を見ていた。

 

 ――秘匿の継続、不可能。

 

 刃を見られた。左肩の穴も見られた。この上級生は、穴の底で、槍に肩を貫かれたまま騎士の胸に刃を突き立てていた影を見ている。そして今、同じ刃と同じ傷を見ている。否定の余地はない。

 

 ――開示の範囲を再設定する。

 

 この上級生は教会の代行者だ。長老たちは、教会に関わるなと言った。ただし、後始末の部署の少年とは立場が違う。五日目の朝、あの少年に原理の行方を問われて、知りません、と答えた。昨日は、あの少年がこのアパートに来たことを僕に警告した。少なくとも現時点で、僕を教会に引き渡す意図は示していない。

 

 それから、もうひとつ。左肩の穴は塞がりかけているが、骨は繋がっていない。このまま放置すれば、左腕の機能が永久に損なわれる可能性がある。蛇に届くためには両腕が要る。治療が必要だ。そして、この部屋で治療の技術を持つ人間は、ひとりしかいない。

 

「……治療が、必要です」と、僕は口を開いた。

 

「左肩の骨が、繋がっていません。……手伝って、もらえますか」

 

 シエルが瞬きをした。一度、二度。それから刃を床に置き、這うように僕のほうへ来た。

 

「……見せて、ください」

 

 低い声だった。ホテルの非常階段で聞いた、代行者の声だ。

 

◇

 

 シャツを切る。シエルの手が、左肩の穴に触れる寸前で止まった。

 

「……病院、行ってないんですね」

 

「行けば、傷の形を、説明できません」

 

「この三日、ずっと、ひとりで……?」

 

「はい」

 

「……どうして」

 

 シエルの声がかすれた。

 

「どうして、私に、言ってくれなかったんですか。電話番号、渡したのに。何かあったら、すぐ来るって、言ったのに」

 

「あなたに知らせれば、傷の形から、穴の底の影と、結びつけられる可能性がありました」

 

「……」

 

「結びつけられました」

 

 シエルは答えなかった。その指が震え、それから震えが止まった。意志の力で止めたのがわかった。

 

 ポーチを開ける。消毒液、ガーゼ、軟膏。それから、細い銀色の針と糸。

 

「……骨を、整えます。それから、縫います。秘蹟も、使います。……痛いと思うので、何かを、噛んでいてください」

 

 タオルを差し出された。

 

「必要、ありません」

 

「我慢しなくて、いいんです」

 

「我慢では、ありません」

 

 シエルの手が止まった。

 

「……後で、説明します。今は、治療を」

 

 シエルは何かを言いかけて、唇を結んだ。それから、僕の左肩に両手を当てた。

 

 骨を押す。ずれていた骨片が、ぐり、と音を立てて元の位置へ戻っていく。

 

 ――鎖骨、整復。

 

 シエルの手のひらから淡い光が溢れ、穴の中へ流れ込んでいく。砕けた骨の欠片と欠片の間に。裂けた肉の、繊維と繊維の間に。

 

 ――骨の癒合、促進を確認。

 

 針が皮膚を通る。一針、二針、三針。正確な間隔、正確な深さ。

 

 ――縫合。

 

 僕はそれを黙って記録していた。顔をしかめず、声も上げずに、シエルの手元を見ていた。

 

 針を持つ指は震えていなかった。震えを止めていた。けれど針を引くたびに、シエルの喉が小さく鳴った。何かを飲み込むように、息を詰めていた。僕の代わりに痛がっているように。

 

 ――上級生・シエル。施術中、呼吸の停止を繰り返す。施術の精度に影響なし。

 

 シエルは縫い終えるまで、一度も僕の顔を見なかった。見ないようにしていた。最後の糸を結んで切り、それからようやく顔を上げた。

 

「……痛く、なかったんですか」

 

 声がかすれていた。

 

「骨を、戻した時も。縫ってる時も。……一度も、顔、動かなかった」

 

「後で、説明します」

 

「今、説明して」

 

 低い声だった。

 

「……お願い」

 

◇

 

 その前に、とシエルは言った。

 

 この部屋には、もういられない。あの少年がまた来る。祖の原理を探して。冷蔵庫の唸る音と、ドアの冷たさで、もう目をつけられている。だから、私の部屋に来てください。

 

 この上級生の住居。教会の代行者の住居なら、教会の監視が及んでいる可能性がある。ただし、後始末の部署の少年は、この上級生の住居には無断で入れない。埋葬機関の人間の住居だからだ。

 

 ――合理的。

 

「……了解しました」

 

 シエルは黒い厚手の布を取り出して、刃を何重にも包んだ。布の表面には、細かな文字がびっしりと縫い込まれている。

 

「教会の、封印の布です。……完全には、抑えられないけど。冷凍庫よりは、ましなはずです」

 

 包み終えた刃を自分の背中に括りつけ、それから僕の前に、背中を向けてしゃがんだ。

 

「乗ってください」

 

「歩けます」

 

「歩けません」

 

 即答だった。

 

「さっき、膝、見ました。左の膝蓋骨、ひびが入ってる。……乗ってください」

 

 背負われた。軽々と、ホテルの夜と同じように。あの夜、僕は意識を失ったふりをしていた。今夜は目を開けている。

 

 シエルはアパートの外階段を下りると、表通りには出なかった。路地へ。路地から塀の上へ。塀の上から、隣の家の屋根へ。

 

 跳ぶ。夜の総耶の、屋根の上を。僕を背負い、封印の布に包んだ刃を背中に括りつけたまま。足音はしない。瓦の一枚も鳴らさない。

 

 ――代行者の移動。後始末の部署の目を避けている。

 

 シエルの背中から、心臓の音が伝わってきた。速い。毎分百二十を超えている。この程度の移動で、この上級生の心拍がここまで上がることはない。

 

「……眠らないで、くださいね」

 

 屋根から屋根へ跳びながら、前を向いたままシエルが言った。

 

「血を、たくさん、なくしてるから。……眠ったら、だめです。あと、少しですから」

 

「眠りません」

 

「……話しかけ続けますからね」

 

「必要、ありません」

 

「必要、あります」

 

 それから、シエルは本当に話しかけ続けた。

 

 あの屋根の向こうが、駅です。あそこの明かりが学校。それから、あの森の手前の暗いところが、遠野くんのお屋敷。あそこのパン屋さん、朝早くから開いてて、クロワッサンが美味しいんです。あっちのお蕎麦屋さんは、カレー南蛮が、すごく辛くて。有波くんも、今度、一緒に行きましょうね。

 

 ――辛いのは、平気でしょう?

 

 そう言って、シエルは少しだけ笑った。その笑い声が、途中でひび割れた。

 

 意味のない情報だった。全部、既に知っている。それでもシエルは話し続けた。声はときどき途切れ、途切れるたびに、背中越しの心臓がもう一段速くなった。

 

◇

 

 シエルの部屋は、総耶駅の南側の住宅地にあった。古い三階建てのマンションの三階だ。

 

 狭い部屋で、家具は少ない。本棚の本はほとんどが料理の本だった。フランス語の背表紙のものと、日本語のもの。それから、カレーの本が五冊。壁には小さな十字架。窓辺には木のパン切り板があって、一度も使われた跡がない。

 

 シエルは僕を自分のベッドに下ろすと、封印の布に包んだ刃を、部屋の隅の木の箱の中に収めた。蓋を閉めて、その上に指で何かの印を描く。部屋の空気が、少しだけ温度を取り戻した。

 

 それからシエルは、濡らしたタオルを持ってきた。僕の顔の、三日分の乾いた血と煤を拭う。焼け焦げて血で固まったシャツを鋏で切り、背中の包帯をほどく。ホテルの夜に、シエル自身が巻いた包帯だ。熱傷の上に凍傷が重なった皮膚を見ても、シエルは何も言わなかった。

 

 新しい軟膏を塗り、ガーゼを当てる。その指が、ふと止まった。

 

 背中の、焼けていない場所。肩甲骨の内側から背骨に沿って、腰へ。白い皮膚の上を、細い銀色の線が走っている。何本も、何十本も。網の目のように、回路図のように。

 

「……これ、は」

 

「改造の、痕です」

 

 僕は答えた。

 

「魔術回路を、外から、書き換えた痕。……全身に、あります」

 

 シエルの指先が、銀色の線の一本に触れた。触れて、すぐに離れた。まるでそれが熱いものであるかのように。

 

 シエルはそれ以上何も訊かず、ただ手当てを続けた。ガーゼを当て、包帯を巻く。一周、二周、三周。背中越しに一度だけ、鼻をすする音がした。

 

 新しいシャツを着せられた。大きすぎる、男物の白いシャツだった。

 

「……昔、教会で、もらったものです。私には、大きすぎて、一度も、着てなくて」

 

 台所で小さな鍋が鳴って、シエルがマグカップをふたつ持ってきた。温めた牛乳に、蜂蜜の匂い。

 

「血、たくさん、なくしてるから。……甘いもの、飲んでください」

 

 右手で受け取って、口をつける。

 

 ――牛乳、蜂蜜。糖質多。温度五十八度。毒性なし。

 

 飲む。シエルは自分のマグカップを両手で包んだまま、口をつけずに、僕が飲むのを見ていた。何も訊かなかった。どうですか、とも。僕が空になったマグカップを膝の上に置くまで。

 

 それからシエルは、一口も飲まないままの自分のマグカップを机の上に置いた。ベッドの脇の椅子に座り、膝の上で両手を組む。指先が白くなるほど、強く。

 

「……教えて、ください」

 

 眼鏡の奥の目が、まっすぐに僕を見た。

 

「あなたは、誰ですか」

 

◇

 

 演算はもう済んでいた。開示の範囲は再設定してある。この上級生は、すでにほとんどを知っている。刃も、傷も、紋章も。ならば、正確な情報を渡すほうが合理的だ。誤った推測で動かれるよりは。

 

「スレイヨルン、という一族の、最後の、ひとりです」

 

 シエルの肩が跳ねた。

 

「名前は、カナリア。……有波叶人は、書類のために、長老たちが、つけた名前です」

 

「……カナリア」

 

「炭鉱のカナリアです。坑道に、先に入れられて、見えない毒を、最初に吸い込んで、死ぬ小鳥。……その死を合図に、人は、毒の在処を知ります」

 

 僕は続けた。

 

「僕は、蛇の心臓の前で、誰よりも先に死ぬように、作られました。蛇の魂を、宿主から剥がして、この世から、消す。それが、この刃と、僕の、設計上の用途です」

 

「蛇……」

 

「ミハイル・ロア・バルダムヨォン。転生を繰り返す、死徒です」

 

 シエルの顔から血の気が引いていった。

 

「この街に来たのは、蛇の、次の器の候補を、見張るためです。遠野家の長男。遠野志貴。……教会とは、関係ありません。一族は、教会と、交わったことがありません」

 

「……」

 

「以上です」

 

「……私の、ことは」

 

 シエルが訊いた。声が震えていた。

 

「私のことは、何か……知ってたんですか。最初から」

 

「名簿にない上級生であること。暗示を使うこと。転入の初日から、知っていました。教会の代行者であることは、ホテルの夜に、確定しました」

 

「……それだけ、ですか」

 

「それだけ、です」

 

 シエルの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。それからすぐに、また強張った。安堵と、それを打ち消す何かとが、同時にその顔の上を通り過ぎていった。

 

 ――上級生・シエル。こちらの把握している情報の範囲を確認。確認の結果に、複雑な反応。

 

◇

 

 長い沈黙があった。窓の外を、電車が通り過ぎていく音がした。

 

「……いつ」

 

 シエルの声は、ほとんど聞き取れなかった。

 

「スレイヨルンが、滅んだのは……いつ、ですか」

 

「十三年前の、冬です」

 

 シエルの手が、膝の上で震えはじめた。

 

「あなたは……その時……」

 

「生まれていませんでした」

 

 そう答えて、続ける。

 

「母の、胎の中に、いました」

 

 シエルの呼吸が止まった。

 

「生き延びた長老たちが、胎の中にいた僕を、作り替え始めました。蛇を殺すための、部品として」

 

「……でも」

 

 シエルの声が割れた。

 

「でも、それなら、あなたは、今……十二か、十三で……」

 

「暦の上では、十三歳です」

 

 シエルが目を見開いた。

 

「体と、頭は、十八年分の時間を、生きています。……スレイヨルンの刃は、炉の中で、何十年も寝かせて、はじめて完成します。長老たちには、その時間が、なかった。だから、炉の中の時間を、外より、速めました。外の一年が、中の一年半に、なるように」

 

 淡々と述べていく。

 

「刃と、僕は、同じ炉の中で、育てられました。外で十一年が過ぎた時、炉の中では、十六年が過ぎていました。刃が完成した年に、長老たちは、全員、死にました。速い時間の中で、寿命を、使い切ったので」

 

「……」

 

「それから、二年です」

 

「……その、炉の中で」

 

 シエルの声がかすれた。

 

「どうやって、暮らしてたんですか。……誰が、ごはんを」

 

「長老たちが、金属の盆で、運んできました。灰色の、練った穀物と、栄養剤です。一日、二回。食べ終わったら、盆ごと、下げられました」

 

「……誰かと、一緒に、食べたことは」

 

「ありません」

 

「名前を、呼んでくれる人は」

 

「カナリア、と、呼ばれていました」

 

「……それは、名前じゃ、ない」

 

 シエルが呟いた。答える必要はなかった。

 

「長老たちが、死んだ時は」

 

「最後のひとりの、瞼を、閉じました。……それから、地下工房の扉を開けて、外に出ました。二年前の、春です。外は、眩しかったです。光量の調整に、四日、かかりました」

 

 シエルは何も言わなかった。言えないように見えた。

 

 眼鏡の奥の目が、僕の顔の上をなぞっていく。額、目、鼻筋、顎。誰かの面影を、そこに重ねようとするように。

 

 そして、重なってしまったように。

 

「……とくとくとく、って」

 

 シエルが呟いた。誰に聞かせるでもない声で。

 

「小さくて、速くて。……雪の、夜の底で」

 

 意味はわからなかった。記録しておく。

 

◇

 

「……痛く、ないんですか」

 

 ずいぶん経ってから、シエルがもう一度訊いた。さっき肩を縫いながら訊いたのと、同じ問いだ。

 

 今度は答える。隠し続ける利点はない。この上級生は僕の治療者で、治療者には正確な情報が必要だ。

 

「僕には、痛覚が、ありません」

 

 シエルの指が、膝の上で動かなくなった。

 

「痛みの信号は、脊髄の手前で、すべて、筋肉への出力に、書き換えられます。ですから、どこが痛むのかを、僕から申告することは、できません。損傷の程度は、数値で、お伝えします」

 

 続ける。

 

「味覚も、ありません。舌の上に乗ったものは、成分と、濃度と、温度の数値として、処理されるだけです」

 

 続ける。

 

「喜怒哀楽も、ありません。嬉しい。悲しい。怖い。腹立たしい。そういう機能は、はじめから、この体には、組み込まれていません」

 

「……組み込まれて、いない」

 

「はい。そう、作られています」

 

 部屋の中は静かだった。

 

「……じゃあ」

 

 シエルの声は、ほとんど聞き取れなかった。

 

「お弁当。……美味しいって、言ってくれたのは」

 

「訊かれたら、そう答えるように、仕込まれています」

 

「……全部、食べてくれたのは」

 

「残せば、不審に思われるからです」

 

「辛いの、平気だったのは」

 

「辛さは、痛覚です。僕には、ありません」

 

「三回巻いた、卵焼き。……ちゃんと、渦になってたって」

 

「断面を、目視しました。三重でした。均等な厚さで。……味は、わかりません。熱量と、塩分と、温度を、記録しました」

 

「……お茶は」

 

 シエルの声は、もうほとんど聞き取れなくなっていた。

 

「温かいものを飲むと、ちょっと、ほっとするでしょうって。……私、言いました」

 

「温度、六十二度でした。カテキン、カフェイン、苦味成分、中程度。……ほっとする、という状態は、該当、ありませんでした」

 

「さみしい顔、してますねって、言った時は」

 

「欠けているものを、欠けていると感じる機能が、ありません。……該当、ありませんでした」

 

 シエルが両手で口元を覆った。眼鏡の奥で、何かが光った。

 

 ――上級生・シエル。呼吸の乱れ、手指の震え、流涙。

 

 原因を推定する。申告内容への動揺。あるいは、これまで弁当に費やした時間と労力が目的を果たしていなかったと知ったことによる、損失の認識。

 

「……ちょっと」

 

 シエルが立ち上がった。椅子の脚が床をこすって、耳障りな音を立てた。

 

「ちょっとだけ、失礼、します」

 

 部屋を出ていく。廊下の向こうで扉の閉まる音がして、それから水の流れる音がした。蛇口をいっぱいに開いたような、激しい水音だった。

 

 その水音の下に、別の音が混ざっていた。途切れ途切れの、呼吸の音。何かを押し殺そうとして、押し殺しきれずに漏れてくる音。

 

 ――上級生・シエル。洗面所と推定される場所で流水音。その下に断続的な呼吸音。嗚咽と推定。

 

 原因を推定する。僕の申告の内容。痛覚がない。味覚がない。喜怒哀楽がない。胎の中から作り替えられた。炉の中で十八年。それらの情報のどれかが、この上級生にとって強い負荷になった。

 

 どれが。なぜ。

 

 推定できない。情報が足りない。

 

 部屋の隅の木の箱の中で、封印された刃が微かに冷気を滲ませていた。その冷気が床を這って、ベッドの脚のほうまで届いている。

 

 水音は止まらなかった。五分。十分。十五分。

 

 その間に、僕はひとつ気がついた。

 

 この上級生は今夜、僕に何かを言いかけていた。玄関で、扉を開ける前に。開けてください、お願い、と言ったあの声の奥に。穴の底で刃の紋章を見たときの、あの凍りついたような目の奥に。そして、さっき、とくとくとく、と呟いたときに。

 

 この上級生は何かを知っている。僕の知らない何かを。それは、スレイヨルンに関わることだ。

 

 ――推論。上級生・シエルは、スレイヨルンについて、資料庫の記録以上の情報を保有している可能性。確度、中。

 

 頭の奥で、嗄れた声がした。

 

 ――カナリア。

 

 ――器の匂いが、する。

 

 意味はわからなかった。長老たちの声は、ときどき意味のわからないことを言う。ノイズとして処理する。

 

 水音が止まった。廊下の向こうで扉の開く音がして、足音が戻ってくる。ゆっくりと、一歩ずつ。

 

 まるで処刑台に上っていくような足取りで。

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