朝日が水平線から顔を出す頃、狼(ラウ)は小さな帆船の上で大きく伸びをしていた。
森の主を食べ尽くした村で一晩休み、十分な食料と水、調理道具を積み込んで出発したものの、船に乗ってからすでに腹が減り始めている。
潮風を胸いっぱいに吸い込むと、ラウは船首に腰を下ろし、きらめく海を見渡した。
「いやあ、いい天気だな! こんな日にゃ、海の幸でも探しながらのんびり進みてえところだが……」
言いかけたところで、ぐうう、と腹が鳴った。
「……まずは朝飯だな!」
ラウは豪快に笑い、荷物の中から村でもらった保存食を取り出した。焼いた赤筋芋に、塩漬けの肉、それから硬めに焼かれたパン。どれも素朴な料理だったが、腹を満たすには十分だった。赤筋芋をかじると、ほくほくした食感と栗を思わせる甘みが広がり、森の主の脂を使って焼いた肉を頬張れば、香ばしさと濃厚なうまみが口いっぱいに満ちる。
「うめえ! やっぱり、うまいもんを食ったあとの旅は最高だぜ!」
最後のひとかけらまで平らげると、ラウは皿代わりに使っていた木の板を水で洗い、船の荷物を確かめた。食料は十分にある。水も問題ない。村人から教わった航路を進めば、数日以内には海上レストラン・バラティエがある海域へ近づけるはずだった。
もちろん、予定どおりに進めばの話だ。
ラウは帆の張り具合を確認し、風向きに合わせて舵を切った。船は波を切りながら進み、白い飛沫が船縁を越えてくる。陸地はすでに遠く、周囲には青い海と空が広がるばかりだった。
しばらくは順調な航海が続いたが、昼が近づいた頃、ラウはふと鼻を動かした。
「……ん?」
風に混じって、かすかな香りが届いていた。潮の匂いに紛れているが、確かに何かの食材を思わせる香りだ。
生臭さの中に、海藻のような青い匂いと、熱した貝殻を思わせるミネラルの香りがある。しかも、ただ海の上を漂っているだけではない。一定の方向から、途切れずに流れてきていた。
ラウは船首に立ち、風上へ顔を向けた。
「海藻……いや、違うな。もっと濃い。魚介の匂いも混じってる。なんだ、こりゃ?」
匂いだけで正体を決めつけるつもりはない。だが、これほど特徴的な香りが漂っているなら、何かがあるはずだった。
ラウは航路を少し変え、匂いの強い方向へ船を進めた。やがて、海面の向こうに黒い岩礁が見えてきた。波の間から顔を出した岩には緑色の海藻が張りつき、周囲の水面には小魚の群れが集まっている。さらに近づくと、潮の流れに乗って無数の小さな泡が浮かび上がっていた。
「へえ……。こいつは、なかなか面白そうな場所じゃねえか」
ラウは船を岩礁から少し離れた場所に止め、周囲の海を観察した。水面は穏やかに見えるが、岩の間では潮が複雑に流れている。波が岩にぶつかるたび、渦が生まれ、海藻が大きく揺れていた。
海面には小魚が集まり、その下では大きな影が時折動いている。魚を追っているのか、それとも岩礁に棲む別の生物なのか。
少なくとも、この場所には豊富な餌があり、それを狙う生き物も集まっているようだった。
ラウは服を脱ぎ、道具をまとめると、船の縁に腰掛けた。
「よし、ちょっと潜ってみるか!」
息を大きく吸い込み、肺いっぱいに空気を蓄える。ラウは海面を蹴り、青い水の中へ滑り込んだ。
水中は、地上とはまるで別の世界だった。太陽の光が水面を通り抜け、揺らめく光の筋となって岩礁を照らしている。海藻の間を小魚がすばやく泳ぎ、岩の隙間には小さな貝や甲殻類が身を隠していた。水面から聞こえる音は遠く、ラウの耳には自分の呼吸音と、潮が岩を通り抜ける低い響きだけが届いている。
彼は海藻をかき分けながら、岩の表面や隙間を調べた。食材を探すとき、ラウはまず生き物の姿だけでなく、その暮らし方にも目を向ける。どんな場所に集まるのか、何を食べているのか、どうやって身を守っているのか。そうした情報は、食材としての特徴を知るうえでも、捕獲するうえでも欠かせない。
やがて、岩の奥から、あの香りが強くなった。
ラウが慎重に近づくと、岩棚の下に大きな甲殻類が身を潜めていた。殻は深い青緑色で、表面には金色に近い斑点が散っている。左右の鋏は大きく、太い脚には岩をつかむための鋭い突起が並んでいた。胴体だけでも人間の上半身ほどの大きさがあり、長い触角が潮の流れを探るように揺れている。
その周囲には、殻の小さな同種の生き物が何匹もいた。大きな個体は岩棚の中央を占め、近づいてくる小魚を鋏で捕らえている。どうやら、この場所の餌場を押さえている個体らしい。
ラウは水中で目を輝かせた。
(……おいおい、なんだこいつ! こんなデカい海老みてえな生き物がいるのかよ!)
興奮で口を開きそうになり、慌てて口を閉じる。水中で息を吐きすぎれば、潜っていられる時間が短くなる。ラウは一度海面へ戻り、息を整えてから、もう一度潜ることにした。
船へ上がると、彼は濡れた髪をかき上げ、岩礁を見つめた。
「青緑色の殻に金色の斑点。鋏もでかいし、岩場に棲んでる……。味は分からねえが、あの匂いは絶対うまいぞ!」
もちろん、見た目や香りだけで食べられるとは限らない。未知の生物には毒や食用に適さない部位がある可能性もある。だが、危険を調べ、食材として利用できるか確かめることも、ラウの冒険の一部だった。
「よし。食べられるか確かめるためにも、まずは一匹、きっちり捕まえてみるか!」
ラウは再び海へ潜った。
今度は正面から近づかず、岩棚の外側を回り込んで、巨大な甲殻類の動きを観察する。大きな鋏を振り回す力は強そうだが、脚の動きは左右でわずかに違っていた。岩をつかむとき、右側の脚が先に動き、身体を支えるために左側の脚へ体重が移る。大きな鋏を振り上げる直前には、胴体がわずかに傾く癖もある。
しかし、水中での戦闘は地上とは勝手が違う。足場がなく、強い潮に押されれば身体が流される。拳を振っても水の抵抗を受け、陸上と同じ力を出すことは難しい。ラウは無理に接近せず、岩の陰を使って位置を変えながら、相手の動きを読み続けた。
やがて巨大な甲殻類が、岩棚の外へ出てきた。小魚の群れを追うためらしい。大きな鋏が水を切り、身体が横へ動いた瞬間、ラウはその死角へ回り込んだ。
鋏が振り返るよりも早く、ラウは太い脚の付け根へ接近する。だが、打撃を加える直前、甲殻類の触角がぴくりと動いた。次の瞬間、巨大な鋏が横から迫ってきた。
ラウは身体をひねり、紙一重でそれをかわした。鋏が岩にぶつかり、砕けた小石が水中へ舞い上がる。まともに挟まれていれば、ただでは済まなかっただろう。
(っ……! おいおい、こいつは反応も速えな!)
ラウは岩の陰へ身を滑らせた。水の中では活動できる時間が限られている。長引けば自分が不利になるため、ここで無理をするわけにはいかなかった。
一度海面へ戻り、呼吸を整える。ラウは濡れた顔を拭いながら、再び岩礁を見た。
「よし、作戦変更だ。こいつの鋏をまともに相手にする必要はねえ。身体の動きを見極めて、隙を突く!」
次に潜ったとき、ラウは甲殻類が岩棚の外へ出るのを待った。大きな鋏で小魚を捕らえようとする瞬間、胴体がわずかに浮き、脚の力が一時的に抜ける。その一瞬だけは、巨大な鋏を振り回すことも、岩へしがみつくことも難しくなる。
ラウはその隙を逃さなかった。鋏の軌道をかわし、胴体の横へ滑り込む。脚の付け根へ精密な打撃を加え、身体の動きを乱すように狙いを定めた。
(断脈!)
衝撃が伝わり、甲殻類の身体がわずかに傾く。だが、硬い殻に守られた生き物には、人間や陸上の獣と同じようには通用しない。ラウはすぐに距離を取り、相手の反応を確かめた。
(やっぱり殻が厄介だな……。筋肉の動きは見えても、打撃が届かなきゃ意味がねえ!)
巨大な鋏が再び迫る。ラウはそれを避けながら、身体のどこなら殻に遮られず、動きを封じるための打撃を届かせられるのかを考えた。未知の生物を相手にするとき、これまでの経験だけでは答えが出ないこともある。だが、ラウは焦らなかった。
甲殻類が岩にしがみつき、身体を反転させようとした瞬間、脚の付け根の一部が殻の隙間から見えた。そこは、太い脚を動かすために必要な関節の近くだった。
ラウはその場所を見逃さず、鋏が届くぎりぎりの位置から一気に踏み込んだ。
(――ノッキング!)
狙いを定めた一点へ、精密な打撃を叩き込む。
甲殻類の身体がびくりと震えた。大きな鋏が空中で止まり、岩をつかんでいた脚の動きも鈍る。完全に動きを封じられたわけではないものの、先ほどまでのように自在に身体を動かすことができなくなっていた。
ラウはすかさず、もう一度、相手の反応を確かめた。ノッキングは成功すれば一撃で動きを封じることを狙える技術だが、未知の生物の身体構造や硬い殻の影響によって、効果が限定されることもある。今回の一撃は、甲殻類の動きを大きく鈍らせることには成功したが、完全に無力化するまでには至らなかった。
それでも、狩りの主導権はラウが握っていた。
彼は甲殻類の動きが鈍った隙に、鋏が届かない位置へ回り込み、慎重に捕獲の態勢を整えた。生きたまま持ち帰るのではなく、食べると決めた獲物として、必要な処置を施して仕留める。命を奪う以上、食材として利用できるかどうかを確かめ、無駄にしないことが重要だった。
甲殻類は最後まで強い抵抗を見せたが、やがて動きを止めた。
ラウは海面へ戻り、大きく息を吸い込んだ。
「ぷはあっ! はあ……! いやあ、海の中での狩りは陸とは別物だな! 足場はねえし、息は続かねえし、鋏は危ねえし……。でも、だからこそ面白え!」
彼は獲物を船へ引き上げると、その大きさに改めて驚いた。殻の幅だけでも人間の胴体ほどあり、鋏は両腕で抱えても余るほどだった。船の上に置かれた巨大な甲殻類からは、潮と海藻を思わせる香りが漂っている。
ラウはまず、獲物の状態を確かめた。殻に異常な変色はないか、体液や肉に腐敗を思わせる臭いはないか。続いて、食用にできそうな部分を少量だけ切り分け、火を通して状態を確かめることにした。
小さな鍋に水を張り、切り分けた身を入れて加熱する。火が通るにつれて、海藻のような青い香りが薄れ、代わりに甘く濃厚な甲殻類の香りが立ち上ってきた。身は白く、繊維が細かく締まっている。ラウはその香りを注意深く確かめながら、十分に加熱した小さな一切れを口に運んだ。
ひと噛みした瞬間、ラウの目が大きく見開かれた。
「……っ! うおおおおっ! なんだこりゃあああ!」
最初に広がったのは、濃厚な海のうまみだった。次に、驚くほど強い甘みが舌の上へ広がり、噛むたびに身の中から汁があふれ出す。一般的な海老よりも弾力が強いのに、硬さはなく、歯を押し返すようなぷりぷりとした食感がある。最後には、焼いた貝殻を思わせる香ばしい余韻が鼻へ抜けていった。
「うめええええっ!! なんだこの甘み! 海のうまみが濃いのに、後味がすっきりしてやがる! しかも噛むたびに汁が出てくるじゃねえか!」
ラウは思わず船の上で跳び上がった。森の主の肉とはまるで違う味わいだ。力強い肉のうまみではなく、潮の香りと繊細な甘みが重なった、海の幸ならではの味だった。
彼はすぐに、残りの身も調理し始めた。まずは大きな鋏の身を殻から取り出し、熱した鉄板の上で焼く。殻を割ると、内部にはぎっしりと詰まった白い身が現れた。鉄板へ置いた瞬間、じゅうっ、と音が鳴り、表面から甘い香りが立ち上る。軽く塩を振ると、素材そのものの味がさらに際立った。
「こいつは焼くとまた違うな! 表面の香ばしさが増して、甘みがぎゅっと詰まってやがる!」
続いて、脚の身は殻ごと茹で、胴体の身は野菜と一緒に煮込んだ。煮汁には甲殻類のうまみが溶け出し、海藻と岩礁の香りが混じった深い味わいになっている。ラウはひと口すすってから、満足そうに頷いた。
「こいつは汁までうめえ! 身を食っても、だしを取っても最高じゃねえか!」
未知の食材を見つけ、観察し、危険を見極め、狩り、調理する。そして、自分の舌で味を確かめる。そこまでの過程があってこそ、ラウにとっての食材探しは完成するのだった。
彼は甲殻類の身を余すことなく食べ、殻の内側に残った身まで丁寧に取り出した。食べられる部分はできるだけ食べ尽くし、食用に適さない殻は道具や装飾に使えるかもしれないと考えて、きれいにまとめておいた。
食事を終えた頃には、太陽はすでに西へ傾き始めていた。
ラウは船の上で腹をさすり、満足そうに笑った。
「いやあ、最高の寄り道だったぜ! バラティエに着く前から、こんな食材に出会えるとはな!」
だが、海はいつまでも穏やかではなかった。
夕方が近づくにつれ、風向きが変わり、遠くの空には薄い雲が広がり始めた。ラウは帆を調整し、岩礁から離れて航路へ戻ろうとしたが、海面の流れが予想と違っていることに気づいた。岩礁の周囲には複雑な潮流があり、船は思ったよりも大きく流されていたのだ。
「おっと……。食材に夢中になりすぎたか?」
ラウは苦笑しながら、村人から聞いた航路を思い出した。バラティエへ向かうには、いくつかの岩礁を避けながら、比較的流れの穏やかな海域を通る必要がある。暗くなってから無理に進むのは危険だ。彼は船の位置を確かめ、風が落ち着くまで慎重に航行することにした。
やがて夜が訪れ、海面には月明かりが揺れていた。ラウは簡単な夕食を済ませると、船の上で横になった。今日の獲物の味を思い返すと、自然と笑みが浮かぶ。だが、明日もまた新しい食材に出会えるとは限らない。海には危険も多く、天候や潮流ひとつで予定は大きく変わる。
それでも、ラウは不安を感じていなかった。
「明日はどんなもんが見つかるかねえ……。バラティエにも、まだ見たことねえ食材が山ほどあるんだろうな」
そう呟き、ラウは夜空を見上げた。
一方その頃、東の海の別の海域では、一隻の小さな帆船が穏やかな波を切り裂きながら進んでいた。
船の名は、ゴーイングメリー号。
シロップ村での戦いを終え、カヤから贈られたこの船に乗り込んだルフィたちは、新たな航海を始めていた。
船上には、船長のモンキー・D・ルフィ、剣士のロロノア・ゾロ、航海士のナミ、そして新たに仲間となった狙撃手、ウソップの姿がある。
「なあナミ! 飯まだかー!」
船首近くに腰を下ろしたルフィが、腹を押さえて叫んだ。
「さっき食べたでしょ!」
航海図を広げていたナミが、顔も上げずに言い返す。
「ありゃ朝飯だ!」
「もう昼過ぎよ!」
「じゃあ昼飯だ!」
「そういう問題じゃない!」
ナミの怒鳴り声が海上に響き渡る。
その傍らでは、ウソップが船縁に寄りかかり、得意げに胸を張っていた。
「まあまあ、航海には食料の管理も大事だからな! ここは狙撃手であり、勇敢なる海の戦士でもあるこのウソップ様が、食料事情について――」
「お前、さっき自分の分の肉を隠れて食べてただろ」
マストの根元で昼寝をしていたゾロが、目を閉じたまま口を挟んだ。
「なっ!? なぜそれを知っている!」
「口の周りに脂がついてる」
「こ、これは……海風のせいだ!」
「海風で肉の脂がつくか!」
ナミの突っ込みに、ルフィが腹を抱えて笑い出した。ウソップは必死に言い訳を続けたが、結局、全員から疑いの目を向けられる羽目になった。
そんな騒がしい船上にも、航海士のナミだけは別の顔を見せていた。彼女は海図と空模様を見比べ、風向きと潮の流れを確かめながら、船の進路を調整していく。
「このまま順調に進めば、海上レストランのバラティエにたどり着けるはずよ。そろそろ食料も補充したいし、何よりコックが必要だわ」
「コックか! いいな! 肉をいっぱい作れる奴がいい!」
「料理を作るのは肉だけじゃないでしょ……」
ナミが呆れたようにため息をつく。
「でも、海の上にレストランが浮かんでるなんて面白そうだな!」
ウソップは船首の先に広がる海を見つめた。
「どんな料理が出てくるんだろうな。海の珍味とか、見たこともねえ魚とか……」
「おれは肉!」
「はいはい、分かったわよ」
ルフィの即答に、ナミはもう何度目か分からないため息をついた。
ゴーイングメリー号は、四人の声を乗せて進んでいく。まだ知らない海の向こうには、戦いも、出会いも、そして彼らの想像を超える出来事が待っている。
その頃、別の海域を航海するラウもまた、バラティエを目指していた。
互いの存在を知らぬまま、二つの航路は少しずつ近づいていた。