ルフィとゾロを見送ってから数日後、狼(ラウ)は小さな手漕ぎ船の上で、腹を押さえていた。
「……腹減った」
船底には、魚の骨が数本転がっている。食料袋は空っぽ。水筒の中身も残りわずかだ。
普通なら、食料の確保を急ぐところだろう。
しかし、ラウは焦っていなかった。
むしろ、鼻をひくつかせながら、海風を楽しんでいた。
潮の香り。遠くの島から流れてくる土の匂い。海面近くを泳ぐ魚の生臭さ。そして、それらの向こう側に、ほんのわずかに混じる甘い香り。
「……ん?」
ラウの目が細くなる。
甘い。だが、果実の甘さとは違う。
焼いた栗のような香ばしさに、濃厚な貝の旨味を思わせる香り。さらに奥には、舌の奥を刺激するような、微かな辛みを連想させる匂いがあった。
「おいおい……なんだ、この匂い」
ラウは船の向きを変えた。
「こんな匂いの食材、嗅いだことねぇぞ!」
空腹など、すっかり忘れていた。
未知の食材。
それはラウにとって、宝の地図を見つけることよりも胸が躍る出来事だった。
「待ってろよォ! 今、食いに行ってやるからな!」
小さな船は、風を受けて島へ向かっていった。
島にたどり着いたラウは、船を岩場に固定すると、すぐさま周囲を調べ始めた。
島の海岸には、見たことのない形の海藻が群生していた。葉の表面には細かな気泡が並び、風に揺れるたび、ほのかに甘い香りを放っている。
「へぇ……海藻まで変わってやがる」
ラウは一本を手に取り、匂いを確かめた。
青々しい香りの中に、柑橘を思わせる爽やかさがある。傷んだ様子はなく、葉にも不自然な変色は見られない。
「こいつ、魚と一緒に焼いたらうまそうだな……」
想像しただけで、口の中に唾液があふれた。
だが、ラウが本当に探しているのは、風に乗ってきたあの香りの正体だった。
彼は砂浜を歩き、岩場へ向かった。
やがて、海へ突き出した岩の隙間から、目的の香りが強く漂ってきた。
「ここだ!」
ラウは服を脱ぎ、腰に小さな採取袋を巻いた。
大きく息を吸い込む。
そして、青い海へ飛び込んだ。
水面が閉じると、周囲は静かな青の世界へ変わった。
ラウは岩場に沿って潜り、潮の流れを読みながら海底を探る。素潜りは彼の得意分野だ。息を無駄遣いせず、身体を水の流れに合わせれば、魚を追い回すよりも少ない動きで近づける。
岩陰に、奇妙な貝があった。
人間の頭ほどもある殻は青紫色で、表面には銀色の斑点が散っている。殻の隙間から、淡い光が漏れていた。
ラウの目が輝いた。
(こいつだ……!)
貝の周囲には小魚が集まっている。殻の隙間から漂う香りは、陸上で感じたものよりも濃厚だった。
ラウはゆっくり近づき、貝の状態を観察する。
その瞬間。
岩陰から巨大な魚が飛び出してきた。
「――っ!」
魚の体長は二メートル近く。幅広い頭部には鋭い歯が並び、筋肉質の尾びれが水を激しく叩いている。
魚はラウを威嚇するように旋回し、再び突進してきた。
(なるほど。こいつが貝を守ってるのか)
ラウは正面から受け止めなかった。
水中では陸上と同じように踏ん張れない。拳を振るっても水の抵抗に邪魔され、体重を乗せた打撃は威力を失いやすい。
だからこそ、観察する。
魚が突進する直前、頭がわずかに下がる。尾びれを振る前には、胴体が大きくしなる。
(動きは単純だが、速ぇな……!)
魚が迫る。
ラウは寸前まで引きつけ、身体を横へ滑らせた。
魚の歯が空を切る。
その脇をすり抜けながら、ラウは魚の胴体へ手を添えた。相手の動きを止めようとはせず、勢いを利用して進路を逸らす。
魚は岩場へ突っ込みかけ、慌てて方向を変えた。
その隙に、ラウは貝を採取袋へ入れた。
(よし、獲った!)
しかし、魚はまだ諦めていない。
尾びれが迫る。
ラウは岩を蹴り、海面へ向かって一気に浮上した。
「ぷはぁっ!」
海面から顔を出し、豪快に息を吐く。
手元には、青紫色の貝。
「はははっ! 危ねぇ危ねぇ! でも、こいつは大収穫だぜ!」
背後で水面が跳ねた。
巨大な魚が、なおもラウを追おうとしている。
ラウは笑いながら船へ泳いだ。
「悪ぃな! こいつは俺が先に見つけたんだ!」
浜辺に戻ったラウは、採取した貝を岩の上へ置いた。
仮に名をつけるなら、幻潮貝(げんちょうがい)。
もちろん、ラウが勝手につけた名前だ。
殻の表面には細かな傷があるが、異常な腐敗臭はしない。潮の香りに混じる甘さも、海中で感じたものと変わらなかった。
「さて……問題は、どう食うかだな」
ラウは焚き火を起こした。
まずは殻の状態を確かめ、貝を少し開いて内部を観察する。見たことのない食材を、匂いだけで安全だと決めつけるほど無謀ではない。
「見た目は悪くねぇ。変な腐敗臭もなし……。でも、初めて食うもんだからな。慎重にいかねぇと」
彼は少量を加熱し、異常な変化がないか確かめることにした。
やがて、貝が温まってきた。
ジュウウウウッ……。
殻の隙間から、白い湯気が立ち上る。
次の瞬間、ラウの鼻が大きく動いた。
「……っ!」
濃厚な香りが、一気に広がった。
最初に感じたのは、海の旨味を思わせる香り。そこへ熟した果実の甘さが重なり、最後に、焼いたナッツのような香ばしさが鼻を抜けていく。
「お、おいおい……!」
ラウは思わず両手を握った。
「焼いただけで、こんなに香りが変わんのかよ……!」
殻の内側では透明な汁が泡立ち、乳白色の身がぷるぷると震えている。表面には黄金色の焼き目がつき、脂にも似た艶が浮かんでいた。
「こいつは……絶対うめぇ!」
安全性を確かめながら少量を味見すると、ラウの顔が一瞬で変わった。
「――うおおおおおっ!!」
弾力のある身を噛み切った瞬間、濃厚な旨味が口いっぱいに広がった。
ぷりん、とした歯ごたえ。
噛むほどにあふれる海の味。
その後から追いかけてくる、果実のような甘み。
そして最後に、香ばしい余韻が鼻へ抜ける。
「なんだこの味はァァァ!!」
ラウは立ち上がった。
「噛み始めは貝の濃厚な旨味! 噛み込むほど甘みが出てきて、最後はナッツみてぇな香りが残る! 一つの貝で、味が三段階に変わりやがる!!」
拳を握りしめ、空へ突き上げた。
「最高じゃねぇかァァァ!!」
思わず笑いがこぼれる。
これまで食べた貝とは、明らかに違う。しかも、調理法を変えれば、さらに別の味が楽しめるかもしれない。
「こいつ、蒸したらどうなる? 煮込んだら? 干したら旨味が凝縮するんじゃねぇか!?」
ラウの頭の中では、すでに次の料理が完成しかけていた。
しかし、彼は残りをすべて食べ尽くすことはしなかった。
初めて出会った食材だ。未知の成分や毒性がないと完全に分かったわけではない。
残りは慎重に保管し、後でさらに調べることにした。
「……ああ、でも、もう一個食いてぇ!」
ラウは腹を押さえ、海を振り返った。
「よし! あの魚をもう一回探すか!」
未知の食材との出会いは、一度きりでは終わらない。
それがラウの冒険だった。