小舟を進めていたラウは、水平線に浮かぶ島影を見つけた。
島の周囲には濃い緑の森が広がり、海岸近くの岩場には、見たこともない鳥が群れをなしている。
「おっ、いい島じゃねぇか!」
ラウは鼻をひくつかせた。
潮風の向こうから、甘い果実の香りと、青々しい草の匂いが流れてくる。そのさらに奥には、獣の体臭が混じっていた。
しかも、ただの獣ではない。
湿った土の匂いに、濃厚な脂を思わせる香り。
遠くにいるにもかかわらず、鼻の奥に残るほど強烈だった。
「……へえ。ずいぶん立派な身体してやがるな」
ラウは口元をつり上げた。
もちろん、匂いだけで獣の大きさや食用としての安全性まで分かるわけではない。
だが、島にいる生物が普通の獣とは違うことは感じ取れた。
「こいつは調べる価値がありそうだ!」
小舟を浜辺につなぎ、ラウは森へ踏み込んだ。
森の中は、外から見た印象以上に深かった。
巨大なシダ植物が頭上を覆い、太い蔓が木々の間を渡っている。足元には色鮮やかなキノコが生え、葉の裏では小さな虫が奇妙な音を立てていた。
ラウは歩きながら、周囲の匂いを確かめる。
熟した果実。樹液。湿った木の皮。
そして、ところどころに残された獣の足跡。
「こっちだな」
大きな足跡が、ぬかるんだ地面に刻まれていた。
ラウの足よりも大きい。
爪の跡も深く、踏み込んだ地面がへこんでいる。
「おいおい……どんな化け物だよ」
恐れるどころか、ラウは楽しそうに笑った。
足跡を追ってしばらく進むと、森が突然開けた。
そこには、巨大な獣がいた。
体高は二メートルを超え、灰褐色の毛皮に覆われた胴体は岩のように厚い。前脚には太い筋肉が盛り上がり、口元からは湾曲した牙が二本突き出している。
獣は地面を掘り返し、根元に埋まった植物の球根を食べていた。
ラウは木の陰から観察した。
(前脚が太い。首も頑丈。だが、食べてるときは周囲への注意が少し薄いな)
獣が頭を上げた。
鼻先が動く。
次の瞬間、獣の目がラウを捉えた。
「……おっと」
低い唸り声が森に響く。
獣は前脚で地面を掻き、猛然と突進してきた。
ラウは横へ飛び退いた。
ドォンッ!!
獣の巨体が木にぶつかり、幹が大きく揺れた。
「うおっ! すげぇパワーだな!」
ラウは笑いながら距離を取った。
「でも、突っ込むだけじゃ俺には当たらねぇぞ!」
獣は向きを変え、再び突進してきた。
ラウは正面から受け止めず、足運びを変えながら攻撃をかわす。
相手の頭が下がる瞬間。前脚に体重が乗る瞬間。身体をひねる直前の肩の動き。
その一つ一つを見極めていく。
しかし、獣は予想以上に素早かった。
突進をかわしたはずのラウへ、太い前脚が横から振り抜かれる。
「ぐっ!」
ラウは腕で受けたものの、数メートル先まで吹き飛ばされた。
背中が木の幹にぶつかる。
「……っつぅ!」
ラウは肩を回した。
「ははっ……! いいじゃねぇか!」
笑ってはいるが、目つきは変わっていた。
この獣は、ただ力が強いだけではない。
こちらの動きに合わせて攻撃の角度を変えてくる。
一度の観察で攻略できる相手ではなかった。
ラウは呼吸を整え、再び獣と向き合った。
獣は唸り声を上げながら、ゆっくりと距離を詰めてきた。
ラウは拳を構えたまま、あえて先に攻撃しなかった。
(焦るな。こいつの動きを見ろ)
獣が右前脚を踏み出す。
ラウはわずかに重心を移した。
次に、獣が頭を低くする。
突進か。
いや、違う。
肩の筋肉の動きが、先ほどとはわずかに異なっていた。
「……横か!」
ラウが動いた瞬間、獣の身体が横へ振られた。
巨体による体当たり。
ラウは完全には避けきれず、肩をかすめられた。
衝撃で足元が滑る。
それでも倒れなかった。
「なるほどな……。頭だけ見てちゃ駄目ってわけだ」
ラウは小さく笑った。
「次は、そこを見逃さねぇ」
獣が再び突進する。
今度は、ラウも前へ出た。
真正面からぶつかるのではない。
獣が踏み込んだ瞬間、その進路の外側へ滑り込み、肩の動きに合わせて前脚の付け根へ手を伸ばす。
狙いは、筋肉の連動を崩すこと。
柔拳を応用した精密打撃が、獣の身体へ入った。
しかし、獣はすぐには止まらない。
「ちっ……! やっぱ簡単にはいかねぇか!」
ラウは距離を取り直した。
人間の身体とは構造が違う、毛皮も厚く筋肉も強靭だ。人間相手に有効なノッキングが、そのまま通用するとは限らない。
ならば、同じ場所を狙い続けるのではなく、攻撃のたびに反応を確かめるしかない。
ラウは獣の呼吸を観察した。
突進の前に大きく息を吸う。
前脚を踏み込む際、右肩が先に動く。
攻撃の直後には、左前脚へ体重が移る。
「……見えたぜ」
ラウの口元に笑みが戻った。