森へ入ると、湿った土と樹液の香りがラウを包み込んだ。頭上を覆う枝葉の隙間から陽光が差し込み、地面には木の実や枯れ葉が積もっている。鳥のさえずりも聞こえていたが、森の奥へ進むにつれて、その音は少しずつ遠ざかっていった。
ラウは足元に目を向け、地面に残された大きな蹄の跡に気づいた。
「こりゃ、でけぇな……」
泥に刻まれた跡は、人間の顔ほどもある。
踏み込んだ部分の土は深く沈み込んでおり、相当な重量があることがうかがえた。近くの木には樹皮を削り取ったような傷が残っている。高さはラウの胸ほどで、鋭い角を何度も擦りつけたような痕跡だった。
「角で木を削ってんのか。縄張りの主張か、それとも身体をこすりつけてるだけか……」
ラウは傷の周囲に鼻を近づけ、残された匂いを確かめた。獣の気配は濃いが、血の匂いはほとんどしない。代わりに、木の実を思わせる甘い香りが漂っていた。
そのとき、足元の土が大きく掘り返されているのが目に入った。露出した根の中には、淡い黄色の断面に赤い筋が走ったものがある。
「おっ、なんだこりゃ?」
ラウは一本を拾い上げ、鼻を近づけた。土の香りの奥に、栗のような甘さが感じられる。さらに、焼いた芋を思わせる香ばしさまで、かすかに混じっていた。
「へぇ……こいつは面白ぇな」
食材としての期待が膨らみ、思わず口元が緩む。しかし、ラウはすぐに食べたりはしなかった。野生の植物は、見た目や匂いだけで安全かどうかを判断できるものではない。彼は根を布に包み、村へ持ち帰って確認することにした。
すると、森の奥から低い唸り声が響いた。
グルルルル……。
ラウは顔を上げた。茂みが揺れ、太い枝がしなり、地面を踏みしめる重い音が近づいてくる。やがて木々の間から姿を現したのは、灰褐色の毛に覆われた巨大な獣だった。
盛り上がった肩と太い前脚、そして口元から伸びる湾曲した二本の牙。体高は二メートルを超え、頭を低く構えただけで、周囲の空気が張り詰めるようだった。
「……おお。こいつが噂の野獣か!」
ラウは思わず笑みを浮かべた。これほど大きな獣を間近で見るのは久しぶりだった。
だが、獣はラウではなく、その手元にある根をじっと見つめていた。鼻をひくつかせ、地面を掻く様子を見て、ラウはようやく気づいた。
「なんだ、お前。これが欲しいのか?」
彼は根を地面に置き、ゆっくりと後ろへ下がった。獣は警戒するようにラウを見ながら近づき、根の匂いを確かめると、勢いよく噛み砕いた。
「なるほどな。こいつを探して、地面を掘り返してたわけか」
森の木の実が減り、普段食べている根を求めて地面を掘り返すうちに、村の畑へも足を伸ばすようになったのかもしれない。
しかし、獣の様子にはまだ気になる点があった。食事を始めてからも落ち着きがなく、時折、森の奥を気にするように振り返っているのだ。
「……何か気になることでもあんのか?」
ラウが呟いた瞬間、獣の耳がぴくりと動いた。
次の瞬間、獣は地面を蹴り、凄まじい勢いで突進してきた。
「おっと!」
ラウは紙一重で横へ飛び退いた。巨大な身体がすぐ脇を通過し、背後の木に激突する。鈍い轟音とともに幹が大きく揺れ、頭上から葉が降り注いだ。
「うおっ! すげぇ威力だな!」
ラウは驚きながらも、すぐに相手の動きを観察し始めた。獣は木から離れると、再びラウへ向き直り、前脚で地面を掻く。肩が沈み、身体の重心が前へ移った。
「……また来るな」
獣が突進する。ラウはぎりぎりまで引きつけ、牙が服を掠めるほどの距離で身体を横へ滑らせた。そして、すれ違いざまに全身の力を拳へ乗せる。
【狼牙突】
拳が獣の肩口へ叩き込まれた。鈍い衝撃が腕に返ってくるが、獣は倒れるどころか、大きく身体を揺らしながらも踏みとどまった。
「……硬ぇな!」
獣が振り返り、太い前脚を振り回す。ラウは腕を交差させて受け止めたが、想像以上の衝撃に身体を弾き飛ばされ、地面を転がった。
「ぐっ……!」
背中に痛みが走り、口の中に土の味が広がる。それでもラウはすぐに起き上がり、拳を構え直した。
「ははっ……いいねぇ! そう簡単にはいかねぇか!」
獣は傷ついた様子もなく、荒い呼吸を繰り返しながらこちらを睨んでいる。真正面から力比べをしても不利なのは明らかだった。ならば、相手の力を上回ろうとするのではなく、その力を発揮できない瞬間を見つけるしかない。
ラウは今度、攻撃を仕掛けずに避けることへ集中した。突進のたびに肩が沈むタイミング、前脚が地面を蹴る角度、攻撃を外した後に身体をひねる癖。何度も繰り返される動きを追いながら、わずかな違いを見逃さないようにする。
やがて、獣が方向転換する際、後ろ脚の踏ん張りがほんの一瞬だけ遅れることに気づいた。
「……そこか!」
次の突進が来ると、ラウは進路の外側へ滑り込んだ。牙が空を切り、獣の後ろ脚が地面を踏み直した瞬間、ラウは懐へ踏み込む。
【断脈】
拳が脚の動きを支える筋肉の要所へ正確に入った。獣の巨体が大きく傾き、踏ん張ろうとした脚が一瞬遅れる。
しかし、獣は倒れなかった。咆哮を上げながら強引に身体をひねり、ラウへ牙を突き出してくる。
「おおっ、まだ動けんのかよ!」
ラウは間一髪で飛び退いた。獣の牙が空を切り、そのまま巨体が斜面へ滑り込んでいく。ラウは追撃しなかった。相手が体勢を立て直すのを見守りながら、呼吸と視線の動きを確かめる。
すると、奇妙なことに気づいた。
獣はラウを睨みつけているものの、時折、森の奥へ視線を向けている。まるで、自分の背後にある何かを恐れているようだった。
「……お前、何かから逃げてきたのか?」
問いかけたところで、森の奥から地鳴りのような音が響いた。
ゴゴゴゴ……。
獣の耳が立ち、身体がびくりと震える。次の瞬間、獣はラウに背を向け、森の奥へ向かって走り去ってしまった。
「おい、待て!」
ラウは追いかけようとしたが、すぐに足を止めた。無理に追う必要はない。それよりも、あの獣が何を警戒していたのかが気になった。
森の奥から漂ってくるのは、湿った土と樹液の匂い。そして、いくつもの獣の気配が重なったような濃厚な匂いだった。
「……何か起きてんな」
ラウは森の奥を見つめたが、まずは村へ戻ることにした。情報を整理するにも、腹を満たしてからの方が頭も回る。
「ま、飯を食ってから考えるか!」
村へ戻ったラウは、森で見つけた根を年配の男に見せた。
「これ、食えるのか?」
男は根を見た途端、驚いたように声を上げた。
「これは……赤筋芋じゃないか!」
「赤筋芋?」
「ああ。昔は森でよく採れたんだが、最近はほとんど見なくなった。焼くと甘くて、腹持ちもいい。村でも大切な食料だったんだ」
「へぇ! やっぱ食材だったか!」
ラウの顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ、あの獣はこれを探してたのかもしれねぇな。森の木の実が減って、いつも食ってたものが見つからなくなった。それで村まで下りてきた……ってところか」
「そうかもしれん。だが、なぜ急に森の様子が変わったのかは分からない」
村人たちは複雑な表情を浮かべた。野獣が畑を荒らし、村人に怪我をさせたことは事実だ。それでも、獣が生きるために食料を探しているのだとすれば、単純に悪者と決めつけることもできない。
「……でも、このままじゃ俺たちも暮らしていけない」
腕に包帯を巻いた若い男が、悔しそうに拳を握った。
「森の食い物が減ったからって、畑まで荒らされるのを黙って見ているわけにはいかないんだ」
「ああ、そりゃそうだ」
ラウは真剣な顔で頷いた。
「獣にも事情があるのかもしれねぇが、村の人間にも生活がある。だったら、どっちも何とかできる方法を探さなきゃな」
彼は森で見た足跡や、獣が何度も奥を振り返っていた様子を思い返した。何かが起きているのは間違いない。森の奥にいる別の獣が原因なのか、それとも食料の減少そのものに別の理由があるのか。まだ分からないことばかりだった。
「明日、もう一度森を調べてみるわ。今度は、もう少し奥まで行ってみる」
「本当に行くのか? あの獣がまた現れたらどうする?」
「そんときゃ、そんときだ!」
ラウは豪快に笑った。
「それに、赤筋芋ももっと探したいしな! あれ、絶対うめぇぞ!」
「……結局、食材が一番気になるんだな」
年配の男が呆れたように言うと、ラウは胸を張った。
「当たり前だろ! 未知の食材との出会いは一期一会なんだぜ!」
村人たちから苦笑が漏れたが、その表情には少しだけ安堵が浮かんでいた。危険な森へ向かうというのに、この男には妙な頼もしさがある。何より、野獣をただ憎むのではなく、何が起きているのかを知ろうとしているのが伝わってきた。
その夜、ラウは村人たちから赤筋芋の見分け方や、森で採れる食材について教わった。赤筋芋は、赤い筋がはっきりしていて、傷や不自然な変色が少ないものを選ぶという。村人の知識を頼りに、ラウは明日採取する場所を地図に書き込んでいった。
未知の食材を知るには、その土地で暮らす人々の知恵も欠かせない。
ラウはそんなことを考えながら、明日の冒険に胸を躍らせていた。
翌朝、ラウは村人から教わった場所を頼りに、森の奥へと足を進めた。
赤筋芋を探しながら進んでいくと、木々の根元に大きな爪痕が残されているのが目に入った。昨日出会った野獣のものとは明らかに違う。傷はさらに高い位置まで伸び、周囲の木々も何本か折れていた。
「……こりゃ、相当でけぇな」
ラウはしゃがみ込み、地面を調べた。巨大な足跡の周囲には、複数の獣が走り回った跡がある。まるで何かから逃げるように、森の外側へ向かって続いていた。
鼻をひくつかせると、土と樹液の香りに混じって、濃厚な獣の脂と、かすかな血の匂いが感じられた。
「昨日の地鳴り……この足跡……」
ラウの表情から笑みが消えた。
森の奥で、何かが起きている。
それも、ほかの獣たちが住処を変えざるを得ないほどの何かが。
ラウはゆっくりと立ち上がり、森の奥を見つめた。危険があることは分かっている。だが、原因を突き止めなければ、村の問題も解決しないだろう。
それに、森の奥にはまだ知らない生態があり、未知の食材が眠っているかもしれない。
「……いいじゃねぇか」
ラウの口元に、いつもの笑みが戻った。
「どんな奴がいるのか、確かめてやろうじゃねぇか!」
彼は荷物を背負い直し、巨大な足跡を追って歩き出した。
島民を守るため。そして、まだ見たこともない獲物と食材に出会うため。
飢えた狼の冒険は、森のさらに深い場所へと続いていく。