自分の作品はこういうことが多いです。
部屋に入った瞬間、そこには不吉のすべてが満たされていた。
暴力的な臭気、汚染された空気が赤黒く見えそうなほどの密度で漂い、だというのに一見すると何ら変化の起きていない友人宅の廊下がある。
「彩葉……真実……?」
恐る恐る声をかけながらもう進む。
そろそろ10年近くなろうとしている彩葉のマンションの間取りは既に目を閉じていても歩けるほど熟知しているはずなのに、いまは全く知らない空間のように感じられて背中が寒くなる。
芦花が今日、彩葉宅へと訪れたのは珍しく彩葉本人から「美味しいものを見つけたから一緒に食べよう!」と食事会に誘われたからだった。
放っておくと食事や睡眠などを放っておいて研究に没頭する親友の生活習慣に普段から目を光らせていた芦花と真実は珍しい誘いに1も2もなく頷いたのだ。
仕事の関係で遅れてしまった芦花が到着したのが今、という状況なのだが――
(中で一体何が……)
嫌に心臓の音が激しく感じながらリビングの扉まで辿り着く。ここまで彩葉も真実も反応がない。
ごくりと生唾を一つ飲み込み、扉の取っ手を掴み、開く。
「ああ……」
「芦花!? ちょ、これはちがくて……!!」
リビングへの扉を開けた芦花に目の前に広がった光景。
それは――口元を赤黒く汚し、白目を剥いて昏倒している真実と彼女を介抱しようとしているらしい彩葉の姿。
凶器と思しき”それ”はテーブルにまだ残っており、物証は確定的であった。
芦花は静かにポケットからスマホを取り出し、
「彩葉……面会にはいくからね?」
「ちがくてぇぇぇぇぇぇ!!!」
取り合えず、救急車とパトカーのどちらにかけるか迷いつつロックを解除した。
酒寄彩葉は憤慨していた。
事実無根、誇張表現、誹謗中傷……そうしたコメントに晒されることはある程度知名度がある人間として甘んじて受け入れなくてはいけないのだろうと理解はしていても気持ちの良いものではない。
彩葉自身もそうした手合いを真面目に受け取っていては身が持たないと理解しているので基本的にエゴサの類もしないように心掛けている。
本当に必要な情報であればかぐやが……電子の歌姫であるヤチヨがきちんと教えてくれるだろうという安心感もあるのだからなおさらだ。
なので彩葉自身がそのコメントを見かけたのは本当にたまたまである。
「むぅ……なんで私が味覚音痴とか言われてるんだろ」
「え? 彩葉、知らなかったの?」
独り言のつもりで呟いた言葉にヤチヨが反応する。
2人がいるのはかつてのアパートを模したツクヨミ内にあるヤチヨのプライベートエリア。
極力かぐやと一緒に過ごしたい彩葉はオフの時間を大抵この空間で過ごしている。アバターの外見年齢こそリアルに合わせた物になっているが服装はパジャマのような恰好だ。
対してかぐやも大昔に来ていた大きなサイズの黒Tシャツにハーフパンツというラフな格好である。
そこにいるのは「感覚すら再現された完全な義肢を開発した天才」でも「電子の歌姫」でもない素の二人。
世間に出るときの鎧をすべて脱ぎ捨ててリラックスできる空間がここなのだ。
だからこそ、普段はしないエゴサをしてみようと思ったのかもしれない。かぐやがやっていたから真似てみたかったのだろう。
そこにはとても自分を指して言われているとは思いたくないなんだかえらい誉め言葉の羅列に目がアルペンスキーかというほど滑ったがそうした中に見かけたのだ。
<いろPメシマズ説>とか<味音痴説>である。
明確に悪意を持って行っているというよりも配信で喋っていた内容からの邪推の類のようだがなんとなく不満を覚える。かぐやの料理が好きな自分の舌が馬鹿にされているように感じたのかもしれない。
そんな感じで眉間に皴を寄せる彩葉に対してかぐやは逆にあっけらかんとした様子で言う。
「彩葉って味音痴とは違うけど子供舌だよね」
「ええっ!? そんなことないでしょ」
「そんなことあります。料理をしていたかぐやには一目瞭然なのです」
ふふんと胸を張って言い切るかぐやに納得いかない表情の彩葉。
そんな様子にかぐやも肩を竦めながら、
「大体、彩葉は時短とか言って変な手順で料理したり、インスタントとかコンビニ弁当の話題を良くしているからそう思われるんじゃない? やってできない訳じゃないのにしないからそう思われるんだよ」
「ぐっ……いやでも仕事が忙しくて……」
脳裏に浮かぶのは水と粉のパンケーキ。
手順と材料費をどこまで削って食べられるものを作れるかの減算の成果物を思い浮かべ、同時にそれを食べたかぐやの「くそまじぃ」の声まで一緒に甦った。解せぬ。
「そう、超優秀で天才科学者の彩葉の数少ない欠点だろうって思われているからオタクたちも面白半分でからかってるんだよ。この機会にちょっと自炊して見返してみる?」
「自炊か……」
腕を組んで安普請の天井を見上げる。
コスト面や健康面から考えて自炊することは良いというのは理解できている。理解でいているのだが、それに関わる時間を考えると買ってしまえば済ませられる手軽さは手放せない。
かつての極貧生活ならばともかく、現在は資金面で言えばある程度余裕がある。
研究費を考えればお金などあればあるだけ嬉しいのだがそこまでいくと個人の節約云々でどうにかなる規模ではないので無視する。
なのでやはりネックは料理をする時間というコストを払うか否かなのだが、
「私は自分の料理をするより、かぐやに現実でも料理してもらえる環境を作りたい、かな」
「彩葉……もう、そんな嬉しいこと言ってもまだ何にもできないよ?」
「大丈夫、ツクヨミ内でなら、もうちょっとで味覚も匂いもわかるようになるよ」
温かさはもうわかるでしょ? と言ってかぐやを後ろから抱きしめる。仮想の肉体が触れ合い、しっかりと感触と熱、心臓の音さえ感じられる。
つい先日ようやく実装に漕ぎつけた触覚と温冷感覚。
あとは嗅覚味覚の受容器がない仮想で大体となる受容器を設定できれば理論上は臭覚味覚も実現は出来るはずなのだ。
そのため、最近は研究に熱が入り、食事が適当になっていることを先日の配信で喋ってしまったのが先の<味音痴説>に繋がっているようだが。
「案外、そうして実装された味覚が彩葉基準になる、て思って騒いでいる人もいるのかもしれないね。私は彩葉が美味しいって思えるものを一緒に美味しく感じられるならそれもいいけど」
「むむむ……ちょっと食事は気を付けるか」
そんな理由であやが付けられては敵わない。味音痴説払しょくのためにも多少は動く必要があるかもしれない。
「とりあえす、職員の人たちに美味しいお店でも聞いて食べに行ってみるかな」
「そうだね。ちゃんとお店の物を食べたほうが良いとは思うし」
メニューが偏らないように気を付けてね、なんて母親のようなことをいうかぐやの髪を丁寧に手櫛ですきながら「はいはい」と適当に返すのだった。
といった内容の会話があってから早1週間。
「もしかして、私の味覚ってちょっと大雑把なの……?」
自身の研究室で手を組みながら黄昏ている彩葉の姿がそこにあった。
イグノーベル賞とノーベル賞をダブルで受賞してなんなら自分のイグノーベル賞の授与者を自分(が思考操作で動かしている完全義体。外見上は不気味の谷を乗り越えたのだが、飲食などでまだまだ超えるべき課題が多い)でやるなんて真似までした稀代の天才の姿とは思えないほど下らない内容で戦慄した表情をしていた。
ここ数日、職員たちにおすすめされたお店を中心に様々な料理を口にする機会が増えた彩葉だったがどの料理を食べてもピンとこないというか、美味しいのはわかるのだがかぐやの料理を食べた時ほどの感動が来ないというか。
「いままでの会食は緊張しているから味わかんないだけだと思ってたのに……」
実際には自分の舌が貧しいからだなんて理解したくなかった。
よよよっと嘆いていると部屋のドアがノックされた。今日アポなんてあったかな? と考えながら入室許可を出すと長身の男が入室してきた。
鍛えこまれた肉体を真っ黒な僧衣で包んだ男は死体のような目をしながら彩葉をまっすぐに見つめると一つ呼吸をこぼす。
「酒寄所長、半期に一度の検診を決めたのは確か君だったと記憶しているのだが。黄昏る暇があるのであれば自分の足で来ていただきたい」
「あ、すみません、言峰神父」
反射的に頭を下げる。
入室してきたのは酒寄技研で職員及び、義肢技術の被験者である患者たちのメンタルケアを行うため研究所の施設に隣接している教会に家族そろって住んでいる言峰神父であった。
酒寄技研の主な研究は義手義足であり、そうしたものを必要とする人間というのは、肉体面はもちろんのこと、それ相応にメンタル面でのケアが必要なケースが多い。
研究のために協力してもらっている治験者たちのメンタル面でのケアが出来る専門家を招集しようとした際にかぐやが何故か推薦したのがこの言峰神父である。
曰く、とにかく毒舌で怪しいうえに根性が捻じ曲がっているがメンタルを叩きなおすことにかけては信用が置ける人物であるらしい。
実際、彼のメンタルケアは非常に有用であり、腕を失った絶望感に打ちひしがれていた義肢の被験者がたったの一度の検診で「アイツをぶん殴れるようになるため頑張る」と前向きな意見が聞けるようになるほどである。
なので彩葉としても無下にできる相手ではないのだが今回はその相手との面談……半期に一度全職員を対象としたメンタルケアの検診をすっぽかしてしまっていたらしい。
ちなみに、今回に限ったことではない。
むしろ常習犯と認識されているからこうして直接呼びに来たのだろう。
素直に頭を下げながら椅子から立ち上がると神父は少し思案気に部屋の時計に目をやる。
長針と短針のどちらもそろって12をさしており、これからすぐ面談というには間が悪い時間帯だ。
「これは私も来る時間を誤ったか。酒寄所長に時間があれば今日の午後に移すこともできるが」
「えーっと、ちょっと今日はこれから実験が立て込んでまして」
脳裏に書き込まれているスケジュールを精査しても今のタイミングを逃すと今度時間をとれるのは半月ほど先になりそうだ。こちらの不手際でそこまで先延ばしにするのも忍びない。
「あの、問題なければ食事をしながら面談してしまうのはどうでしょうか?」
「確かにそれが一番効率がよさそうだ。私が一食抜く程度は問題ないが酒寄所長はきちんと食事を摂るべきだろう」
「いえ、私の方こそ一食抜くくらい……」
「そういうセリフは抜くことが常習化していない人間の台詞だな」
エナジードリンクで動く人形になりたいかね? と言われてさすがにNOといった彩葉にそれでいいと頷きを一つ。
「ああ、だが一つだけ確認を」
「なんですか?」
「酒寄所長、辛いのは得意かね?」
「んで、紹介されたお店の麻婆豆腐が美味しいから私たちに紹介しようとした、と」
「はい……そうです」
正座で洗いざらいすべて吐かせた彩葉に対して腕を組んで仁王立ちの芦花。真実はまだダウンしているが一時よりも人らしい顔色に戻っている。
窓を全開にして空気の入れ替えをして、件の凶器……彩葉に言わせれば麻婆豆腐らしいそれはラップをして冷蔵庫へと封印されている。
なお、封印されているのは芦花の分と一口だけ真美が食べた物の2皿分。彩葉自身の分は状況を説明してもらいながらちらちら視線が向かっていたので食べてヨシの許可を出したらモリモリ食べていたので本当に美味しく食べられているらしい。
視界に入れるだけでも目に痛みが走りそうな、地獄が料理として具現化したような代物だというのにもりもり美味しそうに食べられる彩葉に戦慄するような驚愕のようなかわいらしいものを見たような複雑な思いを感じながらため息を一つつく。
「真実はよく食べたねこれ」
「今日鼻炎で鼻が効かないって言ってたし、それが原因かも?」
「なるほど……あ、いやでも、真実なら普通の時でも挑戦しそうかも」
グルメ系インフルエンサーの真実は基本的には甘いものとか美味しいと話題の物を中心に取り扱うこともあるがあれでB級とか激辛系も面白そうなら行く性格をしているので平気な様子で食べている彩葉の様子を見たら躊躇しないのではないかと思う。
何はともあれ、
「彩葉、ちょっと味覚を鍛えなくちゃね……」
「うぐ……でも、あの麻婆豆腐を食べた後だと他の食べ物の味も結構色々わかるようになったんだよね」
「味覚ってショック療法効くんだっけ?」
「新しい治療法を見つけてしまったかもしれない」
「……それが出来る人は少数派だろうから気を付けてね?」
何かを思いついたのか思考に沈みこもうとする彩葉に対して一応声をかけるがこうなってしまうと言葉が素通りしてしまうのは知っているのでとりあえず真実の介抱に意識を裂く。
とりあえず今後彩葉が「美味しい」と進めてくる食べ物は少しだけ注意して食べようと心に決めながら。
まさかオーコメで彩葉のメシマズ説が補強されるなんて考慮しとらんよ。
料理は算数とはいうけど減算しまくるのはどうなのか。