秦国余話 ―剣を持たないキングダム―   作:欄外

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第一話 翌朝 ― 宮女

 

王宮の床についた血は、思ったよりも落ちなかった。

 

華は濡らした布を握り直し、赤黒く染まった床をもう一度こすった。落ちない。力を込めてみる。やっぱり落ちない。

 

「……これ、本当に落ちるんですか?」

「落とすんだよ」

 

隣から、なんとも頼もしくない答えが返ってきた。

 

華が顔を上げると、水桶を抱えた京が立っていた。宮仕えを始めて三か月。華がこの王宮で学んだことはいくつかある。

 

一つ。王宮は広い。

二つ。王宮には偉い人がたくさんいる。

三つ。偉い人がたくさんいるからといって、掃除をしてくれる人が増えるわけではない。

 

そして四つ。京に口答えをしても、仕事が減ることはない。

 

「もう三度も水を替えたんですよ」

「じゃあ四度目だね」

「五度目になったら?」

「六度目もあるだろうさ」

 

ひどい。

 

華は心の中でそうつぶやき、布を桶に浸した。水が薄赤く濁る。

 

昨日まで、この廊下はもっときれいだった。磨かれた床に、整えられた柱。朝になれば誰かが通り、昼になれば別の誰かが通る。華たちはその合間を縫って掃除をし、物を運び、叱られながら一日を終える。

 

それが王宮というものだった。少なくとも、昨日までは。

 

今は廊下のあちこちに傷がつき、壁際には壊れた木片が積まれている。少し離れた場所では、別の宮女たちが倒れた棚を起こしていた。

 

そのうちの一人が、棚の脚を見て困ったように声を上げる。

 

「これ、折れてます!」

「見れば分かるよ!」

 

京が即座に返した。

 

華は少しだけ安心した。どうやら、昨日あれほど大変なことがあっても、京はいつもの京らしい。もっとも、安心したからといって仕事が楽になるわけではない。

 

「華」

「はい」

「手が止まってる」

「……はい」

 

華は再び床に向き直った。

 

まったく、王宮というところは人使いが荒い。

 

◇

 

昨日、王宮で何が起きたのか。華は、そのすべてを知っているわけではなかった。

 

大王様が戻ってこられた。王弟様が反乱を起こした。宮中で戦があった。そうした話は、昨夜から何度も耳にしている。

 

けれど、誰がどこで戦い、どちらがどう勝ったのかとなると、話す人によって少しずつ違った。

 

ある者は、大王様が自ら兵を率いたと言った。別の者は、山の民が助けに来たと言った。また別の者は、とんでもなく強い少年がいたと言った。

 

最後の話に至っては、誰もその少年の名前を知らなかった。

 

そんなことがあるのだろうか。華は少し気になったが、京に聞いても「知らないね」と言われるのが目に見えていたので、やめておいた。

 

それよりも今は、目の前の床である。

 

「京さん」

「何だい」

「これ、今日中に全部終わるんですか?」

「終わらせるところから終わらせるよ」

「全部じゃないんですね」

「全部できるなら、それに越したことはないけどね」

 

京は廊下の先を見た。華もつられて顔を向ける。

 

奥の方では、男たちが壊れた扉を運び出していた。床にはまだ片付けられていない破片が散らばっている。あそこまで掃除するとなると、夕方までに終わるかどうかも怪しい。

 

華は小さくため息をついた。

 

「昨日は昨日で怖かったですけど、今日は今日で大変ですね」

「生きてるんだから、仕事くらいあるさ」

 

京はそう言って、華の桶に新しい水を注いだ。

 

華は何も言わなかった。昨日、宮中では人が死んだ。それは知っている。

 

実際に倒れた人を見たわけではない。けれど、昨夜、京たちに連れられて身を隠していた間にも、遠くから何度も怒号が聞こえた。誰かが泣いていた。誰かが祈っていた。

 

華も怖かった。怖くて、家に帰りたくなった。

 

もっとも、家に帰りたいのは昨日に限った話ではない。宮仕えを始めてから、何度そう思ったことか。

 

母は元気だろうか。弟はちゃんと畑仕事を手伝っているだろうか。父は――。

 

「華」

「はいっ」

「今度は何を考えてたんだい」

「何も考えてません!」

「それはそれで困るね」

 

まったくその通りだった。

 

◇

 

昼前になると、華たちは掃除する場所を移された。今度は、廊下に面した小部屋だった。

 

華が中をのぞくと、机が一つ、横倒しになっていた。床には木簡が散らばり、棚の上に置かれていたらしい器が割れている。

 

「うわあ……」

 

思わず声が出た。

 

「華、まず木簡を拾いな」

「はい」

「書いてあるものは勝手に捨てるんじゃないよ。読もうともしないこと」

「読みませんよ」

「本当かい?」

「……読めませんし」

 

京は一瞬黙り、それから小さく息を吐いた。

 

「なら安心だね」

 

少し馬鹿にされた気がする。

 

華は唇を尖らせながら、床に散らばった木簡を拾い集めた。

 

文字は読めない。けれど、木簡に書かれた線の形は分かる。細かい文字がぎっしり並んだものもあれば、短い文字がいくつか書かれただけのものもあった。

 

どれも似たような木の札なのに、書かれていることは違うらしい。華にはさっぱり分からないが、きっと偉い人たちには大事なものなのだろう。

 

大事なら、床に散らばらないようにしておいてほしい。もっとも、昨日の騒ぎではそれどころではなかったのだろうが。

 

木簡を集め終えると、華は割れた器の破片を片付け始めた。

 

そのときだった。

 

机の下に、何かが挟まっているのが見えた。小さな、薄い色の布だった。引っ張り出すと、端の方が赤黒く汚れている。

 

華は手を止めた。

 

ただの汚れた布なら、ほかのごみと一緒に片付ければいい。けれど、これは誰かが使っていたものかもしれない。

 

昨日、怪我をした人がいたのだろうか。それとも――。

 

「京さん?」

 

返事はなかった。

 

部屋の外から、誰かが京を呼ぶ声がした。華が顔を出すと、京は別の宮女と話し込んでいた。何やら急ぎの用事らしい。

 

華は手元の布を見た。

 

捨ててしまおうか。いや、勝手に捨てて怒られるのは嫌だ。それに、誰かの持ち物だったら困る。

 

少し考え、華は布を部屋の隅に置いた空の籠へ入れた。ほかのごみとは分けておくことにしたのだ。

 

京が戻ってきたところで、すぐに報告する。

 

「机の下に、血のついた布がありました」

「どこに置いた?」

「あの籠です。捨てていいか分からなかったので」

 

京は籠の中を確かめた。

 

「そうかい」

 

それだけだった。

 

華は少し拍子抜けした。せっかく考えて行動したのに、もう少し何か言ってくれてもいいのではないか。

 

そんなことを思っていると、京が振り返った。

 

「勝手に捨てなかったのはよかったよ」

「……はい!」

「でも、次はすぐ報告しな」

「はい!」

 

思わず大きな声で返事をすると、京は眉を寄せた。

 

「そんなに大きな声を出さなくても聞こえるよ」

 

まったく、褒められたのか叱られたのか分からない。それでも、華は少し嬉しかった。

 

◇

 

午後になると、王宮の廊下には人の行き来が増えてきた。

 

武具を身につけた男たち。書類を抱えた役人らしい男たち。何やら急いでいる宮女たち。誰もが忙しそうだった。

 

華たちが片付けた廊下も、あっという間に足音で満たされる。

 

せっかく掃除したのに。

 

華は少し恨めしい気持ちで、その背中を見送った。

 

「華、通る人の邪魔になるんじゃないよ」

「分かってます」

「分かってるなら、そんなところに立たない」

 

華は慌てて壁際に寄った。

 

そのとき、廊下の向こうから大きな声が聞こえた。

 

「政ー!」

 

華はぎょっとした。

 

何事かと思って顔を向けると、少年が一人、勢いよく走ってくるところだった。歳は華とそう変わらないように見える。服装も、王宮にいる偉い人たちとはずいぶん違った。

 

何より、声が大きい。

 

王宮であんな声を出す人間がいるとは思わなかった。

 

少年は華たちの前を駆け抜け、そのまま廊下の奥へ消えていった。

 

「……京さん」

「何だい」

「今の人、誰ですか?」

「知らないね」

 

予想通りの答えだった。

 

「でも、すごい勢いでしたよ」

「そうだね」

「誰かを呼んでましたよね」

「そうだね」

「『政』って――」

「華」

「はい」

「仕事」

「……はい」

 

華は口を閉じた。

 

けれど、少し気になった。あの少年は、誰を呼んでいたのだろう。

 

王宮にはいろいろな人がいる。偉い人もいれば、そうでない人もいる。華のように掃除をする者もいれば、書類を抱えて走り回る者もいる。

 

それにしても、あんなに大きな声で誰かを呼ぶ人間は初めて見た。

 

王宮というところは、思っていたよりも変な場所なのかもしれない。

 

◇

 

日が傾き始めた頃、華はようやく腰を伸ばした。

 

「……いたた」

 

背中が痛い。腕も痛い。膝も痛い。どうして掃除をしただけで、こんなに体中が痛くなるのだろう。

 

華は水桶の縁に手をかけ、深く息を吐いた。

 

朝から働き通しだった。もちろん、途中で食事は取ったし、少し休む時間もあった。それでも、今日はいつもよりずっと疲れた。

 

廊下を見渡すと、朝に比べればずいぶんきれいになっていた。床の血も、ほとんど分からなくなっている。壊れた扉は運び出され、散らばっていた木片も片付けられた。

 

けれど、すべてが元通りになったわけではない。壁には傷が残っているし、扉のない部屋もある。遠くでは、まだ何かを運ぶ音が聞こえていた。

 

「京さん」

「何だい」

「明日も、これをやるんですか?」

「明日は明日の仕事があるよ」

「……王宮って、いつ休むんですか?」

 

京は少し考えた。

 

「さあね」

 

華はため息をついた。

 

こんなに働いたのだから、明日くらい休ませてくれてもいいのに。もっとも、明日休みになったところで、家に帰れるわけではない。

 

華は宮門の方角を見た。

 

あの向こうに、家がある。父がいて、母がいて、弟がいる。

 

今頃は夕食の支度をしているだろうか。弟はまた、母に叱られているかもしれない。

 

そんなことを考えていると、京が水桶を持ち上げた。

 

「華、そろそろ戻るよ」

「あ、はい」

 

華は慌てて自分の桶を持った。

 

ところが、京はもう一つ桶を持とうとしていた。朝からずっと働いていたのは、京も同じだ。華よりも多くの場所を見て回り、何度も人を呼び、何度も指示を出していた。

 

華は少し迷ってから、京の手元にある桶を取った。

 

「それ、私が持ちます」

 

京が顔を上げた。

 

「重いよ」

「知ってます。今日、何度も持ちましたから」

「そうかい」

 

京はあっさり手を離した。

 

華は両手に桶を持ち、よろよろと歩き始めた。

 

重い。思った以上に重い。やっぱり一つにしておけばよかった。

 

そんな後悔が頭をよぎったが、今さら返すのも癪だった。

 

京が隣を歩く。

 

しばらくして、ぽつりと言った。

 

「今日はよく働いたね」

 

華は驚いて顔を向けた。

 

「……京さんが、褒めた」

「何だい、その言い方は」

「だって、珍しいですから」

「明日は褒めないことにするよ」

「それは困ります!」

 

京は呆れたように息を吐いた。けれど、その口元は少しだけ緩んでいた。

 

華はそれを見て、なんだか得をした気分になった。

 

王宮の一日は、まだ終わっていない。

 

どこかでは偉い人たちが集まり、昨日の戦について話しているのだろう。誰が勝ったのか。誰が功を立てたのか。これから秦がどうなるのか。

 

華には分からない。分からないし、今はそれどころではなかった。

 

明日の朝も、きっと早い。

 

その前に、この重たい桶を運び終えなければならない。

 

華は桶を持ち直し、京の隣を歩いた。

 

◇

 

――秦国紀――

 

王弟・成蟜、反乱。

秦王・嬴政、王都を奪還する。

 

同年。

咸陽宮に仕える宮女・華、王宮の復旧に携わる。

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