冬木の夜は、思っていたよりもずっと明るかった。
ホテルの高層階。
窓硝子の向こうに、灯りが果てもなく敷き詰められている。
道を流れていく車の光。ビルの窓の、四角い光。
そのひとつひとつに、誰かがいる。
アイリスフィールは、額が触れそうなほど窓に寄って、それを見下ろしていた。
彼女が知っている夜は、白と黒だけでできていた。
城を囲む雪の白と、針葉樹の森の黒。
それが、彼女の世界の全てだった。
だから、夜が眠らないことを、今日初めて知った。
「アイリスフィール。窓際は避けてください」
背後から、静かな声が届く。
黒いスーツに身を包んだ少女が、扉の脇に立っていた。
昼のあいだずっと、彼女の際を半歩遅れて歩いていた騎士。
「もう少しだけ。ね?」
「……少しだけですよ」
ため息まじりの答えに、アイリスフィールは小さく笑う。
今日一日、この騎士をずいぶんと振り回した。
それでも彼女は、一度も本当に嫌な顔はしなかった。
窓に向き直る。
冷たい硝子に、指先で触れる。
この灯りのどこかで、もう戦いは始まっている。
それを、忘れたわけではない。
自分がこの地に、何を運んできたのかも。
アイリスフィールは、そっと目を閉じる。
――遠くで、雷が鳴った。
空に、雲はなかった。
セイバーは、それを確かめるより先に、不可視の剣を手の内に呼んでいた。
理由はない。
敵意はない。殺気もない。魔力の昂ぶりさえ、感じない。
ただ、彼女の内のものが、告げていた。
今、この部屋に、何かが来た、と。
幾多の戦場で、彼女を生かしてきた直感。
それが今、覚えのない形で、ざわめいている。
窓辺に、誰かが立っていた。
アイリスフィールの、すぐ隣。
ほんの一瞬前まで、誰もいなかった場所に。
若い男だった。
使い込まれた旅装。肩に落ちる外套。背に、一振りの剣。
街道ですれ違う旅人のような、気負いのない佇まい。
セイバーは踏み込もうとして、――踏み込めなかった。
斬りかかる自分を、思い描く。
剣は届く。届く、はずだ。
なのに、その先が見えない。
勝つ自分も、敗れる自分も。
霧の向こうへ続く道のように、ただ、どこまでも見通せない。
「アイリスフィール、離れて――」
その声より早く、アイリスフィールは目を開いていた。
窓硝子に、自分の顔が映っている。
その隣に、もう一つ。
振り向いた彼女と、男の目が合う。
不思議と、怖くはなかった。
城で教え込まれた知識の全てが、これは異常だと告げている。
サーヴァントだ。
呼ぶ者もいないのに、ここに在るはずのないもの。
それなのに。
男は、何かを確かめるように、静かに彼女を見ていた。
気負いはない。けれど、軽くもない。
長い道を歩き通した者だけが持つ、静けさだった。
「……あなたは、誰?」
男は、すぐには答えなかった。
窓の外の灯りに、一度だけ目をやる。
それから彼女の胸のあたりへ、――彼女の内に眠るものへ、静かに視線を落とす。
「呼ばれたから、来た」
誰に、とは言わなかった。
「名を名乗れ」
セイバーの声が、低く部屋を打つ。
男は彼女の方へ向き直った。
不可視の剣先を、まるで見えているかのように一度視界の隅に収める。
それから、ゆっくりと両の掌を示した。
背の剣には、触れない。
「アルス」
短く、男は言った。
「アリアハンのアルス。この地では、剣の座に在る」
真名を、こうも容易く。
セイバーは、わずかに目を細めた。
聞き覚えのない名だった。
どの国の伝承にも、どの時代の英雄譚にも。
それなのに、名乗った声には、偽りの響きがひとつもない。
アイリスフィールは、その名を胸の内で繰り返す。
アルス。
知らない名前。知らない国。
けれど不思議と、遠い名だとは思わなかった。
「僕がこの世界に留まるには、繋がりが要る」
アルスは、言葉を選ぶように続ける。
「君さえよければ、君の傍に」
差し出されたのは、片方の手だけだった。
それは、騎士の誓いではなかった。
膝をつくでも、剣を捧げるでもない。
旅の道連れに、隣を歩いてもいいかと尋ねるような。
切嗣の顔が、浮かぶ。
素性の知れないサーヴァントと、自分の判断で契約する。
彼が聞けば、きっと咎めるだろう。
それでも。
自分は、仮初めのマスターだった。
セイバーの主の名を借りて、囮としてこの地に立つ者。
令呪も、魔力の繋がりもない。
誰かの本当の主であったことなど、一度もない。
その自分に、この人は、手を差し出している。
「アイリスフィール」
セイバーの声に、制止の色が滲む。
「大丈夫よ、セイバー」
振り返らずに、彼女は答える。
理由を、言葉にすることはできなかった。
ただ、そうしたいと、心が先に決めていた。
アイリスフィールは、その手を取った。
指先から、細い糸が伸びていく。
自分の内から何かが流れ出し、目の前の青年へと注がれていく。
温かかった。
それが、彼女が初めて知る、主と従者の繋がりだった。
窓の外で、もう一度、雷が鳴る。
雲のない空の、ずっと遠くで。
灯りの海の下で、それに気づいた者が、どれほどいたか。
それは、第四次聖杯戦争の幕が上がる前の、ひどく静かな異変だった。