街灯の上の光に、まだ誰も目を向けてはいなかった。
港の視線は、戦車の上の巨漢と、その前に立つ旅装の青年に集まっている。
「アルス」
青年は、短く答えた。
「アルス、か」
ライダーは、その名を舌の上で転がすように繰り返す。
「聞かぬ名よ。しかも、二騎目のセイバーときた。どこの英雄だ」
「だろうな。遠い所から来た」
「ほう。してアルスとやら。今しがた、そこの二人にも持ちかけたのだがな」
ライダーは顎で、剣を構えたままのセイバーと、槍を下ろさぬランサーを示す。
「余の軍門に降る気はないか。聖杯を余に譲るならば、共に世界を征する栄誉をくれてやるぞ」
セイバーは一国の王として、ランサーは主に仕える騎士として、とうにその誘いを撥ねつけている。
アルスは、わずかに口元を緩めた。
「あなたの軍なら、さぞ賑やかな旅になるだろうな」
その目がほんの一瞬だけ、ここではない遠くを見た。
「ありがたい誘いだが、遠慮しておこう」
「ほう。理由を聞こう」
「僕には、聖杯に預ける願いがない」
巨漢の眉が、わずかに上がった。
「願いは、自分の足で掴みに行くものだと考える」
一瞬、港が静まった。
それから、雷鳴のような笑い声が、戦車の上から弾けた。
「はっはっは! 聖杯を求めぬサーヴァントだと? 面白い。実に面白い男よ!」
アルスも、つられたように、わずかに笑う。
それきり、何も付け足さなかった。
セイバーは、剣先を揺らさぬよう、腕に力を込め続けていた。
胸の内で、何かが小さく軋む。
聖杯を求めて剣を執った自分の前で、この男は、預ける願いなどないと、静かに言う。
「――戯れ言は、そこまでにしておけ」
頭上から、声が降ってきた。
街灯の上。
黄金の鎧をまとった男が、夜の港を見下ろしていた。
冷ややかな赤い瞳が、まずライダーを射抜く。
王を名乗る者が、この地に自分のほかにいる。
そのこと自体が不快だと、その目が告げていた。
そして、瞳は、ゆっくりと横へ滑った。
旅装の青年の上で、止まる。
ほんの一瞬。
誰も気に留めないほどの、短い間だった。
アルスは、街灯を見上げなかった。
ただ、その視線の重さだけは、背中で受け止めていた。
その時、港の空気が、ひどく澱んだ。
アスファルトの上に、黒い靄が湧き出していた。
靄の中から、黒い甲冑の騎士が、ゆっくりと身を起こす。
兜の奥で、赤い光が燃えている。
獣のような咆哮が、夜の港を震わせた。
黒い騎士が最初に牙を剥いたのは、街灯の上の黄金だった。
降り注ぐ刃の雨を、狂戦士は掴み取り、己の得物として振るい返す。
英雄王の顔が、怒りに歪む。
だが次の瞬間、その姿は、主の令呪に引かれるように、苦々しげに夜へ消えた。
残された獣が、兜をめぐらせる。
赤い光が、セイバーを捉えた。
咆哮と共に、黒い騎士が地を蹴る。
セイバーは、アイリスフィールを背に庇いながら、不可視の剣でそれを受ける。
傷ついた左手が、軋む。
「セイバー!」
ランサーが、二本の槍を携えて駆けだした。
剣を交えた相手を、狂った獣の餌食にはさせない。
騎士として、それだけは譲れないと。
だが、その足が、不意に止まった。
闇のどこかから、主の命が届いたのだ。
令呪の縛りが、騎士の体を軋ませる。
槍の穂先が、意に反して、セイバーへと向き直っていく。
「……主よ、それは」
ランサーの顔が、苦悶に歪んだ。
ライダーが、戦車の上で身を乗り出す。
口を開きかけた、その時。
巨漢の目が、旅装の青年の目と合った。
ほんの一瞬だった。
言葉はない。
それでも、ライダーは、にやりと口の端を上げる。
そして、開きかけた口を閉じ、手綱を緩めた。
アルスは、もう走り出していた。
二本の槍が、セイバーの背へ迫る。
紅と黄の穂先が、月光を裂いた。
鈍い金属音。
長槍の穂先が、宙空で止まっていた。
その前に、旅装の青年が立っている。
「――っ!」
いつ抜いたのか。どこから来たのか。
ランサーの目には、何一つ映らなかった。
「……すまぬ」
押し殺した声が、槍越しに漏れる。
「あなたの意志じゃないことくらい、槍を見れば分かるさ」
槍を受け止めたまま、アルスは言った。
「だから、僕が受ける」
令呪が、騎士の腕を引きずる。
長槍を払い、その陰から、黄の短槍を脇腹へ。
穂先は、虚空を貫いた。
紅の長槍は、剣で受ける。
黄の短槍は、決して受けない。紙一重で身を捻り、肌に触れさせもしない。
――知っている。
この男は、黄の槍が何を刻むのかを、知っている。
突く。払う。薙ぐ。
その全てが、セイバーの背の手前で、静かに逸らされていく。
打ち合いではなかった。
押し返されることもなく、退かれることもなく。
ただ、届かない。
狂戦士の一撃が、不可視の剣を軋ませる。
獣の咆哮。砕けるアスファルト。
その背後で、槍と剣が鳴っている。
セイバーは、振り返らなかった。
振り返る必要がないと、背中が知っていた。
「ランサーの魔術師よ!」
雷のような声が、港を圧した。
ライダーが、戦車の上から、闇の一点を睨み据えていた。
「二対一の卑しい真似は、そこまでにしておけ。それ以上、騎士に恥をかかせるならば、余もこの戦い、ただでは見過ごさぬぞ!」
闇は、答えなかった。
だが、ランサーの槍から、ふっと力が抜けた。
縛りが、解けたのだ。
騎士は、槍を引く。
アルスも、剣を下ろす。
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
「……礼を言う」
「なに、次はあなた自身の槍で会おう」
ランサーは、何かを言いかけて、やめた。
そして、闇に溶けるように姿を消した。
戦車の車輪が、轟音と共に黒い騎士へ向かう。
狂戦士は咆哮を残し、靄の中へと退いていった。
港に、潮騒が戻ってくる。
◇
誰もが気づいた時には、旅装の青年の姿は、もうどこにもなかった。
誰の側に立つのか、最後まで明かさないまま。
セイバーは、剣を下ろした。
左手の傷は、まだ疼いている。
けれど、背中だけは、不思議と温かかった。
遠く離れたクレーンの上で、切嗣はスコープから目を離す。
何も言わなかった。
ただ、懐の煙草を探しかけて、その手を止めた。