冬木ハイアットホテル、最上階。
フロアをまるごと借り上げた一室は、もはや客室とは呼べないものに作り変えられていた。
壁にも床にも、幾重もの結界が編み込まれている。
廊下には魔力炉が据えられ、扉の外には、侵入者を待ち受ける使い魔が潜んでいる。
時計塔の一級講師が、その知識の粋を尽くして築いた、難攻不落の魔術工房だった。
その中心で、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは、跪く騎士を見下ろしていた。
「――説明してもらおうか、ランサー」
抑えた声だった。
抑えているからこそ、その底の怒りが透けて見えた。
「手負いのセイバーを、討ち損じた。それはまだいい。狂犬が割って入ったのだからな」
ケイネスは、椅子の肘掛けを指で叩く。
「だが、令呪で命じた一撃を、得体の知れぬ輩に阻まれたとは、どういうことだ」
ランサーは、顔を伏せたまま答えなかった。
「七騎で争う戦争に、八騎目。それも、自ら真名を名乗る愚か者だ」
ケイネスは立ち上がり、窓辺へ歩く。
眼下に、冬木の灯りが広がっている。
「アルス、と言ったか。……聞いたこともない」
苛立たしげに、指先が硝子を叩く。
時計塔で、古今の伝承に通じてきた。
名を聞けば、どの国のどの英雄か、たいていは見当がつく。
それが、まるで掴めない。
「冬木の大聖杯の術式に、八つ目の席を設ける余地などない。ならば、誰かが仕組んだのだ。アインツベルンか、遠坂か。……あるいは、あの教会か」
答えの出ない問いが、ケイネスの神経を逆撫でしていた。
分からないものが、己の戦場にある。
それは、この男にとって、何よりも耐え難いことだった。
「あの者の剣は」
ふいに、ランサーが口を開いた。
「令呪に動かされた我が槍を、ただの一度も、セイバーの背へ通しませんでした。それでいて、こちらを斬ろうともしなかった」
「何が言いたい」
「……侮るべき相手ではない、と」
ケイネスの顔が、怒りに歪んだ。
「敵を褒めそやせと、誰が命じた」
部屋の隅の長椅子で、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリが、その様子を眺めていた。
夫となる男の背ではなく、跪く騎士の横顔を。
八騎目のことを語る時、その顔に浮かんだのが、苛立ちでも屈辱でもなかったことに、彼女だけが気づいていた。
その時、部屋の外で、けたたましく警報が鳴り始めた。
火災報知器の音が、最上階から、高層ホテルの廊下を次々と満たしていく。
宿泊客たちが、寝間着のまま非常階段を降りていく。
フロントでは、従業員が名簿を手に、一人ずつ避難を確かめていた。
最後の一組の名が、読み上げられる。
「その二人なら、もう外に出た」
傍らの男が、穏やかに告げる。
従業員は、なぜかそれを疑いもせず、名簿に印を付けた。
全員、避難完了。
衛宮切嗣は、人の流れに紛れてホテルを出た。
そのホテルの向かいに建つ、建設途中のビル。
剥き出しの鉄骨と、まだ壁のない階層に、夜風が吹き抜けていく。
久宇舞弥は、双眼鏡越しにホテルの上層階を見張っていた。
その少し後ろに、アルスがいた。
切嗣は、ランサーの気配が届く所に、この男を置かなかった。
一騎打ちの夜に、槍と剣を交えた相手だ。
近くにいれば、気取られる。
だから、舞弥と共に、ここにいる。
舞弥は、それを任務として受け取っていた。
援護と、もう一つ。
素性の知れないこの男を、自分の目で見張ること。
無線から、切嗣の声が届く。
「――始める」
次の瞬間、夜が震えた。
向かいのホテルが、根元から崩れていく。
音が遅れて届き、舞い上がった粉塵が、街の灯りを覆い隠した。
アルスは、何も言わずにそれを見ていた。
舞弥は、その横顔を盗み見る。
驚いている様子はない。咎める様子も、ない。
ただ彼は、崩れ落ちる建物の、その一番下の方を、じっと見ていた。
逃げ遅れた者がいないか、確かめるように。
「……誰も、残っていません」
舞弥は、言うつもりのなかった言葉を口にしていた。
「客は全員、外に出しています」
「ああ。そうだな」
アルスは、静かに頷いた。
切嗣から、撤収の指示が来る。
舞弥が双眼鏡を下ろした、その時だった。
足元に、何かが転がってきた。
小さな、黒い塊。
切嗣が街に放った使い魔の、骸だった。
仕込まれていた小型のカメラが、砕けている。
「探し物は、これか」
階段の暗がりから、一人の男が姿を現した。
黒い僧衣。
長身の、表情の読めない男。
言峰綺礼。
舞弥の手が、銃把に走る。
だが、綺礼の目は、彼女を見ていなかった。
言峰綺礼は、その男を見ていた。
つい先刻、港で、潜ませたアサシンの目を通して見た顔だった。
ライダーに名を問われ、アルスと名乗った男。
聖杯に預ける願いはないと、言い放った男。
七騎で争うはずの戦争に現れた、八騎目。
どこの陣営とも知れなかったそのサーヴァントが、今、衛宮切嗣の手の者の傍らに立っている。
それだけで、多くのことが分かった。
そして、分からないことも、同じだけあった。
なぜ、聖杯を求めない者が、あの男に手を貸すのか。
綺礼は、袖の内で、指の間に刃を挟む。
女を仕留めるだけなら、三歩で足りる。
だが、その三歩の間に、あのサーヴァントが何をするか。
二騎目のセイバーだと、港で少年が叫んでいた。
それ以上は、何も分からない。
それは、向こうも同じはずだった。
綺礼の背後に、まだ何が控えているのか。
サーヴァントを失ったはずの男が、なぜここにいるのか。
互いに、相手の札が読めない。
アルスは、剣を抜かなかった。
ただ、舞弥の前へ、半歩だけ出る。
「ここで退くなら、追わない」
静かな声だった。
綺礼は、その男の目を見る。
敵意が、ない。
こちらの刃に気づいていないはずはない。
それでいて、なお。
奇妙だ、と綺礼は思った。
奇妙だと感じる自分を、さらに奇妙に思った。
「……そうさせてもらおう」
綺礼は、刃を袖に戻す。
「衛宮切嗣に、伝えておくがいい。いずれ、直に会いに行く、と」
踵を返し、男は暗がりへ消えていく。
足音が、完全に聞こえなくなるまで、舞弥は銃を下ろさなかった。
それから、ようやく息を吐く。
指先が、わずかに震えている。
舞弥は、それを拳の中に握り込んだ。
「……あなたは、なぜ斬らなかったのですか」
「あそこで斬り合えば、君を巻き込んでいたからな」
綺礼の消えた暗がりに目を向けたまま、アルスは「それに……」と付け加えた。
「まだ、何もしていない相手だ」
舞弥は、何も言わなかった。
無線が鳴る。
切嗣の声が、彼女の名を呼ぶ。
「無事です」
短く答えてから、舞弥は、隣に立つ男を、もう一度だけ見た。
見張るべき相手だった。
今も、そうだ。
けれど、その背中に、今夜自分が守られたことも、また事実だった。
◇
夜も更けた頃、綺礼が自室に戻ると、そこに先客がいた。
黄金の鎧の男が、勝手に開けた葡萄酒の瓶を傾けている。
「数こそ少ないが、時臣の蔵より良いものが揃っているではないか」
「……何の用だ、アーチャー」
「暇を持て余していたところでな。見れば、貴様も退屈そうな顔をしているときた」
英雄王は、杯を揺らす。
「時臣は、港の一件を何と言っていた」
綺礼は、少しだけ間を置く。
「八騎目は、いずれ璃正神父を通して調べさせる、と。……今は捨て置け、とのことだ」
「捨て置け、か」
英雄王は、喉の奥で笑った。
「あの男らしい。己の盤の上にないものは、見ないことにする」
綺礼は答えなかった。
今夜、自分は、その捨て置くべき男と、建設途中のビルの上で向き合ってきた。
それを、まだ師には告げていない。
「港の街灯の上から、我はあの雑種を見た」
英雄王の赤い瞳が、杯の縁越しに綺礼を見る。
「我の視線に気づいておきながら、見上げもせなんだ。背で受けて、それきりだ。……恐れていたのではない。媚びていたのでもない。あれは、ただ、それより先に見るべきものがあると知っている者の背だった」
綺礼は、ビルの上で見た男の目を思い出していた。
刃を向けられて、なお敵意を見せなかった目。
退くなら追わない、と告げた声。
「……奇妙な男だった」
思わず、口から出ていた。
英雄王が、面白そうに眉を上げる。
「ほう。お前が、他人に興を覚えるか」
「興など、覚えていない」
「そうか」
英雄王は、空になった杯を卓に置く。
「ならば、なぜそれを口にした、綺礼」
綺礼は、答えられなかった。
英雄王は、それを見て、満足げに笑った。
「お前はもう少し、己の内を覗いてみるがいい。……退屈を紛らわす種は、案外、そういう所に転がっているものだ」
黄金の光が、ほどけるように消えた。
残された部屋で、綺礼は、空の杯を長いこと見つめていた。