冬木教会の礼拝堂に、蝋燭の灯りが揺れていた。
長椅子の上にも、柱の陰にも、人の姿はない。
あるのは、梁にとまった一羽の鴉、窓辺に留まった小さな蝙蝠、床を這う蛇、燭台のそばを舞う羽虫、扉の脇にうずくまる鼠。
いずれも、各陣営のマスターが放った使い魔だった。
祭壇の前に立つ老神父は、その一つ一つを見渡してから、静かに口を開いた。
「監督役、言峰璃正として告げる」
冬木で続く、子供の連続失踪と殺人。
その犯人は、キャスターとそのマスターである。
神秘の秘匿を破り、無関係の者の血を流し続けるこの陣営を、聖杯戦争の掟に背く者と見なす。
「これより、各陣営の戦いを一時預かりとする。キャスターを討った者には、過去の戦いで使われずに残った令呪を、一画、褒美として与えよう」
使い魔たちが、一羽、また一匹と、闇の中へ去っていく。
礼拝堂に、老神父だけが残された。
璃正は、祭壇に向き直り、しばらく黙って立っていた。
遠坂の当主から、頼みを受けている。
港に現れたという、八騎目のサーヴァント。
その素性を、監督役の手で探ってほしい、と。
前の戦いでも、監督役を務めた。
七つの席に七騎が座り、最後の一騎が聖杯を手にする。
席は、七つしかないはずだった。
けれど前の戦いで、アインツベルンは掟の外のものを呼んでいる。
七つのどの座にも当てはまらない、異形の一騎を。
その戦いがどう終わったかを、璃正は忘れていない。
ならば、此度の八騎目も。
疑いは、自然と郊外の森の城へ向かった。
だが、確かめる術はない。
誰が呼び、何がそれを許したのか。
璃正は、胸の十字を握る。
討伐令を出したのは、子供たちの命のためだった。
その一方で、掟の外から来た者を、掟の内からどう裁けばいいのか、老いた神父には答えが見えなかった。
「……主よ」
祈りの言葉は、そこで途切れた。
これが神の御業なのか、それとも別の何かなのか。
蝋燭の炎だけが、答えずに揺れていた。
◇
城の広間は、冬の朝の冷たさを、まだその石の壁に溜め込んでいた。
高い窓から差し込む光が、床に長く伸びている。
暖炉には火が入れられていたが、この広さを温めきるには、まるで足りなかった。
長卓を囲む顔ぶれは、五つ。
上座に切嗣。その傍らに、舞弥。
向かいに、アイリスフィール。その傍らに、立ったままのセイバー。
そして、窓辺の壁に背を預けた、旅装の青年。
卓には着かず、少し離れた所から、全員の顔が見える位置に立っている。
「――ジャンヌ、と。そう呼ばれました」
セイバーの声が、広間に落ちた。
昨夜の山道のことだった。
月明かりの下、車の前に立ちはだかった異形の魔術師。
セイバーを見るなり膝をつき、聖処女と呼んで涙を流した男。
人違いだと告げても、聞く耳を持たなかった。
「去り際に、こう言いました。次は、相応の準備をして参ります、と」
アイリスフィールが、小さく息を詰める。
フロントガラス越しに見た、あの男の目を思い出していた。
狂気と歓喜が、一つに溶け合ったような目だった。
切嗣は、卓に広げた森の地図から、顔を上げなかった。
「キャスターは、セイバーを狙ってここへ来る」
誰の顔も見ずに、そう言い切る。
「なら、待てばいい。他の陣営が血眼で探している獲物が、向こうからやって来る」
指先が、地図の上の森の縁を、なぞるように動く。
その声には、敵を待ち構える者の熱も、迎え撃つ者の昂ぶりもなかった。
ただ、盤の上の駒の動きを読み上げるような、平らな響きだけがあった。
「マスター」
セイバーが、一歩前へ出る。
「それでは足りません。あの男の所業は、これ以上看過できない。被害が広がる前に、こちらから打って出るべきです」
切嗣は、答えなかった。
まるでその声が聞こえなかったかのように、舞弥へ視線を移す。
舞弥は、何も言わずに、その目を受け止めた。
「アイリの側には、セイバーを置く」
セイバーの拳が、固く握られる。
戦わせてはもらえない。
傷ついた左手のことを、言われずとも分かっていた。
傍らのアイリスフィールだけが、それに気づいていた。
声をかけようとして、やめる。
夫の横顔と、騎士の握り締めた拳との間で、彼女はただ、膝の上で自分の手を重ねた。
切嗣の目が、初めて、卓の外へ向いた。
窓辺の壁へ。
「君は、自由に動いていい」
アルスは、壁から背を離す。
「ああ。なら、森を見ておく」
その日の午後、アイリスフィールは、結界の中を歩く気配を感じていた。
一つだけ。
急ぐでもなく、迷うでもなく、それは森の外れの獣道を辿り、崩れた石垣の陰を覗き、沢を渡る浅瀬を越えていく。
人が身を潜められる窪地。見通しの利く小高い丘。
気配はそのひとつひとつに、確かめるように立ち止まっては、また歩き出した。
攻め込む者が、どこから来るか。
どこで足を止め、どこに罠を張るか。
まるで、この森を落とそうとしている者のような歩き方だった。
日が傾く頃には、結界の中に、その気配が踏まなかった道は、ほとんど残っていなかった。
夜が、森に降りた。
城の一室で、アイリスフィールは水晶球の前に座っていた。
傍らにはセイバーが控え、舞弥は銃を手に、扉の脇に立っている。
切嗣の姿は、ない。
不意に、アイリスフィールの指先が、ぴくりと跳ねた。
「……来たわ」
結界の北西の縁に、一つの大きな気配と、それを取り巻く、いくつもの小さな気配。
小さな気配の数を数えて、アイリスフィールは息を止めた。
「子供……?」
その時アルスは、北西の丘で、夜の森に気配を溶かしていた。
昼のうちに、何度も足を運んだ場所だった。
サーヴァントの気配が、森の縁を越えてくる。
それより先に、もう一つ、別のものが鼻をついていた。
魔物の気配だった。
小さい。ひどく小さい。
けれど、間違えようがない。旅の十年、あらゆる洞窟の闇で嗅いできた、それだった。
その気配が、幼い命の気配と、重なっている。
アルスの目が、細められた。
懐から一枚の翼を取り出し、宙へ放った。
月光を浴び紫水晶の様に煌めく翼から、光が落ちる。
それが収まった時、丘の上にはもう、誰もいなかった。
森の、小さな開けた場所。
子供たちが、そこに立っていた。
十人。
誰も泣いていない。誰も、声を上げない。
夢を見ているような目で、ただ、そこに立たされている。
その中心に、長身の男がいた。
大きな目玉が、月明かりにぎょろりと光る。
胸には、人の皮のような装丁の、分厚い書物を抱いていた。
キャスターは、虚空に向かって両腕を広げる。
どこかで見ているはずの、城の水晶球に向かって。
「約束を果たしに参りましたぞ、ジャンヌ!」
恍惚とした声が、木々の間に響く。
「さあ、お出ましを。私は気長に待ちましょう。待つ間、子供らと鬼ごっこでもして――」
骨ばった手が、一番近くの少年の頭へ、伸びた。
届かなかった。
少年とキャスターの間に、旅装の背中が立っていた。
「――鬼は、お前一人だ」
キャスターの目玉が、見開かれる。
ジャンヌのほかに、この森にサーヴァントの気配など無かった。
「……何者です。あなたは、ジャンヌではない」
アルスは答えなかった。
胸元で、金色のメダルが、淡く光を帯びていた。
両の掌に収まるほどの、翼を広げた鳥の紋章。
その胸の真紅の玉石から、光が静かに満ちる。
夢を見ているようだった子供たちの目が閉じていく。
子供たちの体の奥で、何かが身じろぎした。
光に炙られた小さな影が、耐えきれずに、幼い体から這い出してくる。
指先ほどの、ぬめる触手。
キャスターが命じるまで、誰にも気づかれずに潜んでいたはずのもの。
「なっ――」
キャスターが叫ぶより早く、剣が鞘を走った。
十閃。
月光が、一度だけ瞬いた様に見えた。
剣が鞘に戻る音がした時、子供たちは、糸が切れたように膝を折っていた。
足元の土の上で、十の小さな影が、塵となって崩れていく。
倒れかけた少年の体を、アルスの片腕が受け止める。
眠っている。
息は、穏やかだった。
城の一室で、水晶球を見つめていたアイリスフィールの唇から、息が漏れた。
安堵とも、驚きともつかない息だった。
その傍らで、セイバーは、剣の柄を握り締めていた。
本当なら、自分が行くはずの戦いだった。
自分を呼ぶために、あの子たちは連れて来られたのだから。
「セイバー」
アイリスフィールが、そっと、その手に触れる。
「ここにいて」
セイバーは、答えなかった。
ただ、柄を握る手から、少しだけ力を抜いた。
◇
「おのれ……おのれ、おのれぇッ!」
森に、絶叫が響いた。
キャスターが、抱えた書物を開く。
頁がひとりでに激しく捲れていき、開けた場所を取り囲む闇の中から、ぬらりとしたものが、次々と湧き出した。
触手の束。濡れた肉の塊。
数えることもできない、異形の群れ。
「誰とも知れぬ下郎が、私とジャンヌの間に割って入るなど……! 許しません、許しませんぞ!」
アルスは、眠る子供たちを背にしたまま、群れを見渡す。
逃げ道は、ない。
子供を抱えて走れば、背中から呑まれる。
ここで、受けるしかない。
アルスは、ゆっくりと剣を抜いた。
「ああ。そうだろうな」
凪いだ声だった。
「だから、ここに来た」
異形の群れが、一斉に押し寄せた。