夜明け前の空は、まだ灰色だった。
郊外の小さな病院の裏手に、一台のワゴン車が停まっている。
久宇舞弥は、後部座席の扉を開けた。
十人の子供たちが、毛布にくるまって眠っている。
夜のうちに、一人ずつ顔と名前を確かめてある。
どの子も、この数週間、行方を捜されている子だった。
手順は、もう決めてあった。
夜間の救急口の前に、子供たちを座らせる。
公衆電話から、一本だけ通報を入れる。
誰かが扉を開けて出てくる前に、車を出す。
誰にも顔を見られず、誰の記憶にも残らない。
そういう仕事には、慣れていた。
一人目を抱き上げ、ベンチに座らせる。
二人目。三人目。
四人目の少女を下ろした時、小さな手が、舞弥の袖を掴んだ。
少女は、目を閉じたままだった。
夢の中で、誰かを探す手。
舞弥は、動けなくなった。
ほどけばいい。
それだけのことだ。
指を一本ずつ外していく。
少女は、むずかるように眉を寄せ、それから、また深い眠りに落ちていった。
十人目を座らせ終えて、舞弥は公衆電話へ向かった。
受話器を取り、短く告げ、置く。
車に戻る前に、一度だけ振り返った。
ベンチに並んだ十の寝顔を、救急口の明かりが、ぼんやりと照らしている。
袖にはまだ、小さな手の感触が残っていた。
◇
城の広間で、切嗣は地図を広げていた。
「ケイネスは、生きている」
誰にともなく言う。
「ランサーが連れて退いた。だが、あの傷だ。魔術師としては、もう立てない。……今なら、仕留められる」
「マスター」
セイバーが、卓の前に立つ。
「先に討つべきは、キャスターです。あの男は、また子供をさらう。昨夜の子らが救われたのは、偶然に過ぎません」
切嗣は、地図から目を上げなかった。
「……切嗣」
アイリスフィールが、そっと口を開く。
「セイバーの言うことにも、理があるわ。キャスターを放っておけば──」
「キャスターは、どの陣営も追っている」
切嗣は、妻にだけ答えた。
「いずれ誰かが仕留める。だが、手負いのケイネスを確実に討てるのは、今しかない」
地図を畳む。
銃の入った鞄を手に取る。
セイバーの方を、一度も見ないまま。
「行ってくる」
扉が閉じた。
セイバーは、その扉を見つめたまま、立ち尽くす。
拳が、震えていた。
「セイバー」
窓辺から、声がした。
アルスが、壁から背を離して、こちらを見ていた。
「キャスターは、僕が追う」
セイバーが、顔を上げた。
「あなたが……?」
「昨夜、あの男が逃げた時の気配を覚えている。魔物の臭いは、そう簡単には消えない。辿れるはずだ」
「なら、私も──」
「君は、ここにいてくれ」
静かな声だった。
「切嗣が出て、舞弥も出る。ここに残るのは、アイリスフィールだけになる」
セイバーは、言葉に詰まった。
左手の傷が、まだ疼いている。
分かっていた。今の自分が、この城で守るべきものが何かも。
それでも。
「……あの子たちを救いに行くのは、本来、私の務めでした」
押し殺すような声だった。
「騎士として。王として。昨夜も、今日も、私はただ見送るだけで──」
「見送ってくれたから、僕は行けた」
途切れた言葉の先を、アルスが受け取る。
「君が主の側にいると分かっていたから、僕は背中を気にせずに走れた。昨夜もそうだった。今日も、同じだ」
セイバーは、黙ってアルスを見た。
「それに」
アルスが、閉じた扉の方へ目をやる。
「あの人は、君を見ないが、君の力を疑ってはいない。疑っていたら、アイリスフィールの側には置かない」
セイバーの目が、わずかに見開かれた。
それは、彼女が一度も考えたことのない見方だった。
「……あなたは、切嗣の肩を持つのですか」
「いいや。どちらの肩も持たない。ただ、見たままを言っただけだ」
アルスは、懐の翼を確かめるように、軽く胸元に手を当てる。
「キャスターの居場所が分かったら、知らせる。その時は、君の剣が要るかもしれない」
そう言って、広間を出ていく。
アイリスフィールが、セイバーの隣に並ぶ。
「……不思議な人ね」
セイバーは、答えなかった。
ただ、震えていた拳を、ゆっくりと解いた。