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「ふむ、あの子が地上に降りてから十二時間程度、といったところですか」
月から僅か三十八万キロ。地球。駅前の路地裏でひとり呟く。あの子の乗る船が無事に着陸するのを見届けた後、自らも地上へ降り立ったのがつい先程。協力者は既に姿を消し、この場には自分一人が残されていた。もう二度と会うことも無いだろうが、礼くらいはさせてくれても良かっただろうに。
それにしても身体が重い。それは無論、月と地球の重力差という話ではない。
指先をわずかに宙へ滑らせ、探査式を起動する。
「やはり神秘が薄い、出来ることは限られていますね」
神秘の失われた地上では、月の民としての能力はひどく減衰する。物理法則という名の強固な理が世界を縛り付けているからだ。けれど、あの子の監視装置を辿る程度なら造作もない。意識を集中させ、波長の向かう先──遠く離れた集合住宅の一室へと精神を這わせる。
「居場所と生命反応は把握出来ている。……ふむ、心拍も体温も正常値。周囲の反応は酷く慌ただしいけれど、害意は感じられない。急な子育てに悪戦苦闘……といったところですか」
思わず口元が綻ぶ。どうやら、本当に心根の優しい者に出会えたようだ。
今すぐにあの四畳半の扉を開けて割って入ることもできるが、あの様子では急ぐ必要も無いだろう。それに、かつて地上に堕ちた月の民を育てた者には富が与えられたという。献身には褒美があるべきだ。しかし、生憎と着の身着のまま降りてきた自分では地上で価値あるモノを差し出すことは難しい。
であれば──。
「まずは、現状の把握ですね」
路地裏を抜け、駅前通りへと歩み出る。
行き交う地上の人類たちは皆一様に掌に収まる薄板を見つめ、あるいは何もない虚空に向かって指先を動かしていた。神秘を用いない、物理法則に従った上で情報のみを扱う術があるのだろう。それも、普及率から察するに、衣食住にも並ぶ生活基盤として数えられる程度に人々に身近な技術が。
知らぬのなら、それに慣れ親しんだ者に尋ねるのが手っ取り早い。早速、立ち止まって談笑していた二人組の少女の前へと歩み寄る。
「ごきげんよう、お嬢さん方。お尋ねしたい事がございます、少々お時間よろしいですか?」
二人組の片割れ、化粧を凝らした背の高い少女が目を丸くした。
「え、うちら? 別に良いけど……てか凄い格好、コスプレ?」
「わ~、可愛い子にナンパされちった」
もう一人の朗らかな雰囲気の少女が屈託なく笑う。なるほど、この容姿では地上の基準で幼い子供に見えるらしい。警戒されないという意味では好都合だ。しかし、装いに関しては違和感を持たれているようだ。
「僕は
胸元に手を添えて軽く一礼すると、少女たちは顔を見合わせてぱちくりと瞬きをした。やがて、背の高い方の少女が先に口を開く。
「私は
「
「確かに、『僕』って言ってたから男の子だと思ったけど、整い過ぎててどっちか分からないわ」
二人して首を傾げながらこちらの顔を覗き込んでくる。もっとも、月の民である自分にとって性別の境界など些末な問題でしかない。彼女たちの疑問はさておき、今はより興味深いものがあった。
「その、角膜に付けている物はなんでしょう?」
「角膜……あ、スマコンの事?」
「スマコン、ですか。少し近くで見せて頂いても?」
「うーん、まあいいけど。外すからちょっと待って──」
「いえ、そのままで結構。失礼します」
背の高い少女──綾紬さんがスマコンなる物をわざわざ外して見せてくれると言うが、それにはおよばない。ずい、と顔を近づけて瞳を観察する。それと同時に視覚を媒介に調査式を走らせる。
「──ちょ、ちかっ……」
「ふむ、眼球に光学素子を重ね、特定の波長を網膜へ投影する道具ですね。なるほど、道具を肉体と同化させることで境界を無くしているわけですか」
そして、これ自体の演算規模はそれほどでもない。入出力と通信が主で、多くの処理自体は別の装置で代行しているのだろう。月の都では好まれないやり方ではあるが……なるほど、数が多く寿命のある地上では効率的かもしれない。
「ひゃー、最近の子って大胆だ~~!」
「……? ああ、失礼しました。不快に思わせてしまいましたか」
諫山さんの反応に、距離を戻して首を傾げる。地上人との距離感を測り損ねたらしい。綾紬さんは小さく咳払いをひとつして、何でもないとばかりに手を振った。
「別に嫌だった訳じゃないよ。びっくりしただけ」
そう言って彼女が所在なげに持ち直したのは、先ほどから手にしていた板状の情報端末だった。画面が淡く発光し、細かい文字列が並んでいる。
「では、そちらの端末はスマコンとは別の用途で使うものですか?」
「スマホも持ってないんだ。服装もなんか神社っぽいし、厳しい家なのかな?」
「……そうですね、私の親族は神事に携わっていると言えます」
諫山さんの推測もあながち間違いではない。自身の血統は、神話の時代から知恵と富を司っていたのだから。
「へー! じゃあネットとか全くダメな系? ツクヨミとかも知らない?」
「ツクヨミ……」
「ええ、不勉強ゆえ存じ上げません。もしよろしければ、もう少しばかりその『ツクヨミ』について教えていただけますか?」
「いいよ〜! うちらこれからカフェ行くとこだし、一緒来る? 奢ってあげるよ!」
「真実、奢るのはいいけどアンタまた食べ過ぎないでよ」
「ありがとうございます。ですが、お返し出来るものがありません」
「お返しなんて要らないってば」
「あ、芦花ってばお姉さんぶってる~」
他愛のない軽口を叩き合いながら、少女たちは歩き出す。その後ろ姿を追いかけながら、僕はもう一度だけ、遠くの集合住宅へと意識を向けた。あの子の肉体が地上に適応するまで、おおよそ三日といったところか。
ならばその間に、この街で暮らすための準備を整えておくとしよう。せっかく手に入れた自由だ。最初の数日くらいは、新しい友人との水入らずを楽しんでいなさい。
✕
「なぜ、私はこんなことを?」
七月十五日。夜。私の三連休は育児に終わった。紆余曲折を経てゲーミング電柱から生まれた赤ちゃんを部屋に連れ帰ってしまったのが運の尽き。いやでも、泣いてる赤ちゃんをあんな所に放置なんて出来ないし、なんかあの日は急に治安悪かったし。
もちろん警察に届けようとはした。けれど、
『家の前の七色に輝くゲーミング電柱はベビーベッドで、中から赤ちゃんが出てきてですね、泣いていたので連れ帰ったんです』
……捕まるって、いろんな意味で。
仕方がないので『子育ての味方』を謳う子供用品専門店の西竹屋で、オムツやらミルクやら哺乳瓶やら、その他必要そうな物はあらかた購入。〆て一万三千二百四十三円。もうね、どこが味方だよあんた。死ぬ気で貯めたのに……。
当然ベビー用品を買っただけでは終わらない。使わなければ意味がないのだから。赤ちゃんはもうぐずりにぐずった。それはもう盛大に。そのたびに私はオムツを換え、ミルクを与え、子守唄を歌う。息つく暇もないとはまさにこの事だなんて、国語で勉強した慣用句を実践で学んだ。おかげで私は赤ちゃんのぐずり声を聞くだけで何を求めているかを分かるようになってしまった。そのスキルはまだ高校生には早いって。
でも、それだけでは無かった。確かに赤ちゃんはよく泣いた。けれど、それ以上によく笑うのだ。うるさいし、布団は濡れるし、なんか急にデカくなるけど、その笑顔を見るともっと笑顔になって欲しいと思っちゃうんだ。
──三連休、一度も勉強をしないまま。
「……あれ、何をやっているんだ、私」
いやいやいや、何がもっと笑顔を見たいだ。冷静になれ、酒寄彩葉。そんなことをしている場合ではないのは分かってるだろう?
やっぱり、警察に届けよう。不審に思われても仕方がないけど、明日からは学校にも行かなければならないのだ。その間赤ちゃんを部屋に置き去りにするのは危ないし、何より無責任だ。
またしてもぐずり始めた赤ちゃん。はいはい、ミルクですね分かってますよ。でも、明日の朝一番には交番に行くから。
「お腹いっぱいになった? じゃあ、お休みしましょうね、お嬢様」
ミルクでお腹を満たした赤ちゃんは、既にうとうととしている。追い打ちにヤチヨの歌を歌えば成すすべ無く眠りに落ちた。
寝顔はやっぱり可愛くて、天使のようだった。
◯
狭い部屋。優しい人。光る板。目に映る全てが新しく、耳に届く全てが楽しくて、一秒だって退屈しない。
光る板は、指先で触れるだけで色んな言葉と景色を教えてくれる。
優しい人は、いつも困った顔をしながら、温かい腕と歌声で包んでくれる。
窓から差し込む月明かりに照らされると、視界がぐんと高くなって、狭い部屋はもっと狭くなった。
もっと知りたい。もっと遊びたい。もっと、この人と話したい。
でも、何より今は──
「ねー、ねー、お腹空いた」