ゴールポーチャー(ペナルティーエリアの密猟者) 作:シットライヌ
その年、日本列島はかつてないほどの熱狂と、そして重苦しい絶望の淵を彷徨っていた。
ワールドカップ・フランス大会、アジア最終予選。
負ければ即敗退。残り全試合に勝利してようやくプレーオフへの道が繋がり、そこでも勝たなければ本戦への切符は完全に消滅する。まさに首の皮一枚で繋がった極限状態の中、日本代表は深刻な得点力不足に陥っていた。
その窮地を救うべく白羽の矢が立ったのが、ワールドユースで得点王に輝いた弱冠19才のストライカー、響木蒼生だった。
しかし、彼を送り出すステラマーレ函館のフロントには苦渋の決断が迫られていた。当時の日本サッカー界において、下部リーグであるJFLからA代表が選出されることなど全く想定されていない。代表戦とクラブの試合を並行して戦うための特別指定や過密日程を考慮したレギュレーションなど、何一つ整備されていなかったのだ。
過酷な海外遠征とコンディション調整の観点から、W杯出場が決まるまでの間、響木は物理的にステラマーレの試合に出場することが不可能となった。
「クラブのことは気にするな。フランスの切符を獲るまで、お前は日本のためにだけ走れ」
出発の日、榎GMはそう言って響木の背中を押した。クラブの命運を懸けた昇格争いの真っ只中でエースを手放す。それは事実上の「飛車角落ち」を意味していたが、響木もまた、自分を信じて泥臭く無失点で耐え抜くと誓った守備陣の覚悟を背負い、代表合流への途に就いた。
合流したA代表のピッチには、冷たい不協和音が流れていた。
原因は、中盤の底からトップ下へと君臨するルーキー、背番号「8」の存在だった。
後に日本サッカーの歴史を変えることになるその若き絶対的エースは、ピッチ全体を俯瞰する鷹のような視野と、極めて冷徹な判断力を持っていた。彼から放たれる代名詞「キラーパス」は、相手の守備陣を無力化するほど鋭利で完璧な軌道を描く。
しかし、あまりにも高度で予測不能なそのパスに、既存の日本代表のフォワード陣は誰一人として反応できていなかった。
「パスが早すぎる!」「あんなスペースに出されても追いつけるか!」
ベテランFWたちが苛立ちを露わにする中、背番号8は表情一つ変えずにピッチの芝を蹴った。彼に見えている世界と、周囲の選手に見えている世界が全く噛み合っていない。極限のプレッシャーの中、日本の攻撃は完全に機能不全に陥っていた。
そこへ投入されたのが、響木蒼生だった。
後半開始直後。中盤でボールを受けた背番号8が、顔を上げた瞬間だった。
(来る――!)
響木の脳裏に、ワールドユースで体感した世界基準のスピードと空間認識がフラッシュバックする。既存のFWたちがボールの軌道を見てから走り出すのに対し、響木は「彼がパスを出す1秒前の未来」に向かってトップスピードで駆け出していた。
背番号8の右足から、相手DFの股間を射抜くような鋭利なスルーパスが放たれる。
誰も追いつけないと思われた無人のスペース。だが、そこには既に響木が走り込んでいた。
強烈なバックスピンがかかったキラーパスの勢いを、響木は止めることなく、そのまま無駄のないモーションで右足を振り抜く。
ボールは相手GKの指先を掠め、ゴールネットに深々と突き刺さった。
スタジアムが、どよめきと歓声に揺れる。
得点力不足に喘いでいた日本代表に、ついに歓喜の瞬間が訪れた。
振り返った響木に、普段はクールな背番号8がわずかに口角を上げて駆け寄り、無言でハイタッチを交わす。
それは、孤高の司令塔の描く戦術ビジョンを、ストライカーが完全に理解し、体現した瞬間だった。
この日を境に、日本代表の景色は劇的に変わった。
響木蒼生という「最高の矛」を手に入れた若き司令塔は、水を得た魚のように決定的なキラーパスを連発。響木はそれらすべてをゴールへと変換していく。瞬く間に確立された二人のホットラインは、停滞していた日本の絶対的な得点源となった。
絶対に負けられない極限の重圧。国中から向けられる祈りと悲鳴。それらすべてのプレッシャーを跳ね除け、響木はゴールを量産し続けた。日本は奇跡的な連勝街道を突き進み、ついに最終関門であるプレーオフへと駒を進める。
そして迎えた、熱気と湿度が肌に纏わりつく中東の夜。
同点のまま延長戦までもつれ込んだ死闘の最終盤。疲労で両チームの足が止まる中、中盤で前を向いた背番号8から、この日最後にして最高のキラーパスが放たれた。
呼応するようにDFラインの裏へ抜け出した響木が、飛び出してくる相手GKの動きを冷静に見極め、ふわりとボールを浮かせる。
弧を描いたボールが、ゆっくりと無人のゴールへ吸い込まれていく。
その瞬間、日本サッカー界の歴史の扉がこじ開けられた。
フランスへの切符を勝ち取る、劇的な決勝ゴール。ピッチに倒れ込む響木の上に、代表のチームメイトたちが次々と折り重なり、歓喜の涙を流した。
日本中が熱狂の渦に包まれ、響木蒼生は一躍「国の救世主」としてすべてのメディアの寵児となった。
しかし、偉業を成し遂げた若きストライカーの視線は、すでに遠く北の海へと向けられていた。
自分が異国の地で死闘を繰り広げている間、ステラマーレの仲間たちは泥にまみれ、一切の攻撃を捨てて「0-0」の引き分けを拾い続けてくれた。自分を信じ、首の皮一枚で昇格の望みを繋ぎ止めてくれたのだ。
極限のプレッシャーを乗り越え、ストライカーとしてさらに純度を増した「絶対的な刃」が、ついに函館へ帰還する。
Jリーグ昇格を懸けた1997年JFL最終節。因縁の宿敵・プログレッソ札幌が待ち受ける、本当の最終決戦へ向けて。