ゴールポーチャー(ペナルティーエリアの密猟者) 作:シットライヌ
1998年初頭。オフシーズンを迎えたステラマーレ函館の本拠地、仮称であったスターオーシャンから新しく公募で決まった名称『星海陣屋(セイカイジンヤ。通称ジンヤ)』スタジアムは、吹き付ける凍てつくような海風を微塵も感じさせないほどの熱気と笑顔に満ちていた。
この日、スタジアムのピッチはサポーターへの感謝を伝える交流会の会場となっていた。 ステラマーレの選手たちは皆、ユニフォームではなく、クラブの象徴である浅葱色に白の山形ダンダラ模様が染め抜かれた「新選組」の羽織を身に纏っている。
「門倉さん、意外と似合ってますよ!」
「うるせえ! 俺の柄じゃねえんだよ、こういうのは!」
主将の門倉鉄馬が顔を真っ赤にして照れ隠しの声を上げると、周囲を取り囲むサポーターからドッと温かい笑い声が沸き起こった。その隣では、泥臭い守備職人の斎間創や守護神の近江勇将が、子供たちに囲まれてサイン攻めに遭っている。 新加入の選手たちも、すっかりこの熱量に馴染んでいた。無尽蔵のスタミナを誇る右サイドのダイナモ・原野駿之介は「函館の風、最高ッスね!」と快活にファンと握手を交わし、左サイドの知将・南山計助は「これほどの熱気なら、どんな戦術も生きる」と羽織の袖を直しながら穏やかに微笑んでいる。
ひときわ大きな人だかりができていたのは、トップ下を務める沖瀬司の周辺だった。
「沖瀬選手、こっち向いてください!」
「あ、はい。ありがとう」
何重にもできた黄色い歓声の輪の中心で、沖瀬は涼やかな笑みを浮かべていた。洗練された甘いマスクと優雅な物腰はピッチ外でも健在であり、女性サポーターたちから次々と向けられるカメラに対し、モデル顔負けの爽やかな笑顔で応じている。華麗なプレースタイルそのままのスター性が、そこにはあった。
一方、ピッチ上で見せる狂気じみた姿とは真逆の空気を纏っていたのが、絶対的ストライカーの響木蒼生である。
「……はい、サインですね。お名前はどう書きますか?」
「響木選手! これからもずっと応援してます!」
「ありがとうございます。……あの、風が冷たいので、風邪ひかないように気をつけてくださいね」
響木はスタジアムの片隅に設営されたテントの下で、少し猫背になりながら、サインを求める子供や年配のサポーターに対して一人ひとり丁寧に応対していた。 相手DFの死角を突き、ワンタッチでゴールネットを無慈悲に揺らす『点取り屋』としての鋭い眼光は欠片もない。はにかむような控えめな笑顔を浮かべ、小さな声で穏やかに言葉を交わすその素顔は、どこにでもいる親しみやすく大人しい青年のそれだった。彼がピッチ上でどれほど恐ろしい牙を剥くか知っているサポーターたちも、そのギャップにどこか和まされているようだった。
和やかな時間が流れていた、その時だった。
バックスタンド裏の通路。フロント陣が待機する一角へ、一人の男が血相を変えて駆け込んできた。 新任の名スカウト、伊庭八尋である。普段は剣客のように冷徹で、どんな原石を見つけた時も表情を崩さない彼が、肩で激しく息をしていた。
「榎GM……! 鬼方監督を! すぐに!」 伊庭のただならぬ様子に、榎GMが眉をひそめて携帯電話を受け取る。電話の主は、Jリーグ本部だった。
数分後。 突然、スタジアムのスピーカーからマイクのハウリング音が鳴り響き、交流会の進行がピタリと止められた。
「サポーターの皆様。突然の進行中断、申し訳ありません。全員、少しだけ耳を傾けてください」
ピッチの中央に急遽設けられたお立ち台。そこに立った榎GMの表情は青ざめ、微かに震えていた。傍らに立つ鬼方監督も、腕を組んだまま険しい顔で俯いている。 異様な空気を察知し、ジンヤのスタンドは水を打ったように静まり返った。沖瀬もファンサービスの手を止め、響木もペンを置いてすっと立ち上がる。
「……たった今、Jリーグ本部より緊急の連絡が入りました」
マイクを握る榎の手が白く結ばれている。
「日本のサッカー界にとって、あまりにも悲しく、受け入れがたい悲報です。Jリーグ屈指の強豪であり、歴史ある横浜のクラブが……親会社の経営不振に伴う撤退により、事実上消滅し、合併されることが決定いたしました」
その言葉に、スタジアム中から「あっ……」という息を呑む声が漏れた。 選手たちの顔からも血の気が引く。同じトップリーグを目指し、サッカーに人生を懸けるプロクラブが『消滅』する。その残酷な現実は、あまりにも重く、痛々しい報せだった。
「我々も同じサッカーを愛する者として、横浜の選手、関係者、そして何よりサポーターの方々の無念を想うと、言葉になりません。日本のサッカー界にとって、大きな喪失です……」
榎は一度目を閉じ、深く息を吐き出した。 冷たい冬の風が、静まり返ったジンヤのピッチを吹き抜けていく。響木も俯き、志半ばで居場所を奪われた者たちの無念に静かに思いを馳せていた。
「ですが」 榎が再び目を見開いた時。その瞳には、悲しみを押し殺した強い光が宿っていた。 「本部からの連絡は、これだけではありません」 マイクを通して響く声に、確かな熱が帯び始める。
「この悲劇的な事態により、来季のJリーグの編成枠に空きが生じました。そして先ほど開かれた緊急理事会の結果……昨シーズンのJFLにおいて、昇格チームと完全に同率の成績を収めていた我々、ステラマーレ函館の……」
榎の声が、感極まって裏返った。
「Jリーグ、ファーストステージへの『繰り上げ昇格』が……正式に決定いたしました!!」
一瞬。 星海陣屋から、あらゆる音が消滅した。 サポーターも、選手たちも、その言葉の意味を脳髄で理解するまでに数秒の時間を要した。
「……しょ、昇格?」 門倉がポツリと呟く。 「俺たちが……Jリーグに……?」 斎間が震える声で続く。
そして――。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!!」
スタジアムの底が抜け、大地が割れたかのような、地鳴りのごとき大歓声がジンヤを揺るがした。 悲鳴、号泣、そして怒涛の『ステラマーレ』コール。 スタンドでは、見知らぬサポーター同士がもみくちゃになって抱き合い、涙を流して冬の空へ拳を突き上げている。ある者は泣き崩れ、ある者は絶叫し、函館の地が揺れるほどの熱狂が渦巻いた。
「よっしゃあああああッ!」 ピッチ上では、門倉が男泣きしながら膝から崩れ落ち、その背中に近江や斎間が折り重なるように飛びついた。 「マジかよ! マジでJかよ!」 原野と南山も先輩たちと固く抱き合って歓喜を爆発させ、沖瀬は静かに涙を拭いながら、スタンドのサポーターに向けて深く一礼をした。
狂乱の中心。歓喜に沸くチームの輪から少しだけ離れた場所で、響木蒼生は一人、静かに函館の冬空を見上げていた。 先ほどまでの、大人しく控えめな青年の顔ではない。 悲劇的な巡り合わせによってもたらされた、予期せぬ切符。手放しで喜べる背景ではないからこそ、与えられた舞台で己のすべてを証明しなければならない。消えていったクラブの想いも、過酷なリーグで血を吐くように戦い抜いた函館の誇りも、すべてを背負って最高峰のピッチに立つ。 静寂を取り戻した彼の双眸には、極限まで研ぎ澄まされたストライカーとしての凄絶な覚悟が、冷たい炎のように宿っていた。
1998年。 数奇な運命に導かれ、ステラマーレ函館はついに夢にまで見たJリーグという果てなき航海へ漕ぎ出した。 北の空に翻る浅葱色の旗が、最高峰の舞台で新たな旋風を巻き起こすプロローグであった。