ゴールポーチャー(ペナルティーエリアの密猟者) 作:シットライヌ
開幕戦の熱狂は、決してフロックではなかった。
1997年、春。JFLジャパンフットボールリーグに、浅葱色の旋風が吹き荒れていた。
新設されたばかりの北の市民クラブ、ステラマーレ函館。並み居る企業チームやJリーグ参入を狙う古参クラブを相手に、彼らは開幕から怒涛の連勝街道を突き進んでいた。
スコアボードに刻まれる数字は、決まって「1-0」か「2-0」。
華麗なパスワークも、圧倒的なポゼッションも存在しない。あるのは、鬼方陣監督が徹底的に仕込んだ、ミリ単位の陣形による「堅守速攻」のみ。
アウェイチームは、海上の要塞「スターオーシャン・スタジアム」に上陸するたびに深い絶望を味わうことになる。地鳴りのような和太鼓と、スタンドを埋め尽くす「誠」の旗。そして、ピッチ上に築かれる難攻不落の防壁に。
「ラインを下げるな! そこで潰せ!」
GK近江勇将の咆哮がピッチに響く。
ある日のホームゲーム。相手はJFL上位の強豪だったが、試合の主導権ボールは常に相手に渡していた。だが、それはステラマーレの「罠」だ。
相手の司令塔が隙を突いてスルーパスを放つ。しかし、そのコースにはすでにキャプテン・門倉鉄馬が立ち塞がっている。圧倒的なフィジカルで相手FWを撥ね退け、難なくボールを刈り取る。
こぼれ球に群がる相手ミッドフィルダー。その死角から、ボランチの斎間創が無表情のままスライディングタックルを見舞う。一切の感情を排した猟犬のプレッシング。ボールを奪取した斎間は、体勢を崩しながらも即座にショートパスを放つ。
ボールは、トップ下・沖瀬司の足元へ。
ガラスの天才がボールを持った瞬間、スタジアムの空気が変わる。相手守備陣が慌てて帰陣するが、遅い。
沖瀬の右足から放たれるパスは、常に一つ。相手最終ラインの裏、誰もいない空間への浮き球。
そこには、背番号9が必ずいる。
響木蒼生。
守備のタスクを免除され、90分間ただゴールへの匂いだけを嗅ぎ続けている男。
相手DFの視界から完全に消え去り、沖瀬のパスの落下点へ飛び込む。
空中で体を捻り、ジャンピングダイレクトボレー。
完璧なミート音が響き、ゴールネットが揺れる。ピッチサイドではマスコットのハクゾーが仕込み杖を抜き放ち、巨大な「誠」の旗が夜空を舞う。
「ストライカーに必要なのは才能じゃない。ゴールへの本能だ」
その言葉通り、響木は開幕からゴールを量産し続けていた。
10試合消化時点で、既に二桁得点。得点ランキングのトップを独走。
フィジカルが弱くても、足元が拙くても、一撃必殺の決定力だけでJFLの猛者たちを沈めていく生粋のローカルヒーロー。函館の街は響木の名を叫び、ステラマーレの快進撃に酔いしれていた。
誰もが、このまま順調に勝ち点を積み上げ、Jリーグ昇格の切符を手にするものだと信じて疑わなかった。
だが、圧倒的な活躍は、必然的に中央の目を引く。
5月末。函館港を見下ろすクラブハウスの一室。
GMの榎武臣は、デスクに置かれた一枚のFAX文書を見つめ、低く唸った。
「……来たか」
向かいのソファには、ヘッドコーチの鳳圭介と、監督の鬼方が座っている。
鳳が銀縁眼鏡を中指で押し上げ、冷徹な声で事実を述べた。
「FIFAワールドユース選手権。U-20日本代表メンバーへの招集通知です。当クラブより、FW響木蒼生が選出されました」
名誉なことだった。地方の新設クラブから、年代別の日本代表が選ばれる。榎が描いた「函館を世界へ繋ぐ」という壮大な青写真が、想像を絶するスピードで現実になりつつあった。
だが、現場の指揮官である鬼方の表情は、身に纏う漆黒のスーツと同じくらい暗く、険しい。
「……大会期間と事前合宿を含めれば、リーグ戦の最低でも4試合は響木を欠くことになる」
ステラマーレの戦術は、極端なまでに響木の「嗅覚」と「ワンタッチの決定力」に依存している。守備陣がどれだけ完璧な陣形で相手の攻撃を無力化し、沖瀬がどれほど鋭いパスを通そうとも、最後に仕留める「刃」がなければ勝利はない。
榎が窓の外、緑の島に浮かぶスターオーシャン・スタジアムの方角へ視線を向ける。
「誇らしい知らせだが、クラブにとっては最初の試練だな。鬼方、代えの刃はあるか?」
鬼方は腕を組み、鋭い眼光で壁の戦術ボードを睨みつけた。
「陣形ダンダラは崩さん。それが俺の法度だ。だが……」
鬼方の言葉を継ぐように、鳳が手元のデータファイルを閉じた。
「響木の得点力とポジショニングを完全に補完できる選手は、現在のスカッドには存在しません。得点力の大幅な低下は避けられない事実です」
快進撃を続ける浅葱色の船。順風満帆に見えたその航海に、初めての暗雲が立ち込めていた。