男女比1:1000の世界に生きる希少男子が、専属メイドに出会って人生を謳歌する話 作:木刀
025-2125 希少男子、記憶を失う
「あら。おはよう、
目が覚めて、ボーッとしたまま天井を見つめていると、懐かしい声が聞こえた。うーん、と伸びをしながら身体を起こすと、左腕に点滴が刺さっていることに気付く。
たった今までベッド脇の椅子に座って農業系の情報誌を読んでいたらしい声の主を見る。
「……おはよう、母さん。ここ、どこ?」
「特区にあるやたら大きな病院よ。見てみなさい、私があなたを産んだ時のより豪華な病室よ。きっと、出てくる食事も豪華に違いないわ」
母の
その画面端に表示された日付は8月2日。
「え、あれ、間違えてない?」
「あれって?」
母さんは聞き返しながらペットボトルから紙コップに水を注いでくれる。受け取って飲むと、病み上がり(?)の身体を気遣ってなのか、常温だった。喉が潤っていくのを感じる。
「ふぅ……あ、いや、日付のことだけど……」
「テレビはそんなの間違えないわよ。もしかして寝過ぎて感覚が狂ってるのかしら?」
言われてみると、記憶があるのは日曜日の夜までだった。まさかそこから今まで、ずっと寝てしまったとか……? 終業式はどうなったんだろう? 気付かぬ間に夏休みに入ってしまったみたいだけど、大丈夫なんだろうか。
そこまで考えて、少し頭が痛くなる。
「……僕、なにか変な夢を見てた気がする」
それがどんな夢だったのかは、モヤがかかったように思い出せない。
「あら奇遇ね。私も昨夜は大きな熊と戦う夢を見たわ。当然勝ったけれど」
「あ、あぁそう……」
人の話を聞かないこの感じは、まさに母さんだった。気を取り直して、会話を続ける。母さんの言うことをいちいち間に受けたら負けだ。
「それにしても、母さんが特区に来るなんて珍しいね」
「そりゃあねー。あなたはこんな状態だし、自宅も粉まみれにされて住めない状態だもの」
「……粉?」
「しかも始末に負えないやつね。おばあちゃんのトロフィーは全部死んだわ」
「トロフィー? 死んだ?」
「
ああ、それは確かに可哀想かも。オンライン上にバックアップを取って無かったなら、ちょっと自業自得ではあるけど。
「私もねぇ、田んぼも畑も隣の広田さん一家にお願いしてこっち来ちゃってて、いても立ってもいられない感じよ。まぁ、元凶っぽい人ぶん殴ってちょっとは気が済んだけど。……そういえば熊に似てたわね、あの子。だからあんな夢を見たのかしら?」
話が全然見えてこない……僕の寝ている間に、
「二人は今どこにいるの?」
「大臣さんが都内に取ってくれたホテルよ。ここと同じでとってもお高そうな部屋なんだけど……あまり落ち着かないのよねぇ。二人は喜んでるけど、小さな民宿とかの方が良いわね、私は」
ダイジンさん? 母さんたちにそんな知り合いいたのかな。何にせよ、ホテルはお金がかかるしあまりお世話になるのも悪いだろう。
「じゃあ、最初からウチに来れば良いじゃない。……あれ、そういえば鍵はどこにあるのかな? 母さん、知らない?」
当然のように僕がそう言うと、母さんがおかしなものを見るような顔で、こちらをまじまじと見つめる。僕、なにか変なこと言ったかな。
「圭人……あなた、もしかして覚えていないの?」
「え? 覚えてないって、何を?」
「月曜日のことよ」
「月曜日って、僕寝てたんじゃないの?」
「あのねぇ、いくら生まれつき寝坊助のあなたでも三日も四日も寝るわけないでしょう?」
呆れられたように言われて、頭を少し働かせる。いや、そりゃそうかもしれないけど。しかし、全然思い出せない。
「……いや、何も。あっ、母さん、僕のことからかってるでしょう?」
そうか、きっと今日が月曜日で、テレビでやってるようにみんなで僕をからかってるんだ。そうであれば全ての辻褄が合う。……でも、そのために人の腕に点滴刺すかな。いや、
とりあえず、先ほどから疑問に思っていたことを尋ねてみることにした。どうせどこかのタイミングでみんな出てくるんだろう。
「そもそも僕、なんで病院のベッドに寝てるのさ? 遼子さんは?」
僕の言葉を聞いた母さんは、テレビの前にあったテーブルの上から携帯端末を手に取った。母さんにしては珍しいことに、少し焦っているように見える。
「……ちょっと待って、今、
カエデちゃん?
……一体誰だろう、母さんの新しい友達だろうか。
ていうか、ドッキリは?
◇
診察はすぐに行われた。外傷がないことは、圭人の昏睡中に行った精密検査で既に確認済みだったため、結果が出るのは早かった。
「……
白衣を着た年配のドクターがそう言うと、椅子に座って話を聞いていた周防芳乃は困ったような顔をして尋ねる。
「あのー、先生、それってすぐに治るのかしら? なんだかすごく難しそうな名前の病気だけれど……」
「うーん、本人次第ですね……簡単に言うと、受け止めきれない現実など、脳が処理できない情報を一時的にシャットダウンしている状態なので……現実を受け入れたり、心の整理がついたりすれば短期間で記憶は戻るでしょう。数日から、ものによっては数ヶ月……ただ、下手をすれば死ぬまで戻らないこともあり得ます」
「死ぬまで……?」
「まぁ、必要なことは数ヶ月ほどで思い出すことが多いですけどね」
安心させるようにそう言いながら、ドクターは電子カルテに何かを書き込んでいく。そして、検査の結果が記されたチェックシートを手に取る。
「現段階では、特に貴女……小見山さんに関わる出来事が、記憶を失った大きな要因であることが考えられます。二年以上に及ぶ貴女との記憶が、ごっそり失われていますからね。圭人さんとはどういったご関係ですか? 何か思い当たる節はあるでしょうか?」
そう聞かれたのは、芳乃の背後に立っていたメイド姿の楓だった。
美しい造形の顔は幽霊のように蒼白で、白色灯の下では今にも倒れそうに見えた。芳乃はすぐに立ち上がって、楓をその椅子に座らせる。いつもなら遠慮するはずの楓も、この時ばかりは抵抗することも無かった。
「……私は、ご覧の通り、圭人様の専属メイドです……思い当たることは、たしかにあります。でも、一体、どれが原因なのか……」
楓は言葉を選びながら、どうにか声を絞り出した。
精子提供のこと、添い寝のこと、毎日の勉強のこと、いつも二人きりでいたこと……もしかして今までのこと全てが圭人様にとってストレスだったのではないかと、楓は大きな不安に苛まれてしまう。
「その中で一番は、なんだと思いますか? 言い換えるなら、この二年間、貴女が彼に対して最も罪悪感を感じていたことは、なんでしょうか?」
そう尋ねられた楓は、悩むことなく返答した。
「先生、私は……圭人様に、自分が獣人であることを隠し続けていました……出会ってからずっと。もしかすると、月曜日に拉致された先で……それを知ったのかもしれません」
「たしか専属メイドは獣人にしかなれない職業だったはずですが……」
「そうした情報からも、圭人様を遠ざけていたのです……ただ、私の醜い欲望のために」
「楓ちゃん……」
それを聞いたドクターは、大きく頷いた。
「なるほど……うん、それは可能性としては十分あり得そうです。できることなら、彼を拉致したという当事者たちにも話が聞きたいところですが……」
「すぐに手配いたします」
「では、連絡はこちらへ。勾留されている誘拐犯をここへ連れてくるワケにはいかないでしょうからね。いつでもどこへでも、馳せ参じますよ」
「……感謝します、先生」
チェックシートを置いて懐から慣れた手つきで名刺を取り出したドクターは、それを楓に手渡す。そして電子カルテに続きを記入し、ヨシ、と膝を叩いた。
「とりあえず今の様子だと、生活に支障が出ることはまず無いでしょう。無理に思い出させたりしようとせず、ひとまずは彼の安心できる環境で様子を見た方が良いと思います。男性に対して安易な投薬は勧められませんが……しばらくして問題があるようでしたら、積極的な治療も考えましょう」
「あの、先生ッ…私は……私は圭人様に会っても大丈夫なのでしょうか……?」
その真っ直ぐな問いに、ドクターは頷いてみせた。
「貴女と彼の関係そのものは良好だったようだし、おそらくは大丈夫でしょう。ただ、問題は忘れられた貴女の方です」
ドクターは、これから残酷なことを告げるために一度言葉を区切った。
「彼に対して貴女との記憶を思い出すように強要することは禁物ですし、これまでと違い、適度な距離感を持って接する必要があります。……近くにいながら他人として過ごす。貴女にその覚悟がありますか?」
その重たい問いかけを受け止めた楓は、ドクターの視線をしっかり受け止めた。
「……覚悟はあります。圭人様と共にいることが、私の全てなのです」
「よろしい。では、万が一なにかあった際にも、その名刺の連絡先へ。……ただ小見山さん、あまり無理をしないようにね」
「はい。ありがとうございました……」
年配のドクターの言葉に楓は立ち上がり、後ろから芳乃に支えられながら深々とお辞儀をした。その頬を、大粒の涙が伝っていた。