引きこもりゴミ屋敷令息の恩返し 〜悪役令嬢を一家ごと引き取りました〜 作:黒猫 かりん
デイジー=デイトナーズは、小さな頃から何かにつまづいたことのない子どもであった。
五大公の一つであるデイトナーズ公爵家の長子として生まれた彼女は、住むところに困ることも、食べるものや着るものに困ることも、教育に困ることもない。
それに加えて、デイジーはとても優秀な子どもであった。
何をやらせてもうまくこなし、うまくできないことは根気よく練習を続け、自分のものにしてしまう。
しかしその事実は、彼女の周りに影を落としていた。
「あら。デイジー様、エレンスキー王国語の勉強をされているのですか?」
「今日の算数は終わったの」
「えっ。昨日より演習の数を増やしたはずですが」
「でも、もう終わりました」
はい、と演算の終わった演習問題の紙を八歳のデイジーが差し出すと、教師は目を丸くしながらその内容を確認している。
貴族の子どもは、十歳になるまで日中を子ども部屋で過ごすこととされている。
通常は貴族の邸宅内に子ども部屋が設置され、そこに毎日親族の子ども達が通いで集まり、勉強をしたり、遊んだりして過ごすのだ。
しかし、デイジーは五大公の家の子どもだ。
そのため、週の半数以上を、自宅の子ども部屋ではなく、王宮の子ども部屋で過ごすことになる。
そして、デイジーは優秀な子ども達が集まる王宮の子ども部屋においても、その頭角を現して
「……全問、正解です」
「よかったです」
「デイジー様、素晴らしいですわ! ほら、クラウス殿下、頑張ってくださいませ。デイジー様はもう終えられてしまったようですよ」
「……」
「先生、そういう言い方はよくないと思います」
「あ、あら。そうね。申し訳ございません、クラウス殿下」
教師の言葉を無視する八歳の第一王子クラウスと、制止する八歳の公爵令嬢デイジーに、教師は青い顔をして謝罪する。
周りの子ども達も白けた顔で教師を見ており、ようやく教師は、クラウスの地雷を踏みぬいたことに気が付いたようだ。
教師がクラウスに対してとりなしの言葉を重ねる様子を見ながら、デイジーは内心ため息をつく。
(本当に、
デイジーはすました顔をしたまま、エレンスキー語の教科書に目を戻す。
この茶色の髪で素朴な顔立ちの女は、デイジーの勉強の進度が良かったことにより、彼女に次の段階の学問を教えるために新しく雇われた教師なのだ。年の頃は、幼いデイジーにはよくわからないけれども、母チェルシーと同じくらいだろうか。
新人教師であるが故に、クラウスとデイジーの、微妙な関係を知らなかったのだろう。
あるいは、内情を聞かされていてなお、失言をしてしまった愚鈍な人間なのか。
王宮の子ども部屋に来るというのは、教師としてのステータスである。なので、もしかしたら、その興奮と慢心が故に、周りが見えていなかったのかもしれない。
そのどれでも構わないけれども、デイジーとしてはただひたすら、これ以上クラウスの機嫌を悪くしてほしくないと思うばかりだった。
(……)
実は、先日からエレンスキー語の勉強を始めたのも、クラウスの機嫌を損ねないためだった。
クラウスと同じ科目だけを勉強していたのでは、その進捗度の差が――デイジーがクラウスを置いて、はるか先の勉強をしていることが、明らかになりすぎてしまう。
だからデイジーは、第二外国語、第三外国語、刺繍や縫物、美術や物理学など、今のクラウスがやらないような科目にも手を伸ばしていた。
それも、王宮の子ども部屋に来ているときは教科書を読むだけにとどめ、発音練習や具体的な実習、実験などは、すべてデイトナーズ公爵家の子ども部屋で学ぶようにしているのだ。
(……いつまで、こんなことが続くんだろう)
最近ふと、我に返ったように、冷静になってしまうときがあるのだ。
よくわからないけれども、胸の奥が乾いて、味気ないような気がしてしまう。
デイジーがそっと目を伏せ、エレンスキー語の教科書を閉じたところで、彼女の服を引く者がいた。
五歳の第二王子クリストファーと、その友人達である。
「デイジーお姉ちゃん、文字カード、やりたい!」
「……うん、いいよ。おいで」
「ありがとう」
もちもちの頬っぺを揺らしながら、五歳児達は笑顔でデイジーの隣に座る。
彼らはデイジーよりも三つも年下なので、気持ちをこじらせることなく、デイジーに教えを乞うてくるのだ。
なので、勉強がはかどるようにと、デイジーが文字カード等の遊戯を取り入れた方法を考案したところ、大いに喜び、何かにつけ彼女になついてくるようになったのである。
「文字文字カード、一枚目、書いてあるのは『APPLE』」
「あっぷる!」
「取った!」
「あー! 負けたぁ」
「殿下、早すぎるの」
デイジーが手元のカード一覧の中から、任意に選んだ文字を読み上げると、五歳児達は机の上にたくさん置かれた単語カードの中から、『APPLE』と書かれたカードを探し出す。
そうして、最初に『APPLE』のカードを手にしたのは、第二王子クリストファーであった。
嬉しそうにしているクリストファーに、デイジーが思わず笑顔になると、クリストファーは緑色の目をぱちぱちと瞬いたあと、なんだか恥ずかしそうに目をさまよわせている。
(クラウスも、こんなふうだったらいいのに)
ある日、デイジーは父ダニエルに尋ねてみた。
「お父様。私本当に、クラウスと結婚するの?」
「嫌なのかい?」
「うん」
ゲホゲホとお茶で咳き込むダニエルに、デイジーはつまらなさそうに息を吐く。
「クラウス殿下はお優しい方だろう?」
「まあ、そうね」
「何が不満なんだね」
「あの人、つまらないの」
再度ゲホゲホとお茶でせき込んだダニエルに、デイジーはやはりつまらなさそうに息を吐く。
デイジーと出会ったばかりの第一王子クラウスは、デイジーに優しかった。
当時六歳であり、国王の長子であった彼は、優秀だ、国の将来は安泰だと誉めそやされて育ち、気持ちに余裕があったのだ。
しかし、デイジーは第一王子の婚約者となってしまったため、週に何度も王宮の子ども部屋に通っていた。
そして、無邪気にデイジーの優秀さを褒める教師達。
子ども相手だと深く考えずに発された彼らの誉め言葉は、いつしか、デイジーの隣に居るクラウスの心を傷つける刃となっていったのだ。
同じ年の婚約者、しかも女であるデイジーが、自分よりも優秀な成績を収めていく。
今まで、誉め言葉を一心に受けていたクラウスからしたら、耐えがたいことであったのだろう。
けれども、それがなんだというのだ。
「なんで私が、ずっと我慢しなきゃいけないの?」
デイジーは、自分が天才ではないと思っていた。
何かを学ぶことは好きだ。知識を得て、色々なことを考え、実際にやってみて、体になじませていく。
その作業を繰り返し、自らの能力を伸ばしていくことは、確かに楽しい。
けれども、何か新しいことを生み出す才能があるわけではない。
習得が早いのは、大変な努力を惜しまないが故のことであって、デイジーが楽をしているからではないのだ。
デイジーだって、努力を素直に周りから褒められたい。
そもそも、物事の習得が人より早いだけのデイジーを、『すごく能力のある人』扱いしないでほしい。
それなのに、いつもいつも、隣に嫉妬にまみれた男が居るだけなのでは、気が休まる暇がないではないか。
デイジーの不満に、父ダニエルは、真っ青な顔をしていた。
そして次の週からしばらく、デイジーは王宮の子ども部屋に通わなくてもよくなった。
その代わり、ダニエルは幼いデイジーに、外の世界を見せてくれた。
宝石を作る職人のところに見学に行き、次の巨匠となるべく力を磨いている幼い徒弟達の姿を見た。
両親の商いを手伝いながら、算数や帳簿のつけ方を学び、次世代の若者達の姿を見た。
大学に通い、知の神髄を極めんと切磋琢磨する学生達の姿を見た。
兵士として訓練に励む兵舎の新人達の姿を見た。
そこに居た面々は、全員が優れた能力を持っていたわけではない。
しかし、技術を競い、日々研鑽を重ねている者達ばかりだった。
もちろん、中には、抜きんでた力を持つ者もいる。
けれども、周囲の者は、彼らの功績を喜んでいた。
「お兄さん達は、一緒に働く兵士さんの中に、すごく強い人がいたら、いやなきもちになったりしないの? いつも訓練している自分よりすごいなんて、許せないって」
ふと、兵舎の食堂で、若い兵士達と一緒に昼食を食べているときに、デイジーは聞いてみたことがある。
デイジーの率直な疑問に、父ダニエルがちらりと兵士達を見ると、彼らはお互いに顔を見合わせた後、思わずと言った様子で笑い始めた。
「お嬢ちゃんは悩みがいっぱいあるんだなあ」
「強い人を見て、嫌な気持ちにかあ。まだ小さいのに貴族って大変なんだな」
げらげら笑いながら、彼らは幼い――当人としては、もう八歳なのだから『幼い』は言いすぎだと思っている――デイジーに答えをくれた。
「俺達はさ、仲間だからな」
ハッとして目を見開いたデイジーに、兵士達の目は優しい。
「ライバルだけど、それだけじゃない」
「国を守る、王都を守る仲間なんだ」
「仲間の中に強い奴が居たら、そりゃさ。個人としては悔しい気持ちもあるよ。けど、そんなのはささいなことだ」
「身内に強い奴が
デイジーにそう告げた兵士達は、周りに「かっこつけすぎだ」「お前はいつも嫉妬まみれだろ」などのヤジを受けながらも、屈託のない笑顔で笑っている。
それを見て、デイジーがポロポロと大粒の涙をこぼしたので、事態は一変、大騒ぎになってしまった。
慌てふためきながらなぜか謝る兵士達、視察に来ていた高貴で小さなご令嬢を兵士達が泣かせてしまったと青ざめるその上司。
ダニエルとデイジーは、兵士達は悪くないのだと慌てて言いつのったけれども、結局兵士達が土下座をする大騒ぎになってしまった。
最終的に、ダニエルはデイジーを先に帰宅させ、謝罪の高級エールを大量に兵舎に差し入れ、飲み会のどんちゃん騒ぎを起こしてすべてをうやむやにして自身も帰宅したらしい。
「いやはや、大変なことだった」
「お父様、ごめんなさい」
「いいんだよ。お前にとって、とてもいい体験になったんだろう?」
晴れやかな笑みを浮かべるデイジーに、ダニエルは満足そうにニコニコと笑ってくれた。
デイジーは、あの兵士達の言葉を聞いて、本当に嬉しかったのだ。
いつもいつも、デイジーの世界は息苦しかった。
けれども、そんなふうに、我慢だけを重ねなくても生きていけるのかもしれない。
父ダニエルが見せてくれた若者達の姿は、暗く塞がっていたデイジーの視界を明るく照らしてくれたのだ。
そんなこんなで、誕生日が過ぎ、九歳になったデイジーに、父ダニエルが唐突にこんなことを言いだした。
「デイジー。来月、隣国エレンスキー王国に行かないか」
「え?」
「エレンスキー王国の王子達が皆、十代でな。国内外の貴族子女を集めて、茶会を開くことにしたらしい」
「ドビアスはまだ三歳だし、参加しないことも考えたのだけれどね。こんなに大きなお茶会も珍しいし、デイジー、あなた最近、エレンスキー王国語がうまくなってきたから、行ってみるのもいいんじゃないかしら」
淡い水色の瞳を期待に輝かせたデイジーに、ダニエルとチェルシーは「決まりね」と参加を決めてくれた。
こうして、デイトナーズ公爵家は、一家でエレンスキー王国に行くことになったのである。
◆
エレンスキー王国の王宮はそれは荘厳なものだった。
デジケイト王国は海に面しており、その王宮も色味を多く使った明るいものだ。
しかし、エレンスキー王国の王宮は、重厚な石造り、壁面にびっしりとほどこされた細工に、線対称になるよう設計された広い庭園の花々の色が映え、そこには、規律を重んじる国民性が垣間見えるようだった。
デイジーは初めて見る他国の王宮に、息が止まるほどの衝撃を受けた。
本を読み、写真を見て、人から聞いて見聞を広めても、実際に見て触れるという体験を上回ることはないのだ。
興奮した様子のデイジーに、父ダニエルも母チェルシーも、隣国の茶会に連れてきてよかったと微笑んでいた。
……茶会が始まるまでは。
「【こんにちは、クラウス殿下。ようこそエレンスキー王国にお越しくださいました】」
隣国で大きなお茶会が開かれる。
そこに、デジケイト王国の第一王子クラウスが呼ばれていないはずがなかったのだ。
「【こんにちは。お招きいただいて、感謝します】」
「【あら! クラウス殿下は、エレンスキー語をお話になられるのですね!】」
「【少しだけです。】……挨拶以外は難しくて」
通訳越しに話すクラウスと、近隣諸国の王侯貴族の子ども達。
デイジーはその場からそろりそろりと離れようとしたけれども、結局無駄な抵抗で終わってしまった。
「【あら。デイジー様には、通訳の方はついていないのですか?】」
ここにいる子ども達は、エリート集団なのだ。利発で目ざとい彼らが、デイジーに通訳が付いていないことに気が付かないわけはなく、デイジーがエレンスキー語を流ちょうに話すことができることはあっという間に知られてしまう。そして、他国に興味津々のエレンスキー王国の子ども達にやいのやいのと質問攻めにされ、なんとかそれぞれの質問に回答し終えたところで、デイジーはふと、自分の背後に嫌な視線を感じた。
視線の主はもちろん、人だかりに囲まれるデイジーの横で、人々から放っておかれているデジケイト王国第一王子クラウスである。
いや、彼は腐っても王子だ。
腐ってもというのは言い過ぎかもしれないが、とにかく王子として育ってきて、それなりの社交術を学んでいる。
だから、その顔にはきちんと笑顔が張り付いていて――しかしデイジーは、久しぶりの彼との邂逅が、さらに二人の関係性を悪化させてしまったことをひしひしと感じていた。
「【わ、私!!!! お花摘みに失礼しますわ!!!!!!】」
勢いよくその場から走り去ったデイジー。
内容が内容なだけに、令息達は追うことができず、鍛え上げた俊足が故に、令嬢達は声をかけることもままならない。
こうして、デイジーは強行突破で、国際的大規模お茶会の会場から逃げ去ったのである。
~✿~✿~✿~
会場から逃げ去ったと言っても、デイジーが親に無断で庭園を出ることは許されていない。
幸いにも、庭園は広く、植物を垣根として使った迷路のような空間もあったので、その中をとぼとぼと歩きながら、デイジーはため息をついた。
(私、何やってるんだろう)
ここ数カ月、クラウスと会わなかったことで、デイジーの世界は開けたように思えていた。
けれども、彼と会ったとたんにこれだ。
一体どうしたらいいのだろう。
(きっと貴族だからダメなんだわ。平民になりたい……)
職人の徒弟達も、兵士達も、父ダニエルが紹介してくれた素敵な人たちは皆、平民だった。
自分達のやっていること、やってきたことに誇りを持ち、技術を敬い、先人や先達を尊敬し、仲間の成長を悔しがりながらも喜んでいる。
そして、今のデイジーには、貴族の間でも、そんなふうな様子を見ることができるとはとても想像できなかった。
だって、デイジーの目に映る、貴族の最たる者が、いつも嫉妬にまみれた様子でデイジーを見ているのだから。
「ここにも、来るんじゃなかったわ……」
両親の前では言えないなと思いながら、デイジーは迷路をあてどなく進んでいく。
そういえば、護衛も何もかもを撒いてここまで走って来てしまったけれども、他国に客として訪問している貴族の令嬢としては危機管理がなってなさ過ぎたかもしれない。
そう思ったところで、ふと、きらきらとまぶしい何かが目に入った気がして、デイジーは顔を上げた。
きらきらと輝く何かに囲まれた、美しい男の子だった。
漆黒の髪に映える白い肌、すっと通った鼻筋に、大きな紫色の瞳は宝石のようで、高貴で装飾の多い淡い灰色の服は、彼が身分ある貴族の令息であることを感じさせる。
細身な体で小さな噴水のふちに座り、周りに七色に輝く何かをいくつか浮かべては動かしているその様は、まるで天使のような繊細さを思わせた。
「【!】」
息を呑んで様子を見守るデイジーに気が付いたらしく、少年はデイジーを見たまま、石像のように固まっている。
デイジーは、瞬時に悟った。
これは、逃がしてはいけない獲物である!
「【何をしているの?】」
暗殺者であっても見逃してしまうような音のない足運びで瞬時に近づいてきたデイジーに、少年はさらに驚いた様子で目を見開いている。
デイジーは少年が動かないのをいいことにすぐさま彼の隣に座り、その腕をガシッと音が出そうな勢いで掴んだので、さすがの彼も「ヒッ」と声を上げた。
「【しっ、静かに! 誰かに見つかってしまうわ】」
「【えっ。いや、でも、その】」
「【見つかったら、きっと連れ戻されちゃう。
「【!!】」
そこから、少年は自分の発明に興味津々のデイジーに喜んでくれたのか、どもりながらも、ぽつりぽつりと、その発明品について説明してくれた。
デイジーが喜んでその発明品をこねくり回していると、彼は気をよくしたようで、さらにいくつかの発明品を服のポケットから取り出してくる。
二人で夢中になって話していると、そこに、デイジーを探していた父ダニエルと母チェルシー、三歳の弟ドビアスがやってきた。お茶会を抜け出したことを怒られるかと思いきや、家族全員で彼の発明品に夢中になり、さんざんこねくり回して褒め倒し、活用方法について議論を交わし、家族と少年の五人で、それはそれは楽しい時間を過ごすこととなったのである。
「あ、もうこんな時間だわ」
日が傾き、夕日になりそうな手前辺りで、シャランシャランとお茶会会場の鐘が鳴り響いた。
終了の合図に、デイジーが残念に思いながら少年を振り返ると、彼は何かに感動しっぱなしで疲弊したような、赤い顔をしている。
「【もう行かなきゃ。ねえ、最後に聞いてもいい?】」
「【えっ。は、はい】」
「【あなたは貴族なのに、どうしてそんなにすごいの?】」
「【私はそんなに、すごくないです……】」
「【そんなことないわ。あなたみたいな素敵な貴族の男の人、見たことないもの】」
「【デイジー、お父さんはお前の視界に入らないのかい!】」
「【あなたみたいな素敵な男の子、私、見たことがないのよ】」
隣国に住んでいて、きっともう会うこともない、技術の粋を極めた男の子。
彼のような人は、デイジーの周りにはいなかった。
けれども、それはもしかして、『デイジーが貴族だから』ではないのだろうか。
平民にならなくても、きっといつか、願いは叶うのではないか――。
デイジーの言葉に、赤面を通り越して感動で爆発しそうな顔をした少年は、悩ましげにその長いまつげを伏せ、目をさまよわせた後、意を決したようにデイジーに答えてくれた。
「【研究が楽しくて、毎日やっているから……毎日続けている、それだけです】」
その言葉に、デイジーは天啓を受けたように体がしびれるのを感じる。
見る間に明るくなる彼女の表情に、少年はよくわからないといった表情をしながらも、「【お役に、立てたのならうれしいです】」とほほ笑んでくれた。
~✿~✿~✿~
こうして、デイジーはエレンスキー王国から帰国した。
もはやデイジーに、迷いはなかった。
だって、やるべきことは見えているのだ。
「……久しぶりだな」
この王宮の子ども部屋に来るのは、実に数カ月ぶりのことだ。
クラウスに会うのは、先週行われたエレンスキー王国でのお茶会ぶりのことではあったが。
久しぶりに子ども部屋にやってきたデイジーに、クラウスは苦虫をかみつぶしたような顔で声をかけてくる。
そして、デイジーの顔を見て、ぎくりとしたような表情で固まった。
けれども、そんなことに構っている場合ではないのだ。
デイジーがにっこにこに笑顔でクラウスに近寄ると、理由はわからないが、クラウスが青い顔で後ずさった。首をかしげたデイジーは、仕方ないとばかりに彼を壁際まで追い込み、ドンと彼の顔の横に手を付く。
そのあまりの重低音に、周りの子ども達が「ひぃっ」と声を上げる中、青ざめるクラウスに向かって、デイジーは笑みを深めた。
「クラウス。私、あなたと話がしたくて、ここに来たの」
「な、なんだよ!」
「――私、あなたを特訓することにする」
ぽかんと口を開けるクラウスに、デイジーはただひたすらほほ笑んでいる。
「クラウス。もうはっきり言わせてもらうけれど、あなたは私よりも成績が悪くて頭の回転が遅くて技術の習得が遅くて体力がなくて足が遅いかもしれないわ……」
「お前は私に喧嘩を売るためにここに来たのか!!!!!」
「だけど、それならその分、鍛錬を繰り返せばいいのよ」
デイジーは、クラウスの出来が悪いのは仕方がないことだと思っていた。
デイジーの物事の習得が早いことも、どうしようもないことだと思っていた。
そして、そのことが原因でこじれていく関係をどうしたらいいのか、皆目見当がつかなかった。
けれども、違うのだ。
クラウスが、努力不足なだけだったのだ!!!
なにしろ、隣国で会った貴族令息と思しき
『毎日続けている、それだけです』と!!!
「嫉妬でつまらない態度を見せるなら、毎日努力を続けて立ち向かってくださいませ」
「お、おま、お前……ッ」
「私は彼と違って天才ではありませんから、努力さえ怠らなければ乗り越えるなんてたやすいことですわ」
「……彼? 彼って誰だ。お前は一応、わ、私の婚約者で」
「そんなことはどうでもいいのです! さあ、開始しますわよ! まずは中庭ランニング一時間です!」
「ちょっ!? ひ、ひきずるな!」
「時間は有限です! さあ、行きますわよ!!!!」
デイジーに引きずられていくクラウスの悲痛な叫びに、子ども達は誰も動かなかった。
聡い彼らは、デイジーが――ひいてはデイトナーズ公爵家が、王族の次に高い地位を持つ上に、一度言い出したら話を聞かない一族だと知っていたのだ。
この日から、デイトナーズ公爵令嬢が、白い歯の光る爽やかな笑顔で、第一王子を圧倒しながら鍛え上げていく日々が開始されたのである。