わたしは施設にいた。
壁も床もあるのは判ったけど色は知らない。
天井は――多分あるのだと思う。
「この苗字はね、ここでつけたの」
ずっと前に、職員さんからそう聞いた。
わたしには苗字がなかった。あったのは、名前だけ――MISHA――ミーシャ。
「ミーシャって、日本じゃあまり聞かない名前ね。」
「髪も、少しくすんでいるけど金色が綺麗」
「顔立ちもねえ。もしかしたら――」
わたしがその言葉に顔を向けると、そこで机の叩く音がした。話が終わった。
「まあ、分からないことを言ってもね……ミーシャちゃんはミーシャちゃんだから」
どこで生まれたのか、お父さんお母さんは誰なのか、誰も知らない。わたしも知らない。
でも施設に来る前、ひとつだけ残っていたものがある。
赤ちゃんだったわたしは、籠に入れられて施設の前に置かれていた。
そこに残された小さな証。わたしの名前がミーシャとなった証。
少し厚い木の板で、角は丸く、表面には細かな傷が何本も走っている。
「破れてないかな」
朝になると、職員さんが首元のそれを指でつまみ、紐を引いて留め具を確かめる。
そう、いまはつるつるしたものに入って首に下げられている。
返してもらうとわたしはすぐに表面を撫でる。もう傷は判らないけど、少し力を入れると柔らかくなって気持ちいい。
丸い角はもうわからない。でも端を折り曲げると、何となく形は感じる。
そのまま親指で四角を一周する、わたしはミーシャ――もう一周する。わたしは――
わたしの名前を知っていたもの。お風呂の前に外されると首が軽くなる。寝る前は小さな布でできた囲いに入れてそばに置く。
施設の子たちは、杖を隠したり、足を引っかけたりしない。
遊んでいる声はいつも少し遠かった。
「鬼ごっこしよう!」
その声はいつも頭の上を通り過ぎる。わたしは壁を背にしてしゃがんでいるからだ。
「ミーシャも来る?」
体を動かす前に職員さんの声が混ざる。
「ミーシャちゃんには、鬼ごっこ危ないからね」
「そっか」
その子の靴音は、ほかの音を追いかけていった。
ボールは嫌い。どこにあるかわからない、転んだこともある。
積み木は好き、いろんな形があって楽しい。でも積み木はあまり一緒に居てくれない。だから大抵ひとり。
積み木をもって座っていると、ぱたぱた、けらけらが聞こえる。遠くで誰かが泣いて、そのすぐ近くで職員さんの慌て声。
わたしは名札を、服の上からつまんだ。柔らかい中、硬い四角が指に当たる。
◆
わたしの中には、本がある。それが本だとなぜだかわかった。
閉じたまま、ずっとそこにある。
どこにあるの、と聞かれたら多分困る。胸の奥でも頭の中でもない、ただある。
五歳になったある夜、なかなか眠れなかった。
話声や足音が、ひとつ、またひとつと消えていく。全て消えても、目を閉じられなかった。
布団の中で名札を握る。固い縁が親指の付け根に食い込むと、少しだけ息がしやすくなった。
――ぱらり。
体を起こし耳を澄ます。音がする。隣の子の息だ。
――ぱらり。
また聞こえた。耳じゃない、胸の内側で、本が開いた。何もないページだ。もう一枚。そう思った。
――ぱらり。
もう一枚。
――ぱらり。
前へ、ぱらり、後ろへ、ぱらり、一枚ずつ、ぱらり。何枚もまとめて、ぱらぱらぱらり。
音のない紙の束が、ぱらぱらと走る。
十枚? 百枚? ううんもっともっとめくっても止まらない。
どれだけめくっても、次も、その次もずっとめくれていく。
「……ないの?」
こぼれた声は、誰にも聞こえない。
最初に戻ってと今度はそう思う。
――ぱらぱらぱらぱら。
すさまじい勢いでページが戻り、ぴたりと一枚目で止まった。
そこにだけ、何かがあった。
文字はほとんど習っていなかった。指で読む紙の凹凸を少し教わったことがある、その程度だったのに、分かった。
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《ライト》
・キャントリップ(回数制限なし準備不要)
・射程:接触
・発動時間:6秒
・構成要素:音声『大いなる御名において命じる。闇を払い、我らの道を照らせ』
物質(燐光コケ、あるいはホタル)秘術焦点具代用可
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知らないはずの言葉が、ずっと前からそこにあったように心の中に収まる。
◆
翌朝、職員さんの服の裾をつまんだ。
「あの」
「ん? どうしたの、ミーシャちゃん」
「りんこうこけが、ほしいです」
返事がなかった。近くのめくっていた紙の音に、笑い声が重なる。
「……りんこう、こけ?」
「はい」
「どこでそんな言葉、覚えたの?」
「本です」
「ミーシャちゃんは。まだ本は読めないでしょ?」
胸の名札を握る。ぎゅっと握る。怒られる。
でも聞こえてきたのは長い息だけだった。
「うーん……燐光コケ、かあ」
職員さんが悩む声に、少し笑いが混じっていた。
「ほら。これでいいのかな」
数日後、小さな容器を渡された。
蓋が開いた途端、湿った土の匂いがした。雨上がりの植え込みへ顔を近づけたときと同じ匂いだ。鼻から深く吸い込む。
「暗いところだと、少し光……」
なぜだか職員さんの声が途切れた。
「これを、光らせます」
「あら。お遊び?」
遊びかどうかわからなかったけど、わたしはこくっと頷いた。
容器を握り直し、息を吸った。長い意味の分からない言葉が最後までできるか不安だった。
「おおいなるみなにおいて、めいじる。やみをはらい、われらのみちをてらせ」
手は動かさない。指も振らないで、触れて、言う。
唱え終わっても掌にあるのは容器の冷たさだけで、何も起きなかったのかと思った。
「……何、これ」
職員さんの声が変わった。前に物をふざけて壊したときと同じような低い声だった。
「光ってますか?」
隣で椅子の脚が床を擦り、誰かが息を吸った。紙の落ちる音もした。
容器を持つ指先だけが、だんだん冷たくなっていく。
「ええ、容器が光ってる」
ようやく声が返った。別の人が、何か呟いた。
「魔法協会の……連絡方法判る?」
容器を抱える手に力が入った。
「できた」
笑い声は返ってこなかった。
◆
――次の日。
「もう一度できる?」
「はい」
「同じ手順でね」
「はい」
容器へ触れて、唱える。
すると、すぐに頭の上で声が飛び交った。
昼間は知らない場所。
施設にはない匂い。鼻の奥へ刺さる臭い、どこか焦げたような臭い。離れたところで、絶えず低く唸る音。
椅子は硬い、机は冷たい触りたくない。
「古式魔法か?」
「断定するな。BS魔法師の可能性もある。過去記録と照合」
「エイドス側からの反作用が取れない?」
「微量すぎるのか。再計測」
「大型機器を入れますか」
「そうしてくれ」
職員さんはいない。走るみんなの声も、ボールの音も聞こえない。
ぶうん、ぶうん、という音だけが鳴っていた。
――次の日。
「起動式は?」
「検出されていません」
「古式の祝詞、BS魔法のデータ照合は」
「該当なし」
「魔法式は?」
会話が途切れた。ぶうん、ぶうん。
「……計測できません」
ばん、と机が鳴った。
肩が跳ね、背中が椅子から浮く。
「待て。では何がエイドスを改変した?」
「結果だけ見れば事象は変わっています」
――次の日。
燐光コケを減らす、増やす、遠ざける、近づける、触れてやる、触れずにやる。言葉を止める。途中から言う。
言われるまま、ひとつずつ試した。
うまくいけば声が増える、うまくいかなくても声が増える。
「再現性あり」
「術者固有か?」
「触媒依存性を切り分けろ」
「魔法演算領域は?」
「通常範囲です」
「なら、もう一段階負荷を――」
手を胸元へ伸ばし、名札を握った。
最初に、これだけはだめと頼んだ。邪魔にならないなら、と言われて、つけたままでいることを許された。
いつも通り四角を一周する――ミーシャ。もう一周――ミーシャ。
「もう一度できる?」
いやですと言ったら、どうなるのだろう。
誰も叩かない。怒鳴りもしない。怖い声じゃない。怒鳴らない。
言えなかった。
「はい」
「触媒量、増やせます」
「生体値は?」
「範囲内」
「では次を」
声はいつも、わたしの頭の上を飛び越えていった。誰もわたしが座っているこっちに向けて喋っていない。
――次の日。
その日は、いつもより音が多かった。
「今度は出力を上げられないか試そう」
「本人に出力調整の概念があるとは思えません」
「なら触媒量を増やす。もう一度だ」
「しかし、先ほどから被験者の心拍が――」
『ひけんしゃ』その音だけが耳に残った。
誰のことだろう、と一瞬思った。次の瞬間、名札を握る指に力が入った。
――わたしだ。
施設のベッド。晴れた日の窓ぎわ。手を置けばぬるくなっていた床と、遠くから誰かの笑い声が聞こえてくる午後。
あそこなら、誰もわたしを見ていなくてもよかった。
「いや、今すぐ触媒を――」
「そこまでだ」
◆
ぶうん。ぶうん。
「彼女に対する研究の権利、その所在を変更する。すでに上とは話を通してある」
「しかし、いきなり軍が――」
「決定事項だ」
誰も続けなかったけど、やがて、いくつもあった音の中から、ひとつだけがこっちにきた。
こつ。こつ。こつ。
わたしの前で止まる。
大勢に囲まれたときの音ではなかった。ひとりだけが、真正面に立っている。
「ミーシャ」
あ、やっと名前だ。ずっと頭の上を通り過ぎていた声が、初めてこっちに降りてきた。
「はい」
「風間玄信だ」
低い声だった。
「かざま……はるのぶ、さん?」
「ああ」
それきり、黙った。
すぐ近くにいるのに、急かすような息遣いがしない。わたしが次に何か言うまで待っているようだった。
「……君の父になる予定だ」
施設の玄関では、ときどき子どもが「お父さん!」と叫んでいた。すると駆けていく足音がして、大きな体へぶつかるような音がする。それから靴を履き、扉が開いて、閉まる。
その音の向こうへ行く子を、何度も聞いていた。
「……わたしの?」
「ああ。そうだ」
口は開いたけれど、何を言えばいいのか分からない。
男――はるのぶさんは、そこで問い詰めてはこなかった。
「腹は空いていないか?」
腹は――ぐう。
小さな音が、自分のお腹から鳴って、首の後ろまで熱くなる。
「……すこし」
ふっ、と短い音がした。笑ったのかも。
「そうか。なら、まず食事にしよう」
服の袖が動き、手が近づいてくる気配がしたけど、途中で止まる。
「手を取ってもいいか?」
右手は名札を押さえたまま、左手だけをゆっくり前へ出す。何もない空気を指先で探った。
「……はい」
大きな掌が、下からそっと触れた。
熱が、指先から移ってくる、目の横が濡れた気がした。