「風紀委員長、渡辺摩利だ。学校内での魔法による攻撃行為は、校則違反なのは理解しているな?」
風紀委員長――渡辺摩利先輩の声が落ちると、森崎たちの背筋が目に見えて伸びた。
レオとエリカも、さすがにこの場で茶々を入れる気にはならなかったらしい。
本来なら、それで話は締まったはずだった。
問題は、森崎たちの腕に、泥でできた小鬼が八体ほどぶら下がったままだということだ。
五十センチほどの人型で、背中には蝙蝠じみた羽。短い脚を所在なさげにぶらつかせながら、手首や前腕にしっかりしがみついている。
一匹など、渡辺先輩の声が自分に向けられたものだとでも思ったのか、きょとんと首を傾げていた。
さすがの渡辺先輩も、あれを背景に威圧感を維持するのは難しいらしい。
七草会長の口元まで、ほんの少し緩んでいる。
そして一科生は、小鬼を振り払うタイミングを完全に逸していた。
このまま黙っていると、森崎たちが先に何か余計なことを言うか、あるいはミーシャがもっと余計なことを言う。
どちらに転んでも面倒になる未来しか見えなかったので、俺は仕方なく一歩前へ出た。
「すみません。少し、悪ふざけが過ぎました」
「……悪ふざけ?」
渡辺先輩の声が一段低くなる。
言った瞬間、自分でも無理があると思った。
悪ふざけで済む光景かと言われれば、かなり怪しい。
森崎たちはCADを抜いていたし、ほのかも魔法を発動しかけていた。
あろうことか、泥でできた正体不明の小鬼が八体も校庭にいる。
これを「ちょっとふざけました」で片づけるのは、さすがに説明として雑だ。
それでも、他に穏当な言い方が思いつかなかった。
――いや、小鬼はある意味悪ふざけの分類に収まるかもしれない。
「森崎一門のクイック・ドロウは有名ですから。一度見せてほしいと頼んだんです。
それが、あまりにも真に迫ったおかげで、少し集団模擬戦の形になってしまいました」
横で森崎が息を吸う気配がした。
抗議するつもりだろう。実際、森崎の立場からすればこちらの説明には言いたいことがいくらでもあるはずだ。
だが、その声が出るより先に、渡辺先輩の視線が光井ほのかへ移った。
「では、そっちの一科生の女子が攻撃性の魔法を発動しようとしていた理由は?」
「驚いたのでしょう。とっさに起動式を展開できるとはさすが一科生です」
「驚いたからって、攻撃魔法を使用してよい理由にはならないな」
「光波振動系のフラッシュです。目を眩ませるためのもので、直接攻撃する術式ではありません。
威力も視覚障害を起こすほどではないですね」
答えた途端、それまで状況全体を見ていた渡辺先輩の注意が、明確にこちらへ絞られた。
数秒、何も言わずに見られる。
「ほう」
その渡辺先輩の返しには、あからさまに冷笑が消え、代わりに感嘆が滲んでいた――嫌な間だった。
「どうやら君は、展開された起動式を読み取っただけで、そこまで分かったと言いたいらしいな?」
やはり、そこに引っかかったか。
起動式は魔法そのものではない。魔法式を構築するための情報を圧縮してまとめたものだ。
それが展開される一瞬を見ただけで、どの系統の、どんな効果を狙った魔法なのかまで読むとなると、普通なら数字の羅列を一瞥して、その計算結果どころか完成後の図形まで言い当てるような話になる。
説明すればするほど怪しくなるので、俺は肩を竦める程度に留めた。
「実技は不得意ですが、分析は得意ですので」
「……誤魔化す方も得意そうだな」
間髪入れずに返された――値踏みされているな。
「誤魔化しているつもりはありません。俺はただの二科生です」
少なくとも、第一高校の制度上はそこに嘘はない。
渡辺先輩は何も言わず、俺の顔をしばらく眺めていた。どこまで信じたのか、あるいは一つも信じていないのかは分からない。
やがて追及しても埒が明かないと判断したのか、視線を森崎たちへ戻す。
正確には、森崎たち本人ではなく、その腕にしがみついている連中へ。
「では――これは何だ?」
全員の視線が、一斉に泥の小鬼へ集まった。
ちょうど一匹が羽をぱたつかせる。
「泥の生き物……っすよね」
レオが腕を組みながら言った。
美月は困ったように、小鬼を頭から足まで見回している。
「人の形はしていますけど……小悪魔、みたいな」
「少なくとも、普通の現代魔法には見えないわね」
エリカまでそう口にしたところで、それまで妙に静かだったミーシャが前へ出た。
「会長」
「はい?」
七草会長が顔を向ける。
ミーシャは珍しく背筋を伸ばしていた。態度だけ見れば、これから真面目に反省を述べるようにも見える。
だからこそ、嫌な予感がした。
「自分、昨日言ったっスよね。まだ何もやらかしてないって」
「そうね、言っていたわね」
「一日持たなかったっス」
そこでミーシャは一度息を吸い、妙に神妙な顔をした。
「やらかしたっス」
誰も返事をしなかった。
校庭の端で、小鬼の羽がぱたぱた鳴る。その場にいる全員が、次に何を言い出すのか警戒しているように見えた。
「会長の顔に泥を塗るつもりはなかったっス」
嫌な予感が、確信に変わったが、止めようとした時にはもう遅い――すでにこの場は静まり返っていた。
一科生も。二科生も。生徒会長も。渡辺先輩も。誰もが言葉を発せないでいた。
そこでミーシャが、ぽんと手を叩く。
「もしかして駄洒落が通じてなかったっスか?」
「違うから!」
エリカが即座に突っ込むが、ミーシャは止まらなかった。
「つまり、こいつらは泥の小悪魔っス。つまり『顔に泥を塗る』という慣用句と『泥の小悪魔』を掛けて――」
「やめてくれ!」
渡辺先輩の声がミーシャの言葉を遮る。
ついさっきまで校則違反を厳しく追及していた人とは思えないほど顔が赤い。
「滑った駄洒落を……そこまで丁寧に説明するな。聞いている側が耐えられない」
「最後まで説明すれば、伝わるかなと思ったっス」
「伝わっている!」
声が裏返った。
「伝わっているからつらいんだ!」
その瞬間、とうとう七草会長の肩が震え始めた。
「ふっ……ご、ごめんなさい、摩利」
片手で口元を隠しているが、まったく隠しきれていない。むしろ笑いを堪えようとしているせいで余計に目立っていた。
「あなたが下級生相手にそこまでペースを乱されるところ、初めて見たものだから」
「笑うな、真由美」
「流石にこれは無理……」
渡辺先輩はしばらく目を閉じたまま黙っていた。
校内の規律を守る風紀委員長という肩書きと、泥の小鬼と、説明される駄洒落。
その三つを頭の中でどう折り合わせればいいのか考えているようにも見える。
やがて額から手を下ろすと、疲れた目でミーシャを見て――長い息が漏れる。
「……とりあえず。小鬼を戻せ」
「ウィっス。集中切るだけなんで、余裕っス」
集中を切る――また知らない概念をさらりと口にしながら、ミーシャはそれだけ答えると、肩の力を抜いた。
次の瞬間、森崎たちの腕にまとわりついていた八体の小鬼が消えた。
崩れたのではない。泥が地面へ落ちたわけでも、霧のように散ったわけでもない。
そこに存在していたものだけが、映像を一部分だけ切り取ったようにすっぱり抜け落ちた。
俺は反射的に、周囲の事象情報体へ意識を走らせる。
――ない。
泥が別の場所へ移動した痕跡も、構成していた物質が分解された形跡も拾えない。
ついさっきまで、あの小鬼たちは確かに八体存在していた。
少なくとも見た目だけの幻影ではなかったし、それぞれが森崎たちの腕へ独立して干渉していた以上、一個一個が別々の事象として成立していたはずだ。
それが今は、その痕跡すらほとんど残っていない。
乱暴だが、『消滅』そう呼ぶしかない消え方だった。
「今のは……」
渡辺先輩の声から、さっきまでの疲れた調子が消えていた。
「どんな魔法式だ?」
「古式魔法っス」
ミーシャは、こちらの困惑など気にも留めていないような調子で答える。
「魔法式は売り切れっス」
何を言っているのかは分からない。当然、誰も言葉を返せなかった。
だが、その内容は笑って流せるようなものでもない。何でも軽口で塗り潰せばいいというものではなかった。
妙な沈黙が降りたところで、ミーシャがこちらを向いた。
「自分も、達也と同じただの二科生っス」
さっき俺が言った台詞を真似たらしい。
俺が何も返さずにいると、本人は少し考えてから付け足した。
「ただし無料じゃなくて、グラム五十三円くらいにはなりたいっス」
「人間を量り売りするな」
やられた――ほとんど反射で口から出た。
「じゃあ高級品目指すっス」
「値段の問題じゃないでしょ」
今度はエリカだった。
レオが耐えきれずに噴き出し、美月は笑っていいのか迷っているように視線を泳がせる。
森崎の取り巻きである一科生たちの中にさえ、緊張を解いている者が何人かいた。
ほんの数秒前まで張り詰めていた空気が、馬鹿馬鹿しいほど簡単に緩んでしまった。
そして、その隙を逃さなかったのが七草会長だった。
「ねえ、摩利」
「何だ」
渡辺先輩の返事には、すでに若干の疲れが戻っている。
「校内での魔法による攻撃行為って、使った術式の種類や規模で処分が変わるのよね?」
渡辺先輩が七草会長を見る。
少し間があった。
「……ああ」
「じゃあ、風間さんのあれは何に分類されるのかしら」
その質問を聞いた瞬間、渡辺先輩は露骨に嫌そうな顔をした。
おそらく、何を狙っているのか気づいたのだろう。それでも風紀委員長として聞かれた以上、答えないわけにはいかない。
「泥でできた妙な生物が、CADを操作しようとしていた腕にまとわりついた」
「怪我は?」
「ない」
「制服の破損は?」
「ない」
「汚れは?」
「ない」
「じゃあ攻撃魔法?」
七草会長は急かさず、そのまま待った。
しばらくして、渡辺先輩が眉間を押さえる。
「……少なくとも、既存の攻撃魔法に、そのまま当てはめるのは難しい」
「そう」
七草会長は、そこで勝ち誇るような態度を取ることも、それ以上追及することもしなかった。
「CADを使おうとした手を止めただけ。結果として、誰も怪我をしていない」
「理屈の上ではな」
「理屈は大事でしょう?」
二人のやり取りを聞きながら、俺はさっきまで小鬼がいた場所を見ていた。
――召喚。
そんな言葉が一瞬、頭に浮かんだ。
古式魔法には現代魔法の分類だけでは説明しきれない技法が存在する。だから、その単語自体があり得ないわけではない。
それでも、あまりに説明が雑だった。
もし本当に、あれが何らかの方法で別の場所から呼び出された存在だったのなら、消えた後に何も残らないことにも一応の筋は通る。
だが――そうだとすれば、今度は「あれが元々どこにいたのか」という別の問題が出てくる。
「それにしても」
七草会長の声で、思考を中断する。
「変わった古式魔法ね。さっきの子たち、通常生物程度のサイオン反応しか感じなかったもの」
やはり気づいていたか。
そこに深雪が、俺の横に並び口を開く。
「兄の申したとおり。本当に、ちょっとした行き違いだったのです。
先輩方のお手を煩わせてしまい申し訳ありませんでした」
微塵の小細工もない、真正面からの丁寧なお辞儀だ。見ると渡辺先輩の表情から毒気が抜けていく。
こういうことの収め方では、深雪に軍配が上がる。
「摩利、もういいじゃない。達也君、本当にただの見学だったのよね?」
いつの間にか名前で呼ばれていることに少々抗議したいが、やっと生徒会長が助け舟を出そうとしているのに無碍にはできない。
「真由美。少し甘くないか?」
「甘いわよ」
渡辺先輩の問いに、七草会長は即答した。
七草会長はそれまで浮かべていた笑みを消すと、その場にいる全員を一人ずつ見るように、ゆっくり視線を巡らせた。
「だから、生徒会長としてここで宣言します」
ここから先は、生徒会長の権限に属する領域だ。当然、誰も口を挟まない。
「今日は初めての授業だった。皆、少し浮き足立っていた。達也君のいう通り悪ふざけが過ぎて、大掛かりな魔法実演となってしまった」
エリカがわずかに視線を逸らし、レオは気まずそうに鼻の頭を掻いた。
七草会長は、それを咎めるでもなく続ける。
「今回は、それで終わりにします。でも、明日からはなし。
校内でCADを抜いて相手を威嚇しない。許可なく魔法を発動しようとしない。喧嘩を売らない。買わない」
最初は悪ふざけで、今度は喧嘩。表向きの説明と実際の出来事を、上手く切り分けている。
そして少しだけ間を置いた。
「全員、厳重注意。今回だけです」
誰か一人を悪者にするつもりはないらしい。
森崎には森崎の言い分があるだろうし、エリカにも、レオにもある。
ミーシャにだって言いたいことはある――できれば、あまり言わせたくはないが。
それらを一つ一つ拾い上げ、誰がより悪かったのかを決め始めれば、話はこじれるだけだ。
だから、一科も二科も関係なく、まとめて同じ線の内側へ押し戻す。
甘い処置なのは本人も分かっている。
その上で、ここで終わらせることを選んだ。
渡辺先輩はしばらく七草会長を見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「分かった。そこまで言うのなら、私も杓子定規に規律を当てはめるつもりはない。だが今回だけだ」
「当然、生徒会長として宣言したんだもの。それを反故にする子たちは……ね」
生徒会長の笑顔の奥からほんの一瞬だけ刃が見える。
渡辺先輩はこちらへ向き直り、形式ばった言葉づかいで審判を下す。
声には、先ほどまでとは違う種類の厳しさが戻っていた。
「会長がこう仰せられていることでもあるし、今回は正式な処分には付さず、口頭での厳重注意にとどめます。以後、このようなことの無いように」
その裁定に全員が慌てて姿勢を正し、一斉に頭を下げる。
これでこの件は終了となるはずだが、風紀委員長はさらにつけ加える。
「ただし、次はない。風紀委員の目を甘く見るな。古式魔法だろうが、未知の術式だろうが、校則の外には出られない」
その視線が、最後にミーシャで止まった。
「特に風間」
「ウィっス」
「止めようとした意図は分かる。結果として怪我人もいなかった」
そこで渡辺先輩は一度言葉を切り、念を押すように続ける。
「次からは、もっと穏当な方法を選べ」
「ウィっス」
返事は速いが、軽い。
そして、渡辺先輩の視線がそのまま俺に向く。その目には、隠そうともしない興味が浮かんでいた。
「君の名は?」
「一年E組、司波達也です」
「覚えておこう」
覚えられても困るのだがという言葉がのどまで出かかった。
その横で、七草会長から小さな笑い声が漏れる。
「まあ、今回は風間さんに貸し一つ、ということで」
ミーシャの動きがぴたりと止まった。
「……貸しっスか?」
「ええ」
さすがは十師族の令嬢、といったところか。品のある、よく似合った笑顔だった。
ミーシャは数秒その顔を見つめたあと、ゆっくりこちらへ首を回した。
「やっぱり、この会長やり手っス」
「俺に言うな」
そのミーシャの言葉に合わせるように、生徒会長は得意げな笑みを俺に向けた。
俺は今日ここに至るまでの流れを、頭の中で簡単に巻き戻す。
森崎のクイック・ドロウは、俺が頼んで見せてもらっていただけ。
迫力があり、集団模擬戦になってしまった。
七草会長は、その説明を追及しなかった。
それどころか拾い上げて、都合のいい部分をつなぎ直し、最後には「全員まとめて厳重注意」という形に収めてしまった。
――風間さんだけじゃないわよ。
もちろん、そんな声は聞こえていない。
聞こえていないはずなのに、そう言われた気がした。
もう一度、七草会長を見ると、目元が、ほんの少しだけ細くなっていた。
次の瞬間、彼女はすでに、こちらを見ていなかった。
役員が去った後、森崎は俺に棘のある視線を向けていた。
「……借りだなんて思わないからな。僕の名前は森崎駿。お前が見抜いた通り、森崎の本家に連なる者だ。俺はお前を認めないぞ司波達也」
そう捨て台詞を吐くと、森崎は一科生を連れて校門から出ていこうとする。
「いきなりフルネームで呼び捨てか」
その尊大な物言いに少々辟易した俺は、独り言を装いながらも、森崎にはっきりと聞こえる声で言い返した。
その言葉に、森崎の肩がびくりと震える。
それでも振り返ることなく、そのまま立ち去ったのは、ある種の意地が働いたからだろう。
一方、隣にいたミーシャは、そんなやり取りなどまるで気にした様子もなく、俺にしか聞こえないほどの小さな声でぽつりと呟いた。
「グラム53円なら、自分202万9900円っス。それなら返せそうっスね」
俺は答えなかった。