家へ着いた頃には、窓の外から昼の白さがほとんど消えていた。
制服を着替えてリビングへ戻ると、深雪が先にコーヒーを用意していた。
テーブルの上には二つのカップが並び、立ち上った湯気が空調の流れに押されてゆっくり形を崩している。
いつもと変わらない光景だったが、俺の頭の中には朝から見たものがまだ雑然と残っていて、ソファへ腰を下ろしてもすぐにはカップへ手が伸びなかった。
九重寺で裂けた稽古着が直ったこと。昼休み、存在しないはずの音を聞かされたこと。
校門前に現れた泥の小鬼と、空中からこちらを見下ろしていた翼のある三毛猫。
今日だけで、ずいぶん見せられた――いや見せつけられた。
「深雪」
「はい、お兄様」
「ミーシャの魔法について、少し分かった」
向かいに座っていた深雪がこちらを向いた。
「本当ですか?」
「ああ。ただ、分かったという言い方は正確じゃないな。今までとは考え方を変えた方がいい、という程度だ」
それだけ言って、ようやくカップを持ち上げる。黒い液体はまだ熱かった。
朝からずっと、俺はミーシャの使うものを魔法か、それに近い何かとして理解しようとしていた。
知らない魔法式であっても、事象へ干渉して結果を生む以上、どこかに読み取れる構造があるはずだと思っていたし、古式魔法のように経路が違うだけなら、それはそれで痕跡くらい残るものだと考えていた。
――だが、何度見ても出てこない。
「九重寺で使った《メンディング》を覚えているな」
「もちろんです。裂けていた稽古着を直した魔法ですね」
「あれを見た時、俺は最初《再成》に近い現象だと思った。結果だけ見れば似ているからな」
裂けた布。二つの磁石。長い詠唱。それから、傷そのものが最初からなかったように戻った稽古着。
俺の《再成》で同じことをするなら、まず過去のエイドスから正常だった状態を読み取り、それを現在の対象へ複写する。
そこには情報を読み取る過程があり、現在の事象を書き換える工程があり、そのどちらも俺には見える。
ミーシャの術には、それがなかった。
「切れた繊維を繋ぎ直した形跡もない。別の繊維で補ったわけでもないし、過去の状態を現在へ上書きしたようにも見えなかった。それなのに、稽古着だけは直っている」
「結果だけが残ったのですね」
「そうだ」
口に出してしまえば簡単な話だが、そこが一番面倒だった。
何をしたのか分からないのではない。
俺の目には、何かをしたはずの過程だけが抜け落ちている。
昼休みの《マイナー・イリュージョン》もそうだった。
空気を振動させた様子はなく、音を発生させる媒体もないにもかかわらず、あの場にいた人間には確かに声が聞こえた。
聞こえたという事実はあるのに、音が届くまでの現象だけが見当たらない。
「昼休みの時点では、俺にすら見えない魔法式があるんじゃないかと考えていた」
古式魔法なら、現代魔法とは違う手順で事象へ作用するものもある。俺が知らない技術体系なら、単純に知識が足りないだけという可能性もあった。
その可能性自体は今でも完全には捨てていない。
ただ、そこにこだわると、校門前で見たものがどうにも説明できなくなる。
「魔法式を探すところから間違っている――という仮説を差し込んでみた」
深雪はすぐには何も言わなかった。カップの持ち手へ置いていた指だけをゆっくり外し、そのまま膝の上へ戻している。
「魔法式が存在しない、ということでしょうか?」
「そこまでは言えない。俺が認識できないだけかもしれないし、『魔法式』という言葉を当てはめること自体が間違っているのかもしれない。そこはまだ未知の領域だ。
少なくとも、俺が今まで知っていた魔法と同じ順序では動いていない」
思考の転換点は、校門前で森崎たちの腕にしがみついていた泥の小鬼だった。
「校門前のあれがわかりやすい」
「泥の小鬼さんたちですか?」
「ああ。森崎の指を途中で掴み直した一体がいただろう」
深雪は少し間を置いてから、「いましたね」と答えた。
「あれをミーシャが一動作ずつ操作していたとは考えにくい。
本人が命じたのは、CADを封じることと、相手を傷つけないことだけだ。
誰のどの腕へ行けとも、ずれたら掴み直せとも、余計な真似をしろとも指示していなかった」
「余計な真似、ですか?」
「舌を出す必要はないだろう」
そこで思い出したらしく、深雪の口元が緩んだ。
ミーシャの簡単な指示だけで、泥の人形たちはそれぞれ別の人間を選び、CADを持つ手に取り付いた。
相手が腕を動かせば追いかけ、掴んだ位置がずれれば自分で持ち直す。
それどころか、レオに顔を覗き込まれた一匹は、舌まで出してみせた。
現代魔法で同じ挙動を再現するなら、魔法式も変数も馬鹿げた規模になるだろう。
それでも、そこまでは理論上まだ考えられる。
問題は、その膨大な処理の中へ、わざわざ「レオに舌を出す」などという挙動を組み込む理由がないことだった。
「だから、あれは泥を生き物のように動かす魔法じゃなくて、本当にそういう生き物を呼んだ、と仮定した方が無理が少ない」
深雪はカップへ伸ばしかけた手を止めた。
「……異界から、ですか?」
「ミーシャはそう唱えていたからな」
――遠き元素界の沼より――
もちろん、詠唱の文言をそのまま事実として扱うつもりはない。元素界なるものが実在するとも、今日の観測だけで認めるつもりはない。
だが、存在しないと断じる材料もない。
昨日までの俺なら、少なくともその部分は切り捨てていただろう。
「お兄様がそのようなことを仰ると、本当に異世界がありそうに聞こえてしまいます」
「俺も言っていて困っている」
ほんの少し肩をすくめると、深雪が声を立てずに笑った。
そのまましばらくカップへ口をつけていたが、やがて俺の視線に気づいたのか、少し首を傾げる。
残っているのは、もう一匹だ。
「あの猫も同じだろうな」
「シャシュティさんですね」
「猫かどうかは怪しいが」
「猫さんです」
即答だった。
蝙蝠のような羽が生えて空を飛び、人間の言葉を理解しているような反応を見せ、挙げ句の果てには「ふむ」と声まで出したものを猫に含めていいのか。生物学的にはかなり疑問が残る。
ただ、ここで議論しても深雪は譲らないだろう。
「最初は使い魔型の想念体だと思った。古式魔法なら、術者の感覚器官として働かせるものは珍しくないし、ミーシャもマブダチの視界を借りていたと言っていた、そこまでは説明できる」
「私もそう見えました」
「だが、想念体として組み上げられた形跡も、外部から細かく操作されている様子も見えなかった。あれも最初から存在する何かを呼び出した、と考えた方が今のところは自然だ」
「では、シャシュティさんも異界から?」
「分からない」
そこは答えようがない。
異界と呼んでいる場所が本当に別世界なのか、想子情報体だけが存在する領域なのか、あるいは単にミーシャたちの術体系でそう呼んでいるだけなのか。判断材料が足りない。
ただ、目の前で起きた現象だけを並べれば、共通点は見えてくる。
どれも、結果は確認できる、途中だけがない。
「たぶん、俺は順番を逆に考えていた」
「順番、ですか?」
「普通の魔法なら、結果を得るために先に事象を書き換える。
このカップを向こう側へ移したいなら、加速、移動、減速、停止の各工程に対応する魔法式を組み、エイドスを書き換える。その結果として、現実のカップが動く」
指先でカップの縁を軽く押すと、底がテーブルを擦って数センチ移動した。
「幻想術では、現実に結果が現れるまでの間に、俺が知っている事象改変の過程を確認できない。だから、逆に考えてみた。先に結果だけが成立して、その状態がエイドスへ反映されているのではないか、と」
深雪はすぐには答えなかった。
窓の外はもうかなり暗くなっていた。室内の照明がガラスへ薄く映り、そこへ俺と深雪の姿も重なっている。
ややあって、深雪が眉を寄せた。
「原因より先に結果が存在する、ということでしょうか」
「そう見える、というだけだ。本当にそうなのかは分からない。俺に認識できないだけの過程があるなら、この仮説は全部ひっくり返る」
「では、まだ仮説なのですね」
「ああ。今までよりは考えやすくなった。それだけだ」
そこは明確にしておく必要がある。
分からないものを、分からないという理由だけで新しい理論へ押し込めても意味がない。
たとえ仮説として定めておくだけでも、理解の足掛かりにはなる。
結局のところ、これ以上進めるなら本人の証言を聞くしかなかった。
「次はミーシャの発言や行動から、条件をもう少し詳しく蓄積する必要があるな。
詠唱が必須なのか、触媒は何が必要なのか、同じ術を何度使えるのか――あとは本人がどこまで仕組みを理解しているか」
「教えてくださるでしょうか」
「聞けば答えると思う」
むしろ余計なことまで答える可能性の方が高い。
朝も一つ質問をするたびに、強度だの回数制限だの儀式化だの贅沢モードだの、こちらが尋ねていない単語まで増えた。
本人にとって当たり前の部分と、こちらが知りたい部分がほとんど噛み合っていない。
むしろ、そんなことよりも女子力の方が大事だと言わんばかりの思考には、苦笑するしかない。
深雪も朝のやり取りを思い出したのか、カップの縁へ隠すように口元を寄せた。
「それにしても、そう聞いていると……本当に物語に出てくる魔法のようですね」
「物語?」
「ええ。長い呪文を唱えて、不思議な材料を使って、使い魔まで連れているのでしょう? それに異世界から小さな魔物を呼び出して、壊れた物は呪文一つで直してしまう」
言われてみれば、その通りだった。
現代魔法として一つずつ調べれば意味不明なものばかりなのに、昔話や創作の中へ置けば、どれも説明すら要らない。
どうやって壊れた物が直ったのかも、どうやって魔物を呼んだのかも、どうして猫に翼があるのも、物語なら『魔法だから』で済む。
「……幻想術」
口に出すと、深雪がこちらを見た。
「少佐がそう名付けたと、ミーシャが言っていた」
入学式の日、中庭で聞いた話だ。
その時は既存の分類に収まらない固有魔法へ、とりあえず与えられた名前だと思っていた。
「幻想……ファンタジー、ということですか?」
「そう考えると、妙に収まりがいい」
現代魔法の理論へ押し込もうとすると、見えないものが多すぎる。
古式魔法の一種と考えても、やはり何かが足りない。
それなのに、物語の中の魔法として見ると、急に見慣れたものになる。
深雪はしばらく考えていたようだが、やがて「でしたら」と声を少し弾ませた。
「ミーシャには、魔女の帽子が似合いそうですね」
「黒いローブも必要だな」
「杖はもうお持ちですし」
確かに持っている。
しかも本人なら、嫌がるどころか妙な方向に乗ってくる姿しか想像できない。
『ウィっス。魔女ジョブ解放っス。あぶらかたぶらっス』
頭の中で、ほとんど本人そのままの声が再生された。
本当にやりそうだ――いや、振られたら絶対にやる。
しかも、妙なシャドーまで入れてくるだろう。
「とりあえず、次からは観察の仕方を変えることにする」
「どのようにですか?」
「最初から途中を読もうとしない」
何を唱え、何を持ち、何が起きた、そしてどれくらい続き何回使えるか。
まず、その事実だけを記録する。
魔法式がどこにあるのか、どの系統へ干渉したのか、どんな処理で実現したのか。
そういう疑問を先に持ち込むから、見えているものまで歪めることになる。
材料を集めてから、あとで共通点を探せばいい――見つからなければ、その時はまた考える。
「お兄様が解析を諦めるなんて、少し意外です」
「諦めてはいない。入口を変えるだけだ」
深雪はそれ以上何も言わず、コーヒーを一口飲んだ。
俺もカップへ手を伸ばしかけ――そこで、別のことが頭に引っかかった。
泥――八体のメフィット――森崎たちの手――いや、小鬼を再現する必要はない。
目的だけを切り離せば話は変わる、傷つけずに行動を阻害するなら、泥の生き物である必要は全くない。
手ではなく足――移動阻害と泥――相性が良い。
「……泥か」
「はい?」
「泥は使えるな」
深雪がカップを下ろした。
「何のお話ですか?」
「さっきのメフィットだ。あれ自体は真似できないが、拘束という結果だけなら別の手段で作れる」
頭の中で戦術が一気に広がっていく。泥をどのように戦術に組み込み、いかに戦場を支配するか。
次々と可能性が浮かび上がり、頭の中では幾通りもの戦闘シミュレーションが同時に展開されていく。
「地面の支持力を局所的に落とす。
対象の足元だけを泥濘化し、踏み込んだ瞬間に沈ませる。
脛までなら移動速度を落とせる。膝まで入ればまともな踏み込みは難しい。
直接人体へ干渉しないから、魔法抵抗の影響も比較的受けにくい」
そこまで考えたところで、すでに魔法式の骨組みが組み上がり始めていた。
「液状化を起こすだけなら、地面を単純に泥へ変える必要はない。
水を十分に含んだ緩い砂質土なら、粒子の隙間にある水の圧力――間隙水圧を高め、粒子同士が支えている力を一時的に失わせればいい。
通常なら振動を繰り返して起こる現象だが、魔法でその状態だけを再現できるなら、必要な処理はかなり減らせる。
有効応力が十分に低下すれば、地盤は踏み込んだ人間の体重を支えきれず、足が沈む」
問題は、乾いた地面や粘土質の地盤だ。
「水分が不足しているなら周囲から水を集める処理が必要になるし、そもそも液状化しにくい土質なら、粒子の配列そのものへ干渉しなければならない。
そこまで一つの術式に詰め込めば、判定項目も制御対象も増え、発動速度が落ちる。
ならば、試作としては特定の土地限定にした方が――」
途中で返事がないことに気づいた。
深雪は何も言わずこちらを見ていた。
「どうした?」
「いえ」
そう言ったあとも、しばらく沈黙が続く。
「今のお話は、幻想術について考えていた続きですよね?」
「一応は」
「途中から、全く別の魔法を開発していらっしゃるように聞こえました」
「似た効果を再現しようとしているだけだ」
答えると、深雪はなぜか一度目を閉じた。
俺にはその反応の理由が分からない。
「小鬼を作るより簡単だろう」
「簡単かどうかを心配しているわけではないのですけれど……」
深雪はそこで言葉を切ると、俺の前へ手を伸ばしてきた。
何をするのかと思ったら、カップを取り上げられた。
「冷めてしまっています。淹れ直して参ります」
「ああ。すまない」
深雪は俺のカップと自分のカップを持ってキッチンへ向かった。
その背中を見送りながら、俺はテーブルの端末を引き寄せる。
せっかく思いついたのだから、忘れる前に最低限だけ残しておいた方がいい。
新規ファイルを開き、『泥濘化』と打ち込む。
続けて、『局所、移動阻害、座標固定』と入力したところで、キッチンから深雪の声がした。
「お兄様」
「なんだ?」
「念のため申し上げておきますけれど、場所を選んで実験してくださいね」
まだ何も言っていない。