「美味い」
その一言で深雪はニッコリ微笑んだ。
入学式を明日に控えた夜。深雪の落ち着いた仕草も、室内に流れているコーヒーの香りも、普段通りだ。
深雪のCADフルメンテナンスを終えた俺は、テーブルの端末へ第一高校から送られてきた資料を表示させていた。
向かいでは深雪がカップを両手で包み込み、立ち上る湯気に一度だけ目を伏せてから、その縁へ静かに唇を触れさせている。
フルメンテナンス時ではどうしても肌を晒さなければならないので、先ほどまでは白い下着にガウン姿だったが、今では部屋着だ。
もっとも、深雪はなぜか自宅では少々露出が高い服を選択するのは、俺には察しようがないが、そういう年ごろなのだとは理解している。
制服はすでに確認した――深雪は俺の制服を見ると、いつも少し機嫌が悪くなる。
携帯端末やCADは不具合なしと確認後、充電中だ。
深雪の魔法師としての多彩さは今更ながらに誇らしい。汎用式CADの起動式登録数99個でも足りないのだから。
入学式リハーサルの開始時刻と会場も確認済み。開場2時間以上前なのは仕方がない。
俺はリハーサルに出ないが、当然付き合う。
学校までの経路も頭に入っているし、今さら確認しておくべきことなど残っていない。
だから、ついでに開いた校内制度についての資料も、眠気を喚起する触媒程度のつもりだった。
そのつもりだったのだが――
「……興味深いな」
ほとんど独り言だったにもかかわらず、深雪は聞き逃さなかった。カップをソーサーへ戻し、柔らかい視線とともにこちらを見る。
「お兄様、何かございましたか?」
「風紀委員だ。今年から一人増えるらしい」
端末を回して、深雪からも画面が見える角度にする。
「第一高校の風紀委員定員は、現在九名だ。今年度からそこへ一名追加される」
「二科生を率先して採用……と書いてありますね」
「『風紀委員長と生徒会長の合同推薦によって選出される』と記載されている」
ページをめくると解説文がつらつら並んでいる。
『生徒間に顕在する諸問題の改善を図るため――』
1行読んだところでやめた――さすがに『差別』とは書けないらしい。
俺は発案者の欄へ視線を落とす。
七草真由美。生徒会長であり、十師族・七草家。
「思い切ったことをするな」
「お兄様がそう仰るほどですか?」
深雪が画面から俺へ視線を移した。
「あぁ一科生だけでなく――」
そのとき、壁面パネルから短い電子音が鳴った。
表示された名前を見た瞬間、俺はテーブルの端末を伏せた。
「出る」
「では、お兄様。私は席を外します」
「ああ」
深雪がリビングを出て、扉の向こうへ姿を消したことを確認してから、俺は壁面パネルへ指を触れた。
画面が切り替わると同時に、室内照明が一段落ち窓のガラスが白くなる。
白い軍服姿の男が映し出された。
見慣れた顔だった。独立魔装大隊隊長、風間玄信少佐。
『特尉』
その呼称を耳にした途端、意識するより早く背筋が伸びる。両腕を背後へ回し、足を肩幅に揃えた。
「その呼称ということは、秘匿回線ですね」
『そうなる』
「毎度よく、一般家庭の回線へ入り込めますね」
『簡単ではない。それより一般家庭用とはよく言う。こちらのオペレーターが、お前の家の防壁に文句を言っていたぞ』
「破られる前提で組んだ覚えはありませんので」
俺の自宅サーバーには、外部へ流出させるわけにはいかない情報が多い。
侵入者を排除するだけでなく、逆探知からの侵入端末破壊まで行うカウンタープログラムも組み込んでいる。相手が軍のオペレーターだからといって歓迎してやる理由はなかった。
少佐は苦笑しただけで、話を続けた。
『まず事務連絡だ。サード・アイのオーバーホール計画だが、正式に了承された。
予定は七月。詳細スケジュールが決まり次第、改めて連絡する』
「承知しました」
俺はその言葉とともに敬礼を捧げる。少佐も併せて敬礼で返す、が、通信は切れない。俺は敬礼を下ろして姿勢を崩さず待つ。
『もう一つある。……達也』
俺は後ろへ回していた腕を下ろし、肩幅に広げていた足の力を少し抜く。
「はい」
『私事だ。深雪君にも聞いてほしい』
返す言葉が遅れた。
「……承知しました。少々お待ちください」
リビングを出て、深雪の部屋の前まで歩く。それだけで、部屋の向こうから動く気配がする。
「深雪」
ほとんど間を置かず扉が開いた。
「はい、お兄様」
「少佐がお前にも話があるそうだ」
「風間少佐が、私に?」
「ああ」
理由を説明できるほど、俺にも事情は分かっていないが、それでも深雪はそれ以上尋ねず、すぐ俺についてきた。
リビングへ戻ると、俺の隣に立ち、完璧なしぐさでお辞儀をする
「お待たせいたしました」
「風間少佐、ご無沙汰しております」
『ああ。久しぶりだな、深雪君』
声のトーンが変わる――今の少佐は上官というより、風間玄信個人に見えた。
『明日から二人とも第一高校生だな。入学おめでとう』
「ありがとうございます」
深雪の声と重なった。それを画面越しに見た少佐が、小さく頷いた。
『それに関係する話だ』
「何でしょうか?」
珍しい――何か言葉を選んでいるような沈黙だった。
『私に養女がいるのは知っているな?』
「はい。ミーシャさん、でしたね」
口にしながら、記憶の中から名前に結びつく情報を探る。
【風間ミーシャ】
独立魔装大隊の関係者名簿に記載されていた人物で、隊員ではなく分類は民間協力者だった。
『そのミーシャも、明日から第一高校へ入学する』
「それは、おめでとうございます」
「おめでとうございます、少佐」
また声が重なる。
『ありがとう』
「……それで、俺たちは、何をすればよろしいのでしょうか?」
返ってきた言葉は予想外に短かった。
『何も』
「何も、ですか?」
『言っただろう、これは私事だ』
言葉を一度切り、少佐は画面の外へ一瞬だけ目を向ける。
『では、何かあったら連絡する。オペレーターが急かしている。あまり長居すると、厄介な部署に見つかりそうでな』
どうやらネットワーク警察に見つかりかけているらしい。最近の警察も腕を上げたと見るべきか。
「了解しました」
「失礼いたします」
通信が切れ、壁面パネルはいつもの待機画面に戻り、暗くなっていた照明も元の明るさになる。
それでも数秒、俺も深雪もその場から動かなかった。
深雪は通信の消えた画面を見つめたまま、疑問を口にする。
「……変な仰り方ですね」
「ああ」
「何もしなくてよいのでしたら、わざわざお兄様を呼び止めて、私にまで聞かせる必要はなかったのではありませんか?」
俺はソファへ戻り、テーブルの上に置かれていたカップを手に取った。深雪も席に戻る。
話しているうちに時間が経ってしまったらしく、口に含んだコーヒーはもうかなりぬるい。
「逆だろう」
その言葉に深雪の眉間に考え込むような皺が寄る。やがて言葉を紡ぐ。
「特別扱いするな、ということでしょうか」
「ああ」
納得したのか深雪の肩から力が抜けた。
「奇妙なことに、風間少佐らしい言い方に思えました」
俺も、それ以上は考えないことにした。今の時点ではそれで十分だ。
端末を閉じソファから立ち上がる。
「さて、準備をするか。明日は早い」
「もう、ほとんど終わっておりますが」
「最終確認だ」
「最終確認、ですか?」
「ああ。明日は深雪の晴れ舞台だからな」
その言葉を口にした直後、それまで落ち着いていた深雪の表情が目に見えて曇った。
「……ですが」
予想していた通り、その声には隠しきれない不満が混じっている。
「私は、やはり納得できません」
何についてかは聞く必要もなかった。
深雪は膝の上で重ねていた指を強く握り込んだ。
「本来なら、あの場に立つべきなのはお兄様です」
「それは仕方がない」
「仕方がないことで済ませられません」
ほとんど間を置かず返ってくる。
「第一高校の評価方式が、お兄様のお力を正しく測れないだけです。それなのに、結果だけを見てお兄様が二科生として扱われるなんて――」
「深雪」
名前を呼ぶとそこで言葉は止まった。
ただし、俺から視線を逸らすことはない。唇がわずかに結ばれ、まだ言いたいことが残っているのは見れば分かった。
俺はその顔をしばらく見ていた。
この件について、何をどう説明したところで深雪が納得することはないだろう。
入学試験の結果が出たときから何度も話しているが、深雪の理屈で解消できる話ではないのだ。
「俺は嬉しいよ」
「……何がでしょうか?」
「お前が、俺の代わりに怒ってくれることがだ」
何度も繰り返された会話だが、それでも俺は何度でも言う。
「お兄様は……私のことを、いつも叱ってばかりですのに」
「お前が俺のことで熱くなりすぎるからだ」
「だって」
「お兄様のことですもの」
間髪を入れず返された。
理屈になっていないが、深雪にとっては、それで十分なのだろう。
「分かってる」
さっきまで張り詰めていた深雪の肩から、ようやく硬さが消えた。
「お前がいつも俺のことを考えているのと同じだ。俺も、いつもお前のことを思っている」
深雪が止まった。完全に動きが止まったので、俺も一瞬言葉を切る。
「……」
返事がない。
「深雪?」
眉を寄せて顔を見ると、頬に赤みが差し始めていた。それは見る間に濃くなり、やがて耳まで赤くなっていく。
「お、お兄様……そんな……『想っている』などと……」
声まで妙に小さい、何かがおかしい。
「深雪?」
「いいえ」
呼びかけると、深雪は慌てたように首を振った。
しかし頬の赤みは消えない、むしろ先ほどより濃くなっている。
「何でもありません。ただ、その……」
胸元で重ねた指が、行き場をなくしたように何度か絡み合う。
やがて深雪は意を決したように顔を上げた。
「私も、お兄様をいつも想っております」
微笑んでいる。かなり機嫌が良さそうだった。
何か、妙な受け取られ方をした気がする。
だが、その確認を今ここで始めた場合、話が短時間で終わるとは思えない。
明日の入学式は、深雪のリハーサルもあるので、朝が早い。訂正はまた今度でいい。
「持ち物をもう一度確認するぞ」
「はい、お兄様」
俺は立ち上がる。深雪も素直に立ち上がった。
俺が廊下へ向かって歩き出すと、すぐ後ろから深雪の足音がついてくる。
「……お兄様」
か細い声だった。呼びかける意図も感じられなかった。
おそらく、俺に聞かせるつもりはなかったのだろう。
「……先ほどのお言葉、もう一度……」
俺は聞こえなかったことにした。