襲撃事件から数日たった放課後、ホームルームが終わってしばらく経った1―Eの教室には、授業中とは違う緩い空気が流れていた。
すぐに部活動へ向かった生徒もいれば、帰り支度だけ済ませて机を囲んでいる者もいる。
俺たちも急ぐ用事はなく、レオとエリカがいつものようにどうでもいいことで言い合い、美月が止めるでも加わるでもなく、その間で困った顔をしていた。
幹比古も少し遠くの席からそれを眺めている。
そこへ、教室の入口から声が掛かった。
「風間はいるか?」
聞き覚えのある声だった。一科の制服姿で入口に立っていたのは森崎駿だった。
レオの椅子が鳴った。
「……あ?」
エリカも机から手を離し、立ち上がりかける。
昼食時の一件以来、二人が森崎に対して良い印象を持っていないことは知っている。
だが、二人が何か言うより先に、ミーシャが片手を上げた。
「大丈夫っス」
軽く手を振って二人を押し留めると、そのまま入口へ顔を向ける。
「ウィっス。ミーシャっス」
名前を呼ばれてする返事として適切かどうかは疑問だが、本人は気にしていない。
森崎は教室へ入ってこなかった。
「時間があるなら、少し来てくれないか」
普段より声が硬いし、姿勢も妙にいい。
ミーシャは理由を尋ねず、「ウィっス」とだけ返して立ち上がった。腰のポシェットを掛け直し、そのまま森崎の後について廊下へ出ていく。
二人の姿が角へ消れてから、数秒。
――エリカが立った。
「行くよ、レオ」
「おう」
「待て」
声を掛けると、二人が同時に振り返った。
「何よ?」
「行儀が悪いぞ」
「だって気になるじゃない。また何か変なこと言ったらどうするのよ」
「そうだぞ。あいつ前科あるからな」
レオまで当然のように同意する。今日の森崎が喧嘩を売りに来たようには見えなかった。
わざわざE組まで足を運び、教室へ踏み込まずにミーシャだけを呼び出した時点で、おそらく用件も想像できる。
もっとも、それを説明したところで、この二人が素直に席へ戻るとも思えない。
「達也も来いよ」
「なぜ俺まで」
「こういう時、一番冷静なの達也だろ」
理屈を付けているだけで、実際には共犯者を増やしたいらしい。
エリカは美月まで巻き込み始めた。
「美月も行くでしょ?」
「えっ……」
美月がこちらを見る。
本人も気にはなっているのだろう。少し迷ったあと、机の脇へ置いていた鞄を持ち上げた。
それを見ていた幹比古も後に続く。
「そうだね、僕もお供するよ」
結局、俺も席を立つことになった。
「分かった。ただし邪魔はするなよ」
「了解了解」
その返事だけで不安になる。
教室を出たところで、廊下の向こうから深雪が歩いてきた。いつものように俺を迎えに来たのだろう。
「お兄様」
俺を見つけたところまでは普通だったが、その後ろに並ぶ四人を見て足が少し緩んだ。
「これは……?」
俺、エリカ、レオ、美月、幹比古。五人揃って、本人たちなりに足音を抑えながら廊下を歩いている。
「お節介者の行列だ」
それだけ言うと、深雪は一度こちらの顔を見てから、何となく事情を察したらしい。
「では、私もお供いたします」
「そうだな」
一人増えたところで大差はない。こうして六人で後を追うことになった。
大名行列という言葉が頭に浮かんだが、先頭を歩いている二人から随伴を頼まれた覚えはない。
森崎が向かったのは校舎裏だった。部活動の声も遠く、人通りも少ない。
俺たちは角を一つ挟んだところで止まったが、本気で隠れるつもりならもう少し静かにするべきだった。
「押さないでよ」
「お前が前行こうとしてるんだろ」
「声が大きいぞ」
小声で注意する。
エリカとレオは一応黙ったものの、今さら手遅れな気もする。幹比古はすでに諦め顔だ。
少し先で森崎が足を止め、それに合わせミーシャも数歩手前で止まる。
森崎はしばらく背を向けたままだった。両手を後ろへ回し、やけに背筋を伸ばしている。
ミーシャは何も言わない。
普段なら数秒も間が空けば、自分から何か話し始める人間だ。それが今日は、相手が口を開くまで待っていた。
森崎は何度かこちらを振り返った。少し呆れ顔だ。
気まずそうに目をそらす美月と幹比古。変わらず微笑んでいる深雪。小声で言い争うことに夢中で、森崎の視線にまったく気づかないレオとエリカ。
それから、森崎はひとつ息を吐いた。
「風間ミーシャ」
「ウィっス」
「この前は……言ってはならないことを言った」
そこで一度、声が止まった。
「目が見えないのに魔法を使えるのか、なんて。あんなことを言うべきじゃなかった。
一科生とか二科生とか、そういう話以前に、人に言っていいことじゃなかった」
拳を握ったまま、森崎は深く頭を下げた。
「本当に、すまなかった」
ミーシャは特に迷う様子もなく答えた。
「謝罪、受け入れるっス」
森崎が顔を上げる。
思っていたより早く返事が来たせいか、次の言葉がすぐには出てこない。
だが、ミーシャにはまだ続きがあった。
「でも、自分以外にもいるっス」
「え?」
「二人」
指を二本立てる。だが、ミーシャが答えるより先に森崎が口を開いた
「司波さんと司波達也だな」
それを聞いたミーシャが、俺たちの方へ顔を向けることなく告げる。
「達也。深雪」
少し間を置いた。
「あと大名行列」
「バレバレだったの!?」
エリカが声を上げた。ここまで来れば隠れている意味もない。
俺が角から出ると、深雪、美月、幹比古、レオ、最後にエリカが続いた。
「当然だろう。何人で歩いていると思っているんだ」
「でも、結構静かにしてたじゃない」
「『押すな』『そっちが押した』は静かな尾行には含まれない」
エリカとレオが揃って黙るが、そこにミーシャと森崎が追い打ちを掛けた。
「普通に聞こえてたっス」
「あぁ、丸聞こえだった」
「……最初から失敗してたじゃない」
エリカが肩を落とし、ミーシャがへにゃりと笑う。
だが、森崎は笑う余裕がないらしい、一度息を吸ってから身体ごとこちらへ向き直った。まず俺を見る。
「司波達也」
「何だ」
言葉が出てくるまで少し掛かった。
「僕は……たぶん……君に嫉妬していたんだと思う」
黙って続きを待つ。
「司波さんみたいな人が、兄だからって理由だけで二科生の君をあそこまで認めているのが……気に入らなかった」
隣で深雪の気配がわずかに変わった。森崎も気づいたのか、急いで言葉を継ぐ。
「今考えれば、かなり勝手な話だ。
一科に入ったことが、魔法師として優れている証明みたいに思ってた。
だから二科生が自分より評価されると、それだけで自分まで否定された気になってたんだと思う」
そこで視線が俺から外れ、レオ、エリカ、美月、幹比古、ミーシャの方へ動いた。
「でも君も、風間も、千葉も、西城も、吉田も、柴田もこの前学校を守った」
美月がおずおずと小さく手を上げる。
「私は救護のお手伝いをしただけですけど……」
「それもだ」
美月の遠慮に対し森崎はすぐ返した。
「怪我人を助けるのも学校を守ることだろ」
美月はその返事を聞いて、上げた手をゆっくり下ろした。俺は一つ付け加える。
「森崎もだ」
「……まあ、そうだな」
少し鼻の先を掻きながら、森崎はミーシャへ向き直った。
「特に風間」
「ウィっス?」
「学校の評価基準どころか……何というか」
森崎は、そこでゆっくりと言葉を探す。
「常識にも当てはまらない、冗談みたいな魔法をあれだけ見せられたら」
「それ褒めてるっス?」
「多分」
本人にも判定できないらしい。
「一科とか二科とかで人を分けてたのが、途中からどうでもよくなった」
ミーシャが少し笑った。森崎はもう一度、俺へ正面から向き直る。
「司波達也。この前は悪かった。二科生だからってだけで見下したし、風紀委員になったことにも勝手に反感を持った。すまなかった」
頭を下げる。だが、森崎は姿勢を戻しただけで終わらなかった。
今度は深雪へ向く。さっきまでより、さらに言葉が重い。
「誰と一緒にいるかまで、僕が口を出すことじゃなかった。
……それに、司波さんが兄を評価していることまで否定した。
自分の価値観を押しつけただけだった。すまなかった」
深雪はすぐに答えなかった。一度、俺を見る。
「お兄様が許して差し上げるのでしたら」
予想通りの返答だった。森崎も想定していたのか、こちらを見る。
俺は少しだけ考えた。以前の言葉が無かったことになるわけではない。
ミーシャへ向けた言葉も、深雪への態度も、俺を見下していたことも、すでに起きたことだ。
ただ、今の森崎はそれを正当化していない。
言い訳もせず、自分からE組まで来て、わざわざ本人の前で、自分の言葉で説明し頭を下げている。
なら、こちらが過去へ留まり続ける理由もない。
「そうだな。今後、同じことをしなければいい」
一瞬、間があった。それから短く「……ああ」と返ってきた。
即座にミーシャが満足そうにポンと手を叩き頷く。
「解決っスね」
「軽いな」
「重くしても仕方ないっス」
それには反論しづらい。エリカは軽くため息をついた。
「まあ、ちゃんと謝ったなら私はもういいけど」
レオが続ける。
「次また同じこと言ったら、その時は別だからな」
「言わない。言うわけない」
深雪も、俺が受け入れた以上、これ以上何か言うつもりはないらしい。
そこで終われば、かなり綺麗な話だった。
もちろん、ミーシャがそのまま終わらせるはずもない。
「じゃあ駿」
少し身体を寄せる。出て来るのは、あのへにゃりとした笑顔だ。
「これで正式に、友達申請基準が通ったってことでいいっス」
「なんでそうなる」
今日初めて聞く、いつもの声だった。
「命預け合ってテロリスト倒した仲っスよ?」
「それとこれとは別だろ……」
「じゃあ友達候補申請仮登録くらいっスね」
「勝手に段階作るな」
エリカが吹き出し、レオも笑い始める。
「じゃあ仮登録の受付期間は190年っス。いつでも待っているっス」
「期間長すぎだろ!」
森崎の声が校舎裏に響いた。だが森崎の目が笑っている。
少し離れたところで、美月が口元を押さえていた。
深雪も困った顔をしているが、そこまで本気で困っているわけでない。
ミーシャはまだ何か言おうとしている。森崎も逃げずに言い返している。
噛み合っていないようで、妙に噛み合っている。正に凸凹コンビだ。
これはこれでうまくいっていると、俺は口を挟まなかった。
幹比古が、納得したように俺に声をかける。
「凄いねミーシャのノリ。『エリカの方が根気よく付き合っている』という意味がやっとわかったよ」
「これでも改善された方だ」
幹比古は絶句した。
◆
事件から一か月ほど経った頃。
学校での俺の生活は相変わらず、風紀委員会と生徒会の雑事に振り回されていたが、ようやく入学時に思い描いていたような、静かな就学環境も手に入れつつあった。
――いや、少々静かとはいいがたい人物がいるのだが。
そんな折、壬生紗耶香先輩が退院するという話を聞いた。
精神干渉を受けた可能性がある以上、数日様子を見て終わりというわけにはいかなかったのだろう。
深雪が「せっかくですから」と退院祝いの花束を用意したので、俺も付き添って病院へ向かった。
正面玄関へ入ろうとしたところで、見慣れた鈍い金髪が視界に入った。
ここは外なので白杖を伸ばしている。
「ウィっス。達也、深雪」
「ミーシャも来たのか」
「退院日っスからね。壬生先輩から来てほしいって連絡あったっス。……ちゃんとした退院祝い装備持ってるっスか?」
俺としてはデリバリーで済ませるつもりだったのだが、「こういうものは、自分の手で持っていくことに意味があるのです!」と珍しく強硬に反対する深雪の剣幕に押し切られてしまった。
「ええ、花束を持参しました。でも、装備ではありませんよ」
「自分、完全に手ぶらっス」
「ミーシャらしいですね」
「ウィっス」
特に反省した様子もない。
三人でロビーへ入ると、壬生先輩はすぐに見つかった。私服姿でソファの近くに立ち、同じく私服の桐原先輩と話している。
以前、演武場で顔を合わせていた時には、会話をしていてもどこか互いに力が入っていたが、今日はそんなものは見えない。
距離も近く、壬生先輩が何か言えば桐原先輩が言い返し、それにまた壬生先輩が笑っている。
「ずいぶん親し気ですね?」
「桐原先輩、毎日来てたんだってー」
背後から声がした。
振り返るとエリカがいた。いつからいたのかは分からない。
「なんだ、全然驚かないの?」
「いや。驚いてはいるぞ」
「そこまでマメな性格だとは思ってなかった」
エリカが楽しそうに笑う。
「そっちじゃない!」
当然だ、判った上で話をそらしている。
「フンだ、そんな性格悪いことばっかしてるから、『さーや』にフラれるんだぞー」
いつ俺は、壬生先輩にフラれたのか理解に苦しむ。
そもそも、自慢にならないが、女性にモテた経験はゼロだ。
「エリカ……。『さーや』、というのは壬生先輩のことですか?」
「そ。最近そう呼んでるの」
「随分仲良くなったんだな」
「まかせてー。こういうのは距離の詰め方が大事なのよ」
エリカが得意げに言うが、いったい何を『任せて』というのだろうか?
だが、ここで突っ込めば、さらなる混沌を呼び込みそうなので、疑問を呑み込む。
すると、なぜかミーシャが納得したように、感心しながら頷いた。
「流石エリカっス。懐への入り方が上手いっス」
「あんたにだけは言われたくないわ」
そこは俺もエリカに同意する。
俺たちが近づくと、壬生先輩もこちらへ気づいた。
「あ、司波君。深雪さんも。風間さん、来てくれたんだね」
「ウィっス。退院おめでとうございますっス」
「ありがとう、風間さん。それから、この前は――」
そこでミーシャが、片手を軽く上げて、壬生先輩の言葉を遮った。
「呼んでくれたのに、自分、退院祝いも持たずに手ぶらで来ちゃったっス。これでチャラっス。それと、ミーシャでいいっスよ」
壬生先輩は少しだけ間を置いた。
「じゃあ……ミーシャちゃん」
「ウィっス。先輩にちゃん付けで呼ばれるの新鮮っス。十文字先輩からは得られないっス」
そこで壬生先輩が噴き出す。想像したのだろう。深雪も微笑みが深くなっていた。
それ以上は何もなかった。
少し離れた場所には壬生先輩の両親らしい男女がいた。
そのうち父親と思われる男性が、今のやり取りの間だけミーシャへ視線を止めた。
深雪が花束を差し出した。
「退院おめでとうございます」
「ありがとう。こんな綺麗なの、もらっていいの?」
「もちろんです」
そこからしばらくは学校の授業がどこまで進んだか、剣道部へはいつ戻るのかという、退院祝いらしい話になった。
エリカが早速復帰後に、一緒に寄りたいカフェの候補を次々と上げだしてきた。
深雪もミーシャもその話題に自然と乗り出す。
女子トーク一色になった場の空気に困り果てた桐原先輩が、俺に助けを求めるような視線を向けてきた。
その輪へ、先ほどの男性が歩いてきた。
「少しいいかな」
壬生先輩が振り向く。
「お父さん?」
男性は俺とミーシャを順番に見た。
「君が司波達也君。それから、風間ミーシャ君だね」
「はい」
「はい、娘さんにはお世話になっております」
どうやら、外向けだとこの形になるらしい。
「私は壬生勇三。紗耶香の父親だ」
口調は穏やかだったが、挨拶だけならわざわざ名指しで呼ぶ必要はない。
「二人と少し話がしたい」
「分かりました」
三人でロビーの端へ移動した。
壬生先輩たちから二十メートルほど離れたところで勇三氏が足を止めると、ミーシャが先に口を開いた。
「この距離なら、向こうへ普通の会話が聞こえることはありません」
もう「っス」という口調は使っていなかった。
こう何度も見ていると、なんとなくわかってくる。
彼女の口調の変化は、人格が切り替わっているわけではなく、相手との距離感や関係性に応じて、接し方を変えているだけなのだろう。
いわば、相手に合わせてインターフェースを切り替えているようなものだ。
勇三氏はまず俺を見る。
「君には感謝している」
「俺に、ですか?」
「紗耶香が一度立ち止まる切っ掛けを作ってくれた」
「自分は何もしていません。壬生先輩と正面から話したのは妹と千葉です。俺は、どちらかというと突き放しただけです」
本当のことを答えると、勇三氏は小さく笑った。
「私は、その突き放すことすらできなかったよ」
しばらくロビーの向こうへ目を向ける。壬生先輩はエリカと何か話しており、その横で桐原先輩がまた口を挟んでいた。
「魔法の成績が思うように伸びていないことは知っていた。だが、それをあの子がどれほど気にしていたのかまでは見ていなかった。
魔法技能の評価と実践の強さは別だという自分の経験則に囚われていた。
だから、剣道では結果を出している。学校にも毎日通っている。なら大丈夫だろうと、それで済ませていた」
俺は何も言わなかった。慰めてほしくて話しているわけではないだろう。
「君と関わるようになってから、紗耶香はまた自分で迷うことを思い出し、考えるようになった。何に腹を立てているのか。
本当に望んでいるのは何なのか。それから――今、自分の口から出ている言葉は本当に自分のものなのか」
最後だけ、少し間が空いた。図書館で起きたことまで、当然聞いているのだろう。
「あのまま疑問を持たず進んでいたら、どこまで行っていたか分からない。だから、切っ掛けだけでも私には十分なんだ」
勇三氏がこちらへ向き直る。
「ありがとう」
「本当に、俺が感謝されるようなことは――」
「達也君は、風間から聞いていた通りの人だな」
そこで意識だけを切り替えた。
「風間少佐をご存じなのですか?」
勇三氏は、こちらの声が変わったことにも特に反応しなかった。
「もう退役した身だがね。昔、風間とは兵舎で同じ釜の飯を食った仲だ」
ただ「親しい」だけではないことは今の言葉でわかる。
単なる友人に――それが親友であっても――少佐が俺のことを話すはずはない。
問題は、司波達也についてどこまで聞いているのか、大黒竜也についてまで知っているのかだ。
勇三氏は俺が尋ねるより先に続けた。
「風間から聞いた君の話を、他言するつもりはさらさらない。誰にも、もちろん娘にもだ。だから安心してほしい」
そこで勇三氏は、かすかに笑みを浮かべた。
それは、父親としてのものでも、娘の友人に向けるものでもない。まるで戦友に向けるような、静かな微笑みだった。
「ただね。娘を助けてくれた相手について、自分だけ何も知らないふりをしているのも妙だと思ったんだ」
それ以上確認する必要はなさそうだった。
「分かりました」
俺が答えると、勇三氏は今度はミーシャを見た。
「それにしても、娘の話なら風間から何度も聞かされたよ」
ミーシャが深く頭を下げる。
「父がご迷惑をお掛けしております」
「迷惑ではないさ。あの風間が、あんな顔で娘の話をするとは思わなかっただけだ」
その姿は俺には想像しがたいが、それはそれでなぜか納得できる。
「その自慢に恥じぬよう、日々精進しております」
ミーシャの口元がわずかに緩んでいる。
学校での普段の姿だけを見ていると疑いたくなる言葉だが、本人なりに努力しているのは知っている。
「ああ、それから」
ミーシャが少し姿勢を改めた。
「まだ正式な決定ではありませんが、壬生先輩について一つお伝えしておきます。
定期的なカウンセリングと経過観察を受けることを条件に、学校生活は継続してよいという方向で調整が進んでいます」
勇三氏がすぐに答えなかった。
「……本当か」
「はい」
長く息を吐く音がした。
「それは、何よりだ」
「ですので、学校へ戻られた後は、自分とももう少しお話しする機会を持てればと思っております」
そこで終えておけば良かった。ミーシャが少しだけ間を置く。
「特に、桐原先輩のこととか」
勇三氏の目が細くなった。
「そこは父親として詳しく聞いておく必要がありそうだな。威厳の見せ所だ」
「是非」
「彼とは何度か話したことがあるが、真っすぐで気持ちの良い男だと思う」
そこで、すこし勇三氏の声に剣呑さが混ざる。
「だが、娘を預けるに相応しいかどうかは別だがな」
「そこの見極めは、時間をかけてじっくりとですね」
「ああ」
二人の間で何か話がまとまりかけている。
桐原先輩にとってはあまり良くない方向だろう。いや、ある意味良い方向かもしれない。
そして改めて俺へ向く。
「もう一度だけ言わせてくれ。ありがとう」
今度は俺は否定しない。俺がどう感じようと、勇三氏が勇三氏の論理で感謝している。それを否定する意味はない。
「……はい」
勇三氏は頷き、それからミーシャを見た。
「風間は、入学前から言っていたよ。同年代の友人ができればいい、と」
俺もミーシャを見る。本人は何も言わず、こちらの返事を待っていた。俺は首肯する。
お互いの意思によって時間を共有し、楽しみを分かち合い、危機には力を合わせ支え合い、目的に向かって行動を共にし、感情を共有する間柄。
それを言葉に現すならば、それは――
「俺はミーシャの友人です」
それで十分だと思ったが、なぜかミーシャの口が半開きで止まり、それからゆっくりと開いていった。
そして、妙に丁寧な一礼を返した。
「身に余る光栄です」
「そこまで言うことか」
「こういうのは形式美っス」
一瞬で口調が戻り、勇三氏が笑う。話はそこで終わった。
俺とミーシャが壬生先輩たちのところへ戻ると、待っていたように本人から聞かれた。
「何の話してたの?」
当然の疑問だった。
父親が突然、俺とミーシャだけを連れてロビーの端まで行ったのだから、気にならない方がおかしい。
ミーシャは迷わず答える。
「壬生先輩のお父上と、自分の父が友人だったっス」
「え?」
「それで達也と一緒に、ちょっと相談してたっス」
嫌な予感がした。壬生先輩は当然、その先を聞いた。
「何を?」
「桐原先輩が『娘さんをください』って挨拶に行った場合、認めてもらえるかどうかっス」
「なっ――!」
先に崩れたのは桐原先輩だった。派手に咳き込む。
「お前、何てこと聞いてんだ!」
「聞いてみただけっス」
「聞くな!」
「でも結構前向きだったっスよ」
「そ、それは……いや、追加情報まで出すな」
壬生先輩も黙ってはいなかったが、顔には分かりやすく血が上っている。
当然、エリカが見逃すはずもない。
「あれー? サーヤ、顔赤くない?」
「ち、違うわよ!」
「へえー?」
「エリちゃん!」
「壬生、こいつの言うこと真に受けるなよ!」
「分かってるわよ!」
そこまで言ったところで、壬生先輩が急に黙った。桐原先輩も、何故か続けない。
二人の間だけ妙な間ができる。
壬生先輩は桐原先輩の方を見ず、少し俯いたまま口を開いた。
「……私は、それでもいいけど」
桐原先輩が止まった。本当に動かない。
エリカだけが目に見えて勢いを増した。
「へええええ?」
「ちょっと、今のなし!」
「無理無理、聞いちゃった!」
「エリちゃん!」
「それでもいいって、どこまで? 挨拶? 結婚?」
「もう言わない!」
「おい千葉、いい加減にしろ!」
「桐原先輩も顔赤いですよー」
「うるさい!」
深雪はさすがにどう加わるべきか分からないらしく、俺と壬生先輩、それから桐原先輩を順番に見ている。
隣ではミーシャが何度も頷いていた。
「功を奏したっスね」
俺は声を落とす。
「最初から狙ってたのか?」
「半分くらいっス」
「残りは?」
「ノリっス」
予想通りだった。
ただ、悪ふざけだけでもないらしい。勇三氏が俺とミーシャだけを呼び出した理由について、周囲へ聞かれた時の説明にはなる。
父親同士が昔からの知り合いで、娘の交友関係について話をし、その流れで桐原先輩の話までミーシャは出した。
それなら、余計なところまで探られる可能性はかなり下がる。
どこからそこまで考えていたのかは分からない。
ミーシャの場合、計算した上で悪ふざけをするので余計に判断しにくい。
向こうでは、まだエリカが壬生先輩を追い込んでいた。
ミーシャが俺の袖を軽く引いた。
「良いっスね」
「何がだ」
「退院初日から青春してるっス」
「お前が燃料を投げ込んだんだろう」
「否定はしないっス」
その声を拾ったエリカが、すぐこちらを振り向いた。
「ミーシャもこっち来なさい。共犯なんだから」
「ウィっス」
「行くのか」
返事を待つまでもなく、ミーシャは白杖で前方を確かめながら、壬生先輩たちの輪へ入っていった。
俺が呆れながらその様子を見ていると、深雪がそっと横に並んだ。
「お兄様」
「うん?」
前方の集団漫才を見ながら俺は短く応える。見ると深雪の表情が硬い。
「学校が、お辛くはありませんか? お兄様の実力ならば本来高校に通う必要などございませんのに……
それでも、侮りを受けてまで学校に通われているのは、私のために無理を――」
「深雪」
深雪の問いかけを俺は優しく遮る。本当に深雪は俺のかけがえのない宝だ。
そして本心から深雪にこの一月で得た体験を語る。
「俺は、嫌々学校に通っているんじゃないよ。この日常は今しか体験できないものだとわかっているからね。
俺はお前と、普通に学生でいられることが楽しいんだ」
襲撃前日の少佐の話が頭に浮かぶ。普通の学生でいられる日常。
それは規格外である俺やミーシャにとって、いや規格外だからこそかけがえのない物だということだ。
「お兄様……」
深雪の硬い表情がゆっくりとほぐれる。多分、俺の表情もつられて柔らかくなっているだろう。
「そういうわけで、今日の所は『日常』に帰ろうか」
「ミーシャたちのおかげで、ずいぶんと騒がしい日常になってしまいましたね」
「それは否定できないな」
俺は、深雪に手を差し伸べると、深雪は嬉しそうにその手を取った。
その笑顔は、俺にとって一番の褒美だった。
これで達也視点の本編は終わります。次話はエピローグとなります。