講堂へ戻った頃には、もう開場時刻を少し過ぎていた。
入口では教員と上級生らしい生徒が列をさばいていて、俺たちもその流れに押されるように中へ入る。
さっきまで廊下や中庭に散っていた新入生が一斉に集まったせいか、広いはずの講堂もずいぶん狭く感じた。
大半の席はすでに埋まりつつあり、空いている場所を探して首を巡らせている生徒も多い。
「これで明日からは、大丈夫そうか?」
「だいぶ楽っス」
ミーシャは一度うなずいたものの、すぐに何か引っかかったように首をわずかに傾けた。
「まあ、今日と同じとは限らないっスけど」
「人の流れか」
「そうっス。建物は動かないっスけど、人は動くんで」
「じゃあ、今日のマッピングは半分成功ってとこか」
「いやいや。いやいや。いやーいや」
ミーシャが足を少し広げ胸を張った。妙に自慢げだ。
さすがにシャドーは、腕を構えけたところで止めた。
「九割成功っス」
「残り一割は?」
間を置かず、答えが返ってくる。
「食堂の味っス。今日は入学式だけだから開いてなかったっス」
「それはマッピングじゃないだろ」
「重要な現地情報っス」
ミーシャはそう言って、食堂のある方へちらりと首を向けた。
「覚悟しておくっス、食堂」
物騒な物言いを俺は無視して、人の流れを見る。
誰に指示されたわけでもないのだろうが、座席は不自然なほどきれいに二つへ割れていた。
前方に一科生。後方に二科生。
案内板もロープもない。ただ胸と肩に付いたエンブレム、その有無だけが境界線になっていて、生徒たちは互いに何も言わないまま、自分が座るべきだと思う側へ歩いていく。
「自然に分かれるものなんだな」
俺が呟くと、隣でミーシャが、ゆっくり顔を巡らせた。
眼鏡型の視覚補助CADが周囲の情報を拾っているらしく、人が横を通るたび、あるいは本人が少し歩くたびに、首だけが一定の速度で左右へ動く。
「制服にまで成績表くっつけられてるようなもんスからねえ」
いつもの調子でそう言ったあと、少し間を置いて、
「……まあ、難しいっスよ」
最後だけ声を落とした。
俺たちはそのまま後方へ進み、最後列に近い空席へ腰を下ろした。
椅子は思ったより座り心地が良く、前列との間隔も狭くない。
隣ではミーシャが、眼鏡の位置を指で直している。
それを見て、座ってからようやく彼女のCADの有効距離を思い出した。
「ここでは壇上まで届かないな」
「全然っス。前から五列目くらいで、届くかどうかっスね」
俺は前方へ目を向けた。すでに前から五列目までは空いていない。
「前に座ればいいんじゃないか?」
ミーシャがこちらを向く。
「目が見えないんで最前列ください、って頼むんスか?」
「ああ」
「言えば通ると思うっスよ。普通に」
そう答えながらも立つ気配はなかった。ミーシャは珍しく言葉を選んでいるようだった。
「うーん。でも、自分ああいうの苦手なんスよね」
「なぜだ?」
「正しいこと言ってます、って顔するの、なんかむずがゆくないっスか?」
俺が返事をせずにいると、ミーシャは胸を四角になぞるように撫で、顔の向きがゆっくり上がる。
「必要な配慮はちゃんと言わないと駄目、ってのは分かってるっスよ。
見えないの黙ってて、あとになって誰かに迷惑かける方がよくないっスし。そういうのは自分でも分かってるんスけど」
「なら頼めばいい」
「そこなんスよ」
口元が少し曲がる。笑ったというより、なにか誤魔化したように見えた。
「必要だからお願いしてるのか、自分を優先してほしいだけなのか。たまに分かんなくなるんス」
「区別する必要があるのか?」
「自分の中では、たぶん」
それきりミーシャは前を向いた。
俺にはその感覚はよく分からないが、これ以上、立ち入るべき話ではないと判断した。
そのとき、横から声が飛んできた。
「ここ、空いてる?」
振り向くと、赤みのある髪の女子生徒が立っていた。その後ろには、眼鏡を掛けた少女が少し遠慮がちに控えている。
「空いている」
「ありがと」
赤髪の少女は遠慮なく腰を下ろした。もう一人は俺たちに小さく頭を下げてから、その隣に座る。
「私は千葉エリカ。こっちは柴田美月」
「柴田美月です。よろしくお願いします」
「司波達也だ」
「風間ミーシャっス。よろしくお願いするっス」
名乗り終えるや否や、ミーシャが二人の方を向いた。
「エリカと美月って呼んでいいっスか? 自分もミーシャでいいっスよ」
「ははっ、積極的じゃない。いいよ」
「はい。私も大丈夫です」
エリカは一度俺たち四人を見回してから、指で順番に示していく。
「司波、千葉、柴田、風間……しば、ちば、しばた……かざま」
途中までは調子よく続いていたのに、最後で急に眉間に皺が寄った。
「なんかこう、すごく語呂よくない?」
「最後が無ければな」
「達也、それ自分を切り捨ててないっス?」
「お前だ」
「あ、バレたっス」
エリカが吹き出した。
「いや、入れようよ。せっかくの四人だし」
「気持ちは嬉しいっスけど、無理やりねじ込まれるのも若干つらいっス」
「地味に刺さるなあ!」
「刺したつもりないっスよ?」
ミーシャが首を傾げると、それが余計におかしかったらしい。エリカはしばらく笑ってから、改めて彼女の顔をまじまじと眺めた。
「その見た目で、その喋り方なのずるくない?」
「なんでっスか」
「もっとこう……儚げに喋りそうじゃん」
「儚げに喋るって何スかね? オヨヨヨヨって感じっスか?」
「雑すぎ……」
その指摘に、ミーシャがへにゃりと笑う。
エリカはまだ何か言い返そうとしていたが、不意にその視線がミーシャの眼鏡へ落ちた。
普通の眼鏡とは形が違う。注意して見れば、ただの視力矯正用でないことは分かるのだろう。
「それって……」
そこで言葉が止まる。ミーシャは気にした様子もなく、眼鏡のつるへ指を掛けた。
「これっスか?」
「あー……いや」
「別に聞いて大丈夫っスよ」
指先でフレームを軽く叩く。
「視覚補助CADっス。これ取ったら、自分ほんとに何も見えないっス」
「……あ、そうなんだ」
エリカの返事が遅れた。
隣の美月も、つられるようにミーシャの顔を見るがすぐ膝の上へ落ちた。
「じゃあさ」
その空気を引きずらせまいとしたのか、単に次の疑問が浮かんだだけなのか、エリカが少し大きめの声で話を戻す。
「ミーシャって名前なら、そっちもハーフとかクォーター?」
「そっちも?」
「私はクォーター。母親が日独ハーフ」
「なるほどっス」
ミーシャは頷いた。
「でも、自分は分かんないっスよ」
「分からない?」
「施設育ちっス。五歳のときに父に引き取られて、養女になったっス」
内容の割に、あっさりした声だった。
流石に衝撃的だったのか、エリカの目が開き、美月も顔を上げる。
「赤ん坊のとき、施設の前に置かれてたらしいっス。籠に名札がついてて。『ミーシャ』って」
ミーシャは自分の胸元を、何か小さなものを摘まむような指つきで触った。
「そのまま名前になったっス。その名札、昔は首から下げてたんスよ。木の札なんスけど」
親指と人差し指で長さを示す。
「五歳までの唯一の自分の物っス」
「今は?」
エリカが訊く。
「しまってあるっス。ずっと着けてたら傷むじゃないっスか」
「ふーん」
「長年お疲れさまっス、ってことで引退してもらったっス」
「うん、それがいいかも」
そこで、エリカは納得したように笑ったが、美月は笑わなかった。
膝の上で重ねた手を見つめたまま、唇をきゅっと結んでいる。
何か言いたそうではあるが、何を言えばいいのか分からないのだろう。
ミーシャがそちらを向く。
「美月、優しいっスね」
「え?」
「会ったばっかの自分に、そんな顔してくれるんスね。嬉しいっス」
「そ、そんな……」
美月が慌てて両手を振る。
「ただ、その……」
「いいんスよ」
ミーシャは美月の困惑を遮るように笑った。いつもの、少し力の抜けた笑い方だった。
「自分、これからなんで」
「これから?」
「そうっス。本当にこれからっスよ」
ミーシャは片手を腰に添え、もう片方の手で指を二本立てた。
「だってこの瞬間だけで、友達二人増えたっスよ」
「二人?」
エリカが自分を指差す。
「エリカと美月っス」
「もう友達なの、私たち」
「違うっスか?」
即答だった。あまりにも迷いがないので、エリカの方が一瞬言葉に詰まる。
「いや、まぁ、別にいいけど。ミーシャ楽しいし」
「わ、わたしも……」
「じゃあ友達っス」
ミーシャはこれで了承と受け取ったらしく満足そうに頷き、それから今度はこちらへ顔を向けた。
「達也入れて三人っス」
「俺もか」
「当たり前じゃないっスか」
朝に名前を交換してから、まだ半日も経っていない。
俺としては知り合ったばかりの入学生、という程度の認識だったのだが、ミーシャの中ではもう一段ほど話が進んでいたらしい。
「それ、司波君の同意取ってる?」
「いや。初耳だ」
エリカが笑いながら訊く。俺は即座に事実を告げるが、ミーシャは待ってましたとばかりに畳みかけた。
「もう可決済っス」
「その、いつの間にですか?」
「第一回ミーシャ友達評議会っス」
「一票しかないだろ」
「心の中で延べ1万票投票したっス」
「無茶苦茶!」
エリカはとうとう前に突っ伏し、美月もそれにつられて少し顔を伏せている。
ミーシャは自分の理屈が通ったとでも思っているのか、満足そうに何度か頷いた。
「いい日っスねえ」
「友達できて、そんなに嬉しい?」
エリカが何気なく訊いた。
その瞬間、ミーシャの首が止まった。口元も真っすぐだ。
彼女は普段、CADで周囲を拾うために絶えず小さく首を動かしている。
人と話している間も、歩いている間も、意識して見なければ気づかない程度ではあるが、その動きが完全に消えることはほとんどない。
それが、ぴたりと止まった。白く濁った瞳は何も映さないまま、まっすぐ前を向いている。
「ウィっス」
すぐに、また首が動き出す。口元もいつもの形へ戻った。
「人生最高の日っス」
「大げさ」
エリカが笑い、美月も小さく肩を揺らした。
俺は何も言わなかった。
それから間もなく、壇上の照明が点いた。
代わりに客席側の明かりがゆっくりと落ちていく。
まだあちこちで続いていた話し声も、前から順番にではなく、気づいた者からぽつぽつと口を閉ざしていくように消え、やがて講堂全体を薄い静けさが覆った。
「始まるみたいっスね」
ミーシャが背筋を伸ばす。
ここから壇上までは、彼女のCADが拾える距離を大きく越えているが、それでも顔はまっすぐ前を向いていた。
首の動きが止まると同時に、スピーカーから小さなノイズが走り、マイクを通した咳払いが会場に響く。
『ただいまより――』