九重寺を出て学校へ着いても、始業まではまだ時間があった。
入り口を抜け、そのままE組の教室へ向かう。クラスの違う深雪とは途中で別れた。
当然、今隣を歩いているのはミーシャだった。
彼女は廊下を進みながら、右、左、また右と一定の間隔で顔を振っている。
それでも足取りが止まることはなく、昨日は角を曲がるたびにほんのわずかな迷いが混じっていたことを考えれば、もう校内の造りをかなり頭へ入れたらしい。
階段を上りきったところで、ミーシャが口を開いた。
「いやー、良いもの見せてもらったっス」
「何の話だ?」
聞くまでもなかった。
「もちろん、達也の朝稽古っスよ」
朝食のあと、師匠との稽古をミーシャは最後まで見ていた。
見物人がいたからといって内容が変わるわけでもなく、今朝もこちらから何度か仕掛け、正面からでは通らないと分かっているから足運びを崩して死角を作り、虚を突くところまでやった。
それでも師匠へ届いた攻撃は数えるほどしかなく、逆にこちらへ入った攻撃については、わざわざ数える気にもならない。
「住職、言ってたっスよね。体術だけなら自分でも敵わないかもしれないって」
「一方的に叩きのめされた直後に言われてもな」
「そこっスよ」
ミーシャの口元が緩んだ。
「何がだ?」
「達也があんだけボコボコにされたあとで、住職からあの評価が出てくるところっス」
「意味が分からない」
「つまり――」
ぴん、と人差し指が立つ。
「自分も判らないっス」
だろうと思った。昨日の今日だというのに、ミーシャのとぼけたノリや独特の呼吸が、何となくつかめるようになってきた。
「それにしても達也、普通に蹴ったり殴ったりするんスね。しかも、かなりの腕前っス」
「体術だからな」
「いや、昨日の感じだと、もっとこう……」
ミーシャが両手を胸の前に出し、そこに見えない端末でも浮かんでいるように指を忙しく動かした。
「圧倒的な不利な状況でも。相手を分析して、弱点見抜いて、全ては手の内で勝利して、最後に『計画通り……!』とか言うタイプかと思ってたっス」
「どういう人間だ、それは」
「達也っぽい人っス」
「会って二日目の人間に、俺らしさを決められても困る」
「ウィっス。脳内ハードディスクのフォーマット開始っス」
声にはまったく反省の色がなかった。
廊下の先にE組の札が見え、開いたままの扉から何人もの話し声が重なって流れてくる。
俺が先に教室へ入ると、ミーシャもそのまま後ろから続いた。
「おはよ、達也」
エリカだった。隣にいた美月もこちらへ振り向く。
「おはようございます、司波君。ミーシャさん」
「おはよう」
「ウィっス。おはようっス、エリカ、美月」
「朝から元気ねえ」
エリカが感心したような、呆れたような目を向ける。
「自分、昔っから朝とか夜とか、あまり関係なかったっスからね」
またシャドーをし始める。本当に元気だ。
俺は自分の席を確認した。中央列前から2番目、美月の右隣だった。
「あ、司波君。お隣ですね」
「ああ。よろしく」
「はい。よろしくお願いします」
美月は胸元で手を揃え、律儀に小さく頭を下げた。
「自分は反対側っスよ。達也、両手に花っスね」
クラスの席は、男子と女子をそれぞれ五十音順に縦に並べ、男女の列を交互に配置している。
そのため、左右の席が異性になるのは偶然ではなく、席順の仕組み上、当然のことだ。
彼女は机の位置を確かめてから椅子を引き、腰に下げていた革のポシェットと杖を外して机の横へ掛ける。
あの位置なら、教壇も黒板もCADの範囲に入るので問題はないだろう。エリカは左端2番目だ。
俺も席につき、教室端末へIDを通した。
――カチ。
右側で硬い音がした。
少しして、カチャ、カチャ、ともう二度鳴る。
顔を向きかけて、やめた。
音の主は当然ミーシャだ。昨日一日で分かったことだが、彼女のすることを一つ一つ確認していると、そのうちこちらの方が疲れる。
それにこの音は意外に心地よい。その断続的な音を聞きながら、俺は端末を起動した。
年間カリキュラムを開く。
科目そのものはすでに把握している。
確認したいのはカリキュラム配分とその評価方法、それと時間割。
今のうちに全体の流れを頭へ入れておけば、あとで細かい内容が必要になった時にアタリをつける手間が省ける。
指を物理キーへ置くと、乾いた打鍵音が続いた。
俺はこちらを好んで使っている。指が配置を覚えているため考えるより先に動かせるし、選択範囲の境目や細かな操作で余計な場所を拾うこともない。
画面を二つほど確認したところで、前の席の男子生徒が振り向いた。
「すげー、スピード」
昨日は話していない顔だった。
まず目につくのは体格だ。座っていても肩の位置が高く、制服越しでも厚みが分かる。
一年生の教室で机に収まっているより、運動部の上級生に混じっている方が自然に見えそうだった。
彼の目が俺の指先を追う。
「あぁ、すまん。今どきキーボードオンリーで、入力するやつ珍しいもんで。
視覚ポインタとか脳波アシストの方が楽じゃね?」
「慣れればこちらの方が速い。それに、細かい操作だと指の方が確実だ。誤認識もない」
「へえ」
男子生徒が顎を引き、そのまま視線を俺の右の席へ流した。
「……なんだ、それ」
右を向くとミーシャの机の上に、見慣れない物が出ていた。
いや、物そのものは知っている。濃い色の枠に何本もの細い軸が並び、その一本一本に、大ぶりで平たい珠が収まっている。
横木には一定の間隔で小さな突起まで付いていた。
確か伝統的な計算機で名前は――
「そろばんっス」
「いや、それは何となく分かるけどよ。俺の知っているそろばんと少し違うな」
「そっス。自分みたいに目が見えない人用っス」
男子生徒は体を半分後ろへ向け、珍しい生き物でも見るように机の上を覗き込んだ。
「骨董品じゃねえの、それ」
「そこは否定しないっス」
ぱち、と珠が弾け、続けて二つ、三つパチパチと鳴る。
なるほど。さっきから鳴っていた音の正体はこれだったらしい。
「視覚ポインタも脳波アシストも付いてないっスけど、慣れると速いっスよ」
ミーシャの指が珠の上を滑る。
位置を探るような動きはなく、触れた瞬間には弾く珠が決まっているらしく、指先は迷わず次へ移っていった。
「父に七歳の誕生日でもらったっス」
「誕生日にそろばん?」
興味を持ったのか、男子生徒の眉が上がる。
「『楽しんで計算に親しめ』って」
「楽しめんのか、それ」
「自分は結構好きっスよ」
ぱちぱち、と軽い音が続く中、男子生徒の口元が上がる。
「じゃあ試していいか?」
「どうぞっス」
「七桁同士の掛け算とか」
「ウィっス」
少し天井を見てから、彼は端末に数字を打ち込みながら口にした。
「八百四十二万七千百六十三、掛ける――四百六十五万八千七百九十一」
遠慮がない。
ミーシャは復唱しながら、計算に使う値をそろばんにパチパチと打ち込んでいく。
次の瞬間、それまで一つずつ聞こえていた音が変わった。
ぱち、ぱち、ではない。細かく乾いた音がほとんど連なって聞こえ、珠がどこで止まり、どこから次へ動いているのか、横から見ていても分からないほど速い。
顔は正面を向いているので、そろばんはCADの範囲外。頭は動かず、動いているのは指だけだった。
そして唐突に止まる。
「三十九兆二千六百三億九千百十三万九千九百三十三」
男子生徒は、端末に表示された数字を確認した。そろばんを見た。次にミーシャを見た。
それから、もう一度そろばんへ視線を戻した。
「ははっ! すげーな」
「そろばん舐めちゃダメっス」
「いや、そろばんよりも偉いのは、本人の腕前だろ」
「そろばんは反復練習がそのまま命っス。8年の努力は裏切らないっス」
男子生徒の喉から笑い声が漏れた。嫌味の無い真っすぐな笑いだ。
「俺、西城レオンハルト。レオでいいぞ」
「司波達也だ。俺も達也で良い」
「風間ミーシャっス。もちろん、ミーシャでいいっスよ。」
「何か面白そうなことしてるね」
後ろからエリカの声が飛んできた。
振り向けば、美月も一緒にいる。いつから聞いていたのか、二人ともすでにすぐ近くまで来ていた。
レオは軽く自分の胸を叩く。
「俺が得意なのは収束系の硬化魔法。将来は体を動かす仕事を希望だ。山岳警備とか機動隊とかな。で、そちらさんは?」
知り合ったばかりの相手とする話題としては、ずいぶん踏み込みが早い。
もっとも今の時代、15歳の魔法師がはっきりとした進路の希望を持つことは、それほど珍しいことではない。
魔法という才能が、仕事の向き不向きにそのまま直結しているからだ。
「俺は実技は得意じゃない。将来は魔工技師を目指している」
「魔工技師?」
エリカが俺の横から顔を出す。
「へえ。確かに達也、頭よさそうだもんね」
「よさそう、か」
「昨日会ったばっかなんだから、それ以上は知らないって」
悪びれず肩をすくめるあたり、本当にその程度の意味しかないのだろう。
レオの目が今度はミーシャへ移った。
「そっちは?」
「自分、今の状態じゃ現代魔法は全然ダメっスね」
「今の状態?」
「実技は平均以下だったっス」
ミーシャが眼鏡型CADの縁を指で叩いた。
それにつられてレオの視線も動き、レンズの奥にある白く濁った瞳で止まる。
「そっか」
出てきたのは、それだけだった。
フンと鼻から息を抜くと背もたれに腕を掛け、さっきまでと変わらない調子で続ける。
「まあ、できることやるしかねえよな」
「その考え方、好きっス」
ミーシャの返事は早かった。
「で、将来は?」
「まだぼんやりっスけど。孤児を手助けする仕事したいっスね」
「孤児?」
「ウィっス。自分も施設育ちなんで。この前、お世話になった職員さんに挨拶したっス。その時、仕事の内容を詳しく聞いたっス」
「そっか」
また、それだけだ。眉を寄せるでもなく、気まずそうに目を逸らすでもない。
――パチンと音が鳴る。
「これも、視覚補助デバイス持ってなかった頃から使ってたっス。普通のそろばんと違って、珠が勝手に動きにくいんスよ。
桁も触れば分かるっス。だから見えなくても計算できるっス」
「なるほどな」
レオは改めてそろばんを覗き込み、もう一度笑った。
「いい親父さんじゃん」
「ウィっス」
ミーシャの背筋がわずかに伸びる。
「尊敬してるっス。血は繋がってないっスけど、最高の父っス」
レオはもう言葉を足さなかった。ただ、大きく一度頷いた。
「それにしても魔工師かあ」
エリカがこちらへ向き直る。
「なんか似合うね、達也」
「そうか?」
「うん。見るからに理屈っぽそうだし」
さっきのミーシャと言い。俺の評価が妙に偏っている。
そこでようやく気づいたのか、レオはエリカを指さしながら俺に尋ねてきた。
「さっきから、なんだこいつ」
西城レオンハルト――それは悪手だぞ。
待ってましたとばかりに、エリカの口調が次第に弾んでいくのが見て取れた。
「うわ! いきなりこいつ呼ばわり? しかも指さし? 本当に失礼な奴」
「初対面みたいな相手に理屈っぽいとか普通言うか?」
「別にいいでしょ。そっちこそ、そんな言い方してたらモテないよ?」
「は?」
「女の子にはもうちょっと愛想よくしたら?」
レオの頬が引きつり、体の向きをエリカに寄せる。
「ちょっと顔がいいからって調子乗んなよ」
「ちょっと?」
失言を見つけたとばかりに、エリカは勝ち誇った表情を浮かべ、こちらもレオへ半歩詰め寄った。
「そこかよ!」
「そこよ」
二人の間で声の温度が一段上がり、美月の視線だけが右へ左へ忙しく動く。
「エ、エリカちゃん。西城君も……」
その横で、ミーシャが楽しそうに二人に顔を向けていた。
「もう仲良くなってるっスね」
「誰が!」
声が重なり、二人とも止まる。
ミーシャが完全にしてやったりの顔になる。こうなると止まらない。
「息ぴったりっス」
「違う!」
また重なった。
今度は美月が口元を押さえた。肩が一度揺れ、それで堪えたつもりだったのだろうが、すぐにもう一度揺れる。
「ご、ごめんなさい……でも、本当に……」
とうとう耐えきれず、小さな笑い声が漏れた。
エリカとレオが同時に美月を見る。
――頃合いだな。
「ミーシャ、煽るな」
「ウィっス」
相変わらず、返事だけはいい。
ところが話はそこで終わらず、ミーシャは今度はエリカへ顔を向けた。
「ただエリカ、一個訂正するっス」
「何?」
「レオ、それなりにモテると思うっス」
「は?」
レオは間の抜けた声を出し、エリカの表情から力が抜け、美月はなぜか赤くなる。
「……そこ、真面目に分析するの?」
「するっスよ」
ミーシャはCAD越しにレオへ顔を向け、品定めというほど遠慮のないものではないにせよ、改めて輪郭を確かめるように少し首を動かした。
「デバイス越しでも分かるくらい彫り深いっスし、顔つきもそこそこ凛々しいっス。言うこと真っすぐで、変に取り繕わないっスから、一定層には多分刺さるっス」
「一定層って何だよ」
「好みがあるんで全方位は無理っス」
「急に現実的ね……まぁ言いたいことは判る」
エリカが頭を掻いた。だがミーシャは構わず続ける。
「自分もレオを、恋人候補申し込み考慮第一審査裁定待ち書類の将来記入するかもしれない可能性がある予定の棚に入れたっス」
教室のざわめきは変わらず続いているはずなのに、その瞬間だけ俺たちの周囲から音が抜け落ちたように感じた。
レオが瞬く。
エリカも口を半開きにしたまま動かず、美月は何度か目をしばたたいている。
俺も頭の中でもう一度文を区切ってみたが、途中からどうでもよくなった。
「……つまり?」
レオが慎重に聞く。
「何も始まってないっス」
「長えよ!」
レオの上体が崩れた。
「無駄に期待させる文章やめなさいよ!」
エリカまでほぼ同時に突っ込む。
ミーシャは腕を組みうんうんとうなずき、それから突然、宙へ何かを書く仕草を始めた。
右手にペン、左手に紙を持っているつもりらしいが、当然どちらも実在しない。
「でも友達申請書類は提出するっス」
さらさらと架空の署名を終え、見えない紙をレオへ差し出す。
「署名完了っス」
レオはしばらくその手を見ていたが、やがて口元を持ち上げた。
「よし。受理する」
レオは芝居がかった恭しさで見えない書類を受け取り、丁寧に折りたたんで懐にしまった。
「カタカナネームコンビ結成っス」
「オゥ!」
ミーシャが拳を差し出すと、即座にレオの拳がぶつかった。
美月がとうとう俯き、肩を小刻みに揺らしている。
エリカは『なぜ自分がこんなものを見せられているのか分からない』とでも言いたげな表情を隠そうともしなかった。
「噛み合いすぎでしょ、この二人……」
そして、なぜか俺を見る。これを俺にどうしろというのか。
「無理だな」
そのとき、ミーシャが何かに気づいたように顔を上げた。
「あ」
たった一文字なのに、エリカの肩が目に見えて揺れる。
「……何よ」
「そういえばエリカもカタカナネームっスね。忘れてたっス」
「しまった」
エリカが一歩下がった。
「エリカも加入申請書――」
「いらない!」
「まだ署名欄しか作ってないっスよ」
「作らなくていい!」
ミーシャが一歩出るとエリカが下がる。
さらに一歩距離を詰められたところで、エリカは素早く美月の後ろへ回り込んだ。
「美月、盾になって」
「ええっ!?」
「エリカ捕獲っス」
「来るな!」
美月を挟んだ追いかけっこが始まった。
「エ、エリカちゃん、引っ張らないで……!」
「美月、友情ってこういうときのためにあるのよ」
「初めて聞きました!」
「同盟申請書類、出すだけっスよー」
「その書類が嫌だって言ってるの!」
レオが机を叩いて笑っている。
俺はその横顔を何となく見た。
ミーシャの目に気づく前も、気づいた後も。
施設育ちだと聞く前も、その後も、俺が見た範囲では態度の温度が一度も変わっていなかった――悪くない。
「達也!」
美月の後ろからエリカの顔が出る。
「見てないで何とかしてよ!」
「無理だな」
「二度目!?」
「カタカナは運命っス。レオも手伝うっス!」
「おう、任せろ!」
俺は騒ぎから視線を外し、途中になっていたカリキュラム画面へ戻る。
――まだ騒がしい。
そして、次の項目を開こうと指を伸ばしたところで、予鈴が鳴った。
俺の視界の端に、バツの悪そうなミーシャとレオの顔が映った。