第一幕 敗走の果て
マグノリアから遠く離れた、とある街道。
夕暮れの空の下、三人の男が歩いていた。
かつて、マグノリアを支配していた闇ギルド――ブルースカル。
そのマスター、ジョフリー。
そして、彼の両腕と呼ばれた二人の魔導士。
水の滅神魔導士、セヴェル・アクエリス。
泥の滅竜魔導士、ガルド・ヴォルグ。
三人の姿には、かつての威厳など見る影もなかった。
「……くそっ!」
ジョフリーが、道端の小石を蹴り飛ばした。
「忌々しい……! 何もかも、あの小娘どものせいだ!」
誰も答えない。
セヴェルは無言で歩き、ガルドは不機嫌そうに舌打ちした。
「聞いているのか、貴様ら!」
「……聞こえている」
セヴェルが淡々と答える。
「ならば、何か言ったらどうだ!」
「何を言えと?」
「決まっているだろう! 今後のことだ!」
ジョフリーは苛立たしげに振り返った。
「マグノリアを取り戻す! ブルースカルを再建するのだ!」
「……」
「金さえ集めれば、魔導士などいくらでも雇える! 今度こそ、あの忌々しい連中を――」
「まだ言ってんのかよ」
低い声が、その言葉を遮った。
ガルドだった。
「……何?」
「マグノリアだの、再建だの……うるせえんだよ」
「貴様……!」
ジョフリーの顔が怒りで赤く染まる。
「誰に向かって口を利いている!」
「はっ」
ガルドは鼻で笑った。
「まだ自分が偉いと思ってんのか?」
「何だと……!」
険悪な空気が流れる。
その間に、セヴェルが静かに口を挟んだ。
「言い争うなら、せめて休める場所を見つけてからにしてくれ」
「セヴェル! 貴様まで……!」
「近くに使われていない小屋がある。今夜はそこで休む」
セヴェルは、それだけ告げて歩き出した。
ガルドも後に続く。
取り残されたジョフリーは、怒りに肩を震わせた。
「……おのれ……!」
かつてなら、二人は自分の命令に従っていた。
少なくとも、表向きは。
だが今は違う。
ジョフリー自身も、その変化に気づき始めていた。
認めたくはなかったが。
――――――――――
第二幕 敗北の記憶
夜。
三人は街道から外れた、古い小屋に身を寄せていた。
壁には隙間があり、冷たい風が吹き込んでくる。
かつてのブルースカルの本拠地とは、比べるべくもない場所だった。
「……ふざけおって」
ジョフリーは、古びた椅子に腰を下ろしていた。
「この私が、こんな場所で夜を明かすことになるとは……!」
ガルドは壁にもたれ、黙っていた。
その視線は、自分の腕に向けられている。
かつて、切断された腕。
今はセヴェルの治癒魔法によって、元どおりになっていた。
指を動かす。
握りしめる。
何の問題もない。
それなのに。
あの瞬間の感覚だけは、消えていなかった。
白銀の刃。
目にも留まらぬ斬撃。
そして、自分の腕が宙を舞った光景。
「……ちっ」
ガルドは舌打ちした。
思い出すだけで、腹が立つ。
あの女。
イリス・アストレア。
自分よりも小柄で、細い身体をした少女。
最初は、少し腕の立つ魔導士程度にしか思っていなかった。
泥の領域に引きずり込み、叩き潰す。
それで終わるはずだった。
だが、違った。
あの女は、泥の領域をものともしなかった。
空中に生み出した光の剣を足場にし、こちらの攻撃をかわし続けた。
近づけば、剣で迎え撃たれた。
そして。
自分が仲間を狙うと告げた瞬間。
あの女の目が変わった。
それまでとは、明らかに違う。
冷たく、鋭い視線。
次の瞬間には、腕を失っていた。
「……くそが」
ガルドは、拳を握りしめた。
今まで、負けたことなどなかった。
相手がどれほど強かろうと、最後には自分が勝ってきた。
力でねじ伏せた。
泥に沈めた。
必要なら卑怯な手段も使った。
勝つことが、すべてだった。
それが。
初めて、負けた。
しかも、ただの敗北ではない。
セヴェルに助けを求め、二人がかりで挑んでなお、叩きのめされた。
惨敗だった。
「……何を考えている?」
不意に声がした。
顔を上げると、セヴェルがこちらを見ていた。
「……別に」
「そうか」
セヴェルは、それ以上追及しなかった。
代わりに、静かに言った。
「私は、あの少女のことを考えていた」
「……あ?」
「イリス・アストレアだ」
その名前を聞いた瞬間、ガルドの眉が跳ね上がった。
「てめえ……わざと言ってんのか?」
「何がだ?」
「その名前を、俺の前で出すんじゃねえ!」
「随分と気にしているようだな」
「……っ!」
ガルドが立ち上がりかける。
だが、セヴェルは動じなかった。
「落ち着け。別に挑発しているわけではない」
「だったら何だ!」
「興味があるだけだ」
「……は?」
ガルドは、呆れたように顔をしかめた。
「興味だと?」
「ああ」
セヴェルは、静かに頷いた。
「あれほどの魔導士を、私は今まで見たことがない」
「……」
「膨大な魔力。高度な戦闘技術。そして、あの状況判断の速さ」
セヴェルは、記憶を辿るように目を細めた。
「こちらの攻撃に対して、常に冷静だった。初めて見るはずの魔法にも、驚くほど柔軟に対応していた」
「……だから何だよ」
「不思議だと思わないか?」
「何がだ」
「あれほどの実力を、どうやって身につけたのかということだ」
セヴェルの声には、怒りも憎しみもなかった。
あるのは、純粋な好奇心。
「彼女はまだ若い。それなのに、長年戦い続けてきた魔導士のような経験を感じさせた」
「……」
「一体、どのような環境で育てば、あのような魔導士になるのか……」
セヴェルは、わずかに笑みを浮かべた。
「実に興味深い」
「……気持ち悪ぃ野郎だな」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「褒めてねえよ!」
ガルドは吐き捨てるように言った。
「俺は、あの女が気に食わねえ。それだけだ」
「そうか」
「次に会ったら、必ずぶっ殺してやる」
その言葉に、セヴェルは静かに目を向けた。
「……やめておけ」
「……あ?」
「今のお前では、また負ける」
小屋の中が静まり返った。
「……てめえ」
ガルドの声が低くなる。
「もう一度、言ってみろ」
「何度でも言おう。お前は彼女に勝てない」
「……っ!」
「そもそも、我々二人でも勝てなかった相手だ」
セヴェルは淡々と続けた。
「その事実を認められない限り、次も同じ結果になるだろう」
「黙れ……!」
ガルドの拳が震える。
怒りだった。
屈辱だった。
だが、その奥には。
本人が決して認めたくない感情があった。
恐怖。
あの剣が振り下ろされた瞬間。
自分が、確かに死を覚悟したこと。
それを思い出すたびに、背筋が冷たくなる。
「……俺は」
ガルドは、歯を食いしばった。
「俺は、まだ終わってねえ……!」
セヴェルは、その姿を静かに見つめていた。
「……そうだな」
そして、短く答えた。
「生きている限り、終わりではない」
ガルドは何も言わなかった。
ただ、拳を握りしめたまま、俯いていた。
――――――――――
第三幕 崩れた支配
「……くだらん!」
突然、ジョフリーが声を荒らげた。
「貴様ら、いつまであの小娘の話をしている!」
二人が顔を向ける。
ジョフリーは、苛立たしげに立ち上がった。
「そもそも、貴様らがあの小娘を早めに始末していれば、こんなことにはならなかったのだ!」
ガルドの眉間に、深い皺が刻まれた。
「……何だと?」
「聞こえなかったのか! 貴様らの失態だと言っている!」
ジョフリーは、二人を指さした。
「ブルースカルが敗れたのも、マグノリアを失ったのも、すべて貴様らのせいだ!」
「……」
「この私が、どれほどの金を費やして貴様らを雇ったと思っている!」
その言葉に、セヴェルが静かに目を細めた。
「……なるほど」
「何だ?」
「あなたは、まだ理解していないようですね」
「……何をだ!」
「我々が敗れた理由です」
セヴェルは、椅子から立ち上がった。
「確かに、我々は彼女に敗れました。それは事実です」
「だったら――」
「ですが、あなたも敗れたのでしょう?」
「……っ!」
ジョフリーの表情が凍りついた。
「メイビス・ヴァーミリオンたちに」
「だ、黙れ!」
「彼らもまた、我々が見誤った相手でした」
「黙れと言っている!」
ジョフリーが怒鳴る。
だが、セヴェルは止まらなかった。
「敗北を認めなければ、同じ過ちを繰り返すだけです」
「貴様……!」
ジョフリーの手が、震えた。
「誰に向かって説教しているつもりだ!」
「……もう、その問いに意味はありません」
セヴェルは、静かに答えた。
「私は、ブルースカルを抜けます」
「……何?」
ジョフリーが固まった。
「……今、何と言った?」
「あなたの下を離れる、と言いました」
「ふ、ふざけるな!」
ジョフリーは机を叩いた。
「貴様は私の部下だ! 勝手なことが許されると思っているのか!」
「私がここにいたのは、研究に必要な資金と環境が得られたからです」
セヴェルは淡々と続けた。
「ですが、その条件は失われました」
「金なら、また集めればいい!」
「その見込みがあるとは思えません」
「……っ!」
「それに、今は別のことに興味がありますので」
セヴェルの脳裏に、黒髪の少女の姿が浮かんだ。
青と金の瞳。
そして、あの圧倒的な戦闘能力。
彼女が何者なのか。
その答えを、いつか知りたいと思った。
「……貴様、裏切るつもりか!」
ジョフリーが怒鳴る。
「裏切り、ですか」
セヴェルは、わずかに首を傾げた。
「我々の関係は、最初から利害によって成り立っていたはずですが」
「……!」
「その利害が一致しなくなった。それだけのことです」
ジョフリーは、言葉を失った。
その隣で。
「……はっ」
ガルドが笑った。
「いいじゃねえか。俺も抜けるぜ」
「ガルド!?」
「もう、てめえの命令を聞く理由もねえしな」
「貴様まで……!」
ジョフリーは、怒りに顔を歪めた。
「忘れたのか! 誰のおかげで、貴様らが好き勝手できたと思っている!」
「だから、今まで従ってやったんだろうが」
ガルドは、ゆっくりと立ち上がった。
「けどよ……」
その口元が、歪む。
「負けた俺たちに責任押しつけて、てめえだけ偉そうにしてんじゃねえよ」
「……っ!」
「俺は確かに負けた。認めたくねえが、あの女には勝てなかった」
ガルドは、拳を握りしめた。
「だが、てめえにまで見下される筋合いはねえ!」
ジョフリーは、思わず後ずさった。
ガルドの身体から、わずかに魔力が漏れ出していた。
足元の土が、湿り気を帯びる。
「やめておけ、ガルド」
セヴェルが静かに言った。
「こんな場所で暴れても、何も得られん」
「……ちっ」
ガルドは舌打ちし、魔力を収めた。
ジョフリーは、荒い息を吐いていた。
「……貴様ら……!」
声が震える。
怒りか。
恐怖か。
あるいは、その両方か。
「この恩知らずどもが……!」
だが、二人はもう振り返らなかった。
セヴェルが荷物を手に取る。
「では、失礼します」
「……待て!」
ジョフリーが叫んだ。
「待たんか! 私はまだ話を――」
扉が開く。
冷たい夜風が、小屋の中へ吹き込んだ。
そして。
二人の魔導士は、静かに外へと出ていった。
残されたのは、かつての支配者ただ一人だった。
――――――――――
第四幕 別々の道
夜の街道。
月明かりが、二人の足元を照らしていた。
しばらく、無言で歩く。
やがて、道が二つに分かれる場所へと辿り着いた。
「……で?」
ガルドが口を開いた。
「てめえは、これからどうするつもりだ?」
「研究を続ける」
セヴェルは即答した。
「以前から調べたいことはいくつもあった。しばらくは、それに時間を使うつもりだ」
「……あの女のことか?」
「それも一つだな」
「……ちっ」
ガルドは、露骨に顔をしかめた。
「本当に気持ち悪ぃ野郎だぜ」
「お前ほどではないと思うが」
「何だと?」
「冗談だ」
「てめえの冗談は分かりにくいんだよ!」
セヴェルは、わずかに笑った。
そして、ガルドを見た。
「お前はどうする?」
「決まってんだろ」
ガルドは拳を握りしめた。
「強くなる」
短い答えだった。
だが、その声には、これまでとは違う重みがあった。
「二度と、あんな無様な負け方はしねえ」
「……そうか」
「次にあの女と会ったときは、必ず勝つ」
セヴェルは、少しだけ考えた。
「ならば、まずは自分の敗北を理解することだ」
「……また説教かよ」
「助言だ」
「頼んでねえ」
「そうか」
セヴェルは、それ以上何も言わなかった。
ガルドは、しばらく黙っていた。
そして、不意に口を開く。
「……おい」
「何だ?」
「腕のことは……まあ、助かった」
セヴェルが、わずかに目を見開いた。
「……珍しいな」
「うるせえ! 今のは忘れろ!」
「そうしよう」
「絶対忘れねえ顔してんじゃねえか!」
セヴェルは、小さく笑った。
そして、分かれ道の片方へと歩き出す。
「ではな、ガルド」
「……おう」
「次に会うときまで、生きていることを願っている」
「はっ! 誰に言ってやがる!」
ガルドは、もう片方の道へと足を向けた。
「てめえこそ、変な研究でくたばるんじゃねえぞ!」
「気をつけよう」
二人は、振り返らなかった。
かつてブルースカルの両腕と呼ばれた魔導士たち。
同じ組織に所属し、同じ敵に敗れた二人。
だが、その先に求めるものは違っていた。
一人は、未知を知るために。
一人は、己の強さを取り戻すために。
それぞれの道を、歩き始めた。
――――――――――
終幕 王座なき支配者
古びた小屋の中。
ジョフリーは、一人で椅子に座っていた。
「……ふざけおって……」
誰もいない部屋に、低い声が響く。
「どいつもこいつも……恩知らずどもが……!」
机を叩く。
だが、返事はない。
かつては違った。
自分が命令すれば、魔導士たちが動いた。
金を積めば、いくらでも兵を集められた。
マグノリアの街では、誰も自分に逆らえなかった。
それが。
今は、何もない。
金も。
権力も。
従う部下も。
「……おのれ……!」
ジョフリーは、歯を食いしばった。
脳裏に浮かぶのは、あの戦い。
自分に立ち向かってきた若者たち。
メイビス・ヴァーミリオン。
ユーリ・ドレアー。
プレヒト・ゲイボルグ。
ウォーロッド・シーケン。
そして、イリス・アストレア。
たった五人。
その五人によって、自分が築き上げてきたものは崩れ去った。
「……認めんぞ……!」
ジョフリーは、震える拳を握りしめた。
「この私が……あんな連中に……!」
窓の外では、冷たい風が吹いていた。
その音だけが、静かな小屋に響いている。
「必ず……必ず、取り戻してやる……!」
ジョフリーは、誰もいない部屋で叫んだ。
「マグノリアも! ブルースカルも! 何もかもだ!」
しかし。
その声に、答える者はいなかった。
かつて、一つの街を支配した男。
その栄光は、すでに過去のものとなっていた。
同じ頃。
遠く離れたマグノリアでは、街の復興が進んでいた。
やがて、その街には新しい魔導士ギルドが誕生する。
仲間を信じ、互いに支え合い、共に未来を歩もうとする者たちのギルド。
妖精の尻尾。
フェアリーテイル。
金と権力で築かれた支配は崩れ去り。
友情と信頼によって結ばれた、新たな居場所が生まれようとしていた。
その一方で。
敗北した者たちもまた、それぞれの道を歩き始めていた。
彼らが再び交わる日が来るのか。
それとも、二度と出会うことはないのか。
今は、まだ誰にも分からない。
ただ一つ、確かなことがある。
マグノリアを支配したブルースカルは、もう存在しない。
そして。
その崩壊をもたらした一人の聖剣使いの名は、敗者たちの記憶に深く刻まれていた。
――第26.5話 完――
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。
今後とも『妖精と聖剣使い』をよろしくお願いいたします。