第一幕 遥かなる大陸
X692年。
フィオーレ王国、マグノリア。
ユーリとリタの結婚式から、しばらくの月日が流れていた。
妖精の尻尾のギルドには、今日も賑やかな声が響いている。
「おい、ユーリ! その依頼は昨日も見ていただろう!」
「いいじゃねぇか! 今度こそ俺が行くんだよ!」
「リタさんには相談したのか?」
「……」
「していないんだな」
「うるせぇ!」
プレヒトの指摘に、ユーリが顔をしかめる。
その様子を見て、周囲の仲間たちが笑い声を上げた。
結婚してからというもの、ユーリがリタの名前を出されて言葉に詰まる光景は、すっかりギルドの日常になっていた。
そんな賑やかなギルドの一角。
イリス・アストレアは、一冊の古い書物を開いていた。
机の上には、これまでの旅で集めた資料が広げられている。
王都クロッカスの図書館で書き写した古代魔法の記録。
各地で耳にした伝承。
そして、異世界に関する断片的な情報。
「……やはり、気になりますね」
イリスは小さく呟いた。
視線の先にあるのは、ギルティナ大陸について記された一節だった。
そこには、古くから伝わる竜の噂が書かれていた。
――月の光をまとい、異なる世界を渡る竜。
その存在について、詳しい記録は残されていない。
ただ、遥か北方の大陸に、そのような竜がいると伝えられているだけだった。
「……異なる世界を渡る、ですか」
イリスは、そっと指先で文字をなぞった。
六年前。
突然、この世界へやって来た。
元の世界へ戻る方法を探し続けてきたものの、確かな手掛かりは見つかっていない。
王都クロッカスでの調査でも、異世界の存在を示唆する資料はいくつか見つかった。
しかし、実際に世界を渡る方法となると、どれも曖昧なものばかりだった。
けれど。
「もし、この伝承が本当なら……」
イリスは、もう一度その一節を読み返した。
そこへ。
「イリスさーん!」
聞き慣れた声が響いた。
顔を上げると、メイビス・ヴァーミリオンがこちらへ駆け寄ってくるところだった。
「何を読んでいるんですか?」
「メイビスさん」
イリスは微笑んだ。
「以前、王都で調べた資料を整理していたんです」
「王都の資料ですか!」
メイビスの瞳が輝く。
「もしかして、空間魔法の続きですか!?」
「ふふっ。今日は少し違います」
「む?」
メイビスが首を傾げる。
イリスは、開いていた書物を彼女へ向けた。
「こちらを見ていただけますか?」
「どれどれ……」
メイビスは身を乗り出した。
そして、記された一節を読み進める。
「……異なる世界を渡る竜?」
「はい」
「ギルティナ大陸……」
メイビスは、しばらく考え込んだ。
やがて、顔を上げる。
「イリスさん」
「はい?」
「これ、調べてみる価値があると思います!」
イリスは、少し驚いたように目を瞬かせた。
「……そう思われますか?」
「もちろんです!」
メイビスは力強く頷く。
「今まで見つけた資料は、ほとんどが理論や仮説でした。でも、これは実際に世界を渡る存在についての伝承です!」
「……確かに」
「それに、ギルティナ大陸には古い魔法の歴史があると聞いたことがあります!」
メイビスは、楽しそうに笑った。
「行ってみたいですね!」
「……え?」
イリスが顔を上げる。
「ギルティナ大陸に、ですか?」
「はい!」
メイビスは、当然のように頷いた。
「だって、こんなに面白そうな手掛かりがあるんですよ?」
「ですが……」
イリスは、少しだけ言葉を選んだ。
「ギルティナ大陸は、ここから遠く離れています。調査にも、かなりの時間がかかるかもしれません」
「そうですね!」
「それに、危険な場所もあるでしょうし……」
「それも、きっとありますね!」
「……メイビスさん?」
イリスが困ったように微笑む。
メイビスは、そんな彼女をまっすぐ見つめた。
「イリスさん」
「はい」
「私も、一緒に行きます!」
迷いのない言葉だった。
イリスは、思わず目を見開いた。
「……よろしいのですか?」
「もちろんです!」
「ですが、ギルドのこともありますし……」
「大丈夫ですよ!」
メイビスは胸を張った。
「プレヒトさんも、ウォーロッドさんも、ユーリさんもいます! それに、セヴェルさんだって!」
「……」
「今の妖精の尻尾なら、私たちがしばらく留守にしても、きっと大丈夫です!」
メイビスは、にっこりと笑った。
「それに……」
少しだけ、声を柔らかくする。
「イリスさんの故郷へ帰る方法を、私も一緒に探したいんです」
「……メイビスさん」
「一人で調べるより、二人の方がきっと楽しいですよ!」
その笑顔を見て、イリスはしばらく言葉を失っていた。
やがて。
「……ありがとうございます」
静かに微笑む。
「メイビスさんが一緒なら、とても心強いです」
「えへへ!」
メイビスは嬉しそうに笑った。
「それじゃあ、決まりですね!」
「はい」
イリスは、開いていた書物へ視線を落とした。
遥か北方の大陸。
そこに、故郷へ帰るための手掛かりがあるかもしれない。
まだ、何もわからない。
けれど。
今度は、一人ではなかった。
――――――――――
第二幕 妖精たちの相談
「ギルティナ大陸だと!?」
ギルド中に、ユーリの大声が響いた。
イリスとメイビスが旅の計画を説明すると、集まった仲間たちは驚いたように顔を見合わせた。
「随分と遠くへ行くんだな!」
「はい」
イリスが頷く。
「まだ確かな情報ではありませんが、異世界に関係する伝承が残されているようなんです」
「なるほどな……」
プレヒトが腕を組んだ。
「それで、ギルティナ大陸へ直接調べに行くというわけか」
「はい!」
メイビスが元気よく答える。
「私も同行します!」
「……やはりそうか」
プレヒトは小さく息をついた。
「何となく、そんな気はしていた」
「むぅ! どういう意味ですか!」
「お前が未知の魔法を調べる機会を逃すとは思えんからな」
「……それは否定できません!」
メイビスが胸を張る。
「否定しろよ!」
ユーリの突っ込みに、周囲から笑い声が上がった。
その隣で、ウォーロッドが穏やかに口を開く。
「でも、いいんじゃないかな」
「ウォーロッドさん?」
「イリスは、ずっと元の世界へ帰る方法を探していたんだろう?」
「……はい」
「だったら、確かめてみるべきだと思うよ」
ウォーロッドは優しく微笑んだ。
「それに、二人ならきっと大丈夫だ」
「ありがとうございます」
イリスが頭を下げる。
すると、セヴェルが静かに口を開いた。
「一つ、気になることがあります」
「何でしょう?」
「その伝承にある竜についてですが……」
セヴェルは資料へ視線を向けた。
「異なる世界を渡るという能力が事実なら、極めて高度な空間干渉能力を持っている可能性があります」
「……そうですね」
イリスが頷く。
「私も、そう考えています」
「ですが、それほどの存在であれば、接触そのものが危険かもしれません」
「……」
「くれぐれも、慎重に行動してください」
セヴェルの言葉に、イリスは真剣な表情で頷いた。
「はい。十分に気をつけます」
「それなら、よろしいかと」
セヴェルは小さく微笑んだ。
その時。
「……ねえ」
リタが、ユーリの隣から声をかけた。
「二人とも、どれくらいの旅になる予定なの?」
「それは……」
イリスは、少し考えた。
「正直なところ、まだわかりません」
「そうなのね」
「数か月で戻れるかもしれませんし、もっと長くかかる可能性もあります」
リタは静かに頷いた。
「そっか」
そして、柔らかく微笑む。
「だったら、気をつけて行ってきてね」
「リタさん……」
「せっかくの旅なんだから、調査ばかりじゃなくて、二人で楽しんでくるといいわ」
「はい!」
メイビスが元気よく返事をする。
「もちろんです!」
「ふふっ。頼もしいわね」
リタが笑った。
その隣で、ユーリが大きく頷く。
「よし! だったらギルドのことは俺たちに任せろ!」
「……お前だけに任せるつもりはないがな」
プレヒトが即座に言った。
「何だと!?」
「依頼の管理も、経費の計算も、今までどおり分担する」
「わかってるって!」
「本当か?」
「信用しろよ!」
「……努力はする」
「そこは信用しろよ!!」
再び、ギルドに笑い声が響いた。
メイビスは、その光景を嬉しそうに眺めていた。
かつて、五人で始めた妖精の尻尾。
今では、三十人もの仲間がいる。
自分たちがいなくても、ギルドを支えてくれる人たちがいる。
それが、何よりも頼もしかった。
「……皆さん!」
メイビスは、仲間たちを見渡した。
「しばらくの間、妖精の尻尾をよろしくお願いします!」
「おう!!」
「任せてください!」
「二人とも、気をつけて!」
たくさんの声が返ってきた。
イリスは、その光景を見つめながら微笑んだ。
「……ありがとうございます、皆さん」
こうして。
二人の新たな旅が、正式に決まった。
――――――――――
第三幕 旅立ちの準備
それから数日。
イリスとメイビスは、旅の準備を進めていた。
目的地は、遥か北方のギルティナ大陸。
フィオーレ王国から海を越えた先に広がる、未知の土地だった。
「イリスさん! これも持っていきましょう!」
「……メイビスさん」
「はい?」
「その本は、もう三冊目ですよ?」
「えへへ!」
メイビスは、抱えていた分厚い書物を見下ろした。
「でも、必要になるかもしれません!」
「ふふっ。そうですね」
イリスは笑った。
「ただ、荷物が重くなりすぎないようにしてくださいね?」
「大丈夫です!」
メイビスは胸を張る。
「必要なものは、全部持っていきます!」
「……それが少し心配なんですが」
「むぅ!」
二人の笑い声が響く。
その後、旅に必要な道具を買い揃え、地図や航路を確認していった。
ギルティナ大陸へ渡る船の情報も集めた。
長い航海になる可能性もあるため、食料や保存の利く物資も準備する。
そして、出発前日の夕方。
イリスは、ギルドの外に立っていた。
夕陽が、マグノリアの街並みを柔らかく照らしている。
「……六年、ですか」
小さく呟いた。
この世界へやって来てから、六年。
最初は、何もわからなかった。
天狼島でメイビスと出会い、ユーリたちと出会い、妖精の尻尾を創設した。
たくさんの仲間が増えた。
たくさんの思い出ができた。
そして、いつの間にか。
この街は、帰ってくる場所になっていた。
「……イリスさん?」
背後から声がした。
振り返ると、メイビスが立っていた。
「こんなところで、何をしているんですか?」
「少し、街を眺めていました」
「街を?」
「はい」
イリスは、マグノリアの景色へ視線を戻した。
「……随分と、長くここで暮らしたんだなと思いまして」
メイビスは、隣に並んだ。
「そうですね」
「最初は、こんなに大切な場所になるとは思っていませんでした」
「……」
「でも、今では……」
イリスは、少しだけ言葉を止めた。
そして、柔らかく微笑む。
「帰ってくるのが楽しみな場所になりました」
メイビスは、嬉しそうに笑った。
「それなら、よかったです!」
「ふふっ」
「だって、旅が終わったら、またここに帰ってくるんですから!」
「……そうですね」
イリスは頷いた。
故郷へ帰る方法を探す旅。
それでも、この世界で築いたものが消えるわけではない。
メイビスは、夕陽に染まる街を眺めながら言った。
「イリスさん」
「はい?」
「明日から、どんな景色が見られるんでしょうね!」
その声には、期待が溢れていた。
イリスも、自然と笑顔になる。
「きっと、素敵な景色がたくさんあると思いますよ」
「えへへ! 楽しみです!」
「私もです」
二人は、しばらく並んで夕陽を眺めていた。
――――――――――
終幕 新たなる旅路
翌朝。
マグノリアの街には、爽やかな風が吹いていた。
妖精の尻尾のギルド前には、仲間たちが集まっている。
「よし! 忘れ物はねぇな!」
ユーリが大きな声で尋ねた。
「はい!」
メイビスが元気よく答える。
「準備万端です!」
「……本当に大丈夫か?」
プレヒトが疑わしそうに目を細めた。
「もちろんです!」
「昨日、地図を忘れかけていただろう」
「……あっ!」
「……」
「ちゃんと持ってきましたよ!」
メイビスは慌てて鞄から地図を取り出した。
その様子に、周囲から笑い声が上がる。
「ははっ。二人らしいね」
ウォーロッドが穏やかに笑った。
「道中、気をつけて」
「ありがとうございます、ウォーロッドさん」
イリスが微笑む。
セヴェルも一歩前へ出た。
「イリスさん」
「はい?」
「もし、興味深い魔法の資料が見つかりましたら、ぜひ持ち帰ってください」
「ふふっ。もちろんです」
「特に、異世界に関する術式には興味があります」
「セヴェルさんらしいですね」
二人は微笑み合った。
その隣で、エマが小さな包みを差し出した。
「イリスさん! メイビスさん!」
「エマさん?」
「これ、よかったら持っていってください!」
包みの中には、焼き菓子が入っていた。
「旅の途中で食べてもらえたら嬉しいです!」
「わぁっ!」
メイビスの瞳が輝く。
「ありがとうございます!」
「ふふっ。大切にいただきますね」
イリスも嬉しそうに微笑んだ。
そして。
「イリスさん、メイビスさん」
リタが、二人へ歩み寄った。
「リタさん」
「長い旅になるかもしれないけど……」
リタは、柔らかく微笑んだ。
「二人とも、元気で帰ってきてね」
「はい」
イリスは、しっかりと頷いた。
「必ず、また戻ってきます」
「えへへ! お土産もたくさん買ってきますね!」
「ふふっ。楽しみにしてるわ」
リタが笑う。
その隣で、ユーリが拳を突き出した。
「よし!」
「ユーリさん?」
「行ってこい!」
豪快な笑み。
「ギルドのことは心配すんな!」
イリスは、少しだけ目を細めた。
「……ありがとうございます」
そして、メイビスと顔を見合わせる。
「それでは、行きましょうか」
「はい!」
二人は、仲間たちへ向き直った。
「皆さん!」
メイビスが大きく手を振る。
「行ってきまーす!!」
「行ってらっしゃい!!」
「気をつけろよー!!」
「お土産、忘れるなよ!」
「無事に帰ってきてくださいね!」
たくさんの声が響く。
イリスも、笑顔で手を振った。
「行ってきます!」
そして、二人は歩き出した。
石畳の道を進み、マグノリアの街を抜けていく。
やがて、ギルドの建物が見えなくなった頃。
「イリスさん!」
「はい?」
メイビスが、楽しそうに笑った。
「いよいよですね!」
「そうですね」
「ギルティナ大陸!」
メイビスは、青空を見上げた。
「どんな魔法があるんでしょう! どんな人たちがいるんでしょう!」
「ふふっ。楽しみですね」
「はい!」
メイビスは、イリスの隣を歩きながら言った。
「きっと、すごい冒険になりますよ!」
イリスは、そっと微笑んだ。
「……そうですね」
そして、前を向く。
遥か北方。
海の向こうに広がる、未知の大陸。
そこには、まだ知らない景色がある。
まだ出会っていない人々がいる。
そして。
故郷へ帰るための、手掛かりがあるかもしれない。
「……メイビスさん」
「はい?」
「一緒に来てくださって、ありがとうございます」
メイビスは、一瞬だけ目を丸くした。
そして、満面の笑みを浮かべる。
「えへへ! どういたしまして!」
少しだけ胸を張る。
「でも、私も楽しみなんですよ?」
「ふふっ。知っています」
「あっ! 今、笑いましたね!」
「いいえ?」
「絶対笑いました!」
二人の楽しそうな声が、街道に響いていく。
こうして。
聖剣使いと妖精の、新たな旅が始まった。
その旅が、二人にとって忘れられないものになることを。
この時の二人は、まだ知らなかった。
――遥かなる大陸で待つ、月の伝承を。
――第53話 完――
【こそこそ妖精話】
~代理マスター~
イリスとメイビスが旅立つ前日。
妖精の尻尾では、ある重要な話し合いが行われていた。
メイビス「そういえば、私がいない間の代理マスターを決めておかないといけませんね!」
ユーリ「おっ! だったら俺に任せろ!」
プレヒト「却下だ」
ユーリ「早ぇよ!?」
ウォーロッド「ははっ。まだ何も説明してないのにね」
ユーリ「そうだぞ! 俺だって立派な創設メンバーなんだぜ!?」
セヴェル「それは存じていますが、依頼の管理や経費の計算は得意なのですか?」
ユーリ「……」
プレヒト「どうした?」
ユーリ「……得意な奴に任せればいいだろ!」
プレヒト「それでは代理マスターの意味がない」
ユーリ「ぐぬぬ……!」
メイビス「それじゃあ、皆さん! 誰がいいと思いますか?」
ウォーロッド「僕はプレヒトがいいと思うな」
セヴェル「私も賛成です」
イリス「私も、プレヒトさんなら安心してお任せできます」
メイビス「私もです!」
プレヒト「……待て」
ユーリ「おいおい! 俺の意見は!?」
メイビス「では、ユーリさんは誰がいいと思いますか?」
ユーリ「そりゃあ俺……」
リタ「ユーリ?」
ユーリ「……プレヒトだな!」
プレヒト「お前……」
ウォーロッド「はははっ!」
メイビス「では、満場一致ですね!」
プレヒト「……私の意見は聞かないのか?」
セヴェル「適任者が他にいませんので」
プレヒト「……まったく」
イリス「ふふっ。よろしくお願いします、代理マスター」
メイビス「よろしくお願いします!」
プレヒト「……まだ引き受けるとは言っていないんだが」
ユーリ「よっ! マスタープレヒト!」
ウォーロッド「よろしく、マスタープレヒト」
セヴェル「頼りにしていますよ、マスタープレヒト」
プレヒト「お前たち……!」
リタ「ふふっ。大変そうね」
ユーリ「いやぁ! これで安心して依頼に行けるぜ!」
プレヒト「……ユーリ」
ユーリ「ん?」
プレヒト「お前には、明日から書類整理を手伝ってもらう」
ユーリ「はああああ!?」
メイビス「あはははっ!」
こうして、妖精の尻尾の代理マスターはプレヒトに決定した。
なお、ユーリの書類整理は三日と続かなかったという。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。
今後とも『妖精と聖剣使い』をよろしくお願いいたします。